2015年4月11日土曜日


 鎌倉公方2代目の足利氏満は、憲顕死後、関東管領を継いだ上杉憲春(のりはる)とともに宇都宮氏綱をはじめとする関東諸勢力と戦い、関東に強力な支配権を確立した。康暦元(1379)年、幕府の管領細川頼之が失脚する康暦の政変が起こる。氏満は好機として、足利義満に代わって将軍となろうと画策し挙兵しようとしたが、関東管領上杉憲春が自刃して諌めたために断念した。
 天授3(1377)年、信濃は再び幕府の管轄下に入り、元中元(1384)年、幕府管領斯波義将(よしまさ/よしゆき)の弟で、先の侍所頭人(さむらいどころとうにん)兼山城守護であった義種が守護となった。その後守護職は斯波氏が応安5年(1398)まで就任している。義種は在京のまま家臣二宮氏泰を守護代としたが、氏泰も下向せず子の種氏を代官として派遣した。種氏は、現長野市平柴にあった守護所に拠り、強権的な支配を行なった。

 鎌倉中期に信濃国志久見郷(現下高井郡北部)の地頭職を得た市河重房は、その地を実質的に支配する中野忠能と縁戚関係を結び、最終的に中野氏を被官にすることで志久見郷を掌握したと伝えられている。その志久見郷と高梨氏の支配地である小菅荘(飯山市大字瑞穂内山)との領境で、双方間の紛争が絶えなかった。高梨氏は本領中野を中心に、信濃国北部の高井郡・水内郡に割拠していた。北信濃では、更埴(こうしょくし)2郡を領有する村上氏に次ぐ勢力を維持していた。
 ちなみに、更級・埴科・高井・水内4郡が「北信」、小県・佐久の2郡が「東信」と呼ばれていた。現在では更埴2郡の特に北半分が長野市に編入されて、更埴市以南の区域は「東信」に含まれることが多くなった。更埴市は昭和34年(1959)、千曲川左岸の更級郡の稲荷山町と八幡村、千曲川右岸の埴科(はにしな)郡の埴生(はにゅう)町と屋代町との合併により市制が施行され誕生した。「更級」と「埴科」の頭文字から「更埴」と名付けられた。平成15年(2003)9月1日に、更埴市は更級郡上山田町、埴科郡戸倉町と合併し、千曲市となった。

 高梨氏は川中島川東の井上・須田らの各氏族と更埴の村上、太田荘(現長野市長沼周辺)の島津ら有力国衆(くにしゅう)が、互いの紛争を防止しながら守護勢力の介入を阻むため同盟し「国人(こくじん)一揆」を組織した。
 市河氏は、鎌倉時代末期に足利高氏軍に参じた市河助房が「神」と署名しているので、諏訪神党(すわしんorみわとう)に属していた事になる。観応の擾乱当時は、越後の守護上杉氏に与して信濃直義派として、尊氏派の信濃守護小笠原氏と対立するなど南朝方として活躍している。下高井郡の尊氏派の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、延文元年/正平11(1356)年、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍に勝利している。その後、憲顕が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏した経緯がある。市河氏の複雑な去就は、北信濃でも孤立気味となっていたが、以後、徹頭徹尾、幕府守護方の勢力として功労を重ねていく。
 市河氏が積み重ねた所領
 高井郡内 中野西条、上条御牧(井上須田知行分を除く)・大甘北条・同中村、毛見郷本栖村・平沢村
 水内郡内 常岩(とこいわ)御牧南条5か村、不動堂分、若槻新庄加佐郷新屋分、同庄静間郷内北蓮(はちす)分
 更級郡内 布施御厨中条郷一分地頭
 市河氏は飯山・中野市近辺から次第に南下している。小笠原氏は伊那を本拠に松本盆地、北東信地方へ所領を拡大し、「大塔合戦」の舞台の地に領有を主張し初め、国人連合軍側の所領と交錯、応永6(1399)年、遂に決戦となる。

 至徳3(1386)年7月、信濃守護代二宮氏泰が、守護の命に従わないとして高梨氏の支配地小菅神社(飯山市大字瑞穂内山)の別当の解任を、隣接する市河頼房に命じた。こうした、斯波氏が在地領主の押領地の究明を、強力に進めようとしたことに反発した国人衆村上頼国小笠原長基高梨朝高長沼(島津)太郎らが、嘉歴元(1387)年4月に兵を挙げ反抗した。5月28日には平柴の守護所の代官二宮種氏を攻めて漆田原(長野市中御所・長野駅付近)で戦い、8月には種氏が篭城した善光寺東方にあたる典型的な平山城の横山城(長野市箱清水)を攻めて激戦の末陥落させた。この時、村上頼国らは、二宮方についた市河頼房を追撃し埴科郡にあった生仁城(なまに;千曲市生萱;いきがや)に追い込み、これを落城させた。

 この時期、南信濃では、嘉歴元(1387)年7月、伊那郡田切で守護方の諏訪頼寛が小笠原長基と戦い勝利した。大将諏訪左馬助が討死にする激戦であった。『守矢文書』は、同年9月26日、府中熊井原合戦で「諏訪討負大死、小笠原討勝候」と記す。この戦に対して10月10日付で斯波義将から「抑今度合戦、面々討死事承候、被致忠節候条目出候(下略)」と、諏訪兵部大輔入道殿宛に「熊井合戦御感案文」が下されている。諏訪頼寛は守護方に属する有力国人であったようだ。しかし諏訪下社は先の正平年中に、小笠原氏から塩尻東条を寄進されているので、小笠原方に属していた。府中熊井原は、現塩尻市の片丘熊井の地で、筑摩山脈西麓の広大な傾斜面にあたる事から、小笠原長基が上伊那郡の諏訪社領を侵犯したことによる自衛戦とみられる。南信濃では、反守護の小笠原氏の実力は強大であった。

 この時代、国衆の先頭に立ったのが、南北朝期、信濃惣大将を称した村上氏であり、信濃守護小笠原貞宗の代に軍役に尽力した良き功労者であった。村上頼国は更埴2郡に亘り領有していたため、斯波氏が守護大名化の野心を抱き、その領国支配のため最初に狙う要地にいた。長基も既に守護から軍事指揮者に降格され、斯波氏が守護となると、兵粮料所の給付権も関東の上杉朝貞に移された。長基も国衆同様信濃に於ける支配領地の保全が最重要となった。
 越前守護も兼ねる幕府管領斯波義将は、北陸道から二宮氏泰を救援軍として派遣した。市河頼房もこれに加勢し、村上頼国ら国人一揆と常岩中条(飯山市)、善光寺横山で激戦を繰り返している。 
 斯波種氏は敗北を重ね、遂に任国支配の失敗で解任された。幕府管領義将自ら信濃守護となった。義将は軍事指揮権をも既に掌中にし、国人支配の全権を得ていたはずだが、嘉歴元(1387)年、小笠原長基(長秀の父)と漆田で戦う事態となり、幕府管領ですら信濃統治に失敗した。
 この時代の所領関係の複雑さが知られる史料「玉睿書状案」が『東大寺文書』に遺る。なぜか信濃国衙正税久我具通(ともみち)が所知していた。具通は右大臣を経て応永2年(1395)太政大臣となっている。信濃は具通の知行国ということか?その権益が明徳3(1392)年6月12日、東大寺八幡宮に寄進された。おそらく太政大臣家が知行しても、正税未納が続き有名無実となっていたから譲渡されたと推測される。
 東大寺側は義満に通じる縁故から安堵状を得たようだ。しかし国衙正税は未納のままで、再三幕府に訴えている。幕府は「一段近日御成敗あるべき旨」を決裁し、幕府奉行諏訪左近将監を信濃に使節として下向させた。諏訪左近将監は応安4(1371)年以降、幕府奉行になった康継で、小坂円忠の子で当時50才前後であった。
 「玉睿書状案」端裏書に「信州国衙事、奉行諏訪左近将監方へ遣状案文」とあり、以下訓読み
 「昨日面を以て閑話本望に候、そもそも東大寺八幡宮領信州国衙の事、連々歎き申すにつき、御存知の如く、一段近日御成敗あるべき旨、仰せ出され候。寺門の喜悦このことに候。仍って幸にかの方へ使節として御下向の由承はり及び候。当寺の大慶に候。国の時宜具(つぶさ)に御注進に預り候はば、満寺の群侶悦喜せしむべく候。定めて一途厳密にその沙汰あるべく候。巨細の趣御存知の上は、詳かにする能はず候。恐惶謹言。
  6月1日                            沙門玉睿
 諏訪左近将監                                     」

 康暦元(1379)年、将軍義満管領細川頼之を失脚させた。明徳3(1392)年、南北合一を幕府優位に達成した。次に、今川了俊貞世の九州における勢力拡大や独自の外交を展開した事を危惧し召還した。応永元(1394)年、将軍職を子の義持に譲り太政大臣となった。しかし「政道は自ら行う」と表明し、実権は従前どおり握ったまま、むしろ足利幕府の全盛期を迎え薨ずるまで公武に君臨した。事実上の将軍専制へ踏み出した義満に、応永6(1399)年6月になって間もなく、信濃に派遣した諏訪左近将監から帰京報告がなされた。
 国衆の国衙正税の押領は執拗で幕府の沙汰が及び難く、信濃国人に対する守護の統治は困難を極めている、であった。義満は将軍専制を徹底するため、守護義将を更迭し、側近として仕える信濃の強豪小笠原長秀を守護に起用し、その長秀に職務の重大さを説き、その成果を挙げるよう厳命した。
 中世における一揆とは、特定の目的の下、同盟し組織や集団をつくり、その同志的な集団自体、または、その集団をつくる事、またはその集団の行動をさす。農民、都市民、僧侶、神官だけでなく在地領主間、その領主の被官(この時代の家臣の呼称)相互でも一揆が結ばれた。その目的は、守護・管領・将軍など支配者に対抗する連合だけではなく、自らが支配するための一揆、支配者同士相互が対抗するための一揆もあった。各地の多くの武家領主は、領有権保全のため相互対等の一揆を結んだ。やがて武家領主たちの大きな一揆のまとまりが戦国大名家をつくりあげていく。またその下克上の気風が高まると、三河の徳川家康の祖父松平清康のように被官相互の一揆、いわゆる派閥間の争闘の結果、その勝利者から戦国大名を誕生させた。戦国大名とは、在地領主たちやその被官が、自己の所領を保全するため、当主を推戴する一揆の成果ともいえる。
 特に、幕府・守護・領主などに反抗して、地侍・農民などの民衆・信徒らが団結して起こした暴動、国一揆土一揆一向一揆などや、江戸時代の百姓一揆などは、その一揆の特異性の一部を強調した表現に過ぎない。本来一揆は、より複合的意味合いがあったが、被抑圧者側の表現であるためか、平安時代の荘園制度の残滓が、完全に取り除かれる戦国時代、「一揆」の主体者が時代の主役となると、その呼称は支配者側から使われなくなる。

3)信濃守護小笠原長秀
 北信の善光寺付近は、信濃の政治経済の中心となっていた。鎌倉時代以来、松本国府の支庁として「後庁(ごちょう)」が置かれ信濃北半の政治の中心となり、善光寺信仰の浸透により、門前町は経済の中心としても発展した。南北朝時代には、信濃守護所が現戸倉町の船山から、川中島の北方の平芝(長野市安茂里平芝)に移され政治の中心となった。ここが舞台となり、信濃守護が幕府権力の後援を得て国人領主に対して、その所職(しょしき)を押し通そうとした。これに対抗する国人一揆と激突したのが大塔合戦であった。
 国人とは、在地する領主で国衆(くにしゅう)とも呼ばれた。国人の多くは地頭としての所職を有する一方、寺社・皇家(こうか)・公家本所領の諸荘園の公文(くもん)や下司(げし)として代官を務めながらも、本所支配をみくびり年貢を未進にしていた。事実上の在地領主と変わらなかった。その現状を無視し、守護の所職を主張すれば、国衆は、存立基盤を失うことになる。
 小笠原長基の時、子の長秀が深志小笠原氏を継ぎ、弟政康が伊那郡の松尾小笠原氏となった。長基は弘和3(1383)年、惣領職を子の長秀に譲った。長秀は幼児より将軍義満に近侍し信任されていた。長秀は祖父政長まで信濃守護職であったため、守護職への復帰を義満に嘆願し続けた。
 応永5(1398)年、幕府管領が斯波義将から畠山基国に代わった。基国の娘が、長秀の母であった。応永6(1399)年、義将が信濃守護を解任され長秀が任命され、小笠原氏に念願の守護職が戻ってきた。守護入部(にゅうぶ)にあたり太田荘の島津国忠が強訴した。暦応2(1339)年7月に遡るが、近衛家本所領太田荘の領家職を、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての関白近衛基嗣が近衛の墓所・東福寺塔頭海蔵院に寄進した。しかし既に島津伊久がこれを押領し、同院の沙汰を妨げていた。義満の幕府政権下、中央の統制強化策の一環として、諸国の諸豪族の不当な所領の押領を糾明し、掣肘を加えながら将軍家の威令に従わせようとした。
 応永6(1399)年夏近く長秀は信濃に入部した。早くも北信の島津国忠・高梨などの国人一揆が不穏な動きを始めた。長秀は10月21日、一門の赤沢秀国・櫛木清忠らを島津討伐に出兵させた。
 その最中同年11月、大内義弘は鎌倉公方足利満兼山名時清らと謀って和泉で応永の乱を起こした。長秀は義満から大内義弘討伐軍に加わるよう命じられ、伊那郡伊賀良荘を発して、11月6日、上洛し和泉堺に急行した。
 この年東大寺は信濃国衙正税の納入を強硬に幕府に主張していたが、成果なく知行権を手放している。以後その所職の所在者が不明となった。信濃諸雄族が蚕食したまま放置されたとみられる。長秀は、管領畠山基国の軍に入り和泉国境で戦った。反乱は、地方の挙兵が鎮圧され、和泉堺に籠城した義弘が幕府軍の攻囲を受け、12月21日、基国の長子満家に討ち取られ終結した。畠山氏は大名家でありながら足利将軍家の直轄軍的存在で、この乱の前年、斯波義将が解任され畠山基国が後任となったのは、斯波・細川管領家両氏に対して、義満がその権力に楔を打ったという意味合いがあった。
 京都へ戻っていた長秀は、応永7(1400)年3月、一門の櫛木石見入道・小笠原古米入道を先発させ、島津が押領する太田庄の領家職を寺家に還すよう命じた。7月3日、幕府権力を頼み国衆が押領する庄園所領や国衙領から排除の沙汰を遵行すべく、京都を出発して信濃に向かい、21日には一旦、佐久の小笠原一族大井光矩岩村田館に立ち寄った。当代光矩の父大井光長は、信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平5(1350)年には、信濃国太田荘大倉郷の地頭職に就いていた。太田荘は、現上水内郡東南部から長野市北部にかけての一帯で、近衛家本所領であった。光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。その後守護代を勤めた。応永6(1399)年、信濃守護に補任した小笠原長秀は、大井光矩を頼り佐久に立ち寄り、義満の御教書を披露し光矩と信濃支配について相談した。
 その結果、伴野・平賀・海野・望月・諏訪両社・井上・高梨・須田などの国衆に漏れなく使者を派遣し、入国の挨拶と治政に当たっての趣旨説明と協力の要請を行うことに決した。村上満信には、特に使節を送って挨拶した。満信は、村上信貞以来、足利尊氏方の信濃惣大将として長きに亘って貢献し、その勢力と権益を拡大し実績をあげている。だが守護職に補任しない室町幕府に対して不信感を持ち、新任された守護を排斥する動きに出た。加えて室町幕府は村上氏の持つ「信濃惣大将」の地位を軽視し続けたために、村上氏は反守護的な国衆の代表格となっていた。
 幕府はかつて管領斯波義将を信濃守護に補任して、国人衆らの動きを抑え込もうとした。満信の父村上師国は至徳4(1387)年、斯波氏の守護代二宮氏泰の軍と信濃国北部の各所で戦った。斯波氏も村上氏の抵抗を抑え込むことはできず、横山城に二宮氏泰が籠城して戦ったが落城している。
 小笠原一門や源氏系統の国衆らは、一応協力する姿勢を示したが、大文字一揆の国人達にすれば、南北朝争乱時代から小笠原氏との確執があり、寧ろ絶対に承服できないとして、幕府に別の守護人を任命してもらうよう申請する評議が決定した。鎌倉時代、信濃国は北条家が守護であり続け、その地頭に任じられた在地武士の多くも北条家庇護の下、権益を共有してきた。また北条一門の地頭も多く、その地頭代も兼ねていた。元弘の変により小笠原氏が守護職として派遣され、国人衆らの既得権益が侵食され時代の恨みは根強く、今またその当時の苦難が繰り返される事態となった。
4)国人衆の反感を買う小笠原長秀
 当時京で流行したバサラ大名の一人であった長秀はこのとき30歳前後で、大井光矩の館で旅装を整え、都風の派手な装いで行列を組んで善光寺に入った。幕府の権威を傘に、都育ちの名門を誇示する華やかな奇抜さで、田舎人の度肝を抜こうとする腹積もりであったようだ。諸芸に巧みな連歌師まで随えていた。善光寺南大門には、老若男女・商人・僧侶・神主が集い見物した。
 長秀は善光寺に入ると、各奉行人を決め、守護の権限である大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)を基本原則とする各種制札を立てた。大犯三箇条とは鎌倉・室町時代の各国守護の主要な職権で、御家人の大番役催促謀反人と殺害人の追捕と検断の3ヵ条をいう。源頼朝の時代に定められ、貞永1(1232)年の『御成敗式目』で成文化され、その際夜盗・強盗・山賊・海賊の検断を追加した。
 室町幕府政権下、守護の権限は拡大強化された。①刈田狼藉に対する検断権、②土地紛争に関する幕府の裁定を、守護が現地で執達する使節遵行(しせつじゅんぎょう)、③守護の軍事指揮権の範囲が、管国内の御家人から国内の武士全体に拡大した軍事指揮権、④幕府敵方没収地を所領給付する闕所地の預置権、⑤半済制度を介して兵粮料所の荘園年貢の半分を国内武士に与える宛給権が主であった。領国支配のためとした守護の所職に、軍勢督促守護請守護夫守護反銭の賦課津料山手川手の新関開設による通行銭の徴収などが重層的に慣習化され、守護入部による強権的な収奪が当り前とされた。
 『大塔物語』は合戦の主因は長秀が国衆に示した横柄な接遇にあったという。就任挨拶に赴いた国衆は「思い上がった態度の長秀に対して、一応慇懃の礼を尽くした。長秀は河(川)中島の所々を村上氏が当時知行していたに拘わらず、恣(ほしいまま)に非拠の強儀を行い、事を守護の緒役に寄せて、守護の使いを入り込ませ稲を刈り取った。村上満信は佐久の3家や大文字一揆の人々に助けをかり、守護使を追いたて合戦となった」と記した。
 長秀は、善光寺に国人衆を呼び付け対面しながら、容儀も整えず、扇も用いず、ましてや一献(いっこん)の接待もしなかったという。大文字一揆の国人達は、現長野市安茂里の川中島近くの窪寺で評議し、激興する強硬意見を抑え、御教書を携えての下向であれば、京の将軍に違背すると見られる恐れがあるため、対面し一献の用意をし、馬や太刀を贈っていた。長秀は愚かにも、信濃国はこれで治まると増長し、国人衆に不遜・非礼の振舞いに出た。

 このような長秀が、鎌倉幕府滅亡以来の対立で、未だに小笠原氏に心服していない国人領主達に、新たに所役を命じ、過去の対立時の所業を罰しようとした。8月下旬、秋の収穫時、長秀は村々に守護使を遣わし、ここは不法な押領地であるとか、守護職の課役であると申し、農民から年貢や課役の徴収を行った。川中島でも、ここは守護が支配する所だと言い立てて年貢を徴収した。川中島は一時小笠原氏が領有していたが、当時は北信の有力国人領主村上氏が押領していた地であり、多かれ少なかれ、鎌倉幕府の将軍家を本所とする関東御領の春近領や国衙領等の押領地を支配する他の国人領主にとっても、守護の一存で既得権化した所領を否認されれば一族の死活問題となる。国人たちは在地支配の現状を無視した守護の一方的挑戦とみた。村上氏は、元弘の変当初から足利氏に与力し、義光・義隆父子が、鎌倉幕府との戦いの最中に没している。その後も義光の弟村上信貞は、北信の市河氏と共に北朝方守護小笠原氏の強力な味方として、諏訪氏を主力とする信濃国の南朝勢力と激戦を繰広げて来た。その村上氏の決起が発端となり、守護小笠原氏に対する国人領主達の反感が決定的なものとなった。
 『大塔物語』は「爰に大文字一揆の人々には、故敵当敵たる上は、思案を廻らし、一切之(守護の沙汰遵行)を用いず」と書く。「故敵」とは、文字通り「古くからの敵」の意であるが、この時代「所領をめぐる紛争に際しての自力救済・報復の戦い」を意味した。その宿意は深く、積年に亘る小笠原氏への敵対感情が一気に噴出した。祢津・仁科・香坂氏などには、積年に及ぶ敵愾心があった。


[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/outou/da.htm

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