秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団で、そのルーツは秦の始皇帝ともいう[3]。河勝は秦氏の族長的人物であったとされる。
弓月国出身の
弓月君と一緒に渡来した部族の子孫の秦氏の一員といわれる。
聖徳太子の側近として活躍した。また、弓月国を含む広い地域(
中東、
中央アジア、
東アジア西部)で広く定着していた東方キリスト教(
東方緒教会)の信徒で富裕な商人でもあり
朝廷の財政に関わっていたといわれる。
四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、東方キリスト教思想の慈善事業制度(
四箇院)の設置に関わった。
『
風姿花伝』第四に述べられている伝説によれば、
摂津国難波浦から出航し、
播磨国赤穂郡坂越浦(現在の
兵庫県赤穂市坂越)へ漂着した後、大避大明神となったとされている。そのため、兵庫県赤穂市坂越で没したとする説がある。坂越・
大避神社はこの大避大明神を主祭神とし、神社の神域である
生島には秦河勝のものと伝えられる墓がある。同じく赤穂市有年(うね)にも
大避神社があるがこれは坂越の分家である。
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