2015年4月11日土曜日
武士の誕生
古代信濃国は東国に含まれていた。防人は東国の壮丁が任に就いた。信濃はその東国の西端の国であった。『万葉集』には東国の歌「東歌(あずまうた)」が編集されているが、信濃の歌もそこに含まれている。但し、「関八州」と呼ばれるように、信濃は関東ではない。
大宝令により信濃国は、佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の10郡に分かれていた。現在の長野県のうち、当時美濃国の木曽地方を欠く大部分であった。
特に佐久は信濃10郷の中で、上野・武蔵・甲斐に通じ東西の要路であった。現北佐久郡軽井沢町にある碓氷峠やその南にある入山峠は古代から関東諸国への要路であり、古代の東山道が通じていた。そのため野辺山原や南佐久郡川上村の信州峠などで接する佐久武士の多くは、中世末期の大動乱に巻き込まれ盛衰を繰り返した。その結果、甲斐小笠原の一族が伴野荘・大井荘の地頭として、波乱の中、戦国時代まで勢威を振るい続けた。また現佐久市の内山峠は諏訪神が上野へ通われた道筋という伝説が残っている。
追捕勅符や追捕官符で、乱の鎮圧の先頭となって戦うのは、受領とその子弟・従者であった。乱が大規模化すれば、国内から広く動員をする。私出挙と私営田を運用する富豪層と郡司の中から、乗馬が巧みで武芸に優れた者、当時「勇敢者」「武芸人」等と称されていた人々がいた。しかし彼らには、武芸に専念できるゆとりもなく、国衙も未だ、武芸に練達できる特典を与えてはいなかった。それでも、やがて彼らの中から、在地領主化し武士化していく階層が誕生する。
国衙自体の権能も弱まり、受領の館とその機関としての律令軍団制の実情は、集められた農民兵を、国司や軍毅が私的に使い、弓馬の訓練を疎かにした結果、藤原保則(やすのり)に「蝦夷兵一人に百人の軍団兵士があったても勝負にならない」と言わしめた。保則は元慶2(878)年3月15日、秋田の蝦夷が反乱を起こし元慶の乱に際し、出羽権守として赴任すると、反乱軍に対して国司の非を認め、朝廷の不動穀を賑給(しんごう)して懐柔にあたり苛政を行わないと云うことで、戦いを拡大させずに反乱を収めた。
当時、保則は既に有能な地方官として名をなしていた。元慶2年の出羽のこの緊急事態に、東海・東山道の諸国と共に、信濃国から30人が「勇敢軽鋭の者」として選ばれた。御牧の牧司が主体であった。彼らは牧馬の飼育だけでなく、馬上、山野を駆け巡り狩猟にも勤しみ、騎馬弓術に長けていた。更に移配された俘囚達と接し、その武技を学んでいた。陸奥へ徴用され、実戦の中、蝦夷の民が蕨手大刀を駆使する疾駆斬撃の戦法と弓馬の技術を、文字通り目の当たりにし刀剣も刀術も進化した。彼らこそ信濃武士の発祥といえる。
四)武士の誕生
寛平・延喜の時代、東国では諸国の富豪層からなる「僦馬の党(しゅうばのとう)」が群盗化し蜂起する事態が頻発した。寛平5(893)年から6年にわたって、対馬や九州北部が新羅の海賊に蹂躙されている。寛平7(895)年、京畿内でも群盗が蜂起し、延喜4(904)年3月、安芸守・伴忠行(とものただゆき)が京中で射殺されている。全国的な騒乱状態であった。この時代初めて押領使が制度化され、それまで鎮圧責任を負った受領は、押領使にそれを任せた。押領使の制度こそが延喜の軍制改革であった。押領使は追捕官符を与えられた受領の命を受け、国内武士を総動員して反乱の鎮圧にあたった。荘官としての王臣家人であっても、武勇に秀でた者は、国衙の動員命令には応じなければならない。押領使は将門の乱後は、常置制度化された。
この時代、私営田を営み在地領主として武士が、有力な実力階層として既に育っていた。その一方、摂関家に奉仕し多大な出費によって、その地位を得た受領達が、地方に対して過酷な収奪にはしり、財の蓄積に励んだ。その的となったのが、「勇敢者」「武芸人」「富豪層」と呼ばれる武士達の私営田であった。
この時代、武士勢力の動向に大きな変革を与えたのが、天皇家の後裔といわれる清和源氏と桓武平氏の血脈の土着であった。代を経ると次第に、地位が低下し朝廷に座る位地を失っていった。彼らは、已む無く地方の国衙の役人として赴任し、その生存を全うしなければならなくなった。国司にあるうちに、その権威と天皇の血筋を利用して勢威を振るい所領を拡大させた。任期が切れても京へ帰らず土着した。すると同じ国衙領内が所領のため、次の国司と対決しなければならない。そのため武力を養い武士化し、在地の「富豪層」と姻戚関係を結び、地方にあっては特別な名流として当地の豪族を糾合し有力武士団を形成した。
武士の発生は、その基盤としての所領が欠かせない。関東では、平安前期の寛平元(889)年頃、桓武天皇の子孫高望王が上総に赴き土着した。貴種として重んじられその子孫一族が坂東八平氏として勢力を広げた。その平氏同士が所領を奪い合いした。
承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼ばれる930年代から始まる将門や純友の乱に際して、武士たちは、朝廷や国衙の理不尽さに反発する将門や純友に与力した者達と、朝廷側に靡き、その鎮圧による勲功で出世を得ようとする2つの勢力に分かれて戦った。その将門の乱を鎮圧した勢力は、同族で常陸を根拠とする平貞盛や下野国に土着した藤原氏の一流藤原秀郷の兵力であった。もはや大規模な武力紛争に対処できる常備軍が律令国家には存在していなかった。
武士達は、乱後、有能な武将であった将門や純友までも、無残な末路を遂げた事を知り、その後100年間、武士による大規模な反乱は生じなかった。
しかし、藤原秀郷のように寛平・延喜の東国の乱に際し、下野国押領使として軍功を挙げ、受領の支配を拒絶し下野国に絶対的な勢力を確立した武士も育っていた。その後、将門の乱でも最大の勲功者となり、俘囚が立ち去った後、超人的な武芸・騎馬戦法を確立した武士でもあった。しかし秀郷は源平一族以上の実績を挙げながらも、下野、武蔵両国守を務めた後、下野国にとどまり在地の経営拡大に専念したため、武家の棟梁にはなれなかった。但し、その子孫は下野から北関東一帯に勢力をはる小山氏ら有力豪族を輩出し、やがて、その一流が東北平泉に藤原3代の栄華を築きあげた。
[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/saku/sa.htm
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