2021年3月17日水曜日

大伴金村

 榎本という苗字は古くからあり、弘仁6年(815)に編纂された『新撰姓氏録』にも記載される古代姓氏である。「榎本」という字も、過去には江本・榎下・榎元・朴本と表記されることもあった。いずれも読み方は「えのもと」であり、これらの苗字も元は同じ氏族だったと考えられる。

 多くの苗字が地名由来であるのと同様、榎本に関しても山城国乙訓郡榎本郷・武蔵国都筑郡榎下邑・下野国都賀郡榎本邑といった地名が各地に存在する。

 したがって榎本姓にはいくつかの流れがある。大伴朴本連、榎本連(『姓氏録』によれば左京神別。紀伊国牟婁郡熊野人で新宮党、武蔵下総相模にわかれる。田井-紀州牟婁郡人)、榎本宿祢(榎本-江戸期に蓮華光院門跡の坊官・侍、称越智姓。山城国乙訓郡の鶏冠井は族裔か。土佐陸奥にわかれる。室町期の大族上杉氏も族裔か)、榎本朝臣(有馬-牟婁郡有馬に起る。産田神社祠官)、丸子連(石垣-紀伊国熊野新宮の人。宇井〔鵜井〕-熊野人、下総国香取郡にわかれる)などである。

 榎本連は大伴大連の系統で山背国乙訓郡榎本郷より出て、大和国の金剛山の麓(現・御所市)、紀伊国・熊野国・尾鷲にまで広がる大豪族だったといわれる。

 『新撰姓氏録』には大伴連・榎本連の祖としておおとものむらじさでひこ大伴連狭手彦(生没年不詳)がみえる。大伴連狭手彦はみちおみのみこと道臣命の孫にあたる大伴かなむら金村の子である。大伴佐弖彦・大伴佐弖比古命・狭手彦命などと表記がされることもある。大伴金村は武烈・継体・安閑・宣化・欽明天皇の5代に仕えた大連で、継体天皇の即位を実現させた忠臣として知られる。

 『日本書紀』によると宣化2年(537)10月1日に新羅のみまな任那(朝鮮半島南部地域)侵略をうけて大伴金村の子磐と狭手彦に任那救助の勅命が下された。磐は三韓防衛(百済・新羅・高句麗)のため筑紫にとどまり、狭手彦が任那を鎮め、百済を救済した。欽明23年(562)8月には大将軍として数万人の軍を率いて高句麗を討ち、多くの宝物を天皇に献上した。刺田比古神社(和歌山県和歌山市片岡町2-9)の言い伝えによると、これらの武功により岡の里を賜ったとされる。

 『肥前風土記』や『万葉集』には狭手彦の悲恋が伝えられている。狭手彦は高句麗出兵の前にとどまった松浦郡鏡の渡(現在の唐津市鏡)で、篠原村の美女オトヒメ(『万葉集』では松浦サヨヒメ)と結婚する。高句麗出兵のための別れに際し、狭手彦は餞別として鏡を贈った。しかしオトヒメは悲しみに耐えられず、岬の先で狭手彦の船に向かって手を振りつづけた。このときに餞別の鏡が落ちたという。このことから、岬を袖振の峰、鏡の落ちた地名を鏡と呼ぶようになったという。

 この悲恋は人々の琴線に触れ、『万葉集』巻五に以下の和歌が伝えられている。


   遠つ人松浦佐用比賣夫恋に領巾振りしより負へる山の名

   山の名と言ひ継げとかも佐用比賣がこの山の上に領巾振りけむ

   萬代に語り継げとしこの嶽に領巾振りけらし松浦佐用比賣

   海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用比賣

   行く船を振り留めかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用比賣


 狭手彦の曾祖父道臣命は大伴氏の祖先神で、「伴氏系図」によれば天忍日命の曾孫である。元の名はひのおみのみこと日臣命となっていて、「太陽の臣下」の意とされる。紀州名草郡片岡邑(和歌山県和歌山市片岡町)の人である。神武天皇の御代に朝廷の軍事を司り、神武天皇の東征の際に武功をあげた。最初に神事を執り行ったことでも知られる。その様子は『古事記』『日本書紀』に詳しく記されている。

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『古事記』では、皇軍が宇陀(現在の奈良県宇陀郡菟田野町宇賀志)の地に至ったとき、その地の兄宇迦斯・弟宇迦斯が抵抗して天皇の使いである八咫烏を矢で追い返した。さらに兄宇迦斯は天皇に従うふりをして御殿を造り、踏むと圧死するばね(押機という罠)を仕掛け皇軍をだまし討ちにしようとした。しかし弟宇迦斯が策略を告白したので、道臣命と天津久米命(久米氏の祖)は兄宇迦斯に「おまえが作った屋敷にはおまえ自身が入れ」と述べ、剣の柄を握り、弓に矢をつがえ追い詰めた。兄宇迦斯は自らの仕掛けにかかり押しつぶされて死んでしまう。道臣は死体を切り刻み、その地は宇陀の血原と呼ばれるようになった。

 『日本書紀』によると、神武即位前戊午年(紀元前663)6月の神武天皇東征のとき、日臣命は大来目部を率いて熊野山中を踏みわけ、兵車で道を開いて皇軍を宇陀まで進めた。この功により道臣の名を賜わった。同年8月、天皇の命をうけ、反逆を企む宇陀の首長兄滑を追いこみ、自滅させた。

 『古事記』では大伴氏と久米氏は同等に記されているが、『日本書紀』では大伴氏が久米氏を率いたことになっている。時代が経つにつれ両氏の勢力が変化したことを示しているのだろう。のちに大伴氏は久米氏とともに軍事を司るが、久米氏は没落とともに久米部として大伴氏に率いられるようになる。

 同年9月、東征軍は宇陀の高倉山に至るが、国見丘の八十梟帥によって男坂・女坂などの要害を抑えられていた。神武天皇は祈誓の夢に天神のお告げを受け、天香山の土で祭具を作り、丹生の川上で天神地祇を祭り、戦勝祈願した。神武天皇が高産皇霊神の神霊の憑人を務めた際に、道臣命は斎主(潔斎して神を祭る役)を務め厳媛と名づけられた。道臣命は男性だが女性の名をつけられたのは、神を祀るのは女性の役目だったことの名残とみられる。

 同年10月、道臣命は大来目らを率い、国見丘の八十梟師の残党を討伐する。忍坂の邑に大室をつくり、精鋭を率いて残党と酒宴を開いた。宴もたけなわになったころ道臣の久米歌を合図に兵たちは剣を抜き、残党を殲滅した。

 神武元年(紀元前660)、神武天皇が即位後に初めて政務を行う日に道臣命は大来目部を率い、諷歌倒語を以て妖気を払った。諷歌とは他のことになぞらえて諭す歌、倒語は相手にわからないように味方にだけ通じるように話す言葉である。神武2年(紀元前659)から築坂邑(現・橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わったという。

 現在では、初期の天皇が非常に長命であること、紀年が古すぎること、神武東征説話の骨子が高句麗の開国説話と類似していることなどの理由で神武天皇の存在は否定的で、これらは神話とするのが考古学における一般的な理解である。神武東征についても邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルという説もある。したがって道臣命の実在も疑われるところだが、このような伝承が残っているという事実は認識しておいていいだろう。

 ただ、大伴連狭手彦と榎本氏との詳細な関係はわかっていない。


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