2020年3月12日木曜日

惟宗光吉

秦河勝の末裔と伝わり、代々明法家・医家として名高い惟宗氏の出身。医師吉国の息子。権侍医・典薬権助・内蔵権頭・右京権大夫などを歴任。四位に至る。後宇多院の寵臣。「和漢才人」(惟宗氏系図)。法名は玄照。文和元年九月二十八日、七十九歳で卒去。
二条派有力歌人。続後拾遺集撰進に際し寄人をつとめる。また小倉実教撰『藤葉和歌集』の撰にも助力したらしい。二条家の歌会にしばしば参加したほか、元亨年間(1321-1324)頃の覚助法親王家五十首、元亨三年(1323)の亀山殿七百首などに出詠。また自邸でも歌会を催した(草庵集)。公順・道我らとの交流がうかがえる。家集『惟宗光吉集』がある。続千載集初出。勅撰入集は計十九首。



明けぬれば色ぞわかるる山のはの雲と花とのきぬぎぬの空(惟宗光吉集)

【通釈】夜が明けたので、ようやく見た目の区別がついたことだ――山の端にあって見分け難かった雲と花とが、あたかも恋人たちのように別れ別れになる空よ。

【補記】「きぬぎぬ」(後朝)は、共に一晩を過ごした男女が明け方に別れること。雲と花が山の端で別れる様を後朝に見立てたのである。

木寺の草庵にて、雨のふる日、花みたまひしときに、雨後花といふことを

雨はるるなごりの露やおもからし下枝しづえかずそふ山ざくらかな(惟宗光吉集)

【通釈】雨が上がった名残の露が重いらしい。下枝の数が増えたように見える桜だことよ。

【補記】露の重みで垂れた枝々を、下枝が増えたと見た。詞書の「木寺」は紀寺に同じ。奈良春日野の南にあった寺。「みたまひ」と敬語を用いているのは、家集の編者が光吉の子孫であったためと推測される。

【参考歌】大弐三位「新古今集」
わかれけむなごりの露もかわかぬにおきやそふらむ秋の夕露

野夕立

ふじのねははれゆく空にあらはれてすそ野にくだる夕立の雲(風雅1515)

【通釈】富士山を見渡せば、晴れてゆく空に次第に峰は現れて、一方、裾野の方へと下ってゆく夕立の雲。

【参考歌】後鳥羽院「最勝四天王院障子和歌」
富士の山同じ雪げの雲路よりすそ野を分けて夕立ぞする

左兵衛督直義卿日吉社奉納歌に、雪中望

みし秋の尾花の波にこえてけり真野の入江の雪のあけぼの(惟宗光吉集)

【通釈】秋に見た尾花の穂波は素晴らしかったが、それをさえ上まわっていることよ、真野の入江の雪降る曙の景色は。

【補記】足利直義勧進の奉納歌。真野は近江国の歌枕、琵琶湖西岸、尾花の名所。

【本歌】源俊頼「金葉集」
うづらなく真野の入江の浜風にをばななみよる秋の夕ぐれ

二条前大納言家日吉社奉納の百首に

いつしかとほのめかさばや初尾花たもとに露のかかるおもひを(惟宗光吉集)

【通釈】いつかはほのめかしたいものだ。「妹が手枕にせん」と詠われた初尾花の露が――いや実はあの人を思って流す涙が袂にかかる、これほどの思いを。

【補記】「初尾花」は伝人麿作の本歌(もとは万葉集巻十の作者不詳歌)により、新枕を暗示する。「かかる」は掛詞。

【本歌】人丸「新古今集」
さをしかのいるのの薄はつをばないつしか妹が手枕にせん

暁旅行を

夜をこめて山路はこえぬ有明の月より後の友やなからん(続千載833)

【通釈】夜を徹して山道を越えた。有明の月がずっと道連れになってくれたが、月が消えたあと、もう旅の友はいないだろうなあ。

【補記】「有明の月」は夜遅く現れ、明け方まで空に残る月。月を旅の道連れに譬える歌は多いが、「夜をこめて」「月より後の」と時間の推移を歌い込めて情趣が豊かになった。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mituyosi.html

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