2020年3月12日木曜日

秦 河勝

秦氏6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島倭国へ渡来した渡来人集団で、そのルーツは始皇帝ともいう[3]。河勝は秦氏の族長的人物であったとされる。

弓月国出身の弓月君と一緒に渡来した部族の子孫の秦氏の一員といわれる。聖徳太子の側近として活躍した。また、弓月国を含む広い地域(中東中央アジア東アジア西部)で広く定着していた東方キリスト教(東方緒教会)の信徒で富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれる。四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、東方キリスト教思想の慈善事業制度(四箇院)の設置に関わった。
推古天皇11年(603年)聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、蜂岡寺を建てそれを安置した[4]。推古天皇18年(610年新羅の使節を迎える導者の任に土部菟と共に当る[5]。皇極天皇3年(644年駿河国富士川周辺で、大生部多を中心とした常世神を崇める集団(宗教)を追討している[6]
風姿花伝』第四に述べられている伝説によれば、摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦(現在の兵庫県赤穂市坂越)へ漂着した後、大避大明神となったとされている。そのため、兵庫県赤穂市坂越で没したとする説がある。坂越・大避神社はこの大避大明神を主祭神とし、神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓がある。同じく赤穂市有年(うね)にも大避神社があるがこれは坂越の分家である。

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