1180年から1266年まで記録した、幕府の記録書「吾妻鏡」があるではないか、といっても、それは、「信長公記」で織田信長と豊臣秀吉の歴史を調べることと同じで、史料としては価値が希薄だ。「吾妻鏡」は、関東の源氏抹殺を企む桓武平氏の北条氏の作文なのだ。
それに、鎌倉幕府の税制が分からないことからも、鎌倉時代が、藤原日本史の解くような時代でないことも示唆される。何故、鎌倉と北陸には、南宋から渡来した禅僧が、中国語で会話していたか。そして、北条鎌倉幕府の国際交易顧問が、中国語を話す禅僧だったのは何故だ。藤原日本史は、鎌倉時代の「歴史の何」を抹殺したのか。
鎌倉時代に始まる「平家落ち武者部落」とは何か。
「清和源氏」末裔の源頼朝、源頼家、源実朝の三代を謀殺した桓武平氏の北条氏が、北条政子を尼将軍とした背景には、東国は騎馬民族文化圏であったからだ。騎馬民族文化では、王であるテングリ(天子)が死去すると、その妻が部族を指揮する。西国の漢訳仏教文化圏では、女は男に生まれ変わってからでないと成仏できないと信じられていたほど、女性蔑視の文化であった。東国が、西国と同じ文化圏であったならば、源頼朝の妻政子は、尼将軍にはなれなかったはずだ。このことからも、鎌倉時代の東国と西国との民族・文化の違いが分かる。
1219年尼将軍となった北条政子は、1221年西国での源氏残党狩りの目的で、六波羅探題を設置した。その結果、日本列島各地に、「平家落ち武者部落」が発生した。しかし、そのアラブ系海洋民族末裔である「平家」の「落ち武者部落」は、沿岸地域ではなく、騎馬民族が暮らす山奥にあるのは何故だ。ここに、藤原日本史による鎌倉時代の歴史抹殺の謎を解明するためのヒントがある。
「源氏」の姓は、藤原薬子の反乱を平定した後、反藤原氏となった嵯峨天皇が、藤原氏の支配体制から独立して、嵯峨王国を築くために、814年嵯峨天皇の皇子の臣籍降下に伴い賜った姓だ。
その源氏姓は、日本国独自の姓ではない。ユーラシア大陸に起こった騎馬民族の拓跋部が、443年北魏を興し、拓跋部の連合の族長の拓跋氏が、部族連合を纏めるために、部族の序列化のために、漢姓導入した時に、「元・みなもと」とした。その拓跋部の同族の禿髪氏(トクハツは、拓跋・タクバツ、突厥・トッケツと同じに、「チュルク」の漢音字)が、拓跋氏の「元」の臣下となった時、拓跋氏から禿髪氏が「源・みなもと」と姓を賜ったことから始まる。嵯峨天皇が採用した「源氏」とは、ユーラシア大陸の騎馬民族の血筋であったのだ。
その「嵯峨源氏」は、一時は、平安王朝の廟堂を支配していたが、藤原氏の陰謀により、奈良時代に新羅系天武天皇の10皇子が抹殺されていったように、次々と廟堂から追放されていた。その「嵯峨源氏」のひとり、源綱は、母親の生地の渡辺津に移り、渡辺党を興していた。その渡辺津には、源平合戦の時、ユーラシアから渡来した、笹竜胆の紋章を付けた源義経の軍団が、「平家」が陣取る屋島に向けて出撃していた。
母親が藤原氏ではない醍醐天皇も、源姓を皇子達に賜った。それが、「醍醐源氏」だ。その「醍醐源氏」の左大臣源高明も、反藤原氏だった。その反藤原氏の源高明も、969年藤原氏の得意の戦術「密告」により、反藤原氏の菅原道真と同じに、太宰員外師に左遷された。その密告者が、「清和源氏」の祖となる、出自不詳の「満仲」だった。
源満仲は、この密告の報奨として藤原氏により叙位された。この満仲による源高明の密告の結果、反藤原氏の軍団「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」は、平安時代の廟堂から姿を消した。それに対して、「清和源氏」は、藤原氏の傭兵軍となり、奥州藤原王国を築くために活躍した。
では、ユーラシアの騎馬民族の流れにある「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」末裔は、日本列島の何処に消えたのか。
それに、鎌倉幕府の税制が分からないことからも、鎌倉時代が、藤原日本史の解くような時代でないことも示唆される。何故、鎌倉と北陸には、南宋から渡来した禅僧が、中国語で会話していたか。そして、北条鎌倉幕府の国際交易顧問が、中国語を話す禅僧だったのは何故だ。藤原日本史は、鎌倉時代の「歴史の何」を抹殺したのか。
鎌倉時代に始まる「平家落ち武者部落」とは何か。
「清和源氏」末裔の源頼朝、源頼家、源実朝の三代を謀殺した桓武平氏の北条氏が、北条政子を尼将軍とした背景には、東国は騎馬民族文化圏であったからだ。騎馬民族文化では、王であるテングリ(天子)が死去すると、その妻が部族を指揮する。西国の漢訳仏教文化圏では、女は男に生まれ変わってからでないと成仏できないと信じられていたほど、女性蔑視の文化であった。東国が、西国と同じ文化圏であったならば、源頼朝の妻政子は、尼将軍にはなれなかったはずだ。このことからも、鎌倉時代の東国と西国との民族・文化の違いが分かる。
1219年尼将軍となった北条政子は、1221年西国での源氏残党狩りの目的で、六波羅探題を設置した。その結果、日本列島各地に、「平家落ち武者部落」が発生した。しかし、そのアラブ系海洋民族末裔である「平家」の「落ち武者部落」は、沿岸地域ではなく、騎馬民族が暮らす山奥にあるのは何故だ。ここに、藤原日本史による鎌倉時代の歴史抹殺の謎を解明するためのヒントがある。
「源氏」の姓は、藤原薬子の反乱を平定した後、反藤原氏となった嵯峨天皇が、藤原氏の支配体制から独立して、嵯峨王国を築くために、814年嵯峨天皇の皇子の臣籍降下に伴い賜った姓だ。
その源氏姓は、日本国独自の姓ではない。ユーラシア大陸に起こった騎馬民族の拓跋部が、443年北魏を興し、拓跋部の連合の族長の拓跋氏が、部族連合を纏めるために、部族の序列化のために、漢姓導入した時に、「元・みなもと」とした。その拓跋部の同族の禿髪氏(トクハツは、拓跋・タクバツ、突厥・トッケツと同じに、「チュルク」の漢音字)が、拓跋氏の「元」の臣下となった時、拓跋氏から禿髪氏が「源・みなもと」と姓を賜ったことから始まる。嵯峨天皇が採用した「源氏」とは、ユーラシア大陸の騎馬民族の血筋であったのだ。
その「嵯峨源氏」は、一時は、平安王朝の廟堂を支配していたが、藤原氏の陰謀により、奈良時代に新羅系天武天皇の10皇子が抹殺されていったように、次々と廟堂から追放されていた。その「嵯峨源氏」のひとり、源綱は、母親の生地の渡辺津に移り、渡辺党を興していた。その渡辺津には、源平合戦の時、ユーラシアから渡来した、笹竜胆の紋章を付けた源義経の軍団が、「平家」が陣取る屋島に向けて出撃していた。
母親が藤原氏ではない醍醐天皇も、源姓を皇子達に賜った。それが、「醍醐源氏」だ。その「醍醐源氏」の左大臣源高明も、反藤原氏だった。その反藤原氏の源高明も、969年藤原氏の得意の戦術「密告」により、反藤原氏の菅原道真と同じに、太宰員外師に左遷された。その密告者が、「清和源氏」の祖となる、出自不詳の「満仲」だった。
源満仲は、この密告の報奨として藤原氏により叙位された。この満仲による源高明の密告の結果、反藤原氏の軍団「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」は、平安時代の廟堂から姿を消した。それに対して、「清和源氏」は、藤原氏の傭兵軍となり、奥州藤原王国を築くために活躍した。
では、ユーラシアの騎馬民族の流れにある「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」末裔は、日本列島の何処に消えたのか。
藤原日本史では、平安時代の貴族仏教に替わり、鎌倉時代になると庶民のための、浄土宗、時宗、真宗、日蓮宗などの鎌倉新仏教が興ったとされる。しかし、東国の栃木県日光の二荒(ふたら→ニッコウ→日光)や長野県信州の諏訪(スワ←トルファン)のモリ(神社)では、雨乞いの為に神仏に祈っても効果のない時、鹿(牛)の生首が滝壺に放り込まれる呪術が復活していた。この鹿の生首儀式の意味は何か。
4世紀に大和朝廷が興ったとされる藤原日本史で、6世紀から始まる騎馬民族の日本列島史を消したつもりでも、律令制度が行き届いていない地方、東国では、鎌倉時代になっても古墳時代からのミトラ教の儀式の片鱗が生き続けていた。
牛の生首を犠牲とする儀式は、唐帝国から渡来した漢訳仏教布教のため、奈良時代の741年、平安時代の804年に牛屠殺の禁止令が王権から発せられていた。それは、太陽信仰民族の儀式を禁止するためだ。
太陽神を祀るミトラ教では、牡牛は太陽の化身と信じられていたため、太陽が冬至に死に、そして、再生することから、冬至はミトラ教の神が復活再生する聖なる日と定められた。その祭日に、太陽神に捧げるため牡牛が犠牲となる。やがて、冬至に限らず、旱魃の雨乞いの為に、太陽神ミトラに願うために、牡牛の犠牲が捧げられるようになった。しかし、平安時代には、西国では、仏教勢力の地となってしまっていたため、比叡山を祭祀場としていたミトラ神は祟り神の魔多羅神として貶められ、ミトラ教の儀式はすたれてしまっていた。では、西国には、ミトラ教が存在していたとする痕跡はないのか。
新興宗教が、土着宗教を歴史的に消す例は、ローマ・キリスト教がミトラ教を消したことで示すことが出来る。392年ローマ帝国は、ユダヤ教ヨシュア派を国教として、ローマ・キリスト教とした。その目的は、ローマ帝国軍がミトラ教の神を軍神として信仰していたからだ。ミトラ軍神は、太陽神のため、万人を分け隔てなく祝福する。
ローマ帝国の独裁を目論む者には、ミトラ神は不適切だ。そのため、国教となったローマ・キリスト教は、ミトラ教の地下神殿を破壊して、その上に、キリスト教会を建設した。そして、ミトラ教の儀式をローマ・キリスト教に取り込んで、ミトラ教の痕跡を歴史的に消してしまった。
例えば、キリスト教の「クリスマスの日」は、ミトラ教の太陽神再生の日(12月25日)だ。キリスト教の十字架は、ミトラ教の太陽のシンボルであるマルタクロスだ。キリスト教の儀式である、種無しパンと赤ぶど酒は、ミトラ教での屠った牡牛の生肉を食べ、そして、生血を飲む儀式をアレンジしたものだ。キリスト教の儀式から、ミトラ教の儀式を探すのはそれほど困難ではないように、新興宗教(キリスト教)は、土着宗教(ミトラ教)の儀式をコピーすることで、土着宗教を歴史的に抹殺できるのだ。
では、日本列島の中世の西国では、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団が信仰していたミトラ教をどのようにして歴史的に消したのか。
花郎騎士団の「花」とは、ミトラの借字だ。花郎騎士団は、軍神ミトラを信仰するローマ帝国軍の流れにあった。その花郎騎士団は、古墳時代、河内湾のローラン(浪速→難波)、奈良盆地のイカルガ、京都のウズマサを拠点としていた。
その根拠として、イカルガから発掘された、法隆寺境内の遺構は、南北軸から西に約20度傾いていた。そして、京都の蜂丘寺の遺構も同様だった。この傾きは、仏教の建築基準の南北軸にはあわない。その傾きは、冬至の太陽が射る角度だ。冬至は、ミトラ教の太陽神が復活する聖なる日だ。
奈良盆地の花郎騎士団の砦は、架空の人物である聖徳太子が建立したとする法隆寺により、そして、京都のミトラ教の蜂丘寺は、広隆寺として仏寺に改竄され、歴史的に消されてしまった。しかし、土着宗教を完全に消すことは、不可能のようだ。どこかに、ボロが出る。
その広隆寺の祭りに「牛祭り」がある。その祭りが不思議なのだ。夕闇迫る頃、牛に乗った魔多羅神が、意味不明の経文を小声で読み続け、突然、正面の建物に駆け込んで祭りが終わるのだ。
この広隆寺の牛祭りの神である魔多羅神は、円仁という僧が、838年最後の第15回遣唐使の短期留学僧の請益僧として遣唐使船で渡唐し、9年間不法滞在して仏法経典多数を、847年新羅商船に乗って日本国持ち帰ったとき、一緒に連れてきたものだ、との説明だ。つまり、魔多羅神は、比叡山のミトラ神が祖ではなく、中国の蕃神との説明だ。
この円仁の唐滞在中、845年会昌の仏教弾圧があった。その結果、漢訳仏教僧は、国外追放となった。そして、漢訳仏教僧に化けていたバラモン僧も、国外追放となった。漢訳仏教は、その民族差別思想の偏りにより、騎馬民族色が強い権力者から弾圧を受けることが、歴史上多い。源氏の祖、拓跋氏の北魏の時代、446年から452年にかけて、仏教弾圧があった。
では、その円仁とは、何者か。円仁は、後に、慈覚大師と尊称されたように、最澄が果たせなかった密教導入を完成させた。円仁は、唐に渡り不法滞在中に密教や浄土教信仰などにかかわる経典や法具を持ち帰り、天台宗を密教をも包含する総合的な仏教に改造した。つまり、円仁がいなければ、天台宗の中に密教が深く入り込むことはなかった。
ニッポン仏教は、不思議な宗教だ。仏教とは、釈尊の教えを説く宗教のはずだ。しかし、ニッポン仏教は、釈尊の教えとは異質な宗教となってしまっている。
釈尊の教えの根本は、階級差別のバラモン教思想の輪廻から逃れるため、人間をやめ、非人となることだ。そのためには、一切の経済活動をやめ、乞食として生きることを説いた。しかし、平安時代から鎌倉時代にかけて、現世利益、極楽浄土などの思想を、仏僧が説いているのだ。
その円仁が比叡山に導入した密教とは、現世利益の欲望獲得のための技法を説く、「秘密宗教」のことだ。その密教技法とは、拝火教のゾロアスター儀式から導入した護摩壇での大麻の焚き火、意味不明のアラム語の呪文、意思を伝える手印、インドのバラモン教やヒンズー教の鬼神を仏の守護神として描いた武器を携帯するおどろおどろしい神々の絵、そのような演出効果でのパホーマンスの最後に、マルタクロスの十字を切って密教の儀式が完結する。それは、インドのバラモン教やヒンズー教、ゾロアスター教、ミトラ教、道教、仏教など、各宗派の欲望獲得のための技法を基に、唐で発明されたものだ。
その密教が、「正統仏教僧?」から嫌われていることは、天台宗以外は宗教ではないとする「四箇格言」の「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と唱える日蓮が、比叡山に密教を導入した円仁を批判していることでも分かる。
では、円仁が、広隆寺の牛祭りで、歴史的に消そうとしたのは「何」か。
聖徳太子信仰は、鎌倉時代に一気に花開いた。その前提に、平安時代に「タイシ信仰」を画策した者がいた。平安時代の「タイシ信仰」の対象は、円仁の「慈覚ダイシ」と、空海の「弘法タイシ」だった。それは、供に、欲望成就の技術である「密教」を、日本列島にもたらしたからだ。このふたりの「タイシ」に、もうひとりが加わる。それが、「聖徳太子」だ。
その平安時代に発明された「聖徳太子」は、ミトラ教のミトラ神を祀る、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族の歴史を消すために発明された架空の人物だ。藤原日本史では、603年聖徳太子は、秦河勝に命じて、仏像を祀るために「広隆寺」を建立させた、とする。その仏像の名は、弥勒菩薩。
622年死去したとする聖徳太子が、架空の人物であることは、「隋書」が証明する。608年隋使裴世清は、明日香ヤマトで、藤原日本史が説くように女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒコに謁見していたからだ。
昔の歴史教科書には、その「アルカイック・スマイル」と説明された弥勒菩薩の像が掲載されていた。しかし、そのスマイル像は、ボロボロのアカマツ材で造られた像を、明治時代に改竄修復されたものだ。今では、その弥勒菩薩の元が、仏像であったのか知ることは出来ない。
そもそも、紀元前486年に没した釈尊は、バラモン教の偶像崇拝思想に染まることになる「仏像」の製作を遺言で禁止していたのだ。しかし、紀元一世紀、ギリシャ文化継承国のバクトリアがあった国際交易都市ガンダーラで作られた最初の仏像は、今に伝わる女の柔肌を持ったふくよかな仏像ではなく、ギリシャ形式の写実的なガリガリのブッタ像だった。ギリシャ仏像は、中国で不老不死を説く道教の神仙思想に対抗して、永遠の生を約束する女の肌の仏像へと変身していた。
その弥勒菩薩の「弥勒」とは、梵語で「マイトレーヤ」だ。光の神を表す「マイトレーヤ」は、その元は、太陽神「ミトラ」だ。
では、そのミトラ神の歴史を消した、聖徳太子建立七寺のひとつである広隆寺は、その後、どうなったのか。それは、古墳時代の奈良盆地にあったイカルガのミトラ教施設の歴史を消した、607年創建の法隆寺が、670年に炎上したように、603年創建の広隆寺(蜂丘寺)は、818年に全焼し、創建当時の建物か残ってはいない。かくして、古墳時代には西国で祀られていたミトラ教は、円仁が始めた広隆寺の牛祭りの魔多羅神により、歴史的に消されてしまった。
4世紀に大和朝廷が興ったとされる藤原日本史で、6世紀から始まる騎馬民族の日本列島史を消したつもりでも、律令制度が行き届いていない地方、東国では、鎌倉時代になっても古墳時代からのミトラ教の儀式の片鱗が生き続けていた。
牛の生首を犠牲とする儀式は、唐帝国から渡来した漢訳仏教布教のため、奈良時代の741年、平安時代の804年に牛屠殺の禁止令が王権から発せられていた。それは、太陽信仰民族の儀式を禁止するためだ。
太陽神を祀るミトラ教では、牡牛は太陽の化身と信じられていたため、太陽が冬至に死に、そして、再生することから、冬至はミトラ教の神が復活再生する聖なる日と定められた。その祭日に、太陽神に捧げるため牡牛が犠牲となる。やがて、冬至に限らず、旱魃の雨乞いの為に、太陽神ミトラに願うために、牡牛の犠牲が捧げられるようになった。しかし、平安時代には、西国では、仏教勢力の地となってしまっていたため、比叡山を祭祀場としていたミトラ神は祟り神の魔多羅神として貶められ、ミトラ教の儀式はすたれてしまっていた。では、西国には、ミトラ教が存在していたとする痕跡はないのか。
新興宗教が、土着宗教を歴史的に消す例は、ローマ・キリスト教がミトラ教を消したことで示すことが出来る。392年ローマ帝国は、ユダヤ教ヨシュア派を国教として、ローマ・キリスト教とした。その目的は、ローマ帝国軍がミトラ教の神を軍神として信仰していたからだ。ミトラ軍神は、太陽神のため、万人を分け隔てなく祝福する。
ローマ帝国の独裁を目論む者には、ミトラ神は不適切だ。そのため、国教となったローマ・キリスト教は、ミトラ教の地下神殿を破壊して、その上に、キリスト教会を建設した。そして、ミトラ教の儀式をローマ・キリスト教に取り込んで、ミトラ教の痕跡を歴史的に消してしまった。
例えば、キリスト教の「クリスマスの日」は、ミトラ教の太陽神再生の日(12月25日)だ。キリスト教の十字架は、ミトラ教の太陽のシンボルであるマルタクロスだ。キリスト教の儀式である、種無しパンと赤ぶど酒は、ミトラ教での屠った牡牛の生肉を食べ、そして、生血を飲む儀式をアレンジしたものだ。キリスト教の儀式から、ミトラ教の儀式を探すのはそれほど困難ではないように、新興宗教(キリスト教)は、土着宗教(ミトラ教)の儀式をコピーすることで、土着宗教を歴史的に抹殺できるのだ。
では、日本列島の中世の西国では、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団が信仰していたミトラ教をどのようにして歴史的に消したのか。
花郎騎士団の「花」とは、ミトラの借字だ。花郎騎士団は、軍神ミトラを信仰するローマ帝国軍の流れにあった。その花郎騎士団は、古墳時代、河内湾のローラン(浪速→難波)、奈良盆地のイカルガ、京都のウズマサを拠点としていた。
その根拠として、イカルガから発掘された、法隆寺境内の遺構は、南北軸から西に約20度傾いていた。そして、京都の蜂丘寺の遺構も同様だった。この傾きは、仏教の建築基準の南北軸にはあわない。その傾きは、冬至の太陽が射る角度だ。冬至は、ミトラ教の太陽神が復活する聖なる日だ。
奈良盆地の花郎騎士団の砦は、架空の人物である聖徳太子が建立したとする法隆寺により、そして、京都のミトラ教の蜂丘寺は、広隆寺として仏寺に改竄され、歴史的に消されてしまった。しかし、土着宗教を完全に消すことは、不可能のようだ。どこかに、ボロが出る。
その広隆寺の祭りに「牛祭り」がある。その祭りが不思議なのだ。夕闇迫る頃、牛に乗った魔多羅神が、意味不明の経文を小声で読み続け、突然、正面の建物に駆け込んで祭りが終わるのだ。
この広隆寺の牛祭りの神である魔多羅神は、円仁という僧が、838年最後の第15回遣唐使の短期留学僧の請益僧として遣唐使船で渡唐し、9年間不法滞在して仏法経典多数を、847年新羅商船に乗って日本国持ち帰ったとき、一緒に連れてきたものだ、との説明だ。つまり、魔多羅神は、比叡山のミトラ神が祖ではなく、中国の蕃神との説明だ。
この円仁の唐滞在中、845年会昌の仏教弾圧があった。その結果、漢訳仏教僧は、国外追放となった。そして、漢訳仏教僧に化けていたバラモン僧も、国外追放となった。漢訳仏教は、その民族差別思想の偏りにより、騎馬民族色が強い権力者から弾圧を受けることが、歴史上多い。源氏の祖、拓跋氏の北魏の時代、446年から452年にかけて、仏教弾圧があった。
では、その円仁とは、何者か。円仁は、後に、慈覚大師と尊称されたように、最澄が果たせなかった密教導入を完成させた。円仁は、唐に渡り不法滞在中に密教や浄土教信仰などにかかわる経典や法具を持ち帰り、天台宗を密教をも包含する総合的な仏教に改造した。つまり、円仁がいなければ、天台宗の中に密教が深く入り込むことはなかった。
ニッポン仏教は、不思議な宗教だ。仏教とは、釈尊の教えを説く宗教のはずだ。しかし、ニッポン仏教は、釈尊の教えとは異質な宗教となってしまっている。
釈尊の教えの根本は、階級差別のバラモン教思想の輪廻から逃れるため、人間をやめ、非人となることだ。そのためには、一切の経済活動をやめ、乞食として生きることを説いた。しかし、平安時代から鎌倉時代にかけて、現世利益、極楽浄土などの思想を、仏僧が説いているのだ。
その円仁が比叡山に導入した密教とは、現世利益の欲望獲得のための技法を説く、「秘密宗教」のことだ。その密教技法とは、拝火教のゾロアスター儀式から導入した護摩壇での大麻の焚き火、意味不明のアラム語の呪文、意思を伝える手印、インドのバラモン教やヒンズー教の鬼神を仏の守護神として描いた武器を携帯するおどろおどろしい神々の絵、そのような演出効果でのパホーマンスの最後に、マルタクロスの十字を切って密教の儀式が完結する。それは、インドのバラモン教やヒンズー教、ゾロアスター教、ミトラ教、道教、仏教など、各宗派の欲望獲得のための技法を基に、唐で発明されたものだ。
その密教が、「正統仏教僧?」から嫌われていることは、天台宗以外は宗教ではないとする「四箇格言」の「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と唱える日蓮が、比叡山に密教を導入した円仁を批判していることでも分かる。
では、円仁が、広隆寺の牛祭りで、歴史的に消そうとしたのは「何」か。
聖徳太子信仰は、鎌倉時代に一気に花開いた。その前提に、平安時代に「タイシ信仰」を画策した者がいた。平安時代の「タイシ信仰」の対象は、円仁の「慈覚ダイシ」と、空海の「弘法タイシ」だった。それは、供に、欲望成就の技術である「密教」を、日本列島にもたらしたからだ。このふたりの「タイシ」に、もうひとりが加わる。それが、「聖徳太子」だ。
その平安時代に発明された「聖徳太子」は、ミトラ教のミトラ神を祀る、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族の歴史を消すために発明された架空の人物だ。藤原日本史では、603年聖徳太子は、秦河勝に命じて、仏像を祀るために「広隆寺」を建立させた、とする。その仏像の名は、弥勒菩薩。
622年死去したとする聖徳太子が、架空の人物であることは、「隋書」が証明する。608年隋使裴世清は、明日香ヤマトで、藤原日本史が説くように女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒコに謁見していたからだ。
昔の歴史教科書には、その「アルカイック・スマイル」と説明された弥勒菩薩の像が掲載されていた。しかし、そのスマイル像は、ボロボロのアカマツ材で造られた像を、明治時代に改竄修復されたものだ。今では、その弥勒菩薩の元が、仏像であったのか知ることは出来ない。
そもそも、紀元前486年に没した釈尊は、バラモン教の偶像崇拝思想に染まることになる「仏像」の製作を遺言で禁止していたのだ。しかし、紀元一世紀、ギリシャ文化継承国のバクトリアがあった国際交易都市ガンダーラで作られた最初の仏像は、今に伝わる女の柔肌を持ったふくよかな仏像ではなく、ギリシャ形式の写実的なガリガリのブッタ像だった。ギリシャ仏像は、中国で不老不死を説く道教の神仙思想に対抗して、永遠の生を約束する女の肌の仏像へと変身していた。
その弥勒菩薩の「弥勒」とは、梵語で「マイトレーヤ」だ。光の神を表す「マイトレーヤ」は、その元は、太陽神「ミトラ」だ。
では、そのミトラ神の歴史を消した、聖徳太子建立七寺のひとつである広隆寺は、その後、どうなったのか。それは、古墳時代の奈良盆地にあったイカルガのミトラ教施設の歴史を消した、607年創建の法隆寺が、670年に炎上したように、603年創建の広隆寺(蜂丘寺)は、818年に全焼し、創建当時の建物か残ってはいない。かくして、古墳時代には西国で祀られていたミトラ教は、円仁が始めた広隆寺の牛祭りの魔多羅神により、歴史的に消されてしまった。
仏教支配の西国で、ミトラ教の太陽の化身である牡牛を祀る儀式を、歴史的に消した祭りが、広隆寺の牛祭りの他にある。それは、祇園会だ。今日では、祇園祭と言われている。その祇園会には、牛頭天皇が出演していた。今日では、牛頭天皇を牛頭大王としているが、何故、牛頭が祇園会に登場するのか。
古代日本列島の物流は、中国で「南船北馬」と云われていたように、唐文化のコピーであった平安時代の日本列島の西国では「船」を、東国では「馬」により物流を賄っていた。
その西国での祭りの道具に、山車がある。その山車のルーツは、船だ。京都の祇園祭りの山車は船が祖だ。当然、その祭りの主役は、農耕民族などではなく、海洋民族だ。
京都の都を南北に流れる加茂川の死体が流れ着く東岸に、海洋民族が居住し始めたのは、907年唐帝国が滅び、分裂国家を、960年に統一した宋が興ってからだ。藤原日本史では、数々の陰謀により、摂関政治を発明した藤原氏が、平安朝廷を支配しようとしていた頃だ。
960年五代十国と言われた中国の分裂時代を、宋が統一した。宋は、北魏から唐帝国までの騎馬民族支配の国ではなく、漢民族支配の国だ。宋軍団は歩兵120万と言えども、隣国の騎馬民族国契丹(遼)の騎馬軍団とは太刀打ちできない。そこで、軍事力に劣る宋は、騎馬民族国家の契丹に、金と絹を毎年献納することで、友好関係を結ぶことを考えた。
宋が、その金・絹を海外に求めた結果により、日宋私貿易が興った。金と絹を欲しがる宋は、その供給先のひとつに日本列島を選んだ。それは、古来から、日本列島の部族国家から中国の皇帝に、金や絹を朝貢していたからだ。この金・絹交易で潤ったのは、陸奥国を奈良時代から支配下に置いていた奥州藤原氏だけではなかった。
唐帝国が健在だった頃、陸路のシルクロードにより、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた。しかし、571年サラセン帝国が興ると、その勢いは瞬く間に東西に及んだ。その結果、9世紀中頃には陸路のシルクロードは、安全な交易路ではなくなってしまった。
その陸路のシルクロードに替わって、ヨーロッパとの国際交易は、南インドを中継港として、海路の交易が盛んになった。アラビアンナイトの千夜一夜物語の素材は、そのアラブから唐への海路を行き来した船員がもたらしたものだ。唐帝国末期には、長安や洛陽には、アラブ海洋商人達が闊歩していた。
宋は、唐帝国の海洋交易システムを継承していた。そこで、宋は、銅を金や絹に換える方法を考え出した。それが、宋銭だ。宋は、アラブ商人や日本列島に居住する商人に対して、宋銭による交易を始めた。
銭や為替は、騎馬民族が発明したものだ。広域交易をするには、現物交換では効率が悪い。そこで、物品と等価を保証する「銭」を発明した。更に、銭も量が増えれば運ぶのに困難だ。そこで、信用「札」としての為替を考えた。
日本列島は、西国と東国とでは、民族も異なれば文化も異なる。西国は、弥生時代から水田稲作が盛んだが、東国は直播だった。西国は、弥生からの農耕民が多く住むが、東国は水田稲作ではない、畠作の民族が住んでいた。租庸調の律令税制でも、西国は米を納めていたが、東国では絹・鉄・特産品などだ。
農耕民族は、物々交換が主で、銭による交易には慣れていない。西国では、987年検非違使をして銭貨通用を強制していたほどだ。平安時代の西国では、明らかに銭を嫌っていたのだ。平安末期、その銭を京都に持ち込んだ者がいた。それは、東国の伊勢湾を支配する、アラブ海洋交易民族だ。アラブ海洋交易商人は、宋との交易で得た宋銭を、日本列島に持ち込み、金や絹を買い漁った。
日本列島の経済を支配するには、京都を支配することだ。それは、平安時代から、京都は物流の拠点だからだ。それは、比叡山坂本の馬借や清水寺の車借などにより、近隣の物資が京都に運び込まれていたからだ。
アラブ海洋商人が、京都で住める場所は、ひとつしかない。それは、加茂川の中洲だ。中世の加茂川の中洲を想像するには、現在の加茂川のイメージを消すことだ。中世の加茂川の中洲は、想像する以上に広かった。
加茂川は、元々は、京都のど真ん中を流れていた。それを、高度土木技術を持つ秦氏が、高野川に合流させたのだ。その結果、小雨でも、加茂川下流は洪水を起こした。だから、その中州に住む住人は、唯のひとではなかった。それは、京都を支配する民族と異なる、異民族の河原者だ。
西国と東国とでは、民族が異なるとの根拠のひとつに、頭長幅指数(頭幅÷頭長×100)がある。それによると、日本人は、長頭、中頭、短頭の三群に分けることが出来る。騎馬文化の東国では、長頭が多い。仏教文化の西国では、短頭が多い。南方文化の九州では、中頭が多い。その短頭の比率が最も多いのが、西国でも、近畿だ。
しかし、短頭が多い近畿に、東国に多い長頭の比率が多い地区がある。その地区とは、被差別部落があった地区だ。京都、大阪、兵庫、三重、奈良、和歌山で、全国部落人口の40%を占める。これに続くのが、岡山、広島、福岡、愛媛、高知だ。このことは、何を意味するのか。ひとつの考えとして、秦氏の旧支配地が考えられる。秦氏は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族だ。
日本列島の隣国で短頭が多いのは、朝鮮半島だ。近畿に短頭の比率が多いのは、朝鮮半島からの渡来民が考えられる。朝鮮半島からの大量移民の実態は、663年百済国滅亡時期と、そして、794年亡命百済貴族末裔である桓武天皇が、秦氏の支配地の山背国を乗っ取り、平安京とした時期だ。桓武天皇は、中国山東半島で亡命生活をしていた百済民を、京都に大量移住させた。その結果、秦氏末裔は、山奥の僻地や河原に住むことになった。しかし、平安時代に惟宋氏と変氏した秦氏は、水田稲作の農耕民族ではなく、各種技術者集団だったので、農耕できる土地でなくても暮らす術を知っていた。そこが、中州の河原でも。
平安時代末期、河原者が住むその加茂川の中洲に、アラブ海洋交易商人が現れ、仏教文化の京都で、インドの仏教寺院の「ギオン」にちなんで、そのケガレ地を「ギオン」と名付けた。
古来から中州は、ひとが住めぬ荒地なのではなく、各種物品の交易地でもあったのだ。古代の交易は、神の見守る広場(庭)でおこなわれていた。紀元前14世紀のヒッタイト帝国では、太陽神ミトラは、異民族の交易を見守る「交易神」でもあった。
平安末期の加茂川の中洲も、交易をおこなう人々で人口密度が高かった。そこにアラブの商人が、大量の宋銭を持ち込んだため、加茂川の中洲は、大変な活況を呈していた。藤原日本史が述べるように、賎民として貶められた河原者は、ミジメな存在などではなかった。祇園会の山鉾のペルシャ絨毯で飾った山車を出すのには、相当の資金がいる。その資金を提供した「有徳人」の多くが、中州の交易で財を成した「賎民」だった。
日本各地にあるギオンでは、今でも祭りに山車がでるのは、その地名を付けた民族が、アラブからインドを経由して渡来した海洋民族だったからだ。
藤原日本史では、その海洋民族が名付けた「ギオン」を、「祇園」として、その渡来海洋民族の歴史を消したつもりだ。しかし、ギオン祭りを調べると、不思議なことが現れる。
祇園社の歴史は、11世紀から始まるとする。その祇園社の正式名は、感神院祇園社と言うそうだ。その感神院祇園社は、寺院かつ神社(モリ)だ。つまり、感神院祇園社は神仏習合なのだ。その加茂川東岸にある感神院祇園社の鳥居が、加茂川の西岸にあるのは何故だ。
鳥居は、神の地を印すものではない。鳥居は、「ケガレ」の結界地を示すものだ。つまり、鳥居の中は、ケガレている、禁足地なのだ。感神院祇園社の鳥居が、加茂川の西岸にあるのは、加茂川の東岸が「ケガレ」地であったからだ。
神を祀る中臣神道も仏を祀る仏教も、血の禁忌であるはずだ。つまり、仏教や神道思想では、血は「ケガレ」だ。それなのに、何故、僧侶が主催するとする祇園会では、牛頭が天皇として祀られるのか。
鹿頭は、東国の諏訪や二荒の神社(モリ)では、神の祭壇に掲げられる。それは、その地が、騎馬民族の地であるからだ。日本民族は単一で、騎馬民族や海洋民族など存在しないで、農耕民族であるとする藤原日本史では、その牛頭天皇が出演する祇園会を、疫病払いの祭りとする。
しかし、その祭りの説明が「ウソ」であることは、祇園会の日に、京都の天皇や貴族は、神輿方違(みこしたがえ)といって、京都の街から避難していたのだ。ありがたい神や仏による厄払いが祭りの趣旨であるのならば、この天皇や貴族の行動を、何と説明するのか。
平安時代末期、感神院祇園社は、比叡山延暦寺の支配下にあったが、それ以前は、興福寺の支配下にあった。延暦寺は、亡命百済貴族の寺だが、興福寺は藤原氏の寺だ。感神院祇園社は、神官ではなく、僧侶が神事をおこなう寺であり神社(もり)であった。しかし、長官代理の執行家は、古墳時代の豪族の紀氏の子孫だ。
紀氏は、4世紀に日本列島に突然現れた巨大古墳と大いに関係がある民族だ。紀氏の拠点の和歌山県を流れる紀ノ川河口には、古墳が多数あり、その古墳のひとつから、朝鮮半島南部から発掘されたと同型の馬冑が出土している。紀氏は、馬とも関係が深かった。
だからと言って、騎馬民族は、朝鮮半島から北九州に上陸して、東北に移動したわけではない。東北の騎馬民族は、ユーラシア大陸から、構造船により、日本列島の北陸や東北に直接渡来したのだ。5世紀からの古墳に、北は岩手県南部から南は九州まで、実戦用の馬具が埋葬されているのは、朝鮮半島からだけではなく、ユーラシア大陸から日本列島各地に、騎馬軍団が渡来していたことが示唆される。
実戦用の馬冑が、紀ノ川河口の古墳と関東の古墳からしか出土していないのは、ローマ帝国軍でも、馬冑・馬鎧で武装した重騎馬騎士の軍団比率は、それほど高くはないと考えられるからだ。重騎馬騎士は、云わば、実戦の兵士ではなく、敵を威圧する存在だ。
藤原日本史では、527年新羅と結んだ筑紫国造の磐井氏が反乱を起こしたと述べているが、その磐井氏の墓と言われているものには、石人・石馬が設置されている。3世紀の日本列島には、馬も牛もいなかったことは、中国の史料に記してある。では、その馬や牛は、自ら、玄界灘を泳いで日本列島に来たのか。
平安時代になると、平安貴族は、馬ではなく、牛車に乗って移動していた。聖武天皇の遺品を納めた、奈良の正倉院には、聖武天皇が使用したと考えられる4組の馬具があるのは、奈良時代までは、貴族だけではなく、天皇も乗馬の風習を持っていたことが示唆される。
感神院祇園社の祭事の執行が、馬と関係が深かった紀氏の子孫がおこなっていた意味は、何なのだろう。それは、祇園会の祭りの趣旨と関係があるようだ。
平安時代、疫病は祟りと信じられていた。祟りとは、理不尽な理由で死の旅にたった者が、その原因を作った者に、怨霊となって仕返しをすることだ。そのために、祟られる者は、祟りを封じるために、その怨霊の封印施設を造った。それが、社(モリ)・神社(モリ)だ。古代では、「宮」と異なり、社や神社(モリ)は、神を祀る施設などではなかった。
藤原氏は、出雲民族末裔の菅原道真を大宰府に左遷して抹殺したため、菅原道真の怨霊を恐れ、その菅原道真の怨霊を封じるために北野社を建立した。平安時代の菅原道真は、学問の神様などではなく、平安貴族を悩ます怨霊であったのだ。
怨霊は、同族の者により鎮められる、と信じられていたため、怨霊封じの祭事の執行は、怨霊の主と同じ民族がおこなっていた。紀氏は、秦氏と同族で、その歴史的流れは、朝鮮半島南部、辰韓に求められる。その辰韓の地に、356年奈勿王により、ギリシャ・ローマ文化の新羅が興った。新羅の国では、漢語を理解できなかったので、中国の皇帝との謁見では、百済の通訳を雇っていたほどだ。朝鮮半島で暮らす百済民と新羅民とは、民族も異なれば、文化も異なっていた。
日本列島でも、奈良時代を支配していた民族と、平安時代を支配していた民族とは、異なっていたようだ。それは、古墳時代から奈良時代初期まで詠まれていた「万葉歌」が、平安貴族には訓読できず、そのため理解できなかったからだ。
日本列島の住民が、単一民族であるとすれば、百年や二百年前の「ことば」が理解できないはずはない。このことから、平安時代の貴族は、奈良時代の貴族の末裔ではないことが示唆される。平安時代の貴族の多くは、亡命百済貴族末裔だ。それに対して、奈良時代の貴族は、新羅系天武天皇の末裔だ。
ギリシャ・ローマ文化の古代新羅では、漢語ではなく、漢字アルフアベットで、ヒャンチャル(郷札)という、漢字を表音文字として使っていた。つまり、万葉仮名だ。その古墳時代から奈良時代にかけての万葉歌の歌が読み解かれたのは、鎌倉時代になってからで、学僧である仙覚という人物がすべての歌の訓読を完成した。
奈良時代の万葉歌を理解できない平安王朝の実態は、百済王朝だった。この平安時代の百済王朝により、「日本書記」の仏教伝来552年を改竄するために、538年百済仏教伝来物語が創作された。実際の、組織的仏教伝来は、奈良時代だった。
その百済仏教伝来宣伝キャラクターが、庶民に普及していた「太子信仰」(慈覚大師・弘法大師)を利用した「聖徳太子」というわけだ。だから、奈良時代の史料には、「聖徳太子」の記述がない。そのための「言い訳」として、「聖徳太子」の生前が、「厩戸皇子」だったとしているのだ。
京都の地は、奈良時代までは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏の支配地だった。比叡山も、秦氏の祭祀場だった。奈良盆地の三笠山の秦氏の祭祀場が、奈良時代に藤原氏により春日社が建立されたことで、その秦氏が祀る太陽神ミトラの歴史が消されたように、亡命百済貴族は、平安時代の804年牛屠殺を禁じ、比叡山のミトラ神を宿神である魔多羅神として、その歴史を消してしまった。
しかし、加茂川の河原に住む民族は、その民族宗教の歴史の残像を後世に伝えるため、牛頭天皇を発明した。牛の頭が、祭りの主役であることは、不思議なことだ。しかし、ミトラ教の儀式を知る者には、京都の地は、亡命百済貴族が支配する前、秦氏の支配地であったことは、祇園会の祭事を執行する者が「牛頭を祀る」民族であったことにより理解される。
京都の加茂川の中洲で、交易により財を成すアラブ商人の末裔は、宋銭や買いあさった土地を白河上皇に寄進したため、次の鳥羽上皇の時代、そのアラブ商人の息子は、1132年内昇殿を許されるほど出世した。そのアラブ商人の末裔は、百済系「桓武平氏」に対抗して、一族を「平家」と名乗っていた。
この「平家」による宋交易を苦々しく思っていたのは、南インドから渡来していた藤原氏だけではない。藤原氏は、唐帝国が日本列島を漢訳仏教を思想武器として経営を始めた時期に、南インドを渡来元として現れ、南九州坊津を母港とする祭祀・交易民族だ。藤原氏は、その氏名を「籐氏」と言っていたように、唐帝国と密接な関係を持っていた。630年から始まる遣唐使船の運営は、その藤原氏が関係していた。
その遣唐使の記録が、奈良時代の歴史をカバーする、797年完成の「続日本紀」に完全に記載されていないのは、何故だ。そして、新羅商船は、渡唐で難破することが少ないのに、基本的には四隻で渡唐する遣唐使船は、何故、何隻かは難破するのか。そして、ベトナム沖に漂流した遣唐使船で、藤原氏の関係者だけ生き残って、唐に舞い戻ることが出来たのは何故か。それは、藤原氏は、古来から南インドと九州坊津との南海路を開発していたからだ。日本国の国史といわれる「続日本紀」にその詳しい記述が記録されていない遣唐使船の謎は、謎の多い藤原氏の歴史を知ることにより解明できるはずだ。
藤原氏が、平安中期から台頭したのは、907年に唐帝国が滅亡したからだ。東アジアの警察国家としての唐帝国の国力の衰えと比例して、朝廷での藤原氏の勢力が増大していた。
平安中期になると、唐帝国の軍事力の後ろ盾に護られていた百済系天皇家の土地は、廟堂を支配する藤原氏の策略で、荘園という私有地に侵食されていった。そして、天皇家の繁栄を祈る寺社も、その僧兵の軍事力を背景に、寺社領という私有地を拡大していた。
そこに、宋の商人だけではなく、アラブの商人も、金と絹を求めて日本列島に渡来した。中国との交易は、古来から藤原氏だけではなく、比叡山延暦寺の僧もおこなっていたのだ。延暦寺の僧源信が著わした「往生要集」も、その死に至る描写の生々しさの故、宋にも輸出されていた。
漢訳仏教の元である一世紀に発明された大乗仏教は、ガンダーラの国際交易商人と供に、中国に伝わった。仏教の施設の「寺」(ジ)の前身は、シルクロードから中国に渡来した国際交易商人や僧を取り調べるために造られた建物のことだ。
一般的に、「寺」と言うと、墓が隣接する仏教の施設と思われているようだが、本来は、入国関税事務所のイメージだ。やがて、その入国関税事務所が処理できないほどの国際交易商人や僧が渡来すると、その入国関税事務所に宿泊施設が伴なった。その「寺」(ジ)は、やがて、国際交易商人と渡来僧の宿泊施設となっていった。
国際交易商人と僧は、共生できる。それは、目的が一緒だからだ。未知の「市場」を開拓するため、そのふたりは、「寺」という「砦」を築いて、異民族の国に侵攻していく。
仏教の「寺」の建築物が、堅牢な土塀に囲まれて、更に、深堀を廻らせ、屋根を瓦で被い、境内に大きな鐘を設置し、高層の塔を建てるのは、何故か。平和を祈る仏像を安置するだけであるならば、神社(モリ)のように、木の皮で屋根を葺き、簡単な木の塀でよさそうなものだ。それは、「寺」は、仏像を安置するだけの建物ではなかったからだ。
戦国時代の城は、石組みの上に複数の仏閣を乗せて造られたものだ。瓦は、火矢からの防火となる。大きな鐘は、警報装置だ。高層の塔は、見張り台となる。見方を変えれは、「寺」は、砦なのだ。
中世のその砦には、勿論、国際交易商人がいた。比叡山にも、当然いた。国際交易商人は、中国との交易でもたらした珍しい物品を、寺の門前で販売した。それが、市だ。交易は、神(仏)の見守る処でおこなわれる。その門前の市と対抗するのが、被支配者の河原者が住む中洲の交易地だ。
平安中期以降、907年唐帝国が滅亡したため、京都の警察力も衰えていた。そこで復活登場したのが、賎民と貶められていた、タタラ製鉄、石切り、運河掘削などの高度技術や芸を持った秦氏末裔だ。藤原日本史では、賎民の芸能民の登場とするが、その高度の技術を持つ民族の歴史を語らないし、語れない。
その芸能民の歴史を語れば、騎馬民族が渡来した古墳時代を、仏教文化黎明期の飛鳥時代とし、北九州にあった秦王国の歴史を、奈良盆地の歴史にすり替え、そして、日本国の天皇の始めは672年新羅系天武天皇からなのに、紀元前660年即位の神武天皇から始まる架空の天皇物語を創作していたことが「バレ」てしまうからだ。紀元前660年は、日本列島では、縄文末期だ。そして、その頃の奈良盆地は、一雨降れば、湖となっていた。
その平安時代中期に現れた芸能民の祖とは、明日香ヤマトを支配していた騎馬民族の突厥民族と、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族だ。奈良時代を支配した藤原氏や平安時代を支配した亡命百済貴族が、日本列島の王権の簒奪者であり、賎民と言われた芸能民の祖が、実は、日本列島の王権の流れにあったのだ。だから、平安時代の芸能民は、平安貴族と対等以上の存在だった。その証拠に、芸能民の遊女である「うかれめ」が「局」となり、天皇の子を宿し、その子が、高僧となっていたことは、平安時代末期では珍しいことではなかった。
神社(モリ)は、支配者の王権からみれば、「ケガレ地」だ。しかし、被支配者からみれば、民族の氏神を祀った聖地だ。その「モリ」の語源は、古代朝鮮語で、神が住む処だ。
平安時代初期、その「モリ」では、角のある冑と派手な鎧で着飾った蝦夷末裔が、蕨手刀から改良した片刃の刀により武芸をおこない、怨霊(前政権の神)を鎮めていた。
平安時代初期、まだ唐帝国の警察力が日本列島の西国で健在だったので、武芸者の剣舞を見るために、山背国を追われた被支配者末裔は、聖地の「モリ」に集まることが出来なかった。しかし、唐帝国の警察力が日本列島に存在しない中世では、「モリ」は被支配者の集会所となり、やがて、バザールが開かれる処となっていった。バザールは、広域で暮らす騎馬民族が日をきめて、交易のために集まる祭りだ。この騎馬民族文化のバザールの歴史的流れに、役座が仕切る神社(じんじゃ・明治革命後の呼び名)の祭りの屋台がある。明治革命後、1868年神仏分離令により、怨霊を封じ込める神社(もり)は、氏神を祀る神社(じんじゃ)となった。その神社の祭りを仕切る役座の語源は、鎌倉時代、同業者が集まる「座」での交易を仕切る「顔役」のことだ。
後白河天皇の時代になると、京都の経済を仕切るまでになっていた「平家」は、藤原氏と寺社勢力の交易を脅かす存在となっていた。藤原氏は、その「平家」と、藤原氏の傭兵である「清和源氏」を戦わせることで、「平家」勢力の抹殺を謀った。
それが、1156年保元の乱と、1159年平治の乱だ。「平家」も「清和源氏」もその血族が互いに敵味方になった不可思議な戦いで、藤原氏の意に反して、平清盛に勢力が集中してしまった。武力の頂点に立った平清盛は、更に宋との交易を盛んにするため、福原に国際港を建設した。古来から南海交易をおこなっていた藤原氏は、その「平家」の宋交易独占を許すわけにはいかなかった。
ここでひとつの疑問が湧く。それは、三代先に、死体が流れ着く髑髏ヶ原と呼ばれていたケガレ地の加茂川東岸に勢力を張っていたアラブ系海洋民族の子孫である平清盛が、1167年太政大臣となり、廟堂を支配したことを誰も非難しなかったのか、と言うことだ。
祇園会を「ケガレ祭り」として避ける天皇や平安貴族が、その祇園に居を構えている「平家」の棟梁に対して、嫌悪の態度を示さなかったほど、平安貴族は寛容だったのか。貴族から、賎民の成り上がり者との避難をかわすために、平清盛側は、「平清盛は白河天皇の落胤」との噂を流し、更に、「清盛公のかぶら」を市中に放ち、平清盛の悪口を言った者の家に押しかけ、その家を打ち壊して、批判者の口を封じていた。この「清盛公のかぶら」の活躍により、誰も、平清盛の陰口を言うものがいなくなった。
古代日本列島の物流は、中国で「南船北馬」と云われていたように、唐文化のコピーであった平安時代の日本列島の西国では「船」を、東国では「馬」により物流を賄っていた。
その西国での祭りの道具に、山車がある。その山車のルーツは、船だ。京都の祇園祭りの山車は船が祖だ。当然、その祭りの主役は、農耕民族などではなく、海洋民族だ。
京都の都を南北に流れる加茂川の死体が流れ着く東岸に、海洋民族が居住し始めたのは、907年唐帝国が滅び、分裂国家を、960年に統一した宋が興ってからだ。藤原日本史では、数々の陰謀により、摂関政治を発明した藤原氏が、平安朝廷を支配しようとしていた頃だ。
960年五代十国と言われた中国の分裂時代を、宋が統一した。宋は、北魏から唐帝国までの騎馬民族支配の国ではなく、漢民族支配の国だ。宋軍団は歩兵120万と言えども、隣国の騎馬民族国契丹(遼)の騎馬軍団とは太刀打ちできない。そこで、軍事力に劣る宋は、騎馬民族国家の契丹に、金と絹を毎年献納することで、友好関係を結ぶことを考えた。
宋が、その金・絹を海外に求めた結果により、日宋私貿易が興った。金と絹を欲しがる宋は、その供給先のひとつに日本列島を選んだ。それは、古来から、日本列島の部族国家から中国の皇帝に、金や絹を朝貢していたからだ。この金・絹交易で潤ったのは、陸奥国を奈良時代から支配下に置いていた奥州藤原氏だけではなかった。
唐帝国が健在だった頃、陸路のシルクロードにより、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた。しかし、571年サラセン帝国が興ると、その勢いは瞬く間に東西に及んだ。その結果、9世紀中頃には陸路のシルクロードは、安全な交易路ではなくなってしまった。
その陸路のシルクロードに替わって、ヨーロッパとの国際交易は、南インドを中継港として、海路の交易が盛んになった。アラビアンナイトの千夜一夜物語の素材は、そのアラブから唐への海路を行き来した船員がもたらしたものだ。唐帝国末期には、長安や洛陽には、アラブ海洋商人達が闊歩していた。
宋は、唐帝国の海洋交易システムを継承していた。そこで、宋は、銅を金や絹に換える方法を考え出した。それが、宋銭だ。宋は、アラブ商人や日本列島に居住する商人に対して、宋銭による交易を始めた。
銭や為替は、騎馬民族が発明したものだ。広域交易をするには、現物交換では効率が悪い。そこで、物品と等価を保証する「銭」を発明した。更に、銭も量が増えれば運ぶのに困難だ。そこで、信用「札」としての為替を考えた。
日本列島は、西国と東国とでは、民族も異なれば文化も異なる。西国は、弥生時代から水田稲作が盛んだが、東国は直播だった。西国は、弥生からの農耕民が多く住むが、東国は水田稲作ではない、畠作の民族が住んでいた。租庸調の律令税制でも、西国は米を納めていたが、東国では絹・鉄・特産品などだ。
農耕民族は、物々交換が主で、銭による交易には慣れていない。西国では、987年検非違使をして銭貨通用を強制していたほどだ。平安時代の西国では、明らかに銭を嫌っていたのだ。平安末期、その銭を京都に持ち込んだ者がいた。それは、東国の伊勢湾を支配する、アラブ海洋交易民族だ。アラブ海洋交易商人は、宋との交易で得た宋銭を、日本列島に持ち込み、金や絹を買い漁った。
日本列島の経済を支配するには、京都を支配することだ。それは、平安時代から、京都は物流の拠点だからだ。それは、比叡山坂本の馬借や清水寺の車借などにより、近隣の物資が京都に運び込まれていたからだ。
アラブ海洋商人が、京都で住める場所は、ひとつしかない。それは、加茂川の中洲だ。中世の加茂川の中洲を想像するには、現在の加茂川のイメージを消すことだ。中世の加茂川の中洲は、想像する以上に広かった。
加茂川は、元々は、京都のど真ん中を流れていた。それを、高度土木技術を持つ秦氏が、高野川に合流させたのだ。その結果、小雨でも、加茂川下流は洪水を起こした。だから、その中州に住む住人は、唯のひとではなかった。それは、京都を支配する民族と異なる、異民族の河原者だ。
西国と東国とでは、民族が異なるとの根拠のひとつに、頭長幅指数(頭幅÷頭長×100)がある。それによると、日本人は、長頭、中頭、短頭の三群に分けることが出来る。騎馬文化の東国では、長頭が多い。仏教文化の西国では、短頭が多い。南方文化の九州では、中頭が多い。その短頭の比率が最も多いのが、西国でも、近畿だ。
しかし、短頭が多い近畿に、東国に多い長頭の比率が多い地区がある。その地区とは、被差別部落があった地区だ。京都、大阪、兵庫、三重、奈良、和歌山で、全国部落人口の40%を占める。これに続くのが、岡山、広島、福岡、愛媛、高知だ。このことは、何を意味するのか。ひとつの考えとして、秦氏の旧支配地が考えられる。秦氏は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族だ。
日本列島の隣国で短頭が多いのは、朝鮮半島だ。近畿に短頭の比率が多いのは、朝鮮半島からの渡来民が考えられる。朝鮮半島からの大量移民の実態は、663年百済国滅亡時期と、そして、794年亡命百済貴族末裔である桓武天皇が、秦氏の支配地の山背国を乗っ取り、平安京とした時期だ。桓武天皇は、中国山東半島で亡命生活をしていた百済民を、京都に大量移住させた。その結果、秦氏末裔は、山奥の僻地や河原に住むことになった。しかし、平安時代に惟宋氏と変氏した秦氏は、水田稲作の農耕民族ではなく、各種技術者集団だったので、農耕できる土地でなくても暮らす術を知っていた。そこが、中州の河原でも。
平安時代末期、河原者が住むその加茂川の中洲に、アラブ海洋交易商人が現れ、仏教文化の京都で、インドの仏教寺院の「ギオン」にちなんで、そのケガレ地を「ギオン」と名付けた。
古来から中州は、ひとが住めぬ荒地なのではなく、各種物品の交易地でもあったのだ。古代の交易は、神の見守る広場(庭)でおこなわれていた。紀元前14世紀のヒッタイト帝国では、太陽神ミトラは、異民族の交易を見守る「交易神」でもあった。
平安末期の加茂川の中洲も、交易をおこなう人々で人口密度が高かった。そこにアラブの商人が、大量の宋銭を持ち込んだため、加茂川の中洲は、大変な活況を呈していた。藤原日本史が述べるように、賎民として貶められた河原者は、ミジメな存在などではなかった。祇園会の山鉾のペルシャ絨毯で飾った山車を出すのには、相当の資金がいる。その資金を提供した「有徳人」の多くが、中州の交易で財を成した「賎民」だった。
日本各地にあるギオンでは、今でも祭りに山車がでるのは、その地名を付けた民族が、アラブからインドを経由して渡来した海洋民族だったからだ。
藤原日本史では、その海洋民族が名付けた「ギオン」を、「祇園」として、その渡来海洋民族の歴史を消したつもりだ。しかし、ギオン祭りを調べると、不思議なことが現れる。
祇園社の歴史は、11世紀から始まるとする。その祇園社の正式名は、感神院祇園社と言うそうだ。その感神院祇園社は、寺院かつ神社(モリ)だ。つまり、感神院祇園社は神仏習合なのだ。その加茂川東岸にある感神院祇園社の鳥居が、加茂川の西岸にあるのは何故だ。
鳥居は、神の地を印すものではない。鳥居は、「ケガレ」の結界地を示すものだ。つまり、鳥居の中は、ケガレている、禁足地なのだ。感神院祇園社の鳥居が、加茂川の西岸にあるのは、加茂川の東岸が「ケガレ」地であったからだ。
神を祀る中臣神道も仏を祀る仏教も、血の禁忌であるはずだ。つまり、仏教や神道思想では、血は「ケガレ」だ。それなのに、何故、僧侶が主催するとする祇園会では、牛頭が天皇として祀られるのか。
鹿頭は、東国の諏訪や二荒の神社(モリ)では、神の祭壇に掲げられる。それは、その地が、騎馬民族の地であるからだ。日本民族は単一で、騎馬民族や海洋民族など存在しないで、農耕民族であるとする藤原日本史では、その牛頭天皇が出演する祇園会を、疫病払いの祭りとする。
しかし、その祭りの説明が「ウソ」であることは、祇園会の日に、京都の天皇や貴族は、神輿方違(みこしたがえ)といって、京都の街から避難していたのだ。ありがたい神や仏による厄払いが祭りの趣旨であるのならば、この天皇や貴族の行動を、何と説明するのか。
平安時代末期、感神院祇園社は、比叡山延暦寺の支配下にあったが、それ以前は、興福寺の支配下にあった。延暦寺は、亡命百済貴族の寺だが、興福寺は藤原氏の寺だ。感神院祇園社は、神官ではなく、僧侶が神事をおこなう寺であり神社(もり)であった。しかし、長官代理の執行家は、古墳時代の豪族の紀氏の子孫だ。
紀氏は、4世紀に日本列島に突然現れた巨大古墳と大いに関係がある民族だ。紀氏の拠点の和歌山県を流れる紀ノ川河口には、古墳が多数あり、その古墳のひとつから、朝鮮半島南部から発掘されたと同型の馬冑が出土している。紀氏は、馬とも関係が深かった。
だからと言って、騎馬民族は、朝鮮半島から北九州に上陸して、東北に移動したわけではない。東北の騎馬民族は、ユーラシア大陸から、構造船により、日本列島の北陸や東北に直接渡来したのだ。5世紀からの古墳に、北は岩手県南部から南は九州まで、実戦用の馬具が埋葬されているのは、朝鮮半島からだけではなく、ユーラシア大陸から日本列島各地に、騎馬軍団が渡来していたことが示唆される。
実戦用の馬冑が、紀ノ川河口の古墳と関東の古墳からしか出土していないのは、ローマ帝国軍でも、馬冑・馬鎧で武装した重騎馬騎士の軍団比率は、それほど高くはないと考えられるからだ。重騎馬騎士は、云わば、実戦の兵士ではなく、敵を威圧する存在だ。
藤原日本史では、527年新羅と結んだ筑紫国造の磐井氏が反乱を起こしたと述べているが、その磐井氏の墓と言われているものには、石人・石馬が設置されている。3世紀の日本列島には、馬も牛もいなかったことは、中国の史料に記してある。では、その馬や牛は、自ら、玄界灘を泳いで日本列島に来たのか。
平安時代になると、平安貴族は、馬ではなく、牛車に乗って移動していた。聖武天皇の遺品を納めた、奈良の正倉院には、聖武天皇が使用したと考えられる4組の馬具があるのは、奈良時代までは、貴族だけではなく、天皇も乗馬の風習を持っていたことが示唆される。
感神院祇園社の祭事の執行が、馬と関係が深かった紀氏の子孫がおこなっていた意味は、何なのだろう。それは、祇園会の祭りの趣旨と関係があるようだ。
平安時代、疫病は祟りと信じられていた。祟りとは、理不尽な理由で死の旅にたった者が、その原因を作った者に、怨霊となって仕返しをすることだ。そのために、祟られる者は、祟りを封じるために、その怨霊の封印施設を造った。それが、社(モリ)・神社(モリ)だ。古代では、「宮」と異なり、社や神社(モリ)は、神を祀る施設などではなかった。
藤原氏は、出雲民族末裔の菅原道真を大宰府に左遷して抹殺したため、菅原道真の怨霊を恐れ、その菅原道真の怨霊を封じるために北野社を建立した。平安時代の菅原道真は、学問の神様などではなく、平安貴族を悩ます怨霊であったのだ。
怨霊は、同族の者により鎮められる、と信じられていたため、怨霊封じの祭事の執行は、怨霊の主と同じ民族がおこなっていた。紀氏は、秦氏と同族で、その歴史的流れは、朝鮮半島南部、辰韓に求められる。その辰韓の地に、356年奈勿王により、ギリシャ・ローマ文化の新羅が興った。新羅の国では、漢語を理解できなかったので、中国の皇帝との謁見では、百済の通訳を雇っていたほどだ。朝鮮半島で暮らす百済民と新羅民とは、民族も異なれば、文化も異なっていた。
日本列島でも、奈良時代を支配していた民族と、平安時代を支配していた民族とは、異なっていたようだ。それは、古墳時代から奈良時代初期まで詠まれていた「万葉歌」が、平安貴族には訓読できず、そのため理解できなかったからだ。
日本列島の住民が、単一民族であるとすれば、百年や二百年前の「ことば」が理解できないはずはない。このことから、平安時代の貴族は、奈良時代の貴族の末裔ではないことが示唆される。平安時代の貴族の多くは、亡命百済貴族末裔だ。それに対して、奈良時代の貴族は、新羅系天武天皇の末裔だ。
ギリシャ・ローマ文化の古代新羅では、漢語ではなく、漢字アルフアベットで、ヒャンチャル(郷札)という、漢字を表音文字として使っていた。つまり、万葉仮名だ。その古墳時代から奈良時代にかけての万葉歌の歌が読み解かれたのは、鎌倉時代になってからで、学僧である仙覚という人物がすべての歌の訓読を完成した。
奈良時代の万葉歌を理解できない平安王朝の実態は、百済王朝だった。この平安時代の百済王朝により、「日本書記」の仏教伝来552年を改竄するために、538年百済仏教伝来物語が創作された。実際の、組織的仏教伝来は、奈良時代だった。
その百済仏教伝来宣伝キャラクターが、庶民に普及していた「太子信仰」(慈覚大師・弘法大師)を利用した「聖徳太子」というわけだ。だから、奈良時代の史料には、「聖徳太子」の記述がない。そのための「言い訳」として、「聖徳太子」の生前が、「厩戸皇子」だったとしているのだ。
京都の地は、奈良時代までは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏の支配地だった。比叡山も、秦氏の祭祀場だった。奈良盆地の三笠山の秦氏の祭祀場が、奈良時代に藤原氏により春日社が建立されたことで、その秦氏が祀る太陽神ミトラの歴史が消されたように、亡命百済貴族は、平安時代の804年牛屠殺を禁じ、比叡山のミトラ神を宿神である魔多羅神として、その歴史を消してしまった。
しかし、加茂川の河原に住む民族は、その民族宗教の歴史の残像を後世に伝えるため、牛頭天皇を発明した。牛の頭が、祭りの主役であることは、不思議なことだ。しかし、ミトラ教の儀式を知る者には、京都の地は、亡命百済貴族が支配する前、秦氏の支配地であったことは、祇園会の祭事を執行する者が「牛頭を祀る」民族であったことにより理解される。
京都の加茂川の中洲で、交易により財を成すアラブ商人の末裔は、宋銭や買いあさった土地を白河上皇に寄進したため、次の鳥羽上皇の時代、そのアラブ商人の息子は、1132年内昇殿を許されるほど出世した。そのアラブ商人の末裔は、百済系「桓武平氏」に対抗して、一族を「平家」と名乗っていた。
この「平家」による宋交易を苦々しく思っていたのは、南インドから渡来していた藤原氏だけではない。藤原氏は、唐帝国が日本列島を漢訳仏教を思想武器として経営を始めた時期に、南インドを渡来元として現れ、南九州坊津を母港とする祭祀・交易民族だ。藤原氏は、その氏名を「籐氏」と言っていたように、唐帝国と密接な関係を持っていた。630年から始まる遣唐使船の運営は、その藤原氏が関係していた。
その遣唐使の記録が、奈良時代の歴史をカバーする、797年完成の「続日本紀」に完全に記載されていないのは、何故だ。そして、新羅商船は、渡唐で難破することが少ないのに、基本的には四隻で渡唐する遣唐使船は、何故、何隻かは難破するのか。そして、ベトナム沖に漂流した遣唐使船で、藤原氏の関係者だけ生き残って、唐に舞い戻ることが出来たのは何故か。それは、藤原氏は、古来から南インドと九州坊津との南海路を開発していたからだ。日本国の国史といわれる「続日本紀」にその詳しい記述が記録されていない遣唐使船の謎は、謎の多い藤原氏の歴史を知ることにより解明できるはずだ。
藤原氏が、平安中期から台頭したのは、907年に唐帝国が滅亡したからだ。東アジアの警察国家としての唐帝国の国力の衰えと比例して、朝廷での藤原氏の勢力が増大していた。
平安中期になると、唐帝国の軍事力の後ろ盾に護られていた百済系天皇家の土地は、廟堂を支配する藤原氏の策略で、荘園という私有地に侵食されていった。そして、天皇家の繁栄を祈る寺社も、その僧兵の軍事力を背景に、寺社領という私有地を拡大していた。
そこに、宋の商人だけではなく、アラブの商人も、金と絹を求めて日本列島に渡来した。中国との交易は、古来から藤原氏だけではなく、比叡山延暦寺の僧もおこなっていたのだ。延暦寺の僧源信が著わした「往生要集」も、その死に至る描写の生々しさの故、宋にも輸出されていた。
漢訳仏教の元である一世紀に発明された大乗仏教は、ガンダーラの国際交易商人と供に、中国に伝わった。仏教の施設の「寺」(ジ)の前身は、シルクロードから中国に渡来した国際交易商人や僧を取り調べるために造られた建物のことだ。
一般的に、「寺」と言うと、墓が隣接する仏教の施設と思われているようだが、本来は、入国関税事務所のイメージだ。やがて、その入国関税事務所が処理できないほどの国際交易商人や僧が渡来すると、その入国関税事務所に宿泊施設が伴なった。その「寺」(ジ)は、やがて、国際交易商人と渡来僧の宿泊施設となっていった。
国際交易商人と僧は、共生できる。それは、目的が一緒だからだ。未知の「市場」を開拓するため、そのふたりは、「寺」という「砦」を築いて、異民族の国に侵攻していく。
仏教の「寺」の建築物が、堅牢な土塀に囲まれて、更に、深堀を廻らせ、屋根を瓦で被い、境内に大きな鐘を設置し、高層の塔を建てるのは、何故か。平和を祈る仏像を安置するだけであるならば、神社(モリ)のように、木の皮で屋根を葺き、簡単な木の塀でよさそうなものだ。それは、「寺」は、仏像を安置するだけの建物ではなかったからだ。
戦国時代の城は、石組みの上に複数の仏閣を乗せて造られたものだ。瓦は、火矢からの防火となる。大きな鐘は、警報装置だ。高層の塔は、見張り台となる。見方を変えれは、「寺」は、砦なのだ。
中世のその砦には、勿論、国際交易商人がいた。比叡山にも、当然いた。国際交易商人は、中国との交易でもたらした珍しい物品を、寺の門前で販売した。それが、市だ。交易は、神(仏)の見守る処でおこなわれる。その門前の市と対抗するのが、被支配者の河原者が住む中洲の交易地だ。
平安中期以降、907年唐帝国が滅亡したため、京都の警察力も衰えていた。そこで復活登場したのが、賎民と貶められていた、タタラ製鉄、石切り、運河掘削などの高度技術や芸を持った秦氏末裔だ。藤原日本史では、賎民の芸能民の登場とするが、その高度の技術を持つ民族の歴史を語らないし、語れない。
その芸能民の歴史を語れば、騎馬民族が渡来した古墳時代を、仏教文化黎明期の飛鳥時代とし、北九州にあった秦王国の歴史を、奈良盆地の歴史にすり替え、そして、日本国の天皇の始めは672年新羅系天武天皇からなのに、紀元前660年即位の神武天皇から始まる架空の天皇物語を創作していたことが「バレ」てしまうからだ。紀元前660年は、日本列島では、縄文末期だ。そして、その頃の奈良盆地は、一雨降れば、湖となっていた。
その平安時代中期に現れた芸能民の祖とは、明日香ヤマトを支配していた騎馬民族の突厥民族と、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族だ。奈良時代を支配した藤原氏や平安時代を支配した亡命百済貴族が、日本列島の王権の簒奪者であり、賎民と言われた芸能民の祖が、実は、日本列島の王権の流れにあったのだ。だから、平安時代の芸能民は、平安貴族と対等以上の存在だった。その証拠に、芸能民の遊女である「うかれめ」が「局」となり、天皇の子を宿し、その子が、高僧となっていたことは、平安時代末期では珍しいことではなかった。
神社(モリ)は、支配者の王権からみれば、「ケガレ地」だ。しかし、被支配者からみれば、民族の氏神を祀った聖地だ。その「モリ」の語源は、古代朝鮮語で、神が住む処だ。
平安時代初期、その「モリ」では、角のある冑と派手な鎧で着飾った蝦夷末裔が、蕨手刀から改良した片刃の刀により武芸をおこない、怨霊(前政権の神)を鎮めていた。
平安時代初期、まだ唐帝国の警察力が日本列島の西国で健在だったので、武芸者の剣舞を見るために、山背国を追われた被支配者末裔は、聖地の「モリ」に集まることが出来なかった。しかし、唐帝国の警察力が日本列島に存在しない中世では、「モリ」は被支配者の集会所となり、やがて、バザールが開かれる処となっていった。バザールは、広域で暮らす騎馬民族が日をきめて、交易のために集まる祭りだ。この騎馬民族文化のバザールの歴史的流れに、役座が仕切る神社(じんじゃ・明治革命後の呼び名)の祭りの屋台がある。明治革命後、1868年神仏分離令により、怨霊を封じ込める神社(もり)は、氏神を祀る神社(じんじゃ)となった。その神社の祭りを仕切る役座の語源は、鎌倉時代、同業者が集まる「座」での交易を仕切る「顔役」のことだ。
後白河天皇の時代になると、京都の経済を仕切るまでになっていた「平家」は、藤原氏と寺社勢力の交易を脅かす存在となっていた。藤原氏は、その「平家」と、藤原氏の傭兵である「清和源氏」を戦わせることで、「平家」勢力の抹殺を謀った。
それが、1156年保元の乱と、1159年平治の乱だ。「平家」も「清和源氏」もその血族が互いに敵味方になった不可思議な戦いで、藤原氏の意に反して、平清盛に勢力が集中してしまった。武力の頂点に立った平清盛は、更に宋との交易を盛んにするため、福原に国際港を建設した。古来から南海交易をおこなっていた藤原氏は、その「平家」の宋交易独占を許すわけにはいかなかった。
ここでひとつの疑問が湧く。それは、三代先に、死体が流れ着く髑髏ヶ原と呼ばれていたケガレ地の加茂川東岸に勢力を張っていたアラブ系海洋民族の子孫である平清盛が、1167年太政大臣となり、廟堂を支配したことを誰も非難しなかったのか、と言うことだ。
祇園会を「ケガレ祭り」として避ける天皇や平安貴族が、その祇園に居を構えている「平家」の棟梁に対して、嫌悪の態度を示さなかったほど、平安貴族は寛容だったのか。貴族から、賎民の成り上がり者との避難をかわすために、平清盛側は、「平清盛は白河天皇の落胤」との噂を流し、更に、「清盛公のかぶら」を市中に放ち、平清盛の悪口を言った者の家に押しかけ、その家を打ち壊して、批判者の口を封じていた。この「清盛公のかぶら」の活躍により、誰も、平清盛の陰口を言うものがいなくなった。
この「清盛公のかぶら」作戦は、明治天皇誕生にも使われた。イギリス東インド会社のエージェントに画策された明治革命で、九州に隠棲していた藤原氏は復活した。復活した藤原氏は、奈良時代に藤原不比等が発明した「現御神」の天皇を、「現人神」として復活させた。
その「現人神」の天皇が、藤原氏が提出した書類に、天皇印を押した瞬間、藤原氏の作文は、誰も否定することができない「神の書類」に変身してしまうのだ。藤原不比等が発明した「現御神」の天皇は、日本国民の為に存在するのではなく、藤原氏一族のための武器なのだ。
1867年孝明天皇が暗殺される。その第二皇子が即位する。孝明天皇と藤原慶子とに生まれた明治天皇が、実は、長州藩により摩り替えられていた。このことを知っている人物の口封じのために、「清盛公のかぶら」として「役座」が利用された。
役座の無言の威圧により、歴史学者も誰も、明治天皇のすり替えを公に指摘できなかった。「明治天皇のかぶら」である役座は、明治時代初期、裏社会の治安警察として働いていたのだ。現在の刑事用語と役座用語とに、共通用語が多くあるのは、そのためだ。
明治が遠くなった平成では、用済みの役座は、暴力団のレッテルを貼られ、現代の賎民扱いとなってしまった。しかし、役座は、明治時代初期までは、日本国の治安を裏で支えていたのだ。
1868年神仏分離令後、神社(もり)を神社(じんじゃ)として、僧侶ではなく、神主によるお祭りが政府主導で開催された。それ以前の祭りは、神仏習合の神宮寺で、神主ではなく、僧侶により執り行われていた。
その明治革命以後の神社(じんじゃ)での祭りは、現人神天皇を「父」とし、国民を「子」として、日本列島を統治するための、藤原氏の戦略であった。全国一斉に、氏神を現人神天皇として、地域の住民を氏子としてお祭りが開催された。その神輿や山車のパレードでの警備責任者は、役座の親分だった。
江戸時代、相撲は勧進相撲と言われていたように、寺や道路を普請するために寄付を募るための興行だった。その地方興行を仕切ったのは、地方の役座の親分だった。江戸時代の相撲は、スポーツというよりも、芝居に近かった。プロレスにシナリオがあるように、その主催地の出身力士が勝つことにより、寄付金が多く集まるからだ。現在の相撲興行も、地方巡業主催者のことを、勧進元というのは、江戸時代からの興行システムが、現在でも生きているからだ。
その「現人神」の天皇が、藤原氏が提出した書類に、天皇印を押した瞬間、藤原氏の作文は、誰も否定することができない「神の書類」に変身してしまうのだ。藤原不比等が発明した「現御神」の天皇は、日本国民の為に存在するのではなく、藤原氏一族のための武器なのだ。
1867年孝明天皇が暗殺される。その第二皇子が即位する。孝明天皇と藤原慶子とに生まれた明治天皇が、実は、長州藩により摩り替えられていた。このことを知っている人物の口封じのために、「清盛公のかぶら」として「役座」が利用された。
役座の無言の威圧により、歴史学者も誰も、明治天皇のすり替えを公に指摘できなかった。「明治天皇のかぶら」である役座は、明治時代初期、裏社会の治安警察として働いていたのだ。現在の刑事用語と役座用語とに、共通用語が多くあるのは、そのためだ。
明治が遠くなった平成では、用済みの役座は、暴力団のレッテルを貼られ、現代の賎民扱いとなってしまった。しかし、役座は、明治時代初期までは、日本国の治安を裏で支えていたのだ。
1868年神仏分離令後、神社(もり)を神社(じんじゃ)として、僧侶ではなく、神主によるお祭りが政府主導で開催された。それ以前の祭りは、神仏習合の神宮寺で、神主ではなく、僧侶により執り行われていた。
その明治革命以後の神社(じんじゃ)での祭りは、現人神天皇を「父」とし、国民を「子」として、日本列島を統治するための、藤原氏の戦略であった。全国一斉に、氏神を現人神天皇として、地域の住民を氏子としてお祭りが開催された。その神輿や山車のパレードでの警備責任者は、役座の親分だった。
江戸時代、相撲は勧進相撲と言われていたように、寺や道路を普請するために寄付を募るための興行だった。その地方興行を仕切ったのは、地方の役座の親分だった。江戸時代の相撲は、スポーツというよりも、芝居に近かった。プロレスにシナリオがあるように、その主催地の出身力士が勝つことにより、寄付金が多く集まるからだ。現在の相撲興行も、地方巡業主催者のことを、勧進元というのは、江戸時代からの興行システムが、現在でも生きているからだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿