2016年5月1日日曜日

信濃国太田庄相伝系図




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  1. 国分、旧舞鶴城城下の東方に 諏訪神社が鎮座する。 なぜここに「諏訪」を勧請したのだろうか。
  2. 「諏訪」と言えば「龍神」、水害・水難からだろうか。 海岸縁で且つ河川もある。洪水や津波の被害を推察するが。 当時は、入江で、中洲が七島、あったそうだ。
  3. 一説では、鎌倉武家集団の間で「諏訪詣で」が盛んだったと伝う。 鎌倉下向武士団の島津が奨励したのだろうか。 吾妻鏡 巻六 では、諏訪大社に神馬を奉納している。
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    吾妻鏡 巻六

    文治2年 丙午(1186) 1月23日 壬寅   二品神馬を諏訪上下宮に進すと。   
  4. 旧島津藩に諏訪神社が多数鎮座されているのには それなりの背景がある。
  5. 島津の祖「忠久」は、 当初、この諏訪神社(諏訪大社)が 鎮座する信濃國の地頭職にあった。 ===>>三国名勝図会・鹿児島・正一位諏方大明神社、 「諏訪御符礼之古書」「信濃国太田庄相伝系図」 ■信濃國塩田庄:現在の上田市塩田(産川流域) ===>>工藤能綱譲状案(工藤文書・石川文書) ■大田庄: 豊野町南郷から長野市赤沼・津野にかけて 太田という地名が残っている ===>>古来、近衛家領、 養和元年(1181):木曽義仲の領地となる 元暦元年(1184):義仲滅亡後、島津忠久が地頭拝命
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    鎌倉幕府下知状(島津家文書)

    承久3年(1221):5月8日 可令早左衛門尉惟宗忠久 為信濃國大田庄地頭職事 右人、可為彼職之状、頼仰下知如件 承久3年5月8日   陸奥守平朝臣在判(北条義時)   
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    吾妻鏡 巻七

    文治3年 丁未(1187) 8月8日 丙子  惟宗行能謹んで解す     最勝寺訴え申す若狭の国今重保、     院宣並びに鎌倉殿の御下文の旨に背き、     押領を企てる由の事    右九郎判官逆乱の時、東国より武士上洛の日、    行能北條時政の手に相具し上洛しを    はんぬ。而るに兵粮米充給所として、    代官を置き沙汰を致すべからざるの由、    鎌倉殿より仰せ下さるるに依って、    代官を置かず、本国に罷り下りをはんぬ。        況や今重保に於いては、知行すべきの由緒無し。    また鎌倉殿より恩給の所に非ず。    何を以て押領を致せしめんか。    但し行能代官と号し、去文無くんば、    用いべからざるの由を称し、    度々院宣並びに鎌倉殿の御下文に背くの間、    院宣に依って御勘発に預かる。    これに因って且つは不当の名を取り、    その恐れ少なからず。    然れば行能代官と号すの輩に於いては、    早く搦め取られ、    罪科に処せらるべきなり。全く行能が結構に非ず。    仍って謹んで解す。          文治三年八月八日       惟宗(判) shimazu_koremune"
  6. 前出の「正一位諏訪大明神社」の由緒にもあるように 五年己酉 右大将源公 陸奥國押領使蓁衡を 征伐し給ひし時 得佛公御年十一歳 命を蒙りて副将軍となり 前軍に都督たり 此時深く信濃國諏訪大明神神に 斎祷し給ひて軍利あり 功成りて凱旋し給ひけり 陸奥国に出陣のおり 戦勝祈願をし軍功を挙げた。 それ以後崇拝するようになった。
  7. 藤原定家の「明月記」や「吾妻鏡」に登場する「承久の乱」 この合戦に出陣するに際し、諏訪神社詣でをし武勲を挙げた。 以後、島津の氏神「稲荷」と同様、崇拝し勧請した。
  8. 諏訪大社に関しての初見は次のようだ。 『日本書紀』巻三〇持統五年(六九一)八月辛酉《廿三》◆辛酉。 遣使者祭龍田風神。信濃須波。水内等神。
  9. また、当地の諏訪神社には「諏訪上下」とか 「諏訪上」「諏訪下」と あるので、不思議に思って、諏訪大社を少々。。
    • この「諏訪上下」に関しては、   諏訪上社と諏訪下社とで確執があったようです。     
    • 鎌倉時代は、上社の大祝・諏訪氏が、源氏と密接な関係を持ち  諏訪は「軍神」として 崇拝・加護を受けて  また、諏訪市は武士団を結成し隆盛を、。    ===>>吾妻鏡等参照      嶋津氏もこの後の承久の乱ではかなりの報奨を  
    • しかし鎌倉幕府が滅亡すると  代わって、下社が武士団を形成し勢いを増し  抗争が展開される  
    • この後武田軍が支配するようになる
  10. 欽明の頃の出自は・・・はここでしょうか。 『日本書紀』巻十九 欽明天皇元年(五四〇)七月己丑《十四》◆秋七月丙子朔己丑。 遷都倭國磯城郡磯城嶋。 仍號爲磯城嶋金刺宮。
  11. また、下社の大祝の「金刺」はここ 『続日本紀』巻卅二 宝亀三年(七七二)正月乙巳《廿四》◆乙巳。 信濃國水内郡人女孺外從五位下金刺舍人若嶋等八人賜姓連。
  12. 諏訪大社の大祝 ○上社の大祝は祭神の子孫で諏訪氏 ○下社の大祝は外来神の子孫で多氏(おおし)と同祖の皇別氏で  新撰姓氏録では右京皇別氏族  多氏の末裔には、阿蘇氏・金刺氏がある。 「金刺氏」の後は武居氏  例のお舟神事はこの下社です。
  13. また、神長官「守矢」によると 御柱は「ミシャグジを降ろす依り代」であるそうな。

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