2021年3月16日火曜日

大納言伴善男

 


篠山氏は大原氏の一族で南山六家に属している。系図では、先祖は大伴氏であるという。大伴氏とは古代の大氏族の一つで、神話時代の天忍日命から始まり道臣命、大伴金村と続く。壬申の乱では大海人皇子の側につき家運を回復し大納言にまで昇進し、一時は藤原氏と拮抗する勢力を持った。しかし、応天門の火災の罪をきた大納言伴善男が伊豆に流されてから衰えた。この伴善男の末裔と名乗る氏族が三河や近江に多く、大原氏もその一つである。

 大原氏は、寛政重修諸家譜によると次のように書かれている。

「家伝に、先祖大原備後守盛景近江国甲賀郡に住す。その子孫竹林を称し、景時にいたりて大原に復すといふ。今旧家伴氏山岡の譜を按ずるに大伴連は道臣命4世の孫、狭手彦の後なり。大伴宿禰国道の時、淳和天皇の御諱をはばかり改めて伴の朝臣となる。三河大介資兼より4代安芸権守資乗が3男八郎貞景、近江国甲賀郡大原に住して大原を称すといひ、貞景が弟を大原三郎盛景とす。これ家伝にいふ備後守と同人たるべし。」

 また、貞景の経歴について、鎌倉幕府中央との関係がよく分かる記述がある。(山岡系図)

「貞景 或資景 初資業 或資奈 伴太郎 八郎 五郎大夫 左衛門尉

 三河国を退去し、近江国甲賀郡大原邑に住し伴太郎資業を改めて大原八郎貞景と称す。よりて俗其邑を呼で伴里といふ。建仁3年6月佐々木左衛門尉定綱等鎌倉よりの命を受け、阿野法橋全成が男播磨公頼全を穿ちもとむ。貞景是時定綱に属し、頼全東山の延年 寺に住するのよしをきき、彼地にはせむかひこれを誅す。」

 少し解説すると、定綱は、源平合戦の立役者秀義の長男。近江佐々木庄が本領であるが、平治の乱後、父秀義に連れられ相模渋谷庄に寄留し、治承4年の頼朝挙兵に兄弟そろって応じ、鎌倉幕府の重鎮となり、近江守護に任ぜられた人物である。また、阿野全成は、源義朝の子、義経の兄で、母は常盤御前。頼朝が石橋山で挙兵した時参戦している。にもかかわらず建仁3年(1203)5月に謀反の疑いをかけられて召し捕られ、6月23日に殺された。

 頼家が殺させたとなっているが、北条氏の謀略と考えられている。上の資料にみえる全成の子頼全が京都で殺されたのは、同年7月16日であり、上の資料の6月と異なるが、貞景が佐々木定綱の命に服して頼全を殺したのは真実であろう。北条氏→佐々木氏→大原氏の主従関係が読み取れる。

 その後の大原氏の活躍を系図から見ると、貞景の子実景、実頼は承久3年の乱に官軍に属して尾張墨俣で討ち死にしている。しかし、貞景の兄の資秀は幕府側で先陣を進み宇治川で右目を射たれて負傷し、勲功を賜っている。(この時佐々木氏も2派に分かれて戦っている。実景らは定綱の長子広綱の軍に加わって敗戦の憂き目を見たのであろう。4男の佐々木信綱側は幕府側で戦功をあげ、佐々木氏を継いでいる。

 また、貞景の弟盛景の子景高は、将軍義詮に仕え、延文5年(1360)仁木左京大夫義長が将軍に叛いたとき、一族160騎が葛城山に陣して奮戦。この時将軍義詮から「感武功」で、太刀一振を賜っている。


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