日出處天子[編集]
大業3年(607年)の国書に「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、仏教を学ぶための使者の国書が有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」であり、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を怒らせた(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)。「日出處」「日沒處」は当時の仏典(『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』など)に「日出処是東方 日没処是西方」とあり東西の方角を表す表現でもある。しかし隋書には過去の倭が授かっていた、朝鮮半島の将軍や倭国王への任命や称号を日本側から求めたり、隋も印綬を多利思比孤へ支給する記述が出現しない[4]。このことから単なる方角を表す表現と断定はできない。
解釈[編集]
『隋書』はこの王を妻のいる男性としており、男性の王は『日本書紀』、『古事記』には記述が無い。『旧唐書』卷199上 列傳第149上 東夷 倭國 においても倭国の王の姓は阿毎氏であるとしている。『新唐書』卷220列傳第145 東夷 日本に「用明 亦曰目多利思比孤直隋開皇末 始與中國通」とあり多利思北孤を多利思比孤とし用明天皇としている。
太子名(固有名詞説と普通名詞説がある)のうち利を和の誤りとする説がある。古来の大和言葉では、原則として「ら行」音は語頭に立たない(万葉仮名では語頭にr音が来ない)ことから、「利」を「和」の誤りとして「利歌彌多弗利」を「和歌彌多弗利」とする。また、「和歌彌多弗利」を源氏物語等にもあらわれる「わかんどほり(皇室の血統、皇族)」とする説もある[5]。なお、『翰苑』には「王長子号和哥彌多弗利。華言太子。」とある。
タラ(リ)シヒコは人名ではなく、日本語の意味を理解していなかった中国人が誤解したものという説がある[6][7]。文献では、姓はアメ、字はタラシヒコと記述されているが、日本語では、「天垂らし彦」になり、天から垂れた(降りた)男子という意であり[8]、つまり「天孫」という意味になる。中国語では「天子」(『通典』では「天児」)がこれに当たるが、中国の天子とは意味が異なる[9]。一方で、熊谷公男は『万葉集』の「天の原 振り放(さ)けみれば 大王の 御寿(みいのち)は長く 天足らしたり」(巻二から一四七)の歌などを参考に、「天の満ち足りた男子」という意味の尊称と解釈している[10](この説は森田悌も支持している[11])。森田悌は邪馬台国の時代では、「天垂らし彦」の称号があったとは考えがたいとし[12]、以後の時代に大陸思想の影響から芽生えたとみている[13](また、「天子」という語が反感を受けたのに対し、「天垂らし彦」の反応が低かったことに注目している)。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
脚注[編集]
- ^ 日本では通常、「俀國」は「倭國」の誤りとされる。
- ^ 大王 (ヤマト王権)参照
- ^ 『日本書紀』、『上宮聖徳法王帝説』の記述とは順序が異なっている。
- ^ 吉村武彦 『古代天皇の誕生』p.110 角川書店 ISBN 978-4047032972
- ^ 石原道博 (編訳)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝 (1)』 (岩波書店、1985年)
- ^ 森公章 『日本の時代史3 倭国から日本へ』 吉川弘文館 2002年 ISBN 4-642-00803-9 p.8.
- ^ 編集白石太一郎 吉村武彦 『新視点 日本の歴史2 古代編Ⅰ 古代►飛鳥時代』 新人物往来社 1993年 ISBN 4-404-02002-3 pp.313 - 314.
- ^ 熊谷公男 『日本の歴史03 大王から天皇へ』 講談社 2001年 ISBN 4-06-268903-0 p.237.
- ^ 『新視点 日本の歴史2 古代編Ⅰ』 p.314.
- ^ 同『日本の歴史03 大王から天皇へ』 p.237.
- ^ 森田悌 『推古朝と聖徳太子』 岩田書院 2005年 ISBN 4-87294-391-0 p.145.
- ^ 同『推古朝と聖徳太子』 p.145.
- ^ 同『推古朝と聖徳太子』 p.146.
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