2020年3月12日木曜日

円覚寺

「平家」の権力を経済的に支えていた宋交易は、1126年宋が、遊牧騎馬民族の女真族の金帝国により滅ぼされたことにより、一時中断となった。しかし、南に逃れた漢民族は、翌年の1127年南宋を復興した。この南宋には、遊牧騎馬民族を恐れて、漢訳仏教や律宗、禅宗の僧達が逃れてきた。それは、漢訳仏教の経典には、肉食する騎馬民族を蔑視する思想が溢れているからだ。
南宋は、宋の海洋交易システムを継承していた。その南宋の海洋交易システムを、金帝国は狙っていた。南宋の商人も、日本列島の金や絹を求めて渡来した。1133年南宋船が来着すると、鳥羽上皇をバックに内昇殿を許された平忠盛は、院宣と称してその南宋船の貨物を奪い取ってしまった。
「平家」の横暴は、平忠盛の子平清盛にも引き継がれていた。1170年平清盛は、国際港として開発した福原の港で、後白河法皇に宋使を引見させていた。「平家」は、ビジネスのためには、法皇も利用するほどの傲慢さを示す存在となっていた。
この南宋貿易には、禅宗の僧が活躍していた。禅は、インドのヨーガとの関係が深いように、禅宗にはインドの肉食禁止のバラモン僧が多くいた。その禅宗は、唐で発明された。インドと唐とは南海交易で結ばれていたので、アラブ商人と供に、インド商人やヨーガの行者も多く唐に渡来していたからだ。
その禅宗は、禅を広めるためだけではなく、カフェインを多く含む茶を交易品として海外交易に力を入れていた。茶は多量に飲むと、カフェインのため覚醒作用を生じる。この喫茶の風習は、禅宗により、日本列島に持ち込まれた。但し、闘茶という産地当ての「博打」としてだ。博打は、役座の「しのぎ」として発明されたのではない。それは、神事として仏寺で、博打がおこなわれていた。だから、博打でのチップのことを「寺銭」(てらせん)というのは、そのためだ。
金帝国は、南宋を支配下に置くほどの軍事力がなかった。そのため、金帝国は、南宋からの金の歳貢を送られることで、平和を保っていた。しかし、1234年モンゴルの二代目オゴダイが金帝国を滅ぼすと、南宋の国内は混乱した。モンゴル軍は、圧倒的な軍事力を見せ付ける威圧により、戦わずして、隣国を支配下におさめていた。
南宋の李全などは、モンゴル軍に寝返っていたほど、日増しに、モンゴル軍の威圧により南宋の国内が混乱していった。海外交易をおこなっていた禅宗は、その亡命先を求めていた。
その頃、日本列島では、「清和源氏」三代が北条氏の陰謀により抹殺され、尼将軍となった「桓武平氏」の北条政子が、関東の武士を焚き付けて、1221年承久の乱を制して、西国に残存する反藤原氏の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」を抹殺するために六波羅探題を設置した。その六波羅探題による「源氏狩り」を避けるために、「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」の末裔は山奥に逃れ「平家落ち武者部落」で生き延び、或いは、騎馬民族文化が濃く残る東国を目指した。
その北条政子は、「平家」の厳島神社を接取して、「桓武平氏」の宮とした。このトリックにより、アラブ系海洋民族を祖とする「平家」は、「伊勢平氏」となって歴史的に消されてしまった。
「源氏」や「平氏」は天皇から賜った姓だ。だから、その氏を賜った天皇の名が記される。では、「平家」を「伊勢平氏」とするには、「伊勢天皇」が存在しなければならない。「伊勢平氏」が現れたとする鎌倉時代の歴史は、謎だらけなのだ。騎馬民族文化の濃い東国の史料が、桓武平氏の北条氏による史料や禅宗関連の史料以外に、ほとんどないのも、謎だ。
しかし、反仏教のアラブ系海洋民族の「平家」が、滅んだわけではない。「垣内」(かいと)の部落で賎民の「余部」として生き延び、戦国時代末期、その「平家」の子孫が、織田信長として登場するのだ。
そして、北条鎌倉幕府は、西国の律令制度に従わない東国の武士・百姓(鎌倉時代の百姓とは農耕民のことではない。)を治めるために、1232年御成敗式目を制定した。御成敗式目は、藤原不比等が発明した養老律令に従わない、騎馬民族文化の濃い東国の民を支配するための法律だ。東国の百姓文化が、西国と異なることが、御成敗式目の第42条から推測される。
純粋な農耕民族は、土地にしがみつく。それは、生きるための基盤が、土地にあるからだ。しかし、騎馬民族は違う。騎馬民族は、放牧のため、牧草を求めて、夏は北に、冬は南に移動する。土地に定着していては、騎馬民族は暮らせないのだ。その夏から冬にかけての移動時には、各地で交易をおこなう。云わば、騎馬民族は、遊行商業の民だ。
その東国の百姓の「逃亡した百姓の財産についての」御成敗式目の法律が、第42条だ。それによると、
「領内の百姓が逃亡したからと言って、その妻子をつかまえて家財をうばうことをしてはならない。未納の年貢があるときは、その不足分のみを払わせること。また、残った家族がどこに住むかは彼らの自由にまかせること。」
、とある。この御成敗式目の第42条の文章から、東国では、西国と異なり、百姓は東国を自由に移動していたことが推測される。
その東国では、養蚕が盛んだ。その東国で生産される絹は、南宋の商人が求めるものだ。
比叡山延暦寺は、仏教の顔と、国際交易商人の顔がある。延暦寺の僧は、南宋の禅宗の商人と交易をおこなっていた。それは、延暦寺の僧は、中国語に堪能だったからだ。九州には、南宋との交易のための支店まで設けていた。その南宋交易で得た宋銭を、高利で貴族に貸し付けることにより、日本列島中世での高利貸しの頂点に立った。
しかし、比叡山延暦寺の未開拓な市場があった。それが、東国だ。東国は、騎馬民族文化色が濃い。そのため、血の禁忌・肉食の禁止を説く漢訳仏教が受け入れられなかった。このことは、豚肉を常食する中国庶民に、漢訳仏教が受け入れられなかったことと共通する。
北条鎌倉幕府は、独立した機関ではなく、実態は、京都朝廷の東国支配の出先機関だ。それは、幕府の実質的運営は、京都の朝廷から派遣された中級貴族が執り行っていたからだ。そして、北条政子が1225年没すると、翌年には京都から藤原頼経を将軍として招いていたほどだ。
異民族の民を支配するには、武力よりも、思想武器のほうがよい。平安時代を支配した百済系桓武天皇家は、藤原氏が支配する南都仏教を廃して、唐から天台宗とシャンワン神(後の山王神)を招いて、西国の近畿一帯の先住民を思想的に支配した。しかし、東国では、律令制度の武器である仏教は受け入れられていなかった。
しかし、鎌倉時代でも、東国では天台宗の布教が成功していなかった。わずかに、亡命百済貴族末裔の「桓武平氏」の支配地だけだ。そこに、南宋の禅宗が、モンゴル帝国の攻撃を恐れて、鎌倉幕府に亡命を求めてきた。
これには布石があった。1199年父源頼朝の暗殺、1203年兄源頼家の幽閉による死が、北条氏の陰謀であることを知った源実朝は、鎌倉を脱出する目的で、1216年南宋の仏工陳和卿を引見し、渡宋を企て大船を建造させていたのだ。その3年後の1219年、源実朝は公暁により暗殺されたのも、その影には「桓武平氏」の北条氏がいたからだ。
民族差別思想を含んだ「法華経」を唯一の経典とする天台宗では、東国の民を思想支配できない。そこで目に付けたのが、経典を持たない禅宗だ。北条鎌倉幕府と比叡山延暦寺は、禅宗を日本列島に招いた。その地が、北陸と鎌倉と京都の洛外であったのは、意味があってのことだ。
北陸は、藤原日本史で創作した継体天皇の出身地だ。その北陸には、古墳時代には東北から延びる軍事・交易路としての東山道と同じに、北陸道が通る騎馬民族文化色が濃い地域だ。
6世紀半ば、この北陸に上陸した突厥騎馬軍団は、国際交易地のある奈良盆地の三輪山麓のツバキ市を目指して進軍した。その史実を隠すために、藤原日本史では、北陸出身の継体天皇を発明した。更に、その北陸が、騎馬民族の地であることは、薬草による創薬業が盛んであることで分かる。そして、外科手術に長けた藤内医者は、騎馬民族を祖とする。
鎌倉は、平安時代まで、地獄谷と言われていたように葬送地だった。葬送地は、京都の加茂川東岸と同じに、被征服者の住む地だ。
平安時代初期、桓武天皇の皇子や皇女は、経済的事情で臣籍降下させられ「桓武平氏」となった。その「桓武平氏」も次男や三男は、京では暮らしが立たないため、律令軍の未開拓の地である東国に活路を見出した。その「桓武平氏」の末裔が、千葉氏、上総氏、三浦氏、北条氏だ。その「桓武平氏」末裔が、騎馬民族文化色が濃い東国で支配したのは、常陸から千葉、鎌倉、伊豆にかけてだ。それ以外の地には、異民族の騎馬民族末裔が暮らしていた。
北条鎌倉幕府の地が、三面が山に囲まれ、人工的に掘削された曲がりくねった切通により護られていることには意味がある。それは、異民族である騎馬民族からの襲撃を撃退するためだ。その切通に沿って、砦のように円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺の禅寺があるのは、何故か。中国禅宗は、禅だけを修行するだけではなく、少林拳という武術も鍛錬していた。禅宗は、鎌倉の地を護るためには、最適だった。その鎌倉の禅寺では、中国語が日常語だった。鎌倉の町では、ちんぷんかんぷん(珍文漢文)の言葉が、禅僧により話されていた。

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