織田信長によって能登1国を与えられていた藩祖前田利家が、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に豊臣秀吉に降って加賀2郡、さらに天正13年(1585年)には佐々成政と戦った功績によって嫡子利長に越中西三郡が与えられて、3国にまたがり100万石を領する前田家領の原形が形成された[3]。
慶長4年(1599年)利家が死ぬと、加賀東部と越中の合計83万石を領する利長と、能登に21万石を領するその弟利政に分割された。翌、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し利長が東軍、利政が西軍に分かれ、敗れた側の利政は所領を没収。かわりに利長が利政の旧領と加賀西部の西軍大名の旧領を授けられ、三ヶ国120万石に及ぶ所領を獲得した。のちに第三代利常(利長の弟)が隠居するとき、次男・三男を取り立てて支藩とし、越中富山藩10万石と加賀大聖寺藩7万石(10万石)をそれぞれ分与したので、102万5千石となる。
支藩として他に上野七日市藩1万石がある[4]。利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立した。利常の孫綱紀は、学者の招聘につとめ学問を振興した名君として名高く、兼六園は綱紀の時代に造営された。
大政奉還時は徳川慶喜を支持したが、幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北した後、方針を改めて新政府の北陸鎮撫軍に帰順。海防に関心が深く独自の海軍を有し、維新後は海軍に多くの人材を輩出したと言われる。
明治4年(1871年)廃藩置県によって金沢県となり、まもなく新川県・大聖寺県と合併して旧3国に広がる石川県を構成。明治16年(1883年)旧越中4郡が分かれて富山県が設置され、現在の石川県の領域が確定した。
明治17年(1884年)の華族令により侯爵家となった。
歴代藩主
※官位は初官位と終官位(贈官位含まず)
前田家
(藩祖)利家
利長
利常
光高
綱紀
吉徳
宗辰
重煕
重靖
重教
治脩
斉広
斉泰
慶寧
なお利常以降、松平の称号(名字)を与えられ名乗った[5]。諸大名の中で、当主は「加州殿」ではなく加州侯と、公卿の格式を表す侯を付した。
家臣
加賀藩の直臣は、人持組頭、人持組、平士、足軽に大別される。人持組頭は別名を加賀八家、あるいは前田八家ともいい、いずれも1万石以上の禄高を持ち、藩の重臣として藩政に関わった。人持組は、時に家老などの重職に就くこともあり、高禄の者は1万石以上、少ない方では1000石程度の禄高で約70家が存在した。
人持組頭(加賀八家)
この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(「栄輇」(よしあき)の2文字目はJIS X 0212(補助漢字)に収録)が含まれています(詳細)。
本多氏(5万石)筆頭家老、維新後男爵 、家紋は丸ノ内立葵。
初代本多政重は徳川家康の重臣本多正信の次男で上杉景勝の重臣直江兼続の養子であったが、故あって徳川・上杉両家を去って前田利長に仕える。
本多政重 - 政長 - 政敏 - 政質=政昌(政質の弟)=政行(政長四男政冬の子) - 政成 - 政礼 - 政和 - 政通=政均(政通の弟) - 政以。
長氏(穴水城主3万3000石) 維新後男爵 、家紋は銭九曜。
能登の在地勢力であり、畠山七人衆として知られた能登畠山氏旧臣。利家が能登を領して以来、臣従する。
長連龍 - 連頼 - 元連 - 尚連=高連(尚連弟連房の子) - 善連=連起(高連弟連安の子) - 連愛=連弘(本多政礼次男、連愛外孫、黒羽織党首) - 連恭=成連(連恭弟) - 克連。
横山氏(富山城代3万石・国家老)維新後男爵 、家紋は丸ノ内万字。
前田利長に仕え賎ケ岳の戦で戦死した横山長隆を祖とする。利長が家督を継ぐと共に、利長の直臣から前田宗家の家臣に編入された。
横山長隆 - 長知 - 康玄 - 忠次 - 玄位=任風(玄位の弟)=貴林(奥村悳輝の三男) - 隆達 - 隆従 - 隆盛 - 隆章 - 隆貴 - 隆平(祖父隆章の嫡孫承祖)
前田対馬守家(越中守山城代1万8000石・藩主一門)維新後男爵 、家紋は角ノ内梅鉢。
尾張前田同族の別家。初代前田長種の妻は利家の長女幸。
前田長種 - 直知 - 直正 - 孝貞 - 孝行 - 孝資 - 孝昌 - 孝友 - 孝本 - 孝中=孝敬(分家前田孝備の子) - 孝(男爵) - 孝行 - 孝哉
奥村河内守家(奥村宗家)(末森城代1万7000石)維新後男爵 、家紋は丸ノ内九枚笹。
奥村家は尾張前田家代々の譜代の臣。奥村永福が祖。
奥村永福 - 栄明 - 栄政 - 栄清 - 時成 - 有輝=有定(横山貴林の子)=修古(奥村温良の子) - 栄輇=尚寛(奥村隆振次男) - 栄実 - 栄親=栄通(奥村質直八男) - 栄滋。
村井家(松根城代1万6500石余)維新後男爵、家紋は丸ノ内上羽蝶。
利家の尾張時代からの臣・村井長頼が祖。当初七家だった人持組に後から村井家が加わり、以降八家と称される。
村井長頼 - 長次=長光(織田有楽斎の長男長孝の四男) - 長朝 - 親長=長堅(前田孝行五男)=長穹(前田孝資三男) - 長世 - 長道=長貞(奥村質直七男)=長在(前田孝保次男)。
奥村内膳家(奥村分家)(1万2000石・留守居役)維新後男爵 、家紋は丸ノ内九枚笹。
奥村永福の次男易英を祖とする。
奥村易英 - 和忠 - 庸礼 - 悳輝 - 明敬=温良(明敬弟) - 保命=易直(保命弟)=煕殷(易直弟)=成象(奥村忠順の子)=隆振(横山貴林の子) - 質直 - 惇叙 - 直温 - 篤輝=則友(惇叙三男)=則英(奥村英章四男)。
前田土佐守家(小松城代1万1000石・藩主一門)維新後男爵 、家紋は木瓜ノ内梅鉢。
前田利家の没後に能登一国を与えられた二男・前田利政を祖とする。利政は関ヶ原の戦いで西軍に加担した疑いで改易されたが、利家の正室・芳春院の奔走でその嫡男が召しだされた。
前田利政(利家の二男)- 直之 - 直作 - 直堅 - 直躬 - 直方 = 直時(直方四男直養の子)- 直良 = 直会(13代藩主斉泰の八男)= 直信(直良長男)- 直行。
前田家重臣系図
主な人持組
今枝内記(民部)家(1万4000石・家老)
今枝重直に始まり、今枝直方らを輩出。維新後男爵。(「蓮華寺」項目参照)、家紋は四ッ俵。
今枝重直=直恒(日置忠勝の五男) - 近義=直方(日置忠治の三男)=直道(前田知久の次男)=直郷(前田孝資の次男) - 易直 - 直寛=易良(直寛の弟) - 直応 - 直邦 - 直規
津田氏(1万石・家老)
元豊臣秀次の家臣で慶長14年(1609年)に前田家に仕えた、津田正勝を祖とする。幕末の藩主側近であった津田正邦が維新後、斯波氏に改姓して斯波蕃と名乗り男爵。(「津田氏」を参照) 、家紋は片喰。
津田正勝 - 正忠 - 正真 - 孟昭 - 敬脩 - 将順=正昭 - 政本 - 正矩=正直=正行=正邦
横山家(神谷家)
神谷守孝 - 神谷長治(横山長治)(養子。横山長知の三男)- 横山長昌(神谷長昌)。家紋は角ノ内万字。
横山蔵人家(1万石・家老)
横山正房(横山長治四男) - 正武=正従(横山長元の子)=政礼(横山貴林の子) - 政寛 - 政孝 - 政和
本多図書家(1万石・家老)
本多政長の四男本多政冬が初代。家紋は丸ノ内本ノ字。
本多政冬 - 政恒=政康 - 政養=政守
成瀬掃部家(8000石)
徳川家臣成瀬正成の弟吉政(吉正)は17歳で徳川家を出奔。浅野幸長、小早川秀秋家臣を経て、利常に仕える。家紋は丸ノ内片喰。
青山将監家(7650石)
青山吉次(妻は利家姪)以降、魚津城代を四代務める。家紋は丸ノ内蔦。
寺西要人家(7000石)
旧織田家臣で加賀松任城代を務めた寺西秀則が初代。家紋は丸ノ内九枚笹。
前田図書家(7000石・藩主一門)
前田利家の六男利貞が初代。家紋は角ノ内梅鉢。
前田織江家(7000石・藩主一門)
前田長種の次男長時が初代。家紋は菊一文字。
前田修理家(6000石・藩主一門)
前田利家の三男知好が初代。家紋は亀甲ノ内梅鉢。
前田知好 - 知辰 - 知臣 - 知頼 - 知久=知定 - 知周 - 知故
山崎庄兵衛家(5500石)
越前朝倉氏旧臣の山崎長徳を祖とする。家紋は小槌。
多賀数馬家(5000石)
堀秀政の実弟多賀秀種が初代。家紋は片喰。
玉井頼母家(5000石)
支藩の大聖寺藩の筆頭家老であったが、大聖寺藩の経費削減に伴い本藩に帰された。家紋は五徳。
伴八矢家(5000石)
織田家臣伴無理兵衛の子、伴長之を祖とする。家紋は三巴。
https://hguy65.exblog.jp/28829015/
0 件のコメント:
コメントを投稿