2023年1月9日月曜日

北国街道:海野宿

 

海野宿(東御市)概要: 海野宿の集落的発生年は不詳ですが滋野氏の分流とされる海野氏が平安時代から当地域を治め海野城を拠点としていた事から、その城下町として整備されたと思われます。ただし、地域としての地名である「海野郷」は奈良時代の天平年間(729~749年)に東大寺大仏殿(奈良県奈良市)の北北西に位置する正倉院に所蔵されている紐心麻網墨書の中に「信濃国小県郡海野郷爪工部君調」の記載があり少なくともこれ以前から海野郷が成立していたと思われます(郡郷制が成立したのは霊亀元年:715年、定着したのが天平12年:740年)。「爪」とは身分の高い人物が顔を隠す為の鳥の羽や布で作られた扇子のようなもので、海野郷には「爪」を制作する氏族(大陸出身の技術者)が住んでいた事になります。又、鎮守である白鳥神社には伝説上の英雄である日本武尊が東国平定後に都に凱旋帰国する際に当地で一時留まり、尊が死後に白鳥になって飛び立った事に由来して創建されたと伝えられ、記録的にも平安時代末期には既に鎮座しています。

中世に入ると天皇家の後裔とされる滋野氏の一族が当地の領し、地名に因み海野氏を名乗り、戦国時代まで領主として君臨しています。海野氏は宗家である滋野則重の子供である重道、又は孫の広道が摂関家の荘園であった海野荘に配され地名に因み海野氏を名乗った氏族です。海野氏は望月氏、祢津氏と共に滋野三家と呼ばれ長く当地を支配しましたが戦国時代に入ると隣接する村上氏が台頭し、応仁元年(1467)には村上氏との戦いで当主である海野持幸が討死し小県郡塩田荘が奪われるなど次第に衰微しました。現在海野城は鉄道の敷設などで失われていますが、海野氏の氏神である白鳥神社(木曽義仲の挙兵の地とも呼ばれ、海野氏が没落後は一族とされる真田家の氏神として崇敬庇護されました)や、菩提寺である興善寺(3代当主海野幸明が開基で幸明の墓碑が建立されています。)などが点在し往時の名残が感じられます。


天文10年(1541)の海野平の戦いでは武田信虎、村上義清、諏訪頼重の連合軍が当地に侵攻し海野城は落城、一族は越後の上杉家を頼って当地を離れ、武田信玄の次男に海野氏の名跡を継がせている事から事実上海野氏も滅亡しています。一方、海野氏一族の娘を娶っていた真田幸隆が形式上は海野姓を継承したとし海野宿の前身である城下町も一定規模の町並みが残されたと思われます。天正11年(1583)、真田幸隆の跡を継いだ真田昌幸が上田城を築くと、海野郷に住んでいた住民を上田城の城下(長野県上田市海野町)に移住させた為、町並みもかなり縮小しました。

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