2023年11月30日木曜日

赤沼稲荷

会津統治

 全国を平定した頼朝は、戦功のあった御家人たちに取り上げた領地を与え、荘園や公領の地頭に任命した。

 まず平泉の戦功のあった三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)は、会津の地頭頭になり、のち和泉、紀伊両国の守護に任ぜられる。また、相模の豪族、山内通基(みちとも)には、会津郡伊北郷(南会津郡只見)を与え、下野国(栃木県)の小山氏の一族長沼宗政には、南会津一帯の長江庄を与え、さらに長沼一族の河原田氏にも伊南郷を与えたのである。

 建久1年(1190)9月15日、源頼朝は上洛し後白河法皇に拝謁、権大納言に任ぜられ、随従した佐原義連は左衛門尉に任ぜられた。

 三浦半島芦名郷の佐原十郎義連の館に一族の主だったものが集められた。

「皆に集まってもらったのは、他でもない頼朝様から賜った会津のことである」長の義連がおもむろに口を開いた。

「実は、会津に入れた草(間者)が帰ってきた。それが申すには、会津では国人衆や地侍達がかなりの兵力を保持していて、その中でも慧日寺衆徒頭の富田氏や国人の松本氏などが勢力をはっているようだ」

「そこで、彼らと争う事は得策でないので、なるべく彼らの土地を買い受けていくことにする。皆は如何かな」

「なんと、それは情けがありすぎる。会津はわれが領地ぞ」盛連の二男広盛が声を荒げる。

「いや待て、父上には何か考えがあるのではないか」当主の盛連が静かにいう。

「うむ、そのとおりじゃ。私は頼朝様から会津を賜ったが、会津の国人衆や地侍達と事を構いたくない。さらに、頼朝様が鎌倉幕府を起こし侍所を設けたのを知っておろう。本家の三浦氏や千葉氏、その他坂東の武者達が要職を欲しがり不穏な気配もある。この地を抜けて会津に向うわけにはいかぬ。」

「だからといって、自分の土地を金で買うとは、この広盛には解せぬわ。」

「広盛、たしかに会津は我らが領地ぞ。しかし、会津を力で押さえつけても、地侍たちは心から我らが臣になるとはおもわない。また、力で抑えても後々、彼らの謀叛に悩まされること畢竟、ここは懐柔策でいくのがよいのじゃ」

「そこで、会津に代官を派遣して、しばらく様子を見よう」

 三浦一党の佐原十郎義連(よしつら)は、三浦半島の芦名郷(横須賀)から会津の地に代官をおき、国人領主の地侍集団の富田氏や松本氏と事を構えない柔軟な領国経営を行うことにした。

 その時分、相模の豪族山内通基(みちとも)も会津郡伊北郷に里中丸城を築き移り住んでいった。

 さらに小山氏の一族長沼宗政は、会津長江庄に居を構え田島奈良原(下郷町楢原)など南会津郡一帯の管理を始めたので一族の河原田氏も伊南郷の移り住んでいった。

 佐原十郎義連の系図は、桓武平氏で高望王、平広茂、三浦介義明が先祖で、佐原義連(三浦十郎左衛門尉義連)の嫡子・佐原遠江守盛連の時代に会津に代官を置き着々と自分の領地の地固めを行ったのである。

 佐原盛連はその後6人の子供をもうけ、それぞれに会津の領地を分割することになるのである。

 長男・経連には猪苗代、次男・広盛には北田、三男・盛義には藤倉、五男・盛時には加納、六男・時連には新宮、そして四男(後妻の長男)・光盛が15歳で家督を継ぐことになる。

 後に佐原光盛は、三浦半島の芦名郷から名を取り「芦名左京太夫光盛」と名前を変え、さらに初代の芦名氏として芦名遠江守四郎左衛門尉として会津本家を継いでゆくことになる。 

 建久3年(1192)源頼朝が正式に征夷大将軍になり、鎌倉幕府が成立した。

 会津では、松本氏やそれに扇動された地侍たちが、あちこちで佐原氏の一族と衝突を繰り返していた。それでも佐原義連は、一族が血気にはやるのを抑えて慎重にことを運んでいた。

 会津に暑い夏がおとずれたある日、会津耶麻郡にすむ信濃源氏出の松本氏の居城綱取城に会津の主だった国人領主と地侍の頭が集まっていた。もちろん会津慧日寺の乗丹坊の子孫で衆徒頭の富田漏祐も参加していた。

 富田氏は会津国人領主として会津盆地中央の会津郡下荒井村(北会津村)と耶麻郡塚原村(喜多方市)に館を築いてすんでおり、一族郎党も多くかなりの軍事力を保持していた。

「おのおの方、よくきてくれました。本日集まっていただいた訳は、書状に示した通り、佐原一族が勝手に我が領土を鎌倉幕府とやらから下げ渡されたとして専横よろしくない所業多く、我らとしても我慢の限界にきている。」ぎょろりと一同を見回し、松本勘解由宗輔(かげゆむねすけ)がいった。

「そこで、皆の衆に忌憚のない意見を伺いたい」

「ではまず松本宗輔殿には、如何なるご所存でおりますか、お話いただけましょうか」富田氏が口を開いた。

「さよう、この会津は、会津磐梯山が噴火以来、荒地を我らが先祖が汗を流し耕作し、これまでにしたものである。それを、なんじゃと、平泉の藤原氏を滅ぼした勲功で、この我らが会津の土地を勝手にくれてやるとは、承知できぬ。」

「また、近頃聞くところによると、金銀に目がくらみ、先祖伝来の土地を手放す地侍がおるという。なんと、嘆かわしい次第だ。我ら松本一族は、決してこの土地を手放さぬ。」

「金銀に目がくらんだと申すが、放置してある価値のない荒地を手放しただけで、松本氏に非難されるいわれはない。」地侍の一人が叫んだ。

「まあ、待て、重要な事は今後佐原氏に対してどう対応するかであろう。万一、我らに敵対する意向があると見られては、鎌倉幕府の軍勢が押し寄せるやも知れぬ」富田氏がいう。

「さらに、我らが会津に住む国人や地侍の方々が、一つの心で鎌倉幕府に当れるか、如何かな」

「鎌倉幕府の軍勢が幾ら押し寄せようと我ら松本一族で撃退してみせるわ。嫌な者はここから去るがよい」松本勘解由は不機嫌にいった。それからの談義は、堂堂巡りで何も図る事がなかった。

 下荒井の館に戻った富田漏祐のもとに一族が集まってきた。

「して談義はいかにまとまりましでしょうか」郎党頭の荒井太郎左衛門が口を開いた。

 荒井氏は、源頼朝の藤原征討に加わったもと坂東武者・二科太郎光盛の後裔で、大沼郡横田村に中丸城(本丸、二の丸、三の丸の無類の要害城)に住む富田氏の2女の娘婿である。

「松本氏には困ったものだ。あのように荒っていては、何もはかどらぬ」

「戦となるのでしょうか」まだ幼い富田範祐がいった。

「わしは戦を好まぬ。一族郎党の者の中には、いままで戦で親や兄弟を失ったものが多くいる。これからも戦はあろうが、極力争いは避けたい。」

「しかし、相手が攻めてきましたら戦いましょうか」

「攻めてきたら、この富田一族の力を、目にものみせてやるわい。」漏祐はにっこり笑っていった。

「皆の衆も、此方からは戦を仕掛けぬが、何時敵が攻めてくるかも知れぬので、武具などの手入れと兵糧の準備を怠り無くしておくように。」漏祐は皆に命じ帰宅させた。

会津統治2(源頼朝死去)

正治元年(1199)源頼朝が落馬がもとで死去してしまった。源頼家が家督を相続したが、北條時政は頼家の親裁を停止し13人の合議裁決制を定めてしまう。

 そして、梶原景時が敗死し、庇護を受けていた城長茂の乱と死、板額の乱と鎌倉幕府はいそがしい時を経るが、建仁2年(1202)源頼家が征夷大将軍になる。

 しかし、源頼家の実権は北条氏に握られていたため、頼家は病んでしまい、とうとう関東を子の一幡に、関西を弟の千幡(実朝)に分与してしまった。しかし、実権は実朝が握り始めたので、おさまらないのは、北条政子。一幡を生んだ源頼家の妻の実家比企能員(ひきよしかず)を味方に引き入れた。

 比企能員は武蔵の豪族で妻は源頼朝の乳母で、娘が源頼家の妻であった。比企能員は、娘が生んだ一幡を将軍後継にするため北条時政を討たんとするが失敗して一幡とともに殺されてしまい、源実朝が征夷大将軍になった。

 しかし、北条時政が政所別当(執権)となると、源頼家を伊豆修善寺に幽閉してしまい、結局、源頼家は翌年殺害されてしまうのである。

 元久1年(1204)、諸国で地頭たちが勝手な振る舞いをして年貢を納めないなどの乱行が続いた。この年に芦名光盛が佐原盛連の4男として生まれる。光盛ら3兄弟は執権北条時頼の父時氏とは異父兄弟にあたり、会津四郎左衛門尉、左京大夫と称していた。のちの建保6年(1218)に15歳で黒川の城主になり三浦半島の芦名郷から名をとり芦名氏遠江守を名乗ることになるのである。

 元久2年(1205)北条時政は、女婿平賀朝政の将軍擁立をするため源実朝の暗殺をはかるが失敗して引退してしまい、このため北条義時が執権になる。

 承元1年(1207)専修念仏が禁止され、法然が讃岐に親鸞が越後に流される「承元の法難」などが起こり仏教弾圧が行われた。

 1211(建暦1年)佐原盛連が鎌倉幕府の北条執権の醜い争いを嫌い、いままでの代官制をやめて正式に一族郎党を引連れて会津に下ってきた。盛連が会津に下ったその年の6月幕府は三浦義村の奉行職を停止、後任に義連の長男佐原景連を充ててしまった。のちに景連は会津坂下で近衛家の荘園であった蜷川荘を拝領し蜷川氏の初祖となり太郎と称することになる。

 しかし、先住の土豪が各地に館を構え新参の不在領主の佐原氏に従うものはなかったので領地の経営に苦心していた。

 佐原義連は、頼朝より会津を拝領する際その跡を追って鎌倉より随従してきた赤沼内膳という陰陽師を利用する事を考えついた。当時の陰陽師は、軍師であったり敵退散の調伏をおこなう呪術師的な性格をもっていた。

 佐原義連は、彼に護身の像を与え社殿・神田あまたを寄進し神職としたのである。

 そして、この赤沼内膳の占いと調伏はなかなかの効き目があるという噂を流し、佐原氏自身も参詣をしたので周辺の土民はもちろん地侍達の尊崇を集めるに至ったのである。村人達はそれを赤沼稲荷と称するようになった。このように佐原義連は赤沼明神の加護で土豪の蜂起を鎮め、6人の子に所領を分割することになるのである。


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