大伴宿禰家持 おおとものすくねやかもち
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生没年 718(養老2)?~785(延暦4)
系譜など 旅人の長男。母は不詳(丹比氏の郎女か)。同母弟に書持、同母妹に留女之女郎がいる。正妻は坂上大嬢。子に永主と女子の存在が知られる。
略伝 727(神亀4)年冬か翌年春頃、父旅人は大宰帥として筑紫へ下向し、家持もこれに同行したと思われる。730(天平2)年6月、父は重態に陥り、聖武天皇の命により大伴稲公と大伴古麻呂が遺言の聞き役として派遣されたが、間もなく旅人は平癒し、二人の駅使が帰京する際催された悲別の宴には、大伴百代らと共に「卿の男」家持も参席した(04/0567左注)。同年末、旅人は大納言を拝命して帰京の途に就き、家持も同じ頃平城京佐保の自宅に戻ったと思われる。父は翌年7月死去し、家持は14歳にして佐保大伴家を背負って立つこととなった。
732(天平4)年頃から坂上大嬢や笠女郎と相聞を交わす(巻四・八)。736(天平8)年9月には「大伴家持の秋の歌四首」(08/1566~1569)を作る。これが制作年の明らかな最初の歌である。
739(天平11)年頃、蔭位により正六位下に初叙されたと思われる。この年6月、亡妾を悲傷する歌があり(03/0462・0464~0474)、これ以前に側室を失ったらしい。同年8月、竹田庄に坂上郎女・大嬢母娘を訪ねる(08/1619)。間もなく大嬢を正妻に迎えた。
740(天平12)年までに内舎人に任じられ、同年10月末に奈良を出発した関東行幸に従駕。11月、伊勢・美濃両国の行宮で歌を詠む(06/1029、1032・1033、1035・1036)。11.14、鈴鹿郡赤坂頓宮では供奉者への叙位が行われており、おそらくこの時正六位上に昇叙されたか。同年末の恭仁京遷都に伴い、単身新京に移住する。
741(天平13)年4月、奈良にいる弟書持と霍公鳥(ほととぎす)の歌を贈答する(17/3909~13)。この年か翌742(天平14)年の10.17、橘奈良麻呂主催の宴に参席し、歌を詠む(08/1591)(注1)。743(天平15)年7.26、聖武天皇は紫香楽離宮への行幸に出発するが、家持は留守官橘諸兄らと共に恭仁京に留まり、8月には「秋の歌三首」(08/1597~1599)、「鹿鳴歌二首」(08/1602・1603)・恭仁京賛歌(06/1037)を詠んでいる。同年秋か冬、安積親王が左少弁藤原八束の家で催した宴に参席し、歌を詠む(06/1040)。この時も内舎人とあるが、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁に留まっていることから、当時は親王専属の内舎人になっていたかと推測される。
744(天平16)年1.11、安積親王の宮があった活道岡で市原王と宴し、歌を詠む(06/1043)。ところが同年閏1月の難波宮行幸の途上、主君と恃んだ安積親王は急死し、これを悼んで2月から3月にかけ、悲痛な挽歌を作る(03/0475~0480)。この時も内舎人とある。この後、平城旧京に帰宅を命じられたらしく、4月初めには奈良の旧宅で歌を詠んでいる(17/3916~3921)。
745(天平17)年1.7、正六位上より従五位下に昇叙される。746(天平18)年1月、元正上皇の御在所での肆宴に参席し、応詔歌を作る(17/3926)。同年3.10、宮内少輔に任じられるが、わずか3か月後の6.21には越中守に遷任され、7月、越中へ向け旅立つ。8.7、国守館で宴が催され、掾大伴池主・大目秦忌寸八千嶋らが参席。同年9月、弟書持の死を知り、哀傷歌を詠む(17/3957~3959)。この年以降、天平宝字2年1月の巻末歌に至るまで、万葉集は家持の歌日記の体裁をとる。
747(天平19)年2月から3月にかけて病臥し、これをきっかけとして大伴池主とさかんに歌を贈答するようになる。病が癒えると「二上山の賦」(17/3985~3987)、「布勢水海に遊覧の賦」(17/3991・3992)、「立山の賦」(17/4000~4002)など意欲的な長歌を制作する。5月頃、税帳使として入京するが、この間に池主は越前掾に遷任され、久米広縄が新任の掾として来越した。
748(天平20)年春、出挙のため越中国内を巡行し、各地で歌を詠む。この頃から、異郷の風土に接した新鮮な感動を伝える歌がしばしば見られるようになる。同年3月、諸兄より使者として田辺福麻呂が派遣され、歓待の宴を催す。4.21、元正上皇が崩御すると、翌年春まで作歌は途絶える。
749(天平21)年3.15、越前掾池主より贈られた歌に報贈する(18/4076~4079)。同年4.1、聖武天皇は東大寺に行幸し、盧舎那仏像に黄金産出を報告したが、この際、大伴・佐伯氏の言立て「海行かば…」を引用して両氏を「内の兵(いくさ)」と称賛し、家持は多くの同族と共に従五位上に昇叙される。5月、東大寺占墾地使として僧平栄が越中を訪れる。この頃から創作は再び活発化し、「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」(18/4094~4097)など多くの力作を矢継ぎ早に作る。
同年7.2、聖武天皇は譲位して皇太子阿倍内親王が即位する(孝謙天皇)。この頃家持は大帳使として再び帰京し、10月頃まで滞在。越中に戻る際には妻の大嬢を伴ったらしく、翌750(天平勝宝2)年2月の「砺波郡多治比部北里の家にして作る歌」(18/4138)からは、国守館に妻を残してきたことが窺える。同年3月初めには「春苑桃李の歌」(18/4139・40)など、越中時代のピークをなす秀歌を次々に生み出す。5月、聟の南右大臣(豊成)家の藤原二郎(継縄)の母の死の報せを受け、挽歌を作る(18/4214~4216)。
751(天平勝宝3)年7.17、少納言に遷任され(19/4248題詞)、足掛け6年にわたった越中生活に別れを告げる。8.5、京へ旅立ち、旅中、橘卿(諸兄)を言祝ぐ歌を作る(19/4256)。帰京後の10月、左大弁紀飯麻呂の家での宴に臨席(18/4259)。以後、翌年秋まで1年足らず作歌を欠く。
752(天平勝宝4)年4.9、東大寺大仏開眼供養会が催される。同年秋、応詔の為の儲作歌を作る(19/4266・4267)。11.8、諸兄邸で聖武上皇を招き豊楽が催され、これに右大弁八束らと共に参席、歌を詠むが、奏上されず(19/4272)。11.25、新嘗会の際の肆宴で応詔歌を詠む(19/4278)。11.27、林王宅で但馬按察使橘奈良麻呂を餞する歌を詠む(19/4281)。
753(天平勝宝5)年2.19、諸兄家の宴で柳条を見る歌を詠む(19/4289)。2月下旬、「興に依りて作る歌」(19/4290・4291)、雲雀の歌(19/4292)を詠む。以上三作は後世「春愁三首」と称され、家持の代表作として名歌の誉れ高い。同年5月、藤原仲麻呂邸で故上皇(元正)の「山人」の歌を伝え聞く(20/4293)。同年8月、左京少進大伴池主・左中弁中臣清麻呂と共に高円山に遊び、歌を詠む(20/4297)。
754(天平勝宝6)年 1.4、自宅に大伴氏族を招いて宴を催す。3.25、諸兄が山田御母(山田史女島)の宅で主催した宴に参席、歌を作る(20/4304)が、詠み出す前に諸兄は宴をやめて辞去してしまったという。以後、家持が諸兄主催の宴に参席した確かな記録は無い。4.5、少納言より兵部少輔に転任する。
755(天平勝宝7)年2月、防人閲兵のため難波に赴き、防人の歌を蒐集する。また自ら「防人の悲別の心を痛む歌」(20/4331~4333)・「防人の悲別の情を陳ぶる歌」(20/4408~4012)などを作る。帰京後の5月、自宅に大原今城を招いて宴を開く(20/4442~4445)。この頃から今城との親交が深まる。同月、橘諸兄が子息奈良麻呂の宅で催した宴の歌に追作する(20/4449~4451)。8月、「内南安殿」での肆宴に参席、歌を詠むが奏上されず(20/4453)。この年の冬、諸兄は側近によって上皇誹謗と謀反の意図を密告され、翌756(天平勝宝8)年2月、致仕に追い込まれる。家持は同年3月聖武上皇の堀江行幸に従駕するが、同年5.2、上皇は崩御し、遺詔により道祖王が立太子する。翌6月、淡海三船の讒言により出雲守大伴古慈悲が解任された事件に際し、病をおして「族を喩す歌」(20/4465~4467)を作り、氏族に対し自重と名誉の保守を呼びかけた。11.8、讃岐守安宿王らの宴で山背王が詠んだ歌に対し追和する(20/4474)。11.23、式部少丞池主の宅の宴に兵部大丞大原今城と臨席する。
757(天平勝宝9)年1月、前左大臣橘諸兄が薨去(74歳)。4月、道祖王に代り大炊王が立太子する。6.16、兵部大輔に昇進。6.23、大監物三形王の宅での宴に臨席、「昔の人」を思う歌を詠む(20/4483)。7月、橘奈良麻呂らの謀反が発覚し、大伴・佐伯氏の多くが連座するが、家持は何ら咎めを受けた形跡がない。この頃、「物色変化を悲しむ歌」(20/4484)などを詠む。12.18には再び三形王宅の宴に列席、歌を詠む(20/4488)。この時右中弁とある。12.23、大原今城宅の宴でも作歌(20/4492)。
758(天平宝字2)年1.3、玉箒を賜う肆宴で応詔歌を作るが、大蔵の政により奏上を得ず(20/4493)。2月、式部大輔中臣清麻呂宅の宴に今城・市原王・甘南備伊香らと共に臨席、歌を詠み合う。同年6.16、右中弁より因幡守に遷任される。7月、大原今城が自宅で餞の宴を催し、家持は別れの歌を詠む(20/4515)。8.1、大炊王が即位(淳仁天皇)。
759(天平宝字3)年1.1、「因幡国庁に国郡司等に饗を賜う宴の歌」を詠む(20/4516)。これが万葉集の巻末歌であり、また万葉集中、制作年の明記された最後の歌である。
760(天平宝字4)年から762(天平宝字6)年頃の初春、家持が因幡より帰京中、藤原仲麻呂の子久須麻呂が、家持の娘を息子に娶らせたい意向を伝えたらしく、家持と子供たちの結婚をめぐって歌を贈答している(04/0786~0792)。家持の返歌は娘の成長を待ってほしいとの内容である(大伴家持全集本文篇の末尾を参照)。
762(天平宝字6)年1.9、信部(中務)大輔に遷任され、間もなく因幡より帰京する。9.30、御史大夫石川年足が薨じ、佐伯今毛人と共に弔問に派遣される。763(天平宝字7)年3月か4月頃、藤原宿奈麻呂(のちの良継)・佐伯今毛人・石上宅嗣らと共に恵美押勝暗殺計画に連座するが、宿奈麻呂一人罪を問われ、家持ほかは現職を解される。
764(天平宝字8)年1.21、薩摩守に任じられる。前年の暗殺未遂事件による左遷と思われる。同年9月、仲麻呂は孝謙上皇に対し謀反を起こし、近江で斬殺される。10月、藤原宿奈麻呂は正四位上大宰帥に、石上宅嗣は正五位上常陸守に昇進し、押勝暗殺計画による除名・左降者の復権が見られるが、家持は叙位から漏れている。10.9、上皇は再祚し(称徳天皇)、以後道鏡を重用した。
765(天平神護1)年2.5、大宰少弐紀広純が薩摩守に左遷され、これに伴い家持は薩摩守を解任されたと思われる。二年後の神護景雲元年まで任官記事なく、この間の家持の消息は知る由もない。
767(神護景雲1)年8.29、大宰少弐に任命される。
770(神護景雲4)年6.16、民部少輔に遷任される。同年8.4、称徳天皇が崩御し、道鏡は失脚。志貴皇子の子白壁王が皇太子に就く。9.16、家持は左中弁兼中務大輔に転任。
同年10.1、白壁王が即位し(光仁天皇)、同日家持は正五位下に昇叙される。天平21年以来、実に21年ぶりの叙位であった。以後は聖武朝以来の旧臣として重んぜられ、急速に昇進を重ねることになる。11.25、大嘗祭での奉仕により、さらに従四位下へ2階級特進。
772(宝亀3)年2月、左中弁兼式部員外大輔に転任する。774(宝亀5)年3.5、相模守に遷任され、半年後の9.4、さらに左京大夫兼上総守に遷る。
775(宝亀6)年11.27、衛門督に転任され、宮廷守護の要職に就いたが、翌776(宝亀7)年3.6、衛門督を解かれ、伊勢守に遷任された。
777(宝亀8)年1.7、従四位上に昇叙される。778(宝亀9)年1.16、さらに正四位下に昇る。779(宝亀10)年2.1、参議に任じられ、議政官の一員に名を連ねる。2.9、参議に右大弁を兼ねる。
781(天応1)年2.17、能登内親王が薨去し、家持と刑部卿石川豊人等が派遣され、葬儀を司る。同年4.3、光仁天皇は風病と老齢を理由に退位し、山部親王が践祚(桓武天皇)。4.4、天皇の同母弟早良親王が立太子。4.14、家持は右京大夫に春宮大夫を兼ねる。4.15、正四位上に昇進。5.7、右京大夫から左大弁に転任(春宮大夫は留任)。この後、母の喪により官職を解任されるが、8.8、左大弁兼春宮大夫に復任する(注2)。11.15、大嘗祭後の宴で従三位に昇叙される。この叙位も大嘗祭での奉仕(佐伯氏と共に門を開ける)によるものと思われる。12.23、光仁上皇が崩御し、家持は吉備泉らと共に山作司(山陵を造作する官司)に任じられる。
782(天応2)年閏1月、氷上川継の謀反が発覚し、家持は右衛士督坂上苅田麻呂らと共に連座の罪で現任を解かれる。続紀薨伝によれば、この時家持は免官のうえ京外へ移されたというが、わずか四か月後の5月には春宮大夫復任の記事が見える。6.17、春宮大夫に陸奥按察使鎮守将軍を兼ねる。続紀薨伝には「以本官出、為陸奥按察使」とあり、陸奥に赴任したことは明らかである。程なく多賀城へ向かうか。
多賀城跡 宮城県多賀城市
783(延暦2)年7.19、陸奥駐在中、中納言に任じられる(春宮大夫留任)。784(延暦3)年1.17、持節征東将軍を兼ねる。785(延暦4)年4.7、鎮守将軍家持が東北防衛について建言する。8.28、死す。死去の際の肩書を続紀は中納言従三位とする。『公卿補任』には「陸奥に在り」と記され、持節征東将軍として陸奥で死去したか。
ところが、埋葬も済んでいない死後20日余り後、大伴継人らの藤原種継暗殺事件に主謀者として家持が関与していたことが発覚し、生前に遡って除名処分を受ける。子の永主らも連座して隠岐への流罪に処せられ、家持の遺骨は家族の手によって隠岐に運ばれたと思われる。
806(延暦25・大同1)年3.17、病床にあった桓武天皇は種継暗殺事件の連座者を本位に復す詔を発し、家持は従三位に復位される(『日本後紀』)。これに伴い家持の遺族も帰京を許された。
家持は万葉集に473首(479首と数える説もある)の長短歌を残す。これは万葉集全体の1割以上にあたる。ことに末四巻は家持による歌日記とも言える体裁をなしている。万葉後期の代表的歌人であるばかりでなく、後世隆盛をみる王朝和歌の基礎を築いた歌人としても評価が高い。古くから万葉集の撰者・編纂者に擬せられ、1159(平治1)年頃までに成立した藤原清輔の『袋草子』には、すでに万葉集について「撰者あるいは橘大臣と称し、あるいは家持と称す」とある。また江戸時代前期の国学者契沖は『萬葉集代匠記』で万葉集家持私撰説を初めて明確に主張した。
なお914(延喜14)年の三善清行「意見十二箇条」には家持の没官田についての記載があり、越前加賀郡100余町・山城久世郡30余町・河内茨田渋川両郡55町を有したという。
(注1)万葉集の歌の排列から、この宴を738(天平10)年のものと見る説も多いが、恭仁京から平城旧京に参集して開かれた宴であると見られ(大伴家持全集本文篇の当該歌参照)、天平13年か14年とみる契沖などの説に従う。
(注2)喪葬令によれば実母の服喪は一年、養父母は五ヶ月、嫡母・継母一ヶ月。家持が左大弁に任じられたのはこの年5月なので、服喪による謹慎は三ヶ月以内。従って生母・養父母の死ではないとする説もあるが、服喪期間が短縮される例は多かったとみられるので、断定は出来まい。
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大伴氏系図
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大伴宿禰永主 おおとものすくねながぬし
生没年 未詳
系譜など 続日本紀の家持没伝に家持の息子とある(おそらく長男)。叙位の状況から見て750(天平勝宝2)年前後の生まれか。すなわち家持の越中赴任前後。子に陸奥介伴春宗と女子の二人が伝わる。娘は808(大同3)年藤原京家豊彦との間に冬緒(大納言に至る)をもうけた。
略伝 784(延暦3)年、正六位上より従五位下。同年10月、右京亮。785(延暦4)年、藤原種継暗殺事件に縁座して隠岐国流刑。806(延暦25)年3月、従五位下に復位(生死は不明)。