2015年4月11日土曜日

長沼太郎


26)信濃戦国時代の前奏
 小笠原氏は貞宗以来、その子政長、孫の長基と歴代信濃守護職を継承してきた。貞治4(じょうじ;1365)年2月、京都の幕府の管理下にあった信濃国が、鎌倉公方足利基氏の鎌倉府に属するようになり、上杉朝房が信濃守護に補任した。朝房の父は上杉憲藤、犬懸上杉氏の始祖で、尊氏の従弟であった。摂津で南朝方の北畠顕家と奮戦するが、3月15日、摂津渡辺河で戦死した。享年21。朝房の妻は山内上杉氏憲顕の娘である。貞治7(1368)年9月、憲顕の子上杉能憲(よしのり)と共に関東管領に任じられ、能憲と共に「両管領」と称され、9歳の幼少公方足利氏満を補佐した。
 3代将軍・義満の時代なると、南北朝合一がなり、将軍家による絶対的専制となり、諏訪大社上社も対抗する術(すべ)を失った。応永5(1372)年には、諏訪兵部大輔頼貞に将軍義満から小井川と山田の2郷を与えられている。
 永和3(1377)年8月、幕府は、当時の信濃守護上杉朝房に信濃国所役である上社造営料の督促を命じている。この時代も、信濃国は鎌倉公方の管轄下にあった。

 長基の守護職の解任は小笠原氏にとって、不本意な体制の変換であった。3代将軍義満の時代、至徳元(1384)年、信濃国は幕府管理下に戻ったが、小笠原氏の復権とはならず、幕府管領斯波義将の同母弟義種が守護職に補任された。義種は信濃国に赴かず、在京のまま家臣二宮氏泰を守護代とした。しかし氏泰も下向せず子の種氏を代官として派遣した。この時期に埴科郡船山郷にあった守護所が水内郡平柴に移ったようだ。
 市河文書の中に観応2(1351)年3月日付けの諏方某の証判がある「市河松王丸甥孫三郎泰房宛ての軍忠状」に、同年正月5日、小笠原政長の軍を船山郷の守護館に攻め放火したことが記されている。守護所の移転は、その後に生じた事態を受けての事とみられる。更埴地方の村上頼国小笠原清順(長基)・高梨朝高(全盛期の本拠地;中野市)・長沼太郎(島津氏)らを初めとする諸雄族の活動が活発化し、至徳元年、信濃国に幕府管領家の斯波義種を守護職に補任した。至徳4(1387)年9月日の二宮式部丞(信濃国守護代二宮氏泰の子種氏;守護代の代官)の証判がある市河甲斐守頼房宛て軍忠状で、当時平柴に守護所が在ったことが明らかになっている。
 足利直義が尊氏に敗れて急死したことで「観応の擾乱」は終熄したが、越後の上杉憲顕(のりあき)らは南朝方に属し尊氏に抵抗し続けた。市河頼房も当時の北信の情勢下、上杉氏と同盟していた。下高井郡の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、延文元年/正平11(1356)年、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍に勝利している。その後、憲顕が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏した経緯がある。
 新守護斯波義種は守護代二宮氏泰に信濃諸豪の押領地の糾明と寺社領の復権を強力に推し進めさせた。二宮種氏は守護代の代官として、平柴の守護所で信濃国に軍政を敷いた。当時諸国の豪族は寺社の所領を押領することが常態化していた。特に信濃国では諏訪上社領の掠奪が横行していた。ひとえに諏訪大社上下社が、鎌倉幕府滅亡後、反足利氏を貫いた結果であった。
 
「守屋文書」に
 「一諏方(諏訪)兵部大輔入道頼寛申信濃国上宮(諏訪上社)神領所之事、(申状具書如此)而近年国人等寄事於左右押領之云々、事実者太(はなはだ)無謂(謂れが無い)、所詮令糾明神領之実否、任先例、可沙汰付下地於社家雑掌、更不可有緩怠之状如件

 至徳二年五月十六日                    大夫殿(斯波義将)御判
  二位信濃守(斯波義種)殿
                     」
 この押領地糾明に恐慌したのが、北信の国人領主村上頼国小笠原清順高梨朝高長沼太郎らで、いずれも建武中興以来足利氏方として、その権力に乗じ専断押領を重ね勢力を拡大してきた諸雄族であった。至徳4(1387)年4月28日、その諸士は一族を率いに挙兵し、守護職斯波義種に叛き、善光寺横山城を拠点とした。閏5月28日に守護所を攻めている。その際、市河甲斐守頼房は守護方に付き、生仁城(なまに;千曲市生萱;いきがや)に逃がれたが、村上頼国らに攻められ落城した。
 守護所にいた二宮種氏は、高井郡の市河頼房を従え平柴の東方・裾花川東岸の漆田(長野市中御所2丁目)に出陣し、村上頼国ら北信連合軍と激戦を繰り返し防戦し続けた。
 その北信の戦況が報らされると、6月9日、足利3代将軍義満は、御教書を市河頼房に下し、守護代二宮氏泰を信濃国へ下向させから、それまで防戦に努めるよう命じている。
「市河文書」に
 「信濃国事、守護代二宮信濃守(氏泰)子息余一(種氏)在国之処、村上中務大輔入道(頼国)・小笠原信濃入道・高梨薩摩守(頼高)・長沼太郎以下輩、有隠謀、及合戦由、太(はなはだ)以濫吹(狼藉)也、早同心之族相共可被致忠節、所詮当国所令拝領也、仍(よって)守護代重所差下也、其間、諸国抽其功者、別可有抽賞(ちゅうしょう;功績が抽(ぬき)んでる者を賞する)之状、依仰執達如件、

  至徳四年六月九日              右衛門佐(斯波義将) 花押
     市河甲斐守殿                    」
 守護代代官二宮種氏は市河頼房の戦功を賞し高井郡犬飼北条(木島平村穂高)と中村の地を宛行った。当時、犬飼郷は北条・中村・南条から成っていた。6月25日、頼房に守護斯波義将からも感状が下された。
 同年9月日の「市河文書」に遺る守護代二宮氏泰の「市川甲斐守頼房申軍忠事」によれば、氏泰が北陸道から信濃へ下って来た。頼房は越後国糸魚川に馳せ参じている。そのまま氏泰に同行し入信すると、反守護派と水内郡常岩中条で共に戦い勝利した。善光寺横山城を拠点として着陣した。8月27日、村上頼国らが馳せ向かい合戦となる。激戦となり頼房自ら馬上太刀を振るい迎撃するが、その乗馬が切られ、若党の難波左衛門二郎討死し、その弟も含む数十人が戦傷を負ったと記す。戦いの結果は村上頼国らが逆に敗れ退き、守護代二宮氏泰は勢いに乗じ、諸所で国衆勢力を敗走させた。頼国らは、その後生仁城を拠点とし再挙を図った。しかし守護代二宮氏泰の軍は、これらを攻め頼国ら反守護勢力を四散させた。斯波種氏は任国支配の失敗で解任され、幕府管領義将自ら信濃守護となった。義将は軍事指揮権をも掌中にし、国人支配を強化していった。9月15日付の斯波義将の市川頼房宛ての感状が下されている。「於横山合戦之時、被致忠節之由、二宮式部丞注進了、当手人々手負打死注文加一見候、殊目出候 恐々謹言」と書かれている。
 南朝方・直義党が跋扈していた時代は、村上氏など北信の諸雄族の多くが、守護方として活躍していたが、今では反守護連合的盟約を結び、その既得権益を死守せんとする。それが信濃国内に諸士連合・国人一揆を生み大塔合戦を勃発さた。
 応永5(1398)年、幕府管領が斯波義将から畠山基国に代わった。翌年、義将は信濃守護も解任さた。代わりに小笠原長秀が任命され、念願の守護職が小笠原氏に戻った。ようやく信濃守護に復帰した長秀を罷免させる事変が信濃で待ち受けていた。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/murakami3/mu3.htm

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