2020年3月12日木曜日

源頼朝


浅草区亀岡町(往時は新町と云ふ)に住む弾直樹と云ふ人なん、往昔より穢多の君主と仰がれたる弾左衛門の後裔なりける。抑も弾家の祖先は鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼(弾左衛門を単名と思ふは誤りにて弾は氏、名は左衛門その姓は藤原なりとぞいふなる)にてその先は秦より帰化し世々秦を以て氏とせり。
抑も我国に於て秦の帰化人と称するものは始皇の子扶蘇の後なり。史を按ずるに秦皇の崩壊扶蘇逃れてかい貊に入り居ること五世にして韓に遷りしが、其の裔弓月君なるもの応神天皇の十四年を以て百二十七県の民を率ぬ、金銀玉帛を齎らして帰化し、大和国朝津沼腋上地を賜ひ、其民を諸郡に分置して養蚕織絹の事に従はしめしに、献る処の絹帛柔軟にしてよく肌膚にかなふを以て天皇特に波多君の姓を賜へりと。
是れ秦の字に「はだ」の訓を付したる所以也。其後この族より秦左衛門尉武虎といふもの出て武勇を以て平正盛に事へたりしが、適ま正盛の女の姿色艶麗いと藹丈けてたをやかなるに掛想し筆に想ひを匂はしてほのめかしけれども、翠帳のうち春なほ浅くて高嶺の花のえも折られず、いよいよ想ひ余りて寧ろ奪ひ去りてもと謀りけることの端なく漏れて正盛の怒りに触れ、日頃股肱としも頼む武虎にかかる不義の振舞あらんとは奇怪なり、いで物見せんとて討手を差向けたるよし。
武虎逸早くも聞きて夜に紛れて跡を暗まし関東は源氏の根拠なれば、屈竟の隠れ処なりとて鎌倉さして落ち延びぬ。此れより武虎は鎌倉長吏(穢多の古称)の頭領と成りて秦氏を弾氏と改め、自ら韜晦しけるとなん。其後治承年間頼朝兵を関東に拳るに及びて、弾左衛門尉頼兼事に預りて功あり左の御朱印を下されける。
「朝野新聞」の記事によれば、「平家」に睨まれて京から鎌倉へ逃れた秦氏は、源頼朝の石橋山の挙兵の時、功を挙げたことにより、「御朱印」を賜ったという。秦氏は、一体何を功したのか。
源義経には謎が多くあったと述べたが、源頼朝にも多くの謎がある。その謎のひとつが、源頼朝の氏である「清和源氏」の謎がある。藤原日本史によれば、源頼朝の祖は、源頼朝←義朝←為義←義親←義家←頼義←頼信←源賜姓満仲←経基王←清和天皇であると言う。しかし、別の系図では、「清和源氏」とは、「陽成源氏」である、と云う。
陽成天皇は、清和天皇と藤原基経の娘高子との間に生まれた子だ。では、何故、「陽成源氏」を「清和源氏」としたのか。その謎解きのヒントは、876年(貞観18年)藤原基経は、9歳の貞明親王を即位させ、陽成天皇としたことにある。
その陽成天皇は、883年(元慶7年)嵯峨源氏の従五位下源朝臣蔭の息子益が殿上に侍っている時、いきなり格殺(打ち殺す)していたのだ。陽成天皇は、お脳の病気で、狂躁性の性格であった。そのため、翌年884年(元慶8年)陽成天皇は退位させられ、陽成院と称された。何故、嵯峨源氏が、清和源氏棟梁源頼朝の祖とする陽成天皇に殺されたのか。それは、陽成天皇だけではなく、その父清和天皇を幼年で即位させた、藤原氏の、嵯峨源氏抹殺計画の流れがあったからだ。
武家を、一般的には、「平家」「源氏」「平氏」と分けているようだが、「源氏」にも、その構成民族により多種ある。例えば、「嵯峨源氏」と「清和源氏」とでは、その構成民族が異なる。嵯峨源氏は、反藤原氏の嵯峨天皇の皇子が賜姓されたものだ。それに対して、「清和源氏」(陽成源氏)は、藤原氏の私兵のような存在だ。
嵯峨天皇は、奈良時代に藤原仲麻呂に反旗を翻した橘奈良麻呂の孫娘清友の子嘉智子を娶った。そして、その側室を反藤原氏の地方豪族の娘とした。だから、嵯峨天皇から賜姓された嵯峨源氏は、その流れからすると、反藤原氏なのだ。
その嵯峨源氏の抹殺を、藤原氏が謀っていた。しかし、藤原氏は、自らの手を汚さない戦術を使い、奈良時代から敵民族を抹殺してきた。その戦術とは、敵の氏族の上が老死するのをずっと待つのだ。そして、その子孫を廟堂高位の座に任用しないことで、抹殺していく。その戦術を使えるのは、奈良時代に藤原不比等が仕掛けた律令制度にある。廟堂への最終任命権は天皇にあっても、その実権は蔭位制により奈良時代以降藤原氏が握っているからだ。
更に、藤原氏得意の「夷を以って、夷を制す。」の密告戦術がある。藤原氏の放った密偵により、相手の動静を事前に察知し、ふとした言葉尻を基に致仕に追い込み、自殺させるか、逆賊の汚名を着せて「法」による裁きの名の基に「死罪、流罪、左遷」とし、社会的に抹殺するのだ。その例は、反藤原氏の長屋王と橘奈良麻呂の抹殺に見られる。
藤原氏の敵が、民衆に紛れる平安朝になると、藤原氏が奈良時代に発明した中臣神道の「ケガレ思想」により、宗教的に、敵民族を抹殺にかかった。その藤原氏からの宗教的攻撃の「ケガレ」思想に対しての反撃が、「キヨメ」思想だった。
平安時代の「キヨメ」は、宗教的な儀式だった。しかし、清和源氏頼朝・頼家・実朝の三代が、桓武平氏の北条氏に抹殺された鎌倉時代になると、「キヨメ」は、「汚い物」を処理する行為となってしまう。何故、そのようになってしまったのか。それは、鎌倉時代に、嵯峨源氏(秦氏)が、清和源氏(藤原氏)に抹殺されたからだ。
嵯峨太上天皇が崩御すると、藤原良房は、幼年の皇太子を立てて、清和天皇として即位させ、国家権威と権力の頂点に立つと、反藤原氏の嵯峨源氏の皇子たちの追い落としにかかった。
866年(貞観8年)藤原良房は、応天門の変により、古墳時代からの大豪族大伴氏と佐伯氏と、そして、嵯峨源氏信を、密告戦術により抹殺した。このことにより、平安京では、藤原氏に軍事的に対抗できる豪族が一掃された。そのため、藤原氏の書いた宣命文や詔勅文は、「現御神」である天皇の「御名御璽」のハンコを押した途端に、その恐るべき権威と権力とが発生した。このことにより、奈良時代に天武天皇の皇子達が平城京を追われたように、嵯峨源氏の元皇子達は平安京を追われていった。
延喜19年(919年)大納言嵯峨源氏昇の没後、藤原氏により、嵯峨源氏は廟堂首脳、大納言以上の地位から追い落とされていく。
そして、平安京の都を追われた嵯峨源氏達は、それぞれの母方の地へ落ち延びていった。嵯峨天皇の多くの側室は、反藤原氏の民族末裔であった。その嵯峨天皇の皇子のひとり、源綱は、母方の生地の河内「ワタナベ」に居を構えた。その地は、古墳時代に、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏による秦王国があった地だ。そして、その地に、渡辺党を興した。その渡辺津は、平安時代末期の源平合戦の時、チュルク系騎馬民族の源義経が、平家の屋島砦を急撃するための前線基地となった処だ。
渡辺党が興って程なくして、その渡辺の地に隣接する摂津多田の地に、何処からともなく武装軍団が現れた。その頃、伊勢にも海洋民族軍団が上陸していた。それらの軍団の渡来元は何処か。
藤原日本史では、日本列島は四海に囲まれているため、中国大陸から孤立していた、とする。その証拠として、遣隋使・遣唐使は海難に遭いながらも、中国から高度文化を輸入していた、と述べる。しかし、記録上にある遣唐使は、奈良時代から平安初期までに15回ほどだが、遣新羅使は、935年統一新羅が滅ぶまで、毎年のように派遣されていたのだ。
676年新羅が朝鮮半島を統一すると、統一新羅の商人は、同族が古来から暮らす大阪難波津を出先拠点として、日本列島と唐帝国との中継交易を行っていたのだ。だから、日本国の遣唐使船が航海中に原因不明の遭難が起こった時、統一新羅の商船が、日本国の遣唐使を送迎していたのだ。それも、一度や二度ではない。その遣唐使も、894年菅原道真の奏上により中止となった。その理由として、菅原道真は、統一新羅の商人から唐帝国の腐敗した政情を聞き及んでいたからだ。
その菅原道真は、藤原時平の陰謀により、大宰府に左遷され、そこで没した。何故、菅原道真は、藤原氏により抹殺されたのか。それは、嵯峨源氏を格殺した陽成天皇と、次の光孝天皇が、あまりにも、天皇としてその存在が疑われたことにある。
887年(仁和3年)藤原良房の養子藤原基経が、関白となった。関白とは、「関わり白(もう)す。」からきたもので、天皇に替わって政治をおこなう職だ。これ以降、豊臣秀吉を除いて、1869年(慶応3年)まで、関白は藤原氏が独占していた。
関白藤原基経は、近親結婚のため血の流れが悪い光孝天皇の人格を疑い、887年光孝天皇を退位させ、藤原氏と血縁関係のない、宇多天皇を即位させた。その藤原基経が、891年(寛平3年)死去した。藤原氏の重圧から解放された宇多天皇は、廟堂から藤原氏の影響力を排除するため、反藤原氏の勢力を集めた。そのひとりに、菅原道真がいた。
宇多天皇は、藤原基経が没して2ヵ月後に、菅原道真を蔵人頭に抜擢した。そして、廟堂の構成を、左大臣嵯峨源氏融、右大臣藤原良世、大納言宇多源氏能有、中納言嵯峨源氏光、藤原諸葛、参議藤原時平、同嵯峨源氏直、同藤原国紀、同藤原保則とした。平均年齢60歳で、藤原基経の長男藤原時平だけが、32歳だった。
宇多天皇は、藤原氏の勢力を抑えるために、後に、菅原道真を参議とし、891年藤原基経没後から、929年までの39年間、太政大臣、摂政、関白を任命しなかった。それは、藤原氏の横暴を抑えるためだった。
寛平3年(891年)として、「類聚三代格」に、「最近、京に住んでいる庶民や王臣の子ども等、婚姻に名を借り、農商をするとか称して外国(畿外の国)に移住、そのすること土民と同じである。既にずる賢い輩は村里に横行、村役人に対抗して細民をおびやかす。」、とある。この描写は、平安時代の律令制度が緩んだため、多くの王臣の子等が、地方に下り、そこに土着し、高貴なるがため権力を握って荘園を開拓して土豪化し、私財の蓄積に狂奔した様だ。
その時代背景として、平安王朝を軍事支配していた唐帝国進駐軍が、本国が内乱状態のため、その日本列島の統治力が衰えたからだ。唐帝国では、722年から傭兵制度により軍団を組織していた。そのため、唐帝国の軍団は、国への忠誠心ではなく、給与の支払いに左右されていたのだ。
その唐帝国の弱体化を見越して、藤原氏は権勢を伸ばし、その権勢に比例して私財が増加していた。そして、天皇家の流れを汲む「源氏」「平氏」の亜流は、京の都にいてもうだつが上がらないため、そして、将来に望みが少ないその子や孫は、新たな新天地を求め地方の国司となり、蓄財の道を選んだ。平安時代末期に関東に勢力を張った、源頼朝を庇護した桓武平氏の北条氏などもその流れにあった。この頃では、「平家」は歴史的に存在していない。
その結果、唐帝国進駐軍の統治能力がなくなった平安時代中期には、日本列島の大荘園の持ち主は、天皇家、藤原氏、そして、僧兵を擁した大社寺であった。
藤原氏の土地私有は、奈良時代の藤原不比等の時代では近江国12郡94郷であったものが、平安時代の藤原良房の時代には美濃国18郡37郷となり、全国郷数の12分の1の337郷となっていた。
宇多天皇は、そのような藤原氏の私財蓄積に歯止めを掛けるため、菅原道真を中納言へ、そして、従三位とした。その菅原道真は、娘淑子を宇多天皇に女御として差し出した。これに対して、藤原時平は黙ってみていただけではない。
もし、菅原道真の娘が親王を生んだとしたら、外戚権は菅原氏のものだ。しかし、宇多天皇は、寛平9年(897年)皇太子敦仁親王に譲位して、法皇となってしまった。その裏には、中納言菅原道真の影があった。菅原道真には、何かの策があったようだ。それは、敦仁親王を「策を立てて皇太子となす。年9歳」、とあるからだ。
その敦仁親王は、醍醐天皇として即位した。その醍醐とは、古墳時代の明日香ヤマトでは、騎馬民族が好んで食べる「チーズ」のことだ。なぜ、「チーズ」(醍醐)天皇なのか。その謎は、醍醐天皇の母胤子にあるようだ。藤原日本史では、胤子は藤原高藤の娘としているようだが、実際は、藤原高藤が若い時、秦氏末裔が多く住む南山科へ狩りに行った時、雨宿りした時に泊まった郡司の娘の子であった。醍醐天皇の血には、秦氏の血が流れていたようだ。
しかし、醍醐天皇が即位して、899年藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣となると宇多法皇の後ろ盾を失った菅原道真は、統一新羅商人との関係など疑われ、延喜元年(901年)「右大臣菅原朝臣を大宰権師に任じ、道真の子息等それぞれ左降された。」、とあるように菅原道真一族は全て、都から追放された。
何故、一族が追放されたのか。その謎は、菅原氏の祖にある。菅原氏の祖は、土師氏だった。土師氏とは、古墳時代に古墳に祀る埴輪を作る技術集団だった。「続日本紀」には、天応元年として、「土師の先祖は、天穂日命より出ず、専ら凶像の仕事をしていたが、今はその意義もなくなったので、現在住んでいる地名にちなんで菅原と姓を改めたいと願い出て許可された。」、とある。菅原氏の祖は、古墳時代からの氏族だったのだ。
奈良時代直前に渡来した藤原氏にとって、古墳時代に居住していた氏族は、歴史的抹殺の対象だ。それは、それらの氏族末裔を生かしていたら、藤原氏のトリック「現御神」「中臣神道」「伊勢神宮」「女神アマテラスオオミカミ」など、「日本書記」での物語りが、古代からのものではなく、奈良時代に藤原不比等により発明されたものだと暴かれてしまうからだ。
藤原氏にとって、菅原氏一族を抹殺しても、安堵できなかった。それは、宇多天皇が残した勢力が現存していたからだ。それが、醍醐源氏高明だ。
939年から941年にかけて、中国大陸から渡来した傭兵軍団などと結託した、瀬戸内海の海賊藤原純友や、関東の土豪平将門が、その地に新王国樹立を画策して暴動を起こしていた。それらを鎮圧したのが、蝦夷末裔の武人だった。その武人は、功績を認められ、禁足地の神社(モリ)で武芸により怨霊を鎮めていた武芸者の「もののふ」から「武士」として公に認められた。それらの武士は、嵯峨源氏や醍醐源氏高明の下に集結した。が、しかし、まだ、清和源氏(陽成源氏)は、存在しない。清和源氏が歴史上に現れるのは、961年経基王が、清和源氏(陽成源氏)を賜姓されてからだ。
村上天皇の時代、天暦8年(954年)の廟堂は、大納言醍醐源氏高明、以下、源雅信、源重信、源時中と醍醐源氏が就任した。特に、醍醐源氏高明は、康保3年(966年)右大臣、康保4年(967年)左大臣に昇叙された。左大臣となった醍醐源氏高明は、娘を為平親王の妻とした。もし、為平親王が天皇となったとしたら、「外戚権」は醍醐源氏になる。
ここに不思議な「源氏」が現れる。清和源氏を祖とする、源満仲だ。系図だと、清和天皇→経基親王→源満仲(多田新発意)、となるが、生まれは、「父」とする経基親王よりも「子」とする満仲が、藤原日本史での「兄」天智天皇より「弟」天武天皇が4歳も年上と同じように、2年も前なのだ。この不自然さを、藤原日本史では満仲は、経基王の養子になったと説明している。更に、満仲の出自が不明だ。満仲は、突然どこから渡来してきたのか。
清和源氏とする源満仲なる者は、藤原氏に取り入りながら、反藤原氏の橘繁延や、北家の亜流の亜流藤原千晴らと、醍醐源氏高明を奉じて東国に下り、挙兵して藤原氏に対抗することを計画したが、仲間割れして、この秘策が漏れることを恐れ、右大臣藤原師尹に密告した。
安和2年(969年)右大臣藤原師尹は、この源満仲の密告を名目に、醍醐源氏高明を太宰員外師として左遷した。ここで再び、菅原道真を左遷した密告戦術が使われたのだ。この密告の功績により、清和源氏満仲は、969年叙位し、藤原氏の配下となった。
これ以降から鎌倉時代になると、嵯峨源氏、醍醐源氏は歴史上から消え、清和源氏が「源氏棟梁」となるのは、何故だ。
鎌倉時代、嵯峨源氏、醍醐源氏の末裔は、どこに消えたのか。その謎解きのヒントは、清和源氏義家が、「八幡」太郎と名乗ったり、清和源氏義光が、「新羅」三郎と名乗ったりしていることだ。それらの「八幡」や「新羅」は、反藤原氏の秦氏(嵯峨源氏)と大いに関係があるものだ。
何故、反藤原氏の秦氏に関係のある「八幡」(「ハチマン」ではなく「ヤ・ハタ・大秦」)や「新羅」(「シラギ」ではなく「シンラ・秦国」)を、藤原氏の傭兵である「清和源氏」(陽成源氏)が名乗るのか。そこに鎌倉時代の謎がある。
清和源氏とする源満仲は、突然、歴史上に現れ、藤原氏の傭兵となった。では、満仲は、どこから渡来してきたのか。考えられるのは、東アジアのようだ。

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