2016年5月26日木曜日

信州里帰りそば



信濃武士たちの行く末 (その一)

昨年の10月に、江戸時代に信州の殿様の異動とともに他国(会津・出石・出雲)へ伝わり、その土地で独自に進化していった”信州里帰りそば”について書きましたが、今回は殿様の領地替えに伴って信濃から他国へと移っていった信濃武士について書いてみたいと思います。
  ◎第一部 上杉米沢藩と北信濃の武士たち
  ◎第二部 松平(保科)会津藩と伊那の武士たち
今回は、
  『上杉米沢藩と北信濃の武士たち』の①     
     ●川中島合戦後の上杉家と北信濃
     ●北信濃の武士たち
     ●大阪冬の陣と信濃武士  です
 越後上杉家の家紋 (竹に飛び雀)



●川中島合戦後の上杉家と北信濃
武田信玄との数回に亘る川中島での戦いの後、飯山地域を除いて信濃は武田家の領地となりました。1578年に上杉謙信が没すると、実子が無かった謙信の2 人の養子(景勝と景虎)の間で家督争いが起こりました(御館の乱)。景勝は信玄亡き後武田家を継いでいた武田勝頼と同盟を結び、景勝側が勝利すると信濃の 上杉領を武田家へ譲りました。この時点で武田家の信濃一国支配が完成したことになります。
その後その武田家も1582年に勝頼が織田信長によって滅ぼされると信濃も織田の支配となりました。
上杉は、越中(富山)、信濃(長野)、上野(群馬)の3方面から織田軍に攻められ、存亡の危機に立たされましたが、同年その織田信長が本能寺の変により明智光秀に殺害されることとなり、この機を捉えた上杉景勝は北信濃に進出し領地としました。
信長の事業を継承し天下を統一した豊臣秀吉政権下の1589年ごろの上杉家は、石高92万(越後・川中島・佐渡・庄内)を有していました。
 上杉景勝の像


1598年に豊臣秀吉の命により、上杉家は越後から会津120万石(会津・米沢・伊達・信夫・佐渡・庄内)へ転封となりましたが、大名としては徳川の240万石、毛利の120.5万石に次ぐ3番目の石高です。
同年秀吉が亡くなると、豊臣家で景勝と同じく五大老の一人であった徳川家康との対立が表面化し、1600年、家康による会津(上杉)征伐をきっかけとした 関が原の合戦において上杉と同盟していた石田三成(西軍)が敗れた結果、翌年家康により米沢へ移とされ石高も30万石へ大幅に減封されました。
石高が四分の一となったにも関わらず、家臣をリストラしませんでしたので、藩の財政は極めて厳しい状況でした。
更に3代藩主が世継がないまま急死したため、上杉家は廃絶の危機に陥りましたが、会津藩主保科正之の尽力もあり15万石に半減されその後幕末まで続きました。
 
 ※上杉家と保科正之及び忠臣蔵で有名な吉良家との関係については、また機会があれば書きたいと思います。
 
●北信濃の武士たち
上杉景勝が越後から会津に転封となった際、北信濃の武士たちは景勝に従って信濃の地を離れ会津に移りました。芋川、市河、夜交(夜間瀬)、小田切、大滝、尾崎、清野、平林、東城、西城、今清水、仙仁(せんに)、島津、須田、綿内などの諸氏です。
更にその後の領地替えにより北信濃武士たちは会津から米沢へと移り、その子孫の多くは米沢で明治維新を迎えました。
この間に上杉家の石高は激減したため、藩士たちの生活は大変だったのです。
 ※初代米沢市長の大滝龍蔵氏は、飯山の地から会津を経て米沢に移っていった大滝氏の末裔とのことです。

●大阪冬の陣と信濃武士
1614年家康は徳川幕府を磐石のものとするために大坂城の豊臣秀頼を攻めた大坂冬の陣の折、上杉景勝も徳川への忠誠心を証明するため3,000人 (5,000人など諸説ある)を率いて出陣しました。その中には市河、芋川、岩井、島津、香坂、夜交(よませ)、平林、井上といった信濃出身の武士たちも 大勢いました。
特に、後藤又兵衛基次らを相手に冬の陣の激戦地であった鴫野表の戦いで先陣を命ぜられた(信濃衆の筆頭格である須田満親の次男の)須田長義は、この戦いでの働きにより二代将軍徳川秀忠から感状と短刀を賜りました。
結局この冬の陣で上杉軍は300人という多くの戦死者を出しました。

 http://www.life-as.co.jp/blog/2008/03/post_27.html

2016年5月10日火曜日

東福院


500年以上も前に上杉謙信の四家老のひとりである赤田城主・斎藤朝信によって開基された名刹です。上杉謙信が将軍義輝より拝領した「兆殿司三幅対」をはじめ、「輪蔵」「笈」などの貴重な文化財が納められています。また境内には川中島合戦の英雄、長谷川与五左衛門基運(上杉謙信の部下)の墓が建てられています。

http://apple2004.fem.jp/kaguyast/toti/tera/touhukuin.html

川中島の戦い 第五回合戦

永禄二年 (一五五 九) 四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆるされて帰国された。管 領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるようになった。その後永禄五年には管領職についた。
 永禄三年九月から、謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。
 永禄四年春、謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。
 同八月、謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻めた。
 八月二十六日、信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、 越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。二十九日、信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめ て、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐 美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井 上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島には、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿 河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右 の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親 章を配置した。中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七 郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を待ち受けて一人残らずみな討ち取った。越 後勢が川を渡って、川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条 山の方ばかりに目をつけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と 見て、これが謙信の先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。
 翌十日朝、まだ夜が明けぬうちに、謙信方から貝を吹き、太鼓を打って、武田の陣に攻めか けた。武田勢は思いがけない方向から攻められ驚いたようだった。謙信の旗本が紺地に日の丸、それに 「毘」 の字を書いた大旗二本を立て、ちかぢかに押し かけたのを見て、備えを立て直す間もなく戦いかねるようだったが、武道第一の武田侍であるから、弓を射、鉄砲を撃ちかけ、越後の先手柿崎和泉守の軍は、信 玄の先手の飯富三郎兵衛に突きたてられ、千曲川の方に下ったのを見て、色部修理長実は、かねて待ち受けていたところなので、旗から槍を入れ、飯富の備えを 突き返した。斎藤下野守朝信は、武田方の内藤修理、今福浄閑の軍を追いたてて進んだ。長尾政景、本庄美濃守慶秀、長尾遠江守藤景、山吉孫次郎、北条丹後守 の五軍が先を争って、大声を上げて信玄方を切り散らした。謙信は八年前に信玄と太刀打ちをして討ちもらしたのが、口惜しく、この度は信玄をぜひ討ちたいと 心がけ、旗本の人数で、信玄の旗本にかかり追い崩した。武田の十二段の備えがみな敗北し、千曲川の広瀬のあたりまで、追い討ちをかけ、戦死者、負傷者は数 えきれない。信玄は犀川の方に退くのを、越後勢が追いかけた。その時、後から武田太郎義信が二千ばかりで謙信のあとを追ってきた。それで越後方の後備えの 中条梅披斎の軍が引き返して、義信方に防戦した。しかし旗色が悪く見えたところに、遊軍の宇佐美駿河守が助けに来て、中条と一手になって、武田義信軍を追 い返し、勝利を得て、数十人を討ち取った。あとで戦が始まったのを謙信が聞いて、不安に思って引き返して義信を防ごうとしたが、義信は宇佐美を斬り尽くし て退いたのを、直江大和守、甘糟近江守、安田治部丞の三軍が義信の軍を倉晶まで追い討ちにした。謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休 み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに 目がけて攻めかかって来た。越後方は今朝早くからの合戦に疲れ、ことに油断していたところで、少し先手で防いだが、備えもうまくゆかず、多くは馬に乗り遅 れ、敗軍となった。越後勢の戦死多数で、志田源四郎義時もここで戦死した。謙信は家の重宝である五挺槍というものの中から、第三番目の鍔槍という槍で、自 身で手を下して戦った。後には波平行安の長刀でさんざん戦ったところに、海津口を守っていた六軍のうちの本庄越前守、大川駿河守が駆けつけ、義信を追い返 した。この時、繁長自身は太刀打ち、大川駿河は戦死した。長尾遠江守藤景と宇佐美駿河守は応援に入り、義信を突き崩した。これで戦はひとまずおさまった。
 謙信は犀川を後ろにその夜は陣を取ったが、山吉孫次郎は、「今夜海津の城の敵が気がかり である。犀川を渡り、軍を取りまとめられては」と諌めたが、謙信は従わなかった。十一日の朝、謙信は下米宮の渡し口に備えを立て、直江大和守実綱、甘糟近 江守景持、宇佐美駿河守走行、堀尾隼人などと、西条山の陣小屋を焼き払った。そのあと、謙信は善光寺に三日滞在して、長沼まで入り、ここに二、三日逗留し て越後に帰陣した。
 はじめ、謙信が出張して、西条山に陣を取り、八月二十六日、信玄が下米宮の渡しに着いた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。
 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に 出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙 信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつ かなかった。
 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守走行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。
武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年 合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後に やられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむ なしく年月を送られるのはいかがなものか」と諌めた。
 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLと して、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の 木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても勝 負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組 討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」と申し入れた。
 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」とのことである。
 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に 乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗っていた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あっ たが、少しのことであるから書きつけなかった。
 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に 出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙 信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。
 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守定行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。
武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年 合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後に やられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむ なしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。
 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLと して、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の 木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても勝負がつかぬ。明 日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申し つけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」と申し入れた。
 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」とのことである。
 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に 乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗って出向き、馬上で大声で、「ここに出た者は、謙信の家老斎藤下野守朝信 の家来で長谷川与五左衛門基連と申す者、小兵ながら彦六と晴れの組討ちをご覧に入れる。いずれが勝つとも、加勢、助太刀は、永く弓矢の恥である」と言い、 彦六と馬を乗りちがえ、むずと組み、両馬の間に落ち重なり、彦六が上になり長谷川を組み敷いた。甲州方が声を上げて喜ぶ時、組みほぐれて、長谷川は安馬を 組みふせ上になり、彦六の首を取って立ち上がり高く差し上げて、「これをご覧下され。長谷川与五左衛門組討ちの勝利はこのとおり」と叫んだ。越後方は思わ ず長谷川うまくやったと一同感じどよめいた。甲州方は無念に思って、木戸を開けて千騎ばかりが討って出ようとしたのを、信玄は、「鬼神のような彦六が、あ の小男にたやすく組み取られたことは味方の不運である。かねて組討ちの勝利次第と約束した上は、川中島は越後に渡すことにする。約束を破ることは侍として 永く不名誉なことである。四郡は謙信のものと今日から定めよう」と言って翌日引き上げられた。これから四郡は越後の領となった。長谷川の手柄の印である。 そして村上義清、高梨政頬は、川中島に戻り、その志を遂げた。これから、武田と上杉の争いはなくなった。
 このことは、信玄の家来、須崎五平治、堀内権之進が書きとめておいた。この両人は、あと で浪人して越後に来て、上杉家に仕えている。それでよく調べて書いたものである。 この一冊は須崎、堀内の書いておいたものと、信玄の子孫にあたる武田主 馬信虎の家伝の書と、村上義清の子源五郎国清の書いたものを参考にして、よく調べて書き記したものである。
  慶長十年三月十三日
上杉内
 清野 助次郎
 井上 隼人正
『河中島五箇度合戦記』
 右の一冊は当家の者が書き残したものである。この度のおたずねについて、それを写して差し上げる。
  寛文九年五月七日
                                     うたのかみ
 右の書は、先年弘文院春斎に仰せつけられ、日本通鑑に選ばれた。酒井雅楽頭忠清に上杉家から差し上げられた一冊である。
 
 
http://spinsterial65.rssing.com/chan-57918467/all_p38.html
 

謙信の家老斎藤下野守朝信の家来で長谷川与五左衛門基 連と申す者


第五回合戦
 ○武田軍 ●上杉軍
 
 永禄二年 (一五五九) 四月、
●謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆるされて帰国された。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるようになった。その後永禄五年には管領職についた。
●永禄三年九月から、謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。
●永禄四年春、謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。
●同八月、謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻めた。
○八月二十六日、信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。
○二十九日、信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめて、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。
● 越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も 人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島に は、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から 新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。
● 謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長 尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親章を配置した。中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄 孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を 待ち受けて一人残らずみな討ち取った。越後勢が川を渡って、
○ 川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条山の方ばかりに目を つけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と見て、これが謙信の 先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。
●翌十日朝、まだ夜が明けぬうちに、謙信方から貝を吹き、太鼓を打って、武田の陣に攻めかけた。
○武田勢は思いがけない方向から攻められ驚いたようだった。
● 謙信の旗本が紺地に日の丸、それに「毘」の字を書いた大旗二本を立て、ちかぢかに押しかけたのを見て、備えを立て直す間もなく戦いかねるようだったが、武 道第一の武田侍であるから、弓を射、鉄砲を撃ちかけ、越後の先手柿崎和泉守の軍は、信玄の先手の飯富三郎兵衛に突きたてられ、千曲川の方に下ったのを見 て、色部修理長実は、かねて待ち受けていたところなので、旗から槍を入れ、飯富の備えを突き返した。斎藤下野守朝信は、武田方の内藤修理、今福浄閑の軍を 追いたてて進んだ。長尾政景、本庄美濃守慶秀、長尾遠江守藤景、山吉孫次郎、北条丹後守の五軍が先を争って、大声を上げて信玄方を切り散らした。
●謙信は八年前に信玄と太刀打ちをして討ちもらしたのが、口惜しく、この度は信玄をぜひ討ちたいと心がけ、旗本の人数で、信玄の旗本にかかり追い崩した。
○武田の十二段の備えがみな敗北し、千曲川の広瀬のあたりまで、追い討ちをかけ、戦死者、負傷者は数えきれない。
●信玄が犀川の方に退くのを、越後勢が追いかけた。
○その時、後から武田太郎義信が二千ばかりで謙信のあとを追ってきた。それで越後方の後備えの中条梅披斎の軍が引き返して、義信方に防戦した。
● しかし旗色が悪く見えたところに、遊軍の宇佐美駿河守が助けに来て、中条と一手になって、武田義信軍を追い返し、勝利を得て、数十人を討ち取った。あとで 戦が始まったのを謙信が聞いて、不安に思って引き返して義信を防ごうとしたが、義信は宇佐美を斬り尽くして退いたのを、直江大和守、甘糟近江守、安田治部 丞の三軍が義信の軍を倉晶まで追い討ちにした。
●謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに目がけて攻めかかって来た。
● 越後方は今朝早くからの合戦に疲れ、ことに油断していたところで、少し先手で防いだが、備えもうまくゆかず、多くは馬に乗り遅れ、敗軍となった。越後勢の 戦死多数で、志田源四郎義時もここで戦死した。謙信は家の重宝である五挺槍というものの中から、第三番目の鍔槍という槍で、自身で手を下して戦った。後に は波平行安の長刀でさんざん戦ったところに、海津口を守っていた六軍のうちの本庄越前守、大川駿河守が駆けつけ、義信を追い返した。この時、繁長自身は太 刀打ち、大川駿河は戦死した。長尾遠江守藤景と宇佐美駿河守は応援に入り、義信を突き崩した。これで戦はひとまずおさまった。
● 謙信は犀川を後ろにその夜は陣を取ったが、山吉孫次郎は、「今夜海津の城の敵が気がかりである。犀川を渡り、軍を取りまとめられては」と諌めたが、謙信は 従わなかった。十一日の朝、謙信は下米宮の渡し口に備えを立て、直江大和守実綱、甘糟近江守景持、宇佐美駿河守走行、堀尾隼人などと、西条山の陣小屋を焼 き払った。そのあと、
●謙信は善光寺に三日滞在して、長沼まで入り、ここに二、三日逗留して越後に帰陣した。
●はじめ、謙信が出張して、西条山に陣を取り、八月二十六日、信玄が下米宮の渡しに着いた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。
●先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。
○けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。
●永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守走行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。
○信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。
○ 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言 葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ 手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。
○ 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめしとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いと して謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十 三年から十二年の間、夜昼戦っても勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをや めたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」と申し入れ た。
●直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。
●○ 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一 騎、小さな馬に乗っていた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。
○● 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会 い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工 夫し、いろいろと手段を尽くしたが、
いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。
●永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守定行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。
○ 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言 葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ 手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。
○ 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめしとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いと して謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十 三年から十二年の間、夜昼戦っても勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることを やめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入 れた。
 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。
○永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。
● 越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗って出向き、馬上から大声で、「ここに出た者は、謙信の家老斎藤下野守朝信の家来で長谷川与五左衛門基 連と申す者、小兵ながら彦六と晴れの組討ちをご覧に入れる。いずれが勝つとも、加勢、助太刀は、永く弓矢の恥である」と言い、彦六と馬を乗りちがえ、むず と組み、両馬の間に落ち重なり、彦六が上になり長谷川を組み敷いた。
○甲州方が声を上げて喜ぶ時、組みほぐれて、長谷川は安馬を組みふせ上になり、彦六の首を取って立ち上がり高く差し上げて、「これをご覧下され。長谷川与五左衛門組討ちの勝利はこのとおり」と叫んだ。
●越後方は思わず長谷川うまくやったと一同感じどよめいた。
○ 甲州方は無念に思って、木戸を開けて千騎ばかりが討って出ようとしたのを、信玄は、「鬼神のような彦六が、あの小男にたやすく組み取られたことは味方の不 運である。かねて組討ちの勝利次第と約束した上は、川中島は越後に渡すことにする。約束を破ることは侍として永く不名誉なことである。四郡は謙信のものと 今日から定めよう」と言って翌日引き上げられた。
●これから四郡は越後の領となった。長谷川の手柄の印である。そして村上義清、高梨政頬は、川中島に戻り、その志を遂げた。これから、武田と上杉の争いはなくなった。
 
このことは、信玄の家来、須崎五平治、堀内権之進が書きとめておいた。この両人は、あとで浪人して越後に来て、上杉家に仕えている。それでよく調べて書いたものである。 
この一冊は須崎、堀内の書いておいたものと、信玄の子孫にあたる武田主馬信虎の家伝の書と、村上義清の子源五郎国清の書いたものを参考にして、よく調べて書き記したものである。
  慶長十年三月十三日
上杉内
 清野 助次郎
 井上 隼人正
『河中島五箇度合戦記』
 右の一冊は当家の者が書き残したものである。この度のおたずねについて、それを写して差し上げる。
  寛文九年五月七日
 右の書は、先年弘文院春斎に仰せつけられ、日本通鑑に選ばれた。酒井雅楽頭忠清に上杉家から差し上げられた一冊である。
 
 
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島津孫五郎


永禄11年(1568)
1・24
武田信玄、埴科郡本誓寺に寺領を安堵し、越後出陣のさい野伏二人を出させ、また禁制を掲げる。
2・
跡部勝忠、伊那郡虎岩郷平沢豊前守に、同郷の逃散百姓の田畑を渡し、その未進年貢を進納させる。
3・2
信玄、水内郡長沼城から越後進攻を計り、この日法善寺など甲斐諸寺に戦勝を祈らせる。
4・3
信玄、栗田鶴寿に甲府善光寺の条規を与える。
4・21
信玄、小県郡諏訪社に所領を寄進、越後境の築城の無事を祈らせる。このころ長沼城が築かれる。
63信玄、大井弾正忠に越後出陣を命じる。翌日諏訪上社神長守矢信真に戦勝を祈らせる。
7・10
信玄、上杉方の飯山城を攻める。ついで加賀・越中の一向宗徒と東西呼応し、越後侵入を計る。
7・13
信玄、木曾路諸宿に、相模海蔵寺の荷物運送のため伝馬七匹を出させる。
ついで甲府から諏訪郡蔦木・青柳・上原・下諏訪、筑摩郡塩尻・洗馬、木曾・賛川・奈良井・藪原・福島間の伝馬口銭を定める。
8・4
信玄、岩村田法華堂以下佐久・小県郡の修験二十二人に、戦勝祈藤を命じ普請役を免除する。
8・10
飯山在城衆、武田軍進攻を上杉輝虎に報じる。
輝虎、須田順渡斎らに各地の守備を堅めさせ、ついで村上国清らに飯山城・関山城などを防備させる。
9・16
信玄の臣上原筑前守の知行地佐久郡志賀郷などの検地帳が作成される。
名請人別に貫高を記すが、現実の耕作者は示さない。在村鍛冶がみられる。
9・20
信玄、村上旧領埴科郡坂木大宮に、坂木御料所内の地を寄進し、町屋敷の替地の給付を約する。
10・1
織田軍、三好氏の摂津芥川城を攻略、小笠原長時父子、同城を逃れ、ついで越後上杉輝虎を頼る。
10・2
信玄、島津孫五郎に、水内郡夏川・西尾張部などの本領を安堵し、長沼・蓮・村山・今富などを新恩に宛行う。
また西巌寺に長沼の地を安堵する。
10・3
信玄、高井郡勝楽寺など真宗寺院に、寺中の乱妨狼籍・陣取りを禁じる禁制を掲げる。
11・1
武田勝頼、紀伊高野山成慶院を高遠領住民の宿坊と定める。
11・10
信玄、善光寺大本願に、甲府善光寺の造立用材を甲斐八幡天神宮から採らせる。
12・12
佐久郡の人依田信守・信蕃父子ら、信玄軍の駿河攻めに属し、同国薩?峠で戦う。
このころ高遠城将秋山信友、下伊那衆らを率い遠江に侵入する。
家康、これに抗議する。
この年
武田氏、棟別銭などを整理し、棟別賦課の郷次・門次普請役を設定、軍役衆や伝馬役・細工役などを除く全戸に負担させる。   
  
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長谷川与五左衛門



先年より五箇度の大合戦、天文二十三年霜月より永禄七年迄十二年。 其中毎度に輝虎川中島へ出張、晴信と対陣に度々抹刈・刈田などの折節に、野際の物端にて、三百、四百、五百、七百出合いて討ちつ討たれつ勝負ある事数十度なり。
 されども信玄は輝虎の勇才を憚り、謙信は信玄の知謀を恐れ、互に大事と思慮を運らし、謀を工み種々挑まれけれども、何れも劣らぬ名大将故、行策に乗り申されず候。
永禄七年七月に、信濃口の押(おさえ)野尻城に置かれ候宇佐見駿河守定行生害し、長尾政景も果て申候故、信濃堺仕置として輝虎出張。直に川中島へ出られ候。
 晴信も出馬対陣なり。
 十日計り対陣なりと雖も例の事なれば日々迫合計りにて勝負なし。
武田家の一門家老共信玄へ意見申候は、川中島上郡下郡四郡を争ひ、十二年の間毎年の合戦止む事なく候。 両虎の勢にて遂に勝負無之、毎度士卒の疲労申尽し難く候間、具津城付の領分計り御治め、川中島四郡は輝虎へ遣され、扨駿河表、関東筋、美濃口へ御出張候て、御手の広くなり候様になさるべく候。 川中島四郡に御係はり、剛強なる輝虎と取合ひ空しく年月を送られ候事如何あるべしと諫め申候。
八月十日の朝晴信申され候は、互の運のためしなり。 安馬彦六を召出し、組討をさせ、互の勝負を見て、其勝利次第に川中島を何方へも納むべしとて、安馬彦六を使として此者を輝虎の陣所へ申遣さる。
彦六は上杉陣所一の木戸口に行く所に、輝虎陣より直江大和 守出向ひ、彦六は馬より下り、晴信申され候は、天文二三年より此方十二年の間、昼夜の戦有之と雖も、勝利の鋒同前にて今に勝負無之候間、明日は互に勇士を 出し、組打の勝利次第に川中島を納め取り、向後輝虎、晴信弓箭を止め申すべく候との段にて候。 夫により即ち安馬彦六と申す者、明日の組打の役に申付けられ、是迄参り候間、器量の人を出され、明日組打仕るべしと晴信申され候由申入候。
直江大和守取次にて、輝虎返事あり。 信玄の仰尤に候間、此方よりも出し申すべく候。 明日午の刻に組打仕るべしとの趣なり。
永禄七年八月十一日午の刻に、晴信方より安馬彦六唯一騎、物具爽に出立ちて、白月毛の馬に乗りて、謙信陣所指して乗向かふ。
 越後の陣所より小男鎧武者一騎、小たけなる馬に乗りて出迎ひ、則ち馬上にて大音揚げ、是へ罷出で候兵は、輝虎の家老斎藤下野守朝信が家来長谷川与五左衛門基連と申す者なり。
小兵なれども彦六と晴の組打御覧ぜよ。 何方に勝利候とも、加勢助太刀打ち候はば永く弓矢の疵にて候べしと呼びて、彦六と馬を乗り違え、むずと組み、両馬が間に落重り候に、彦六上になり、与五左 衛門を組敷き候時、甲州方は声を揚げ勇み悦ぶ所に、組みほぐれ、与五左衛門打勝ちて安馬を組臥せ、上に乗上り、彦六首を取りて立上り、高く差上げ、是れ御 覧候へ、長谷川与五左衛門組打の勝利此の如くと呼ばはり候。
 越後方には、覚えずして、長谷川仕候と一同に感じよどみ申候。
甲州方は無念に思ひ、千騎計り木戸を開き切って出でんと犇き候を、晴信見られ、鬼神の如くなる彦六が、あれ程の小男に容易く組取られ候仕合は、味方の不運なり。
 兼ねてより組討ちの勝利次第と約束の上は、川中島相渡し候。 違変は侍の永き名折れなり。 川中島四郡は輝虎次第と今日より致すべく候とて、翌日信玄人数を打入れられ候。
是により中郡、下郡越後の領となり候事、長谷川手柄の印なり。 即ち村上義清、高梨政頼、川中島へ移住、本意にて候。 是より武田、上杉の弓箭取合止み申候。
小山義雄「月生城史談」より

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2016年5月5日木曜日

信濃国人衆(長沼氏、赤沼氏)

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嶋津家臣団


三州守護 島津(総州家、奥州家、相州家、薩州家、豊州家)氏
相州家庶流 加治木島津氏、佐志島津氏、日置島津氏、永吉島津氏、佐土原島津氏、垂水島津氏、新城(末川)島津氏、宮之城島津氏、喜多村島津氏、
奥州家庶流 喜入氏、桂氏、迫水氏、大島氏、竹崎氏、義岡氏(伯州家)志和池氏、亀山氏、藤野氏、
総州家庶流 相馬氏姶良氏(碇山家)
薩州家庶流 吉利氏、大野氏、寺山氏、大田氏、三栗(三葉)氏、西川氏、
惟宗姓伊作氏族 伊作氏(島津伊作家)、若松氏、西氏、石見氏、恒吉氏、
惟宗姓伊集院氏族 伊集院氏、丸田氏、松下氏、南郷氏、入佐氏、大田氏、日置氏、今給黎(知覧)氏、麦生田氏、大重氏、黒葛原氏、土橋氏、東氏、吉俊氏、飛松(富松)氏、四本氏、伊鹿倉氏、門貫氏、古垣氏、春成氏、福山氏、有田屋氏、
惟宗姓新納氏族 新納氏、西谷氏、大崎氏、邦永氏、
惟宗姓北郷氏族 北郷氏(島津都城家)、神田(上田)氏、
惟宗姓樺山氏族 樺山氏、土持氏、外城氏、池尻氏、
惟宗姓町田氏族 町田(石谷)氏、阿多氏、梅本氏、飯牟礼氏、
惟宗姓川上氏族 川上氏、辺川氏、小原氏、山口氏、
惟宗姓佐多氏族 佐多氏(島津知覧家)、伊佐敷氏、池上氏、
島津一族 和泉(出水)氏、石坂氏、山田氏、阿蘇谷氏、宇宿氏信濃国人衆、宮里氏信濃国人衆
梶原氏族 酒匂氏、梶原氏、左近氏、
平姓畠山氏族 伊地知氏、蓑輪氏、田島氏、真玉氏、讃良氏、松方氏、畠山氏、田之上氏、中馬氏、
島津家臣 本田氏、鎌田氏、山田氏、村田氏、三原氏、難波氏、上井氏、八木氏、上原(伊作田)氏、園田氏、猿渡氏、堀氏、大寺氏、石井氏、中条氏、奈良原氏、古川氏、伊勢(有川)氏、井尻氏、色紙(前田)氏、服部氏、河野氏、境田氏、稲留氏〈肥後国人衆収録〉、
三十三家 岡崎氏、二宮氏、名越氏、田代氏、鹿島氏、赤塚氏、

在国司 大前氏、東郷氏、斧淵氏、富光氏、滝聞氏、
紀姓伊集院氏族 伊集院氏、桑羽田氏、宮里氏
惟宗氏族 執印氏、国分氏、五代氏、河上氏、平野氏、羽島氏、向井氏、五大院(後醍院)氏、
大蔵氏族 加治木氏、郡山氏、比志島氏、小山田氏、川田氏、辺牟木氏、前田氏、西俣氏、市来氏、河俣氏、
有馬氏族 長谷場氏、矢上氏、有間氏、益山氏、
莫禰氏族 莫禰(阿久根)氏、岩元(岩本)氏、遠矢(遠屋)氏、
平姓伊作氏族 頴娃氏、薩摩氏、吉富氏、岩元氏、上野氏、是枝氏、指宿氏、知覧氏、川辺(河辺)氏、谷山氏、別府氏、加世田氏、阿多氏、石塚氏、得丸氏、平田氏、帖佐氏、寺師氏、牧氏、
牛屎氏族 牛屎氏、淵辺氏、鳥越氏、

伴氏族 肝付氏、三俣氏、橋口氏、梅北氏、北原氏、安楽氏、岸良氏、検見崎氏、救仁郷氏、津曲氏、武光氏、薬丸氏、鹿屋氏、白坂氏、江田氏、広田氏、
檜前氏族 檜前氏、篠原(薗田)氏、岩崎氏、萩崎氏、税所氏、

日下部氏族 日下部氏、真幸氏、平島氏、井上氏、土持氏、海江田氏、蒲生氏、吉田氏、美代氏、
大神氏族 三田井氏、
大隅国人 敷根氏(島津市成家)、西郷氏、
平山氏族 平山氏、甑氏、松元(松本)氏、

渋谷氏族 入來院氏、渋谷氏、東郷(車内)氏、祁答院(柏原)氏、下村氏、岡元氏、村尾氏、山崎氏、寺尾氏、山口氏、高城氏、炭浦氏、下津留氏、白浜氏、湯田氏、宇多氏、大村氏、藺牟田氏、家村氏、草留氏、瀬戸口氏、手島氏、

鎌倉御家人 伊東(工藤)氏、二階堂氏、鮫島氏、菱刈氏、小川氏、野辺氏、
建部氏族 禰寝氏、武氏、池端氏、宮原氏、松沢氏、池袋氏、弟子丸氏、
名越北条家臣 種子島氏、肥後氏、西村氏、美座氏、中田氏、河内氏、財部氏、岩河氏、河東氏、下村氏、国上氏、北条氏、最上氏、古市氏、平山氏、前田氏、遠藤氏、野間氏、上妻氏、鮫島氏、日高氏、長野氏、榎本氏、渡辺氏、羽生氏、牧氏、
富山氏族 富山氏、岩切氏、志々目氏、浜田氏、
赤橋北条家臣 楡井氏、
伊東家臣 木脇氏、深歳氏、清武氏、前田氏、佐土原氏、田島氏、長倉氏、西牟田氏、飯田氏、右松氏、荒武氏、野村氏、落合氏、稲津氏、川崎氏、湯地氏、米良氏、高橋氏、福永氏、大脇氏、



持明院統(近衛氏)
赤松家(島津氏)
信濃国人衆(長沼氏、赤沼氏)
足利家(三方氏)
北条家(島津氏)
得宗家(工藤氏)
少弐家(有馬氏)



摂関家荘園群「殿下渡領」の内で最大の荘園は、日向国南部・薩摩・大隅両国にかけて広がる嶋津荘でした。
嶋津荘の荘官である惟宗氏が武士化したのが島津氏です。
島津忠久は源頼朝に信頼され、薩摩・大隅・日向三国の惣追捕使(守護)となり、大名化していきます。

しかしこれらの国々には古代豪族が多く存在していました。
薩摩国では在庁官人のトップである「在国司」源姓大前氏族があります。

そして注目すべきは平姓武士団です。
特に嶋津荘を開発した平季基らの系統で薩摩平氏と呼ばれる莫禰一族、川辺一族、帖佐一族らはかなりの勢力がありました。
薩摩(吉富)氏や指宿、知覧、谷山氏らは南北朝時代に島津氏と覇権争いをします。

長谷場一族は肥前有馬氏と同族で、平直澄の子孫とされ、藤原純友の子孫を称してもいます。

川辺一族のなかでも頴娃氏は重要です。
薩摩氏、指宿氏、知覧氏、など頴娃忠永(忠長)から分かれた家が多いのにも関わらず、
頴娃氏自体は他氏からの養子が入っているのでややこしくなっています。
まずは鎌倉時代に長谷場一族の益山氏から忠純が入り、
南北朝時代には島津久豊が一時養子となり、その後、伴姓肝付氏から兼政が入り、
さらに島津勝久(後に島津奥州家相続)や久秀(島津義虎の子)、久政(鎌田政近の子)が入嗣しています。
養子関係が多いのは頴娃氏の重要性の高さを表していると言えるでしょう。

ついでに東国御家人として鎌倉時代に来住した渋谷一族や
島津氏の家臣である酒匂、本田、伊地知、山田氏も平姓です。

他には島津氏と同族である惟宗一族や九州に多く存在する大蔵一族やそして紀姓伊集院氏も有力な存在です。

島津氏は伊作や伊集院に一族を送り込み、勢力を増大させます。

東国御家人では鮫島、二階堂ら工藤氏族が目立ちます。

大隅国では肝付氏ら伴氏族や、禰寝氏ら建部氏族が有力ですが、
鎌倉時代の名越北条家の家臣であった肥後氏の一族とされる種子島氏も注目です。
禰寝氏も肥後氏も鎌倉北条氏との関係がポイントです。

日向国は日下部氏及びその地盤を受け継いだ土持氏や、古代豪族の三田井氏がいましたが、
南北朝時代には島津一族の新納氏、北郷氏、樺山氏、石坂氏や足利一族の畠山直顕の進出が見られます。
ここでも東国御家人の工藤氏から派生した伊東氏や横山氏族の野辺氏が発展します。

やはり鎌倉時代に北条氏と関係の深かった工藤(伊東)氏や肥後(種子島)氏は重要ですね。



島津総領家は総州家、奥州家、相州家、薩州家、豊州家と呼ばれる五つに分かれています。

総州家は薩摩守護・師久に始まる家で本来はこの家が嫡流なのでしょう。
総州家は川辺氏の地盤を受け継ぎますが、弟・氏久に始まる奥州家に押されて衰退します。
総州家からは相馬氏、碇山氏、姶良氏が分かれます。

奥州家は大隅守護・氏久に始まり、次の元久の代に三州守護となります。
元久の跡は、当初は総州家の久照(北殿)が養子となり、
元久死後は伊集院頼久の子・熈久と頴娃氏の養子となっていた氏久の子・久豊(南殿)との争いの結果、久豊が継ぎます。
室町時代の惣領は奥州家です。
奥州家からは喜入氏、桂氏、迫水氏、大島氏、義岡氏、亀山氏、藤野氏が分かれます。

相州家は奥州家・忠国(久豊の子)の庶長子・友久から始まる家ですが、
伊作氏から忠良が入ってきたことにより勢力を拡大させます。
次の貴久が奥州家・勝久の養子となり、三州守護となり
義久の代に九州制圧直前まで行きますが、豊臣政権に服属し、薩摩・大隅両国及び日向諸県郡を安堵され、
江戸時代の忠恒(後に叔父と同じ家久と改名)の代に琉球を加え、薩摩藩主として続きます。
忠良の子・忠将(相州家相続)から佐土原家、垂水家、新城家(のち末川家)が派生、
同じく忠良の子・尚久からは宮之城家、喜多村家が派生し、佐志家(久近)へ養子に入ります。
貴久の子から日置家(歳久)、永吉家(家久)、義弘の子から佐志家(忠清)が創設されます。
島津忠恒の子からは
島津義弘と古代豪族の加治木氏の地盤を受け継いで加治木家(忠朗)を創設されたり、
島津一族の豊州家(忠広)、日置家(忠心)、永吉家(久惟)、垂水家(忠紀)、
伊集院氏(久朝)、北郷氏(久直)、樺山氏(久尚)、町田氏(忠尚)、桂氏(忠隆)、今給黎氏(久国)や、
家臣の鎌田氏(正勝)、伊勢氏(貞昭)、禰寝氏(重永)へ養子に入ります。
島津光久の子からは島津一族の佐志家(久岑)、末川家(久侶)、北郷氏(久定・忠長)、喜入氏(忠長・久亮)、佐多氏(久達)や、
鎌田氏(正長)へ養子に入りました。

薩州家は久豊の子・用久から始まった家で薩摩守護代を務め、相州家と覇権を争います。
島津義虎の子は島津日置家や頴娃氏、入來院氏へ養子に入ります。
薩州家からは吉利氏、大野氏、寺山氏、大田氏、三栗氏、西川氏が分かれます。

豊州家は久豊の子・季久から始まった家で、後に北郷氏から忠親、島津忠恒の子・忠広が養子に入ります。
季久の子は加治木氏(満久)、平山氏(忠康)へ養子に入ります。

伊作氏(又は「伊作家」)は島津久経の子・久長に始まり、前述の通り相州家と深い関係にあります。
伊集院氏は古来より院司を務める有力紀姓の豪族でしたが、島津忠経の孫・久兼が受け継ぎます。
最終的には島津忠恒の子・久朝が伊集院本家を継ぎます。

新納氏は島津忠宗の子・時久から分かれた家で、後に宮之城家の久元、薩州家の忠影が養子に入ります。
北郷氏も島津忠宗の子・資忠から分かれた家で、後に豊州家の時久、島津忠恒の子・久直、光久の子・久定及び忠長が養子に入り「都城家」となります。
樺山氏も島津忠宗の子・資久から分かれた家で、後に島津忠恒の子・久尚や、東郷氏(永吉家出身)から久広が養子に入ります。
町田氏は島津忠経の子・石谷忠光から始まり、後に島津忠恒の子・忠尚が養子に入ります。
川上氏は島津貞久の庶長子・頼久から分かれ、本家は他から養子を入れず、存続します。
佐多氏は知覧氏の地盤を受け継ぎ、後に島津光久の子・久達が養子に入り「知覧家」となります。

入來院氏は相州(佐土原)家(重時)、薩州家(重高)から養子が入ります。
東郷氏は永吉家(重虎)から養子が入ります。
敷根氏は宮之城家(立頼)から養子が入り「市成家」となります。
肝付兼屋は島津忠恒の婿ということで准一族扱いです。
種子島氏の当主は島津本家の婿になることが多いので重視されていたのでしょう。



島津家臣中枢
島津貞久時代 新納時久・川上頼久・酒匂久景・土持栄定・土持栄幽
島津氏久時代 本田氏親・本田親治・土持栄勝
島津元久時代 本田忠親・平田親宗・上井元秋
島津久豊時代 本田重恒・平田重宗・伊地知季豊・柏原好資・大寺元幸
島津忠国時代 島津用久・新納忠臣・北郷知久・樺山孝久・町田胤久・町田一久・山田忠尚・末吉忠勝・本田国親・本田重恒・本田宗親・平田氏宗・平田兼宗・村田経房・村田経茂・伊地知季豊・柏原永好・大寺忠幸・石井義忠・加治木親平・長野助家・高木経家・廻元政・税所称阿・和田政直・財部固成
島津忠昌時代 新納忠続・本田兼親・平田兼宗・村田経安・伊地知重貞
島津忠治時代 本田兼親・伊地知重貞・桑波田景元・鳥取政茂
島津忠隆時代 本田兼親・伊地知重周・桑波田景元・鳥取政茂
島津勝久時代 本田兼親・本田親尚・伊地知重周・桑波田景元・肝付兼演・土持政綱・梶原景豊・池袋宗政
島津貴久時代 伊集院忠朗・伊集院忠倉・伊集院忠棟・新納康久・川上忠克・川上久朗・喜入季久・本田薫親・本田盛親・本田親信・村田経定・村田秀久・三原重秋・鎌田政年・肝付兼盛・平田昌宗・平田宗茂・伊地知重興?
島津義久時代 島津征久・島津義弘・島津家久・島津忠長・伊集院忠棟・新納忠元・町田久倍・川上忠克・喜入季久・今給黎久治・本田親貞・村田経定・平田昌宗・平田光宗・上井為兼・河野清通・上原尚近・市来家諸




応永二十九年奉加帳
島津久豊・忠国
新納忠臣
樺山教宗?
伊作勝久?
北郷知久
山田忠豊
伊集院頼久
佐多久清・浄了
平山武久
本田重恒
大寺元幸
平田重宗
柏原好資
伊地知久安


島津家地頭
島津義弘 帖佐
島津歳久 宮之城
島津尚久 秋目・加世田
島津忠長 久志・串良
島津忠廉 帖佐・串良
島津孝久? 伊集院

伊集院忠朗 鹿児島・姫木
伊集院忠棟 北村・高山・南郷
伊集院忠俊 水引
伊集院久宣 清武
今給黎久通 市成・踊・牛根
今給黎久治 串間・桜島・市来・出水・高山
今給黎久信 横川
南郷忠鏡 加久藤
南郷久元? 阿多
南郷忠行 吉松
日置忠饒 串間
古垣忠晴 水俣
春成久正 加世田

新納武久 富田
新納忠元 大口・牛山・御船
新納忠光 伊作
新納康久 大崎・加世田
新納久饒 隈城
新納久時 綾
新納長住 市来
新納孝久 隈城
新納久厚 蘭牟田
新納忠宗 恒吉
新納忠豊 市成
新納忠誠 曾木

北郷久村 財部
北郷久堯? 山田
北郷久薫 梶山
北郷久慶 志和地
北郷喜左衛門 都城
北郷又次郎 高城
北郷久左衛門 末吉
北郷大炊 勝岡
北郷久蔵 野々美谷
北郷雅楽 安永
神田久友 山之口
神田久猶 山之口

樺山長久 山之口
樺山忠助 穆佐
樺山久高 百引・出水・伊作・志布志

町田久倍 伊集院
町田忠倍 伊集院
町田久幸 高山
町田忠堯 新城

川上兼久 伊集院
川上久隅 蘭牟田
川上久貞 中郷
川上久運 頴娃・高山・飯野・高城
川上久尚 百引・吉田
川上栄久 川辺
川上忠克 谷山
川上久辰 谷山
川上忠智 栗野・飯野・加久藤・蒲生・馬越
川上忠堅 蒲生・馬越
川上翌久 本庄
川上倍久 永吉・蘭牟田
川上源五郎 向島
川上大炊 小林

佐多久政 佐多
佐多忠増 百次

喜入頼久 指宿
喜入忠誉 喜入
喜入忠俊 喜入
喜入季久 喜入
喜入久通 喜入
桂忠昉 平佐
義岡忠縄 梅北
吉利忠澄 吉利・塩水・三城
吉利忠金 倉岡
吉利忠知 穆佐
大野忠綱 加世田
大野忠悟 山田
大野忠宗 加世田・山田
阿多忠秋 阿多
阿多忠辰 川辺
寺山久兼 市成
大田昌久 帖佐
島津忠弘 阿多

本田親貞 吉田・加世田
本田親治 加世田
本田薫親 永吉・山田・向島
本田公親 曽於
本田道親 田布施
本田宗親 加世田
本田親光 加世田
本田親利 鹿籠・坊泊
本田為親 曽於
本田正親 加世田
本田親正 甑島

伊地知重貞 加治木
伊地知重辰 加治木
伊地知重兼 加治木
伊地知重豊 川内山田
伊地知重頼 田布施
伊地知重康 平和泉
伊地知重茲 指宿
伊地知重政 門川
田島重秀 姶良

鎌田政年 帖佐・牛根・志布志
鎌田政心 百次・財部
鎌田政近 都於・指宿
鎌田政郷 田布施
鎌田正勝 高橋・蒲生・高岡
鎌田正長 平松・帖佐
鎌田政在 桜島
鎌田政貞 鶴田
鎌田長門 垂水

村田経定 蒲生・郡山・吉田
村田経威 市来・郡山
村田経安 郡山
村田経清 郡山
村田亀丸 曽於

山田有信 高江・高城・日置・串木野・隈城・福山

三原重益 加世田
三原重秋 帖佐・重富・曽於
三原重行 伊作
三原重香 伊作
三原重治 伊作
三原重隆 郡山

比志島義基 栗野・曽井
比志島義住 郡山
比志島国守 岩川
比志島国親 岩川
比志島国真 市来・隈城・北村
比志島国貞 市来・高岡
比志島義知 曽井
川田義朗 川田・垂水

鮫島宗豊 田布施・高橋
鮫島宗増 大野
鮫島土佐 大野

伊勢貞真 飯野
伊勢貞清 高岡
有川貞易 高橋
井尻祐貞 肱屋

上井薫兼 永吉
上井為兼 永吉・宮崎
上井秀秋 馬関田・小林・綾

上原尚氏 曽於
上原尚近 高原・飫肥
上原尚演 吉松・横川
上原尚政 横川

八木正信 吉田
柏原有国 松山
猿渡信光 加世田・羽月
宮原景時 串木野
宮原景種 須木・佐敷
敷根頼賀 市成
敷根頼豊 野尻

高崎能名 伊作
高崎能宗 伊作
高崎能広 伊作

市来家親 松山
市来家廉 加世田・川辺
市来家守 野尻
五代友慶 馬関田
大寺頼安 山田
大寺安辰? 加世田・阿多
大寺大炊 田野

莫禰良正 阿久根
莫禰良有 阿久根
遠矢良時 長野

平田昌宗 帖佐・伊集院
平田光宗 帖佐・八代・郡山・西別府
平田歳宗 帖佐
平田増宗 郡山・吉田
平田宗茂 川辺・加世田
平田宗貞 加世田
平田宗仍 末吉
平田宗応 木脇
平田宗弘 本城
平田宗吉 山田
平田宗張 山田・川辺・穂北
平田宗祇 指宿

頴娃兼洪 指宿
頴娃兼賢 小林
頴娃久政 日当山・高山・伊集院
頴娃久友 山田
頴娃久甫 小根占・伊集院
知覧久純 梅北
知覧忠喜 梅北

入来院重孝 百次
入来院重清 帖佐・重富
東郷重位 坊泊
村尾重候 山田・次木
白浜重政 大村

肝付兼盛 溝辺
肝付兼寛 加治木
肝付兼吉 恒吉
肝付兼清 姶良
肝付兼広 梅北
肝付備前 踊・日当山
肝付新左衛門 大姶良
肝付淡路 加例川
梅北国兼 湯尾
津曲俊宗 指宿
津曲兼任 指宿・頴娃・今和泉
津曲兼音 指宿
津曲兼延 指宿
津曲兼敏 指宿
検見崎兼泰 串良
岸良兼慶 市成
岸良兼直 大姶良
安楽兼近 市成
薬丸兼将 高山
白坂兼頼 加久藤・吉田
中村対馬 百引
中村吉親 百引
河越重高 百引
河越重尚 高隈
隈本宗清 踊

伊東祐審 馬越
木脇祐昌 木脇・花山・水引・頴娃・栗野
木脇祐章 川内・山田・吉松
木脇祐玄 串木野
落合兼有 山之口
落合兵部 穆佐
落合上総 守永
長倉伴九郎 清武
上別府宮内 清武
上別府常陸 飫肥
野村秀綱 平佐
野村松綱 内山
野村文綱 内山
野村重綱 白砂崎
野村清綱 高江
野村是綱 山崎
福永宮内 飫肥・飯田
福永丹後 浦之名
米良重方 三山野久尾
米良右馬 紙屋
米良休介 坪屋・津保屋
稲津民部 梶山

土持盈信 栗野・大崎・高江・曽於
土持頼綱 末吉
土持孝綱 大岩田口
土持次昌 末吉

税所篤職 牛山・山野
税所篤和 山野
税所新介 曽於

小杉頼栄 恒吉
財部盛住 曽於・踊
鳥丸重利 中郷
小島辰綱 曽於
平兼安 加世田・川辺
平宗綱 加世田
奈良原資 加世田
奈良原敦 逆谷
菱刈重広 本城
藤原忠易 野田・高野
藤原忠綱 末吉
藤原秀家 久志
藤原兼頼 吉田
藤原良房 鹿屋
稲留長辰 八代・紙屋
稲留長秀 加世田
平川景信 加世田
禰寝重張 根占
吉田朝清 帖佐山田
吉田清孝 阿多
曾木越中 吉松
東条民部 高山
山口貞行 松山
和田越中 勝岡・野々美谷
二階堂安房 湯之浦



江戸時代
鹿児島・島津氏770000石
都城・北郷氏39000石
佐土原・島津氏30000石
垂水・島津氏18000石
加治木・島津氏17000石
宮之城・島津氏15000石



島津氏一家
島津忠久(豊後前司)

(豊後守)忠久子
島津忠時(豊後修理亮)
島田忠綱(豊後四郎左衛門尉)
島津忠直(豊後六郎左衛門尉)

(大隅守)忠時子
島津久経(大隅修理亮)
山田忠継(大隅式部少輔)
中沼長久(大隅大炊助)
島津忠康(大隅式部丞)
島津忠佐(大隅左衛門尉)
阿蘇谷久時(大隅四郎)
島津忠経(大隅五郎)
島津久氏(大隅七郎)

(下野守)久経子
島津忠宗(下野三郎左衛門尉)
伊作久長(彦三郎)
島津忠長(下野彦三郎左衛門尉)

(常陸介)忠経子
給黎宗長(進士三郎左衛門尉)

(周防守)忠綱子
島津忠行(周防三郎左衛門尉)
島津忠泰(周防四郎左衛門尉)
島津忠景(周防五郎左衛門尉)








島津四兄弟
島津義久(材徳)
島津義弘(雄略)
島津歳久(知謀)
島津家久(兵術)

看経所四人
新納忠元
肝付兼盛
鎌田政年
川上久朗



島津四朗(僕が勝手に考えました)
島津家にいる4人の「朗」
島津忠良の最大の功臣というべき伊集院忠朗
軍師役の岩切信朗
伊集院忠朗と岩切信朗の二人から兵法を伝授された、これまた軍師役の川田義朗
そして薩摩国守護代と嘱望された川上久朗。
ちなみに鎌田政近も法名が源朗です。

軍師役
岩切信朗
川田義朗
新納久饒