2015年5月14日木曜日

長野の歴史



出典
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ここには日本武尊(やまとたける)が蝦夷(えぞ、えみし)を平定したが、ただ越国と信濃国が従わないと書かれています。これまで蝦夷といえば東北地方を指しているものと思っていましたが、信濃国が蝦夷だった時代があったとは驚きでした。それから数百年経った同じく『日本書紀』皇極元年(642)に、「越辺境の蝦夷数千人が帰服」とあり、その頃になると蝦夷との軍事境界線が新潟県北部(または山形県)まで北上していたことを物語ってくれます。その6年後には越後国に「蝦夷に備えて磐舟柵をつくり、越と信濃の民を選んで柵戸」としました。柵戸(きのへ、さくこ)とは、平時は砦で農業を営み、外敵が押し寄せたときには武器を手にして戦う屯田兵のようなものだったと云われています。やがてこの蝦夷境は更に70年程を経て秋田県や宮城県より北へ達することになります。
 しかし 日本武尊より以前でも『日本書紀』崇神天皇11年に、「四道将軍を東国に派遣して平定した」との記載があり、崇神天皇48年には「豊城命に東国を治めさせ、上毛野君と下毛野君の始祖となった」ともあるので、この頃既に畿内→岐阜県-長野県-群馬県-栃木県にかけての地域は、大和朝廷の影響下にあったと考えられています。さらにそれを裏付けるものとして、平安時代に編纂された『国造本紀』に興味のある記載があります。ここには、三濃前国(岐阜県)→科野→須羽(諏訪)→上毛野(群馬県)→那須(栃木県)の順で、開化天皇から景行天皇の間に、誰々が国造(くにのみやつこ)を賜ったと書かれています。以上のことから整理すると、日本武尊が長野県に入った頃は科野国造がおり、反乱する可能性のあった蝦夷と呼ばれる人々と共存していたことになります。その後、成務天皇5年諸国に詔して国郡に造長(みやつこおさ)を任命し、山河を境として国県を分けたとあります。これにより現在の長野県内のいずれかの範囲で、科野国造やその他集団の勢力範囲が定められました。そして時代は古墳築造へ本格的に突入していきます。
 
 『日本書紀』、『古事記』には、歴代天皇在位年数や崩御年記されていますが、これを西暦に換算するとある問題に遭遇します。それは先に記した日本武尊の時代を年数のはっきりしている天皇から逆算すると西暦110年頃となり、中国の歴史書から正確に判定できる卑弥呼の時代239年頃より100年以上も前の事象となってしまいます。『日本書紀』は養老4年(720)に完成したもので、そうすると600年以上昔の事柄を記していることになり、現在の私達が戦国時代の頃の国史を書くという恐ろしく不正確なことに相当します。100歳以上存在していた天皇もおり、初代の神武天皇から第9代開化天皇までの天皇は実在しなかったとする説もあり、多くの研究者が年数の変更などを試みています。その方法としては、つぎの代表的なものがあります。
①在位年数を平均して各自に割り当てる。
②干支年から推定する。(丁酉→397or457など)
③在位年数を比率で再配分する。
①の研究を元に上記事象を西暦に換算し直すと、崇神天皇の事柄が340年頃、日本武尊(景行天皇御代)が370年頃、成務天皇が390年頃に想定されていますが、私の想像ではこの研究でもズレが+-50年相当は生じていると思われます 。人間が等しく同じ年数を生きているわけはなく、発掘結果と照らし合わせても矛盾が大きいので①は採用できません。そこで②③や中国史料を交えて修正している研究があるのでそれを引用すると、崇神天皇が290年頃、日本武尊(景行天皇御代)と成務天皇が335年頃となります。今回の余談では、これを参考に最近の研究を関連付け、次のように長野県の古墳時代を展開しました。
 
 弥生時代が終わろうとする頃、長野県には千曲川流域に「赤い土器のクニ」、松本平と諏訪湖のクニ、伊那谷のクニの3勢力が土器の分布から存在していたと言われています。その後、ここに北から北陸地方の土器が長野県南端へ、南から東海地方の土器が長野県北端へ運ばれ、東日本一帯で大きな繋がりがあったことが分かっています。ある研究によると、「3世紀前半、東海、北陸、関東など東日本各地では、前方後方形墳丘墓が盛んに営まれ、東日本各地における地域性の顕著な弥生土器が土師器に転換するのは、基本的に濃尾平野を拠点とする勢力の影響によるものである。これらのことから東日本では、濃尾平野の狗奴国(くなこく)を中心に、関東までおよぶ広大な地域に狗奴国連合とも呼ぶべき政治連合が形成されていた可能性が大きい」としています。そして、卑弥呼の晩年、邪馬台国と狗奴国の間に争いが始まり、「この争いの帰結は、その後の状況から邪馬台国側の勝利に終わった」とされます。
 そして崇神天皇の西暦290年頃、四道将軍が東国に攻め込み、その後「神八井耳命孫 建五百建命(たけいおたけのみこと)」が神野国造(文献上の初見)に定め賜わりました。その理由として『国造本紀』には「既にして初めて橿原に都し、天皇の位に即き、勅して其の功能を褒めて国造に寄さしたまひ、其の拒逆者を誅して、また県主(あがたぬし)を定む、即ち是れ其の縁なり(中略)」とあります。後の西暦478年、有名な宋へ朝貢した倭王武の上奏文には次のようにあります。「昔より祖禰躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国・・・」。まさに四道将軍を含めた大和朝廷による蝦夷 (拒んで逆った者)征伐の歴史を指しています。さらに『日本書紀』神武天皇に、「えみしをひたり、ももなひと、ひとはいへどもたむかひもせず」と、蝦夷は強い兵だというが全く抵抗しなかったと書かれています。大和朝廷は蝦夷を征伐すること以外を考えなかったのでしょうか?、後の718年『養老令』には次のようにあります。「辺境の国司は蝦夷に対して、饗給、征討、斥候」とあり、大和朝廷の意向を「拒む者が誅」されたのであって、蝦夷の出方によっては飴と鞭を使い分け、生かされた蝦夷もいたようです。
 四道将軍が攻め込んだ頃に築造された東日本で最も古いと言われる古墳が松本平にあります。弘法山古墳66m(国指定史跡)と呼ばれる前方後方墳で、美しい松本平を一望できる山頂にあります。この古墳からは朝鮮半島の楽浪郡(らくろうぐん)で5枚が出土した、獣帯鏡と呼ばれる鏡が埋葬されていました。『漢書』には紀元前1世紀に倭人が楽浪郡に朝貢していたとの記録があるので、約400年間にも及ぶ朝貢関係の中で賜った鏡がここに存在していることになります。楽浪郡は313年に滅亡したので年代の目安にもなり、大和朝廷に派遣された将軍の墓所ではないかと考えられています(東海地方西部の土器が出土していることから、そこから出兵した軍とも云われています。また前方後方墳の発生地を東海地方とみている研究もあります)。その将軍がどのような目的で派遣されたのかを説明している研究は、今のところ拝見した事がありません。しかし多くの発掘調査から、弥生時代後期に県内各地で繁栄していた集落が、この将軍の派遣と同時期に殆ど消え去ることが判明しています。これにより将軍の目的がこの地域に住む蝦夷の征伐であったことが推定できます。いずれにしろ弘法山の近在では、中山36号墳という中規模な円墳築造が続いてから忽然と途絶えました。
 その他県内には同じ前方後方墳(前方後方形周溝墓5基を除く)が10基存在し、その分布を示すと善光寺平3、中野地域1、飯山地域3、飯田地域3基になります。いずれも松本平で古墳築造が途絶えた後の300~340年頃のもので、さらに数十年遅れて東北地方の米沢市(山形県)や会津市(福島県)まで前方後方墳が造られるようになりました。また前方後方墳は新潟県の新潟市や三条市など信濃川下流域にも築かれ、善光寺平→中野→飯山→三条と軍団が信濃川を下って行ったことが予想されます。前方後方墳の分布は弥生のクニとも一致しているので、まさにこれらを狙っていたことが分かります 。しかし善光寺平の集落だけは壊滅と言えるような大きな減少がみられないことから、弘法山の科野国造に降伏(従順)したのだと考えられます。これは善光寺平の古墳の規模が30~40mと弘法山より劣っていること、弥生時代後期からの前方後方形周溝墓の継続とみられる同地域での前方後方墳の築造が理由になります。

 しかし弥生の集落を壊滅させて、広大な長野県にたった50~100戸程度の人間がやって来ても、それは全体でみると散らばる点にしかすぎません。当然他の大部分の地域に散住する蝦夷の人々の中にはそれに従わない者もおり、天竜川流域にかけての日本武尊の再軍事遠征もそのような理由から行われたと考えられます。千曲川流域で5基の前方後方墳が築造された頃、飯田地域では代田山1号墳(前方後方墳61m)が造られました。科野国造の弘法山と代田山の古墳は、大きさがほぼ同じなので権力の差はそれほど無かったかと考えられます。この頃、日本武尊の軍が通過したと云われる天竜川流域に、景行天皇(335年頃)の命によって須羽国造が置かれました。普通は誰でも須羽とあれば現在の諏訪地域を考えますが、この頃の諏訪に大型古墳は1基も無く(前方後円墳は6世紀後半の下諏訪町青塚古墳67m1基のみ)、代田山1号墳(上伊那の前方後円墳は6世紀後半の箕輪町60m1基のみ)に最初の須羽国造である○○大臣命が埋葬されたと考えられます。270年以上後の聖武天皇の頃に、『続日本紀』の養老5年(721)「信濃国を割いて諏方国を置いた」、天平3年(731)には「諏方国は廃されて信濃国に併合された」という出来事がありました。これは須羽国造という前例があったからこのような事が行われたとも想像できます。その後、飯田地域でも代田山2号墳42m、北本城古墳35mと中規模な前方後方墳の築造が続いて途絶しました。このことから須羽国造はたった数十年(又は3代)で途絶したのではないかと考えられます。そして、それを待つかのように善光寺平で県内でも最大規模の前方後円墳が造られていきました。

 弘法山古墳に被葬者が埋葬されてから50年程が経った西暦340年頃に前方後方墳は造られなくなり、それに代わるようにこれまでない規模の大型古墳が善光寺平で築造されました。前方後円墳の森将軍塚古墳98m(国指定史跡)になります。古墳には三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が埋葬されており、もしもこれが約100年前に邪馬台国が魏国から賜った本当の鏡であれば、卑弥呼と関連する国によって派遣された将軍になりますが、その真実は永遠に明かされません。県内の研究論文では、「森将軍から始まる埴科郡の土口→倉科将軍塚→有明山将軍塚古墳の4代と、千曲川を挟んで同年代に造られた更科郡の姫塚→川柳将軍塚→中郷古墳の3代のものを合わせた7代埋葬者(研究推定350~490年頃)がこの一帯を支配し、これが後に推定650~690年頃の科野評(郡の前身)の成立につながった」とされています。しかしこれは間違いで、2000年以降の分析などにより姫塚と中郷は切り離され、他の古墳年代にも修正が加えられ、森将軍→川柳将軍93m→倉科将軍73m・有明山将軍32m→土口67mが一連の関係ある古墳だと判明してきました。さらに『日本書紀』と整合させようとすると450年を越えることに関してどうも不一致だと感じていたところ、これら5基の築造年も修正されて350~440年頃と言われるようになりました。また、ここで注意しなければならないのが、この頃は5代の前方後円墳だけが築かれたのではなく、中野(中野市)の高遠山55mや七瀬双子塚61m、埴科(長野市若穂)の和田東山古墳群50m前後(大室18号、大星山2号など含む)、さらには方墳ですが上田平の大蔵京35m(上田市)と続く中曽根親王塚古墳52m(東御市) が造られていたことを知らなければなりません。

 それまでの善光寺平は、千曲川と聖川が合流する地域(長野市南部~千曲市北部)を中心に、湿地帯に多くの田が作られていました。このことから当然それにともなう蝦夷も多数居住しており、この物資と人を支配するために、松本平ではなく「赤い土器のクニ」を母体とした善光寺平へ拠点を置いたと考えられます。科野(神野)国造 建五百建命の祖父である神八井耳命は神武天皇の第2皇子で、これは善光寺平に皇族を頂点とした科野国造が君臨したことを意味します。西暦335年頃の成務天皇4年「国郡に君長なく県邑に首渠のないため、今後は国郡に長をたて県邑に首をおき、各地の有力者をとって国郡の首長にあてよと詔された」と『日本書記』にあります。これにより首長(国造)に森将軍塚から始まる4代(有明山将軍は倉科将軍とも重なり、古墳規模も小さい事から恐らく違う)がなり、蝦夷とみられる前方後方墳以来従う中野地域と水内地域(善光寺平北部の地附山古墳)の系統を引く埋葬者は、国郡の長か県首(県主)に任命されたのだと考えられます。ただし、方墳築造だけを許された上田平における異質性の謎が残ります。あくまで推測の域を脱しないのですが、上田平は後に小県郡と、郡名に「県(あがた)」の名残を残します。また後に述べますが科野国造の領域とは違った要素を持つ地域になるので、上田平は県主に任命され、前方後方墳時代と重ならない前方後方形周溝墓だけが造られた佐久平も、この県主の領域であったとみることもできます。こうしたことからこの約100年間は、「各地の有力者をとって」とあるように、善光寺平の南部を中心に、北は中野地域から南は佐久平までを支配する連合体のような国家が存在していたことになります。よってこの頃は、科野国という国があったのではなく、数人の国郡の長や県首(県主)の中で、弘法山の系譜を引く最も有力な善光寺平の長が科野国造という位に任命されていたという程度だったのです。これらの古墳からは、いずれも内行花文鏡などの鏡が発掘されていることから、「鏡」というのは大和朝廷を通じて科野国造から与えられた国郡の長か県首(県主)の印だったのかもしれません。ただし高遠山古墳からは鏡が出土しておらず、森将軍よりも古いと言われることから、 国郡の長や県首(県主)の任命が行われ始める前に亡くなった被葬者と推定されます。また前方後方墳ではないかとの説もあり、地形図の見方によっても前方後方墳に見え、方墳の四隅が長い年月に雨風によって削られた可能性もあります。
 
 やがて450頃になると、善光寺平の大型古墳の築造は忽然と終わり、代わりに天竜川流域の伊那谷南部にあたる飯田地域(飯田市)で築造が始まりました。ある研究によると「この終焉は善光寺平の勢力が大和朝廷の攻撃を受けて屈服し、郡(評)の前身とも言われる県主などに堕ちたためである」と主張しています。しかし、「西暦430年頃から100年間、日本は寒冷期に入った」と言われるので、北部の善光寺平から飯田地域へ国造が移ったのではないかと考えています。森将軍塚から始まる善光寺平で造られた大型の前方後円墳の周りには、その後100年以上にわたって無数の小型方墳や小型円墳が築かれました。これはこの地域における森将軍塚の系譜を引く者達の権勢が落ちたことを意味しています。
 480年頃になると諏訪大社上社を見下ろす山上にフネ古墳(方墳20m)、松本平に桜ケ丘古墳(円墳30m)、上田平に王子塚古墳(帆立貝51m)、佐久平に北西ノ久保古墳群(方墳35m他円墳)、善光寺平に中郷古墳(前方後円墳53m)や越将軍塚古墳(円墳32m)、須坂に八丁鎧塚古墳(積石円墳23m)、中野に金鎧山古墳(円墳21m)などが築造されました。これらの地域にはさらに数基の中小規模の円墳や方墳が築造され、先に権力の象徴として与えられた鏡は、各地の古墳に埋葬されていました(盗掘によって確認できないものもあります)。ただし中郷古墳は50m級の前方後円墳なことから、この古墳の被葬者の時までは国造の血族など有力な者が残されたか、この古墳への埋葬をもって飯田地域へ移住したとも考えられます。さらに、百済人や高麗人の墓所として知られる積石塚古墳が造られていくのもこの頃で、善光寺平を取り巻く水内地域の地附山古墳群、埴科地域の大星山古墳群と大室古墳群などが代表的(中野地域、松本平、上田平、佐久平にも存在)です。このように上田平、佐久平、松本平、諏訪地域などの、これまで古墳の築造が無かった地域に変化がみられることから、科野国造が飯田地域に移るのと同時期に、これら各地にも人間が分散していったのだと考えられます。

 現在、長野県各地に県(あがた)地名が13箇所残っています。ある研究によると、それが県主の所在であったと言われ、その分布を見ると松本平、 安曇地域、諏訪地域、上田平、佐久平で、伊那谷には1つもありません。そこで私は、科野国造は雪が多く寒冷で穀物収穫量の少なくなった善光寺平を出て、寒冷の影響の少ない伊那谷を直轄として畿内との連絡に便利な御坂峠に近い飯田地域を本拠にしたのだと考えています。残った伊那谷以外の地域には、先にも述べた古墳を築造した国郡の長か県首(県主)の勢力があり、科野国造を頂点に各々が独立していたと考えられます。また、この分布を別の見方からすれば、科野国造と共に伊那谷に移住した長 (首)も、自身の勢力地に僅かな人数を残し、穀物を伊那谷へ輸送させるなど支配力を残したのだと考えられます。
 奈良県の藤原宮跡出土の木簡「科野国伊那評□贄」(650~700年)からは、更に200年以上経たないと科野国という国が成立していたことを証明できません 。しかし飯田地域に科野国造と国郡の長や県首(県主)が移っても、それは彼等の前方後円墳がほぼ同じ規模なので、変わらずに単なる連合体にすぎなかったと考えられます。飯田地域に移った科野国造の古墳として候補に挙がるのが、桐林にある前方後円墳の兼清塚古墳63m(飯田最古で県宝眉庇付冑が埋葬されていた妙前大塚古墳は円墳なので否定)になります。先程も述べた任命鏡としての二神二獣鏡、画文帯神獣鏡、四神四獣鏡、内行花紋鏡の4鏡が埋葬されており、その後飯田地域で大量に造られた前方後円墳の先駆けとなる古墳でした。このように西暦450年頃に行われた科野国造の移住は、ほぼ長野県全域の主要な平地を有力者が掌握するきっかけになったことが分かります。
 
 西暦520年頃になると長く続いた寒冷期は終わり、西暦580年頃に科野国造は再び善光寺平へ移りました。また、この頃を境に前方後円墳は造られなくなり、飯田地域だけの特殊性は殆ど薄れ、県内の各盆地へ分散するように小規模の方墳や円墳が100基単位で築造されるようになりました。全国的にも十数万基ある古墳の99%が、この西暦500~690年頃に造られたと言われています。『日本書紀』天智天皇5年(666)に「以百濟男女二千餘人居于東國」と、百済人2千人余が東国に住むことになったとあります。この頃の人間の動きは再び千曲川流域へ 戻っていき、佐久平や善光寺平では数百~千戸を超える新たな住居が各所で造られるようになりました。こうした百済人も含む多くの民の移住が国策として進められていたのだと考えられます。そして時代は大化の改新を経て、律令国家への道を歩んでいきます。 ※このあたりの話しは後ほど補足します。

 以上、『日本書紀』を中心に 古墳時代を紹介しました。
 長野県内の古墳は開発で破壊されたり、天災で失われたり、形が変わってしまったものもあり不正確ですが、ある研究から引用すると大小全部で3,100基以上あると言われています。その内、千曲川流域1,900基(61%)、天竜川流域980基(32%)にのぼります。また古墳の副葬品として貴重な鏡については千曲川流域23枚(28%)、天竜川流域60枚(72%)と逆転します。そして円墳より造るのに労力を要し、有力者が埋葬されたと言われる前方後円墳にしても千曲川流域19基(42%)、天竜川流域26基(58%)となり、いずれにしても両地域で90%以上を占めています。また天竜川流域の古墳からは日本でも有数の馬骨や馬具が発掘され、短甲と呼ばれる鎧や鉄剣も数多く出土していることも特徴の1つになります。
 これまで古墳だけから史実を探ろうとする研究には自ずから限界がありました。しかし、その後文化財保護法の制定により埋蔵文化財調査が各地で行われるようになり、多くの調査結果から古墳以外の視点でこの時代を推測することができるようになりました。しかし、長野県内で「遺跡発掘調査結果」、「古墳」、「文献」の3類を交えた研究は殆ど無く、これまでの後2類による研究では、1980年代と2000年代で50年以上も古墳の築造年代が前後したケースが発生する始末でした。これにより今回の余談作成においては、その研究毎の整合と、矛盾の修正に大変苦労させられましたが、3類によって長野県内の古墳時代をより詳しく見ることができました。次にその詳細サンプルとして、飯田の古墳時代を中心に紹介します。
 
 
 古墳時代を考えるには、「弥生時代後期、どこにどの位の人間が住んでいたのかを」知らなければなりません。ある日突然に古墳時代が始まるわけはないので、その発生する要因となった時代背景を把握しなければ、歴史の方向を見誤ります。県内でその軸となるのが善光寺平と飯田地域で、科野国成立過程をみるには善光寺平以外の地域の状況を知らなければなりません。そこで天竜川流域の飯田地域に着目しました。
 弥生時代後期の飯田地域には、現在の伊賀良付近(アップルロード~鼎(かなえ)) と、市を南北に分断する松川以北の飯田駅~座光寺(ざこうじ)付近に集落が集中し、その他全域にも集落が拡散するなど、ほぼ現在の中心市街地と重なった地域に生活していました。しかし、弘法山古墳が築造され、須羽国造が現れた西暦300年頃を境に、これら集落は忽然と消滅しました。松本平や佐久平でも同様の傾向で全滅と言っていい程の状態です。しかし古墳時代の人骨は殆ど原形が判明できないほど風化してしまうので、発掘調査から戦闘の痕跡などが確認できません。可能性を示すならば、それまで住んでいた蝦夷人は、上毛(群馬県)や越(新潟県)など新天地に後の柵戸のように連れられたか、畿内へ奴隷として連れ去られた事も考えられますが、減少した分の増加が見出されないことから殺害とした方が矛盾がありません。どの位減少したかというと、発掘された竪穴式住居数だけでみると95%以上減となります。しかし全滅した集落が多くある中で、座光寺の恒川遺跡だけは規模を大きく縮小して、それから80年近く経った380年頃まで生活痕跡がみられるので、代田山1号墳(松尾)の被葬者である須羽国造は座光寺を拠点にしていたと考えられます。
 須羽国造が途絶えてから50年間近く、飯田地域における人間の生活痕跡は閑散としていましたが、日本が寒冷期に入った430年頃を過ぎると科野国造が多くの民を率いて善光寺平から移住して、集落が増加していきました。新たな集落は川路(かわじ)を中心とした地域で、閑散としていた座光寺の恒川遺跡にも再び人が集まり、鼎(かなえ)には拠点となる集落が造られました。これによって弥生時代後期の50%程度まで回復しました。これらの箇所については、発掘調査によって明らかにこれまで住んでいた者達とは違う集団の集落だと言われています。しかし鼎の中心となる大集落はこれから100年程経って突如姿を消すので、座光寺~川路の天竜川沿いの集落とは違う性質の一団ではなかったかと言えます。古墳に関しては、桐林(きりばやし)にある前方後円墳の兼清塚古墳63m(けんせいづかこふん)が早く、続いて座光寺~川路の南北10km以内(東西0.5km程度なので5km2以内)に30~80m級の前方後円形古墳が集中的に造られました。 これは5年に1基築造されるようなペースで、ここに住む人々が延々と古墳に使役されていたことが予想されます。通常、首長が約5年毎に次々と死亡することはありえないので、ある研究では「少なくとも8つの小規模な地域集団の長が、ともに同じような政治的位置についた」としています。そして、飯田地域の古墳は3~5代の連続する系統が幾つかに分けられることも報告されているので、これらの説を総合すると「科野国造に従って他地域の長も、寒冷によって移住してきた」と考えることができます。また、ある研究によると「これは大和朝廷の有力な諸豪族から、それぞれ送り込まれてきた集団である」と主張しているものもありますが、その根拠が示されていません。8程度の集団を推定すれば、善光寺平の科野国造、高井地域(中野、須坂)、水内地域(地附山、飯山)、埴科地域(松代、若穂)、上田平、松本平、佐久平などになります。これを裏付けるには、各地域と飯田地域の古墳を今後比較検討することが必要になります。 
 その後、鼎と川路の集落はさらに肥大化して弥生時代後期に匹敵する興隆をみせるようになり、松尾には新しい拠点集落が造られました。この頃の古墳からは馬歯と馬骨、馬具が著しく出土していることから、多くの研究者が飯田で馬の飼育が行われていた可能性を指摘しています。ある研究によると、馬が埋葬されていた土壙(どこう、単に土へ開けた埋葬穴)が全国192基発見され、その内長野県で41基 (全国の21%)、内飯田では28基(全国の15%)が発見されています。その内26基が座光寺と松尾だけから発見され、全て440~490年頃のものと推定されています。篠ノ井遺跡群(長野市)では中部地方で最古となる380年頃の馬歯が発見されており、既に蝦夷集落を壊滅させた集団が、馬を用いていたことを推定できます。また古墳に馬具が埋葬されていた数を見ると、群馬県300、福井県270に次いで長野県は240基となり、その内飯田地域は93基になります。上郷別府の宮垣外遺跡10号の馬骨は牡馬11歳前後ですが、ただでさえ小さな木曽馬より小柄であったようで、当時の馬がどのようなものであったかを知ることができます(飯田市立上郷考古博物館蔵)。
 平安時代になると、朝廷に収められる馬の半分は信濃国産でした。その前身ともなる「牧」 のようなものが、この時代から存在していてもおかしな話しではありません。『日本書紀』天智天皇元年(662)に「牧を置いて馬を放つ」とあり、500年代での存在に可能性を与えてくれます。さらに『大宝令-厩牧令』からどのような 「牧」であったかを参考にすると、「毎日上馬に栗1升、稲3升、豆2升、塩2斤。11月上旬からは乾草、4月上旬からは青草を与える。乗馬に堪え得る牧馬は軍団に渡して兵馬に用いる」とあります。また「厩に附属する馬戸を設け、馬戸に附属する正丁は200囲(周長600尺)、次丁は100囲、中男は50囲の草を調達する」ともあり、座光寺~川路に住む集落の人々が「牧」に使役されていたと考えられます。何故飯田で馬の飼育が行われたのか疑問が湧きますが、次のように考えられます。馬の飼育場は天竜川沿いと考えられ、これらの地域には後の条理遺構が無く、当時から良田と言えるような水田がありませんでした。そこで馬に稲を踏み荒らされず、さらに東西を天竜川と段丘崖に挟まれ、南北に幾つもの支流が形成した谷が走り、ある一定の広さをもつ丘陵地のもとで、馬の移動を容易に制限できたから適地とみなされたのだと思われます。「牧」の位置をもう少し具体的に推定すると、継体天皇の頃の畿内における「牧」は淀川水系の氾濫原にあったと云われています。これをこの地域で探すと、座光寺(松川、土曽川合流点)、松尾(毛賀沢川合流点)、川路(久米川合流点)の天竜川沿いに広い氾濫原がありました。また、これら支流は頻繁に土石流をおこし、天竜川合流まで流れて荒涼とした石原の風景が広がっていたと思われます。
 この馬を埋葬するという行為について『日本書紀』大化2年(646)に興味のある記事があるので紹介します。「凡人死亡之時。若経自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或為亡人蔵宝於墓、或為亡人断髪刺股而誄。如此旧俗、一皆悉断。」ここには、「おおよそ人が死亡した時、若い人は首をくくって自ら殉死し、或いは人を絞りて殉死させ、及びあながちに亡人の馬を殉死させ、或いは亡人の為に宝を墓におさめ、或いは亡人の為に髪を切り股を刺して偲びごとす。この如き旧俗を一に皆悉くに断めよ。」と、孝徳天皇の命としてあります。この1文から、馬を古墳に埋葬することを禁止するとともに、生きている人間を殺して埋葬していたことが分かります。長野県の古墳時代に大きな人口増がみられないのは、多くの人間が古墳の被葬者と共に埋葬されていたからかもしれません。この文は近代になって学者が名付けた有名な「薄葬令(はくそうれい)」と言われるもので、実際に「薄葬令」という名の令があったわけではないので注意してください。この文の前には、人を疲弊させる古墳築造を「悪習」とし、位に応じて大きさを制限する命令も書かれていました。それだけ人民を強制に使役していたとみられ、森将軍塚古墳の築造には延5万5千人使われたと云われています。
 
 そして継体天皇の西暦530年頃になると、全国に馬具が普及していきました。この頃から580年頃まで、松尾に築造された前方後円墳は代田獅子塚61mを最大に8基になります。竜丘(川路含む)では塚越1号72mを最大に10基となり、帆立貝式や円墳なども加えると、この地域に20~50m級が更に7基以上造られました。さらに、これまで松川以北に大型古墳は造られていませんでしたが、座光寺(上郷含む)に雲彩寺74mや高岡1号古墳72mを最大に5基の前方後円墳が築造されました。そして円墳になりますが、座光寺の畦地第1号墳からは銀製長鎖式耳飾という珍しい物が出土し、戦前の研究では「国造家の治所がここに存在していた」と報告されています。そしてこの座光寺は、奈良時代になっても飯田地域の中心であり、伊那評衙を経て伊那郡衙(伊那郡の役所)になったと推定されています。これまで各長(首)が築造できた古墳が30~40m程度であったのに、飯田地域で60m以上の前方後円墳が造られたのは、馬によって大和朝廷からその権利を認められたのかもしれません(又は継体天皇への軍功か?)。しかし通説では「国造は大和朝廷支配下の6~7世紀頃、全国に設定された地方官である」(それ以前の旧国造とは別の目的を持った初期官僚制度の国造と考えられる)と言われるので、各長(首)の飯田地域への集住と、その後に彼等への国造任命が一斉に行われたため、その位に応じた古墳築造が行われた可能性とも考えられます。
 やがて550年頃を過ぎると人口が半減し、人々は温暖化によって暮らしやすくなった北方へ移って行きました。そして580年頃になると約150年ぶりに科野国造が善光寺平へ移住し、飯田では川路、松尾、座光寺にわずかながらの集落を残して再び人間の生活痕跡が殆ど無くなりました。これは西暦290~340年頃と同程度の減少で、鼎にあった大集落は消滅しました。飯田の前方後円墳は先にも挙げたように多数築造されましたが、現在ほとんど6世紀後半に推定されています。しかし、この人口減少は人間を多数要する古墳造りと相反しないことから、6世紀後半でも580年頃にあった減少以前までの築造と逆に確定することができます。この減少は既に国造の治世が確固たるものとなっていたので、征圧など攻撃的なものが原因ではなく、科野国造に従って千曲川流域へ移っていったと考えるのが自然です。
 また、この頃どのようなルートで都と繋がっていたのか興味が湧きます。そのきっかけとなるのが、飯田地域の西側方面の遺跡や県内の峠遺跡になります。西暦300年頃、他の地域と同様に須羽国造によって西側山麓の弥生集落も姿を消しましたが、この頃から御坂峠(岐阜県境)~雨境峠(北佐久郡立科町)~入山峠(群馬県境)において、石製模造品(せきせいもぞうひん、石で何かを真似た物)という遺物が用いられるようになりました。これにより既にこの時代から御坂峠ルートによって岐阜県や群馬県を繋ぐ流れがあったことになります。それから150年間近く飯田地域の西側方面で人間の生活痕跡は見られなかったのですが、450年頃から科野国造が飯田地域に移ると、飯田の西玄関にあたる阿智地域や西側山麓(伊豆木、大瀬木など)に小規模な集落が造られるようになりました。この頃になると石製模造品が祭祀道具として佐久平、善光寺平、松本平からも顕著に見つかるようになり、飯田地域を中心に長野県全体(木曽を除く)が1つの連合国家として成立していた根拠の1つになると考えられます。それから580年頃になると、阿智地域や西側山麓の集落は忽然と消えました。しかし700年代に大宝令・養老令によって東山道が定められるのと同時期に、その路線上である阿智地域や西側山麓の集落は再び現れました。これは、科野国造が善光寺平に移ってから、伊那谷は新潟県や群馬県へ向かうただの通過点に過ぎませんでしたが、律令の整備に伴って再び人間が配置されていったことを示しています。
 そして西暦580年以降の飯田地域における人口減と連動するかのように、今度は伊那谷北部(箕輪町)、諏訪地域、松本平、善光寺平、佐久平など県内各地で大きな集落が現れ、それに伴ってこの地域で古墳が造られるようになりました。ある研究によると小さいもので数mとなりますが、伊那谷北部では180基、諏訪湖の周囲で95基、松本平で60基以上、佐久平で240基、善光寺平で1000基以上の古墳が造られたと言われています。飯田が西暦580~700年に閑散としている中で、千曲川流域はさらに数百戸以上の集落が次々と造られていきました。
 記録によると、ちょうどこの頃の欽明天皇(571年崩御)と敏達天皇(585年崩御)の時に、科野国から天皇の周囲で働く舎人(とねり)が朝廷へ差し出されました。彼等は宮殿の名を取って欽明天皇では金刺舎人(かなさしのとねり)、敏達天皇では他田舎人(おさだのとねり)と呼ばれました。派遣した科野国では、都にいる彼等を養うための民(部)が選ばれたと云われています。そして後の律令制定により、中央との繋がりを持つ彼等が信濃国各郡の郡司大領(郡の長官)として登場してきます。下に『信濃史料』から朝廷との繋がりがみられる信濃国の事象を掲載しました。
大化元年(645):拝東国等国司
和銅元年(708):従5位下小治田朝臣宅持為信濃守
和銅7年(714):従5位下佐伯宿禰沙弥麻呂為信濃守
天平3年(731):従5位下巨勢朝臣又兄為信濃守
天平18年(746):従5位下物部依羅朝臣人会為信濃守
天平19年(747):信濃守佐伯大成、橘奈良麻呂ノ謀反ニ座シテ任国ニ配流セラル、従5位下坂合部宿禰金網為信濃守
天平勝宝4年(752)、筑摩郡司大領外正7位他田舎人国麻呂
天平勝宝7年(755)、「から衣裾にとりつき、泣く子らを置きてぞ来ぬや母なしにして」国造小県郡他田舎人大島
天平宝字元年(757)、忌部宿禰鳥麻呂為信濃守
神護景雲2年(768)、信濃国牧主伊那郡大領外従5位下勲6等金刺舎人八麻呂
宝亀4年(773)、小県郡跡目里ノ人他田舎人蝦夷
宝亀5年(774)、従5位下石川朝臣望足為信濃守
貞観4年(862)、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長
貞観5年(863)、諏訪郡人右近衛将監正6位上金刺舎人貞長賜姓大朝臣並是神八井耳命是苗裔なり
 
 これにより「国造」から「国司」へという制度改変を大化の改新からとすれば(通説では天武朝と推定される)、それ以後に任命された信濃守=信濃国司は、直接信濃国と関係のない従5位下クラスの朝廷の人間が数年単位で任命されていたことが分かります。ここには掲載しませんでしたが、国司の次位「信濃介」も同様で、貞観5年にある科野国造一族の金刺舎人などは郡司までにしか任命されませんでした。こうしてみると、大化の改新~大宝律令施行(~702年)により、古墳築造や殉葬人馬など、これまで各地の国造が持っていた権利が廃止され、朝廷を頂点とした中央集権国家が成立したことが分かります。上表によると、古墳時代に科野国造が在所した伊那(飯田地域)と埴科(善光寺平)の郡司大領に金刺舎人が任命されました。律令の選叙令には、大領は「性識清廉にして、時務に堪える者」で「複数の候補者があって才用が同じならば先に国造をとれ」と規定されていました。また、飯田地域に君臨していた時の勢力範囲であった諏訪も金刺の治める所で、ここではしだいに諏訪大社と関わりを持っていくようになります。あくまで推測ですが、大化の改新以後に「諏方評」という、現在の諏訪郡と上下伊那郡を含む古来からの領域があり、大宝令によって諏方郡と伊那郡に分割されたのかもしれません(『隋書』国造120が、『延喜式』などでは590に増加しているので、国造領域が幾つかの評(郡)に分割・削減されたという研究がります)。
 また宝亀4年に「他田舎人蝦夷」という人物が出てきますが、『蝦夷』研究によると、過去に蝦夷から朝廷に服属した一族には「蝦夷」や「毛人」という名が付くそうです。そうなるとこれまで他田舎人は郡司なので、金刺舎人と同様に科野国造の一族だと安易に論じられてきましたが、他田舎人は古墳時代(恐らく崇神天皇の290年頃)に科野国造に服属した有力蝦夷(大和朝廷が言うところの大蝦夷か)であった可能性を挙げておきます。他田舎人が科野国造の一族だという説は、史実を反映した部分もありますが偽系図と言われる阿蘇神社蔵『阿蘇家畧系譜』類だけに根拠を置いているので(ここから他田舎人が伊那郡と関わりがあったという異説がありますが、他の史料には全くありません)、信憑性がありません。上表の史料から、大宝律令成立期に他田舎人が治める所は小県(上田平)と筑摩(松本平)であり、科野国造が在所した伊那(諏訪含む)と善光寺平(埴科、更級)以外の地域になります。あくまで推定ですが、科野国造(金刺の祖先)を「有力者をとって国郡の首長」とし、蝦夷の他田舎人の祖先はそれになれなかった県首(県主)だったと考えられます。そして、西暦480年頃小県地域から筑摩地域に進出して力を持ち始め、飯田地域に居住した頃に国造となって、570年頃には舎人を出すほどまでに成長しました。金刺舎人に続いて出していることから、両者は対抗していた可能性が考えられます。なお、天平勝宝7年にある「国造小県郡他田舎人大島」は、上田平に初めて律令制度に準じて造営された信濃国府に居た者であると考えてしまいますが、国司は別の者(坂合部金網か)がいて、通説では「国造は大化の改新によって郡領となった」とあるので、「小県郡司大領の他田舎人大島」と表現するところを簡略して国造と記載したのだと考えられます。

 話しは戻りますが、西暦580年以降の各地における人口増は、単に飯田地域からの移住者だけでは数の説明がつきません。西側からの移民もさることながら、朝鮮半島からの移民も多数いたと推定されています。既に500年頃から善光寺平東部の埴科(若穂、松代)、高井地域(須坂、中野)に百済人が多く住んでいました。百済は660年に滅亡したので、それ以前から日本と朝鮮半島の交流が深かったことが分かります。その他に高句麗の668年滅亡などにより、伽耶人や高句麗人(高麗)の移住も考えられます。後の『日本後紀』延暦18年(799)年には次のようにあります。
「信濃国の人、外従六位下ケル真老、後部黒足、前部黒麻呂、前部佐根人、下部奈弓麻呂、前部秋足、小県郡の人、無位上部豊人、下部文代、高麗家継、高麗継楯、前部貞麻呂、上部色布知等申す。己等の先は高麗人なり、小治田、飛鳥の二朝廷の時節に帰化来朝す。それより以還、累世平民にして、未だ本号を改めず、伏して望むらくは、去る天平勝宝九歳四月四日の勅に依って、大姓に改めんことをと。真老等に姓を須々岐、黒足等に姓を豊岡、黒麻呂に姓を村上、秋足等に姓を篠井、豊人等に姓を玉川、文代等に姓を清岡、家継等に姓を御井、貞麻呂に姓を朝治、色布知に姓を玉井と賜ふ」
 
 これにより推古天皇の西暦603年から100年間に、高麗人が科野国に移住し、さらに朝廷より位を賜っていた者までいたことが判ります。そして、それから50年以上経った天平勝宝9年(757)、彼等は日本姓に改姓を願い出て完全に帰化しました。このように広い長野県の各地に、長年にわたって海外からの移住者が定着し、西側からの移住者を含めて、各郡(評)の集合体としての信濃国が実質的に成長していきました。また、この文が信濃国=科野国と、小県郡に分けて記載しているところに、先に書いた金刺と他田の2大勢力の存在を強く感じさせてくれます。
 
 長野県ではこの頃の国府がどこに置かれていたのか長い間論争となっています。最も古い説では「筑摩」、次は「上田→筑摩」とあり、最近は「埴科→上田→筑摩」と言われるようになりました。しかし、これまで述べてきたように、西暦300年頃は善光寺平の科野国と飯田地域の須羽国の並立があり、450年頃からは飯田地域に科野国がありました。長野県の歴史では国府の位置問題とともに、「いつ、現在の長野県と同じ程度の規模に相当する科野国が成立したのか?」という問題がよく論じられています。それはこれまで述べてきたように、科野国は多くの勢力が集まった連合体の1つにすぎず、それが国として纏められたのは大化の改新以後(大宝律令)によるもので、朝廷の権力による強制的な制度改変にともなったものでした。
 飯田地域から移った科野国造は何処に居たのでしょうか?、その候補となるのが埴科郡の屋代(やしろ、千曲市)です。『日本書紀』推古15年(607)に、「国毎に屯倉(みやけ)置く」とあります。屋代遺跡群から発掘された大型掘立柱建物群がそれに該当するとみられ、さらに鍛冶や紡錘工房、科野国最大規模級の集落も発掘されました。発掘調査の考察では、孝徳天皇~天武天皇初頭(645~680年)にかけて政治体制の整った施設が造られたことを論じています。この件に関して「埴科と更科はこの頃に科野評という1つの領域であった」との説がありますが、私も両郡に別れるのは上田に国府が置かれる西暦700年前後ではなかったかと考えています(それ以降の屋代遺跡群の施設は埴科郡衙)。そして和銅6年(713)『続日本紀』にある「畿内七道諸国の郡郷の名は好字を著けよ」のように、この頃までには、恐らく科野国から信濃国という字に改変されていたと考えられます。いずれにしろ、この地域で科野国は終わり→信濃国の上田国府(小県郡)→信濃国の筑摩国府(松本平)と国の中心が移っていくのだと確信しています。そして、未だ発見されていない筑摩国府の推定地は、松本市の県町(あがたまち)になります。こうしてみると、金刺と他田の争いは、国府の位置でみる限り他田一族の勝利となったようです。国造から成長した郡司大領は、任期の短い国司と違って、終身官であることから在地で大きな力を持っていました。他田は朝廷との繋がりを太くし、国司を巧みに取り込んで信濃国の官僚のトップとして君臨していったのです。
 近年、上田市に現在ある国分寺の北で、国府の外周堀と思われるものが発掘されました。屋代で掘立柱と竪穴式住居に居住していた国造は、上田では四角に整形された堀や塀に囲まれた瓦葺の建物を造ったと推定されています。この遺構はまだ発掘されていませんが、これまでの成果から現在の国分寺本堂の北側一帯が最も有力だと思われるので、今後の発掘に期待します。また、創建当時これより南にあった国分寺(しなの鉄道付近)に使われた瓦には、「伊」「更」の文字が刻まれていました。これは伊那郡と更科郡が瓦の費用を負担した印だと云われ、実際には埴科郡の土井ノ入窯跡(坂城町)で焼かれたものになります。他田の領域ではなく、金刺の領域に瓦の製造を一手に負担させた謎が出てきますが、邪推をすると「権力を持った他田を介した国司命のもと、技術集団を多く保有していた金刺に、瓦や金具類の製造を使役させたのではないか」、または金刺が5~6位であることから「官位を得るために進んで貢献した」とも考えられます。



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