2015年12月2日水曜日

諏訪神社

諏訪神社(すわじんじゃ)は、「諏訪」を社名に持つ神社。

概要

全国に約25,000社あり、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。また、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)という。諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。鹿児島県では祭神名の建御名方命から「南方神社(みなみかたじんじゃ)」としているものもある。
諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神とその妃・八坂刀売神で、他の諏訪神社もこの2神を主祭神とするほか、「諏訪大神」と総称することもある。諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され、各神社ではこれを神体としている。また、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受ける[1]。これらは諏訪大社の山神としての性格を表している。
諏訪大社では6年に一度、御柱と呼ばれる4本の杭を立てる御柱祭が行われるが、全国の諏訪神社でも同様の祭が行われる。
岡田莊司らによると、祭神で全国の神社を分類すれば、諏訪信仰に分類される神社は全国6位(2,616社)であるという。

主な諏訪神社の一覧

総本社

北海道・東北地方

関東地方

中部地方

近畿地方

中国地方

四国地方

九州地方

脚注

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  1. ^ 「大法輪」第72巻1号、法藏館、90頁、2005年
  2. ^ 霧降宮切久保諏訪神社(長野県WEB観光案内所:白馬村)

建御名方神


建御名方神(たけみなかたのかみ)は、日本神話に登場する神。

概要

『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神の御子神として登場する。『延喜式神名帳』などには南方刀美神の表記も見られる。長野県諏訪市の諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。
神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る。妃神は八坂刀売神とされている。
建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある。

伝承と信仰

日本建国神話

建御雷神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。この建御雷神と建御名方神の力くらべは古代における神事相撲からイメージされたものだと考えられている[1]。なお、この神話は『古事記』にのみ残されており、『日本書紀』には見えない。

諏訪大社

『諏訪大明神絵詞』などに残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある[2]。

各地の祭神として

長野県諏訪市の諏訪大社を始め、全国の諏訪神社に祀られている。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように軍神として知られ、また農耕神、狩猟神として信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられる。ただし、宗像(むなかた)と関連があるとする説[3]や、冶金、製鉄の神であるとする説もある[4][5]。

異説

  • 建御名方神は様々な形で多くの信仰を受けているので、『古事記』に記された敗残する神という姿は、中臣鎌足を家祖とする藤原氏が鹿島神宮の祭祀に関する家の出であり、同神宮の祭神である建御雷神を氏神として篤く信仰していたため、藤原氏が氏神の武威を高めるために、建御名方神を貶めたという説もある[6]。
  • 建御名方神は諏訪で鹿や猿の肉だけを食していたという。これを知った天津神は「獣肉ばかり食べていれば必ず野心を抱くに相違ない」とし、上之原(今の群馬県)に陣を張り、建御名方神に挑戦した。そこで建御名方神は佐久の近津(今の長野県)に出城を作ったので、この付近を今も「命出城(みことのでじろ)」と言う[7]。

脚注

  1. ^ 戸部民夫 『日本神話 神々の壮麗なるドラマ』 新紀元社
  2. ^ 鈴鹿千代乃・西沢形一 『お諏訪さま 祭りと信仰』 勉誠出版(2004年5月10日)ISBN 4-585-05130-9
  3. ^ 西沢正史・緒方惟章 『現代語で読む歴史文学 古事記』 勉誠出版
  4. ^ 三橋健 『決定版 知れば知るほど面白い!神道の本』 西東社
  5. ^ 島崎晋 『イラスト版 読み出したら止まらない古事記』 PHP研究所
  6. ^ 戸部民夫 『八百万の神々 日本の神霊たちのプロフィール』 新紀元社
  7. ^ 『北佐久口碑伝説集北佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会全434P中311P昭和53年11月15日発行

 

 

2015年11月24日火曜日

三浦一族のやぐら



三浦一族のやぐらです…。何か、背筋が寒くなるような、それでいて静謐な空気が流れ出てきている様な…。
 
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合掌。
 
 
さて、三浦一族のやぐらから鳥居をくぐって石段を上がります。最近よく石段を上がったり下がったりします。
 
足腰が強くなってきた様な気がします。
 
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石段の上には、大江広元・毛利季光・島津忠久の墓といわれる3つのやぐらがあります。
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大江広元は頼朝の信頼厚かった鎌倉幕府初期の功労者。有名なので解説は省略。
 
毛利季光は、大江広元の息子で、相模国毛利荘(現在の厚木周辺)を領していたので毛利姓を名乗りました。
 
毛利と言えば…そう、戦国時代の中国地方の覇者・毛利元就を輩出した毛利家のご先祖様です。
 
この方、娘が時頼に嫁いでいて、自分の妻は秦村の妹。宝治の合戦は義理の息子と義理の兄の戦いと言う事
 
になり、板ばさみになって悩んだ様です。最初は北条方に付こうとしたのですが、嫁に「兄を捨て、執権に味方す
 
るとはそれが武士のすることですか!!」と諌められて、「そりゃそうだ」と変心して三浦に味方し、秦村らと共に法華
 
堂で戦場の露と消えました。この時、越後国にいた季光の四男・経光の血筋が残り、その子孫が安芸国に移っ
 
て、後の毛利家へと繋がっていったそうです。
 
 
島津忠久は、母が源頼朝の乳母の娘とあって、頼朝の信頼も厚く、薩摩・大隈・日向の守護職となりました。
 
九州・薩摩の島津氏の祖となる人です。一説によると、頼朝の御落胤だとか…。そんな縁があって、頼朝公の墓
 
所を江戸時代の薩摩藩主が建てる事になったのですね。
 
 
しかし、時代を遠く離れて武家政権を崩壊させ明治維新の大きな力となった薩摩・長州の祖が共に頼朝公の
 
縁者であり、武家政権の始まった地に墓を並べているのは歴史の皮肉なのでしょうか…。
 
 
まあ、島津忠久の墓は頼朝公の墓を整備する際に造られ、大江広元の墓と毛利季光の墓は江戸幕末期の
 
文政6(1823)年に長州藩家老村田清風(藩革新派のドンで、吉田松陰らを育てた人物)が整備したものですか
 
ら、それぞれの根拠はかなり怪しいらしいですが。
 
 
 

2015年11月23日月曜日

松代


松代藩(まつしろはん)は、江戸時代、信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)にあった藩。信濃国内の藩では最高の石高を有した。長野県長野市の松代城を居城とし川中島四郡を領した。藩主は、酒井家(左衛門尉)、越前松平家、真田家が就封した。なお本項では、城地は異なるが同じ領地を支配した川中島藩についても記載する。

沿革[編集]

古くには「松城」とする資料もあり、宝永年間に「松代」に統一されたとされるが、この稿では便宜上「松代」に統一する。

川中島藩時代[編集]

川中島四郡は信濃国北部の高井郡(現上高井郡、下高井郡及び中野市、須坂市)、水内郡(現上水内郡、下水内郡及び飯山市、長野市)、更級郡・埴科郡(千曲市を含む)の四郡を指す。戦国時代の川中島の戦いで武田氏と上杉氏の係争地となったところであり、現在の北信地方に該当する。しかし北信地域支配の中心は、武田信玄が上杉謙信との戦に備え、山本勘助に命じて築城させた海津城(松代城)に置かれた。
近世大名領の成立は関ヶ原の戦い後の森忠政が13万7千石で川中島に入封したことに始まる。忠政は川中島領の領国化に勤め、「右近検地」と呼ばれる徹底的な検地により全領一揆が発生したがこれを徹底的に殲滅した。1603年(慶長8年)美作国一国(津山藩)に加増転封となった。海津城は忠政の統治時に「待城」と改名されたとされる。
その後徳川家康の六男松平忠輝が越後国高田藩へ移る1610年(慶長15年)までの7年間、14万石を領有し、高田へ加増転封となった後も新領土に旧領が含まれており、1616年(元和2年)改易されるまでの間領知した。この2家の領有期間は、一般に川中島藩と呼ばれる。忠輝領有期間には家老花井吉成が城代として統治して領内の整備に尽力し、そのため花井神社が建立され業績を称えられている。
その他、徳川幕府によって廣島を改易となって福島正則の新領地となった高山村(高井野藩)や大坂の役で加増を得た岩城氏の飛地領となった木島平村(信濃中村藩)も川中島藩と呼ばれる場合がある。

越前松平氏・酒井氏統治時代[編集]

1616年(元和2年)に結城秀康の子松平忠昌が12万石にて松代城に入封して以降この地は松代(松城)藩領と呼ばれる。忠昌は1619年(元和5年)に越後国高田藩へ転封。
代わって酒井忠勝が10万石で入封するが、1622年(元和8年)には出羽国庄内藩に移る。この間、同地には岩城家(1616年-1623年信濃中村藩:後出羽国亀田藩に転封)と福島正則(1619年-1624年:安芸国広島藩改易後の堪忍領。後に改易)の領地(高井野藩)も存在し、これらも川中島藩と称されることがある。

真田氏統治時代[編集]

真田邸
1622年(元和8年)に信濃国上田藩より真田信之が13万石で入封した後、明暦4年(1658年)に3代幸道の相続時に分地の沼田領3万石が独立( - 1680年改易)し、以後10万石として幕末までこの地は真田家の所領として続く。
真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次は帝鑑間詰(譜代大名待遇)であった。理由として、8代藩主真田幸貫が8代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子であること、信之の妻が徳川家康の養女(本多忠勝の実娘、一説によると徳川秀忠の養女)であること等の理由による。なお、支藩(分地)としては沼田藩以外に埴科藩もあったが、後年断絶している。
信之は上田藩時代より蓄財した20万両という大金をもって入封した。このため当初は裕福であったが、3代幸道の時代、幕府による度重なる手伝普請などの賦役により信之の遺産を使い果たした。また、1717年(享保2年)松代城下は大火に見舞われ復興に幕府より1万両を借り受け、逆に借財を抱えるようになった。
4代信弘は質素倹約を旨とし財政は持ち直した。5代信安の時代の1742年(寛保2年)松代城下を襲う水害に見舞われた(戌の満水 )。この際、再び幕府より1万両を借財し千曲川の河川改修が行われた。これにより松代城下は水害に見舞われなくなった。しかし、再び財政は悪化した。信安は河川改修の中心となった原八郎五郎を家老に抜擢し、家臣給与の半知借上、年貢の前倒し徴収を行うなどの財政再建に努めた。しかしこれが家臣の反発を招き、1744年(延享元年)足軽によるストライキという全国的にも極めて稀な事態となった。1751年(宝暦元年)には不正を行った原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門(浅野家の家老であった大野知房の子・大野群右衛門と同一人物ともいわれる)を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こった。田村もまた汚職を行ったとして、同年に江戸に逃亡したところを捕らえられた。
信安の後、藩主となった幸弘は、1757年(宝暦7年)家老の恩田木工を勝手方に据え財政再建に当たらせた。木工の5年間の在任中、めざましい成果は得られなかった。しかし、藩士・領民の財政再建に対する意識を改革したということでは、ある程度の功績を得られたといえる。幸弘は1758年(宝暦8年)藩校「文学館」を開いている。
幕末期には8代幸貫が老中として幕政に関与している。幸貫は寛政の改革を主導した松平定信の子(第8代将軍徳川吉宗の曾孫に当たる)であり、幸貫以降真田家は国主以外で自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている。また、幕末の奇才佐久間象山を登用した。1847年(弘化4年)善光寺地震が起こり復旧資金の借り入れにより、藩債は10万両に達した。
9代幸教は、ペリーの浦賀来航時に横浜の応接場の警備を命じられ、その後も江戸湾の第六台場等の警備などを務めたことで、藩財政は破綻寸前となった。先代幸貫が計画した新たな藩校「文武学校」を1855年(安政2年)に開校した。1864年(元治元年)、朝廷から京都南門の警衛を命じられ藩兵を率いて上洛し、禁門の変が起こると参内して朝廷の守りについた。
明治維新の際、当藩は比較的早くから倒幕で藩論が一致し、朝廷から信濃全藩の触れ頭役を命じられた。戊辰戦争には新政府軍に参加して多大な軍功を挙げた。1871年(明治4年)廃藩置県により松代県となり、その後、長野県に編入された。
1884年(明治17年)華族令施行に伴い、藩主家は子爵を授けられた。(のちに伯爵に陞爵)

尾張部


地名は平安時代にこの地にあったという尾張部郷がもとになっており、郷名は大和国の高尾張氏が住んだことに由来するという[1]。
名古屋市から続いてきた国道19号は、西尾張部地籍で終点となる。

沿革[編集]

大字西尾張部・大字北尾張部の範囲は、概ね1889年(明治22年)以前の水内郡西尾張部村・北尾張部村の範囲に相当する。
旧西尾張部村・北尾張部村〜古牧村・朝陽村の歴史
長野市西尾張部・北尾張部の歴史

尾張部


赤沼 アカヌマ 葛飾郡赤沼村(春日部市)、比企郡赤沼村(鳩山町)あり。また、埼玉郡樋遣川村字赤沼、入間郡今成村字赤沼、宗岡村字赤沼、福岡新田字赤沼あり。長野県上伊那郡箕輪町十八戸、南安曇郡穂高町三十戸、長野市北尾張部二十戸、同市北長池十八戸、福島県郡山市四十戸、岩手県下閉伊郡田老町二十七戸、青森県上北郡七戸町十三戸、三沢市三十戸、島根県隠岐郡西郷町二十戸あり。


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