2016年5月2日月曜日

島津忠直月下斎の謎


出典
http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/25097916.html


 長沼城は、長野市穂保にあり、 千曲川左岸の自然堤防上に築かれた平城です。遺構は、千曲川の氾濫や堤防造成・耕地になりほぼ消滅しています。城址碑があるとのことで以前守田神社辺りを 探しましたが見つからずに帰ってきましたが、今回ようやっと見つけることができました。  訪城日:2013.6.10

 城址へは、村山橋より北側の堤防上の道路を行けば城址案内板のある所(駐車可)へ行けます。別ルートとして、県道368号で貞心寺(駐車場有)に向かい、徒歩で堤防沿いに北に向かえば城址碑に到ります。県道368号は、往時の越後街道と思われなかなか趣のある道です。
 堤防上にある案内板を地形に合わせて載せておきます。
 長沼城は、戦国期の弘治年間(1555-58)から永禄年間 (1558-70)にかけて武田氏がいくたびかの年月をかけて整備した城郭で、武田氏が占領地で構築する梯郭式の城です。武田氏が当地を領有する前は、鎌 倉期からこの地の地頭職を兼帯した島津氏が館を構えていたものと思われます。
 信濃島津氏は、薩摩島津氏の庶子家で鎌倉期初期より太田荘の諸郷の地頭職を受け継ぎ、南北朝期~戦国期にかけても黒川郷・長沼郷・下浅野福王寺郷の信濃島津氏(長沼島津氏は長沼郷を預かる庶子家だったかも?)や赤沼郷の赤沼島津氏(越前島津氏の庶子家)が隣接の諸勢力に抗して領地を保持していました。
 天文年間後半の武田氏の信濃侵攻は、その勢力バランスを根底から崩すもの で、天文22年(1553)の村上氏の敗退は村上氏方であった島津氏にも影響を与えたようで、矢筒城による島津権六郎が武田氏に滅ぼされた(没落)と伝 わっているようです。この矢筒城の島津権六郎は史料に見えない人ですが、矢筒城の地は信濃島津氏の本領の黒川郷があところで、信濃島津氏の惣領家だったの ではないかと思われます。長沼島津氏や赤沼島津氏の帰趨は定かではありませんが、武田氏が弘治元年(1555)に長沼城の改修を行ってますので、上杉方につき北方に逃れたのではないかと思われます。
 しかし、この年の4月に善光寺別当栗田氏が武田方に転じ旭山城に籠城に始ま る第2次川中島合戦の際に長沼城は上杉方に戻り、島津一族も戻っていたのではないかと思われます。しかし、弘治3年2月に川中島方面の上杉方の拠点葛山城 が武田方に急襲され落城し、長沼城の島津氏も大倉城に逃れていますが、武田方の大日方氏が晴信に報告した中に島津月下斎が「鳥屋(長野市)に攻め寄せ、鬼 無里に夜襲をかけている」と云うことが記され、後方撹乱をしているのが分かります。この第3次川中島合戦後も武田氏の攻勢が続き、「島津氏の家臣がぞくぞ くし投降してきた」と晴信は小山田虎満に宛てた書状の中で書いていますので、赤沼島津氏が武田方に降ったのはこの時ではないかと思われます。
 弘治元年の改修に引き続き永禄4年(1561)に2回目の大がかりな改修を 行い、復元図にある原形が出来上がったと思われます。永禄6年には、飯縄山麓に国中の人夫を動員して軍道を造り、赤沼にいた島津尾張守には、武田信玄から 長沼の地下人(農民、庶民、地元の人)を帰住させるよう命じられていることから、越後上杉攻めの拠点を海津城より北側に移していったものと思われます。3 回目の改修は永禄11年(1568)に馬場美濃守信春が命じられたようで、軍団が常駐できるようにし、城下も整備されたものうです。なお、この年の7月に 信玄は長沼城に在陣して飯山城を攻めています。
 天正10年(1582)6月2日に織田信長が本能寺で横死すると、川中島は 上杉景勝が領有した。同月26日に景勝自ら長沼城に入り、北信濃4郡(埴科・更科・高井・水内)を犀川以北と以南で海津組と長沼組に2分し、海津城には村 上源五景国、長沼城には島津淡路守忠直を城代・郡司に任じました。
 上杉氏の会津移封後は、秀吉の蔵入地となり代官関一政が入り、江戸期になると森家・松平家が領有しましたが、元和元年(1615)佐久間勝之が1万石で入り、貞亨5年(1688)幕命に従わないとの由で改易となり廃城になりました。
※島津月下斎は、戦国期長沼島津氏を代表する人物として、天正10年に長沼城代・河北郡司になった島津淡路守忠直に比定されことが多いようですが、忠直は会津時代の史料では島津下々斎昔忠とあり会津長沼城を預かっていた。島津月下斎は、忠直の親と思われます。
※信濃島津氏と赤沼島津氏は天正10年7月13日に景勝より知行地を宛行われ ました。それを基に武田氏侵攻以前の知行高を推定してみたいと思います。長沼島津氏は、天文22年に惣領家が滅亡したと考えられ、惣領家を含めた所領と考 えまして、牟礼・黒川を中核にして5100貫文に及び、そのほかにも長沼郷も含めると6千貫文を超えるものと思われます。赤沼島津氏は、168貫文だった ようです。したがって文禄年間の両家の所領高も6190石と537石となっています。
 堤防上の道路沿いにある「長沼城跡復元図」でなかなかよくできています。 
ここの目安は休憩場です。
 地元の方に貞心寺に車を停めて、大木を目指すと行けまとのことで、その大木です。右手が堤防です。
 城址碑のある残存土塁と思われる高3mほどの小丘です。説明板では、「南三日月堀跡」とありました。馬出の土塁のようです。
 城址碑です。
 
 堤防上から撮った城址中心部ですが、一面の畑です。
 あと残る遺構としては、北三日月堀の一部、二ノ丸外周の中堀の一部があるようですが、見ていませんので、まだ次回探索してみたいと思っています。
参考文献
『信濃の山城と館2 更埴・長野編』 宮武武男著
「戦国期北信の武士と上杉氏の支配」(『日本中世移行期論』所収 池上裕子著)
「北信濃侵攻と支配」(『戦国期武田氏領の地域支配』所収 柴辻俊六著)
『信濃岩井一族』 志村平治著
『信濃中世の館跡』 信濃史学会編
『武田氏年表』 武田氏研究会編
「島津忠直月下斎の謎」 長沼修 (「長野」250号)
『上越市史 別編2』 

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