2017年8月18日金曜日
秀康・忠直家臣団履歴
秀康・忠直家臣団履歴
※出典の略称
・「諸士」(「諸士先祖之記」『福井市史』資料編4、1988)
・「寛政譜」(『新訂 寛政重修諸家譜』)
・「叢記」(福井県立図書館・福井県郷土誌懇談会編『福井県郷土叢書第七集 国事叢記』(上)、1961)
赤垣甚左衛門
信濃生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)
朝倉丈也
実名景澄。能登守。元北条氏の侍大将。(「叢記」)
朝日丹波
実名重正(政)。木曽義仲の末裔と伝える。三河で誕生、初め千之助と称する。菅沼大膳亮直重(定利)に仕える。菅沼氏に仕えていたときから徳川家康に知られており、慶長六年秀康に仕える。子、千之助が火災消火で叱責を受けて自殺すると、秀康の子(直政)を養子に与えられた。その関係で後に松平直政に仕えることになったが、大坂の陣の頃浪人。土井利勝の誘いを受け、徳川秀忠の配慮で姫路城主本多忠政に仕える筈であったが、予定の知行高と異なっていたので出奔。紀伊徳川頼宣と秀康子、忠直の招きを受けるが、旧主の縁で忠直に仕える。しかし本多氏との関係で「浪人分」での召し抱えであり、正式に家臣となったのは松平直政が出雲松江に転封されてからであった。(「叢記」・古川貞雄「松江藩初期家臣団の拡大過程(一)」『信濃』19-6)
厚木某(弥三郎)
実名不詳。厚木丹後の子。丹後の父は若狭と称し、結城晴朝に仕える。永禄三年から天正十八年まで諸所に出陣。(「諸士」)
渥美助左衛門
実名不詳。のち無手右衛門と称す。父渥美河内。遠江横須賀城主で小笠原美作家臣。美作守討死の後浪人。助左衛門は九戸の乱の折り、井伊直政の備えにいて活躍。徳川家康より無手なる働き、と賞されて「無手右衛門」と改名するよう命じられる。のち故あって井伊直政に預けられた後、秀康に召し出される。越前拝領の時は先発して北庄城修築を勤めた。松平忠昌の越前入封に際して残留を命じられた約百名のうちの一人。(「諸士」)
渥美半右衛門
実名不詳。渥美久兵衛友重(大坂の陣以降忠直家臣となる)の弟。兄友重と平岩親吉・鳥居元忠に仕え、小田原攻めでは岩槻城を攻め、隠居曲輪の寄手に加わって戦功を立てる。のち秀康に仕える。(「寛政譜」)
天方山城
実名通綱([叢記」では通興)。本名は首藤。相模国山内に住したため「山内」と称した。徳川家に属して掛川城主であり、その後天方を知行したため改称。故あって高野山に蟄居の所、秀康に召し出される。大坂の陣では松平直政の手に加わり、御陣役を務めた。(「諸士」)
嵐追手助
秀康の逸話を参照。
安藤金助
実名不詳。太郎左衛門家次(紀伊徳川家付家老安藤直次の伯父)の子。松平忠直に仕える。(「寛政譜」)
安藤太郎左衛門
実名定豊。家次の五男。上の金助の弟に当たる。秀康に仕えた。(「寛政譜」)
石井備中
秀康の結城時代からの家臣。先祖の事跡は不明。(「諸士」)
石川右衛門作
矢野伝左衛門宗喜の弟、矢野五左衛門宗善のこと。初名石川右衛門作。飯尾三郎四郎の子で、飯尾氏は尾張国武江城に在城していたが織田信長に攻められ落城。(「諸士」)
石川志摩(対馬)
実名成綱。石川数正の嫡子。故あって家督たらず、五千石を与えられて徳川家康に仕えて徳川信康に仕え、自害後再び家康近習。小田原征伐で駿府城に家臣招集の際、家康口上を伝える役を勤めたが、香川刑部が家康の悪態をついたため諸士に了解を取った上で城外に待ち伏せ殺害。三河国へ立ち退く。関ヶ原合戦後、甲斐に居たが、甲斐領主平岩親吉に秀康より成綱父子の行方が知れ次第父子共に越前に来るようにと書状が来たため、父子で越前へ下向。慶長八年家臣となる。大坂の陣で奮戦。忠直より扇子二本(内一本は忠直自筆)を賜る。(「諸士」)
石川宗左衛門
成綱の子。実名乙成。初めは五郎兵衛と称した。慶長十二年(1607)に父と別に知行を与えられる。父と共に大坂の陣に出陣し奮戦。(「諸士」)
井上太左衛門
実名重成。正就(寛永五年八月十日江戸城西の丸で殺害される)の兄。清秀の子。徳川家康から秀康に付けられ、先手物頭を務める。のち病によって遠江国横須賀に蟄居。寛永二年幕臣に復帰。(「寛政譜」)
今村大炊助(掃部)
「諸士」では実名不詳とあるが、盛次(『福井市史』資料編4、822頁など)である。父は今村九郎兵衛といい、三河国今村に居住、家康に召し出されて慶長年中御納戸役など勤める。
九郎兵衛家督は二男彦兵衛が相続し、三男・四男・五男(伝右衛門)らと共に幕臣となる。嫡男掃部は秀康の附人を命ぜられて丸岡城主となった。慶長十七年(1612)家中騒動で改易。猶子今村段右衛門正形(実父今村伝右衛門)は掃部改易後、松平忠昌に越後で召し抱えられて越前に復帰した。
岩上越中守(左京)
実名は朝吉。はじめ左京と称した。父は三浦(岩上)隠岐守朝堅。結城晴朝のとき、三浦を改めて小山氏庶流岩上氏を名乗るように命ぜられ、一字も与えられて岩上朝堅といった。朝吉嫡子は養子(笹治大膳正時の弟)左京吉次。共に大坂の陣に出陣。但し実子朝親ものち松平忠昌より知行を与えられている。(「諸士」)
宇佐美次郎右衛門(喜平次)
山名次郎右衛門のこと。はじめ宇佐美喜平治と称していた。結城時代に秀康に召し出される。大坂の陣に出陣。(「諸士」)
内田小(庄)八郎
美濃生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)
江川安右衛門
実名不詳。はじめ弥平治と称す。壬生上総介(義雄?)に仕えていたが天正年中、秀康に招かれ召し出される。(「諸士」)
江口石見(守)
実名は不詳(「叢記」では元近)。先祖は江戸崎五郎右衛門で常陸国江戸崎城主。天正十八年に落城し、江戸崎石見が秀康に召し出されて姓を江口と改めた。忠直の時、蟄居して越前越知山麓に居住。子半大夫幸村は松平忠昌に召し出された。(「諸士」)
(※「叢記」では丹羽長重重臣、江口三郎右衛門の子とする。)
大井田監物
実名房仲。上杉景勝に仕え、与力知行をあわせて二万石を領し、佐渡の城主であったと伝える。その後秀康に召し出され(慶長八年には既に家臣となっている)、忠直時代大坂の陣に出陣している。忠昌の代に暇を願い、法体となって道夢と号したがのち召し返される。子二人も召し出され、そのうえ房仲自身も加増の上、御旗奉行を命ぜられ、法体で役を勤める。上杉家での合戦働きの覚、や大坂の陣での書付などを残した。(「諸士」)
大串弁之助
武蔵生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)
太田安房(守)
実名資武。太田資正の三男。寛永二十年十一月十日死去。(「叢記」)
大藤小太郎
実名不詳。先祖はかつて武田が本名だったが北条家に仕えていたとき、武田家と北条家が合戦に及んだため名と家紋を改め大藤式部大輔と称した。北条家滅亡後浪人し、秀康に結城時代に召し出され、越前では千石を与えられる。大坂の陣で重傷を負い死亡。(「諸士」)
大町靭負
実名広次。秀康の結城時代以来奉公。但し摂津国大坂で召し出されたという伝あり。大坂の陣に出陣。嫡子勝左衛門は別に知行を与えられていたが、広次が死去し、家督相続を仰せつけられる前に勝左衛門も死去したため本家は断絶した。(「諸士」)
岡部淡路守
岡部豊後守の嫡子。秀康の小姓を務めた。秀康死去の時に殉死の覚悟であったが、幕府より殉死の禁止が伝えられたため願いは果たされなかったが大坂冬の陣で討死。(「諸士」)
岡部伊予守
入道名自休斎。駿河生れ。町奉行を務める。逸話参照。(「叢記」)
岡部五郎兵衛
実名不詳(「叢記」長教)。近い先祖は岡部丹波守元綱で、代々今川家に仕えていた。そののちは武田氏に仕え、滅亡後北条氏に仕えたのか、氏康・氏政の感状を所持しているという。それ以後徳川家康に仕え、秀康には結城時代に召し出された。子の五郎兵衛は慶長十七年に家督相続。(「諸士」)
岡部(内記)豊後守
実名不詳。岡部の姓は母が秀忠に奉公しており、岡部と称していたため。豊後守曾祖父は内記・内記之助と称していたため、当初豊後守は内記豊後守と称したか。
家康より秀康に付けられ、その後松平忠昌に付けられた。大坂の陣の慶長二十年(元和元年)五月六日、忠昌が翌日の先陣を家康に願ったが叶わず、豊後守も同席しており忠昌をなだめて陣所に引き取らせたが、翌日忠昌が先駆けしたため、前日の上意のため豊後守は討死した、と伝えられている。(「諸士」)
岡見治部
実名治広。治資の子。妻は土岐治英の娘。北条氏に属し、その滅亡後は常陸国江戸崎に蟄居する。やがて秀康に召し出されて五百石を拝領、越前転封にも従って元和三年四月十八日、越前において死去。(「源姓岡見氏系図抄」『龍ヶ崎市史』中世史料編)
荻田主馬
実名長繁。初め孫十郎と称す。越後で上杉景勝に仕え、上杉義春の組下であった。御館の乱で北条丹後守(景広)に槍を付けた。のち主馬と称して秀康に召し出されて千石を与えられた。家康は本多冨正を召して「主馬を小身のまま召し使うのは秀康の不覚である」と語ったので急に一万石となった。(「叢記」・下村效「上杉氏家臣、荻田長繁の口宣案」『戦国史研究』25))
荻野河内(守)
実名は永道という(文書の署名は『福井県史』資料編3、1982、によれば「家次」)。父は荻野伊賀守。丹波国にいて浪人のまま死去。永道は青木紀伊守(秀以)に七千石で召し出されて城代を務める。紀伊守死後丹波へ戻るも秀康に召し出されて千人扶持を与えられる。大坂冬の陣では永見民部の備えの頭を務め、夏の陣では留守居として城を預かった。
荻野小大膳
荻野河内守の嫡子。実名永清。大坂冬の陣に父と共に出陣するが、討死した。(「諸士」)
奥村桐之丞
実名不詳。初め北条家臣。小田原攻めで蒲生氏郷の家臣、結解十之丞の槍を合わせ、十之丞の股を突いた。(「叢記」)
小栗市正
小栗備後守の弟。秀康・忠直に仕える。(「小栗家譜」『頸城文化』22)
小栗吉六(五郎左衛門)
小栗備後守の嫡男。実名正重。当初吉六と称し、徳川家康に仕える。祖父小栗大六(秀康に仕える)死後、父、備後守と共に秀康家臣。忠直嫡男光長の転封に従って家老職を務め、寛文五年死去。(「小栗家譜」『頸城文化』22)
小栗忠八
実名不詳。三河国青野城主小栗修理太夫の弟、小栗主計の子と伝える。(「諸士」)
小栗備後守
実名重勝。大六重国の子。父が秀康に仕えるも徳川秀忠に仕えていた。父が結城で死去した後に子の吉六と共に秀康家臣となる。土屋左馬助の殉死ののち大野城代。大坂の陣で越前勢が獲った頸は3700余であったが、そのうち75つの頸は備後守が獲ったとされる。松平忠直が隠居し、嫡男光長が越後に転封と決まると致仕、高田城代となる。致仕した後も江戸に赴くとかならず徳川秀忠に召されていたという。寛永八年八月二十八日死去。(「小栗家譜」『頸城文化』22)
小田彦太郎
実名守治。小田氏治の二男。小田氏の没落後、常陸国下妻に蟄居していたが越前に赴き、慶長十五年二月二十七日死去。(「源姓岡見氏系図抄」『龍ヶ崎市史』中世史料編)
落合主膳(美作)
忠直の勘気を蒙って和泉国堺に蟄居するが、徳川(紀伊)頼宣に召し出されて落合主膳と名乗る。子多左衛門勝重は皆川平右衛門勝照(皆川広照の子)の養子となった。(「諸士」)
乙部九郎兵衛
父は掃部で小早川秀秋に仕えていた。慶長八年、大久保忠常の肝煎りで秀康に召し抱えられる。松平直政が上総姉ヶ崎に領知を与えられたときに松平忠直から付けられ、代々松江松平家家臣となる。(「烈士録」『大野市史』3・古川貞雄「松江藩初期家臣団の拡大過程(一)」『信濃』19-6)
海福久右衛門
実名不詳。遠江国高天神城主、小笠原弾正小弼の家臣であったが小笠原氏没落後秀康に召し出される(文禄年中)。大坂の陣に出陣して御旗奉行を務めた。(「諸士」)
海福瀬左衛門
実名不詳。久右衛門の子。父と共に大坂の陣に出陣。城に乗り込むとき、父久右衛門組下の者が疲労していたため瀬左衛門が旗を持って前田家の先を乗り越えて「桜ノ門」に旗を立てたという。(「諸士」)
梶原美濃(守)
実名政景。太田資正二男。太田資武の兄に当たる。
片山主水
実名は吉次か(『福井県史』資料編3、466頁)。徳川家康に仕え、秀康に付け人を命じられて代々家臣。実名は吉頭ともいったか。(「烈士録」『大野市史』3)
加藤四郎兵衛(宗月)
実名康寛。父は芦田右衛門佐信蕃で武田家に仕えていたが滅亡後徳川家に属す。信蕃は天正十一年岩尾城攻めで討死。嫡子竹福丸は家督相続を命じられて諱と松平の称号を賜り松平源十郎康国といって小諸城にいた。弟の福千代丸は天正十四年十三歳で元服、諱と松平の称号を賜り松平新六郎康実(のち康寛)と称した。小田原攻略では兄弟共に奮戦するも、兄康国が自害したため家督を相続。上野国藤岡に知行を与えられ、右衛門大夫に任ぜられた。のち故あって蟄居していたが慶長五年、秀康に宇都宮で召し出され、加藤四郎兵衛と号して日光の警護を仰せつけられる。越前入国では大野郡木ノ本に知行を与えられた。秀康死後、剃髪して宗月と号し、大坂の陣では大野郡が一揆所ということで大野城代をつとめた。(「諸士」)
上三川左衛門
実名実基。安芸守成業の子。成業は宇都宮氏が没落後浪人となったが、子の左衛門実基は慶長年中の初め秀康に召し出された。慶長十二年、秀康二男忠昌が上総姉ヶ崎を拝領したときに付けられた家臣の一人となる。大坂の陣では御旗奉行を務めていた。実基は越後で死去したが、嫡男はそれ以前に早世、二男は日光山座禅院の僧侶(太兵衛義政)であったので嗣子がなく断絶した。しかし由緒ある家であるので二男を召し寄せて家督を相続させた。(「諸士」)
木内三太夫
実名不詳。千葉氏の末裔と伝える。結城時代に召し出された(慶長四年以前)。
岸利(理)兵衛
実名光次。初め新助と称す。祖父岸五郎左衛門は和泉国岸和田より越前に下向、鷹道の源政頼の弟子となり鷹職となって越前国蟇目に居住。朝倉孝景の代に光次の兄光重が土地を購入したのが確認され、その後織田信長より土地安堵の朱印を与えられ、弟光次の家督相続後は柴田勝家・丹羽長秀・長谷川秀一に判物を与えられる。秀康の代に検地が行なわれ、知行朱印状が与えられた。子吉重は忠昌の代に鷹匠頭を仰せつけられたが、かつて役儀を務めたことがないといって拒否。知行を半分没収されて六十五石となったが検地の結果百四十石であった。のち百石を吉重、残りを従兄弟総兵衛光清に与えることになった。(「諸士」)
久世但馬(守)
実名不詳。元佐々成政の家臣。慶長十七年の家中騒動で成敗される。逸話参照。(「叢記」)
国枝頼母
実名家次。美濃の国枝小兵衛の子。十六歳で親の仇討ちをする。稲葉右京進との関係があったため若年より越前家にいた。そのあと寺沢志摩守(広高)に仕えたが立退き、豊後臼杵に居住していたが、慶長八年、秀康に召し出されて大坂の陣に従軍。山川讃岐が若年であるので介添えを仰せつけられた。(「諸士」)
窪嶋半助
甲斐生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)
剣持弥作
実名正重。弥作は初名で、のち六郎右衛門。正重の父は今川義元に仕えた剣持豊後守。正重は結城時代に召し出された。(「諸士」)
香西太郎右衛門
実名不詳。父は長宗我部氏家臣、香西備前守といって讃岐国香西城主であったと伝える。結城時代に召し出された。(「諸士」・「叢記」)
高徳掃部(主計)
実名不詳。大番組に属す。下野で生まれる。
あるとき三男、右衛門三郎が原田七左衛門(同じ秀康家臣)の子の刀を望んだところ、断ったため右衛門三郎は「たとえ千金を延べて作った刀だとしても、侍が望まれて断ることはあってはならない」と七左衛門の子を叱りつけたので、渋々与えた。しかしその与え方が悪かったのか右衛門三郎が怒って討ち果たしてしまった。帰宅してこの事を伝えたところ、掃部は「でかし候」と誉めた。しかし掃部は右衛門三郎を召し連れて原田七左衛門の屋敷へ赴き、「私には子供が沢山おりますが、お手前には子供が一人しかおらず不幸なことでありました。忰を連れてきたので如何様にもなされるように」と言ったところ、七左衛門は「それならば我が子にいたそう」と答えた。掃部は「このようなうつけの忰は何の役にも立ちませんが、よい子に育ててくださるように」と原田七左衛門の養子にしたということである。(「叢記」)
小嶋頓八
実名不詳。与五右衛門の嫡子。慶長八年召し出される。大坂の陣も父与五右衛門と共に出陣するが、その後病死、嫡流は断絶した。(「諸士」)
小嶋与五右衛門
実名不詳。朝鮮出兵の時、名護屋の陣所で召し出される。大坂の陣にも出陣。その後、北庄城の瓦門番を務めるが、忠直の正室勝子が江戸へ戻ったという雑説が流れたとき、忠直の命に従って門への出入りを厳重に行なったが、忠直が配流された後この出来事で勝子の不興を買い、暇を得て駿府へ赴き、徳川忠長の元に差し置かれたが病死。二男五与右衛門好寛がのち越前家に召し出されて存続。(「諸士」)
近藤五郎左衛門(縫殿助)
実名用可。五左衛門とも。幕臣近藤石見守秀用の二男。秀康・忠直に仕えるが、元和元年、大坂の陣の際に父の請いで幕臣になる。父と共に合戦に従い、天王寺口で頸を得る。元和八年、上使を承って越前に赴くが、帰路相模国大磯で落馬し、死去。(「寛政譜」)
桜井武兵衛
実名不詳。もと北条氏家臣。秀康の子、直政が信濃松本から出雲松江に加増転封されるときに福井藩から松江藩に分与される。「桜井武兵衛戦功覚書」を記した。(『群馬県史』通史編3、742頁)
笹治大膳
実名正時(『福井市史』資料編4、683頁によれば「常勝」)。結城時代に召し出される。父は山県昌景の庶子、上村左兵衛。左兵衛は尾張にいたが、浪人のまま死去。大膳が召し出されたとき、笹治兵庫の一族になるようにと命じられ、それ以後笹治と改めた。兄は山県内匠といい、大坂の陣では忠直の供をして真田幸村の備えに一番槍をつける武功を立てるが、恩賞が無いのを忠直の代より申し立てていたが、忠昌の代になって大坂の陣の恩賞は差し止めることになったが、それでも不満を言い立てたので暇を願い、願い通り下されたので内匠家は断絶した。(「諸士」)
笹治兵庫
実名重昌。初め加藤庄次郎といった。斯波治部大輔義将の子、斯波治部大輔義重の二男笹治兵部丞義春の曾孫。重昌は初め小早川秀秋に仕えて備前国岡山に居住。秀秋の没落後に京都に居たが秀康に召し出される。大坂の陣は病で出陣せず。(「諸士」)
四王天又兵衛
実名政実。先祖は武蔵国四方田というところに居住し、四方田と名乗る。四方田但馬守政長が土御門天皇に綸旨を賜って四王天と改称。但馬守政孝の子。明智光秀家臣で本能寺の変で森蘭丸を討ち取る。光秀滅亡後、豊臣秀吉を恐れて紀伊国湯浅に潜伏。領主青木紀伊守(秀以)と旧知の仲だったので三百石を与えられて秀以の越前転封にも従い、舟橋(北庄城下)の押さえとして置かれた。秀以が病死して家が断絶したため浪人、翌年秀康が越前に入国し召し出されて再び舟橋に置かれる。
慶長九年、秀康に召され、働きは認めるが先に加増するものが多いので加増が後になると告げられて金子を渡された。翌年には自宅に秀康が来訪。そのときに川筋で漁をすることは禁じられているがその免除を伝えられる。大坂の陣は留守居を務め、子の又兵衛孝信が出陣した。(「叢記」・「諸士」)
嶋田右京
実名成重。幕臣嶋田重次の二男。徳川家康に仕えるが、口論してその者を討ち果たして退去。その後秀康・忠直に仕え、忠直の配流後に浪人となる。寛永二年徳川秀忠に召されて幕臣となる。寛永三年八月十五日死去。(「寛政譜」)
春秋兵庫
実名重元。水戸下田野城主。江戸氏と関係があったらしい。寛永元年四月十九日死去。(荻原龍夫編『江戸氏の研究』名著出版、1977)
清水丹後(守)
実名は孝正(『福井県史』通史編3)。三河生れ。敦賀に居住したという。慶長十七年の騒動で罰せられて伊達家に預けられた。(「叢記」・「忠直年譜」)
鈴木市右衛門
実名重堅。重飩の子。初め市蔵と称する。徳川家康に小納戸役として仕え、のち故あって秀康に仕えた。(「鈴木主税家代々勤書」『福井市史』資料編4)
鈴木多宮
実名不詳。市右衛門の子。(「鈴木主税家代々勤書」『福井市史』資料編4)
関根織部
実名勝直。元北条氏家臣で広沢兵庫重信の弟。秀康の逸話も参照のこと。(「叢記」)
高田遠江(守)
実名一英。始め小左衛門と称す。豊臣秀吉時代、増田長盛に属し、知行一万石。関ヶ原合戦では増田長盛は出陣しなかったが代理として出陣した。戦後長盛は高野山へ引きこもるが、本多正信・井伊直政から長盛と手を切るべき旨と言い渡され、長盛を高野山麓に送り届けて長盛妻子も処置して京都に居た。そのところ本多正信・井伊直政の指図によって慶長八年正月秀康に召し出される。召し抱えの節は正信より越前家家老へ書状が遣わされたという。大坂の陣は御国寺社町奉行を勤めていたので出陣せず。(「諸士」)
高梨理内(清大夫)
信濃出身。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)
高屋善右衛門
下の高屋越後の後継者と考えられるが間柄は不明。(「諸士」)
高屋越後(筑後)
実名不詳。安藤守就の三男。美濃の高屋四郎兵衛の養子となり、姓を高屋に改めた。結城で秀康に召し出され、越前転封にも従う。大坂の陣では本多冨正の備えに加わり、首級十九を得たと伝える。嫡子七郎左衛門は家督相続以前に死去。嫡家は断絶した。(高屋善右衛門が跡を継ぐも、どのような人物か不明。)(「諸士」)
多賀谷権太夫
実名村広。権太夫は初名でのち刑部を名乗る。秀康の結城家相続の為に上洛した安芸守政広の子。土浦城代を務めた後、越前に移る。大坂の陣では番頭を務める。松平忠昌時代には忠昌の子、昌勝の傅役を十年務めた。(「諸士」)
多賀谷左近
実名泰経。(「秀康給帳」では慶長十二年死去の父光経とも考えられる。)越前では加賀国に隣接する地域(坂井郡)を一円的に知行し、支配した。泰経は元和二年に没。養子左近経政が家督を相続せず、多賀谷家は断絶した。しかし経政の子、修理経栄が松平直基(前橋松平、松平大和守家)に仕官し幕末に及んだ。(『福井市史』資料編4の文書解題)
多賀谷左内
忠経か?重経の子、光経の弟。近江佐和山に居住し、万治二年十二月二十日卒した。(『結城市史』第一巻 古代中世史料編所収「多賀谷氏系図」)
竹嶋周防(守)
実名不詳。遠江出身で家老。久世騒動で刀を奪われ、城内に監禁されたことを恥じ、騒動で無罪の裁定が下されるも帰国途中に自害。詳細は忠直の逸話参照。(「叢記」・『徳川諸家系譜』四所収「忠直年譜」)
伊達与兵衛
実名宗綱(宗綱の没年は不詳で、子与兵衛宗定が大坂の陣で討死しているので子宗定とも考えられる)。吉宗の子。奥州伊達家と同族。今川氏から高天神小笠原氏に仕え、小笠原氏が徳川氏→甲斐武田氏→徳川氏→北条(氏規)氏と仕えたのでそれに従う。小田原城攻めで小笠原氏家臣として韮山城に籠もり、その武勇を秀康に認められて召し抱えられた。
(長倉智恵雄「漂泊の戦国武士二人の伊達与兵衛-『駿河伊達系図』から-」『地方史静岡』11、1983・『京都大学文学部博物館の古文書第五輯 駿河伊達家文書』思文閣出版、1989)
谷左衛門助(佐)
実名吉長。谷衛友の二男。衛成の弟。秀康に仕え、のち去る。(「寛政譜」)
谷伯耆(守)
実名不詳。谷衛友の弟か。衛好の二男。(「寛政譜」)
長勝院
万。秀康生母。池鯉鮒の方。三河池鯉鮒大明神、永見吉(貞)英の娘。秀康死去後剃髪、泰清院と称した。元和五年十二月六日死去。享年七十三。越前孝顕寺に埋葬。(「秀康年譜」「叢記」)
土屋市兵衛
実名吉住。父、井堰豊後守は徳川信康に仕え、のち浪人して京都や北国にいた。小田原征伐では池田輝政に従い、秀康が越前に入国したとき、輝政が吉住を召し連れて越前を訪れ、秀康に召し抱えるように願ったと伝える。大坂の陣に出陣し、忠直の供を務めた。(「諸士」)
土屋左馬助
実名昌春(昌明)。昌義(茂)の子。昌義が天正十年三月、昌春が二歳の時討死したので、脇谷某に匿われ、成長した後に徳川家康の小姓となる。のち秀康に仕える。越前入封後、大野城主。秀康の死去三日後に殉死した。二十七歳という。子主膳は忠直母、清涼院の計らいで父と別に三千石を与えられており、寛永元年、松平忠昌入国後に二千石を与えられ、左馬助と改名した。(「叢記」)
富永雅楽助(刑部)
実名勝安。山城守政辰の二男。富永氏は代々北条氏に仕え、曾祖父山城守政直が北条早雲・氏綱・氏康に仕え江戸城を守った。祖父神四郎直勝は江戸城に加え、葛西城将となるも、永禄七年鴻台で討死した。父政辰は北条氏政の一字を賜っている。政辰の嫡男(勝安の兄)は直則で幕府旗本となった。(「諸士」)
※系図には「雅楽助」とは記されていないが、石高が同一なため、同一人物と考えられる。
中川源太郎
実名一茂。先祖は播磨国平野城主真島山城守。その三男真嶋出雲守(新助)が武者修行に出、河内国に居住、姓を小寺と改めた。その子が中川源太郎(のちの出雲守)で、秀康に結城時代より仕え、中川の称号を与えられた。忠直生母清涼院の連枝であるということで重用されるが、訳あって将軍家より信濃国へ蟄居を命ぜられ、そのご信濃国を領していた徳川忠長に仕えた。子直重も当初忠長に仕えたが、のち松平忠昌時代に越前家に帰参した。(「諸士」)
永見右衛門
実名吉望(貞武)。永見吉治の子。母が家康の従妹にあたり、母と共に越前に行き、慶長六年、初めて秀康に仕えるという。慶長十二年閏四月九日、秀康死去の翌日に殉死。二十四歳。子の右衛門佐は元和八年、忠直に成敗された。十六歳。(「叢記」)
永見左太郎
実名吉克。淡路守。系図には「左太郎」と称したとは記されていないが、嫡男淡路守吉之に「初名左太郎」とあるので吉克も名乗ったと考えられる。父は吉英で、池鯉鮒城主。娘に長勝院(秀康母)がおり、吉克は兄。天正年中吉英が自滅、池鯉鮒城が没落し、吉克は浪人した。しかし池鯉鮒大明神の別当という由緒で長勝院が秀康に頼んだところ召し出された。大坂の陣に忠直に従って出陣。(「諸士」)
永見志摩守
実名吉次。はじめ毛受忠左衛門と称した。祖父毛受小三郎は三河田原城主であったと伝える。小三郎の子、孫兵衛は三河小山に閑居していたが、妻が永見吉英の娘で長勝院の妹であり、孫兵衛の子吉次が秀康に召し出された。秀康の二男、忠昌が五歳の時に附属を仰せつけられ、大坂の陣の前、駿府で家康の命で秀康の外戚の称号である「永見」と改めた。忠昌の嫡男、光通が家督相続の御礼に江戸城に登城した際は、光通が幼少のため、将軍の言葉への返答を吉次が代わって行った。(「諸士」)
永見民部
実名不詳。通称は頼母とも。家康の子であるが、対面を許されず、秀康生母長勝院の計らいで秀康に寄食。越後に居住して永見氏を名乗るという。忠直の時代に大坂の陣に出陣する。元和九年八月、秀康二男、松平忠昌の領知、越後高田において死去。(「叢記」)
棗八右衛門
実名不詳。関ヶ原合戦の勝利を祝して、秀康が父家康に使者を送った中の一人。越後生れで徒頭として取り立てられたという。(「叢記」)
西尾仁左衛門
実名宗次。父は宮地久右衛門で、当初は宮地久作と称した。後に遠江国の西尾是尊という浪人に養子に行き、西尾久作と改めた。高天神城の合戦等々に加わり活躍が目立ったのを秀康が聞きつけ、召し出された。大坂の夏の陣で真田幸村を討ち取り、家康・秀忠父子に目見えし褒美を賜り、また忠直からも刀などを賜った。(「諸士」)
長谷川次郎左衛門
実名不詳。祖父長谷川淡路守・筑後守(下記参照)共に幕臣であったが、父筑後守が忠直に嫁ぐ勝姫(秀忠娘)の付人になって越前に下る。次郎左衛門はそれ以前から越前家に仕え、大坂の陣には冬・夏とも出陣。忠昌の越前入国に際して、越前に残留を指示された。(「諸士」)
長谷川筑後守
実名正成。天正四年より家康に仕える。慶長十六年、勝姫が松平忠直に嫁ぐときに附属して越前に赴く。その後忠直が配流され、子光長が越後高田に移った後も勝姫に仕え、寛永二年には幕府より加増される。寛永十五年九月死去。享年七十五。弟宣次の子孫は長谷川平蔵(宣義)である。(「寛政譜」)
西村三助・三平
実名不詳。一族に西村定秀という人物がいた。定秀は上杉景勝に属し、伊達政宗と対陣したときに政宗の陣所を攻めて敗北させ、陣にあった道具や幕を奪い取った。のち伊達家が幕と交換に白石四万石を与えようとしたが、上杉家は「領知は槍先で奪い取るものである。幕は必要なので返すことが出来ない」と返答した。これにより定秀の家の家紋にも竹に雀を付けたと伝わる。(「諸士」)
波々伯部九兵衛
実名家繁。のち靭負と称す。父高家と家繁は徳川家康が上洛をした際に伏見で目見えし、召し出されることになったが秀康に付けられて越前へ従った。大坂の陣に出陣し、その後城代を仰せつけられ代々務める。松平光通(忠昌の嫡男)の時代、慶安三年(1650)、九十七歳まで隠居せず、その後二男勝政に家督を譲った。ちなみに勝政は当初加藤清正に仕えていたという。(「諸士」)
長谷部釆女
実名不詳。休楽と号す。長谷部長兵衛尉信連の末裔とつたえる。永禄の頃朝倉義景の元にあったとき、不慮の喧嘩で立ち退く。その後先祖の縁で能登の長九郎左衛門方へ隠れ住まっていた。そののち京都へ出、謡の指南や躾についての知識があったために、秀吉の養子であった秀康に謡の指南をするために出入りする。家康が上洛したときにその縁で目見えをし、秀康の家臣として付けられた。子の右馬之助は大坂の陣に出陣。(「諸士」)
林伊賀守
実名忠定。林藤五郎の二男。幼少より家康に仕え、後秀康に附属。1万石を与えられて越前勝山城主。久世騒動によって処罰され、真田信之に預けられたがのち許される。寛永五年九月朔日死去。享年六十一。孫定頼からは母が土屋左馬助の娘だったので「土屋」を称した。(「寛政譜」)
原田七右衛門
高徳掃部を参照。
原隼人
実名貞胤か。甲斐生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。
また、言い伝えるところとして、真田幸村の古い知り合いであったため、大坂冬の陣の際、忠直に対して、隼人との対面を許してくれるように願った。忠直はそれを許し、隼人は幸村の陣所に向かい、雑談は数刻に及んだ。分かれ際に幸村は「我等は近々討死と決まった。飾りとして抱角之兜をつけ、秘蔵の馬に乗って快く討死したいと思う。対面も今日が最後であろう」と言ってお互い名残を惜しんで分かれたという。(「叢記」)
原平左衛門
実名不詳。先祖である原若狭守・同大炊助は千葉家に仕え、のち北条家に属した。千葉胤富・国胤の感状等を所持していたという。(「諸士」)
広沢兵庫
実名重信。武蔵生れ。信秀の子。敦賀町奉行であったという。(「諸士」)
参考:扇谷上杉氏家臣団
藤岡彦太夫(七兵衛)
信濃生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)
本多伊豆守
実名冨正。志摩(守)・丹波守も称し、晩年は元覚斎と称した。本多重富の子。父が岡崎信康に附属していたが、信康の自害後蟄居、冨正は信富の弟、作左衛門重次に養育された。秀康が豊臣秀吉の養子となるとき、重次の子、成重の代わりとして秀康に付けられ、大坂に遣わされる。その縁で秀康の筆頭家臣となる。慶安二年八月二日死去。享年七十八。(「諸士」・武生立葵会編『府中領主本多富正の生涯』)
本多左門
実名不詳。三河生れ。慶長四年、土浦城代となり、千二百六十石を領した。大坂冬の陣では「国城代」を命ぜられたという。(「叢記」)
牧(野)主殿(助)
実名易貞。父清兵衛は永禄十二年には家康に仕えていた。易貞は、幼少の時、家康から直に「お前は秀康に附属するか、それとも秀忠に附属するか」と聞かれて、日頃懇ろにされているので、秀康に仕えたい、と言上したという。家康はそれを聞いて笑い、望み通り秀康に附属させた。大坂の陣では先備を勤め、忠直配流後、弟忠昌の越前入部に際しては金津まで出迎え、城内を案内した。(「諸士」)
丸山権之丞(助)
信濃生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)
三沢甚右衛門
実名不詳。信濃生れ。慶長六年、越前で秀康に召抱えられる。(「諸士」)
御宿勘兵衛
実名正倫。北条氏・黒田氏・家康・秀康に仕える。知行の不足を訴えて秀康家を退散、名前を変えることなく豊臣家に仕える。元々軍配者で武名も高く、大坂の陣の前に秀頼に「越前勢に当たるようにして下さるよう。もし越前勢をうち崩したならば、越前を拝領仕りたい」と述べ、自ら「越前守」を名乗ったという。
また伝えるところによると、越前家の野本右近と古い知り合いで、大坂夏の陣の末期に野本と会って言うには、「私は不肖とはいえ、一方の武将として貴殿らの手へ立ち向かっている。忠直様のご秘蔵の馬である、荒波を拝領仕りたき旨頼み入りたい。」とのことであった。野本は忠直へそのことを言上したところ、忠直の怒りは強く、「このような言いぐさをどのようにするべきか」と言った。野本はしばらく忠直をなだめ、結局馬を遣わした。翌日、勘兵衛は荒波に乗って討死したという。(「叢記」)
水科新助
信濃生れ。秀康の越前入国に際して召し抱えられた旧真田昌幸家臣の一人。(「叢記」)
三寺久左衛門
実名正信。祖父は長野業正という。父長野正宣は武田信玄に仕え、五十三貫文の地を領したという。上野国三寺郷に住したため子孫は三寺を称号としたという。(「諸士」)
水戸三七
実名実(宣)通。初め江戸但馬守と称した。江戸重通の二男。佐竹義重の娘を妻とするが、水戸城落城に際して離別。重通の娘が結城晴朝の養女となっていた関係で結城に逃れ、その時に「水戸」と改名。元和九年、病気のため合力米を返還した。(「諸士」・『江戸氏の研究』)
皆川平右衛門
実名勝照。父は皆川広照。広照は慶長五年の上杉氏征伐、その後の上田城攻めに従うが、平右衛門勝照の儀について所存があったため、家督を弟の山城守隆庸に譲り、父子共々秀康に仕えた。勝照は子が無かったために、落合美作の子を養子とした。多左衛門勝重と称した。ちなみに、平右衛門の妻は北条家臣茂呂又十郎の娘であった。(「諸士」)
村田伝右衛門(信濃守)
実名近氏。伊勢出身で、意竹の子という。慶長五年、石田方が大坂に武将の妻子を留め置いたが、秀康の母をこの伝右衛門が伊勢の神主を頼んで奪還したという。(「叢記」)
柳田縫殿助
結城氏の一族。結城晴朝に仕え、晴朝隠居後は秀康に仕える。越前転封後の慶長七年、結城一族の由緒を以て当時十歳の松平直政に付けられる。柳田氏は松江松平家の城代家老となった。(「烈士録」『大野市史』3)
柳下由右衛門
実名は不明。大坂の陣で忠昌にお供をし、戦功が少々あったため、帰陣後加増された。(「諸士」)
矢野右衛門助
実名宗善。矢野伝左衛門の弟。初め石河右衛門作と称し、のち矢野五左衛門と称した。(「諸士」)
矢野伝左衛門(忠助)
実名宗喜。初め飯尾源四郎、次いで石河忠助と称した。先祖飯尾蔵人は尾張武江城主で三万五千石を領し、斯波家に仕えていたという。
蔵人とその子三郎四郎は織田信長の甥、織田五郎左衛門が美濃伊母に在城していた頃、蔵人の私恨により伊母城を攻めたところ、織田信長が武江城を攻めて家臣の裏切りによって落城した。
三郎四郎の子、伝左衛門は飯尾源四郎を石河忠助と改め、のち徳川家康が遠江浜松にいた頃に召し出された。その後秀康が伝左衛門の譲渡を願い、許されたため結城に移る。越前入国の時に矢野忠助と改名、さらに後になって伝左衛門と改名した。慶長十七年(1612)より美濃国境の押さえとして勝山城を預けられ、大野郡十万石を支配した。忠昌が越前入国の時には、指図で直接忠昌に奉公した。(「諸士」)
山方内匠
笹治大膳正時の兄。大坂の陣で忠直の御供をし、天王寺の真田丸に攻め入って一番槍の功名を立てた。しかし恩賞が下されなかったため、忠直代に数度申し立て、忠昌の代に至って恩賞を差し置かれたが、なお訴えて暇を願って松平家から退転した。そのため山方内匠家は断絶した。(「諸士」)
山川讃岐守
実名朝貞。朝貞が十一歳の時に越前に移る。大坂の陣では忠直の先手を務めた。朝貞の嫡子、朝重が家督を相続した後の忠昌の時代、病気のため暇を願い、関東へ戻って死去した。朝重の弟、内膳朝成は朝重死後忠昌に召し出されている。(「諸士」)
山名次郎右衛門
宇佐美喜平次のこと。
山本宮内(少輔)
山本内蔵助(対馬守)の嫡男。別に知行を与えられて奉公していたが、早世した。(「諸士)
山本信濃
実名家次。駿河国田中に居住し、代々北条氏に仕えて舟大将を勤めていた。北条氏滅亡後秀康に仕え、越前移封後には舟大将を勤めていた由緒で、越前三国湊の守りを命じられたが、その受け方の作法に誤りがあり、秀康の怒りに触れて暇を出された。そのため武蔵国に居住していたが、忠昌が越後を領していたときに子の太郎左衛門重次と共に召し出され、越前移封にも従った。(「諸士」)
山本清右衛門
武田信玄に仕え、のち家康に召し出されて仮に井伊直政に預けられる。長久手合戦の蠏江城攻めのとき、敵を打ち取って直政に見せたところ、今日の城攻めの一番首であると家康に直接披露された。そのため家康が食べた初瓜の半分を与えられたと伝えられる。
その後真田家に仕えて上田城攻めのとき、依田兵部と清右衛門が城外で働いたところ、依田は討死し、清右衛門も数ヶ所傷を負ったが、依田の死骸を囲み、首を獲らせなかった。のち浪人して信濃にいたが、秀康がこの働きを聞きつけて召しだそうとしたが断る。だが清右衛門旧友の大工原九右衛門というものを使者として重ねて召しだそうとしたため、秀康に仕える。大坂の陣にも出陣した。(「諸士」)
山本対馬(摂津)
実名成本。のちに内蔵助と称す。道号通吸。山本勘助の血をひいているというが、系図が消失したため不明であるとされる。結城で召し出され、大坂の陣に従い、先手頭を勤めた。このとき、どのような手柄があったのかは不明であるが、家康より藤島の小脇差を拝領し、今に伝えるという。(「諸士」)
由木左衛門(西庵)
武蔵国出身。由木利重の子であるという。久世騒動に連座して成敗される。(「叢記」)
雪吹喜左衛門
実名重英。初め九蔵と称した。高天神籠城七人の内の一人と伝える。結城で秀康に召し出され、越前にも従う。大坂の陣には忠直に従い、忠昌の越前入部に際しては忠昌が選んだ百五名に選ばれた。(「諸士」)
吉田修理(亮)
実名好寛。もと豊臣秀次の家臣で、石橋彦四郎と称していた。大坂の陣の元和元年五月七日、溺死した。父は吉田内記守氏で、織田信長の家臣。好寛の兄は内記と称し、永禄十一年(1568)の伊勢大河内城攻めで討死。内記の子九郎左衛門と長蔵は織田信雄に仕えた。(「叢記」)
力丸藤左衛門
実名勝時。北条氏直と氏家(?)に仕えた。氏家が高野山に入るときに御供をして送り届け、その後暇をとって浪人していたところ、多賀谷修理大夫の取り持ちで秀康に召し出された。(「諸士」)
http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/echizen-kasin.html
清野氏
『吾妻鏡』
信濃の荘園は、京から遠く離れており年貢米輸送も不便であったところから初期には発達せず、院政時代に入ってから寄進型荘園として成立する。
文治2年(1182)3月に年貢未済として書き上げられた荘園のうち、小県地方に、皇室領として塩田荘・常田荘・依田荘、寺社領として浦野荘、諸家領として海野荘・小泉荘、左馬寮領として新張牧がある。
しかし、真田地方には荘園の名は見あたらない。
文治2年(1182)3月に年貢未済として書き上げられた荘園のうち、小県地方に、皇室領として塩田荘・常田荘・依田荘、寺社領として浦野荘、諸家領として海野荘・小泉荘、左馬寮領として新張牧がある。
しかし、真田地方には荘園の名は見あたらない。
幸広の子、10代海野幸氏は、義仲の嫡男、義高が人質として源頼朝のもとへ送られたときに随伴して鎌倉に赴き、義高への忠誠心をかわれ源頼朝に仕えることになる。
鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』には、この幸氏が弓馬の活躍が幾度なく記されている。
文治3年(1187)8月の放生会では一番手を若干16歳の海野幸氏、二番手を名手、諏訪盛澄が行った。
文治5年(1189)正月の弓始めに三浦義連と並んで四番目の射手を命ぜられる。
建久元年(1190)の頼朝上洛に祢津次郎らと共に随行しておる。
建久6年3月の将軍家東大寺供養に祢津次郎らと共に随行しておる。
また建久8年の頼朝善光寺参詣にも、随兵として後陣を命ぜられている。晩年には北条時頼の弓を指南し、あの西行から伝授された弓の極意が幸氏の語りで『吾妻鏡』に記されている。
このころ海野幸氏は白鳥神社を現在地(現在の東御市本海野)移す。
また、海野氏は古城から太平寺村に海野氏館(現在東御市本海野、100万ドルの社長宅の辺)も移す。
鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』には、この幸氏が弓馬の活躍が幾度なく記されている。
文治3年(1187)8月の放生会では一番手を若干16歳の海野幸氏、二番手を名手、諏訪盛澄が行った。
文治5年(1189)正月の弓始めに三浦義連と並んで四番目の射手を命ぜられる。
建久元年(1190)の頼朝上洛に祢津次郎らと共に随行しておる。
建久6年3月の将軍家東大寺供養に祢津次郎らと共に随行しておる。
また建久8年の頼朝善光寺参詣にも、随兵として後陣を命ぜられている。晩年には北条時頼の弓を指南し、あの西行から伝授された弓の極意が幸氏の語りで『吾妻鏡』に記されている。
このころ海野幸氏は白鳥神社を現在地(現在の東御市本海野)移す。
また、海野氏は古城から太平寺村に海野氏館(現在東御市本海野、100万ドルの社長宅の辺)も移す。
海野幸親の二男幸長(通広)は、義仲の祐筆「大夫房覚明」であるといわれている。
『源平盛衰記』の三箇の馬場願事によると、侍僧の覚明が白山妙理権現に願文を綴り、最後に「.....寿永2年5月9日、源義仲敬白」と結ばれて、白山を礼拝し、戦勝を祈ったと記述されている。
この願文を書いた覚明は、その後も倶利伽羅合戦(砺波山合戦)を前にして「埴生新八幡宮」に残る義仲必勝祈願の願文や、さらには「比叡山延暦寺への回文」なども書いている。
これらは、調略の木曽山門牒状の名文で知られる軍師でもあった。
義仲滅亡後は、親鸞に帰依し、故郷の海野庄に戻り康楽寺を開基(現在の長野市篠ノ井康楽寺の縁起)した。
『源平盛衰記』の三箇の馬場願事によると、侍僧の覚明が白山妙理権現に願文を綴り、最後に「.....寿永2年5月9日、源義仲敬白」と結ばれて、白山を礼拝し、戦勝を祈ったと記述されている。
この願文を書いた覚明は、その後も倶利伽羅合戦(砺波山合戦)を前にして「埴生新八幡宮」に残る義仲必勝祈願の願文や、さらには「比叡山延暦寺への回文」なども書いている。
これらは、調略の木曽山門牒状の名文で知られる軍師でもあった。
義仲滅亡後は、親鸞に帰依し、故郷の海野庄に戻り康楽寺を開基(現在の長野市篠ノ井康楽寺の縁起)した。
『平家物語』の作者の一人とも考えられている異才の僧である。
覚明伝説も含め、海野氏は僧侶や修験者も多く輩出している。
室町時代の曹洞宗の名僧、如仲天誾も海野氏出身である。
『日本洞上聨燈録』によれば遠州の大洞院(静岡県周智郡森町橘)の開基で、その流れに徳川家康ゆかりの可睡斎(静岡県袋井市)があり、海野氏菩提寺の興善寺(現在の東御市和)は、その末寺として今に繋がる。
覚明伝説も含め、海野氏は僧侶や修験者も多く輩出している。
室町時代の曹洞宗の名僧、如仲天誾も海野氏出身である。
『日本洞上聨燈録』によれば遠州の大洞院(静岡県周智郡森町橘)の開基で、その流れに徳川家康ゆかりの可睡斎(静岡県袋井市)があり、海野氏菩提寺の興善寺(現在の東御市和)は、その末寺として今に繋がる。
http://musha.mobi/index.php?%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%A7%8B%E7%A5%96
『大塔物語』
南北朝時代、鎌倉での北條氏敗北が、北條勢力の一掃を意味するわけではなく、全国各地にはなお北條氏に心寄せる武士もいた。
ことに信濃では北條高時の遺児時行を諏訪頼重・大祝時継らがかくまい、時節の到来を待っていたが、足利尊氏と結んだ守護小笠原貞宗・村上信貞らの勢いも強く、建武2年(1335)7月時行は挙兵し、滋野一族の祢津・望月・海野らは、これに応じた。
勢いに乗じた時行軍は、足利直義らの防戦を退け、7月25日鎌倉を回復して、これを中先代と称せられた。
しかし僅か20日ほどの後には足利軍に攻められて破れ、頼重・時継は自害した。
だが、建武新政は同じ年10月の尊氏氾濫で早くも分裂し、宮方(南朝)と武家方(北朝)にわかれて戦闘を始めた。すると時行は使いを後醍醐天皇の吉野行在所に送って帰順を表明し、ここに信濃の中先代党(北條党)は宮方につくこととなった。
しかし武家方の勢力は小笠原氏・村上氏を中心に強力で、諏訪氏・金刺氏を中核とする宮方を圧倒し、暦応3年(1340)に伊那・大徳王寺城で挙兵した時行を討って、その優勢ははっきりとし、文和4年(1355)の桔梗ケ原の戦いで宮方の退潮が決定的となった。
ことに信濃では北條高時の遺児時行を諏訪頼重・大祝時継らがかくまい、時節の到来を待っていたが、足利尊氏と結んだ守護小笠原貞宗・村上信貞らの勢いも強く、建武2年(1335)7月時行は挙兵し、滋野一族の祢津・望月・海野らは、これに応じた。
勢いに乗じた時行軍は、足利直義らの防戦を退け、7月25日鎌倉を回復して、これを中先代と称せられた。
しかし僅か20日ほどの後には足利軍に攻められて破れ、頼重・時継は自害した。
だが、建武新政は同じ年10月の尊氏氾濫で早くも分裂し、宮方(南朝)と武家方(北朝)にわかれて戦闘を始めた。すると時行は使いを後醍醐天皇の吉野行在所に送って帰順を表明し、ここに信濃の中先代党(北條党)は宮方につくこととなった。
しかし武家方の勢力は小笠原氏・村上氏を中心に強力で、諏訪氏・金刺氏を中核とする宮方を圧倒し、暦応3年(1340)に伊那・大徳王寺城で挙兵した時行を討って、その優勢ははっきりとし、文和4年(1355)の桔梗ケ原の戦いで宮方の退潮が決定的となった。
応永7年(1400)7月、念願の信濃守護に補任された小笠原長秀は、信濃に入り各地の豪族(国人)を招集した。しかし長秀の傲慢なふるまいに対して、東信濃や北信濃の古くからの在地豪族が反感を招き、いわゆる信濃の国人たちが団結して立ち上がり、長秀を打ち破って、都に追い返してしまう事件が勃発した。
同年9月のことで、場所は大塔(長野市篠ノ井)の古要害に逃げ込んだ守護方300余騎が、ほとんど自害・討死するという凄惨な結末を戦場としたことから大塔合戦と称せられた。
このときの様子を綴った『大塔物語』には、信濃各地の豪族の動向が記録されている。
その中心人物は村上満信であるが、その戦いには佐久勢(伴野・望月等)は700余騎で雨の宮対岸に、海野宮内少輔幸義ら小県軍勢は300余騎で篠ノ井山王堂に、高梨勢は500余騎で篠ノ井二つ柳に、井上勢は500余騎で千曲川式に、大文字一揆は仁科と祢津遠江守を中心に800余騎で布施城後方の芳田崎石川にと、総数3,300余騎が大集結した。
その大塔城攻めで、海野氏のもとに中村・会田岩下・深井・土肥などの諸氏、また大手一の攻口の大将として小県から国人方の祢津遠江守遠光のもとで、合戦に加わった東信濃の武士の中に、桜井・別府・小田中・実田・横尾・曲尾氏などの諸氏が参加していたと書かれている。
ここにある「実田」が「真田」とおもわれる名の初見で、当時の真田氏の動向を示す唯一の記録がみられ、数集落を支配していた小領主と考えられる。
「横尾」「曲尾」も現在、真田地域の小字名に見られるものである。
「実田」は「真田」と読み間違いか、当時はそうだったのか不明だが、読みの音や意味的には近いと思われる。
この頃、真田氏が横尾氏や曲尾氏とともに、真田一帯の地を三分する形で領有していたことを物語るものであり、真田氏は神川の左岸一帯、横尾氏は神川の右岸横尾から戸沢にかけての一帯、曲尾氏は傍陽川沿いの曲尾・萩・中組等の一帯をそれぞれ領地としていた。
海野流真田氏とすれば、祢津氏も滋野一族であり、海野氏とは同族意識があっての行動であろう。
同年9月のことで、場所は大塔(長野市篠ノ井)の古要害に逃げ込んだ守護方300余騎が、ほとんど自害・討死するという凄惨な結末を戦場としたことから大塔合戦と称せられた。
このときの様子を綴った『大塔物語』には、信濃各地の豪族の動向が記録されている。
その中心人物は村上満信であるが、その戦いには佐久勢(伴野・望月等)は700余騎で雨の宮対岸に、海野宮内少輔幸義ら小県軍勢は300余騎で篠ノ井山王堂に、高梨勢は500余騎で篠ノ井二つ柳に、井上勢は500余騎で千曲川式に、大文字一揆は仁科と祢津遠江守を中心に800余騎で布施城後方の芳田崎石川にと、総数3,300余騎が大集結した。
その大塔城攻めで、海野氏のもとに中村・会田岩下・深井・土肥などの諸氏、また大手一の攻口の大将として小県から国人方の祢津遠江守遠光のもとで、合戦に加わった東信濃の武士の中に、桜井・別府・小田中・実田・横尾・曲尾氏などの諸氏が参加していたと書かれている。
ここにある「実田」が「真田」とおもわれる名の初見で、当時の真田氏の動向を示す唯一の記録がみられ、数集落を支配していた小領主と考えられる。
「横尾」「曲尾」も現在、真田地域の小字名に見られるものである。
「実田」は「真田」と読み間違いか、当時はそうだったのか不明だが、読みの音や意味的には近いと思われる。
この頃、真田氏が横尾氏や曲尾氏とともに、真田一帯の地を三分する形で領有していたことを物語るものであり、真田氏は神川の左岸一帯、横尾氏は神川の右岸横尾から戸沢にかけての一帯、曲尾氏は傍陽川沿いの曲尾・萩・中組等の一帯をそれぞれ領地としていた。
海野流真田氏とすれば、祢津氏も滋野一族であり、海野氏とは同族意識があっての行動であろう。
この合戦後も信濃では領主の反乱が続いたが、小笠原政康(長秀の弟)は次第に勢力を伸ばし、応永32年(1425)信濃守護となり、永享12年(1440)の3月から翌嘉吉元年(1441)4月にかけて、一年の余も、ここにあった下総の結城城を囲んで大合戦が行われた。
上杉氏との戦いで滅びた鎌倉公方の足利氏を公方として再興させるために、結城氏朝が室町幕府を相手に戦いを挑んだ戦いで、現在の関東地方で起こりました。
この合戦に信濃勢30番を率いて攻撃軍に参加した。
このとき作られた『結城陣番帳』にも信濃の諸豪族が記録されており、30番のうち10番として24代海野幸数があり、27番として大井三河守らと共に祢津遠江守の名がみられる。
その東信濃勢の中に、この戦いに幕府方として、村上頼清とそれに従った真田源太・同源五・同源六が参戦し、幕府軍の勝利に貢献されている。つまり、ここにみえる真田氏こそ戦国期の真田氏の祖にあたると考えられ、真田郷から参陣した可能性が高いとされる。
上杉氏との戦いで滅びた鎌倉公方の足利氏を公方として再興させるために、結城氏朝が室町幕府を相手に戦いを挑んだ戦いで、現在の関東地方で起こりました。
この合戦に信濃勢30番を率いて攻撃軍に参加した。
このとき作られた『結城陣番帳』にも信濃の諸豪族が記録されており、30番のうち10番として24代海野幸数があり、27番として大井三河守らと共に祢津遠江守の名がみられる。
その東信濃勢の中に、この戦いに幕府方として、村上頼清とそれに従った真田源太・同源五・同源六が参戦し、幕府軍の勝利に貢献されている。つまり、ここにみえる真田氏こそ戦国期の真田氏の祖にあたると考えられ、真田郷から参陣した可能性が高いとされる。
この時期の海野氏の所領は、海野郷を中心にして、東は祢津の東側一帯の別府氏支配地域、北は鳥居峠付近の西上州境付近の祢津氏所領、西は房山・踏入、南は千曲川北岸小田中氏所領までとされており、海野平の海善寺と大平寺の一族は代官として従い、深井・小宮山・今井・平原・岩下氏らを被官として、これらの地域を支配していたと考えられる。
江戸時代の石高に換算すると1万から2万石と考えられる。
室町時代末期の海野氏は衰亡期ともいえる。
江戸時代の石高に換算すると1万から2万石と考えられる。
室町時代末期の海野氏は衰亡期ともいえる。
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真田家系図
だが、江戸時代になって軍記物の流行や講談本などの流布により、真田家は圧倒的な人気を博しております。なかでも徳川家康を相手に二度にわたって戦いをいどんで苦杯をのませた父の昌幸とともに、信繁は「真田幸村」の名で大坂冬・夏の陣で天下の軍勢を向こうにまわして大活躍を演じて、一躍英雄となり戦史に名をとどめている。
そうしたなかで、真田家の逸話も多彩に広がっていて、虚実も含めての真田家のルーツを物語る話や寺社・遺物・遺跡もいくつかがある。
そうしたなかで、真田家の逸話も多彩に広がっていて、虚実も含めての真田家のルーツを物語る話や寺社・遺物・遺跡もいくつかがある。
戦後、多くの歴史研究者によって、真田幸隆以前の真田氏の存在した様々な説が出てきています。
いくつかの説は唱えられているが、真偽は不明のままで、研究上の問題が残されている。
そのひとつに角間渓谷の麓で発見された日向畑遺跡の石塔群があります。
昭和46年(1971)に発掘調査で出土した石塔群の形式が室町から戦国時代にかけてのものと見られ、真田氏に縁のある先祖の墓と考えられている。しかし実際には幸隆以前の真田氏の動向など伝える資料(幸隆の両親・祖父母を祀っていない)もなく、出土したこれらの石塔群と結びつける要素は何もなく、確かなことは分からない。
奇しくも、この角間渓谷は、講談・真田十勇士の猿飛佐助修業の地ともいわれ、真田氏のルーツとして考えたい願望が、地域の人の心に根強くあったのかもしれない。
いくつかの説は唱えられているが、真偽は不明のままで、研究上の問題が残されている。
そのひとつに角間渓谷の麓で発見された日向畑遺跡の石塔群があります。
昭和46年(1971)に発掘調査で出土した石塔群の形式が室町から戦国時代にかけてのものと見られ、真田氏に縁のある先祖の墓と考えられている。しかし実際には幸隆以前の真田氏の動向など伝える資料(幸隆の両親・祖父母を祀っていない)もなく、出土したこれらの石塔群と結びつける要素は何もなく、確かなことは分からない。
奇しくも、この角間渓谷は、講談・真田十勇士の猿飛佐助修業の地ともいわれ、真田氏のルーツとして考えたい願望が、地域の人の心に根強くあったのかもしれない。
やはり幸隆以前の真田氏とは、記録に残ることのない弱小勢力であったと考えられている。
そんな関係から注目することは、地域の史観には、真田氏の先祖は信濃国東部に古代から栄えていた滋野一族に属する海野氏の流れと考える向きもあって、直系ではなく、その分かれには違いなかったと思われる。
幸隆のほかにも真田なる家が存在していたことは事実であるから、幸隆以前の真田氏を示す系図や古文書なり、信頼のおける史料や遺品なりがあってもよいとおもわれるのだが、なぜかそうした類のものは伝存されておらず、ほとんど出てこないのである。
そんな関係から注目することは、地域の史観には、真田氏の先祖は信濃国東部に古代から栄えていた滋野一族に属する海野氏の流れと考える向きもあって、直系ではなく、その分かれには違いなかったと思われる。
幸隆のほかにも真田なる家が存在していたことは事実であるから、幸隆以前の真田氏を示す系図や古文書なり、信頼のおける史料や遺品なりがあってもよいとおもわれるのだが、なぜかそうした類のものは伝存されておらず、ほとんど出てこないのである。
今からおよそ1,300年ほど前の奈良時代の大化改新(645)によって、国造により地方政治は、大和政権から任命された国司・郡司による政治へと変革された。
朝廷が地方を支配するために国府(今でいう県庁にあたる)が各地に設置されました。
地方の研究家の説としては、信濃の政治をおこなう国府が上田近辺(国分寺付近)に置かれ、その国府には政治や軍事のための軍馬・役人の乗馬・物資の輸送手段として馬は大事なもので、国府があったところには良質な馬を多数備えられる牧場がなくてはならない。
したがって当然この馬を飼育し、それを守る衛士が必要であり、その国府直属の牧経営にあたったのが真田氏の祖であろうというもので、国府兵馬の運営を基盤に、古代から成長してきた家だというのである。
古代の牧場に関係する地名(野馬除・鞍掛・牧内など)や遺跡が多く残されていて、また牧場の守護神といわれる駒形神社や馬頭観音を祀る古代の寺も現存している。
朝廷が地方を支配するために国府(今でいう県庁にあたる)が各地に設置されました。
地方の研究家の説としては、信濃の政治をおこなう国府が上田近辺(国分寺付近)に置かれ、その国府には政治や軍事のための軍馬・役人の乗馬・物資の輸送手段として馬は大事なもので、国府があったところには良質な馬を多数備えられる牧場がなくてはならない。
したがって当然この馬を飼育し、それを守る衛士が必要であり、その国府直属の牧経営にあたったのが真田氏の祖であろうというもので、国府兵馬の運営を基盤に、古代から成長してきた家だというのである。
古代の牧場に関係する地名(野馬除・鞍掛・牧内など)や遺跡が多く残されていて、また牧場の守護神といわれる駒形神社や馬頭観音を祀る古代の寺も現存している。
今から1,200年前、信濃国に古代の名族大伴氏が栄えていて、牧の経営にかけては比類のない力を発揮したといわれている。
東信濃でも平安初期に書かれた古い書物『日本霊異記』に大伴氏なる豪族が海野郷にいたことが記されている。
また、北佐久郡の有名な望月の牧には「大伴神社」が祀られています。
東信濃でも平安初期に書かれた古い書物『日本霊異記』に大伴氏なる豪族が海野郷にいたことが記されている。
また、北佐久郡の有名な望月の牧には「大伴神社」が祀られています。
この勅旨牧は、信濃・上野・甲斐・武蔵の四カ国に限って32牧が指定されており、信濃国は、一国だけでその半数の16牧が勅旨牧となっている。
新治牧(現在の東御市新張)、御牧原台地(旧北御牧村)の望月牧は、良馬を出すことで「望月の駒」として詠にも多く詠まれたことはよく知られているとおりである。
だが、信濃の国牧の牧名に真田らしき名が見あたらないことから、これは海野・望月氏らは「御牧」(朝廷の勅旨牧)の経営者であったのに対し、真田氏は「国牧」(国府直轄の牧場)の管理者という違った性格をもっていたからではなかろうか。
やがて中央政権の没落とともに「国牧」も私牧化され、そのころから真田氏を名乗ったのではなかろうか。真田氏は、この私牧を基盤として地方の土豪に成長したものと考える方が自然であろう。
また信濃国牧のなかにも牧名がなく、南北朝の争いの頃の信濃の武士の中にも名が見られないことからも、これまでに確証されるには至っていなく、推測の域を出ません。
新治牧(現在の東御市新張)、御牧原台地(旧北御牧村)の望月牧は、良馬を出すことで「望月の駒」として詠にも多く詠まれたことはよく知られているとおりである。
だが、信濃の国牧の牧名に真田らしき名が見あたらないことから、これは海野・望月氏らは「御牧」(朝廷の勅旨牧)の経営者であったのに対し、真田氏は「国牧」(国府直轄の牧場)の管理者という違った性格をもっていたからではなかろうか。
やがて中央政権の没落とともに「国牧」も私牧化され、そのころから真田氏を名乗ったのではなかろうか。真田氏は、この私牧を基盤として地方の土豪に成長したものと考える方が自然であろう。
また信濃国牧のなかにも牧名がなく、南北朝の争いの頃の信濃の武士の中にも名が見られないことからも、これまでに確証されるには至っていなく、推測の域を出ません。
このほかに、真田氏を日本武尊の末裔の綾公という説。また『真武内伝』には、仁明天皇のころ来朝した百済国の王の子孫とする説まである。
真田家系図
さらに、その海野氏に証明できる清和天皇に繋がる伝承があります。
清和天皇の第四皇子貞保親王を始祖とするものです。
貞保親王は、音楽の名人だといわれ、そのため「南宮管絃仙」と呼ばれていました。
ある日、御所で管絃が行われ、貞保親王は琵琶を弾じていました。
その音色に誘われて、燕が一羽室内に飛び込んできました。親王はツバメに目を向けたそのとき燕が糞を落とし、それが親王の眼の中に入り、親王はそれが原因で重い眼病を患ってしまう。
しかし都の名医に診せても一向に治らない。
ある人が「信濃国の加沢温泉(現在の群馬県嬬恋村)に眼病が治るそうです」と聞き、そこで親王は信濃国に赴き、深井という家に滞在して湯治に努められた。
眼の痛みは消えたが視力は回復しなかった。結局盲目になってしまった。
そのため親王は都には帰ることなく、小県郡海野白鳥庄で暮らすこととなった。
やがて世話をしていた深井某の娘との間に子が生れ善淵王と称し、初めて滋野姓を賜るという。
善淵王の玄孫にあたる滋野則広の子・重道の代には海野氏を名乗るようになり、その子の代には祢津氏・望月氏へと分かれていく。一族を滋野三家とも称され、信濃国小県郡や佐久郡を中心として、広く上州へも栄えていった。
また「新撰姓氏録」によると滋野宿祢は神魂命五世の孫天道根命の後裔ともいわれている。
清和天皇の第四皇子貞保親王を始祖とするものです。
貞保親王は、音楽の名人だといわれ、そのため「南宮管絃仙」と呼ばれていました。
ある日、御所で管絃が行われ、貞保親王は琵琶を弾じていました。
その音色に誘われて、燕が一羽室内に飛び込んできました。親王はツバメに目を向けたそのとき燕が糞を落とし、それが親王の眼の中に入り、親王はそれが原因で重い眼病を患ってしまう。
しかし都の名医に診せても一向に治らない。
ある人が「信濃国の加沢温泉(現在の群馬県嬬恋村)に眼病が治るそうです」と聞き、そこで親王は信濃国に赴き、深井という家に滞在して湯治に努められた。
眼の痛みは消えたが視力は回復しなかった。結局盲目になってしまった。
そのため親王は都には帰ることなく、小県郡海野白鳥庄で暮らすこととなった。
やがて世話をしていた深井某の娘との間に子が生れ善淵王と称し、初めて滋野姓を賜るという。
善淵王の玄孫にあたる滋野則広の子・重道の代には海野氏を名乗るようになり、その子の代には祢津氏・望月氏へと分かれていく。一族を滋野三家とも称され、信濃国小県郡や佐久郡を中心として、広く上州へも栄えていった。
また「新撰姓氏録」によると滋野宿祢は神魂命五世の孫天道根命の後裔ともいわれている。
また、江戸時代に幕府の求めに応じて作成された『真田家系図』によると、真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡海野郷(現在の長野県東御市)の海野棟綱の子である幸隆が小県郡真田の庄を領し、松尾城に居住して以後、真田姓を名乗ったとしている。
当時、戦国大名家の系図づくりの際、出自を名族に結びつけることは常道であり、真田氏の場合も清和源氏を出自とするのは疑わしいものです。
また、真田氏が本家筋としている海野氏は滋野氏嫡流を称しているので、これも清和源氏説と矛盾してしまう。海野氏からの改称も、自らを信濃の名族、滋野一族の宗家の嫡流として出自を結びつけた可能性があり、こちらも確証できていない。
当時、戦国大名家の系図づくりの際、出自を名族に結びつけることは常道であり、真田氏の場合も清和源氏を出自とするのは疑わしいものです。
また、真田氏が本家筋としている海野氏は滋野氏嫡流を称しているので、これも清和源氏説と矛盾してしまう。海野氏からの改称も、自らを信濃の名族、滋野一族の宗家の嫡流として出自を結びつけた可能性があり、こちらも確証できていない。
真田系祭神
伝承の域を出ない起源譚は、京都山科に伝わる貞保親王説話が信濃で在地化されてきたものと考えられるが、これが海野・真田氏の氏神、白鳥神社の祭神伝承であり、松代藩の編纂した『真武内伝』に伝わる滋野一族のおこりである。
やがて親王が延喜2年(902)4月に死去され、法名「海善寺殿」とし、のちに海野氏居館の鬼門に建立された海善寺の開基と伝えられている。
その後、真田昌幸の上田築城のときに城下の鎮護の寺として移築され「海禅寺」に、真田信之の松代移封においては一族の氏神・白鳥神社とともに遷され「開善寺」と改称されて、今日に至っております。
その後、真田昌幸の上田築城のときに城下の鎮護の寺として移築され「海禅寺」に、真田信之の松代移封においては一族の氏神・白鳥神社とともに遷され「開善寺」と改称されて、今日に至っております。
また親王を祀っている宮嶽山稜神社(現在東御市祢津)が建立された。
その後、江戸時代に松代藩主真田家より先祖への御供料として毎年米10石が進納されている記録がある。
真田家当主により「先祖」としているところが研究者の興味を引くのである。
その後、江戸時代に松代藩主真田家より先祖への御供料として毎年米10石が進納されている記録がある。
真田家当主により「先祖」としているところが研究者の興味を引くのである。
こうした点から、真田氏が海野氏らの滋野一族と深いかかわりがあると考えるのは、なにも不自然なことではない。ここでいう滋野一族とは信濃の小県から佐久方面に、また西上州方面にも勢力のあった名族の総称であることから、まず滋野一族の流れから海野・真田氏を考察してみよう。
滋野氏と海野氏
滋野姓そのものの名は古く、平安時代の『六国史』に滋野朝臣貞主とある。
その父は楢原造東人なる人物で、ゆかりが深いとされる大和国葛上群楢原(現在の奈良県御所市楢原)にある地名である。
ここに駒形大重神社が鎮座し、祭神は二座で一座は滋野貞主が祀られている。
全国にも数少ない楢原(奈良原)という地名と、東人を東国出身の人物と考え、楢原東人の先祖の地を推察するに信濃国の楢原(現在の東御市奈良原)にも何らかのつながりがあるのだろうか。
その父は楢原造東人なる人物で、ゆかりが深いとされる大和国葛上群楢原(現在の奈良県御所市楢原)にある地名である。
ここに駒形大重神社が鎮座し、祭神は二座で一座は滋野貞主が祀られている。
全国にも数少ない楢原(奈良原)という地名と、東人を東国出身の人物と考え、楢原東人の先祖の地を推察するに信濃国の楢原(現在の東御市奈良原)にも何らかのつながりがあるのだろうか。
楢原貞主は、奈良の平城京から大同元年(806)5月18日平安遷都により、平安京の滋野という地 (京都御所西南の府庁の地)に移住し地名をとって滋野貞主となったと思われる。
この貞主の孫が滋野恒蔭、その恒蔭の子恒成は清和天皇の皇子貞保親王の家司となっている。
妹は貞保親王に嫁いだ。
滋野恒成の子恒信は、天暦4年(950)2月に信濃国望月の牧監となって下向、地名をとって海野幸俊と改名し初代海野当主となったという。
どうやら始祖伝承への伏線が垣間見えるところである。
海野の一族で他に祢津氏(現在の東御市祢津)と望月氏(現在の佐久市望月)の両者は共に牧の管理者として居住していた。
その海野・祢津・望月の三氏を滋野三家とよんでいる。
その中でも海野氏は早くからその頭角をあらわし、もっとも勢力さかんで、当主は代々信濃守を称した。
鎌倉時代に10代海野小太郎幸氏が出て、騎手の名手として名をはぜ、このころから海野氏は各地に支族をひろげ繁延していった。信州筑摩郡に移住したものに、会田・塔ノ原・田沢・苅屋原・光の諸氏ばかりでなく、上州吾妻郡に入ったものは鎌原・西窪・湯本・下尾・大厩・羽尾氏などが海野氏から派生した武士だといわれ、この頃の海野氏一族は信濃と上州の国境を隔てた広大な地域を勢力範囲として、その地方を開拓して栄えていた。
この貞主の孫が滋野恒蔭、その恒蔭の子恒成は清和天皇の皇子貞保親王の家司となっている。
妹は貞保親王に嫁いだ。
滋野恒成の子恒信は、天暦4年(950)2月に信濃国望月の牧監となって下向、地名をとって海野幸俊と改名し初代海野当主となったという。
どうやら始祖伝承への伏線が垣間見えるところである。
海野の一族で他に祢津氏(現在の東御市祢津)と望月氏(現在の佐久市望月)の両者は共に牧の管理者として居住していた。
その海野・祢津・望月の三氏を滋野三家とよんでいる。
その中でも海野氏は早くからその頭角をあらわし、もっとも勢力さかんで、当主は代々信濃守を称した。
鎌倉時代に10代海野小太郎幸氏が出て、騎手の名手として名をはぜ、このころから海野氏は各地に支族をひろげ繁延していった。信州筑摩郡に移住したものに、会田・塔ノ原・田沢・苅屋原・光の諸氏ばかりでなく、上州吾妻郡に入ったものは鎌原・西窪・湯本・下尾・大厩・羽尾氏などが海野氏から派生した武士だといわれ、この頃の海野氏一族は信濃と上州の国境を隔てた広大な地域を勢力範囲として、その地方を開拓して栄えていた。
海野氏としての最古の書見が保元元年(1156)7月に起きた「保元の乱」の記述にある。
8代海野幸親は天皇方の将、源義朝に属して京都に上り、信濃武士300余騎を率いる左馬頭として武功をたてたという。
以後、鎌倉時代は幕府の御家人となり、代々、弓馬の誉れ高き一族として名を馳せている。
8代海野幸親は天皇方の将、源義朝に属して京都に上り、信濃武士300余騎を率いる左馬頭として武功をたてたという。
以後、鎌倉時代は幕府の御家人となり、代々、弓馬の誉れ高き一族として名を馳せている。
『浅羽本』信州滋野三家系図に記されている。
この系図によると真田氏の祖は、海野氏から早い段階で分かれ一族で、古く鎌倉時代(1,200ごろ)中期とされております。
すなわち、源頼朝の御家人で弓の名射手として活躍した海野小太郎幸氏の孫で、海野長氏の子に、四男七郎幸春が真田に住み、その在名をもって真田氏と称したことに始まるとしている。
この『真田七郎幸春』が真田氏発生の源流ではあるまいか。
ただし、これも証拠がなく裏づけがとれません。
この系図によると真田氏の祖は、海野氏から早い段階で分かれ一族で、古く鎌倉時代(1,200ごろ)中期とされております。
すなわち、源頼朝の御家人で弓の名射手として活躍した海野小太郎幸氏の孫で、海野長氏の子に、四男七郎幸春が真田に住み、その在名をもって真田氏と称したことに始まるとしている。
この『真田七郎幸春』が真田氏発生の源流ではあるまいか。
ただし、これも証拠がなく裏づけがとれません。
滋野氏流海野氏の功名の一大起点は木曽義仲の挙兵であろう。
源義朝の異母弟義賢の子として生まれた義仲は、源氏の内紛を逃れ木曽の中原兼遠に預けられ育てられた。
治承4年(1180)以仁王より平家追討の令旨を受けた義仲は、東信濃の馬飼の豪族、滋野一族根井行親らを頼り挙兵する。
8代海野幸親を筆頭に滋野一族の全面的な後楯もあり、さらに北信の源氏も上州武士団も加わり、海野氏の氏神である白鳥神社前の白鳥河原に3,000騎を集結し、越後の城四郎長茂の大軍を横田河原合戦で破り、さらに倶利伽羅合戦で平家の大軍を撃ち破り京へと進軍した。
源義朝の異母弟義賢の子として生まれた義仲は、源氏の内紛を逃れ木曽の中原兼遠に預けられ育てられた。
治承4年(1180)以仁王より平家追討の令旨を受けた義仲は、東信濃の馬飼の豪族、滋野一族根井行親らを頼り挙兵する。
8代海野幸親を筆頭に滋野一族の全面的な後楯もあり、さらに北信の源氏も上州武士団も加わり、海野氏の氏神である白鳥神社前の白鳥河原に3,000騎を集結し、越後の城四郎長茂の大軍を横田河原合戦で破り、さらに倶利伽羅合戦で平家の大軍を撃ち破り京へと進軍した。
『源平盛衰記』によれば、海野幸親の嫡男、9代幸広は義仲軍の侍大将として活躍、都落ちした平家の追手として水島合戦に挑むも不慣れな海戦で平家の逆襲を受け討死にした。
その際、海面に浮いた渦が銭を連ねたように見えたということから、今までの州浜から「六連銭」紋を旗印としたと、松代藩編纂による『滋野通記』は伝えている。
その際、海面に浮いた渦が銭を連ねたように見えたということから、今までの州浜から「六連銭」紋を旗印としたと、松代藩編纂による『滋野通記』は伝えている。
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結城陣番帳
10)結城合戦と信濃武士
大井持光は、「永享の乱」後の永享11(1439)年、自害した鎌倉公方足利持氏の遺児永寿王丸・後の古河公方足利成氏(しげうじ)を信濃で庇護した。永寿王丸は持氏の末子で、当時5才であった。初代鎌倉公方足利基氏が中興開基した鎌倉の瑞泉寺の僧が、2人の被官に庇護され乳母に抱かれる永寿王丸を、岩村田に隣接する安原(佐久市)の安養寺に連れ逃れてきた。この寺が信州味噌発祥の地と謂われている。安養寺の住僧が、乳母の兄で、その伝手(つて)を頼って逃れ、大井持光の庇護を期待したようだ。
永享の乱後、上杉氏は勝利に驕り、強引な所領の拡大を図り、圧迫された在地豪族の反発が、後の関東大乱の遠因となった。永享12(1440)年3月、幕府と関東管領上杉氏に反発する諸豪族が持氏遺児の春王丸・安王丸を奉じて、下総の結城城(茨城県結城市結城)に立て籠もる。幕府は急遽、これを越後守護上杉房方の子で、越後の上条城主上杉清方や小笠原政康に鎮圧を命じた。結城合戦の始まりである。
『鎌倉大草紙』は全3巻で構成され、著者・成立年代とも未詳あるが、戦国期から近世初頭まで、康暦元(1379)年より文明11(1479)年までの百年間を越える関東の政治動向を各年毎に記したものである。それには「大井持光が家臣芦田・清野をつけ」永寿王丸を送ったと記している。持光は6歳の永寿王丸を結城城へ送り籠城させた。
38年後の文明10(1478)年の「御符礼之古書」に「右頭、岩村田大井政朝代初、御符礼三百貫三百文(中略)、寄子葦田(芦田)・根々井・塚原」とあり、芦田氏が独立した郷を領有できぬまま、大井氏の寄子(配下)になっていた事が知られる。
芦田氏は『庶軒目録』の文明16年10月23日の条に「大井氏は千騎を以て大将たり。今19才。(中略)大井の執事足田(芦田)殿・相木殿(下略)」とあり、大井氏の主人に近侍し家政に当たっていた。
永享12年7月、幕府軍による結城城への攻撃が激しくなると、持光は結城方に味方するため上信国境の臼井(碓氷)峠まで出陣した。上杉憲実の弟重方が上野の国分(こくぶ;群馬県群馬町)まで出馬し牽制すると、軍を引いている。
永享8年3月、将軍義教は小笠原政康に芦田征伐を命じた。その際、幕府政康軍の全面的支援により、大井持光は芦田氏を攻め、芦田氏をその傘下に加えた。その持光が、なぜ反幕府軍に加わったのか?故足利持氏との親密な関係が想定される。『持光』は『持氏』の偏諱を下賜されたのか?
結城氏朝は小山泰朝(おやまやすとも)の子で、下総結城満広(みつひろ)の養子となった。応永23(1416)年ごろ家督を継承した。下野守護職であった祖父結城基光が死去した永享2年(1430)以降、結城家当主としての活動を開始した。前代から敵対していた上杉氏との対立が激化したため、永享の乱に際し、足利持氏を支援した。持氏の遺児安王丸、春王丸が挙兵すると、これを結城城に迎え、関東諸家の宇都宮、小山氏の一族や那須、岩松氏らを糾合して関東管領上杉清方が統帥する幕府軍と抗戦した。
小笠原政康は、再び信濃守護として国人に軍勢催促状を出し出陣を強いた。その様子が結城合戦に参陣した武士の記録『結城陣番帳』に記されている。
「(上略)従公方様(義教) 陣中奉行儀、小笠原大膳大夫被仰付、任上意之旨、国国諸侍関東在陣之間、小笠原大膳大夫可任下知之由、被仰出候者也(下略)」とあり、信濃武士の多くを参陣させ、政康は陣中奉行として諸国の諸士を指揮した。
信濃の国人衆は政康の指揮下、幕府軍の陣中警護と矢倉の番として、30番組に編成され1昼夜毎の勤番に就いた。壱番が小笠原五郎(宗康)殿、2番が高梨殿、3番が須田殿、4番が井上殿、8番に村上殿代屋代殿、10番が海野殿、11番が藤沢殿、牧城主10代目の香坂徳本は、12番組であった。14番に諏訪信濃守殿、大原(草)殿代、中沢殿代、甲斐沼殿代の名が並ぶ。16番に諏訪兵部大輔殿、知久殿、伴野殿、今田殿の名がみられる。27番では大井三河守殿、同名河内守殿、同名対馬守殿、祢津遠江守殿、生田殿、関屋殿で一番を組んでいる。30番まで109名の武将の名が記され、信濃勢3千余騎とある。大井持光と依田一族は不参加であったが、当時の信濃武士の殆どの名が連ねられている。佐久武士の参加者は27番の3氏のみで、大井一門であっても守護小笠原に属した。他の佐久勢がみられないのは、大井持光の勢威に屈していたからで、当時の実力の程が測られる。
結城氏朝は、翌嘉吉元(1441)年4月16日敗れ、嫡男の持朝(もちとも)らと共に自決し落城した。安王丸、春王丸の兄弟は捕らえられ、京都への護送途上、美濃の垂井(岐阜県不破郡垂井町)の金蓮寺で殺害された。政康は結城城を陥落させ、安王丸、春王丸を捕らえる抜群の武功を挙げた。将軍義教から感状を与えられ、太刀一腰(ひとこし)が下賜された。この合戦での奮戦により、政康の兄長将が戦死し、子の宗康が負傷している。政康は将軍義教の命に従い諸所で軍功を立て、小笠原氏の旧領を回復してきた。
『喜連川判鑑』『上杉略譜』『足利系図』『永享後記』『足利治乱記』『永享記』など、いずれも永寿王丸は密かに逃れ大井持光に庇護されているとしている。当時、武蔵や上野国にも所領があった持光の懸命な救助活動が功を奏したようだ。『結城戦場物語』には「そののち持氏の末の御子、信濃国安養寺と申す寺に深くしのびてましますを、東国の諸侍たづねだして奉り、成氏と申して鎌倉に御所をたて、京都・田舎(鎌倉)和談して末はんじゃうとさかえり」と記す。『上杉略譜』には、「永寿王は信濃大井持光の家にかくまわれていたが、これを知る者がなく、幕府軍の総大将上杉清方も鎌倉に帰り、諸国の軍もみな帰国した」と記す。
結城合戦から僅か2か月後、嘉吉元(1441)年6月24日、将軍義教は「結城合戦平定の祝賀」として招かれた赤松亭の祝宴の席で、首級を挙げられる無残な死を遂げた。
小笠原政康も翌嘉吉2(1442)年8月9日、結城合戦後の事後処理を完了し、信濃の館に戻る途上、小県郡海野で病没した。享年67であった。
11)小笠原氏の内紛【嘉吉の内訌】
政康は小笠原氏の全盛期を築いたが、死後間もなく内紛が生じ、伊那小笠原と府中小笠原が対立する。政康の嫡子宗康を推す一揆と、政康の兄長将の嫡子持長を推す一揆が対立する。小笠原氏の内紛の源は政康の父長基に始まる。長基には長幼順に長将・長秀・政康の3人の子がいた。長基は惣領職の譲状を若い17才の長秀に与えた。実兄長将より長秀の器量が勝っていたからと思われる。長基の所領の配分は、長秀が12か所、兄長将が2か所、弟政康が3か所、比丘尼浄契1期分2か所の計19か所であった。但し書きに兄長将と弟政康に子が無ければ、両人没後は長秀が相続する。長秀に子が無ければ、政康が譲り受けるとした。
長秀は大塔合戦に敗れ、子もなかったため、39才の時、実弟政康に「所々朝恩之本領、恩賞之地等事」と一括譲与する譲状を渡した。但し、長秀に実子ができた場合は無効とし、さらに弟政康に実子ができない場合を想定し
「任亡父清順(長基)之置文旨、政康可令(申せられる)相続一跡、次政康以後無実子者、自政康手、舎兄播磨守長将之嫡男可譲与彦次郎者也」と、兄長将の子彦次郎、この時9才の持長に譲与されるとした。持長は当時父長将と共に、その所領地塩尻郷にいた。
政康の死後、小笠原一族の惣領職をめぐって嫡子宗康と、京都にあって将軍家の奉公衆を勤める持長との間で相続争いが起きた。これを「嘉吉の内訌」といい、小笠原氏凋落の始まりとしてよく知られている。持長は、結城合戦にも将軍の命を受けて出兵し父長将戦死の痛手を受けていた。しかも将軍義教を殺害した赤松満祐の討伐にも軍功をあらわした。管領畠山持国と外戚関係にあり、実力と政治的背景をもった持長だけに相続争いに頭角をあらわした。
『小笠原文書』に政透の花押がある政康の置文が遺る。
「こんといからへこへ候事、目出度候、諸事についていからの事は六郎(光康)にまかせ候、あいはからい候へく候、さうちて、当家の事は五郎(宗康)・六郎両人ならてはあいはからい候ましく候」とある。伊賀良は弟の六郎光康が相続し、兄五郎宗康は安曇・筑摩を伝領する意味と解される。
嘉吉2年8月政康が没すると、持長は所領相続の権利を主張し幕府に出訴し裁断を仰いだ。
文安2(1445)年11月24日の幕府奉行人連署意見状は「長秀譲与持長之由、雖申、不出帯証状、宗康又譲得之旨雖申、同無譲状」事を前提に、政康が宗康・光康に宛てた書状から、総じて当家の事は五郎(宗康)・六郎(光康)の相計らいに任すとあり、「宗康可領掌之条勿論」と、結局、信濃守護職は在国していた宗康に安堵された。しかし、信濃は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、国人衆も2派に分裂して対立抗争が続いた。
小笠原一族の赤沢満経が水内郡栗田朝日山(善光寺西方2k;川中島から北方犀川を越え安茂里の北隣り)に城を築き、持長を迎え入れた。宗康は母方の春日伊予守盛定を頼った。文安3(1446)年、宗康は弟の光康に支援を頼み、万が一の場合は光康に惣領職を譲り渡すことを約束して持長方との決戦に臨んだ。
足利将軍義教は前年嘉吉の乱で赤松満祐の家臣に首級をあげられている。幕府管領細川持之は、義教の嫡子9才の義勝を7代将軍にすえ、赤松満祐一族を討伐し嘉吉の乱が終結すると出家引退した。かつて持長は京都にあって将軍家の奉公衆の一員であり、持之後任の幕府管領畠山持国とは外戚関係にあった。元々信濃小笠原家は京都小笠原家が出身母体である。一族と、その有力家臣団は、京幕府の重鎮を権威とし、その出生も五畿周辺とみられる。持長が小笠原氏後継を主張する事自体に無理があり、当然幕府の裁許に敗れた。その後も強硬に出られたのも、畠山持国との縁戚関係があったためとみられる。しかし持国や幕府には、最早、諸国守護大名の内紛を統御する実力が失われていた。
遂に、文安3(1446)年3月、善光寺表の漆田原で小笠原両軍と激突となり、数に優る宗康が当初優勢であったが、この戦闘で宗康は重傷を負った。宗康は回復は無理とさとり、同月11日付けの書状を伊賀良の弟光康に送り、惣領職と所領の一切を子国松(正秀・政貞)に譲るべきであるが、幼少のため成人するまで光康に預けると伝えた。
持長は宗康を敗走させたといえ、家督の実権は光康に譲られているため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に安堵した。しかし、信濃国から持長の勢力が消え去ったわけではなく、以後も、持長と光康の二頭支配が続き、両派の対立は深刻の度合いは強めていった。
室町時代の外記局官人を勤めた中原康富の日記『康富記(やすとみき)』に、将軍義勝は、嘉吉3(1443)年6月19日、義教の弔意を伝えるために来日した朝鮮通信使と会見、その年7月21日に死去、在任わずか8ヶ月、享年10であった。赤痢による病死が有力視されている。後任の将軍には同母弟で8歳の義政が選出された。義勝・義政と幼少の将軍が2代続き、その間、朝廷や有力守護大名の幕政への関与が続き、将軍の権威が大きく揺らいだ。常に幕府権力を背景に復活した小笠原氏も低迷し、政康の死後、下剋上の風潮に晒され、伊那と府中に割れ同族相争う過程で、全信濃的勢力から局地的勢力へと転落した。
文安3(1446)年、善光寺表の漆田原合戦(現長野市後町;長野県庁の東隣)で持長は宗康を敗走させたが、家督相続争いは泥沼化した。宗康の子国松は光康に擁され伊那郡伊賀良を領有し、政貞・政秀と名乗り鈴岡に在住した。鈴岡城は竜丘駄科(だしな)地区の毛賀沢川と伊賀良川に挟まれた川岸段丘の突端部にあり、室町時代、松尾城の小笠原貞宗の2男宗政が築いた。標高490m、北は毛賀沢川の侵食による深さ約60mの谷を隔てて松尾城址と相対していた。光康はその松尾城を拠点とした。結果、前者が鈴岡小笠原、後者光康が松尾小笠原を称した。善光寺平で戦勝した持長は、筑摩郡林城を拠点とし、井河に館を構えた。ここに小笠原は3家に分流した
。
宝徳元(1449)年9月細川勝元が管領職を辞した。勝元は、名門意識と強大な権力を背負って、細川惣領家に永亨2年(1430)、持之の子として生まれた。幼名は聡明丸で13歳のとき父・持之の死で家督を相続し、わずか16歳で管領に任命された。以後、死ぬまでに勝元は、通算20年以上も管領の座にあった。
北信への進出拠点舟山郷も『諏訪御符礼之古書』から、漆田原合戦の3年後の宝徳元年には海野持幸が、その12年後の寛正2(1461)年には屋代信仲が、それぞれ御射山の頭役を割り当てられている事から、小笠原氏はその所領を失っている事が知られる。
http://rarememory.justhpbs.jp/ogasawara/oga.htm
2017年7月4日火曜日
陰陽師・赤沼内膳
富田漏祐
土豪・新領主つながり
会津の大名蘆名氏の重臣の内、松本・平田・佐瀬・富田の四氏は「四天の宿老」と称された。富田氏の祖は、古代の安積臣の後胤・直継の子孫など諸説があり、いずれも未詳。『伊東家譜』に、享禄三年秋に富田郷に拠った伊東大和守祐盛が「富田伊東氏」とし、藤原南家伊東氏に関連付け、富田氏代々の名乗りは工藤氏と同じく通字「祐」が用いられた。『旧事雑考』に、会津の古刹・耶麻郡磐梯山慧日寺(当時法相宗、現:恵日寺は真言宗豊山派)の寺侍と伝えられ、僧兵数千の慧日寺武力の一翼を担ったとされる。一族から、養和2(1182)年木曾義仲追討のため信濃国へ出陣した城長茂に加勢し、横田河原の戦いで戦死した乗丹坊がおり、城氏の一族という説もある。
とみた・のりすけ。生没年不詳。平安時代末期~鎌倉時代前期の会津の豪族。
富田氏の継嗣で、幼名は吉祥丸。慧日寺の僧兵が木曾義仲に敗れたため衰退し、会津地方は奥州平泉の藤原氏が支配した。富田氏は会津盆地中央の会津郡下荒井村(北会津村)と耶麻郡塚原村(喜多方市)に館を築き、慧日寺衰退後も一族郎党が多く、軍事力を保持した。
文治5(1189)年源頼朝の奥州征伐に従軍した城長茂が、阿津賀志山の柵(福島県伊達郡厚樫山)を攻めた際、城氏の越後勢に混じって参加し、勝利した。奥州を平定した頼朝は、平泉で戦功のあった三浦一党の佐原十郎義連に会津を、相模の豪族・山内通基に会津郡伊北郷を、下野国の小山氏一族・長沼宗政に南会津一帯の長江庄を、長沼一族・河原田氏に伊南郷を与えた。会津国人領主は入植した山内氏や長沼氏と対立した。佐原義連・盛連父子は代官をおいて衝突を避け、鎌倉から追従した陰陽師・赤沼内膳を神職とし、占いと調伏は効き目があると噂を流し、佐原氏自らも参詣したため土民や地侍らの尊崇を集め、土豪の蜂起を鎮めたという。以来、会津黒川に寺が建立され、10年間で約23箇所に及んだとされる。
承久の乱鎮定後の貞応元(1222)年3月、会津小田山城主となった盛連の子・蘆名光盛は弟・加納盛時と共に慧日寺に花見に出かけ、富田漏祐と出会い宿坊でもてなされた。光盛は自分への仕官を勧めたが、漏祐は固辞し、代わりに11歳の一子・千松を出仕させると約束した。千松は5月5日光盛の側小姓として出仕し。千松の元服に、重臣・平田益範を烏帽子親とし、「範」の字をもらい、範祐を名乗った。
https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/nrbbkbeebfmjaaa1a1a4da4ja4aca4ja47a4ja4ha4j/1/8492
角館
角館の歴史
1 戸沢氏による統治 14、5世紀頃岩手県雫石地方の豪族であった戸沢氏が仙岩峠を越えて仙北郡に進出し、領内の宝仙台(旧田沢湖町)や戸沢(旧西木村)の金山による財力に助けられ、天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めに、奥州から最初に参陣し、その功で本領を安堵されたが、そのときの領地は仙北郡のほとんどと平鹿郡の一部であったと考えられている。 その後、慶長5年(1600) 家康の会津上杉景勝攻めに参陣したことから、徳川方に地歩を築き、慶長7年に常陸松岡へ、その後山形県新庄市へ転封されたが、大名として明治維新を迎えている。 2 芦名氏による統治 戸沢氏の常陸松岡への転封により、水戸の佐竹氏が秋田一円の領主となった。 佐竹氏は清和源氏義光の流れで、義光の孫・源昌義に始まる。義光は「後三年の役」に際して、左兵衛尉の官職を投げ打って奥州へ赴き、兄の義家を助けた。役後、その功績が認められ、常陸介や甲斐守などの官職を得て、陸奥国や常陸国に領地を賜り、常陸国では佐竹郷を領有した。 義光には数人の男子があったが、義業が佐竹郷を領有し下向してきたという。そして、常陸国に勢力を有していた平繁幹の娘を妻に迎え、常陸平氏と同盟を結ぶことで常陸に勢力を拡大する基礎を固めた。 秋田への転封当時の佐竹氏当主は義宣で、彼は角館城を、自分の弟で会津の芦名氏の養子になっていた芦名盛重(のちの義勝)に統治させた。 芦名氏は、桓武平家の流れをくむ名家で、文治5年(1189)藤原泰衡追討の功により会津を領した。 関東以北の屈指の豪族で、公称百八十万石の大名であったが、盛重16歳の天正17年(1589)、伊達政宗との摺上原合戦に敗れ、会津を去った。 その後、兄義宣を頼って水戸に落ち、江戸崎に居を構え、秀吉の小田原攻めに参陣して功をあげ、竜ヶ崎城48000石を得たが、、兄の秋田転封により自身も所領を取り上げられ秋田に移り、慶長8年、角館を知行地として与えられて1万5000石で角館城に入り、この際、義勝と改名した。 芦名氏の角館城は、100名ほどの武士で構成されており、うち38名は、会津以来の譜代であって、中心的存在であり、30名は江戸崎以来の譜代で、さらに10名ほどが佐竹氏から佐竹衆として加わっていた。 居住地は、戸沢氏の残した古城山の北麓一帯で、武士に加えて、会津・江戸崎時代からの商人も住み着き、密集状態となった。 そこで、元和6年(1620)、前年に起こった洪水の被害をきっかけに、この地を捨て、古城山野真南に新たな町づくりを始めた。 町づくりは、古城山の南麓に芦名氏の館を設け、これを中心に、南北に3本の道路を通し、中央の道路をメインとし、350mで、マス形地形とし、更に同じ長さの道路を延ばす、そこまでが武士の居住区で、ここより南に商人、さらに東、南の端に寺を建てるという設計であった。 武士の居住区と商人居住区との分離帯は幅21mの広場に土塁と掘り割りを設けて「火除け」と呼び、この地域と、隣接する商人町の横町のみが町の東から西へ直線で通ずるようになっているほかは、南北、東西共に、直線でつながることのないようになっている。 中央の道路は幅11mで、家老以下の上級武士が居住し、東側にはこれに準ずる武士、西側には、徒士や足軽の居住地域に区分されていて、階級や知行高によって敷地居住にも規模に差異があった。 住居は原則として平屋で、茅葺きであった。 現在までおよそ380年余を経過したが、基本的な道路配置、屋敷区分は変わっていない。 佐竹支配下の城下には、別系統で直臣武士団を配置するのが通例で、角館にも今宮摂津守が配置され、居住地域は田町に設けられた。375mの道路の両側に屋敷地が設けられたが、この地域にマス形地形は設けられなかった。 3 北家による統治 義宣の跡を継ぐべき盛泰が22歳で没し、その子盛俊も21歳で没し、その3年後、その子千鶴丸も3歳で不慮の死を遂げ、芦名氏が断絶したたことから、明暦2年(1656)北家佐竹義隣が芦名邸に入り、所領として角館地方を領した。 北家は、常陸(茨城県)佐竹氏16代義治の3男義信が分流して、宗家太田城(常陸太田市)の北に居を構えたので、北家と称された。北家は、その後一時断絶の時期があったが、明治の廃藩に至るまで角館を支配した。 (基幹産業・手工業) 角館の幕藩時代の基幹産業は農業であった。久保田藩(秋田藩)は新田開発を奨励し、角館でも芦名氏、北家を通して新田開発が続けられ、新田村8か村を成立させている。 角館の手工業を代表するものは、白岩焼きと樺細工である。 白岩焼きは明和8年(1771)、角館の武士小高蔵人らの招請を受けた相馬焼の陶工松本運七が白岩に築窯して始めたもので、主にカメ、スズ、すり鉢等の日用品を生産したが、極めて質の高いことから、武士の求めに応じて茶器等も生産した。しかし、明治に至り、経済情勢の変化に対応できず、衰退した。 樺細工は、天明年中(1781~88)北家家臣藤村彦六が角館に広めたもので、主に北家の下級武士の手内職として発達した。 桜の樹皮を、その色や光沢を利用して細工するもので、印籠やたばこ入れ等を生産した。北家の援助もあって次第に盛況となり、明治にはいると棒禄を失った士族の中には樺細工を専業化して職人になるものが多かった。 白岩焼き、樺細工とも、当時、凶作や藩財政の窮迫による俸禄米の借り上げが恒常化していたため、困窮していた武士の生活を、大いに支えたものと思われる。 (久保田藩の財政窮乏状況) 久保田藩の財政は早くも寛文末~延宝年間(1670年代)以降窮乏し、正徳・享保年間(1711~1735)には財政窮乏は決定的になり、農民への年貢の強化、家臣に対する知行借り上げ、富裕商人への御用金の賦課などが頻繁に出された。 宝暦6年(1756)には角館で飢人300人に達し、さらに天明4年には東北一帯が大飢饉に襲われ、これを機会に角館では白岩焼きが発展し、樺細工が始まった。 (京文化の影響・教育・秋田蘭画) 角館は久保田藩の文教の地として称揚された。 北家初代の佐竹義隣は京都の公家の出自であり、2代義明の室も三条西家の娘であり、文化の面でも大きな影響を受けた。北家の代々の当主は芸文を好む者が多かった。家臣や組下武士にも学問や芸術に優れた人材を出している。 久保田(秋田市)に藩校が設置された4年後の寛政5年(1793)に、角館にその分校として弘道書院が開設されている。私塾は、これより先に数個ができており、武士の子弟の学問熱が高まっていた。 安永3年(1774)我が国初の近代的医学書「解体新書」が刊行されたが、その挿絵を描いたのは角館の武士小田野直武で、彼は安永年間藩の招きで来藩していた平賀源内に西洋画を学び、のち江戸に出府して本格的に西洋画を学び、日本画に西洋画を取り入れた独自の画法を確立し、彼の画業は秋田蘭画と呼ばれ、日本における西洋画の魁となった。 (戊辰戦争) 慶応4年(1868)朝廷は奥羽諸藩に会津藩及び庄内藩の追討を命じた。奥羽25藩は奥羽列藩同盟を結成して追討の中止を奥羽鎮撫総督に嘆願したが、却下され、久保田藩は同盟を離脱して、追討の兵を挙げた。このため、久保田藩は奥羽諸藩を敵に回して戦うことになったが、肥前鍋島藩、大村藩、平戸藩、小倉藩などの援軍を得て、1か月の激戦の後、同盟軍の撤退で終結した。 翌明治2年藩主佐竹義堯(よしたか)は藩籍奉還を許され、久保田県知事に任命された。 (参考文献:仙北市教育委員会編「図録角館の武家屋敷」(平成19年4月発行):角館町教育委員会編「角館の武家屋敷 河原田家」(平成10年発行))
http://ito-sokyu.art.coocan.jp/19kaku.htm
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2017年5月24日水曜日
三戸
教科書的には鎌倉幕府の滅亡以降は南北朝時代となるが、厳密に二つの朝廷が同時出現する時期は幕府滅亡から2年後の建武2年(1335)8月15日に光明天皇が即位してからとなるので、その間は「建武混乱期」と命名した。
1333 5月25日、後醍醐天皇は光厳(こうごん)天皇を廃して年号を元弘に戻した(建武親政開始)
1333 5月、師行、三戸より上洛 奥羽南北朝史 484
1333 5月 六波羅陥落
1333 6月、後醍醐天皇京都に帰還。6月5日、尊氏を鎮守府将軍に。23日護良親王を征夷大将軍に。北条領没収。七月、尊氏が外浜や糠部に地頭職を得、ただちに一族の尾張弾正左衛門尉を外浜へ派遣。8月5日、顕家が陸奥守になる。
1333 7月 新田義貞上洛か 政長は奥州へ帰り、義貞には時長・師行が従ったのではないか
1333 8月5日顕家を陸奥守、尊氏を武蔵守 東国の南北朝動乱 24
1333 冬。大光寺の曽我氏惣領曽我道性が名越時如、安達高景を奉じて、大光寺楯で挙兵。
陸奥国府は、庶子系光高、安藤五郎太郎高季、尾張弾正左衛門尉、田舎郡の工藤中務右衛門尉貞行などに、大光寺楯を攻めさせた。(12月~翌年1月) 安東一族 92 まだ顕家派と尊氏派この時点では協力している
1333 11月 顕家、義良親王を奉じて奥州に下向
1333 12月、師行、糠部郡奉行兼検断として下向か 奥羽南北朝史 484 師行は、得宗地頭代として三戸などに若干の所領を持っていたが、この時は工藤氏に代わって郡の中心である根城に入ったと思われる。ただし、根城の大々的な改築は行っておらず、工藤氏が使っていた施設を流用する形だったと思われる。
1333 時長、師行、政長が武行を訴える 青森県史 19
建武元 1334 1月、大光寺楯落城。曽我光高は所領安堵を願い出たが認められず。 安東一族 93
師行、外ヶ浜明師、湊孫二郎祐季を揺さぶる。湊は青森。
安東入道は、宗季らしい。 安東一族 97
1334 阿曽沼朝兼、信長を恃む。 南部史要 八戸系図にもでてくる
元弘4 1334 久慈郡が闕所になったのを二階堂行珍に与える文書あり
1333 5月、師行、三戸より上洛 奥羽南北朝史 484
1333 5月 六波羅陥落
1333 6月、後醍醐天皇京都に帰還。6月5日、尊氏を鎮守府将軍に。23日護良親王を征夷大将軍に。北条領没収。七月、尊氏が外浜や糠部に地頭職を得、ただちに一族の尾張弾正左衛門尉を外浜へ派遣。8月5日、顕家が陸奥守になる。
1333 7月 新田義貞上洛か 政長は奥州へ帰り、義貞には時長・師行が従ったのではないか
1333 8月5日顕家を陸奥守、尊氏を武蔵守 東国の南北朝動乱 24
1333 冬。大光寺の曽我氏惣領曽我道性が名越時如、安達高景を奉じて、大光寺楯で挙兵。
陸奥国府は、庶子系光高、安藤五郎太郎高季、尾張弾正左衛門尉、田舎郡の工藤中務右衛門尉貞行などに、大光寺楯を攻めさせた。(12月~翌年1月) 安東一族 92 まだ顕家派と尊氏派この時点では協力している
1333 11月 顕家、義良親王を奉じて奥州に下向
1333 12月、師行、糠部郡奉行兼検断として下向か 奥羽南北朝史 484 師行は、得宗地頭代として三戸などに若干の所領を持っていたが、この時は工藤氏に代わって郡の中心である根城に入ったと思われる。ただし、根城の大々的な改築は行っておらず、工藤氏が使っていた施設を流用する形だったと思われる。
1333 時長、師行、政長が武行を訴える 青森県史 19
建武元 1334 1月、大光寺楯落城。曽我光高は所領安堵を願い出たが認められず。 安東一族 93
師行、外ヶ浜明師、湊孫二郎祐季を揺さぶる。湊は青森。
安東入道は、宗季らしい。 安東一族 97
1334 阿曽沼朝兼、信長を恃む。 南部史要 八戸系図にもでてくる
元弘4 1334 久慈郡が闕所になったのを二階堂行珍に与える文書あり
もとは北条氏の所領だったと推定 奥羽南北朝史 91 一戸氏系の在地勢力がいたのかもしれない
1334 2月、師行、三戸早稲田の土地を毘沙門堂に個人名で寄進 奥羽南北朝史 53 師行と顕家の接点は何だったのか?
4月
一戸 工藤四郎左衛門入道跡
同子息左衛門次郎跡 八戸上尻打
八戸 工藤三郎兵衛尉跡
三戸 横溝新五郎入道跡
又二郎は信長、又次郎が師行? 奥羽南北朝史 96 又二郎が信長、又次郎が師行だとすると、信長はこれにより糠部に分散的な所領を得ることができたのか
四戸、五戸、六戸の給主は不明。 三戸南部氏の当初の所領は六戸と三戸に散らばって存在し、義政、政盛の菩提寺の高雲寺が百石にあったことから根拠は六戸ではないか?(四天王の小笠原安芸系と争った赤沼氏も十和田と三戸に分散して領地があった)
馬淵川沿いの三戸よりも奥入瀬川沿いの方が平地も広く、開発しやすく住みやすい気がする。
櫛引八幡が最初は十和田にあったことから六戸西側は小笠原長清の系、東側は南部氏が治めたのではないだろうか。
四戸は小笠原長清の系統の櫛引氏が入っていたか?
島守氏の祖が早くから入部していたという伝承がある
蕪島には工藤氏がいたか?工藤氏と櫛引氏は仲良し?工藤秀信が浅水を攻めたのも櫛引と手を組んでのことか?
1335 3月10日、工藤貞行に外ヶ浜の野尻郷、鼻和郡目谷郷が与えられ、師行とその一族に、内摩部郷、泉田、湖方、中沢、東津軽郡の真板、中目郷、中津軽郡の左比内が与えられた。
内摩部郷は、もと安東宗季の本拠地のひとつ。湖方は後潟。 安東一族
1334 2月、師行、三戸早稲田の土地を毘沙門堂に個人名で寄進 奥羽南北朝史 53 師行と顕家の接点は何だったのか?
4月
一戸 工藤四郎左衛門入道跡
同子息左衛門次郎跡 八戸上尻打
八戸 工藤三郎兵衛尉跡
三戸 横溝新五郎入道跡
又二郎は信長、又次郎が師行? 奥羽南北朝史 96 又二郎が信長、又次郎が師行だとすると、信長はこれにより糠部に分散的な所領を得ることができたのか
四戸、五戸、六戸の給主は不明。 三戸南部氏の当初の所領は六戸と三戸に散らばって存在し、義政、政盛の菩提寺の高雲寺が百石にあったことから根拠は六戸ではないか?(四天王の小笠原安芸系と争った赤沼氏も十和田と三戸に分散して領地があった)
馬淵川沿いの三戸よりも奥入瀬川沿いの方が平地も広く、開発しやすく住みやすい気がする。
櫛引八幡が最初は十和田にあったことから六戸西側は小笠原長清の系、東側は南部氏が治めたのではないだろうか。
四戸は小笠原長清の系統の櫛引氏が入っていたか?
島守氏の祖が早くから入部していたという伝承がある
蕪島には工藤氏がいたか?工藤氏と櫛引氏は仲良し?工藤秀信が浅水を攻めたのも櫛引と手を組んでのことか?
1335 3月10日、工藤貞行に外ヶ浜の野尻郷、鼻和郡目谷郷が与えられ、師行とその一族に、内摩部郷、泉田、湖方、中沢、東津軽郡の真板、中目郷、中津軽郡の左比内が与えられた。
内摩部郷は、もと安東宗季の本拠地のひとつ。湖方は後潟。 安東一族
北の環日本海世界 101
191
建武2 1335 7月25日鎌倉落城(中先代の乱)(挙兵は7月14日)
1335 8月15日 光明天皇即位、二朝並立となる
1335 信長の弟信行、顕家に従い戦功あり。 南部史要 14
1335 8月19日・征東大将軍足利尊氏が北条時行を破って鎌倉を奪回 (中先代の乱の終結)
1335 8月30日尊氏、斯波家長を奥州総大将に抜擢 中世奥羽の世界 105
1335 10月15日・足利尊氏が帰京命令に従わず、鎌倉に留まる
1335 11月26日・朝廷が足利高氏・直義の官位を剥奪
1335 信長の兄甲斐守義重、新田義貞に従う。 南部史要 14
建武2 1335 12月顕家、第一次西上
1336 3月 顕家が鎮守府大将軍になり再度下向 中世奥羽の世界 104
延元元 1336 4月 武者所詰番事 一番 南部甲斐守時長 建武記 山梨県史
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建武2 1335 7月25日鎌倉落城(中先代の乱)(挙兵は7月14日)
1335 8月15日 光明天皇即位、二朝並立となる
1335 信長の弟信行、顕家に従い戦功あり。 南部史要 14
1335 8月19日・征東大将軍足利尊氏が北条時行を破って鎌倉を奪回 (中先代の乱の終結)
1335 8月30日尊氏、斯波家長を奥州総大将に抜擢 中世奥羽の世界 105
1335 10月15日・足利尊氏が帰京命令に従わず、鎌倉に留まる
1335 11月26日・朝廷が足利高氏・直義の官位を剥奪
1335 信長の兄甲斐守義重、新田義貞に従う。 南部史要 14
建武2 1335 12月顕家、第一次西上
1336 3月 顕家が鎮守府大将軍になり再度下向 中世奥羽の世界 104
延元元 1336 4月 武者所詰番事 一番 南部甲斐守時長 建武記 山梨県史
68 近江国太平護国寺(滋賀県米原市)に幽閉されていた光厳天皇は、五月二十五日、伯耆の後醍醐からの詔書で退位し、それとともに正慶という元号も廃され、すべては後醍醐が光厳に譲位した一年九ヶ月前に引き戻された。 17日?
69 後醍醐は六月四日京都に舞い戻ったが、復位したわけではなく、単に帰京しただけだということを強調した。そしてここに、四十六歳の後醍醐の、世に言う建武の新政が始まったのである。 "『増鏡』P.485では六月六日に東寺から内裏に入った
『公卿補任』では、4日に入洛し東寺、5日に内裏。関白停職は17日となっている
『保暦間記』P.57では、4日に東寺、5日に内裏"
69 後醍醐は六月四日京都に舞い戻ったが、復位したわけではなく、単に帰京しただけだということを強調した。そしてここに、四十六歳の後醍醐の、世に言う建武の新政が始まったのである。 "『増鏡』P.485では六月六日に東寺から内裏に入った
『公卿補任』では、4日に入洛し東寺、5日に内裏。関白停職は17日となっている
『保暦間記』P.57では、4日に東寺、5日に内裏"
http://rekishi.tokyo/nenpyou.html
赤松満祐
ここに赤松惣領家は断絶し領国は山名一族に与えられた。嘉吉の乱【鳥居 和之】
[伝承と作品化]
赤松満祐の将軍足利義教弑逆事件は,その後もながく語り伝えられ,これを素材とする文芸作品も二,三にとどまらないが,なかでもとくに名高いのは1705年(宝永2)初演とみられる近松門左衛門作の浄瑠璃《雪女五枚羽子板(ゆきおんなごまいはごいた)》で,いちはやく近松の時代物の三傑作の一つに数えられている。作中,満祐は〈赤沼入道〉,満祐の子教康は〈赤沼判官〉と名づけられており,ひたすらに極悪非道の父子として描かれている。…
https://kotobank.jp/word/%E5%98%89%E5%90%89%E3%81%AE%E4%B9%B1-43468
嘉吉の乱
嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である。主に嘉吉の変(かきつのへん)と呼ばれることが多い。
赤松氏の隆盛[編集]
赤松氏は播磨の地頭であったが、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)は後醍醐天皇の檄に応じて挙兵し、鎌倉幕府打倒に大きく尽力し、その功績により守護に任じられた。しかし、恩賞への不満から南北朝時代の争乱では初代将軍足利尊氏に与して室町幕府創業の功臣となり、播磨の他に備前、美作を領し、幕府の四職の1つとなっていた家柄である。
応永34年(1427年)に満祐が家督を相続した時、元将軍足利義持は播磨を取り上げて寵臣である赤松持貞(満祐の又従兄弟でもあった)に与えようとし、満祐が京の屋敷を焼いて領国に引き上げる事件が起こった。義持は激怒して満祐を討とうとするが、幕府の重臣達はこれに反対した。そのうち、持貞は将軍側室との密通が露見したとして処刑されてしまい、満祐は赦免され3ヶ国の守護職を相続している。
義持の死後に弟の義教が6代将軍となると、満祐は侍所頭人に就任し、義教と満祐の関係は比較的良好であった。
万人恐怖[編集]
義持は応永35年(1428年)に後継者を定めないまま死去した(嫡男の5代将軍義量は早世していた)。宿老による合議の結果、出家していた義持の4人の弟達の中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。籤引きの結果、天台座主の義円が還俗して義宣と称し(後に義教と改名)、6代将軍に就任した。この経緯から義教は世に「籤引き将軍」と呼ばれる。
義教は将軍の権力強化をねらって、斯波氏、畠山氏、山名氏、京極氏、富樫氏の家督相続に強引に介入し、意中の者を家督に据えさせた。永享11年(1439年)の永享の乱では、長年対立していた鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。比叡山延暦寺とも対立し、最終的にこれを屈服させたものの、僧侶達が根本中堂を焼き払って自殺する騒ぎとなった。
足利将軍の中では父の3代将軍足利義満に比肩しうる権力を振るった義教だが、猜疑心にかられて過度に独裁的になり、粛清の刃は武家だけでなく公家にも容赦なく向けられた。当時の公家の日記には、些細なことで罰せられ所領を没収された多くの者達の名が書き連ねられている。中には遠島にされたり、殺された者もいた。伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』は義教の政治を「万人恐怖」と書き記している。
満祐の隠居[編集]
この頃、幕府の最長老格となっていた赤松満祐は義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437年)には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れている。義教は赤松氏の庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、永享12年(1440年)3月に摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。
嘉吉元年(1441年)4月、持氏の遺児の春王丸と安王丸を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝の結城城が陥落(結城合戦)した。捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首される。これより先の3月、出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた義教の弟の大覚寺義昭も島津忠国に殺害されており、義教の当面の敵はみな消えたことになった。
乱の経過[編集]
将軍暗殺[編集]
6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ義教を招いた。『嘉吉記』などによると、「鴨の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい」[1]と招いたという。
この宴に相伴した大名は管領細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちであった。他に公家の正親町三条実雅(正親町三条公治の父、義教の正室正親町三条尹子の兄)らも随行している。
一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたった。癇性な義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた正親町三条実雅は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えた。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまった。
酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名達の多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑う[2]。山名熙貴は抵抗するがその場で斬り殺された。細川持春は片腕を斬り落とされ、京極高数と大内持世も瀕死の重傷を負い、後日死去した。公家の正親町三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化した。赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名は退出した。
貞成親王の『看聞日記』は「赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来例を聞いたことがない」と書き残している。
暗殺後の対応[編集]
管領細川持之を始め諸大名達は、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまった。彼らは赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は必ず同心する大名がいるに違いないと考え、形勢を見極めていた。実際には、義教暗殺は赤松氏による単独犯行であった。満祐ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想して屋敷で潔く自害するつもりでいた。ところが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、邸に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去した。これを妨害する大名は誰もいなかった。
突然独裁者である義教を失った幕府は、管領の細川持之の指導力が欠如していたことから機能停止に陥ってしまった。翌25日、ようやく持之は評定を開き、義教の嫡子千也茶丸(足利義勝)を次期将軍とすることを決定した。26日に義勝を政所執事伊勢貞国の屋敷から室町殿へ移している。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されなかった。これら幕府の対応の混乱は、義教の将軍親政策の結果という見方もできる。強力な指導力を持つ将軍がいたため、緊急時に管領以下の幕臣が指導力を発揮する機会が無かったということである。実際、赤松満祐を幕政から退ければ、将軍親政はほぼ確立したはずであった。
将軍が殺された時に管領でありながら戦いもせず、真っ先に逃げ出そうとした持之の臆病ぶりは嘲笑され、持之が満祐と結託しているという噂まで流れたが、実際こうした幕府の対応の遅さに、赤松氏に有利に事態を収拾しようとした持之の明確な意図を読み取る見方もある[3]。
赤松氏討伐[編集]
その後細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津から、山名持豊ら山名一族が但馬、伯耆から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定した。大手軍は7月11日に発向したが、事実上の総大将であった侍所頭人山名持豊はなかなか京を動かなかった。その間に持豊配下の兵士が「陣立」と称して洛中の土倉・質屋を襲撃して財物を強奪した。これには管領細川持之も怒り、数日たってようやく持豊が陳謝するという事件が起こっている。
細川持常、赤松貞村らの大手軍は摂津国西宮まで進出。25日に赤松教康は幕府軍に夜襲をしかけるが、同士討ちが起きて退却している(庫御所合戦)。大手軍は戦意が低く、但馬口の山名持豊が動かないため進軍を止めてしまった。
持豊は7月28日にようやく京を発し、但馬へ向かった。
8月1日、持之は赤松討伐のための治罰綸旨を奏請し、後花園天皇はこれを認め、三条実雅を介して公人奉行である飯尾為種に手渡された(『建内記』)。公家の中には満祐に同情する者や、赤松氏は朝敵ではなく武家の私闘であるとして反対する議論もあったとされる。また、村上源氏の久我清通がこれを機に足利義満の時代に奪われた源氏長者の地位を取り戻すべく活動をしていたが、幕府は何の対策を打ち出せなかった(11月2日に清通は源氏長者に補任される(『公卿補任』)。
8月19日、摂津の大手軍が動き、細川持常、赤松貞村は陸路から、細川持親(細川成春の父)は海路から塩屋(神戸市)の教康の陣を攻撃した。教康は陣を放棄して蟹坂へ後退し、大手軍はようやく播磨へ入った。24日、教康は逆襲に出て両軍は激しく戦う。25日、大雨の中を幕府軍は蟹坂の陣へ攻撃を行った。教康は奮戦したが、但馬口が突破されたとの報(虚報であった)を受け、戦意を失って坂本城へ退却した(人丸塚の戦い)。
8月中旬、山名持豊は4500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防があった。28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍した。30日、両軍は田原口で決戦を行い、義雅は善戦するが力尽き敗走した。
9月1日、持豊の軍勢は坂本城へ到り、持常の大手軍と合流して包囲した。守護所の坂本城は要害の地とは言えず、3日になって満祐は城を棄てて城山城(兵庫県たつの市)へ移る。赤松一族は城山城へ籠城するが、山名一族の大軍に包囲された。9日、義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまった。10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹した。
戦後[編集]
守護大名の復権[編集]
山名持豊は満祐を討ち果たしたことによって播磨守護職を与えられ、備前守護は山名教之、美作守護は山名教清が任ぜられた。また摂津の中島郡と播磨の明石・加東・美嚢三郡は御料所となり、中島郡は細川持賢、播磨三郡は赤松満政が分郡守護となった。しかし持豊は軍功として播磨一国支配を要求し、文安元年(1444年)1月に満政は失脚して三郡も持豊の支配下となった。満政はこれを不服として播磨で挙兵したが、文安2年(1445年)に殺害された。足利義満時代の明徳の乱で敗れて低下した山名氏の勢力は大きく拡大し、細川氏と力を競うようになる。
将軍家はこの一連の出来事で権威を大きく失墜させ、代わりに守護大名の合議制が復活した。8月、討伐軍が西国へ出征している隙を突いて嘉吉の土一揆が発生、要求を認めて徳政令を発布したこともその一環といえる。また、持之は6月25日の評定で義教に処罰された人々の赦免を決定したが、義教に更迭された畠山持国が上洛し、逆に義教に当主とされた持国の弟持永が逃亡して殺され、持之の管領辞任後に持国が管領に就任した。持国は自分と同じく義教に処罰された人々の復権を図り、反発した細川氏と対立、大名家のお家騒動を引き起こしていった。
赤松氏のその後[編集]
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