2023年11月30日木曜日

武石隠岐

 町

横三日町の北に続き末は滝沢町組町に至る。

長4町35間余・幅5間、家数65軒。

東の方に小路2条あり。南の小路は東名古屋町に通し北の小路は田間に通す。文禄の頃(1593年~1596年)行壽という行人この地に住せし故ゆえ町名となれり。この町に年々馬市あり(蚕養宮村と八角分の地雑はれり)。


神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?

創設 建久2年(1191年)~?

この町の西頬にあり。

神體しんたいは木像、長8寸8分。究て古物にて耳目鼻口の形も朽ちてさだかならず。三浦義連随身の像という。相伝ふ、義連当郡に封せらるるに及び赤沼内膳というもの跡を追て鎌倉より来る。義連これを喜しこの神體を付与し社頭を建立し内膳をして神職たらしめ神田許多あまたを寄付せしという。自来赤沼稲荷と称し士民の尊祟他に異なりしに、星霜移りて漸々に衰廃し伊達氏兵乱の後は愈いよいよ荒廃せり。文禄中(1593年~1596年)蒲生氏市街を改めし時行人行壽その来由を訴えしかば即再興あり。今に赤沼稲荷と称す鳥居あり。武石隠岐が司なり。

https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/240.html


赤沼稲荷

会津統治

 全国を平定した頼朝は、戦功のあった御家人たちに取り上げた領地を与え、荘園や公領の地頭に任命した。

 まず平泉の戦功のあった三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)は、会津の地頭頭になり、のち和泉、紀伊両国の守護に任ぜられる。また、相模の豪族、山内通基(みちとも)には、会津郡伊北郷(南会津郡只見)を与え、下野国(栃木県)の小山氏の一族長沼宗政には、南会津一帯の長江庄を与え、さらに長沼一族の河原田氏にも伊南郷を与えたのである。

 建久1年(1190)9月15日、源頼朝は上洛し後白河法皇に拝謁、権大納言に任ぜられ、随従した佐原義連は左衛門尉に任ぜられた。

 三浦半島芦名郷の佐原十郎義連の館に一族の主だったものが集められた。

「皆に集まってもらったのは、他でもない頼朝様から賜った会津のことである」長の義連がおもむろに口を開いた。

「実は、会津に入れた草(間者)が帰ってきた。それが申すには、会津では国人衆や地侍達がかなりの兵力を保持していて、その中でも慧日寺衆徒頭の富田氏や国人の松本氏などが勢力をはっているようだ」

「そこで、彼らと争う事は得策でないので、なるべく彼らの土地を買い受けていくことにする。皆は如何かな」

「なんと、それは情けがありすぎる。会津はわれが領地ぞ」盛連の二男広盛が声を荒げる。

「いや待て、父上には何か考えがあるのではないか」当主の盛連が静かにいう。

「うむ、そのとおりじゃ。私は頼朝様から会津を賜ったが、会津の国人衆や地侍達と事を構いたくない。さらに、頼朝様が鎌倉幕府を起こし侍所を設けたのを知っておろう。本家の三浦氏や千葉氏、その他坂東の武者達が要職を欲しがり不穏な気配もある。この地を抜けて会津に向うわけにはいかぬ。」

「だからといって、自分の土地を金で買うとは、この広盛には解せぬわ。」

「広盛、たしかに会津は我らが領地ぞ。しかし、会津を力で押さえつけても、地侍たちは心から我らが臣になるとはおもわない。また、力で抑えても後々、彼らの謀叛に悩まされること畢竟、ここは懐柔策でいくのがよいのじゃ」

「そこで、会津に代官を派遣して、しばらく様子を見よう」

 三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)は、三浦半島の芦名郷(横須賀)から会津の地に代官をおき、国人領主の地侍集団の富田氏や松本氏と事を構えない柔軟な領国経営を行うことにした。

 その時分、相模の豪族山内通基(みちとも)も会津郡伊北郷に里中丸城を築き移り住んでいった。

 さらに小山氏の一族長沼宗政は、会津長江庄に居を構え田島奈良原(下郷町楢原)など南会津郡一帯の管理を始めたので一族の河原田氏も伊南郷の移り住んでいった。

 佐原十郎義連の系図は、桓武平氏で高望王、平広茂、三浦介義明が先祖で、佐原義連(三浦十郎左衛門尉義連)の嫡子・佐原遠江守盛連の時代に会津に代官を置き着々と自分の領地の地固めを行ったのである。

 佐原盛連はその後6人の子供をもうけ、それぞれに会津の領地を分割することになるのである。

 長男・経連には猪苗代、次男・広盛には北田、三男・盛義には藤倉、五男・盛時には加納、六男・時連には新宮、そして四男(後妻の長男)・光盛が15歳で家督を継ぐことになる。

 後に佐原光盛は、三浦半島の芦名郷から名を取り「芦名左京太夫光盛」と名前を変え、さらに初代の芦名氏として芦名遠江守四郎左衛門尉として会津本家を継いでゆくことになる。 

 建久3年(1192)源頼朝が正式に征夷大将軍になり、鎌倉幕府が成立した。

 会津では、松本氏やそれに扇動された地侍たちが、あちこちで佐原氏の一族と衝突を繰り返していた。それでも佐原義連は、一族が血気にはやるのを抑えて慎重にことを運んでいた。

 会津に暑い夏がおとずれたある日、会津耶麻郡にすむ信濃源氏出の松本氏の居城綱取城に会津の主だった国人領主と地侍の頭が集まっていた。もちろん会津慧日寺の乗丹坊の子孫で衆徒頭の富田漏祐も参加していた。

 富田氏は会津国人領主として会津盆地中央の会津郡下荒井村(北会津村)と耶麻郡塚原村(喜多方市)に館を築いてすんでおり、一族郎党も多くかなりの軍事力を保持していた。

「おのおの方、よくきてくれました。本日集まっていただいた訳は、書状に示した通り、佐原一族が勝手に我が領土を鎌倉幕府とやらから下げ渡されたとして専横よろしくない所業多く、我らとしても我慢の限界にきている。」ぎょろりと一同を見回し、松本勘解由宗輔(かげゆむねすけ)がいった。

「そこで、皆の衆に忌憚のない意見を伺いたい」

「ではまず松本宗輔殿には、如何なるご所存でおりますか、お話いただけましょうか」富田氏が口を開いた。

「さよう、この会津は、会津磐梯山が噴火以来、荒地を我らが先祖が汗を流し耕作し、これまでにしたものである。それを、なんじゃと、平泉の藤原氏を滅ぼした勲功で、この我らが会津の土地を勝手にくれてやるとは、承知できぬ。」

「また、近頃聞くところによると、金銀に目がくらみ、先祖伝来の土地を手放す地侍がおるという。なんと、嘆かわしい次第だ。我ら松本一族は、決してこの土地を手放さぬ。」

「金銀に目がくらんだと申すが、放置してある価値のない荒地を手放しただけで、松本氏に非難されるいわれはない。」地侍の一人が叫んだ。

「まあ、待て、重要な事は今後佐原氏に対してどう対応するかであろう。万一、我らに敵対する意向があると見られては、鎌倉幕府の軍勢が押し寄せるやも知れぬ」富田氏がいう。

「さらに、我らが会津に住む国人や地侍の方々が、一つの心で鎌倉幕府に当れるか、如何かな」

「鎌倉幕府の軍勢が幾ら押し寄せようと我ら松本一族で撃退してみせるわ。嫌な者はここから去るがよい」松本勘解由は不機嫌にいった。それからの談義は、堂堂巡りで何も図る事がなかった。

 下荒井の館に戻った富田漏祐のもとに一族が集まってきた。

「して談義はいかにまとまりましでしょうか」郎党頭の荒井太郎左衛門が口を開いた。

 荒井氏は、源頼朝の藤原征討に加わったもと坂東武者・二科太郎光盛の後裔で、大沼郡横田村に中丸城(本丸、二の丸、三の丸の無類の要害城)に住む富田氏の2女の娘婿である。

「松本氏には困ったものだ。あのように荒っていては、何もはかどらぬ」

「戦となるのでしょうか」まだ幼い富田範祐がいった。

「わしは戦を好まぬ。一族郎党の者の中には、いままで戦で親や兄弟を失ったものが多くいる。これからも戦はあろうが、極力争いは避けたい。」

「しかし、相手が攻めてきましたら戦いましょうか」

「攻めてきたら、この富田一族の力を、目にものみせてやるわい。」漏祐はにっこり笑っていった。

「皆の衆も、此方からは戦を仕掛けぬが、何時敵が攻めてくるかも知れぬので、武具などの手入れと兵糧の準備を怠り無くしておくように。」漏祐は皆に命じ帰宅させた。

会津統治2(源頼朝死去)

正治元年(1199)源頼朝が落馬がもとで死去してしまった。源頼家が家督を相続したが、北條時政は頼家の親裁を停止し13人の合議裁決制を定めてしまう。

 そして、梶原景時が敗死し、庇護を受けていた城長茂の乱と死、板額の乱と鎌倉幕府はいそがしい時を経るが、建仁2年(1202)源頼家が征夷大将軍になる。

 しかし、源頼家の実権は北条氏に握られていたため、頼家は病んでしまい、とうとう関東を子の一幡に、関西を弟の千幡(実朝)に分与してしまった。しかし、実権は実朝が握り始めたので、おさまらないのは、北条政子。一幡を生んだ源頼家の妻の実家比企能員(ひきよしかず)を味方に引き入れた。

 比企能員は武蔵の豪族で妻は源頼朝の乳母で、娘が源頼家の妻であった。比企能員は、娘が生んだ一幡を将軍後継にするため北条時政を討たんとするが失敗して一幡とともに殺されてしまい、源実朝が征夷大将軍になった。

 しかし、北条時政が政所別当(執権)となると、源頼家を伊豆修善寺に幽閉してしまい、結局、源頼家は翌年殺害されてしまうのである。

 元久1年(1204)、諸国で地頭たちが勝手な振る舞いをして年貢を納めないなどの乱行が続いた。この年に芦名光盛が佐原盛連の4男として生まれる。光盛ら3兄弟は執権北条時頼の父時氏とは異父兄弟にあたり、会津四郎左衛門尉、左京大夫と称していた。のちの建保6年(1218)に15歳で黒川の城主になり三浦半島の芦名郷から名をとり芦名氏遠江守を名乗ることになるのである。

 元久2年(1205)北条時政は、女婿平賀朝政の将軍擁立をするため源実朝の暗殺をはかるが失敗して引退してしまい、このため北条義時が執権になる。

 承元1年(1207)専修念仏が禁止され、法然が讃岐に親鸞が越後に流される「承元の法難」などが起こり仏教弾圧が行われた。

 1211(建暦1年)佐原盛連が鎌倉幕府の北条執権の醜い争いを嫌い、いままでの代官制をやめて正式に一族郎党を引連れて会津に下ってきた。盛連が会津に下ったその年の6月幕府は三浦義村の奉行職を停止、後任に義連の長男佐原景連を充ててしまった。のちに景連は会津坂下で近衛家の荘園であった蜷川荘を拝領し蜷川氏の初祖となり太郎と称することになる。

 しかし、先住の土豪が各地に館を構え新参の不在領主の佐原氏に従うものはなかったので領地の経営に苦心していた。

 佐原義連は、頼朝より会津を拝領する際その跡を追って鎌倉より随従してきた赤沼内膳という陰陽師を利用する事を考えついた。当時の陰陽師は、軍師であったり敵退散の調伏をおこなう呪術師的な性格をもっていた。

 佐原義連は、彼に護身の像を与え社殿・神田あまたを寄進し神職としたのである。

 そして、この赤沼内膳の占いと調伏はなかなかの効き目があるという噂を流し、佐原氏自身も参詣をしたので周辺の土民はもちろん地侍達の尊崇を集めるに至ったのである。村人達はそれを赤沼稲荷と称するようになった。このように佐原義連は赤沼明神の加護で土豪の蜂起を鎮め、6人の子に所領を分割することになるのである。


菅原氏の由来


天穂日命の後裔、野見宿禰に始まる大和国添下郡菅原庄を本拠とします土師氏が、天応元年に菅原宿禰を賜り、延暦9年に朝臣姓に改められる。

菅原氏は学者として朝廷に仕え、道真に至り右大臣に昇進しますが、藤原氏の讒言により太宰権師に左遷され2年後に配所で死去した。

子息は官途に復して代々文章道を家職としてきた。

堂上家としては、高辻家、唐橋家、五条家、清岡家、桑原家、東坊城家の6家あり。

武家菅原氏としては中世南朝方についた美作菅家党があり、大名家の前田氏(4家)、久松氏(4家)、柳生氏も出自は菅原氏と称す。

なお、早稲田大学創立者大隈重信は菅原姓を称する佐賀藩士大隈信保の長男で、明治の政官界で活躍する。

https://www.nextftp.com/well/roots/new_page_8.htm

有元佐弘

 落魄して見ると昔のよき時代がしのばれる。美作の菅家一族は他の小豪族よりも群を抜いていた。しかも、仇花には過ぎなかったが、天皇権力の奪回という日本歴史の一頁に関係のある元弘の戦いに、一族一党を挙げて参加したという矜持がある。何一つ報いられなかったこの先祖たちの心情は、誠心南朝に殉じた楠正成党に一片通じるものがあるではないか。この先祖たちの祖満佐こそ、時代が百年遅れておれば美作の楠正成であったかも知れぬ。正成は日輪の申し子である。満佐もまた天の星、地の霊、山の霊の申し子でなければならぬ。大蛇は氏族の首長の象徴である。奈義の山霊の大蛇の母から生まれたのが三穂太郎満佐である。この祖にして、はじめて流星のように消えた子孫たちが生まれたのである。

この輝ける御先祖に申し訳ない限りである。世は戦国であれば、また、家名を挙げる機会があろうが、今は無力な蚯蚓切りの百姓だ。だが、そこいらの水呑み百姓とは違っているのだ。どこが違っている。だから家柄だ。ここで満佐は菅家党の願望を担って大人様の伝説と結びついたのだろう。

満佐の子孫、有元佐弘らが後醍醐天皇の京都還幸を助けたことは『太平記』に記されている。その功により佐弘は従四位など、一族が大正年間に贈位されている。

楠公への対抗心、それが菅原満佐を巨人・三穂太郎へと成長させたのだという。菅家党の共通の祖である菅原満佐は禁中を守護する役目まで仰せ付かっている。さらに、南北朝期には一族の有元佐弘が後醍醐帝を助けて京都で戦死している。こうした記憶が重ねられ、京都まで三歩で歩いた巨人像が創り出されたのだろう。

美作の巨人は、常陸のダイダラボウのように『風土記』に記録された未確認生命体ではない。その正体は、武士団としての栄光の記憶、「誇り」だったのである。

https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2013/08/%E4%B8%89%E7%A9%82%E5%A4%AA%E9%83%8E.html

赤松久範

 菅原朝臣三穂太郎満佐亦三歩太郎兼実とも號す。菅原菅家は其先右大臣菅原朝臣道真公七世の裔孫、菅原朝臣従四位下知賴公、承暦元年美作守として下向、豊田庄に住するに仍て興る。其嫡菅秀才眞兼は美作国押領使となり、其嫡尚忠亦號是宗は民部介、その勢は国府を席捲す。室久米錦織郷秦豊永の女、亦、室の姉は久米押領使漆間時国の室也。尚忠の嫡民部介菅四郎仲賴は開発領主として高円邑に大見丈城を築き、近郷の武士団を糾合、美作菅家党の基盤を創る。三穂太郎満佐公は其嫡として養和元年誕生、母は二階堂藤原維行の女、長じて知仁勇萬人に優れ、在地で朝臣となり京都禁中を守護し玄蕃頭に任ぜらる。亦美作守として治世其武威は遠く備前備後備中亦因幡播州にも及ぶ。室豊田右馬頭の女、天福二甲午九月十五日に赤松久範佐用の地に戦闘死、行年五十二才。後頭は三穂明神に右手は梶並の右手明神と足は因州智頭の河野明神として祭られ、亦荒関明神杉明神三崎明神諾明神として崇敬、これ等は美作太平記作陽誌赤松氏文書津山市史中世編等によって知る事が出来る。満佐公の嫡有元筑後守忠勝、廣戸豊前守佐久、福光伊賀守周長、植月豊後守公興、原田日向守忠門、鷹取備前守佐利、江見丹後守資豊、亦説に弓削佐渡守忠文、垪和越前守資長、菅田志摩守佐季を加え、美作菅家党は夫夫を祖として累代団結親交を強め、文永弘安の役は鎌倉幕府御家人として博多に遠征、元弘建武の乱には帝を奉じ国難に殉じ党族を挙げて忠戦、尓来幾星霜戦国群雄割拠の時も他族からの侵掠を許さず、栄枯盛衰平成の御宇迠、一族繁栄し党族八十八氏家を数う。茲に満佐公生誕八〇〇年を記念し顕彰記念像を建立、公の遺徳を讃え後世に伝う。

菅原道真七世の孫という知頼であるが、おそらくは道真-高視-雅規-資忠-薫宣-持賢-永頼-知頼と続くとするのだろう。知頼からはこうだ。知頼-真兼-尚忠-仲頼-満佐と続く。道真公を初代と数えれば12代目となる。その満佐を祖として菅家七流が栄えていく。中世美作を代表する武士団、美作菅家党である。

満佐が赤松久範と戦って敗死した天福二年は1234年である。赤松久範は有名な赤松円心の祖父に当たる人物である。


右手三社大明神

 美作市大字右手小字中右手の北にある右手(うて)三社大明神は、三穂太郎伝説で有名な菅原朝臣満佐(みつすけ)、菅原道真、猿田彦が祀ってあります。

社殿は梶並川の中州に造られており落ち着いた佇まいの神社です。

創建はおそらく13世紀後半ではないかと推察されますが、いまも右手姓の右手忍さんが(代々)管理をされています。

菅原朝臣満佐(みつすけ)は菅原道真公より13代後の末裔にあたり、知仁勇に優れていましたが、1234年9月15日に赤松久範と佐用で戦い、52才で討死しました。

死後、頭(こうべ)は奈義町関本の三穂明神(こうべさま)、右手は梶並の右手(うて)大明神、肩の部分は智頭町土師のにゃくいちさま、胴体は奈義町西原の荒関荒神として祀られ美作菅家党の基盤を創りました。

満佐公は歴史上の実在人物で、別名三穂太郎とも呼ばれおり 「那岐山の頂上に腰をかけ、瀬戸内海で足を洗い、京の都まで三歩で行った」と言う伝説も残っております。

https://blog.goo.ne.jp/ktomisaka/e/ccfa704ef52498de549d6153122dcac7

美作と信濃―小泉小太郎とさんぶたろう

 小泉小太郎とさんぶたろうの伝説を比較すると、母である竜神(大蛇)から生まれた息子(さんぶたろう、小泉小太郎)が、母から授けられた力で世界を創造する、というよく似たストーリーの構造を持っており、また、その他にも類似点が多いことに気づかされるのである。

※注釈k3-b:信州は、地下の国に降った後、大蛇(龍神)になって地上に戻ってきた甲賀三郎など、蛇に関する伝説が数多く残っている地域でもある。(注釈k3-bここまで)

小泉小太郎の伝説には、地域によってさまざまなバリエーションがあるが、『日本の民話17信濃の民話』瀬川拓男氏の再話によると、概ね次のような内容である。
※注釈k3-c:「信濃の民話」編集委員会編;江馬三枝子編『定本日本の民話17信濃の民話 飛?の民話』未来社 1995.5.該当ページはp.175~183.(注釈k3-cここまで)

むかし独鈷山というけわしい山に、若い坊さまのすむ寺があった。いつの頃からかその坊さまのところへ美しい女が通ってくるようになった。
不思議に思った坊さまは、ある夜、そっと女の着物に糸のついた縫針をさしておいた。
夜があけてみると、糸は庭をぬけて山の沢を下り、産川の上流にある鞍淵の大きな石のところまでつづいていた。
ふと岩の上を見ると、生まれたばかりの赤児を背にのせた大蛇が苦しそうにのたうっている。大蛇は坊さまに気がつくと、「こんな姿を見られては生きていることはできない。針をさされたので鉄の毒も体にまわった。どうかこの子をたのみ申します。」といって赤児を岩の上におろし、ざざーっと水煙をあげて淵の中へ姿を消してしまった。
坊さまは恐ろしさに震え上がり、赤児をそこに残し、逃げ帰った。

その後、大水で川に流された小太郎は、小泉村というところで婆さまに拾われて育ち、湖に住む母(大蛇=犀龍)と再会し、協力して湖をせき止めている山を切り崩し、土地を開拓することになる。
なお、湖から流れ出た水は犀川になり、湖が干上がって生まれた土地は、現在の松本、安曇の両平野になったといわれている。

伝説では、小泉小太郎の母(大蛇=犀龍)が住む湖は、周囲を山に囲まれており、大昔に天の神が練っていた五色の石のかけらが地上に降ったとき、えぐれてできたのがこの湖で、飛び散った石のかけらが周囲の山になったとされている。
また、別の伝説では、天の神を「女神?氏」としており、五色の石で天の裂け目を修復した中国の女神女?氏のことであろうと考えられる。
なお、五色の石は、陰陽五行説でいう世界を構成する五つの要素〔エレメント〕であり、世界を創造する力の象徴と考えられる。
※注釈k3-d:長野県図書館協会編『信濃伝説集 信州の伝説と子どもたち』(信州の名著復刊シリーズ2)一草舎 2008.該当ページはp.198-199.(注釈k3-dここまで)
※注釈k3-e:さんぶたろうと女?のつながり、陰陽五行説との関連性については、『大いなる巨人の伝説』第2部本編で触れているので、あわせてご参照ください。(注釈k3-eここまで)

このように、母が竜神(大蛇・蛇神)であること、母子神としての性質を備えていること、息子が母から受け継いだ創世の力を操り、治水や開墾などの偉業を成すことなど、多くの点でふたつの伝説は共通しているのである。
※注釈k3-f:さんぶたろう親子の母子神としての性格については、『大いなる巨人の伝説』第1部所収の「閑話休題(1)たろうと王子信仰あるいは土師郷とのつながりについて」で触れているので、あわせてご参照ください。(注釈k3-fここまで)

美作と信濃という、離れた地域のふたつの伝説に以上のような共通点が見られるのは大変興味深いことであり、今後、その成立過程を比較していくことで、ストーリーの共通点以上の、何らかのつながりが見えてくる可能性も考えられる。
(閑話休題(3)ここまで/引用・参考文献につづく)

 https://www.town.nagi.okayama.jp/library/sanbu_text.html