2015年4月11日土曜日
『尊卑分脈』
六)形成される信濃武士団
古代律令制度は中央集権国家体制であったため、国司として中央の役人が地方へ派遣された。その役人は、守・介・掾・目(さかん)の四等官に任じられた数名と、その家族や従者であった。任期は6年、後に4年となった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。しかし、実際の実務は在地の有力者、いわゆる現地の土豪から任命された。やがて、守も、その多くが任地に赴かなくなると、その現地の役人たちは、平安時代の半ばころから「在庁官人」と呼ばれ、11世紀後半になると国衙の中で一代勢力となり、国衙の権力を専らにし、国内の自らの所領を拡大させた。もともとは中央から派遣された国司の一族が土着した者も多く、国衙に属さない在地有力者も成長してきており、それを支配するために国衙の軍事力を利用した。
清和源氏は、源義家が前9年・後3年の役以後、東国の武士の棟梁となった。「編纂本朝(へんさんほんちよう)尊卑分明図」、または「諸家大系図」ともいう『尊卑分脈』は、南北朝時代に洞院公定(とういんきんさだ)が企画し、猶子の満季(みつすえ)、その子の実煕(さねひろ)ら洞院家代々の人々が継続編纂した諸家の系図の集大成で、氏によっては室町期の人物まで収められている。
その『尊卑分脈』によれば、義家は下野・相模・武蔵・陸奥守・信濃守を歴任している。義家は国司の守として信濃を含む東国に地盤を確立した。その地盤を継いだのが、義家の孫為義であった。その父の義親は兄の義宗が早世したため、次男でありながら嫡流となり、為義、義朝と続き頼朝に繋がるが、対馬守となって九州に下向した折に、乱暴を働き、追討の官使を殺害した。朝廷は隠岐へ配流とするが、配所に行かずに出雲国に渡って目代を殺害し、官物を奪取した。これによって平正盛の追討を受けて、梟首された人物である。それは名目で、京都朝廷は、義家以降の源氏勢力の台頭を阻むための弾劾策であった。平正盛が義親を討って桓武平氏が一挙に浮上し、源氏と平氏が武家の2代勢力として並び立つ契機となった。以後、為義は義家に育てられた。その活動の中心は京であった。その上で、嫡男義朝を祖父義家の勢力地の東国に地盤を再構築させ、為朝には実父義親が育てた西国を地盤とさせた。そのため信濃国人衆も、義朝との主従関係を結んだ。
望月氏も御牧の牧監の権力を行使して成長した武士であったが、同じく佐久地方を根拠とし、国衙の権限を背景に武士化した一族に平賀氏がいる。平賀氏は、源義家の弟新羅三郎義光の4男である盛義が、信濃国佐久平の平賀郷に本拠を置き平賀氏を名乗った。
盛義の父の義光は甲斐守の任じたことがあり、同地域から野辺山高原を越えたところが信濃国佐久平平賀であり、戦国時代に信濃を併呑した義光の後裔武田氏が通った道でもあった。
やがて盛義の弟の親義は岡田、子息の安義は佐々毛(捧;ささげ)・犬甘(いぬかい)・新田と土着の地名を名字とした。盛義の弟は、現在の松本市岡田に由来する岡田親義を名乗った。佐々毛は当時筑摩郡に捧荘があった。犬甘も安曇郡であったが、筑摩郡に接し梓川と奈良井川の合流点にあった地名である。平賀氏の一族が信濃国府、現在の松本市付近に進出し、国衙を背景にした在地有力者として勢力を拡大させた。
[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/saku/sa.htm
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