2015年4月11日土曜日
島津忠直
本能寺の変後松本以北の悉く上杉勢の支配下に置かれた為、貞慶が深志城に入っても、会田・青柳・麻績の帰属は不確かなものであった。会田氏は鎌倉時代から会田御厨の地頭に補任された海野氏の一系譜・小県郡の岩下氏で、武田晴信侵攻に際し同じ海野氏の塔原氏と同様小笠原長時を見限り武田氏に服属し、その治世下軍役に励んできた。貞慶が深志に入城すると地理的な関係からも逸早く報復された。会田氏も「午の11月、会田の城の者ども越後へ内通仕り、河中島より合力を乞う、柳生(やきゅう;松本市中川矢久)の入りに小屋を立居申し候」『岩岡家記』と、当時会田の当主が幼少の小次郎広忠であったため、会田城より小県寄りに新砦を築いた。貞慶は天正10年11月3日から会田を攻め、犬甘半左衛門久知を総大将に犬甘衆20騎、旗本衆30騎、仁科衆10騎、塩尻衆5,6騎の軍勢であった。矢久の砦に小県方面の援軍多数も籠り奮戦したが、日を経ず小県兵ともども守将堀内与三左衛門が討ち取られ落ちた。小次郎は小県郡青木に逃れたが五輪の尾根で自決したという。海野氏系会田氏は完全に滅び、当地は小笠原氏が領有した。この合戦の際、深志城にいた貞慶が犬甘久知に送った書状が載る『御書集』によると、戦地に送る鉄砲と玉薬の手当てに汲々としている様子が窺える。「鉄砲の儀、明日急度指し越す可く候」「鉄砲の玉薬、先づ千放差し越し候」「玉薬あはせ次第、先づ2百放指し越し候、出来候はば追々指し越す可く候」と3日から6日に掛けて苦心して手当てしている。合戦は6日を境にして決着を見たようだ。
翌天正11年2月12日、苅谷原城主赤沢式部少輔清経が塔原城主海野三河守、小岩岳城主古厩因幡守盛勝らと謀叛を企てたことが発覚し切腹を命じられた。赤沢氏は小笠原長経の2男清経以来の小笠原氏一族で赤沢左衛門尉は武田氏に帰属して、『武田分限帳』によれば軍役40騎で仕えた。元々深志北方、本郷・岡田方面を領有していた。天文17年の塩尻峠の合戦で小笠原長時を見限り、武田晴信に属し上杉輝虎との前線の要である水内郡長沼城に在番した。そして、左衛門尉の子式部少輔清経のとき武田氏が滅亡、清経は信濃に復帰した貞慶に属した。その後、小笠原氏の同族の故をもって、小笠原貞慶の厚遇を受け、会田・小県方面の備え苅谷原を任された。しかし、貞慶に心服したわけではなかった。特に筑北地方の族長は、上杉・徳川両勢力が拮抗する最中、そこに貞慶が絡み、動向を見誤れば一族は消滅する、その切所で迷う状況下にあった。
2月、赤沢清経は刈谷原在城時に密かに上杉氏と通じ、塔原城主海野氏、小岩岳城主古厩盛勝氏らと結んで貞慶に謀叛を企てる。海野・古厩両氏は武田氏が安筑地方を治世下に入れると忠誠を誓い、本能寺の変後は上杉景勝に臣従した。貞慶が深志城を奪うと地理的にも近く、善光寺平や仁科方面に通じる要衝でもあるがため、古来からの小豪族の宿命で、一族存続のため直ちに臣従した。ところが、同様の立場であった日岐・会田が貞慶に征伐されると、彼らよりも深志に近く、しかもかつて小笠原氏を裏切っている、やがて討伐されると疑心が積り、小県に通じる苅谷原城主赤沢清経を誘い古厩氏の小岩岳城に軍兵と兵粮を集め、上杉の援軍を待つ計画であった。山麓の居館を中心に家臣団屋敷などを配置し、それぞれ独立した防御力を持たせた「館城」形式の小岩岳城は要害であった。
この謀叛は兵を招集する間もなく、2月12日に逸早く露見し、赤沢清経は切腹を命じられ、新たな苅谷原城主に小笠原出雲守頼貞が任じられた。これで信濃の赤沢氏は滅亡した。貞慶は、深志城に海野、古厩両氏を呼び赤沢氏と同心し逆心ありとして、翌日子の刻(夜12時)、成敗した。2月16日付けの犬甘半左衛門宛の貞慶の花押状に「逆心に加わって以っての外の条、申し付き、悉くうちはたし候、此の方之者には、手負い一人も之無き候」とあるが、同じく犬甘氏への16日の書状では、「古厩平三(盛勝の子)をも、細野之郷(安曇郡)にて討ち捕り候、沢渡九八郎も召し執り候、仁科之仕置何れも思ふ様に候」とある。その書状から塔原城の兵粮が一俵残らず古厩城に運ばれ、「古まやのこやに俵等さいけんなき事に候、悉く兵粮当城(松本城)へうつし、こやをは、やきつくし申し可く候」と小岩岳城は焼き払われた。
仁科氏の支族で千国の庄沢渡郷(北安曇郡白馬村神城)を本拠とした沢渡九八郎が、貞慶が小谷平定のため派遣した細萱河内守に捕らえられた。沢渡などの仁科氏一族は、奥州の前九年の役(1051‐1062年)に源氏の家人として参戦している、少なくとも5百年を超える地縁があり、一族の諸侍が満遍なく土着している。その仁科・小谷地方を、30余年も牢浪していた小笠原貞慶の一族が早々に鎮圧できるものではない。しかも上杉景勝と直接境を接する枢要な地であり、この地の保全こそが安筑両郡支配を確実にさせる。貞慶は沢渡氏を臣従させることに成功した。天正11年5月には、その相続を安堵している。深志入城の当初、小笠原領国を形成するにはほど遠く、貞慶自らの生存すら危ぶまれていた。まさに「大海に杖打ちたる躰(態)に候」であったが、漸く貞慶は安筑地方と仁科・小谷地方をほぼ制圧した。
9)小笠原貞慶と麻績地方
青柳城主の青柳氏は筑摩郡の在地領主で、麻績氏の一族であったが、川中島をめぐる甲越の勢力争いに巻き込まれ、去就の難しい立場になっていた。拮抗する甲越の戦力が直接ぶつかる、いわば「境目」にあり、在地領主たちは、上杉・武田の2大勢力の狭間で数々の苦難を強いられていく。「第一次川中島合戦」に際しては、筑摩に深く侵攻し、勢いに乗ずる上杉軍によって青柳城周辺が放火されている。この筑摩郡や埴科郡あたりは謙信、信玄の死後も強力な確たる領主が不在の地で、武田氏滅亡後は上杉景勝と徳川家康の実力者同士が領有を競い、その最中、青柳城は上杉景勝と小笠原貞慶の争奪戦に巻き込まれ、再び戦火に見舞われた。
築城年間は定かではないが、青柳城主(東筑摩郡坂北村青柳)の青柳氏は、麻績氏の一族で、伊勢神宮の麻績御厨預職としてこの地に居館を構え、守護小笠原氏に仕えた。天文19(1550)年、小笠原長時は武田晴信により林城を自落させられ、葛尾城の村上義清を頼った。この後、長時は村上義清とともに筑摩郡周辺で武田軍に抗戦するが、天文21年12月、立て籠もっていた中塔城を自落した。武田軍は小笠原氏の残党を掃討し、天文22年4月、村上義清の本城葛尾城も自落させ、その時、青柳近江守清長、頼長父子も武田に降った。この月15日には晴信の臨席のもと、青柳城は鍬立をされている。
村上義清は越後の長尾景虎の援軍を得て旧領回復のため筑摩・小県を進撃した。4月12日、更埴市八幡附近で武田軍と戦い勝利し、同月23日、於曾源八郎を討ち取り葛尾城を奪還した。これに対して晴信は青柳城を初め、麻績城、大岡城を重点的に守備すること徹した。8月には村上義清が立て籠もる塩田城を自落させるが、上杉謙信の援軍が川中島に侵攻、9月1日には荒砥城が落城した。同月3日には青柳城周辺を放火された。武田軍は同月13日に越後勢に占拠された荒砥城、青柳城を放火した。これを後世、『第一次川中島合戦』と称した。
以後、青柳氏は武田軍の傘下となり、弘治4(1558)年4月には青柳清長は晴信より、その本拠地の北方の更科郡の大岡城の守備を命じられている。
天正10(1582)年の武田氏の滅亡後、青柳頼長は織田信長の支配下に入った。6月2日の本能寺の変で信長が横死すると、筑摩郡には上杉景勝が進出し、青柳氏は上杉氏の支配下に入った。7月16日、徳川家康の支援を得た小笠原貞慶が深志城に入ると、上杉氏を離反してこれに従った。同年11月、会田落城後、貞慶から青柳氏に会田氏の旧領の会田・苅谷原・塔原・明科・田沢などが与えられた。会田氏攻略以前に貞慶は青柳氏を会田氏の旧領を宛行う条件で誘降し、会田氏を孤立させた。そのため青柳氏は会田落城の間、全く動かなかった。貞慶は青柳氏を自陣に引き入れ、麻績地方攻略の拠点とし、その先の川中島を見据えていた。
翌天正11年2月、貞慶は子の幸若丸(秀政)を家康の許に送り、恭順臣従の意を示した。家康から自ら飼育する鷹が届けられ、近日中に自分が信濃経略のため甲斐に出馬するから、諸境の仕置を存分にするよう申し付けられた。その上、貞慶の申し分に同心を約し、来る7月7には、幸若丸が三河の家康の許へ下着することとなった。貞慶は感激し「とかくに腹を切り候共、家康御前一すじより外当方には覚悟之無き候」とまで、家康に絶対的な忠誠を覚悟していた。貞慶の真意は徳川家康を主君と仰ぎ、その権勢の傘下に入り、それを誇示し、自己の家臣団を絶対的に統制しようとした。
当時、信濃川中島4郡のみが、秀吉に帰順した上杉景勝の勢力圏にあったが、他の信濃の諸勢力の大勢は家康に靡いていた。家康は柴田康忠・大久保忠世などを派遣し、筑北地方の上杉方諸将を調略していた。
『景勝代記』は「天正11年3月、又しば田(新発田重家の乱)へ御出馬と思し召し候処、信濃海津より屋代逆心仕り、海津を引き払い、汝在所へ引き籠る、麻績・青柳同心にて家康御手に属す、此の静謐に信州へ御出馬也。」とある。これに相前後して、屋代秀正の兄、小県郡室賀の室賀山城守信俊や更級郡佐野山の塩崎氏らが、続々と家康の陣営に走った。家康は秀吉との対決を目前にし、上杉の南下を恐れていた。貞慶が府中から上杉の勢力を駆逐し、さらに筑北への勢力拡大は望ましいことであった。
景勝も追い込まれていた。下越後新発田へ進発の予定を急遽信濃へ出陣とした。南北信の境目に在る要地を制圧するため、天正11年4月、岩井昌能を初め清野・赤尾・西条・綱島・大室・保科などの諸将に動員令を発し、屋代・麻績に侵出、青柳城を攻めて落城させた。4月8日夜、景勝軍が到着する以前に、塩崎氏は何処かへ逃げ去り、屋代氏は三河の家康の許に、青柳氏は松本の貞慶を頼って逃れた。
貞慶は麻績への上杉進出の報を受け、4千の兵を率いて青柳へ向かっていたが、鳥居峠で早くも麻績落城と聞き引き返した。
5月12日、上杉景勝方の小田切四郎太郎が仁科表に侵攻し小笠原軍と戦っている。その際、沢渡盛忠ら沢渡十人衆が戦功を挙げている。盛忠は翌天正12(1584)年安曇郡美麻の千見城に在番し、上杉軍の侵入に備えていた。
天正12(1584)年3月、徳川家康と羽柴秀吉は尾張の小牧山で戦っている。家康は秀吉方の景勝を牽制させるため、貞慶に麻績地方へ侵攻させた。貞慶は上杉方の青柳方面の備えが堅いため、3月初め、渋田見・細萱・等々力(とどりき)などの仁科衆に上杉靡下の大日向佐渡守(おびなたさどのかみ)が守る千見の番所から小川方面に出て、水内郡の鬼無里を攻略させた。この戦いで仁科衆は30余りの首を討ち取っている。
貞慶は3月28日と4月4日の2度にわたり青柳城を攻撃し二の曲輪まで攻め寄せた。その後青柳城は落城し、城主春日源太左衛門は川中島まで落延びている。4月には麻績城も攻略され、城主下枝氏友は斬殺された。麻績城には小笠原長継を在番とした。
貞慶は景勝の来襲に備え、青柳頼長に麻績の東方の安坂城(東筑摩郡筑北村坂井下安坂)を守らせ、冠着山に監視哨を置いた。4月16日の日岐城番の犬甘半左衛門久知宛の書状が興味深く、上杉軍が侵入してくれば青柳頼長が法螺貝を吹き鳴らすので、久知は麻績の西方にある大岡の笹久まで出陣すると同時に、即松本へ飛脚を寄越せ、夜中であっても直ちに麻績へ出陣すると伝えている。麻績から景勝の海津城出勢の飛脚は早くも来た。貞慶は4月18日、仁科衆に犬甘氏に従い、即刻睡峠を越え笹久に出兵し牧之島在城の芋川親正らに備えるよう命じた。
貞慶も犬甘半左衛門に「明日各々召し連れ出馬候」と伝えた当日20日の払暁、上杉の検使役、水内郡の島津左京亮義忠が率いる川中島勢が、先の麻績城主下枝氏友の一族と共に麻績に攻め込み城を奪っていた。貞慶も直ちに麻績城奪還しようとしたが、小笠原頼貞・小笠原長継・二木重吉(ふたつぎしげよし)ら重臣は、今の麻績勢は筑北・川中島・越後の諸勢力を糾合し、侮れず時機を待つしかないと進言したが、貞慶は出陣と決した。青柳城周辺をめぐって上杉軍の大軍と小笠原軍が戦い、貞慶は大敗した。松本城に落延びる間、殿軍を率いた三溝三左衛門は筑摩郡立峠において戦死した。岩岡治兵衛も討ち死にした。松本城の守将二木重吉は、松本周辺の住民数千人をかり出し、紙旗を翻し援軍と見せかけ貞慶の危機を救い城内に迎い入れた。景勝の書状から抜粋すると「小笠原、麻績の地に至って相動き候のところ、各侍衆を引立て、かの地に馳せ向かいすなわち一戦を遂げ大利を得て」「敵百余人討ち捕えられ、首の注文が到来し、心地好き次第に候」とあり、屋代秀正が大功を上げた。この戦いの検使役は水内郡の島津左京亮義忠で、北信の侍衆で構成される景勝軍が、小笠原貞慶に大勝し討ち取った首の注進状を景勝宛に送っている。景勝の感動は大きく「連(つ)れ連(づ)れ忠信を思い詰められるところ、たしかに露顕し、奇特感じ入り候」と秀正に書き送っている。4月11日、景勝の重臣、狩野景治・直江兼続は連署して、戦功のあった「おのおの稼ぎの衆へ、明々日の間に、お使を遣わせるべく候」と島津義忠に申し送っている。
ところが、松本城を包囲した島津軍は、翌日軍を引き揚げた。25日には景勝も越後へ帰陣した。貞慶に方々から、その注進があり、その日の朝、麻績から八幡に出る猿か馬場峠から八幡峠に物見を出し峠を放火させた。景勝は上杉謙信没後の御館の乱(おたてのらん)に戦功があった新発田重家が、その恩賞を不満として乱を勃発させ、景勝は越後に戻らざるを得なくなった。
当時、秀吉と対峙して小牧山に本陣を置く家康の本拠三河に侵入しようとして、秀吉は羽柴秀次を大将として出兵させたが、事前に情報が漏れて、4月9日、長久手において挟撃され、森長可・池田恒興をはじめ2,500人を失い、家康方に完敗していた。こうした情勢下、景勝は秀吉への義理立てで筑摩へ出兵したが、本国の情勢は長期の滞陣を許さなかった。
当時、更埴地方に所領を有する国衆の動静は複雑で目まぐるしい。特に家康が小牧長久手の戦いで秀吉に勝利した事が大きかった。小笠原貞慶の大敗北にも拘わらず、麻績・青柳の諸侍ばかりでなく、東筑摩の戦役で上杉方として軍功著しい屋代秀正までもが家康に臣従した。青柳頼長は貞慶に走り合力した。それがやがて青柳一族に悲劇を呼ぶ。景勝の本国越後は未だ不穏であり、帰陣せざるを得ず、已む無く貞慶が八幡方面へ北上する備えとして、千曲川左岸の稲荷山に新城を築かせ撤退した。天正12(1584)年5月には完成したようだ。同月17日付けの書状で、景勝は八幡宮神官松田民部助並びに保科豊後守・小田切左馬助らに城番を命じている。保科氏宛には「稲荷之城在城申付けるに就いて、桑原(更科郡西端)半分出し置き候、用心普請厳重に相勤める可き之者也」とあり、元来稲荷山地区は桑原内に在り、保科豊後守に宛行われた桑原半分が在城領として.宛がわれたが、それが稲荷山地区を示す考えられる。その間小笠原貞慶は青柳・麻績の両城とその周辺を回復させ、青柳氏の戦功に応え両城を与えた。貞慶は再び麻績地方を支配下にし、川中島進出の拠点とした。
天正15(1587)年9月28日、青柳頼長は貞慶により松本城に召喚され、長子長迪(ながみち)他数人の家臣を伴い出仕したところ、二の曲輪内で全員が謀殺された。青柳城は貞慶軍に包囲され落城、貞慶麾下の溝口貞秀が城主に任じられた。事実上青柳氏は滅亡した。
この間の事情を『信府統記』は「伊勢守の時より武田に属し50騎の軍役たり、甲州没落して小笠原貞慶帰国の後も猶小県の真田等と一味して越後の景勝に志を通ぜるにや、貞慶へ一応の届けも無く無礼の様子なり、殊に怨敵たりし憤りあれば取合い初りける、麻績・会田等一味なり、其上松本よりの路峠あり、然れども要害の地なれば悉く滅し難き」と記している。
天正14(1586)年12月、諏訪上社神長官守矢信実が溝口貞秀に宛てた『神長官訴状覚書案』には「青柳御取持ち之砌貞慶様に対し奉り逆心を副え候」と、青柳頼長は諏訪上社に貞慶調伏の祈祷を行わせていたことが、既に溝口貞秀を通じて発覚していた。
10)小笠原貞慶、徳川家康に離反
秀吉は天正13(1585)年7月11日、かねてから二条昭実と近衛信尹(このえ のぶただ)の間における関白の地位を巡る紛糾(関白相論)に乗じ、近衛前久の猶子として関白宣下を受けた。翌天正14年9月9日には豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任した。
しかも、既に天正11(1583)年、中国の雄毛利輝元が秀吉に交誼を願っていた。翌天正12年、織田信雄と家康は盟約し、家康は小牧・長久手で戦い、秀吉軍に手痛い打撃を与えた。しかし秀吉の老獪な政治的手段で信雄を懐柔し、有利な条件で和議を結び、天正13(1585)年、四国征伐を行って長宗我部元親を軍事力で降した。天正14(1586)年、家康は遂に秀吉に臣従した。翌天正15て年には九州征伐を20万を超える圧倒的な大兵力で島津義久を降している。
このように各地の名立たる大大名が秀吉に人質を出し、競って臣従する情勢下、天正13年11月、酒井忠次と並ぶ家康の2代宿老の一人石川数正が、家康の許にあった小笠原秀政を連れて秀吉方に奔った。同月19日付けの豊臣秀吉からの真田安房昌幸宛の花押状には「石川伯耆守去る13日、足弱引連れ尾刕迄罷り退く候事」とあり、同文に「信州小笠原人質召し連れ」と家康に人質として出していた貞慶の子秀政を伴っていた。この当時、秀吉は「信州・甲州両国之儀、小笠原・木曽伊予守相談し、諸事申合わせ、越度(落度)無き様才覚尤も候事」と、信州支配を小笠原貞慶と木曽義昌に託し落度の無いように支配を命じている。貞慶は石川数正の裏切り便乗する形となっているが、木曽義昌に倣い天下の権は秀吉にあると、その絶対的権力に服従したとみられる。豊臣政権確立期を迎え、各地の武将はこぞって人質を出し臣従を誓っていた。小大名の貞慶も、秀吉の威信を背景に府中を中心にその勢力の拡大を計った。戦国末期の生き残りを掛け、同年の天正13年に、家康に属する高遠の城主保科正真を攻めている。この戦いに際し。家康が保科正真に与えた感状に「今度小笠原右近大夫逆意を企て」とあり、小笠原氏が敵対した事が明らかになる。
天正14(1586)年5月、家康は秀吉の妹、44歳の朝日姫を娶る。6月には秀吉の生母が、人質として岡崎城に送られた。10月、ついに家康が秀吉のもとに赴き、臣従の礼を取る。この年、居城を浜松城から駿府城に移した。11月4日の景勝に宛てた秀吉の書状には「関東之儀、家康と談合を令し、諸事相任せ之由仰せ出だされ候間、其の意を得られ、心易くす可く候」と和議を伝え、「真田(昌幸)・小笠原・木曽両3人儀も先度其の方上洛之刻、申し合わせ候如く、徳川所へ返置す可き由、仰せらる候」と、当時の信濃国を統べる勇将達3人は、家康への帰属を一方的に命じられることになる。翌天正15年3月18日、「信州真田・小笠原、関白様御異見にて出仕候」と、『家忠記』は秀吉の命により駿河の徳川家康に拝謁し臣従を誓わされたという。
小笠原貞慶は秀政に家督を譲り謹慎した。幸い秀吉の取成しがあり、家康の嫡男信康の娘を、秀政の妻に迎え家康の譜代衆となった。
11)徳川家康、筑北地方制圧
屋代秀正はじめ筑北の諸侍衆は、一族とその家族の生存を懸けて必死であった。これより先の天文10年9月19日、徳川家康は、秀正に書状を送り、当時、北条氏政方であった真田昌幸に対しての軍事行動を制止させている。家康は、信濃の武将たちの帰属を働き掛けていた。昌幸に対して、その弟加津野隠岐守信昌と依田信蕃に交渉させていた。一方、秀正は景勝の幕下にあって海津城代として、深志城に拠る小笠原貞慶の勢力の拡大を阻むため、筑摩郡北部と小県郡北西部の郡境を防備していた。
翌天文11年、信濃方面を総括する家康の重臣酒井忠次に家康の靡下に属する旨を告げた。家康は3月14日、秀正に更級郡内の所領を安堵する宛行状を送り、そこには「いよいよ此の旨を以て忠信に励む可きものなり」と命じている。4月12日、家康は秀正の幕下入りに際し、前年に服属していた真田昌幸と依田信蕃と談合し油断の無いようにし、委細は大久保忠世に申すよう指示している。
天正10年、元葛尾城主村上義清の子、景国(国清)が海津城の城将となった。千曲川を東の要害とする長沼城(長野市穂保)に島津忠直、飯山城に岩井信能(いわいのぶよし)、牧ノ島に芋川親正ら諸将を配した。村上国清は上杉謙信の養女を娶り、上杉家一門の山浦の姓を得て山浦景国と名乗っていた。
家康は3月14日、屋代秀正に更級郡内の所領を安堵する宛行状を送っていたが、その臣属は秘匿されていた。小牧・長久手の戦いが始まるころに合わせるように、上杉景勝に叛き、本領の更級郡荒砥城に籠った。荒砥城は、冠着山(かむりきやま)東方の支脈にある城山(標高895m)山頂を本郭とする城であった。秀正は、家康に臣従した成果を実績で示す必要があった。秀正は、塩崎六郎次郎次と一族の室賀兵部大輔らと同心していた。塩崎氏は桑原の佐野山城に籠った。
一方、小笠原貞慶(さだよし)は3月28日と4月4日の2度にわたり青柳城を攻撃し二の曲輪まで攻め寄せた。その後青柳城は落城し、城主春日源太左衛門は川中島まで落延びている。4月には麻績城も攻略され、城主下枝氏友は斬殺された。麻績城には小笠原長継を在番とした。
景勝は下越後の新発田重長を討伐する出陣を目前にしていたが、急遽、信濃へ出陣し水内郡長沼城に入った。
4月13日、直江兼続が奥州会津に留まる「会津後家来衆」へ送った書状には、要約すると「信州海津在城を申し付けられた屋代と号する者、逆心していた。その仕置のため中途まで出馬したが、その響き承(う)け敢(あ)えず、逆徒の居城荒砥と佐野山の両地53日を経ずして自落した。行くへ知らずの体であった。」とある。それにも拘らず、兼続は屋代秀正の謀反が安曇地方にも波及することを懼れ、水内と安曇の郡境の小川の地士大日向佐渡守に書状を送り、出陣する代わりに「その地要人堅固に候の由肝要に候。参陣に及ばず、その元に之有りて、御番専用に候」と申し送っている。
麻績と青柳(東筑摩郡筑北村坂北)両城が貞慶に奪われると、景勝は麻績城(東筑摩郡麻績村)に兵を派遣し攻め落とした。城主の青柳頼長は小笠原貞慶方に走った。そこで景勝は貞慶の北上に備えて、稲荷山(旧更埴市)に築城した。千曲川右岸が屋代で左岸が稲荷山の地となる。5月17日には、八幡宮神官松田民部助、保科豊後守、小田切左馬助らに在番を命じ、大岡・麻績方面に備えさせた。同時に岩井靱負尉には高井郡吉田の本領を安堵し、更に坂木領の内の力石(ちからいし;千曲市力石;坂城とは千曲川を挟む対岸)分を宛行い更埴南部の防備に当たらせた。
一方、家康方の小笠原貞慶は、当面、防備のため城普請に専念し、真田などの佐久衆と談じ合のうえ、川中島へ侵出する時機をみはらかっていた。
秀正の離反により海津城を預かる山浦(村上)景国は、秀正と同族であった事もあり、城代を罷免され、その地の領分を改易され、越後の山浦分のみ安堵された。
家康は4月18、秀正に書状を送り「それより芝田七九郎(柴田康忠)殿差し遣わし候、いかようにも相談せられ、(中略)委細は大久保七郎右衛門尉(忠世)が申すべく候」とし、5月2日の書状では、小牧山の秀吉軍を「今度の凶徒等を悉く退治せしむ可きところ、(中略)その表いよいよ油断有る可からず事肝要に候」と、この頃、景勝軍が更級郡に深く侵攻してきたため、その対応を依頼している。秀正はこれに応え景勝軍を攻め、同月19日には、家康から書状で「わざわざ使者を差し越され、ことに太刀一腰、馬一疋、祝着の至りに候、(中略)然らば景勝を引き出すに付き、一戦に及び、敵百余りを討ちとらえの由、比類なき事に候」と賞している。同日付けの書状で、大久保忠世に、秀正に助勢した室賀兵部大輔信俊、塩崎六郎次郎を含めた3人の所領は、一任するからと特に命じている。さらに景勝領との境の地には、秀正と室賀の両人が守備するよう申し送っている。
13)海津城代須田満親
海津城代は(現柏崎市上条)上条城主の上条義春がなり、さらに須田相模守満親に代わった。上条義春は能登畠山家に生まれ、その能登国支配の本拠七尾城が上杉謙信により開城されると、謙信の養子の一人となった。その後、上条上杉家の名跡を継ぐ上条政繁に子がなかったため、改めてその養子となった。その上条政繁が山浦景国の後任として海津城に入った際、義春も同行していた。
当時、羽柴秀吉は、未だ家康、織田信雄と伊勢、尾張で戦っていた。秀吉は北陸の軍兵を動員しようとして景勝と盟約した。景勝は、実子がいないため義春の子義真を秀吉の許へ人質として送った。景勝は6月11日、上条政繁に「上方へ証人差し登らせし候に就き、軍役の儀は勿論、領中諸役これを停止せしむるもの也」と書状を与えている。しかし、依然として、以後も海津城代として北信4郡を統率させていた。
8月1日、稲荷山在城の綱島豊後守に、「その地の用心普請、昼夜油断なき勤仕せしむるの由、肝要に候、いよいよ上條舌頭次第走り廻る可き事もっともに候」と朱印状を送っている。このころ筑摩郡深志城の小笠原貞慶が北信侵出を意図し、犀川口の牧之島城を攻めたが、稲荷山城守将の小田切左馬助は貞慶軍を破り首級13を景勝へ送って戦功を賞されている。
先の天正10年9月4日、景勝は、安曇、筑摩両郡を掌中にするため、仁科盛直に池田・滝沢・荻原・細野・松川・小塩郷の地を宛行い、忠信を励むよう要請した。翌天正11年8月、安曇郡日枝城(生坂村)の城主仁科織部佐盛直の同心衆が、景勝に謀反し貞慶に属した。盛直はこれに与せず、一族を率いて春日山城へ退去した。景勝は「幾千万を超え、之を感じ入り候」と賞し「巨細におけるものは直江に申し可く候」と歓迎している。天正12年6月27日、景勝は更級郡八幡宮の祠官松田分と八幡領の一円を預け、八幡宮の修造祭礼を恒例に従い厳に勤めるよう指示した。また稲荷山城に在城し、他の守将と入魂(じっこん)のうえ城の用心普請をし、油断の無いように命じた。同時に盛直の子孫三郎に仁科惣領職を相続させた。また景勝は、先に盛直に海津城代上条政繁の指図に従うよう命じていた。
尚、更級郡八幡宮の祠官松田盛直は、文禄3(1594)年当時763石であったが、景勝が会津への国替えの際、1500石に増給された。神主職は在地する一族の松田縫殿助に預けられた。
翌天正13(1585)年に海津城代が須田満親に代わられた。それが起因か、翌天正14年、政繁が上杉家を出奔し、義春自身も天正16年頃に出奔した。直江兼続との不和が憶測されているが、確証はない。
須田満親は、信濃国高井郡大岩城主須田満国の子である。満国は村上義清と共に武田晴信の信濃侵攻に対抗したが、天文22(1553)年、武田に敗れ、義清と共に越後の上杉謙信を頼った。以後は謙信の家臣として仕え、第4次川中島の戦いに加わっている。
天正13年、海津城代須田満親は、度々、真田昌幸の次男信繁(後の幸村)の率いる手勢と川中島辺りで争闘を繰り返している。当時信繁は19歳であったが、寡兵でありながらも、執拗に川中島にまで侵出し、景勝を悩ましていた。当時の信繁が発する諏訪久三宛の安堵状が現存するが、それは、屋代左衛門尉秀正が久三への宛行状を追認する信繁の花押状であった。秀正は、真田氏に従っていた。当時、共に家康の後援を得ている。信繁は後門の狼に怯えることなく、深く川中島までも侵攻できた。
天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)とは、天正10(1582)年から甲斐・信濃・上野で繰り広げられた家康と北条氏直の戦いの事であった。この天正12年10月29日、家康は前門の虎秀吉と対決していたため、後門の狼北条氏直と対秀吉の攻守同盟を結んだ。北条氏側も関東平野では、佐竹義重が活動を活発化させていた。北条氏と家康は、共に講和を決意した。甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ「切り取り次第」とし、相互に干渉しない、氏直は家康の次女督姫を娶る、がその約定であった。
それでも12月12日、家康は秀吉と和睦した。次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子を名目にし、人質として大坂の秀吉に送っている。
氏直の強硬な要求により、上野を北条に国分した。それにより、同国利根川郡沼田の城邑を北条氏領とした。家康は昌幸に沼田城を北条氏へ渡すように命じた。しかし、昌幸はこれを拒絶し上杉景勝に接近した。沼田は武田勝頼の命を受け、真田昌幸がその配下矢沢頼綱に命じ、天正8(1580)年、上州利根郡の中心拠点である沼田城を攻略した経緯があった。武田氏滅亡後、沼田城は織田信長の重臣滝川一益に明け渡されたが、本能寺の変直後に奪還している。その地をその代償も無く明け渡せの指図に憤激した昌幸は、臆面もなく、かつて景勝に属しながら家康に寝返り、川中島まで領有しようとして戦闘を繰り返していながら、当時羽柴秀吉の傘下に入った景勝を頼った。
昌幸は海津城代須田満親に、その取り成しを依頼した。景勝もこれを容認し、その旨を沼田城将矢沢綱頼に書状で伝えた。同時に徳川軍が侵攻して来たら、上田表は勿論、上野国の沼田・吾妻にも後詰の援軍を派遣すると、昌幸にも誓詞を送った。しかも信濃の知行は須田満親から宛行うとした。天正13年7月15日の誓詞には、沼田・吾妻・小県の3郡に加え坂木・庄内(旧更級郡村上村一帯)の知行も付していた。更に佐久郡と甲州に於ける1郡と上野国のかつて長野氏旧領の1跡も与えるとした。屋代氏の1跡も加え、小県郡の同族祢津氏の身上、宜しく取り計らえと一任している。先の天正10年10月19日、昌幸が北条方である祢津昌綱を攻めるが、祢津氏の本拠地である祢津城(東御市祢津)は陥落できなかった。翌年7月、昌幸は室賀信俊を上田城に招き寄せ謀殺し、小県郡は真田氏により統一された。祢津昌綱も前後して、昌幸の配下となり重用されるようになる。
天正13年、真田昌幸は、須田満親のもとに次男の信繁(幸村)を人質として差出した。これにより家康と北条氏直との和解条件、上野国利根郡と沼田城の譲渡が実施できなくなった。氏直との約定の手前、昌幸を討伐する事に決した。8月、家康は、伊那郡の松尾城主(飯田市松尾)小笠原信嶺・松岡城主(高森町)松岡貞利・松本城の貞慶などに、小県郡上田表へ出兵を命じた。ところが貞慶は、徳川方から豊臣氏方に変心し、徳川方の保科氏を高遠に攻め、逆に小笠原貞慶は大敗を喫して松本に退いた。この時松岡貞利は徳川家康に誓詞を入れ臣従していながら、貞慶に味方し高遠の攻撃に向った。形成が不利と見て途中で引き返した。それを靡下の座光寺次郎右衛門が、徳川の伊那郡司として知久平城(ちくだいらじょう;飯田市下久竪町;しもひさかた;知久平)にいた菅沼定利に密告した。そこで定利は直ちに松岡貞利を捕らえた。松岡貞利は駿府の井伊直政に預けられ、後に家康の面前で座光寺氏と対決させられた。天正16年松岡貞利は改易を命ぜられ、その所領は没収された。
14)海津城から松代城へ
天正10(1580)年3月28日、森長可は、信長より信濃の内、更級、高井、水内(みのち)、埴科四郡を加増され、海津城に入城した。その森長可が、天正12(1584)年、小牧・長久手の合戦で戦死した。慶長3(1598)年、上杉景勝の会津移封により、この地方は豊臣家の直轄領・蔵入地(くらいりち)となり、田丸直昌が海津城代に任じられた。慶長5(1600)年3月、徳川家康は田丸直昌を美濃岩村城4万石に移した。同年9月の関ヶ原の戦いに際し、直昌は西軍に与し大坂城の守備に就いたため、戦後、家は取り潰されて越後へ流罪となり、出家し慶長14(1609)年に越後で没した。
慶長5(1600)年3月、田丸直昌の代わり、長可の末弟森忠政が北信濃の更級、埴科、水内、高井の4郡13万7,500石で初代川中島藩主として入封した。同年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、家康の宇都宮着陣に馳せ参じるが、真田昌幸が西軍と通じ上田へと帰国した事を受けて、忠政も真田への抑えとして川中島へと帰還するよう命じられた。忠政は「右近検地」と呼ばれる徹底的な検地により川中島領の領国化に勤めた。また、信濃に残っていた香坂昌元の一族を残らず探し出し、18年前に長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員を磔刑に処した。しかし全領一揆などにより十分な成果が上がらぬまま、慶長8(1603)年3月、美作国津山藩へ18万6,500石で加増転封となる。
その後徳川家康の6男松平忠輝が越後国高田藩へ移る慶長15(1610)年)までの7年間、14万石で領有し、城代として花井吉成が置かれた。後に、高田へ居城を移した後も元和2(1616)年に改易されるまでの間領知していた。この2家の領有期間は、一般に川中島藩と呼ばれる。 元和3(1617)年、松平忠輝は改易となり、松平忠昌、酒井忠勝らの後、元和8(1622)年に真田信之が城主に任じられ、松代城と改称した。以後松代10万石は真田氏によって嗣がれた。真田信之は、上野国沼田領とあわせて13万5,000石を領知した。信之は93で病没した。明治4(1871)年の廃藩置県を迎えた。なお明治6(1873)年に松代城は火災により全焼した。
15)上杉景勝と香坂氏
天正3(1575)年5月21日、牧之島城将馬場美濃守信房が長篠の戦で討ち死にした。武田勝頼は香坂左馬助を牧之島城将とした。翌年6月20日、更級郡西山部を統轄するよう命じている。香坂氏は香坂弾正昌元流が滅んだが、他の一族は残存していた。武田氏が滅亡した後、北信濃を支配した上杉景勝により香坂能登守が本領を安堵され、更級郡氷鉋郷(ひがなごう)・日名・富部(とへ)、水内(みのち) 郡穂刈(信州新町に山穂刈の字名がのこるている)・夏目郷(篠ノ井石川;夏目城址は湯入神社)を新知として与えられている。この記録により、香坂本家が松代に移った後も一族が遺っていたが知られる。
『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』、略して『和名抄』などと呼ばれる平安期の承平年間、源順(みなもとのしたごう)によって編纂された、当時の日本各地の主な地名が掲載されている。それによれば、平安時代初期信濃国は10の郡に分けられ、更級郡は「麻績・村上・当信(たぎしな)・小谷(おうな)・更級・清水・斗女(とめ)・池・氷鉋」の9の郷があり、犀川扇状地の川中島平には、「池郷」「氷鉋郷」「斗女郷」という3つの郷があった。麻績は今の麻績村、村上は坂城町内に旧村上村があった。当信は信州新町にある当信(たにしな)で、当信(たにしな)川が流れている。小谷は小長谷(おはつせ)の略で葬地を指し篠ノ井の長谷(はせ)、更級は戸倉、清水は長野市信更(しんこう)の聖川上流域一帯、斗女は今の長野市御厨の富部(とべ)、池郷は長野市小島田町にある頤気(いけ)に名を遺す。「氷鉋」は川中島の東隣、現長野市稲里町に中氷鉋・下氷鉋(ともに「ひがの」)などが現在地にある。
米沢藩士原田直久による江戸期宝暦年代(1751~63)の著書「米府鹿子(べいふかのこ)」に香坂氏の名と共に「滋野」「本国信州」と記されていることから、香坂庶流の一部が他の北信濃の国人衆らと同様に、上杉家の家臣となって家門を全うしていることが分かる。
香坂能登守定昌は、上杉景勝から鬼無里500貫、塩田別所1,000貫、大草弥左衛門尉分(地所不明)500貫の新知を与えられている。その定昌と子の紀州守氏昌は、信州で没している。氏昌の子四郎兵衛昌能は景勝の転封により会津へ移り、関ヶ原敗退により慶長6年に米沢30万石に減封され時も、家臣として従っている。
家康は慶長5(1600)年6月、上杉征伐軍を募り大坂城を出発した。7月に江戸に到着し上杉家をいよいよ攻撃しようとした7月24日、征伐軍は上方で石田三成ら西軍が挙兵したと報らされる。そこで家康の次男結城秀康を宇都宮に在陣させ、上杉軍の押さえにおいて上方へと向かう。家康東軍の主力はいなくなったが、岩出山城(宮城県大崎市;岩出山町字城山)の伊達政宗と山形城の最上義光らが強勢であった。9月8日、米沢城を出発した上杉軍は次々と最上領の城を落とし、9月15日には敵の本城・山形城を支える長谷堂城(山形市長谷堂)に迫った。しかし長谷堂城の抵抗は激しく、いたずらに時が過ぎて行った。同月29日、上杉軍に、石田三成ら西軍敗北の報が届いた。そのため上杉軍は撤退を開始するが、それを今度は逆に最上・伊達の両軍が勢いに乗り追撃を始めた。しかしこれらをなんとか切り抜け自領へ戻っている。
上杉景勝軍は、この時、東北の戦場で孤立し、北からは伊達政宗と山形城の最上義光と戦い、南には結城秀康軍の脅威があった。徳川家康東軍が関ヶ原へ転戦に向かう背後を、追撃するという実力が本来なかったといえる。
[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/sada/sa.htm
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿