2021年3月16日火曜日

大伴氏直系

 越後村松藩堀家番頭筆頭 伴 郷左衛門  投稿者:曾々孫  投稿日:2017年 1月29日(日)01時10分11秒 返信・引用


  村松藩堀家に使えた伴家は三河の出身。元を辿れば大伴家持が名を連ねる大伴氏です。大伴氏は太古の時代から朝廷の側にあり戦となれば先頭に立って戦う武装集団です。弓を射るときに跳ねた弦が左手を打たないようにした手袋のようなものが鞆(とも)で、そこから大伴氏の名前が生まれました。淳和天皇が崩御されたとき諱が大伴となったため、重なるのを避けて伴氏に改姓しました。戦国時代堀家に使えた伴氏は織田信長、豊臣秀吉の家臣となり、その後徳川家康に使えました。江戸時代、越後村松藩の藩主となった堀家とともに幕末を迎えました。戊辰戦争で村松藩は到幕と佐幕に真っ二つに割れました。曾祖父の伴郷左衛門は冷静に中立を守り戦闘に参加しないよう主君や藩士をなだめましたが堀家の殿様は言うことを聞かず会津若松へ走り、その後上杉家が守る到幕派の米沢にこもりました。村松に残った伴郷左衛門は血気盛んな藩士を抑えなにがなんでも戦には関わるなと頑強に戦闘参加を阻止し最後まで中立を守りました。会津若松では新撰組の土方歳三も加わり激戦を繰り広げましたが、土壇場で越後新発田藩が裏切り阿賀野川沿いに到幕軍が一気に会津盆地になだれ込んだようです。会津藩は新発田藩の裏切りで補給物資も断たれ落城となりました。村松でも会津でも新発田の事をよく思っていません。昔、年寄りは新発田ぎつねと言って忌み嫌いました。明治維新後は、その新発田ぎつねの元に伴郷左衛門が出向き、藩主堀直賀の赦免を願い出ました。新政府は伴郷左衛門が中立を守った事からその事を評価し赦免を受け入れました。伴郷左衛門は米沢で拘束されていた藩主を受け取り行きます。明治になり新潟市に出た伴郷左衛門は、医者になったとか?僕の曾祖母が伴郷左衛門の娘キヨウです。絶世の美女で二回結婚しています。二回目の結婚相手が帝国陸軍村松連隊の連隊長。僕の曾祖父です。伴郷左衛門の子孫は村松には居ません。埼玉県の幸手市にいらっしゃるかも。伴郷左衛門と伴家の墓所は村松の長養寺にあります。堀家の墓は村松の英林寺の裏山の上に並んでいます。堀家は絶えてしまったかもしれません。曾祖母と曾祖父の墓は堀家の墓の近くにあり安らかに眠っています。


村松城址がひっそりと残り、鍵之手に曲がったメインストリートのある村松の町は、いまでも城下町の風情を残してます。


東京の伴です。祖母から家系図を見せてもらい先祖には戊辰戦争時の会津若松に伴百悦という人がいました。さらにさかのぼると伏見城の合戦で戦死という方もいました。


はじめまして、伴でございます。伴家についてお調べでしたら、加賀藩の伴八矢を遡ると見えて参ります。大伴氏からの直系であり、伴一族のおおもとです。金沢近世史料館に原本が保存されています。なぜ手柄も何もなく、江戸年間を五千石という待遇で過ごせたのでしょう。色々と見えてまいりますね。ちなみに墓は大乗寺です。


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1 件のコメント:

  1. 村松藩伴郷左衛門の曾々孫様および伴家のご子孫様へ
    投稿者:村松藩関氏の子孫

    私は村松藩の伴氏にゆかりのある者です。 
    伴氏や大伴氏の歴史を大変興味深く読ませていただきました。伴郷左衛門様の功績については、私も存じ上げています。

    私の先祖は、幕末期の村松藩に4~5軒あった関一族の分家です。
    明治・大正時代の人物「伴息定(ばん・やすさだ)」そして「伴 俊(ばん しゅん)」について、名前に見覚えがあるという方がいらしたら、お教えいただきたいと思い、こちらに投稿させていただきました。

    村松にかつてあった小学校「大蔵小学校」の沿革史において、職員名簿に「関息定(伴息定)」と記載があるのを、村松在住のいとこが最近見つけました。息定について、かっこ書きで伴姓が記されていることに、親戚一同驚きました。
    伴息定は、戊辰戦争時には、関博之丞息定という名でした。
    関博之丞息定は、伴郷左衛門様と同時代の人物で、村松藩片岡九左衛門率いる精鋭部隊の一員として戊辰戦争に参戦しました。息定は戦闘ごとに功績があったため、片岡隊長にとり立てられ、小隊長をつとめました。残念ながら伴郷左衛門様とは相異なる立場におりました。
    明治初期の一時期、息定(やすさだ)は関家の戸主でしたが、明治中期以降の消息が不明で、どのお墓に眠っているのかわからないままでした。

    息定は明治時代には教師になり、「川内(かわち)の人々から慕われていた、川内に関息定の石碑がある。」と、私の祖父が書き残していました。ただ、その石碑なるものはどこにあるか、今も存在するのか見当もつかずにおりました。
    ごく最近いとこが、村松(現五泉市)大蔵で、地元の方の案内によって「伴息定先生之墓」と刻まれた墓石を発見しました。案内してくださった方によると、人々は息定のことを「関先生」ではなく「伴先生」と呼んでいたとのことでした。
    そこで、大正時代に亡くなった関のご先祖様の香典帳面をもう一度読み直してみました。すると「伴俊」と「伴氏」と記名があるのを見つけました。両家が親戚づきあいをしていたらしいことが読み取れました。
    伴俊さんは息定の息子だったのか、あるいは孫だったのか不明ですが、大正時代に村松中学を卒業されたことが分かっています。
    また、関息定がどういういきさつで伴姓になったのか、伴家の本家/分家のどなたと養子縁組または姻戚関係にあったのかなど、わからないままです。

    伴俊さんおよび伴息定について、何かご存じの方がいらっしゃいましたら、ご教示いただければ幸いです。

    2025年1月18日 投稿者:村松藩関氏の子孫

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