2015年5月18日月曜日
天文22年(1553)
長沼城(長野市穂保)
長野市中心部から須坂市方向に向かうと千曲川にかかる村山橋があるが、ここの北1㎞が城址南端。
完全な平城であるが、何しろ横は千曲川であり、何回かの洪水を受け、また、千曲川の新堤防建設で城域の一部が河川敷となったため、ほとんど何も残っていない。
現在は住宅と果樹園が広がるばかりである。
北側の貞心寺から南側の勝念寺までの1.5㎞が城域であったという。城下を取り込んだ総構を持っていたといい。現在の長沼の集落内を走る道路も昔のままとのことである。
しかし、余りにのどかな田舎の田園風景である。そんな大きな城の存在はとても信じられないというのが本音である。
始めは島津氏の城であったというが、当主、島津淡路守忠直(月下斎)は天文22年(1553)越後に逃れる。
(その後、月下斎は上杉方の先陣として川中島の戦いに係り、天正10年(1582)遂に長沼城への復帰を果たす。
しかし、上杉氏の会津への移封に同行し岩代長沼で7000石を得る。最後は米沢に移る。)
川中島地方が武田氏の手に落ちると、飯山地方への進出とこの付近の統治の中心地として整備される。
どちらかというと領地支配のための政庁的性格が強い城であったと思われる。
武田氏が織田氏の攻撃で危機に陥ると上杉軍が長沼城に援軍として入る。
島津氏の復帰した時代を経て、江戸時代は松平直輝が松代城に入り、山田長門守が城代として入った。
その後、佐久間氏が入り18000石の長沼藩となるが、元禄元年(1668)廃藩となり、その時点で廃城になった。
出典
http://yaminabe36.tuzigiri.com/kawanakajima1HP/naganoheitijoukan2.htm
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