2023年1月9日月曜日

西郷家の人々

 

◆第五十五話:西郷家の人々◆

■慶応四年(一八六八)八月二十二日、西軍は戸ノ口原を疾風のごとく駆け抜けて

いた。家老西郷頼母(たのも)は城危うしと、伜の吉十郎だけを伴って急ぎ登城、

冬坂峠(背炙山)方面の防備におもむいて行った。一方頼母らを見送って家に残っ

たのは、妻の千恵子を始めとして、長女細布(たえ)、次女瀑布(たき)、三女田

鶴子(たづこ)、四女常盤(とわ)、五女季(すえ)、頼母の母律子、頼母の妹眉

寿(みす)と由布(ゆう)の女性ばかり九人であった。この時千恵子は、出陣のた

め城に向かう途中で挨拶に立ち寄った甥の飯沼貞吉(白虎士中二番隊)をも励まし

て見送っている。

■翌二十三日早朝、早くも西軍は若松城下に怒涛のごとく押し寄せて来た。城下で

はあわてて警鐘が乱打された。西郷家の女性たちは、西軍の郭内侵入を目前にして

全員白装束に身支度し、辞世を詠むと水盃を交わした。彼女らは国難に際し、戦い

の足手まといになる事を不本意としたのである。千恵子はまず田鶴子(九歳)、常

盤(四歳)、季(二歳)を刺すと、その返す懐剣で自らの咽喉を突いて自刃した。

三十四歳であった。

■・千恵子辞世

■■■なよ竹の風にまかする身ながらも

■■■■■たわまぬ節はありとこそ聞け

■・眉寿(二十六歳)辞世

■■■死にかえり幾度世には生るとも

■■■■■ますら武夫となりなんものを

■・由布(二十三歳)辞世

■■■武夫の道とききしをたよりにて

■■■■■思ひ立ちぬる黄泉の旅かな

■次女の瀑布はまだ十三歳だったが、けなげにも

■■■手をとりて共に行きなば迷はじな

と上の句を詠むと、姉の細布(十六歳)は

■■■■■いざたどらまし死出の山道

と下の句をついでやり、彼女らはともども咽喉を突いて相果てた。

■またその頃、奥の部屋では頼母の母律子(五十八歳)が

■■■秋霜飛兮金風冷■(秋霜飛んで金風冷ややかなり)

■■■白雲去兮月輪高■(白雲去って月輪高し)

としたためて自刃していた。

■この時西郷邸には親戚の小森駿馬の家族五人・軍事奉行町田伝八一家三人、遠縁

の浅井信次郎の妻子二人と西郷鉄之助夫妻がたまたま来合わせていたが、彼らも共

に一室に集まり次々と自刃して果てた。この日西郷邸で自刃した者は全部で二十一

人であった。

■この西郷家一族自刃の惨状を最初に目撃したのは、土佐藩士中島信行であった。

『会津戊辰戦史』は次のように述べる。

「此の日若松城を奪はんと欲し第一に兵を率ゐて郭内に入りたるは土州藩中島信行

(後の衆議院議長男爵)なり、城兵連りに銃を発して近づくを得ず、城の前面に広

壮の邸宅あり此の中に入りて射撃を避けんと欲し、試みに銃を発すれども応ずる者

なし、乃ち進みて内に入り長廊を過ぎて奥の間に入れば婦人多く刃に伏して死せり、

中に嬋娟たる一女子あり歳十七八未だ絶息せず、足音を聞き少しく身を起したけれ

ども視ることは能はず、声微かに我が兵か敵兵かと問ふ、信行故(ことさ)らに答

へて曰く、我が兵なりと、之を聞きて女子は身辺を探り短刀を取り出す、信行は之

を以て命を断たんことを欲するならんと察し直ちに介錯して出でたる」

■こういう凄惨な光景が武家屋敷のあちらこちらで見られたのである。

http://aizu.sub.jp/honmon_2/055-1.html

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