2020年3月12日木曜日

惟宗氏

何故、北条鎌倉幕府はインド僧が多く居る禅宗を保護したのか。
1568年、1560年イエズス会の軍事支援を受けた尾張のゲリラ隊長「藤原信長」は、織田信長として足利義昭を将軍に押し立てて京都に進軍した。そして、織田信長は、「余部」に対して「禁制」の文書を下した。このことにより、「余部」は、織田信長の支配下となった。
「余部」(アマベ)とは、「海部」のことで、海洋民族末裔の賎民のことだ。藤原信長と名乗っていた時代の織田信長の三代先信定の墓が垣内(カイト)にあったように、織田信長の先祖は、アラブ系海洋民族末裔の「平家」だった。垣内とは、別所、散所、湯浅などの地名と同じに、平安時代の百済王権(京都)・藤原王権(奈良)にまつろわぬ民族を押し込めた、神社(モリ)と同じに「結界地」だった。
1534年パリでイエズス会が創立された。イエズス会は、右手に「聖書」、左手に「武器」を持つ、戦闘的教団だった。
イエズス会は、1494年ローマ・キリスト教皇が、ポルトガルとイスパニア王国に与えたトルデシリャス条約で、日本列島はイスパニア王国の支配地として認められたことにより、イスパニアの軍団と供に、1549年藤原氏が隠棲する鹿児島に上陸した。
イスパニア軍団の手先となったイエズス会は、日本列島を支配するために、尾張のゲリラ隊長藤原信長に接近した。それは、藤原信長が、反仏教派だったからだ。藤原信長の祖は、日本列島を実行支配する仏教組織により、賎民に落とされていたからだ。
イエズス会は、藤原信長に最新式の武器・銃と傭兵軍を与え、仏教軍団の壊滅を計画した。それは、戦国時代の支配者は、天皇でもなければ、貴族でも武士でもなく、寺社であったからだ。その寺社勢力を壊滅しなければ、ローマ教皇から認められた支配地・日本列島は、イスパニア王国により支配することが出来ないからだ。
戦国時代の寺社内では、鉄砲製造、弓矢製作、石垣普請、築城などの建築技術など軍需産業を営んでいた。何故、そのような高度技術者が、仏を祀る寺社内に存在したのか。その謎を知るには、古墳時代から奈良時代に遡らなければならない。
巨大古墳を築造するには、鉄器製造技術、石切技術、物資運搬のための運河掘削技術などが必要だ。その技術は、4世紀の日本列島に持ち込まれていた。その古代エジプトで発生した技術は、藤原日本史では紀氏により、朝鮮半島を経由して持ち込まれていた。
6世紀半ば、日本列島の国際交易所のある奈良盆地に、北陸から突厥軍団が進駐し、高句麗・百済・古代新羅のコロニーを支配下に置いた。高句麗、百済は、4世紀から仏教国であったが、古代新羅は、ギリシャ・ローマ文化国だった。
突厥は、騎馬民族で、中国で変質した漢訳仏教を避けた。それは、北魏を興した太武帝も、騎馬民族の拓跋部で、騎馬民族の文化を蔑視する漢訳仏教を弾圧し、北極星(太一)を祀る道教を保護していた。明日香ヤマトを支配した突厥軍団は、高句麗、百済を避け、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅の軍団を支配下に置き、突厥は明日香に、古代新羅軍団の花郎騎士団はイカルガに砦を築き、近畿一帯を支配した。
日本列島は、ユーラシア大陸と中国大陸を結ぶ回廊として、東北から九州まで、道幅12m以上の直線道路が敷設され、各地に駅が設置され、物流の動脈となっていた。「駅」とは、馬偏でもわかるように、馬の中継地のことだ。騎馬民族とは、広域交易民族でもある、商業民族でもあった。
日本列島各地に馬により交易物資が行き来するため、各民族の言葉の文法が、騎馬民族の言葉・ウラル語文法として普及していった。しかし、文法は統一できても、60余カ国に分かれていた各地での民族言葉の統一は、明治革命後までされなかった。
645年唐進駐軍が、明日香ヤマトを攻めた。それは、ユーラシア大陸での、東ローマ帝国との絹馬交易権をめぐって抗争していた東突厥を、唐帝国軍団が、630年散逸させていたからだ。日本列島を支配していた突厥も、その余波を受けて散逸させられた。
672年近畿の山奥に撤退していた突厥と花郎騎士団残党軍に支援された大海人は、近江の亡命百済王朝を倒すと、道教の儀式により天武天皇として即位し、都をわざわざ突厥進駐軍の砦があった地、明日香に定めた。
しかし、686年日本初の天武天皇が崩御すると、684年唐帝国の政権を奪っていた皇后武氏は、再び日本列島支配のため、一人の男を送り込んだ。その名は、藤原不比等。694年藤原京遷都。710年平城京遷都と巨大古墳群を破壊して北上する要塞都市は、山背国を死守する突厥・花郎騎士団残党軍を壊滅するための砦だ。
701年唐帝国は、日本列島を支配するために、大宝律令を発した。それまでの明日香ヤマトは、騎馬民族文化色が強い、部族連合国家だった。各部族長が、血縁・地縁で集まった「部」を統制していた。しかし、大宝律令により、明日香ヤマトの先住民達は、法律と罰とにより、唐帝国皇帝に隷属する身分となってしまった。
この律令制にまつろわぬ先住民族から、唐帝国の法律に従わない「アウトロー」の発生となる。古代には、現在のような「国民国家」などなかった。古代の国家とは、皇帝の制定した法律の及ぶ範囲を国家と言っていた。だから、奈良時代の公務員である仏教僧侶の唱える「鎮護国家」の「国家」とは、「国民国家」などではなく、「天皇」を意味していた。つまり、天皇を鎮護するのが、奈良仏教であったのだ。
奈良王朝にまつろわぬアウトローは、山背国に集結していた。山背国は、中国への玄関である難波と、ユーラシア大陸への玄関である大津との交易路として栄えた国だ。その地は、藤原日本史では秦氏とする民族の支配地だった。
その山背国も、難波宮、長岡京と唐傀儡の奈良王朝の侵攻により、794年亡命百済貴族末裔の桓武天皇により占領されてしまった。平安京の内裏は、秦氏の古墳を破壊した跡に建設された。それは、平城京が、巨大古墳群を破壊した跡に建設されたことと同じに、古墳時代の歴史、古代新羅からの文化と騎馬民族突厥の文化を抹殺する行為であった。
奈良時代には、東北との物資交易のための高速道路であった北陸道、東山道、東海道が、平安時代になると、秦氏の祭祀場であった比叡山に砦を築いた桓武天皇は、北陸道には愛発関、東山道には不破関、そして、東海道には鈴鹿関を設けて、東北との交易を遮断してしまった。
このことにより、西国にいたアウトローは、桓武天皇の百済王朝に対抗する武力が削がれてしまった。アウトローは、その構成員は、古代エジプトの高度土木建築技術とヒッタイト帝国での産鉄技術を保持していた者が多くいた。そして、突厥の騎馬民族の文化も保持していた。騎馬民族は、その歴史から定着し農耕する民族ではなく、夏営地と冬営地を遊行する交易民族であった。
西国に押し込められたアウトローは、桓武王朝の権力が及ばない山地を遊行して生活を営んでいた。しかし、唐帝国での需要が多い銀を日本列島で産出するため、日本列島の山地には、錬金術師達の集団が、金剛杖の武器を携帯して暗躍した。その集団のひとつが、空海の錬金術師軍団だ。
空海は、藤原氏の援助により、1年で仏籍を得て、20年の勉学を義務付けられた学僧として渡唐したのにもかかわらず、わずか旅程を含めても2年たらずで帰朝して、中央構造線上にある高野山に砦を築いていた。それは、水銀鉱脈探索のためだ。
錬金術空海は、アウトローが暮らす山奥に入り込み、水銀鉱脈を探索し、その地を支配するために、秦氏の祭祀場に稲荷社(夷なりのモリ。モリとは古代朝鮮語で、神が降臨する聖地の意味。)を築き、水銀を表す漢字「丹」を木で築き「トリイ」とし、禁足の結界地として王権の介入を阻止していた。
そして、錬金術師軍団は、屈服したアウトローを「聖」として寺奴隷とした。アウトローには、産鉄民族が多くいたので、山奥でタタラ製鉄をおこなっていたため、「火を治める」者として、「聖」(ひじり)と呼ばれていた、有髪の寺奴隷のことだ。
平安時代に発明された、天台宗も真言宗も、奈良仏教の公務員として国(天皇)から経済援助を得られない、私企業であったので、自らの手で収益を得なければならなかった。そのために、天台宗は高利貸しを、真言宗は水銀薬の販売を収益の主としていた。
日本列島史の史料の多くは、寺社史料から復元されているので、寺社に不利な史料は隠蔽・改竄していることが多い。特に、寺経済については、そうだ。
奈良時代の寺院は、鎮護国家道場の国家(天皇)の安全祈願の場で、寺僧は奈良朝廷に奉仕する役人で、国家機構の一部だ。それは、唐帝国を乗っ取って皇后武氏から、則天武后と変身したのは、アルビノ(白色)動物を吉祥として仏教ネットワークを活用して、皇后武氏を女帝にする宣伝技術が成功を収めていた経緯があったからだ。
唐帝国の皇后武氏の指示を受けた藤原不比等は、騎馬民族に支えられていた天武天皇が崩御すると、そのアルビノ動物戦術を、日本列島でもおこなうため、明日香ヤマトにあった太陽を祀り、太陽の化身牡牛を屠るミトラ教の景教寺や、北極星(太一)を祀る道教の観を破壊した跡に、北九州にあった仏寺を移築し、オンリエント文化の明日香ヤマトを、仏教文化の飛鳥大和と改竄した。
そして、藤原不比等は、ミトラ教や道教の歴史を抹殺するために、それらの宗教施設を破壊した跡に、藤原氏の神を祀る中臣神道の宗教施設を創建した。それが、春日若宮だ。春日若宮は、古代からのものではなく、アマテラスオオミカミと同じに、奈良時代に発明されたものだ。
その古墳時代の日本列島史の隠蔽のためには、ミトラ教と道教を祀る民族を歴史上抹殺する必要が、藤原氏にはあった。そのための宗教的武器が、ケガレ思想だ。奈良時代の「ケガレ」とは、藤原王権に逆らうアウトローに対しての思想武器であった。
しかし、亡命百済王朝の平安時代になると、桓武天皇は、秦氏の歴史上の抹殺を謀った。それは、秦氏とは、古代新羅から渡来した民族を祖としているからだ。新羅は、桓武天皇の母国百済を滅ぼした憎き国だ。
日本列島の地図に、百済や高句麗(高麗)の文字が多く認められるが、新羅の文字はそれほど多くはない。何故か。それは、藤原日本史は、新羅抹殺の物語であるからだ。だからと言って、新羅末裔が抹殺されたわけではない。新羅は、白木、磯城、志木、志茂、白鳥など、変名して存続していたのだ。新羅から渡来の秦氏は、百済王朝からの圧力をかわす為に、秦氏から惟宗氏に変氏していた。

平安時代、桓武天皇は、藤原氏の奈良王朝を封印するために、奈良仏教の末寺はもとより僧侶の平安京への移住を禁止した。そして、788年比叡山に延暦寺を創建し、藤原氏の中臣神道に対抗するために、中国山東半島の土着神シャンワンを導入して「山王神」とした。そして、騎馬民族を蔑視する漢訳仏教の「法華経」を、延暦寺の思想武器とした。
「法華経」には、仏敵は皮膚病(ハンセン氏病)となると明記してある。平安京を支配した百済王朝は、アウトローが暮らす部落にハンセン氏病者の世話をさせた。これは、感染魔術だ。感染魔術とは、接触した者は感染するとする思想技術だ。このことにより、アウトローの暮らす地は、反政権の「ケガレ」から、観念的嫌悪の「ケガレ」と変換していった。
しかし、桓武天皇は、その王権簒奪において多くのひとを謀殺していた。そのため、桓武天皇は、怨霊に苦しめられていた。古代では、怨霊は、同族の者でなくては鎮静させることができないと信じられていた。ここにアウトローが、公に再登場する場面が設定された。それが、「ケガレ」に対する「キヨメ」だ。平安時代の「キヨメ」は、怨霊を鎮めるための技術だ。
平安京の内裏は、秦氏の古墳を破壊した跡に建てられた。そして、多くの古墳は、奈良時代から平安時代にかけて破壊されていた。その「キヨメ」を担ったのは、京の治安を護る令外官である検非違使の配下であった。816年反藤原氏の嵯峨天皇は、京の治安のために検非違使を設置した。その検非違使は、警察実行部隊として、蝦夷の捕虜を組織した。それは、蝦夷の祖は、古墳時代の近畿一帯を支配していた民族であったからだ。
平安京の治安は、目に見える盗賊などの他に、目に見えない怨霊からの攻撃を交わすことも要求されていた。古代では、疱瘡やはしかなどの感染症は、祟りだと信じられていた。その祟り神を鎮めるには、芸が必要だ。芸とは、今日の庶民を楽しませる芸事ではなく、神が降臨する「庭」で、神を楽しませる技術だ。それらは、踊り、歌、まぐわいなどである。
陸奥国を支配していた蝦夷は、元々は、明日香ヤマトでの武人であった。唐進駐軍により、愛発関、不破関、鈴鹿関により東国に押し込められた花郎騎士団と突厥軍団の末裔だ。その検非違使の配下となった蝦夷は、怨霊を鎮める芸の為に、祭祀道具を発明した。
それが、蝦夷の武器である蕨手刀を改良した、反りのある長刀だ。後に「日本刀」と呼ばれる。そして、牛・鹿の角を飾った冑に、派手な鎧だ。しかし、蝦夷は、捕虜の身であるので、実戦用の武器を製作できない。刀は、薄刃で曲がる・折れる。しかし、刃が薄いので、風を切るときの音が妖艶だ。鎧冑は、鉄製ではなく、総革製だ。
そのような祭祀道具で武装した「もののふ」は、禁足地である神社(モリ)で、怨霊の魂鎮めのために、剣舞をおこなった。これが、「武芸」だ。「武芸」とは、敵と戦う実戦技術ではなく、「もの=カミ」の僕(ふ)である者が行う、怨霊の魂鎮めのための技術だ。
この「もののふ」を含めたアウトロー達に、転機がおとずれた。それは、奈良時代から平安時代にかけて、日本列島を律令制度で隷属していた唐帝国が、907年滅びたからだ。
この転機に最初に動いたのが藤原氏だ。唐帝国のエージェントであった藤原氏は、律令制度を利用して私腹を肥やしていた。それは、701年唐帝国の律令を基本に作成された大宝律令を改竄して、718年養老律令として、藤原氏のための律令、藤原不比等が太政官と同権を持つ神祇官を設定し、北極星の天帝により地上の支配権を任された天皇を、ユダヤ教の神ヤハヴェのように、現御神の絶対神としたからだ。この養老律令は、明治革命まで施行された。そして、藤原氏と供に、再び、藤原氏が支配する神祇官が明治革命で復活する。
その藤原氏の支配する天皇に権威を与えるのが、仏教組織だ。その仏教組織も、唐帝国が崩壊したことにより、支配地の拡大に動いた。漢訳仏教寺院は、治外法権を利用して、その経済活動を護るために武装軍団を要していた。西国での仏教勢力は、奈良の興福寺と京都の延暦寺とで二分していた。
907年唐帝国が崩壊すると、960年漢民族の宋が興るまで、中国大陸は内乱状態となっていた。日本列島は、藤原日本史が述べるように、海に囲まれているために孤立しているのではなく、海に囲まれているために世界情勢に強く影響されていた。
中国大陸の混乱の影響を受けた日本列島も、王権から寺社が分離し、多くの寺社が武力を持ち治外法権をもって独立し、王権に従わなくなった。貴族も同様に、天皇や院に対する公然たる批判を、日記に記していた。
武力を持った寺社は、要求を満たすために神仏の威を背景に、僧兵が朝廷に押しかけ、王権を威圧する強訴を行っていた。その強訴を行う寺社に、百済王朝(桓武天皇家の平安王朝)により、結界地である河原や神社(モリ)に押し込められていたアウトローが集結し始めた。つまり、中世の寺社では、日本仏教史では黙殺しているが、学僧と賎民とが対等の立場により共生していたのだ。それは、河原の賎民には、学僧にない、経済力があったからだ。
寺社は、他の寺社との武力闘争に勝利するために、その出自を問わず武器を製造できる者や戦闘に優れた者により、僧兵軍団を組織した。このことにより、古代の寺院と異なる構成が、中世の寺院に現れた。それは、学侶、堂衆、聖、神人などの身分による構成だ。
学侶とは、世俗の貴族、武士、富裕民の出自で、寺内でも特権を主張する。堂衆は、雑役を勤める下級僧侶で、武士より下の身分を出自とした。聖は、定住地を持たないアウトローで、寺に定住せずに全国を遊行し、寺院の信仰と権威を背負って、寄付を募ったり、参詣の勧請をしていた。その聖の実状は、山伏と同じだ。
武士は、939年から941年までに起こった天慶の乱で、瀬戸内海の海賊藤原純友と関東の平将門の乱を鎮めた実績により、蝦夷武人を祖とする武芸を行っていた「もののふ」が、公にその騎馬による武力を認められ「武士」と呼ばれたことによる。「武士」は「もののふ」であるが、「サムライ」は「もののふ」ではなく、武装はしているが貴人に侍る秘書が役目だ。
アウトローを取り込んだ寺社は、京都で強訴を繰り返した。摂政関白制度で天皇のロボット化を謀っていた藤原氏に対抗して、1086年白河上皇は、院政を始めた。この院政により、藤原氏のロボットである天皇の権限が、白河上皇に移った。白河上皇は、藤原氏の横暴を阻止する行動をおこなうが、藤原氏は私兵として、出自不詳の満仲なる人物を雇って対抗した。これが、藤原日本史で云うところの「清和源氏」の祖だ。
更に、白河上皇を悩ます存在が、神輿を担ぎ強訴するアウトローを構成員とする僧兵だ。そこで、白河上皇は、加茂川東側のドクロガ原を武力で支配する海洋民族武装団を、私兵として雇った。その白河上皇の私兵を、「桓武平氏」に対抗して、「平家」と呼んだ。白河上皇は、「夷を以って、夷を制す」の戦術により、アウトローの僧兵軍団の強訴を阻止するために、アウトローの海洋民族軍団「平家」を利用した。
平安時代のアウトローとは、奈良時代に藤原不比等が発明した養老律令に従わない者だ。養老律令では、人民は租庸調の税を収めなければならない。そして、太政官と同等の権限のある神祇官が「神」の権威の下に政治に介入する仕掛けを、718年藤原不比等は養老律令に盛り込んでいた。その「神」とは、「現御神」の天皇だ。
百済系桓武天皇が、春日大社の神を支配する藤原氏から独立した平安時代初期、その「現御神」の桓武天皇を悩ましたのが怨霊だ。怨霊は疫病を撒き散らすと、平安貴族や庶民には信じられていた。それは、ほんの数十年前、巨大古墳群を破壊して築いた奈良の都での奇病の流行が、怨霊の存在を信じさせていたからだ。しかし、その奈良の都の奇病とは、遍照鬼(後に奈良の大仏様・大日如来となる。)の鋳造時での銅と水銀による鉱毒が原因であった。
平安時代になると、寺社で僧侶と共生するアウトロー達が、「現御神」の天皇や院を脅すための道具として、その怨霊を封じ込めた神輿を利用したのだ。平安時代の神輿は、「神」を祀るための祭祀道具などではなく、祟り神(前政権の神)を封じ込めた「脅しの道具」だった。だから、神輿には、開かれる窓や戸はない、羽目殺しの窓や戸だ。現在の、由緒正しい神輿も、羽目殺しの戸であるのは、そのためだ。
武士は、元々は「もののふ」で、武芸で怨霊の魂を鎮める(キヨメル)祭祀者であったので、神輿に対しては、表面上は無抵抗だ。サムライも、その祖は亡命百済貴族末裔なので、神輿に対しては恐れを感じていた。しかし、「平家」は、その神輿に矢を射掛けたり、打ち壊しを行っていた。更に、平清盛の子平重衡は、1180年東大寺に火を放って、遍照鬼(奈良の大仏様)を焼いてしまっていた。それは、「平家」は、根っからのアウトローだったからだ。アラブ系海洋民族を祖とする「平家」の末裔織田信長は、神仏の権威など無視して、高僧を火炙りで焼き殺したり、比叡山延暦寺の僧侶全員を打ち首にしたり、そして、高野聖の大虐殺など行っていた、言わば、アウトローの典型だ。
藤原日本史では、平安時代は王朝文化で、国風文化が生まれたとする。しかし、平安時代初期は、唐文化一色だった。しかし、唐帝国の国力が衰えるのと比例して、藤原氏の平安朝廷での権勢が増していた。それは、東アジアの警察国である唐帝国が、907年滅ぶと、中国大陸が小国家の乱立で混乱していたのと同じに、日本列島でも内乱状態になっていたからだ。
日本国の中世は、藤原日本史が述べるように武士の時代などではなく、アウトローが跋扈する大混乱の時代だった。そのアウトロー達は、自らの武装集団を「アク党」と呼ぶのは、「アク」とは、騎馬民族語では「勇者」の意味であるからだ。そのアク党は、寺社を砦として活躍していたのが、日本の中世だ。
そして、「悪僧」と自ら名乗る僧兵も現れるのも、鎌倉時代だ。悪僧の意味は、悪事を働く僧のことではなく、「アク=勇者」とする武闘派の「勇気ある僧」のことだ。
この鎌倉時代に派生した「アク」の意味を取り違うと、藤原日本史の「ワナ」に嵌ることになる。それは、藤原日本史では、日本列島には4世紀から大和朝廷が存在していて、古墳時代の6世紀から7世紀にかけて明日香ヤマトを支配した騎馬民族など、日本列島に存在していなかったとするからだ。
藤原日本史では、貴族文化の平安時代の次に、武家文化の鎌倉時代とする。その武家文化の特徴のひとつに、1232年制定の御成敗式目がある。では、御成敗式目が制定されたため、奈良時代に藤原不比等が制定した養老律令は破棄されたのか。
御成敗式目は、養老律令に従わない者達を取り締まるための法律だ。では、誰が、誰を取り締まったのか。それは、「武家」が、東国の「武士」を取り締まる法律が、御成敗式目だ。では、その「武家」とは何か。
「武士」は、平安時代末期に、古墳を破壊した跡の禁足地の「結界地」の「モリ・神社」で、前政権の怨霊の魂鎮めの「キヨメ」をおこなっていた、花郎騎士団や騎馬民族の突厥武人の蝦夷を祖とする「もののふ」の武芸者だ。では、「武士」ではない「武家」とは何か。それは、「サムライ」のことだ。鎌倉時代、その「サムライ」の頂点に、北条氏がいた。北条氏は、桓武平氏であることから分かるように、亡命百済貴族末裔だ。
つまり、御成敗式目とは、亡命百済貴族末裔の「サムライ」が、古代新羅から渡来した花郎騎士団末裔や騎馬民族の突厥武人末裔の「蝦夷」を祖とする、東国の「武士」を支配するための法律だった。
では、出自不明の「満仲」なる人物を祖とする「清和源氏」の源頼朝が拓いたとする鎌倉幕府は、京都の百済系桓武天皇家を支配下において、日本列島を支配していたのか。
藤原日本史では、歴史の流れを、平安時代から鎌倉時代とするから、日本列島の政権が、京都から関東の鎌倉に移っていたとの錯覚を起こすひともいるが、鎌倉幕府が支配したのは、東国だけだ。西国は、依然、奈良時代に藤原不比等が発明した養老律令が支配する地域だった。
その西国は、藤原氏が支配する奈良の興福寺、亡命百済貴族が支配する大津の比叡山延暦寺が、その宗教的呪縛により支配していたのだ。この宗教呪縛支配は、現在も続いている。
日本列島は、フォッサマグナにより、二分され、古来から異なる民族が暮らしていた。そのフォッサマグナから北側は、風土がユーラシア大陸と同じ草原地帯が多くある。草原地帯は、農耕民族より、遊牧騎馬民族が暮らすのに適した地だ。
6世紀、ユーラシア大陸から渡来した突厥民族が、東国の陸奥国を拠点としていたのは、東北の気候がユーラシア大陸と同じだからだ。当然、東国の文化は、騎馬民族色が濃い。それに対して、西国は、中国・朝鮮半島の影響を強く受けて漢訳仏教文化色が濃い。
ここにひとつの疑問が起こる。それは、鎌倉新仏教は、何故、西国ではなく、東国に興ったのか。そして、インド人の禅僧は、西国ではなく、北陸と鎌倉に渡来したのか、と言うことだ。
藤原日本史が解くように、鎌倉時代は「武家」の時代などではなく、西国の仏教文化と、東国の騎馬民族文化の二極時代だった。藤原日本史が語る鎌倉幕府の歴史に疑問が多くあるのは、源頼朝の肖像画が、室町時代の足利直義の肖像画で、鎌倉時代の「源頼朝のもの」ではないことからでも、分かる。鎌倉時代の幕府の史料が現存していないのも謎だ。

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