2015年4月11日土曜日

信濃武士、戦国時代序章


文明9(1477)年8月、信濃国では水内郡の栗田氏が、同郡内の漆田秀豊の本拠漆田城を奪取し領地を割譲させた。善光寺内に、寛慶寺という大寺がある。浄土宗総本山知恩院の末寺で正式名は寿福山無量院寛慶寺という。治承4(1180)年9月栗田城主であり、戸隠山顕光寺(現戸隠神社)別当である栗田範覚が、善光寺の南、犀川の北の栗田(長野市芹田栗田)に寺を建立し栗田寺とした。栗田氏は代々戸隠山別当を世襲しており、寛覚の代に鎌倉幕府より重ねて善光寺別当に任じられた。以来、代々、善光寺・戸隠両山別当を世襲した。栗田寛慶が、明応5(1496)年12月に没すると、その遺言に依り栗田寺を現在地善光寺東門に移し、父寛慶の名を以て寺号とした。
  国衙が後庁(現長野市南長野町・後町)にあった時代に、中御所守護館は、現在の長野市中御所2丁目に置かれていた。南北朝期から室町期の信濃国の守護所である。その漆田原(長野市中御所の長野駅付近)在地領主漆田氏の館跡が漆田城とも言われ、守護館の北西から西北西の方向に東西約254m、南北118mに漆田城を構えた。源頼朝が建久(1197)8年に善光寺に参詣した際にこの辺りの有力者である漆田氏の館に泊まったとある。漆田は現在も字名に残る。
 中御所守護館は文安3(1446)年の漆田原合戦後に廃された。小笠原宗康 が父小笠原政康からの家督を相続したが、政康の兄長将の嫡子持長と従兄弟同士で守護職と跡目を争い、宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死した際は家督を譲り渡す条件で協力を依頼した。宗康は漆田原で持長軍と戦い傷死したが、持長は戦勝しながら、家督を承継出来ず、その対立が後代にも及んだ。文明11(1479)年9月、伊那郡で松尾の小笠原政秀(政貞;宗康の子)と鈴岡の小笠原家長(光康の子)が争い始めた。小笠原家は遂に3家に分裂し混乱した。諏訪上社大祝諏訪継満は政秀を助勢するため伊那郡島田(飯田市松尾)に出兵した。
 文明11(1479)年7月、佐久郡内の小笠原一族、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めていた。佐久岩村田の大井氏の当主は政光の後嗣、若い政朝であった。ところが、その1か月後の8月24日の合戦で、大井氏は前山城の伴野氏との戦いに大敗し、政朝が生け捕りとなり、大井氏の執事相木越後入道常栄(つねよし)を初め有力譜代の家臣が討死した。この戦いには、伴野氏方に、大井氏に度々侵攻され劣勢にあった甲斐の武田信昌が、報復として加担したといわれている。生け捕りとなった政朝は佐久郡から連れ出されたが、和議が成立して政朝は岩村田に帰ることができた。以後、政朝は勢力を回復できぬまま、文明15年(1483)若くして死去した。子がなく、幼弟の安房丸が継いで大井城主となった。「四鄰譚藪」には「大井孤城となる」と記している。
 翌年、村上氏の軍勢が佐久郡に乱入し、2月27日、岩村田は火を放たれ、かつて「民家六千軒その賑わいは国府に勝る」と評された町並みは総て灰燼に帰した。大井城主は降伏し、大井宗家は村上氏の軍門に下った。
 翌文明12年2月、下社大祝金刺興春が、上社方を攻め安国寺周辺の大町に火を放った。3月には西大町に火を放つ。興春には諏訪一郡の領主権と諏訪大社上下社大祝の地位獲得の野望があった。同年7月、伊那郡高遠の諏訪継宗が鈴岡の小笠原家長に合力し伊那郡伊賀良へ出陣し、松尾の小笠原政秀と戦い、8月には、上社大祝継満が、小笠原政秀と共に伊賀良の鈴岡小笠原家長を攻めている。
 一方、高遠の諏訪継宗は同じ8月、伊那郡高遠(伊那市高遠町山田)の山田有盛と戦っている。文明13年の『諏訪御符礼之古書』に記される明年御射山御頭足事条には「一、加頭、伊那,山田備前守有盛、御符礼一貫 八百、代始、使四郎殿、頭役六貫文」とあり、山田有盛が頭役を勤仕している。山田氏は山田地内の山上に居城を構えていた。府中の小笠原長朝(持長の孫)は、高遠の継宗に味方し山田城を攻めたが長朝は多くの士卒を失ったという。翌14年6月、高遠継宗は藤沢荘の高遠氏代官として仕えていた保科貞親(諏訪一族)と、その荘園経営をめぐって対立し、大祝継満・千野入道某らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず不調に終わった。継宗は笠原、三枝両氏らの援軍を得て、千野氏・藤沢氏らが与力する保科氏と戦ったが、諏訪惣領政満が保科貞親の助勢に加わると、晦日、高遠継宗の軍は笠原(伊那市美篶;みすず;笠原)で敗れた。以後も保科氏との対立は続き、さらに事態は混沌として複雑になる。同年8月7日、保科氏が高遠氏に突然寝返り、連携していた藤沢氏が拠る4日市場(伊那市高遠町)近くの栗木城を攻めた。この時、諏訪惣領政満は藤沢氏を助け、その援軍も共に籠城している。
 15日には、府中小笠原長朝の兵が藤沢氏を支援するため出陣をして来た。17日、府中小笠原氏と藤沢氏は退勢を挽回して、その連合軍は高遠継宗方の山田有盛の居城山田城(高遠町山田)を攻撃したが、勝敗は決しなかった。『諏訪御符礼之古書』によれば、「府中のしかるべき勢11騎討死せられ候、藤沢殿3男死し惣じて6騎討死す」とある。

 諏訪氏も小笠原氏同様、一族間の内訌が絶えなかった。諏訪惣領家・諏訪大社上社大祝家・高遠諏訪家、そこに下社大祝金刺家が加わる争乱となる。
 この戦国時代初期、諏訪氏は多くの苦難を乗り越える事で、戦国武将として成長しつつあった。諏訪氏は、下社金刺氏を圧倒し郡内を掌握する勢いであり、杖突峠を越えて藤沢氏を支援し、一族高遠継宗の領域を脅かしつつあった。大祝継満も大祝に就任して20年近い、年齢も32才に達している。諏訪家宗主としての誇りと、度々の郡外への出兵で、軍事力を養ってきた。そして、諏訪大社御神体・守屋山の後方高遠に義兄弟の継宗がいる。彼らは、自ずと連携し、そこに衰勢著しい金刺氏を誘い、「諏訪上社を崇敬すると自筆の誓紙」を差し出した伊賀良の小笠原政貞とも同盟した。
 文明15(1483)年正月8日、その大祝諏訪継満が惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿(ごうどの)で饗応し、酔いつぶれたところを謀殺した。しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、2月19日、神長官守矢満実・矢崎政継・千野・福島・小坂・有賀ら有力者は継満を干沢城に追い詰め、更に伊那郡高遠へ追いやった。文明の内訌である。
 下社大祝金刺興春は、継満に同心していて、諏訪家の総領の不在を好機として3月10日、高島城(茶臼山城;諏訪湖の高島城は豊臣時代以降のもの)を落城させ、さらに桑原武津まで焼き払い、上原に攻め込もうとした。神長官守矢満実らは、敵の攻撃に備えて高鳥屋城(たかとやじょう;桑原城)に総領家一族と共に立て篭もっていた。守矢満実の子継実・政美は、矢崎、千野、有賀、小坂、福島などの一族と共に逆襲に転じ、逆に金刺興春の軍を破り、勝ちに乗じて下社に達し、その社殿を焼き払い、興春の首を討ちとった。その首は諏訪市湖南にあった大熊城に2昼夜さらされた。興春亡き後、諏訪下社大祝は子盛昌、孫の昌春と代を重ね、上下社間の争闘は続くが、このころから下社方の勢力は衰微する。この時府中深志の小笠原長朝は、神長官守矢満実・矢崎政継らに味方し、下社領筑摩郡塩尻・小野などを押領した。
 高遠に逃げた継満は、義兄の高遠継宗と伊賀良小笠原政貞、知久、笠原氏の援軍をえて翌年の文明16(1484)年5月3日、兵300余人率い、杖突峠を下り磯並・前山(いそなみ・まえやま;茅野市高部)に陣取り、6日には諏訪大社上社の裏山西方の丘陵上にあった片山の古城に拠った。その古城址北側下の諏訪湖盆を見晴らす平坦な段丘には、古墳時代初期の周溝墓、フネ古墳片山古墳がある。極めて要害で、西側沢沿いには、水量豊富な権現沢川が流れ地の利もよい。惣領家方は干沢城に布陣したが、伊那の敵勢には軍勢の来援が続き増加していく。 ところが小笠原長朝が安筑両郡の大軍を率いて、片山の古城を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。その向城こそが権現沢川左岸の荒城(大熊新城)であった。伊那勢は両翼を扼され撤退をせざるを得なくなった。 継満も、自らの妄動が家族に残酷な結果をもたらし、却って諏訪惣領家を中心とした一族の結束を強め、下社金刺氏をも無力にし、ここに始めて諏訪平を領有する一族を誕生させたことを知った。以後の継満には、諸説があり、各々信憑性を欠くが、いずれにしても、継満一家は歴史上の本舞台からは消えていく。 惣領家は生き残った政満の次男頼満に相続され、同時に、大祝に即位した。5歳であった。
 諏訪上社大祝諏訪頼満と下社大祝金刺昌春の戦が繰り返され、昌春の拠る萩倉要害が自落して、大永5(1525)年、甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。
 これより先、文明10年12月、深志の小笠原清宗(持長の子)が、享年52で没した。子の長朝が後継となったが、若年と侮られ、長朝が不在中に鈴岡の小笠原政秀が深志に侵攻してきた。
 小笠原長朝は諏訪氏と金刺氏同族間の戦いに介入にし、それに乗じようとする伊賀良の小笠原と戦い、その一方、筑摩と安曇地方で勢力を広げようとしたため周辺の豪族と争乱を繰り広げていた。長朝は、安曇地方の北部の雄族仁科氏(大町市付近)とも争うことになる。長朝は、戦線が拡大し手薄になった府中を、諏訪惣領家政満による攻撃を受け形成が次第に不利になっていた。鈴岡の小笠原政秀が諸所に転戦する長朝の不在をついてきた。家臣団は防ぎきれず、長朝の母と妻子らを守護し、相伝文書を携え更級郡牧城の香坂氏を頼って逃れた。やがて長朝も寄寓してきた。府中の小笠原家存亡の危機に至った。小笠原政秀は長朝の本拠地林館(松本市)を奪い、深志にとどまり安筑(あんちく)2郡を合わせて領有し、名実共に小笠原惣領家たらんとした。しかし安筑2郡の国衆は反発し治政不能の争乱状態となった。やむなく長朝と和睦し、家伝の文書を譲り受け、代わりに、長朝を養子とし府中に返した。香坂氏は長朝と同盟関係となり、延徳元(1489)年8月、府中へ出兵し長朝に助勢している。
 数年後、松尾の小笠原定基(光康の孫)が鈴岡の小笠原政秀父子を誘殺し伊賀良を掌握した。定基は勢いのまま、伊那地方制覇に奔走する一方、しばしば伊勢宗瑞(北条早雲)から要請され三河国に出兵し、更に遠江の大河原貞綱にも頼られ出陣している。
 その度重なる動員で、主力兵力の伊那地方の農民社会が崩壊し貧窮化する。そこへ府中の小笠原長棟(長朝の子)が3年間に亘って執拗に介入し、天文3年(1534)小笠原定基はついに降伏した。こうして信濃の小笠原氏は府中の小笠原家に統一され、長棟は次男の信定を松尾城に配して、府中から伊賀良までの完全支配を達成した。この数年後、小笠原長棟の跡を継いだ小笠原長時が、甲斐国から侵攻してきた武田晴信と戦うことになる。

3)埴科郡舟山郷
 「諏訪御府礼之古書」は『信濃一宮』諏訪大社上社の重要祭事の御符入の際に於ける頭役、礼銭、頭役銭などを記録しているため、信濃の中世武士の盛衰を知る貴重な史料となっている。
 『御符礼』とは、上社が翌年の頭役へ『御符』即ち差定書を届け、この差定の文言に従い「頭役」が担当する祭事の際、『御符』を捧げて諏訪郡内に入部した。『御符礼』を戴くことは、『信濃一宮』が認定する当地の雄族の証であり、『御符礼』はその対価となる礼銭のことである。「頭役」は信濃各地に於ける事実上の支配者を認定する公的権威となっていた。
 舟山郷は海野氏が領有していたが、やがて村上氏に奪われた。屋代信仲は、現在の屋代駅付近の一重山(ひとえやま)に屋代城を築き支配していた。
 『御符礼』によると舟山郷の頭役は、文安6(1449)年海野持幸代官平原直光、康正2(1456)年も海野氏代官室賀貞信であった。寛正2(1461)年以降からは、村上氏一族の屋代信仲が文明17(1485年)年まで頭役を務めている。
 応仁元(1467)年、村上氏との戦いで海野持幸が戦死し、本拠の小県郡海野荘は村上氏に奪われた。それ以前に、村上氏の勢力が、舟山郷までに及び、海野氏一族を一掃していた。幕府政所執事伊勢貞親は、8代足利将軍義政の養い親で、隠然たる政治力を有していた。その貞親が、寛正6(1465)年5月5日、大井持光の子政光から馬を贈くられ、その礼状に応え、埴科郡舟山郷入部を認めた。政光は、寺社参詣の名目で、重臣相木越後入道常栄(つねよし)に書状を託し、同年7月2日、舟山郷入部を再度、京都の伊勢貞親に質している。
 舟山郷は、かつて平家没官領から信濃春近領の一つ鎌倉将軍家領となっていた。南北朝時代には、室町幕府は守護領としていた。その領域は、「更級埴科地方誌」に「現在小舟山には舟山が小字として存在し、寂蒔(じゃくまく)や鋳物師屋にも舟山の小字があって、この辺りを中心とした郷であったことが知られる」と記している。舟山郷は、更級郡村上郷(現坂城町の上平(うわだいら)と網掛の間に字名を遺す)のあった更級郡南部から千曲川の川東を北に遡り、現更埴市屋代から現千曲市の戸倉の中間にあり、同じく現千曲市の小船山・寂蒔(じゃくまく)・鋳物師屋付近にあった。
 村上氏は室町時代初期、更級郡村上郷を本拠に、その千曲川以西を領有していた。明治22(1889)年、更級郡上平村、網掛村、上五明村が合併し村上村が発足し、昭和35年(1960)4月1日 その村上村が埴科郡坂城町に編入されている。その領域が大いに関わっている。舟山郷は、南北朝時代、守護所が置かれていた。至徳年間(1384~87)に守護所が平柴(長野市)へ移っている。以後、舟山郷は市河氏や倉科氏の預所(あずかりどころ)になっていた。
 「幕府は反幕的な村上氏や高梨氏に対抗させるため、大井政光に舟山郷を支配させようとした。寛正6(1465)年5月5日、幕府政所執事伊勢貞親は、政光に舟山郷入部を申し付けた。それを援護するため幕府は伊那郡松尾の小笠原光康と越後守護上杉房定に、村上政清と高梨政高の討伐を命じた。
 高梨政高は古河公方足利成氏と通じていた。越後守護は上杉右馬頭(うまのかみ)を大将として高梨の本拠の高井郡を攻め込ませたが、高橋(中野市西条)で逆に討ち取られている。その後文明17(1485)年まで屋代信仲が、諏訪上社の頭役を務めている。大井政光は村上政清に、自力では対抗し得なかったようだ。

4)村上氏、大井氏を滅ぼす
 村上氏は、応仁元(1468)年の頃、既に更級郡村上郷から坂木(埴科郡坂城)に本拠を移していた。坂木は千曲川東岸で、塩田荘の対岸に当たる。海野氏は北側両面から、その圧力を受けることになった。
 関東公方足利成氏没後、坂城の村上頼清が、塩田荘塩田城(別所温泉前山寺後方の弘法山)を拠点に伸張してきた。文正元(1466)年、村上政清は上高井郡山田郷で井上満貞を攻撃し敗死させている。翌文正2年小県郡海野荘を攻め海野氏幸を破り、翌応仁元年10月18日、氏幸を討死にさせた。海野氏一族の筑摩郡会田の岩下満幸は、救援に駆け付けたが、同年12月14日、政清に討ちとられている。翌応仁2年、政清は雪が解ける頃、傍陽(上田市真田町傍陽)の洗馬に攻め入り、海野氏に勝利している。この年の村上氏の洗馬攻めが、真田地方に村上氏が入った最初で、海野氏は村上氏に敗れたことで傍陽地方を維持できず、その地方の国人領主、曲尾氏、堀内氏、半田氏らは村上氏に降伏、後に横尾氏も降伏した。同2年4月に洗馬城(千葉城;傍陽地区)の詰め口を攻める最中、政清は陣中から坂城郷の諏訪上社四月会頭役の役料を届けている。この年の頭役には、政清自身が勤仕している。それまでは、文安5(1448)年の代官重富高信や寛正5(1464)年の代官飯野信宗が勤仕していた。政清は盛清以来村上氏発祥の地更級郡村上郷から、千曲川を越え埴科郡坂城郷へ本拠を移した。翌年には、隣接するに至った海野氏の真田郷内の城と所領を奪い尽くした。
 村上信貞は建武2年、足利直義から恩賞として北条氏の所領塩田庄を与えられ、その代官として一族の福沢氏を充て管理させた。政清は、これより先に塩田平に勢力を張る浦野氏を駆逐し、当地方を完全に掌握していた。
 応仁元(1467)年10月18日、村上頼清は小県郡の海野幸氏を討ちとり、その所領を奪った。その勢いのまま村上勢は大挙して佐久郡内に攻め込んだ。佐久郡の代表的史家である岩村田出身の学者吉沢好兼(たかあき;宝永7年~安永5年)の著「四鄰譚藪」には、村上氏が1万騎を率い大井氏を攻め、大井原の決戦に懸け、これに勝利し岩村田城下にまで攻め込んだ。大井氏は甲州へ逃れたとある。その影響により「妙法寺記」には、文明元(1468)年と文明4年に大井氏など佐久の国人衆が甲斐国に攻め入り、文明9(1477)年4月12日には、甲斐勢が佐久に侵攻して敗北した記録が記されている。大井氏は村上氏に追われ、その一族が甲斐国西部に根を張る切っ掛けとなった。甲斐国の大井氏の勢力は侮りがたくなり、武田晴信の母は、信虎の正室の甲斐大井氏である。
 当時甲斐守護武田氏の力が弱く、隣接する佐久からも侵攻されていた事が分かる。この甲州勢の報復的な佐久侵攻に際し、佐久郡南部の相木谷を本拠とする大井氏重臣の相木氏が軍勢を募り、現南牧村の平沢やその北隣り現野辺山の矢出原で、武田軍を撃退したようだ。当時の武田氏は甲斐守護職についていたが、それは名ばかりのことで、甲斐一国を平らかにする力は無かった。国内は、麻のように乱れていた。若い守護職武田信昌の代に、長い間専権をふるっていた守護代跡部氏を、寛正6(1465)年、西保の小野田城(東山梨郡牧丘町)で討ちとり、下剋上の芽を刈り絶ったが、その後も有力国人の反抗や対外勢力の侵入に悩まされていた。未だ守護大名化には、程遠い情勢下にあった。

 文明9(1477)年8月、持光から大井惣領家を継いで30年近くなる政光が、翌文明10(1478)年、身罷っている。政光の後嗣が若い大井城主政朝で、翌11年7月、佐久郡内の同族、大井・伴野両氏が諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めていた。ところが、その1か月後の8月24日の合戦で、大井氏は前山城の伴野氏との戦いに大敗し、政朝が生け捕りとなり、大井氏の執事相木越後入道常栄(つねよし)をはじめ有力譜代の家臣が討死を遂げた。この戦いに、大井氏に度々侵攻され劣勢であった甲斐の武田信昌が、報復として伴野氏方に加担したといわれている。生け捕りとなった政朝は佐久郡から連れ出されたが、和議が成立して政朝は岩村田に帰ることができた。以後、政朝は勢力を回復できぬまま、文明15年(1483)若くして死去した。子がなく、幼弟の安房丸が継いで大井城主となった。「四鄰譚藪」には「大井孤城となる」と表している。
 翌年、村上氏の軍勢が佐久郡に乱入し、2月27日、岩村田に火を放った。かつて「民家六千軒その賑わいは国府に勝る」と評された町並み総てが灰燼に帰した。大井城主は降伏し、大井宗家は村上氏の軍門に降った。 
 村上氏は、南北朝時代の末期に埴科郡坂城を中心に勢力を拡大し、嘉吉元(1441)年将軍足利義教が殺され、翌年守護の小笠原政康が死に信濃国内が騒然となると、その混乱に乗じて自領を拡大した。村上政清、義清の時代には、北信最大の雄となった。村上姓の由来については、信濃国更級郡村上郷の地名からとされる。
 その村上政清が、大井氏の代替わりを好機とし、1万2千の軍で大挙して大井城を襲撃した。大井氏には、往古以来の有力な家臣が潰えた凋落時、既にこれを撃退する力はなかった。城郭・神社仏閣・民家全てが焼き尽くされた。大井城は、落城「城主没落にあいぬ」「この節大井殿は小諸へお越し候え在城なされ蹌踉」とある。大井宗家は滅亡した。かくして、大井朝光が大井城に居住してからおよそ260余年、名族の城が落ちた。
 小笠原政康死後3家に分裂し、文明以降、信濃国は北信の高井方面では井上・高梨両氏が戦いを繰り返し、佐久地方では同じく小笠原一族同士の大井・伴野両氏が争い、その間隙を衝いて村上氏は、善光寺平・小県・佐久平に支配地を伸張させ、更埴を盤石な本拠地として確立していく。
 村上義清の代には、信濃埴科(はにしな)郡葛尾城を本拠とする信濃北東部の有力国人となり、佐久・小県(ちいさがた)・更級(さらしな)・埴科・高井・水内(みのち)の六郡に及ぶ大勢力となっていた。
5)武田信昌の時代
 武田 信昌は父信守の早世により、康正元(1455)年幼くして家督を継いだ。父信守も若年での相続であったため、信昌の時代の武田氏は守護代跡部駿河守明海(あけみ)・上野介景家父子が専横を極めていた。
 跡部は嘉歴4(1329)年の諏訪大社の『諏訪社上社造営目録案』に『玉垣二間 跡部』とあり、『尊卑文脈』には伴野氏初代時長の次男長朝が阿刀部(跡部)氏を称したという。『貞祥寺開山歴代伝文』には前山城(佐久市前山)を築き城主となったという。佐久郡野沢郷の北側に隣接する地に在し、室町時代、跡部氏が諏訪大社上社頭役に就いている。その後も頭役を重ねているが、10貫足らずで伴野荘内の頭役負担郷村では最小であった。
 笛吹川左岸、甲斐国西八代郡の旧市川大門町平塩岡にあった寺院の『平塩寺過去帳』によると、跡部郷の跡部常賀(つねよし)らの支族が、南北朝時代に佐久から甲斐の八代郡大石和筋(旧勝沼町)に移り勢力を伸張させたようだ。佐久の跡部氏は『諏訪御符礼之古書』に載る以降、不詳となる。

 応永23(1416)年上杉禅秀の乱に際し、甲斐守護武田信満は禅秀の舅であった関係から加担した。翌24年1月、禅秀が敗れ鎌倉で自害し、鎌倉公方足利持氏が上杉憲宗を大将に武蔵・相模の国人衆を甲斐に差し向けると、これを都留郡に迎え撃ったが敗れ、山梨郡木賊山(とくさやま;東山梨郡大和村;天目山)で自刃した。この乱により甲斐武田氏は滅亡の危機に瀕した。守護不在となると、甲斐の国人衆が自衛のため一揆を組み、相互の勢力争いが拡大し混乱を極めた。応永25(1418)年、将軍義持は甲斐鎮定の抑えとして信満の弟武田信元(穴山満春)を新守護に任じるが、国内に自立する国人衆によって信元は入国を阻まれた。
 幕府に要請された小笠原政康の支援により、ようやく信元は入国ができた。甲斐守護家武田氏の権威はまったく地に落ちていた。政康は同じ小笠原一門の跡部駿河守明海を守護代に推し信元を補佐させた。明海は武田氏の衰微に乗じ、子の上野介景家と謀り、甲斐守護職の座を狙った。寛正2(1461)年、景家は八代郡岩崎村(勝沼町)の氷川神社に掲げる新殿の棟札に「専ら跡部上野介景家身心勇猛にして、永く武家の棟梁となり、子孫繁栄して正に武門の枢要たらんことを祈る」と願文を奉げている。

 武田15代当主信守は若年の相続であったが、その信守も早世し、、その子16代当主信昌も幼年であった。跡部氏の対立は甲斐一国規模の戦乱となり、長禄元(1457)年には小河原合戦(現甲府市)と馬場合戦において信昌方は苦戦し一門の重臣吉田氏や岩崎氏らを失っている。跡部明海が寛正5(1464)年に死去すると、信昌は諏訪惣領政満の援護を受け、翌寛正6年、政満の父信満の兵と合わせて夕狩沢合戦(山梨市)において景家勢に大勝し、山梨郡西保下の小田野城(旧東山梨郡牧丘町)に追い詰め景家を自害させる。
 文明4(1472)年、佐久の有力国人大井政朝が埴科郡の村上氏に追われ、甲斐八代郡へ逃れ侵攻してきたため、花鳥山(旧御坂町)で合戦となった 『勝山記』。後に信昌は大井氏の弱体化を見て逆に佐久郡へ侵攻を試みたが、大井氏の重臣相木氏にこれを阻まれた。『勝山記』などによると、信昌守護の時代、風水害、飢饉、疫病の蔓延、農民一揆の勃発などの記録が散見される。こうした中、延徳2(1490)年、穴山と大井(武田大井氏)両氏が合戦をするなど、穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏といった国内の有力国衆が自家存続と領土拡張の野心を剥き出しにする。飢饉の最中、他領への侵略は、その作物の奪取が主要な目的であった。
 信昌は明応元(1492)年に嫡男信縄(のぶつな)に家督を譲って隠居したが、信昌に迷いが生じ、病弱な信縄を廃し、信縄の弟の信恵(のぶしげ)に家督を譲りたいと考え始め、信縄と信恵それぞれを支持する国人衆が、甲斐を2分して争った。

6)武田信虎の登場
 堀越公方足利政知の子足利茶々丸が明応4(1495)年、伊勢盛時(北条早雲)によって伊豆国を逐われ、上杉顕定や武田信縄を頼って武蔵国や甲斐国に寄寓していた。伊勢盛時は明応7(1498)年8月、甲斐国に侵攻し、足利茶々丸を討った。盛時は南伊豆の深根城を落として、5年をかけて漸く伊豆国を平定した。伊勢盛時の脅威が去ると、信縄と信昌の抗争が再開する。信昌は長期に亘り守護の立場にあり、国人勢力や対外勢力を撃退する成果を挙げた。後代の甲斐譜代家臣層のなかに「昌」の偏諱を持つものが多い。甲斐国の統一を進展させた結果とみられる。しかしその晩年には国内を2分する内乱を招いた。明応3(1494)年に武田信縄の子として信虎が生まれた頃も、父信縄は信虎から見れば叔父にあたる弟信恵との戦いに明け暮れていた。信虎が生まれた時期には、信縄は信恵に対して優位となり、とりあえず家督争いは小康を保っていた。しかし、永正2(1509)年に信昌がこの世を去り、その翌年には信縄も薨去した。ここに若干14歳の武田信虎(当時信直)が、武田家の家督を相続した。再び油川信恵(武田信恵)と信縄の嫡子信虎との家督争いが発生する。信虎は油川氏の居城である勝山城を先制攻撃し、油川信恵・信貞父子と信恵の弟岩手縄美などと共に討ちとり禍根を断ち切ることに成功した。
 信虎はほぼ甲斐国の統一を成し遂げると、次の標的にしたのが、小領主が分立し抗争を続ける信濃であった。甲斐から信濃へは、八ヶ岳の東麓を北上する佐久口と、八ヶ岳の南麓から西北に進む諏訪口がある。諏訪地方は永正15年(1518)、諏訪頼満が長年対立してきた諏訪大社下社大祝金刺氏を追放し統一を遂げ、軍事的にも侮りがたく、一方、佐久地方は大井と伴野両氏が対立し混沌としていた。
 永正16(1519)に甲斐の信虎が佐久郡平賀城を攻めたのを皮切りに、大永7(1527)年、野沢の前山城主伴野貞慶が大井氏と戦い、信虎に援軍を要請した。信虎は佐久口から入ったが、信濃方がまとまり対抗したため和睦し撤退した。
 享禄元(1528)年8月22日、信虎は先の甲州亡命者金刺氏の旧領奪還を口実に、諏訪へ侵入しようとした。同月26日、諏訪頼満は子頼隆と共に諏訪郡神戸境川(諏訪郡富士見町)で迎撃し信虎に勝利した。享禄4年、浦氏・栗原氏・今井氏・飫富らが信虎に叛き、諏訪氏に出兵を要請してきた。頼満は自ら兵を率い甲斐に侵入した。信虎が下社金刺氏牢人衆を集めて立て籠もらせていた笹尾塁を攻略し、更に軍を進めた。しかし2月2日の合戦で大井信業、今井備州らが討死し、次いで3月3日の韮崎河原辺の合戦で栗原兵庫ら8百余人が敗死し、反信虎軍は壊滅的打撃を被り四散した。頼満は信虎と甲斐国塩河で激戦となり、又も勝利している。天文元(1532)年9月、浦信本は再び諏訪頼満を頼り叛いたが、甲斐国の年代記「『妙法寺記』には「終に浦信本劣被食(おとえなされ)候而屋形へ降参申候。去間城を屋形へ渡し申候而云々」とある。信虎の鎮圧が早く頼満は出兵の機会を逸した。ここに信虎の甲斐国内統一が完成した。
 以後も諏訪頼満と度々交戦するが、天文4(1535)年9月17日、堺川北岸で会見して和議をした。天文9(1540)年5月、信虎は佐久郡へ攻め入った。甲斐国主の軍勢の前に、佐久の小領主の連合軍は脆かった。『妙法寺記』は、一日に36もの城を落したと記す。諏訪頼満の病死後、孫頼重が家督を継いでいた。父大祝頼隆は享禄3(1530)年4月18日病死していた。頼重は信虎に呼応し7月、岩村田大井氏の一族が拠る小県郡の長窪城(長門町)を奪っている。既に長窪城から依田氏の影はなく、芦田氏討伐後間も無く、大井氏は依田氏の本拠を奪取していた。諏訪大社上社五月会頭役などの記録によれば、依田氏は岩村田大井宗家や小諸などで、大井氏の執事・代官として家名を維持している。
 同年11月30日の甲斐国から輿入れがあった。頼満の孫頼重が信虎の姫(3女;信玄の妹)祢々御料人(ねねごりょうにん)を娶った。祢々御料人は14歳、頼重25歳。12月9日、頼重、甲府に婿入りしている。信虎同月17日、上原城を訪れる。頼重には既に小笠原氏の家臣小見氏(こみし)との間に一女があった。当時9歳で、後の諏訪御料人・本名梅であり、勝頼の母、この時、人質交換の意味もあって甲府に送られた。  翌天文10年5月13日、信虎と頼重が連携し海野(東部町)へ出兵した。村上義清も合力し尾野山(上田市生田尾野山)の海野棟綱を駆逐し、翌14日には祢津元直を追い、棟綱は上野の関東管領上杉憲政のもとへ逃れた。長野原には、同族の羽尾氏がいた。この時、真田幸綱(幸隆)も共に逃れたようだ。幸綱の出自については、真田氏自体にも幸隆以前の記録が少なく、棟綱の娘婿真田頼昌の子とする説や、海野棟綱の子幸綱が頼昌の養子になったなど諸説がある。
 同年6月14日、信虎は女婿である駿河の今川義元の館へ向かった。その際、信虎の嫡男晴信は、信虎を追放とし帰還を許さなかった。
 やがて武田氏と村上氏の争いの場となり、大井氏・平賀氏・依田氏をはじめとする佐久郡の諸豪族も村上氏や武田氏、更に関東管領上杉氏などの間で離合集散を繰り返していき、最終的にはその殆どが滅亡し、地名を氏(うじ)名とする名族を継承できなかった。その末流一族は、戦国大名の雄・武田氏に属し先陣先駆衆して、多いなる犠牲を払いながらも一族を存続させていった。

7)諏訪氏と武田氏の和睦
 文明12(1480)年頃に入ると、諏訪大社の上社と下社の対立が激しくなり、下社の金刺氏は府中(松本付近)の小笠原氏と結び、上社の諏訪氏は伊那郡の小笠原氏と結び、夜毎、戦闘を繰り返す動乱の時代となる。下社の金刺興春は、上社方の諏訪氏惣領家と大祝家の内紛に乗じ一時優勢になったが、逆に攻め込まれ首を討たれ、社殿等を焼かれた。孫の昌春の代には萩倉砦(下諏訪町東山田)を落とされ、已む無く甲斐国の武田信虎(武田晴信の父)を頼って落ち延びた。これが信虎の諏訪郡侵攻の口実となった。>
 信虎の信濃侵攻は、南の今川、東の北条と幾度かの戦火を交えながらも、決定的決着とならず、3者鼎立の膠着状態となった事による。
 信虎は明応3(1494)年に誕生した。永正4(1507)年2月14日、病弱であった父信縄が病死する、享年37であった。信虎14歳で家督を継いだ。叔父の信恵(のぶよし)が有力国人衆を誘い反旗を翻した。 翌永正5年、内戦に勝利し守護大名としての地位を守った。『高白斎記』によれば、永正16(1519)年には、甲斐をほぼ制圧し、それまでの武田氏歴代の居館があった石和(笛吹市、旧石和町)より西へ移り、初めは川田(甲府市川田町)に館を置き、後に府中(現在の甲府市古府中)の躑躅ヶ崎に館を構え、町を整備し家臣を集住させた。現在の甲府の始まりであった。
 大永3年(1523)6月10日、信濃国善光寺に参詣している。大永5(1525)年4月1日、「諏訪殿」に甲府の住居を与えている。「諏訪殿」とは、諏訪頼満に駆逐された金刺昌春とみられる。大永6(1526)年6月19日、将軍足利義晴は信虎の勢威が盛んであることに期待して、上洛を要請した。その際、関東管領上杉氏、諏訪上社大祝諏訪氏、木曽親豊に信虎の上洛に協力するよう命じている。当時、駿河には今川氏輝・氏親父子が、相模には北条氏綱がいて、互いに強国同士が接し、特に氏親と氏綱は北条早雲の縁から相駿同盟をしており信虎の東海道方面の侵出を困難にしていた。この年7月30日、信虎は、北条氏綱と籠坂峠の麓、富士裾野の梨木平で戦い大勝している。しかし、互いに決定的勝利とならず抗争は続いた。このため上洛は実現できなかった。
 信虎が、その全く逆方向の大国でありながら、諏訪氏、小笠原氏、村上氏、木曽氏等の小大名が分立する信濃に、矛先を向けるのは、信虎としては当然の帰結であった。信虎は一代の英傑であって、武田騎馬軍団を育て、その戦法の基本を確立した。その果実を晴信が継承し、類希なる軍略を駆使し稀代の戦国大名として成長した。
 甲斐と信濃は国境を接し、当時両国を結ぶルートには2通りあった。八ヶ岳の東を抜け佐久郡に至る道と、甲府盆地に隣接する諏訪地方への道である。信虎は、小豪族同士がひしめき合う佐久郡への侵入を試みたこともあったが、これは思うに任せなかった。享禄元(1528)年からは、諏訪地方を治める諏訪頼満と足掛け8年にわたる戦いを続けてもいた。天文4(1535)年には頼満と和睦し、後にはその子頼重に娘を嫁がせて諏訪家との同盟を締結し、信濃侵攻の方針を諏訪地方攻略から再び佐久攻略へと軌道修正した。
 頼重は天文3(1534)年に惣領家を継いだ。
 天文4(1535)年9月17日、諏訪頼満と武田信虎は堺川北岸で会見して和議をした。この年の6月、信虎は今川氏の駿河に侵攻した。8月、今川を救援する北条氏と都留郡の山中で戦い敗れている。信虎は西隣する諏訪氏との和睦が緊要となった。諏訪氏にしても文明14年以降、同族高遠継宗との攻防が続き、当代高遠頼継も、高遠氏積年の野望である諏訪氏簒奪の機会を窺っていた。諏訪氏にしても大門峠を越えた小名が群拠する佐久には魅力があった。
 天文6(1537)年2月10日、武田信虎は長女定恵院(じょうけいいん;晴信の姉)を駿河守護今川義元に嫁がせ、甲駿同盟を成立させる。天文5年、駿河の今川氏輝が逝去した際に、今川家では花倉の乱という家督相続が勃発した。信虎は義元の家督相続を支持し、援軍を派遣し義元の勝利を決定的なものとした。それを契機に武田と今川は同盟を結ぶこととなった。甲駿同盟に激怒した北條氏綱が2月26日に駿河へ出兵。興津近辺を放火する。 武田信虎は今川義元救援のために富士須走口に出陣している(『勝山記』須走口合戦)。
 天文7(1538)年、頼重は叔父の諏訪頼寛から弟頼高に諏訪上社大祝を継承させた。同年7月9日、頼重は、大門峠を越えて葛尾城(埴科郡坂城町)の村上義清・信虎と共に海野幸義を討ち取り、矢沢氏・禰津氏を攻め破っている。天文10(1541)年7月、海野氏が逃れて頼る関東管領山内上杉憲政が碓氷峠を越えて海野平に攻め込んできた。頼重はまたも大門峠を越えて長窪(ながくぼ;小県郡長門町)に布陣した。関東軍はこの時突然、軍を引いた。おそらく7月17日に、積年戦い続けてきた北条氏綱が55歳で、小田原城で病没したことと関係しているものと考えられる。
 海野棟綱をはじめとする海野一族は、武田信虎を中心とした諏訪頼重・村上義清らに攻められ、この合戦に敗れた棟綱は小県郡から追われて、上野国箕輪城主の長野業正を頼って逃れた。このとき、真田幸隆もともに上州に逃れ浪々したようだ。
 天文9(1540)年5月、信虎は初めて佐久郡に攻め入った。『勝山記』は臼田・入沢を初め大小36城を攻略したという。小山田昌辰(おやまだ まさとき)に一城を与え統轄させた。『向獄寺年代記』には、信虎は「前山に城を築いて在陣す」と記す。
 先の諏訪頼満と武田信虎との堺川北岸での和議結果、天文9年11月30日の輿入となった。信虎の姫(3女;信玄の妹)・祢々御料人(ねねごりょうにん)を娶った。祢々御料人は14歳、頼重25歳。12月9日、頼重、甲府に婿入り。信虎同月17日、上原城を訪れる。頼重には既に小笠原氏の家臣・小見氏(こみし)との間に一女があった。当時9歳で、後の諏訪御料人であり、勝頼の母、この時、人質交換の意味もあって甲府に送られた。
 祢々御料人は輿入れの際、化粧料として境方18か村を持参する。以後甲斐との国境が現在のように東に寄る。その18か村とは、稗之底(ひえのそこ)・乙事(おっこと)・高森・池之袋・葛久保(葛窪)・円見(つぶらみ)山・千達・小東(こひがし)・田端・下蔦木・上蔦木・神代(じんだい)・平岡・机・瀬沢・休戸・尾片瀬・木之間村である。甲六川(こうろくがわ)と立場川の間の領地を持参した。
 甲六川は、長野県諏訪郡富士見町と山梨県北杜市小淵沢町地区の境を流れる県境の細い河川で、小淵沢町地区・白州町地区の境目を流れる。国道20号(甲州街道)の新国界橋(しんこっかいばし)の橋の下で釜無川に合流する。

8)武田晴信、諏訪を攻略
 天文10(1541)年5月、村上義清は諏訪頼重とともに信玄の父・信虎に加担、海野平の戦いで海野棟綱を破り、望月氏や祢津氏など滋野3家の嫡流海野氏を信濃から追い出している。海野棟綱は小県郡海野庄太平寺(たいへいじ;現・東御市本海野字太平寺)を本拠としていた。武田・村上・諏訪3氏の草刈り場となり、その連合軍に敗れる。この戦いで領地と弟幸義を失い、 その後、関東管領山内上杉家を頼り真田幸綱(幸隆)ら少数の一族の者を率いて上野国へ逃れる。しかしこの直後に信虎は晴信(信玄)のクーデターにより駿河に追放され、以後武田氏は果敢に信濃侵攻を促進し、義清は武田晴信との対決を余儀なくされることになる。
 信虎父子に敗れ上州に浪々中の海野棟綱と幸綱は、上杉憲政に信濃国出陣を願い、小県の失地を回復しようとした。憲政も晴信の勢力が佐久に根を張れば、上野国への脅威となると同年7月の初め兵3千騎を率い佐久郡に攻め入った。
 『神使御頭(おこうおんとう)之日記』は
 「7月、関東衆3千騎計にて佐久海野へ働候、頼重7月4日に東国之向人数、長窪まで出張候、然所、此方之様躰(ようたい;ようす)能候(宜候;ようそうろう)て、関東と和談分に候、甲州の人数も村上殿の身をぬかるる分に候て、此方まてのやうに候処、長窪へは関東の人数不相働、葦田郷をちらし候て、其の侭帰陣候、葦田之郷にはぬしもなき躰に候間、頼重知行候て、葦田方の子息此方之家風になられ候間、其かたへ彼郷をいたさせられ、同17日に御帰陣候」と記す。
 村上義清は憲政の佐久郡侵攻に即応して、直ちに諏訪頼重と武田晴信に急使を遣わし救援を求めた。頼重は直ちに出兵し7月4日には小県郡長窪で対陣した。ところが義清と晴信らは、戦線に近づこうとしない。頼重は単独で憲政と和談とし小県郡への侵入を抑えた。武田・村上・諏訪3氏の戦国武将らしい臆面もない駆け引きが露呈されている。上杉勢は佐久郡芦田郷を狼藉しただけで兵を帰した。芦田郷は領主不在となり、頼重は、依田氏一族の芦田信守を被官させ代官とした。
 武田晴信は、天文11(1542)年3月、諏訪に軍を進め諏訪大社上社の富士見の御射山に陣を張ったが、間もなく陣払いした。6月、晴信は手堅く布石を打ち、高遠の諏訪頼継諏訪下社金刺氏牢人衆と謀り、同月24日諏訪郡を急襲し、28日には上原城に攻めかかった。高遠頼継の軍も、杖突峠を越え安国寺に到着し、その門前の大町を焼き払い側面から攻撃してきた。諏訪軍は武田勢と高遠勢に挟撃にされることになった。7月3日、頼重は仕方なく上原城に火を放って後方の桑原城に退いた。
 7月4日、頼重は、弟頼高と共に討ち死覚悟で出撃しようとするが、武田軍は城壁まで押し寄せ、和睦を迫る。板垣信方の策で、武田信繁を介して「協同して高遠氏を討つ」との条件で開城を要求してきた。頼重は、ひとまず武田の軍門に下り、機を見て諏訪家を再興しようと思い、城を明け渡した。」それは敗軍の将としての言い訳であった。
 7月5日 和睦の条件どおり諏訪頼重が甲府に送られる。諏訪の人たちは頼重が送られても、諏訪大社の大祝・頼高が残ったので安堵していた。ところが、上社祢宜矢島満清に預けられていた頼高も9日に甲府へ送られた。 この後の武田氏と高遠氏の戦いでは、信玄は諏訪頼重の子・寅王を奉じて戦う。また上原城の城代に板垣信方が就き、諏訪の郡代となる。
 頼重は甲府に連行され、板垣信方の屋敷に捕らわれの身となる。その後、武田晴信に会う事もなく、甲府市、妙心寺派臨済禅の東光寺山内に監禁され、7月20日の夜自害を迫られた。享年27であった。
 諏訪頼重歿後の諏訪氏は、大祝の継承と安国寺の住職の地位は認められるが、武士たちは諏訪先駆け衆として武田氏の兵団に組み込まれて、上原城(後に茶臼山の高島城に郡代は移る)の城代の軍令に従った。永禄10(1567)年の記録には、武田家旗下諏訪50騎、千野同心衆交名(きょうみょう)、高島10人衆の名が記されている。下社系の武士も少なからず武田の軍団に組み込まれていたようだが、永正15(1518)年、上社大祝頼満に反撃され、下社大祝金刺昌春方は、『当社神幸記』(諏訪頼宣氏所蔵)に「下宮遠江守金刺昌春、萩倉要害自落し、一類面々の家風悉く断絶しおわんぬ」と記されるほど、一族と有力諸士が殲滅され尽された。旧下社方は徒兵士を供出する程度であったと考えられる。兵農分離がなされていない時代の武士は、知行地で農耕を営む大百姓でもあった。それに歩卒する民百姓がいた、大百姓は、それぞれ知行を得、身代に応じて騎馬か歩卒として働いた。
 武田氏支配の諏訪40年間は、善政を敷き民政の安定に心をくだいたと考えられる。後世、悪政を呪う記録も口碑も遺っていない。だが民の軍役負担は兵役・兵粮の徴収・輜重荷役・軍道の開設と整備・河川の改修・城普請などに及び、元々の租税負担も重く苛政そのものであった。甲斐国でも大百姓までもが逃散する事態となり、その追及は家臣相互の他領まで及ぶとし、晴信は他領主の積極的な介入を指示し実効を挙げている。
 諏訪郡内の諸士は、甲斐軍の先方衆として、いわば戦場での捨石とされた。その捨石は諏訪郡内一族の重責であった。それが消耗され続けられた。
 諏訪は宮川を境にして東が武田氏、西が高遠氏と領土を分断された。諏訪下社一党も武田方であったが、それは名ばかりで、衰微しきっていて、戦功も乏しく領地は与えられなかった。
 天文11(1542)年9月10日、高遠頼継は、諏訪上下社明神権と諏訪郡全域を手中にしょうとして、藤沢頼親と結び禰宜太夫矢島満清と図り、上原城を攻め奪うと、直ちに上社・下社も支配して、積年の念願を果した。
 晴信は、甲州にいた頼重の遺児寅王を押し立てて、頼重の遺命と称し、高遠氏打倒の軍を進発させる。この時、諏訪は割れた。寅王を迎えて、諏訪宗家復興のかすかな望みをつないで武田氏に味方したのは、頼重の叔父満隆・頼隣(頼忠の父)、矢ケ崎大炊守(おおいのかみ)・千野伊豆入道・小坂兵部・有賀紀伊守・諏訪能登守等と頼重の近習衆20人、社家では、神長守矢頼真・権祝花岡氏・福島平八等、そして山浦の地下人達であった。一方高遠方は、上社祢宜・満清、有賀遠江守、有賀伯耆守(ほうきのかみ)、権祝、頼重の近習衆等であった。近習衆の動向は割れていた。
 新大祝頼隣は武田方の守備兵と茶臼山(諏訪市上諏訪桜ヶ丘)にたてこもり、高遠勢に備えた。『高白斎記』によると、武田軍の先発は板垣信方が率いって、9月11日に府中を出陣した。19日晴信も、躑躅ヶ崎館から本隊と共に出立した。9月25日上川の南、宮川沿いの安国寺ヶ原で、両軍ほぼ同数の2千同士で激突する。上伊那軍の箕輪衆・春近衆を率いる高遠方は大敗北、高遠頼継は高遠に逃げるが、弟蓮峰軒(れんぽうけん)頼宗は討ち死に、禰宜満清は行方不明となり、満清の子は討ち取られている。武田勢はさらに高遠勢を追撃し、杖突峠を越えた片倉で800人近い兵を討ち取っている。 
 天文11(1542)年9月下旬、晴信の命により駒井高白斉は伊那口に侵入、26日藤沢集落に火を放ちこれを攻めた。9月末には、諏訪全郡が武田領土となり、以後40年、武田氏の支配下に入る。 
 さらに晴信は板垣信方に命じて上伊那口に兵を発し、高白斉とともに上伊那諸豪族への示威運動を繰り返させた。晴信は、西上の志をいよいよ強くし、その通路にあたる伊那谷の攻略に着手した。


[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/takeda1/ta1.htm

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