永禄三年九月から、謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。
永禄四年春、謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。
同八月、謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻めた。
八月二十六日、信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、
越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。二十九日、信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめ
て、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐
美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井
上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島には、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿
河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右
の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親
章を配置した。中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七
郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を待ち受けて一人残らずみな討ち取った。越
後勢が川を渡って、川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条
山の方ばかりに目をつけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と
見て、これが謙信の先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。
翌十日朝、まだ夜が明けぬうちに、謙信方から貝を吹き、太鼓を打って、武田の陣に攻めか
けた。武田勢は思いがけない方向から攻められ驚いたようだった。謙信の旗本が紺地に日の丸、それに 「毘」 の字を書いた大旗二本を立て、ちかぢかに押し
かけたのを見て、備えを立て直す間もなく戦いかねるようだったが、武道第一の武田侍であるから、弓を射、鉄砲を撃ちかけ、越後の先手柿崎和泉守の軍は、信
玄の先手の飯富三郎兵衛に突きたてられ、千曲川の方に下ったのを見て、色部修理長実は、かねて待ち受けていたところなので、旗から槍を入れ、飯富の備えを
突き返した。斎藤下野守朝信は、武田方の内藤修理、今福浄閑の軍を追いたてて進んだ。長尾政景、本庄美濃守慶秀、長尾遠江守藤景、山吉孫次郎、北条丹後守
の五軍が先を争って、大声を上げて信玄方を切り散らした。謙信は八年前に信玄と太刀打ちをして討ちもらしたのが、口惜しく、この度は信玄をぜひ討ちたいと
心がけ、旗本の人数で、信玄の旗本にかかり追い崩した。武田の十二段の備えがみな敗北し、千曲川の広瀬のあたりまで、追い討ちをかけ、戦死者、負傷者は数
えきれない。信玄は犀川の方に退くのを、越後勢が追いかけた。その時、後から武田太郎義信が二千ばかりで謙信のあとを追ってきた。それで越後方の後備えの
中条梅披斎の軍が引き返して、義信方に防戦した。しかし旗色が悪く見えたところに、遊軍の宇佐美駿河守が助けに来て、中条と一手になって、武田義信軍を追
い返し、勝利を得て、数十人を討ち取った。あとで戦が始まったのを謙信が聞いて、不安に思って引き返して義信を防ごうとしたが、義信は宇佐美を斬り尽くし
て退いたのを、直江大和守、甘糟近江守、安田治部丞の三軍が義信の軍を倉晶まで追い討ちにした。謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休
み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに
目がけて攻めかかって来た。越後方は今朝早くからの合戦に疲れ、ことに油断していたところで、少し先手で防いだが、備えもうまくゆかず、多くは馬に乗り遅
れ、敗軍となった。越後勢の戦死多数で、志田源四郎義時もここで戦死した。謙信は家の重宝である五挺槍というものの中から、第三番目の鍔槍という槍で、自
身で手を下して戦った。後には波平行安の長刀でさんざん戦ったところに、海津口を守っていた六軍のうちの本庄越前守、大川駿河守が駆けつけ、義信を追い返
した。この時、繁長自身は太刀打ち、大川駿河は戦死した。長尾遠江守藤景と宇佐美駿河守は応援に入り、義信を突き崩した。これで戦はひとまずおさまった。
謙信は犀川を後ろにその夜は陣を取ったが、山吉孫次郎は、「今夜海津の城の敵が気がかり
である。犀川を渡り、軍を取りまとめられては」と諌めたが、謙信は従わなかった。十一日の朝、謙信は下米宮の渡し口に備えを立て、直江大和守実綱、甘糟近
江守景持、宇佐美駿河守走行、堀尾隼人などと、西条山の陣小屋を焼き払った。そのあと、謙信は善光寺に三日滞在して、長沼まで入り、ここに二、三日逗留し
て越後に帰陣した。
はじめ、謙信が出張して、西条山に陣を取り、八月二十六日、信玄が下米宮の渡しに着いた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。
先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に
出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙
信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつ
かなかった。
永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守走行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。
武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年
合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後に
やられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむ
なしく年月を送られるのはいかがなものか」と諌めた。
八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLと
して、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の
木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても勝
負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組
討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」と申し入れた。
直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」とのことである。
永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に
乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗っていた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あっ
たが、少しのことであるから書きつけなかった。
先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に
出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙
信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。
永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守定行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。
武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年
合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後に
やられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむ
なしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。
八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLと
して、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の
木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても勝負がつかぬ。明
日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申し
つけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」と申し入れた。
直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」とのことである。
永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に
乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗って出向き、馬上で大声で、「ここに出た者は、謙信の家老斎藤下野守朝信
の家来で長谷川与五左衛門基連と申す者、小兵ながら彦六と晴れの組討ちをご覧に入れる。いずれが勝つとも、加勢、助太刀は、永く弓矢の恥である」と言い、
彦六と馬を乗りちがえ、むずと組み、両馬の間に落ち重なり、彦六が上になり長谷川を組み敷いた。甲州方が声を上げて喜ぶ時、組みほぐれて、長谷川は安馬を
組みふせ上になり、彦六の首を取って立ち上がり高く差し上げて、「これをご覧下され。長谷川与五左衛門組討ちの勝利はこのとおり」と叫んだ。越後方は思わ
ず長谷川うまくやったと一同感じどよめいた。甲州方は無念に思って、木戸を開けて千騎ばかりが討って出ようとしたのを、信玄は、「鬼神のような彦六が、あ
の小男にたやすく組み取られたことは味方の不運である。かねて組討ちの勝利次第と約束した上は、川中島は越後に渡すことにする。約束を破ることは侍として
永く不名誉なことである。四郡は謙信のものと今日から定めよう」と言って翌日引き上げられた。これから四郡は越後の領となった。長谷川の手柄の印である。
そして村上義清、高梨政頬は、川中島に戻り、その志を遂げた。これから、武田と上杉の争いはなくなった。
このことは、信玄の家来、須崎五平治、堀内権之進が書きとめておいた。この両人は、あと
で浪人して越後に来て、上杉家に仕えている。それでよく調べて書いたものである。 この一冊は須崎、堀内の書いておいたものと、信玄の子孫にあたる武田主
馬信虎の家伝の書と、村上義清の子源五郎国清の書いたものを参考にして、よく調べて書き記したものである。
慶長十年三月十三日
上杉内
清野 助次郎
井上 隼人正
『河中島五箇度合戦記』
右の一冊は当家の者が書き残したものである。この度のおたずねについて、それを写して差し上げる。
寛文九年五月七日
うたのかみ
右の書は、先年弘文院春斎に仰せつけられ、日本通鑑に選ばれた。酒井雅楽頭忠清に上杉家から差し上げられた一冊である。
http://spinsterial65.rssing.com/chan-57918467/all_p38.html
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