鎌倉時代に突然現れた武家家紋と武装集団「悪党」は何処から来たのか。
日本人の中には、鎌倉時代に日本列島に現れた「禅」を、日本古来の「術」と信じているひとがいるようだが、それは違う。禅は、インドのアクロバットのような瞑想術を簡略に改良して中国で発明され、中国人(漢民族の南宋人・インド人)の渡来人がもたらしたものだ。
その禅宗は、日本列島に産地当てのギヤンブルとしての「闘茶」の風習をもたらし、そして、雪隠禅師は、邸宅内に「便所」(せっちん)を設置した。質素な中国渡来の禅寺の造りから、武家屋敷が開発された。そして、床の間に「日本刀」を、そして、中国の山水画の掛け軸を飾る風習が武家に普及したという。鎌倉文化とは南宋文化だったようだ。更に、禅寺での日常会話は中国語だった。鎌倉時代に渡来した禅宗は、日本列島でどのような活動をしていたのか。
狭い鎌倉の地には、禅寺が5寺もある。その鎌倉にある禅寺とは、円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺だ。それらの建立位置が不思議だ。それらの禅寺は、山を背景に狭い切通に護られて建てられている。それはまさに、民衆の苦悩を和らげる施設などではなく、戦のための要塞砦のようだ。
南宋から、南宋人やインド人だけではなく、禅寺を護る僧兵軍団も渡来していたようだ。「ようだ。」、と言うのは、鎌倉時代の鎌倉幕府の公式史料が、現存していないため、史料で確認できないためだ。だから、鎌倉時代は、どのような文化・経済活動で、そして、税制で運営されていたのか分からない、謎が多くある時代だ。
1191年栄西は、南宋から帰朝し、京・鎌倉で禅宗の臨済宗を弘めた。その頃の南宋では、儒者が多く排出され、道学の誹議が禁ぜられていた。そして、南宋は、北方の金帝国を滅ぼした元により、1274年北方の都襄陽が陥落し、1297年滅ぼされた。
その頃、日本列島では、一夜にして「神風」により、1274年文永の役、1281年弘安の役と云われる「元寇」が壊滅されたとする。その「元寇」と云われるものは、禅宗側だけの史料により復元されている。元軍・高麗軍10万が来襲したとするには、対馬の隣国の高麗の史料に、「元寇」の記録がないのは何故か。
実は、日本の歴史は、1467年応仁の乱以前は、平安京も鎌倉も炎上壊滅していたため、朝廷や幕府の公式史料が現存していないため、知る由もない。あるのは、日本列島支配を企む藤原氏側の「日記」類や、そして、国際交易・高利貸し・ギャンブル・人身売買などを僧兵の軍事力を背景に行っていた寺社の記録記事だけだ。ましてや、敗者側の史料など何一つないのが現状だ。
だから、禅宗側が述べる「元寇」の「ウソ」を、史料で否定することは困難だ。しかし、禅宗の史料を、「漢民族」対「騎馬民族」との対立図式で眺めてみると、鎌倉時代の歴史の一端が見えるようだ。それでは、唐帝国壊滅時代から遡って、東アジアの歴史を眺めてみよう。
その禅宗は、日本列島に産地当てのギヤンブルとしての「闘茶」の風習をもたらし、そして、雪隠禅師は、邸宅内に「便所」(せっちん)を設置した。質素な中国渡来の禅寺の造りから、武家屋敷が開発された。そして、床の間に「日本刀」を、そして、中国の山水画の掛け軸を飾る風習が武家に普及したという。鎌倉文化とは南宋文化だったようだ。更に、禅寺での日常会話は中国語だった。鎌倉時代に渡来した禅宗は、日本列島でどのような活動をしていたのか。
狭い鎌倉の地には、禅寺が5寺もある。その鎌倉にある禅寺とは、円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺だ。それらの建立位置が不思議だ。それらの禅寺は、山を背景に狭い切通に護られて建てられている。それはまさに、民衆の苦悩を和らげる施設などではなく、戦のための要塞砦のようだ。
南宋から、南宋人やインド人だけではなく、禅寺を護る僧兵軍団も渡来していたようだ。「ようだ。」、と言うのは、鎌倉時代の鎌倉幕府の公式史料が、現存していないため、史料で確認できないためだ。だから、鎌倉時代は、どのような文化・経済活動で、そして、税制で運営されていたのか分からない、謎が多くある時代だ。
1191年栄西は、南宋から帰朝し、京・鎌倉で禅宗の臨済宗を弘めた。その頃の南宋では、儒者が多く排出され、道学の誹議が禁ぜられていた。そして、南宋は、北方の金帝国を滅ぼした元により、1274年北方の都襄陽が陥落し、1297年滅ぼされた。
その頃、日本列島では、一夜にして「神風」により、1274年文永の役、1281年弘安の役と云われる「元寇」が壊滅されたとする。その「元寇」と云われるものは、禅宗側だけの史料により復元されている。元軍・高麗軍10万が来襲したとするには、対馬の隣国の高麗の史料に、「元寇」の記録がないのは何故か。
実は、日本の歴史は、1467年応仁の乱以前は、平安京も鎌倉も炎上壊滅していたため、朝廷や幕府の公式史料が現存していないため、知る由もない。あるのは、日本列島支配を企む藤原氏側の「日記」類や、そして、国際交易・高利貸し・ギャンブル・人身売買などを僧兵の軍事力を背景に行っていた寺社の記録記事だけだ。ましてや、敗者側の史料など何一つないのが現状だ。
だから、禅宗側が述べる「元寇」の「ウソ」を、史料で否定することは困難だ。しかし、禅宗の史料を、「漢民族」対「騎馬民族」との対立図式で眺めてみると、鎌倉時代の歴史の一端が見えるようだ。それでは、唐帝国壊滅時代から遡って、東アジアの歴史を眺めてみよう。
907年唐帝国が滅亡する前後に、モンゴル系のキタイ族とチュルク系の沙陀族が政局の表面に浮上した。唐帝国が滅亡すると、華北の統合の主役はチュルク系の沙陀族となった。その沙陀族は、西突厥の一部を構成した集団の流れにあった。
6世紀から7世紀のユーラシア大陸を支配した突厥は、その民族の体質から、「まとまりやすくこわれやすい」集団だった。日本列島の6世紀半ばから7世紀半ばまでの明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍の母国を、唐帝国により壊滅された突厥は、ペルシャ語で「トルキスタン」、つまり、「チュルクの地」とするような小国として存在していた。
傭兵軍団の沙陀族は、唐帝国の内乱を騎馬軍団の軍事力で鎮定し、その功で、唐帝国から唐朝の国姓「李」を賜り、李国昌と名乗っていた。その傭兵軍の「李」軍団は、黒装束で武装していたため、その騎馬軍団は、「烏軍」と呼ばれていた。そして、唐帝国末期では、もはや政権は、チュルク系沙陀族のものだった。
その頃、6世紀中頃の中東に興ったイスラームのサラセン帝国は、インド北部へその勢力を伸ばしていた。インドを逃れたヒンズー教徒は、唐帝国に救いを求めた。しかし、唐帝国内は、農民の暴動などにより治安が乱れていた。
菅原道真は、この頃の唐帝国内の情勢を、統一新羅の商人により入手していたようだ。
このような不安情勢の中、中国土着の宗教とヒンズー教の瞑想技術が合体して、「禅」が、臨済宗は臨濟義玄により、そして、曹洞宗は洞山良价により、発明された。
唐帝国が滅亡する頃、唐帝国の長城線の北側に、モンゴル系のキタイ族の耶律阿保機が現れた。907年唐帝国が滅ぶと、耶律阿保機は、みずから君主となり「大キタイ国」(契丹国→遼)を称した。そして、916年みすがらを天皇帝(テングリ・カガン)を称した。
その天皇帝の即位儀式は、チュルク・モンゴル系の伝統である天上の神である北極星(テングリ)にかけて、柴を燔き天を祀るものだった。それは、672年日本初の天武天皇の即位儀式と同じだ。
耶律阿保機は、926年渤海国を滅ぼし、東丹国とした。そして、947年後晋を叩き潰すと、中華風の国号として「大遼国」を称した。
遊牧国家の体質として、権力の所在地は、夏営地と冬営地との遊牧移動国の中に暮らす天幕群にあった。つまり、「幕府」である。遊牧国家は、部族結合を基礎単位とする連合体だ。だから、君主の一代ごとに政権や王朝が変動する。その流動性を固定化するために、血の繋がりがない有力者と、仮の父子関係を結ぶ。この義父子関係は、時には、実父子関係よりも強いことがある。その騎馬遊牧民族の義父子関係の流れは、「役座」の「親の血を引く兄弟よりもの。」の「血の杯」の儀式に現存している。
中国の北魏から唐帝国までは、拓跋部などの騎馬民族が漢民族を支配していた。しかし、北魏から続いていた、騎馬民族王朝と異なる国が、中国に誕生した。
960年漢族出身の太祖が、宋を興した。宋王朝は、二万を越える官僚と150万の軍隊を保持していた。しかし、軍事的には、遊牧民族の契丹国に押されていた。そのため、宋は、契丹国に巨額な金、絹の歳幣(年ごとの貢物)を貢いで、契丹国からの侵略を防いでいた。
宋は、その歳幣である金と絹を日本列島から手に入れるため、古来から南海交易を行っていた藤原氏やアラブ系海洋交易民族(後の平家)に、仲介を頼んだ。
弥生時代から、日本列島は、中国大陸への絹・朱砂・真珠の供給地だった。奈良時代に始まる遣唐使船などは、唐帝国の税制により日本列島から奪取された「貢物」を運ぶのが、主目的だった。だから、奈良時代を語る「続日本紀」には、中国の史料には武器の材料として牛角を遣唐使船で送れとの命令書があるが、遣唐使の記録記述が、日本から何を運んだのかが曖昧になっている。
そのため、藤原氏は、陸奥国の砂金を独占するために、蝦夷末裔清原氏と安倍氏の抹殺を企てた。奥州藤原氏への布石は、この時からだ。そのため、陸奥出羽按察使を、藤原氏が独占支配していた。
アラブ系海洋民族は、日本列島の伊勢の真珠や水銀を宋に輸出し、宋銭を大いに貯えた。出自不詳の平正盛が、白河上皇に接近できた理由のひとつが、その宋銭だ。その宋との交易により得た宋銭を、天皇や貴族への賄賂とすることにより、短期間のうちに日本列島の3分1を知行地とした。そのアラブ系海洋民族を祖とする「平家」を、藤原日本史では、「伊勢平氏」としてアラブ系民族の「平家」の歴史を隠蔽・改竄する。「平氏」は賜姓で、桓武平氏は、海洋民族などではなく、亡命百済民末裔だ。
その宋から契丹国に送られた多量の金や絹は、国際交易に転用された。契丹国との国際交易をおこなうために、1032年タングト族、漢族、ウイグル族、チベット族などの多種民族国家の西夏が興った。
1115年渤海国滅亡の地に、ツングース系女真族が、大金国を興した。その頃、契丹国では、権力闘争の内乱のため、女真族により首都が陥落しただけではなく、契丹帝国に従属していた宋も、1126年金帝国に滅ぼされた。その金帝国の実態は、騎馬民族特有の女真族とキタイ族との連合政権だった。
平安時代から鎌倉時代に代わる頃の東アジアの12世紀は、東に女真族の金帝国、中央アジアにキタイ族の西遼国、その中間に西夏、江南には南宋、西アジアには分立するセルジュク朝の諸国家が覇権を競っていた。
それらの国々には、武力を商売としての傭兵軍団が、金のニオイに釣られて、シンボルマークを付けた部族旗をたなびかせて行き来していた。勿論、宋に金、絹を供給していた日本列島も、その例外ではない。
遣唐使船の15回の渡海平均日は、4.1日だ。日本列島と中国大陸とは、藤原日本史の遣唐使船物語で述べているように何ヶ月もかかるものではなく、統一新羅の小型商船が大阪の難波と中国大陸を頻回に行き来していたように、困難な海路ではない。中国大陸の傭兵軍団は、中国大陸の動乱を避けるため、或いは、唐進駐軍が居なくなって強力な軍団が久しく存在しない、日本列島を目指していた。
藤原氏は、「現御神」の「天皇制」を利用して、日本列島を完全支配するために、明日香ヤマトを支配していた民族末裔の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」の抹殺を実行するため、傭兵軍団を海外に求めていた。その時、藤原氏の前に現れたのが、難波津に渡来した「満仲」の軍団だ。
日本列島から、日本列島の3分の1を支配したアラブ系海洋民族「平家」を駆逐するために、藤原氏と桓武平氏の北条氏が結託して起こした、「源平合戦」が勃発した頃、東アジアのすべてを飲み込む、モンゴルが産声を上げた。
日本列島の東国を、嵯峨源氏末裔や醍醐源氏末裔を「源平合戦」のドサクサ中に抹殺し、百済系平氏の北条氏が支配するために、藤原氏の傭兵軍の「清和源氏」の抹殺を企てていた頃、1206年テムジン(チンギス・カン)は、チュルク・モンゴル系の雑多な集団からなる牧民戦士軍団を率いて外征の旅に出た。
雑多な軍団は、それぞれの部族を表すシンボルマークを軍旗に記していた。因みに、テムジン軍団のシンボルは、源義経と同じ、笹竜胆だ。平安時代末期の「源平合戦」では、「源氏の白旗」と「平家の赤旗」で、日本列島には、源義経の笹竜胆の家紋以外は、未だ武家家紋は登場していない。
騎馬民族は、農耕民族の歴史書により、「蛮族」「血塗られた文明の破壊者」などのレッテルが貼られている。その野蛮な遊牧民の代表が、「モンゴル」だ。しかし、「モンゴ゜ル」は、人種や民族の名前だったのではなく、一地方の集団の呼び名だった。その小集団のモンゴルを、テムジンが支配者となって、他部族を打倒・吸収するうちに、モンゴル共同体が、やがて、大集団を表す「モンゴル」となっていった。それは、1211年テムジンが、華北の金帝国への侵入を始めた頃だ。
モンゴル軍団は、騎馬軍団による怒涛の攻撃により、農家や田畑を荒地として壊滅させるイメージがある。しかし、モンゴル軍団は、戦わない軍団だった。モンゴル軍団が、地上の破壊軍団であったならば、短期間のうちに、西はキプチャク汗国、東は元までの大帝国を築けなかった。
モンゴル軍団の軍事行動は、敵国を壊滅することなくそのまま接収・吸収するために、示威行動だった。敵兵を残酷な刑で殺戮をしていたならば、モンゴル軍団の軍人は、減りこそすれ、増えることはないからだ。
モンゴル軍団が、金帝国や西夏を接収・吸収できたのは、ソグド商人、ペルシャ商人、イスラーム商人などの国際商人達が協力者として暗躍していたからだ。国際商人にとって、国々に分かれて、それぞれに関税を払うより、一国に関税を払うことが商売上有利だからだ。
モンゴル帝国は、1260年を境に、二分できる。それは、前期がモンゴル高原を政治基地として軍事中心に帝国が運営され、東は日本海から西はドナウ河河口、アナトリア、東地中海まで拡大をつづけた時期だ。そして、後期は、クビライによるユーラシア、北アフリカに到る「世界」を結びつける国際通商をおこなう時期だ。
1260年クビライが即位すると、アジア東方を直接の根拠地として世界帝国を建設する。それは、軍事と通商とが統合した、世界史上まれにみる帝国だった。クビライは、国家が主導する自由貿易、重商主義政策とにより、陸海をつうじた空前の「ユーラシア大交易圏」を出現させた。その前提として、クビライは、南中国の南宋を接取した。
南宋は、宋の時代以前、唐帝国の時代に、南インドとの国際交易により開発された海路を利用して、ヨーロッパ→エジプト→南インド→マカオ→中国沿岸→日本列島の国際海洋ルートを確保して、国際交易品の絹、金、銀、水銀、真珠などを交易していた。
その南宋の禅宗の臨済宗は、鎌倉の地に禅寺を設けて国際交易基地として、南宋から、南インドの香木や中国の書画骨董を輸入し、そして、鎌倉の浜砂鉄で造られた日本刀を美術品として輸出していた。寺は、古来から、仏像を安置する処でもあり、国際交易基地でもあった。それは、寺は、治外法権で、朝廷権力が及ばない、ナンデモアリの「聖地」であったからだ。
クビライは、騎馬民族帝国で、歴史上初めて、海への進出を果たした。そのために、クビライは、陸海を結ぶ物流ターミナルを造るために、内陸の大河を結ぶために、高低差数十mの閘門式運河を造った。それらの内陸運河により、中国大陸内部の都市と、高麗、日本、東南アジア、インド洋方面などの諸外国とに海路が直接結ばれた。
1274年、日本列島に文永の役の「元寇」が現れた頃、クビライは、南宋国境線の諸方から全面進行した。その結果、南宋軍の長江中流の要地、鄂州は戦わずして開場した。ここにも、モンゴル軍団の戦術、戦わずして接取する戦術がおこなわれた。
そして、1276年、1281年日本列島に弘安の役の「元寇」が現れる5年前、南宋王朝が壊滅し、南宋軍団は、大船団を組織して杭州から脱出して、東南沿岸を流亡した。その南宋の大船団が、東シナ海の黒潮に乗れば、行き着く先は、黒潮が沿岸を洗う北九州か南九州だ。
「元寇」と伝わる物語は、モンゴル軍団の来襲などではなく、南宋や高麗の大難民船団だった。その根拠のひとつとして、「元寇?」の難破船からは、大量の農具と種籾が詰まった壺が引き上げられているからだ。武器ではなく、農具や種籾を積む大船軍団などあるのか。
クビライが、南宋を攻めたのは、南宋の海洋交易システムを乗っ取ることが、目的のひとつだった。劃して、国際海上交易において、モンゴルは、南宋国の「後継国家」となった。
しかし、その亡国南宋から、日本列島に禅宗のインド僧と供に、騎馬民族差別思想が、鎌倉の地にもたらされた。平安時代の錬金術師空海がもたらした宗教理念の民族差別思想が、インドの禅僧の言葉から直接発せられるのが、鎌倉時代だ。それが、騎馬民族を差別する言葉、チャンダーラ(インド・バラモン教)→施陀羅(平安時代)→穢多(鎌倉時代)だ。
そして、野山に、シンボルマークの旗をなびかせた「悪党」と自称する軍団が現れたのも、鎌倉時代だ。「悪党」とは、「アク党」で、騎馬民族では「アク=勇者」の意味で、つまり、騎馬民族の「勇者党」だ。
日本語の「言葉」には、ポリネシア語、アイヌ語、タミル語、朝鮮半島語(高句麗語・百済語・新羅語)、古代エジプト語、突厥語、中国語(呉音・漢音・唐音)などで構成されている。例えば、「愛娘」(まなむすめ)の「まな」とは、古代エジプト語で、「愛しい」の意味だ。
それらの「万葉語=多民族語」を、漢字二文字の「仏教語」で隠蔽・改竄していたのが、藤原日本史だ。意味の分からない「日本語」にであったら、それらの語源をたどると、意外な歴史が現れることがある。
鎌倉時代は、藤原日本史が述べるように、貧民を救済する新仏教が興った民衆の時代などではなく、モンゴル帝国により南宋が壊滅したために新移民団が中国大陸から渡来した、混乱時代だったようだ。
6世紀から7世紀のユーラシア大陸を支配した突厥は、その民族の体質から、「まとまりやすくこわれやすい」集団だった。日本列島の6世紀半ばから7世紀半ばまでの明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍の母国を、唐帝国により壊滅された突厥は、ペルシャ語で「トルキスタン」、つまり、「チュルクの地」とするような小国として存在していた。
傭兵軍団の沙陀族は、唐帝国の内乱を騎馬軍団の軍事力で鎮定し、その功で、唐帝国から唐朝の国姓「李」を賜り、李国昌と名乗っていた。その傭兵軍の「李」軍団は、黒装束で武装していたため、その騎馬軍団は、「烏軍」と呼ばれていた。そして、唐帝国末期では、もはや政権は、チュルク系沙陀族のものだった。
その頃、6世紀中頃の中東に興ったイスラームのサラセン帝国は、インド北部へその勢力を伸ばしていた。インドを逃れたヒンズー教徒は、唐帝国に救いを求めた。しかし、唐帝国内は、農民の暴動などにより治安が乱れていた。
菅原道真は、この頃の唐帝国内の情勢を、統一新羅の商人により入手していたようだ。
このような不安情勢の中、中国土着の宗教とヒンズー教の瞑想技術が合体して、「禅」が、臨済宗は臨濟義玄により、そして、曹洞宗は洞山良价により、発明された。
唐帝国が滅亡する頃、唐帝国の長城線の北側に、モンゴル系のキタイ族の耶律阿保機が現れた。907年唐帝国が滅ぶと、耶律阿保機は、みずから君主となり「大キタイ国」(契丹国→遼)を称した。そして、916年みすがらを天皇帝(テングリ・カガン)を称した。
その天皇帝の即位儀式は、チュルク・モンゴル系の伝統である天上の神である北極星(テングリ)にかけて、柴を燔き天を祀るものだった。それは、672年日本初の天武天皇の即位儀式と同じだ。
耶律阿保機は、926年渤海国を滅ぼし、東丹国とした。そして、947年後晋を叩き潰すと、中華風の国号として「大遼国」を称した。
遊牧国家の体質として、権力の所在地は、夏営地と冬営地との遊牧移動国の中に暮らす天幕群にあった。つまり、「幕府」である。遊牧国家は、部族結合を基礎単位とする連合体だ。だから、君主の一代ごとに政権や王朝が変動する。その流動性を固定化するために、血の繋がりがない有力者と、仮の父子関係を結ぶ。この義父子関係は、時には、実父子関係よりも強いことがある。その騎馬遊牧民族の義父子関係の流れは、「役座」の「親の血を引く兄弟よりもの。」の「血の杯」の儀式に現存している。
中国の北魏から唐帝国までは、拓跋部などの騎馬民族が漢民族を支配していた。しかし、北魏から続いていた、騎馬民族王朝と異なる国が、中国に誕生した。
960年漢族出身の太祖が、宋を興した。宋王朝は、二万を越える官僚と150万の軍隊を保持していた。しかし、軍事的には、遊牧民族の契丹国に押されていた。そのため、宋は、契丹国に巨額な金、絹の歳幣(年ごとの貢物)を貢いで、契丹国からの侵略を防いでいた。
宋は、その歳幣である金と絹を日本列島から手に入れるため、古来から南海交易を行っていた藤原氏やアラブ系海洋交易民族(後の平家)に、仲介を頼んだ。
弥生時代から、日本列島は、中国大陸への絹・朱砂・真珠の供給地だった。奈良時代に始まる遣唐使船などは、唐帝国の税制により日本列島から奪取された「貢物」を運ぶのが、主目的だった。だから、奈良時代を語る「続日本紀」には、中国の史料には武器の材料として牛角を遣唐使船で送れとの命令書があるが、遣唐使の記録記述が、日本から何を運んだのかが曖昧になっている。
そのため、藤原氏は、陸奥国の砂金を独占するために、蝦夷末裔清原氏と安倍氏の抹殺を企てた。奥州藤原氏への布石は、この時からだ。そのため、陸奥出羽按察使を、藤原氏が独占支配していた。
アラブ系海洋民族は、日本列島の伊勢の真珠や水銀を宋に輸出し、宋銭を大いに貯えた。出自不詳の平正盛が、白河上皇に接近できた理由のひとつが、その宋銭だ。その宋との交易により得た宋銭を、天皇や貴族への賄賂とすることにより、短期間のうちに日本列島の3分1を知行地とした。そのアラブ系海洋民族を祖とする「平家」を、藤原日本史では、「伊勢平氏」としてアラブ系民族の「平家」の歴史を隠蔽・改竄する。「平氏」は賜姓で、桓武平氏は、海洋民族などではなく、亡命百済民末裔だ。
その宋から契丹国に送られた多量の金や絹は、国際交易に転用された。契丹国との国際交易をおこなうために、1032年タングト族、漢族、ウイグル族、チベット族などの多種民族国家の西夏が興った。
1115年渤海国滅亡の地に、ツングース系女真族が、大金国を興した。その頃、契丹国では、権力闘争の内乱のため、女真族により首都が陥落しただけではなく、契丹帝国に従属していた宋も、1126年金帝国に滅ぼされた。その金帝国の実態は、騎馬民族特有の女真族とキタイ族との連合政権だった。
平安時代から鎌倉時代に代わる頃の東アジアの12世紀は、東に女真族の金帝国、中央アジアにキタイ族の西遼国、その中間に西夏、江南には南宋、西アジアには分立するセルジュク朝の諸国家が覇権を競っていた。
それらの国々には、武力を商売としての傭兵軍団が、金のニオイに釣られて、シンボルマークを付けた部族旗をたなびかせて行き来していた。勿論、宋に金、絹を供給していた日本列島も、その例外ではない。
遣唐使船の15回の渡海平均日は、4.1日だ。日本列島と中国大陸とは、藤原日本史の遣唐使船物語で述べているように何ヶ月もかかるものではなく、統一新羅の小型商船が大阪の難波と中国大陸を頻回に行き来していたように、困難な海路ではない。中国大陸の傭兵軍団は、中国大陸の動乱を避けるため、或いは、唐進駐軍が居なくなって強力な軍団が久しく存在しない、日本列島を目指していた。
藤原氏は、「現御神」の「天皇制」を利用して、日本列島を完全支配するために、明日香ヤマトを支配していた民族末裔の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」の抹殺を実行するため、傭兵軍団を海外に求めていた。その時、藤原氏の前に現れたのが、難波津に渡来した「満仲」の軍団だ。
日本列島から、日本列島の3分の1を支配したアラブ系海洋民族「平家」を駆逐するために、藤原氏と桓武平氏の北条氏が結託して起こした、「源平合戦」が勃発した頃、東アジアのすべてを飲み込む、モンゴルが産声を上げた。
日本列島の東国を、嵯峨源氏末裔や醍醐源氏末裔を「源平合戦」のドサクサ中に抹殺し、百済系平氏の北条氏が支配するために、藤原氏の傭兵軍の「清和源氏」の抹殺を企てていた頃、1206年テムジン(チンギス・カン)は、チュルク・モンゴル系の雑多な集団からなる牧民戦士軍団を率いて外征の旅に出た。
雑多な軍団は、それぞれの部族を表すシンボルマークを軍旗に記していた。因みに、テムジン軍団のシンボルは、源義経と同じ、笹竜胆だ。平安時代末期の「源平合戦」では、「源氏の白旗」と「平家の赤旗」で、日本列島には、源義経の笹竜胆の家紋以外は、未だ武家家紋は登場していない。
騎馬民族は、農耕民族の歴史書により、「蛮族」「血塗られた文明の破壊者」などのレッテルが貼られている。その野蛮な遊牧民の代表が、「モンゴル」だ。しかし、「モンゴ゜ル」は、人種や民族の名前だったのではなく、一地方の集団の呼び名だった。その小集団のモンゴルを、テムジンが支配者となって、他部族を打倒・吸収するうちに、モンゴル共同体が、やがて、大集団を表す「モンゴル」となっていった。それは、1211年テムジンが、華北の金帝国への侵入を始めた頃だ。
モンゴル軍団は、騎馬軍団による怒涛の攻撃により、農家や田畑を荒地として壊滅させるイメージがある。しかし、モンゴル軍団は、戦わない軍団だった。モンゴル軍団が、地上の破壊軍団であったならば、短期間のうちに、西はキプチャク汗国、東は元までの大帝国を築けなかった。
モンゴル軍団の軍事行動は、敵国を壊滅することなくそのまま接収・吸収するために、示威行動だった。敵兵を残酷な刑で殺戮をしていたならば、モンゴル軍団の軍人は、減りこそすれ、増えることはないからだ。
モンゴル軍団が、金帝国や西夏を接収・吸収できたのは、ソグド商人、ペルシャ商人、イスラーム商人などの国際商人達が協力者として暗躍していたからだ。国際商人にとって、国々に分かれて、それぞれに関税を払うより、一国に関税を払うことが商売上有利だからだ。
モンゴル帝国は、1260年を境に、二分できる。それは、前期がモンゴル高原を政治基地として軍事中心に帝国が運営され、東は日本海から西はドナウ河河口、アナトリア、東地中海まで拡大をつづけた時期だ。そして、後期は、クビライによるユーラシア、北アフリカに到る「世界」を結びつける国際通商をおこなう時期だ。
1260年クビライが即位すると、アジア東方を直接の根拠地として世界帝国を建設する。それは、軍事と通商とが統合した、世界史上まれにみる帝国だった。クビライは、国家が主導する自由貿易、重商主義政策とにより、陸海をつうじた空前の「ユーラシア大交易圏」を出現させた。その前提として、クビライは、南中国の南宋を接取した。
南宋は、宋の時代以前、唐帝国の時代に、南インドとの国際交易により開発された海路を利用して、ヨーロッパ→エジプト→南インド→マカオ→中国沿岸→日本列島の国際海洋ルートを確保して、国際交易品の絹、金、銀、水銀、真珠などを交易していた。
その南宋の禅宗の臨済宗は、鎌倉の地に禅寺を設けて国際交易基地として、南宋から、南インドの香木や中国の書画骨董を輸入し、そして、鎌倉の浜砂鉄で造られた日本刀を美術品として輸出していた。寺は、古来から、仏像を安置する処でもあり、国際交易基地でもあった。それは、寺は、治外法権で、朝廷権力が及ばない、ナンデモアリの「聖地」であったからだ。
クビライは、騎馬民族帝国で、歴史上初めて、海への進出を果たした。そのために、クビライは、陸海を結ぶ物流ターミナルを造るために、内陸の大河を結ぶために、高低差数十mの閘門式運河を造った。それらの内陸運河により、中国大陸内部の都市と、高麗、日本、東南アジア、インド洋方面などの諸外国とに海路が直接結ばれた。
1274年、日本列島に文永の役の「元寇」が現れた頃、クビライは、南宋国境線の諸方から全面進行した。その結果、南宋軍の長江中流の要地、鄂州は戦わずして開場した。ここにも、モンゴル軍団の戦術、戦わずして接取する戦術がおこなわれた。
そして、1276年、1281年日本列島に弘安の役の「元寇」が現れる5年前、南宋王朝が壊滅し、南宋軍団は、大船団を組織して杭州から脱出して、東南沿岸を流亡した。その南宋の大船団が、東シナ海の黒潮に乗れば、行き着く先は、黒潮が沿岸を洗う北九州か南九州だ。
「元寇」と伝わる物語は、モンゴル軍団の来襲などではなく、南宋や高麗の大難民船団だった。その根拠のひとつとして、「元寇?」の難破船からは、大量の農具と種籾が詰まった壺が引き上げられているからだ。武器ではなく、農具や種籾を積む大船軍団などあるのか。
クビライが、南宋を攻めたのは、南宋の海洋交易システムを乗っ取ることが、目的のひとつだった。劃して、国際海上交易において、モンゴルは、南宋国の「後継国家」となった。
しかし、その亡国南宋から、日本列島に禅宗のインド僧と供に、騎馬民族差別思想が、鎌倉の地にもたらされた。平安時代の錬金術師空海がもたらした宗教理念の民族差別思想が、インドの禅僧の言葉から直接発せられるのが、鎌倉時代だ。それが、騎馬民族を差別する言葉、チャンダーラ(インド・バラモン教)→施陀羅(平安時代)→穢多(鎌倉時代)だ。
そして、野山に、シンボルマークの旗をなびかせた「悪党」と自称する軍団が現れたのも、鎌倉時代だ。「悪党」とは、「アク党」で、騎馬民族では「アク=勇者」の意味で、つまり、騎馬民族の「勇者党」だ。
日本語の「言葉」には、ポリネシア語、アイヌ語、タミル語、朝鮮半島語(高句麗語・百済語・新羅語)、古代エジプト語、突厥語、中国語(呉音・漢音・唐音)などで構成されている。例えば、「愛娘」(まなむすめ)の「まな」とは、古代エジプト語で、「愛しい」の意味だ。
それらの「万葉語=多民族語」を、漢字二文字の「仏教語」で隠蔽・改竄していたのが、藤原日本史だ。意味の分からない「日本語」にであったら、それらの語源をたどると、意外な歴史が現れることがある。
鎌倉時代は、藤原日本史が述べるように、貧民を救済する新仏教が興った民衆の時代などではなく、モンゴル帝国により南宋が壊滅したために新移民団が中国大陸から渡来した、混乱時代だったようだ。
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