先年より五箇度の大合戦、天文二十三年霜月より永禄七年迄十二年。
其中毎度に輝虎川中島へ出張、晴信と対陣に度々抹刈・刈田などの折節に、野際の物端にて、三百、四百、五百、七百出合いて討ちつ討たれつ勝負ある事数十度なり。
されども信玄は輝虎の勇才を憚り、謙信は信玄の知謀を恐れ、互に大事と思慮を運らし、謀を工み種々挑まれけれども、何れも劣らぬ名大将故、行策に乗り申されず候。
されども信玄は輝虎の勇才を憚り、謙信は信玄の知謀を恐れ、互に大事と思慮を運らし、謀を工み種々挑まれけれども、何れも劣らぬ名大将故、行策に乗り申されず候。
永禄七年七月に、信濃口の押(おさえ)野尻城に置かれ候宇佐見駿河守定行生害し、長尾政景も果て申候故、信濃堺仕置として輝虎出張。直に川中島へ出られ候。
晴信も出馬対陣なり。
十日計り対陣なりと雖も例の事なれば日々迫合計りにて勝負なし。
晴信も出馬対陣なり。
十日計り対陣なりと雖も例の事なれば日々迫合計りにて勝負なし。
武田家の一門家老共信玄へ意見申候は、川中島上郡下郡四郡を争ひ、十二年の間毎年の合戦止む事なく候。
両虎の勢にて遂に勝負無之、毎度士卒の疲労申尽し難く候間、具津城付の領分計り御治め、川中島四郡は輝虎へ遣され、扨駿河表、関東筋、美濃口へ御出張候て、御手の広くなり候様になさるべく候。
川中島四郡に御係はり、剛強なる輝虎と取合ひ空しく年月を送られ候事如何あるべしと諫め申候。
八月十日の朝晴信申され候は、互の運のためしなり。
安馬彦六を召出し、組討をさせ、互の勝負を見て、其勝利次第に川中島を何方へも納むべしとて、安馬彦六を使として此者を輝虎の陣所へ申遣さる。
彦六は上杉陣所一の木戸口に行く所に、輝虎陣より直江大和
守出向ひ、彦六は馬より下り、晴信申され候は、天文二三年より此方十二年の間、昼夜の戦有之と雖も、勝利の鋒同前にて今に勝負無之候間、明日は互に勇士を
出し、組打の勝利次第に川中島を納め取り、向後輝虎、晴信弓箭を止め申すべく候との段にて候。
夫により即ち安馬彦六と申す者、明日の組打の役に申付けられ、是迄参り候間、器量の人を出され、明日組打仕るべしと晴信申され候由申入候。
直江大和守取次にて、輝虎返事あり。
信玄の仰尤に候間、此方よりも出し申すべく候。
明日午の刻に組打仕るべしとの趣なり。
永禄七年八月十一日午の刻に、晴信方より安馬彦六唯一騎、物具爽に出立ちて、白月毛の馬に乗りて、謙信陣所指して乗向かふ。
越後の陣所より小男鎧武者一騎、小たけなる馬に乗りて出迎ひ、則ち馬上にて大音揚げ、是へ罷出で候兵は、輝虎の家老斎藤下野守朝信が家来長谷川与五左衛門基連と申す者なり。
越後の陣所より小男鎧武者一騎、小たけなる馬に乗りて出迎ひ、則ち馬上にて大音揚げ、是へ罷出で候兵は、輝虎の家老斎藤下野守朝信が家来長谷川与五左衛門基連と申す者なり。
小兵なれども彦六と晴の組打御覧ぜよ。
何方に勝利候とも、加勢助太刀打ち候はば永く弓矢の疵にて候べしと呼びて、彦六と馬を乗り違え、むずと組み、両馬が間に落重り候に、彦六上になり、与五左
衛門を組敷き候時、甲州方は声を揚げ勇み悦ぶ所に、組みほぐれ、与五左衛門打勝ちて安馬を組臥せ、上に乗上り、彦六首を取りて立上り、高く差上げ、是れ御
覧候へ、長谷川与五左衛門組打の勝利此の如くと呼ばはり候。
越後方には、覚えずして、長谷川仕候と一同に感じよどみ申候。
越後方には、覚えずして、長谷川仕候と一同に感じよどみ申候。
甲州方は無念に思ひ、千騎計り木戸を開き切って出でんと犇き候を、晴信見られ、鬼神の如くなる彦六が、あれ程の小男に容易く組取られ候仕合は、味方の不運なり。
兼ねてより組討ちの勝利次第と約束の上は、川中島相渡し候。 違変は侍の永き名折れなり。 川中島四郡は輝虎次第と今日より致すべく候とて、翌日信玄人数を打入れられ候。
兼ねてより組討ちの勝利次第と約束の上は、川中島相渡し候。 違変は侍の永き名折れなり。 川中島四郡は輝虎次第と今日より致すべく候とて、翌日信玄人数を打入れられ候。
是により中郡、下郡越後の領となり候事、長谷川手柄の印なり。
即ち村上義清、高梨政頼、川中島へ移住、本意にて候。
是より武田、上杉の弓箭取合止み申候。
小山義雄「月生城史談」より
小山義雄「月生城史談」より
http://www.okadanouen.com/takaino/ikiuti.html
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