四方赤良 ・・・四方赤良の余談集2 ・・・『其之 63』H17.12.1~H18.1.1
私こと小僧丸・・・小笠原貞慶のこと
天文14年(1545)私こと小僧丸は、大膳大夫信濃守 小笠原長時の3男として生まれました。林の御館(松本市)という山城の麓にある屋敷に暮らし、私には守護の息子として前途洋々の人生が待っていました。しかし、私が5歳の天文19年(1550)、父長時が宿敵 甲斐国の武田信玄に塩尻嶺の合戦で大破し、次々と城が落とされ、生まれ育った林の御館を離れることになりました。馬にゆられて梓川に沿った長い道中を進み、二木豊後守が籠もる中塔城(旧梓川村)に兄や叔父達と入りました。父はそこで武田信玄に徹底抗戦していましたが、それまで従っていた者達が次々と裏切り、無念から切腹しようとしましたが二木に止められ、剃髪して湖雲斎と名乗り、天文21年(1552)大晦日、中塔城を捨てて、北信濃の高梨殿を頼って草間(中野市)へ行きました。そもそも武田は小笠原家とは同族であるのに、何故これほど争わなければならないのでしょうか。「鎌倉の時代、逸見源太清光の2男武田信義と3男の小笠原遠光は兄弟。お互いに甲斐守護と信濃守護を朝廷から受け、累代別々にこれらの地を治めてきた。」と、父は常々口にしていました。・・・天文23年(1554)父は領土回復をあきらめず、弟の小笠原信定殿が武田と戦っている伊那郡の鈴岡城(飯田市)へ向かいました。私達は危険であると言われ、高梨殿を通じて上杉謙信殿の春日城下(上越市)で暮らすことになりました。上杉殿は私達のためにしきりに信濃へ出兵されて武田と戦い、母はいつも感謝の気持ちを忘れてはなりませんと私に言っていました。ある時、父のいる鈴岡が落ちたと知らせがありました。父は三河を経て伊勢国の外宮御師を務める榎倉武国殿という方に厄介になっているとの便りがあり、無事で安堵しました。・・・弘治元年(1555)父が同族である三好長慶という方を頼って、都で落ち着いたとの知らせがあり、私達も向かうことになりました。長慶殿は近畿一帯の覇者で、私達はその領土内の摂津国芥川城下(大阪府)で生活することになりました。父は100貫の領地をもらって、三好家や将軍足利義輝さまに弓馬の師範をしていました。・・・それから3年後の永禄元年(1558)、私は元服して名を小笠原喜三郎と改めました。時折、信濃において上杉殿と武田が激しく争っているとの話が耳に入ってきましたが、生まれ故郷に帰れる日はまだ遠そうでした。父はまだ諦めていないようでしたが、私はすっかり都の生活が気に入ってきました。そしてまもなく、父から秘伝の小笠原礼法を伝授され、私も公家や各地の武将との交流が増えてきました。そんな折、ご縁で日野大納言様の息女を嫁に迎えることになり、幸福に暮らしていました。しかし、都での生活が10年も経とうとした永禄7年(1564)、三好長慶殿が死亡し、我々は家臣であった松永久秀の下に置かれることになりました。彼は足利義輝さまを殺害したり、東大寺を焼くなどし、三好一党内は混乱していました。そのような中で、永禄11年(1568)昨今著しく勢力を広げてきた尾張国の織田信長という者が軍勢を率いて入京してきました。私は三好義継殿に従って桂川で初めての合戦に臨みましたが、叔父の小笠原信定殿が討ち死にするなどして破れ、芥川城も落ちました。母は織田方へ捕らえられ、私は父や叔父の貞種殿などと共に多聞山城(奈良県)に立て籠もりました。しかし、これ以上戦っても勝ち目はなく、三好義継殿や松永久秀殿も織田殿へ従ったので、我々も降伏しました。私は子も生まれ、妻の実家である日野殿とのご縁もあるので京都に留まり、父から伝授された礼法を織田の各将などへ師範していました。そんなこともあって、私は信長殿を通じて従5位下右近大夫という栄誉に叙位されました。・・・それから4年後の天正元年(1573)、武田信玄が死んだとの知らせが私と父のもとに届きました。このことに父がどれほど喜んだことか、父は思案の末、織田殿との縁を私に任せ、自身は深志を取りもどすために再び上杉謙信殿を頼って、越後へ向かいました。既に50も過ぎていたので、あちらで無理をしないかと心配でしたが、上杉殿は父を賓客として500貫もの領地を与えてくださいました。越後での父は、越中国や関東まで出かけて反武田の工作をし、私は織田殿が信濃へ出兵してくださるように嘆願し続けました。そんなかいもあって、天正3年(1575)三河の長篠で武田軍が織田殿に大破し、いよいよもって深志へ帰れる日が近づいてきたように感じられました。しかし織田殿はすぐには信濃へ出兵せず、ただ待つ日が続きました。・・・天正6年(1578)、上杉謙信殿が突然死亡しました。そして、その跡継ぎを巡って争いが起こり、宿敵武田の影響力が上杉家まで及んできたので、父は越後に居られなくなり、天正7年(1579)会津国の芦名盛氏殿を頼っていくことになったと知らせがきました。父は星味庵という場所で暮らしていましたが、しばらくすると私を都から呼び出しました。6年ぶりに父と再会しました。父は70近くになり、随分年をとったと感じました。父は私に家督を譲ると言い、400年続く小笠原家の家宝や旗印を与えられました。そして私は、名を小笠原貞慶と変えました。・・・天正10年(1582)3月、織田殿の軍がいよいよ信濃へ進軍しているとの急報が会津に届きました。かねて織田殿から「信濃へ出兵せよ」との催促があったので、私は父を会津に残し、さっそく譜代の者を引き連れて30年ぶりに信濃へ出陣しました。上杉と武田は同盟していたので、越後口からの入国は厳しく、飛騨国まで迂回してようやく安曇郡の金松寺へ入ることができました。しかし、既に武田家はことごとく滅び、深志一帯は織田軍に制圧されていました。さっそく上諏訪の法華寺に滞陣していた信長殿へご挨拶に出かけたのですが、何故かお目通りが叶わず、さらに深志は木曽義昌へ与えられたことを知って大変落胆しました。しかたなく妻と子がいる都へ戻り、父に合わす顔もないので酒びたりの生活をしていましたが、7月の夜都で騒ぎがあり、信長殿が本能寺で討れました。誰もがその後継を巡って大きな戦が起こると言っており、私はこの機会にかねてから懇意にしていた徳川家康殿を頼って三河へ行くことにしました。・・・岡崎城(愛知県)に着くと、信濃進出を狙う徳川殿は私を喜んで迎えてくれました。家来の石川数正殿へ私の世話を命じられ、「既に深志の木曽義昌は上杉軍(景勝)に攻撃されて逃げ去り、上杉軍に担ぎ上げられた叔父の小笠原貞種殿が治めている」と、話してくださいました。徳川殿の勧めもあって出兵の準備をしていると、有賀と平澤という者が、二木一族と征矢野の書状を持って私のところへやってきました。二木は私に「深志へ来て領地を回復してもらいたい」とのことで、ひとまず溝口・犬甘・平林など譜代の15人と共に伊那郡へ向かうことにしました。鈴岡城は武田によって破却されていたので、既に徳川殿に従っていた一族の下条頼安がいる吉岡城(下条村)へ入りました。すると伊那郡の旧家臣達が兵を引き連れて集まり始め、父と流浪の日々を送った箕輪の藤沢頼親も兵を率いて参陣してきました。私はこれらを引き連れて北上し、塩尻に布陣して小笠原の旗印を高々と掲げました。すると父の家来だった筑摩郡や安曇郡の者達が次々と集まってきました。彼等はみな上杉の傀儡となっていた貞種殿に不満を持ち、父の深志入りを待ち望んでいたとのことでした。そして兵も集まったので、いよいよ深志城の小笠原貞種殿と上杉軍を攻撃しました。城の抵抗は激しく、鉄砲で箕輪の者共が多く討死しましたが二の丸まで落とし、やがて私がいることを知った貞種殿が、総領家に反抗するわけにはいかないと、城を明け渡してくれました。・・・こうして7月18日念願の深志回復を果たすことができました。私は長い都生活において、これからの時代は商売がものをいう時代だと確信しました。武田が築いたこの深志城を中心に、富んだ城下町を整備することを決意しました。私はこれを記念して、家臣一同へ宣言をしました。「今後、深志を改めて松本と号す」
天文14年(1545)私こと小僧丸は、大膳大夫信濃守 小笠原長時の3男として生まれました。林の御館(松本市)という山城の麓にある屋敷に暮らし、私には守護の息子として前途洋々の人生が待っていました。しかし、私が5歳の天文19年(1550)、父長時が宿敵 甲斐国の武田信玄に塩尻嶺の合戦で大破し、次々と城が落とされ、生まれ育った林の御館を離れることになりました。馬にゆられて梓川に沿った長い道中を進み、二木豊後守が籠もる中塔城(旧梓川村)に兄や叔父達と入りました。父はそこで武田信玄に徹底抗戦していましたが、それまで従っていた者達が次々と裏切り、無念から切腹しようとしましたが二木に止められ、剃髪して湖雲斎と名乗り、天文21年(1552)大晦日、中塔城を捨てて、北信濃の高梨殿を頼って草間(中野市)へ行きました。そもそも武田は小笠原家とは同族であるのに、何故これほど争わなければならないのでしょうか。「鎌倉の時代、逸見源太清光の2男武田信義と3男の小笠原遠光は兄弟。お互いに甲斐守護と信濃守護を朝廷から受け、累代別々にこれらの地を治めてきた。」と、父は常々口にしていました。・・・天文23年(1554)父は領土回復をあきらめず、弟の小笠原信定殿が武田と戦っている伊那郡の鈴岡城(飯田市)へ向かいました。私達は危険であると言われ、高梨殿を通じて上杉謙信殿の春日城下(上越市)で暮らすことになりました。上杉殿は私達のためにしきりに信濃へ出兵されて武田と戦い、母はいつも感謝の気持ちを忘れてはなりませんと私に言っていました。ある時、父のいる鈴岡が落ちたと知らせがありました。父は三河を経て伊勢国の外宮御師を務める榎倉武国殿という方に厄介になっているとの便りがあり、無事で安堵しました。・・・弘治元年(1555)父が同族である三好長慶という方を頼って、都で落ち着いたとの知らせがあり、私達も向かうことになりました。長慶殿は近畿一帯の覇者で、私達はその領土内の摂津国芥川城下(大阪府)で生活することになりました。父は100貫の領地をもらって、三好家や将軍足利義輝さまに弓馬の師範をしていました。・・・それから3年後の永禄元年(1558)、私は元服して名を小笠原喜三郎と改めました。時折、信濃において上杉殿と武田が激しく争っているとの話が耳に入ってきましたが、生まれ故郷に帰れる日はまだ遠そうでした。父はまだ諦めていないようでしたが、私はすっかり都の生活が気に入ってきました。そしてまもなく、父から秘伝の小笠原礼法を伝授され、私も公家や各地の武将との交流が増えてきました。そんな折、ご縁で日野大納言様の息女を嫁に迎えることになり、幸福に暮らしていました。しかし、都での生活が10年も経とうとした永禄7年(1564)、三好長慶殿が死亡し、我々は家臣であった松永久秀の下に置かれることになりました。彼は足利義輝さまを殺害したり、東大寺を焼くなどし、三好一党内は混乱していました。そのような中で、永禄11年(1568)昨今著しく勢力を広げてきた尾張国の織田信長という者が軍勢を率いて入京してきました。私は三好義継殿に従って桂川で初めての合戦に臨みましたが、叔父の小笠原信定殿が討ち死にするなどして破れ、芥川城も落ちました。母は織田方へ捕らえられ、私は父や叔父の貞種殿などと共に多聞山城(奈良県)に立て籠もりました。しかし、これ以上戦っても勝ち目はなく、三好義継殿や松永久秀殿も織田殿へ従ったので、我々も降伏しました。私は子も生まれ、妻の実家である日野殿とのご縁もあるので京都に留まり、父から伝授された礼法を織田の各将などへ師範していました。そんなこともあって、私は信長殿を通じて従5位下右近大夫という栄誉に叙位されました。・・・それから4年後の天正元年(1573)、武田信玄が死んだとの知らせが私と父のもとに届きました。このことに父がどれほど喜んだことか、父は思案の末、織田殿との縁を私に任せ、自身は深志を取りもどすために再び上杉謙信殿を頼って、越後へ向かいました。既に50も過ぎていたので、あちらで無理をしないかと心配でしたが、上杉殿は父を賓客として500貫もの領地を与えてくださいました。越後での父は、越中国や関東まで出かけて反武田の工作をし、私は織田殿が信濃へ出兵してくださるように嘆願し続けました。そんなかいもあって、天正3年(1575)三河の長篠で武田軍が織田殿に大破し、いよいよもって深志へ帰れる日が近づいてきたように感じられました。しかし織田殿はすぐには信濃へ出兵せず、ただ待つ日が続きました。・・・天正6年(1578)、上杉謙信殿が突然死亡しました。そして、その跡継ぎを巡って争いが起こり、宿敵武田の影響力が上杉家まで及んできたので、父は越後に居られなくなり、天正7年(1579)会津国の芦名盛氏殿を頼っていくことになったと知らせがきました。父は星味庵という場所で暮らしていましたが、しばらくすると私を都から呼び出しました。6年ぶりに父と再会しました。父は70近くになり、随分年をとったと感じました。父は私に家督を譲ると言い、400年続く小笠原家の家宝や旗印を与えられました。そして私は、名を小笠原貞慶と変えました。・・・天正10年(1582)3月、織田殿の軍がいよいよ信濃へ進軍しているとの急報が会津に届きました。かねて織田殿から「信濃へ出兵せよ」との催促があったので、私は父を会津に残し、さっそく譜代の者を引き連れて30年ぶりに信濃へ出陣しました。上杉と武田は同盟していたので、越後口からの入国は厳しく、飛騨国まで迂回してようやく安曇郡の金松寺へ入ることができました。しかし、既に武田家はことごとく滅び、深志一帯は織田軍に制圧されていました。さっそく上諏訪の法華寺に滞陣していた信長殿へご挨拶に出かけたのですが、何故かお目通りが叶わず、さらに深志は木曽義昌へ与えられたことを知って大変落胆しました。しかたなく妻と子がいる都へ戻り、父に合わす顔もないので酒びたりの生活をしていましたが、7月の夜都で騒ぎがあり、信長殿が本能寺で討れました。誰もがその後継を巡って大きな戦が起こると言っており、私はこの機会にかねてから懇意にしていた徳川家康殿を頼って三河へ行くことにしました。・・・岡崎城(愛知県)に着くと、信濃進出を狙う徳川殿は私を喜んで迎えてくれました。家来の石川数正殿へ私の世話を命じられ、「既に深志の木曽義昌は上杉軍(景勝)に攻撃されて逃げ去り、上杉軍に担ぎ上げられた叔父の小笠原貞種殿が治めている」と、話してくださいました。徳川殿の勧めもあって出兵の準備をしていると、有賀と平澤という者が、二木一族と征矢野の書状を持って私のところへやってきました。二木は私に「深志へ来て領地を回復してもらいたい」とのことで、ひとまず溝口・犬甘・平林など譜代の15人と共に伊那郡へ向かうことにしました。鈴岡城は武田によって破却されていたので、既に徳川殿に従っていた一族の下条頼安がいる吉岡城(下条村)へ入りました。すると伊那郡の旧家臣達が兵を引き連れて集まり始め、父と流浪の日々を送った箕輪の藤沢頼親も兵を率いて参陣してきました。私はこれらを引き連れて北上し、塩尻に布陣して小笠原の旗印を高々と掲げました。すると父の家来だった筑摩郡や安曇郡の者達が次々と集まってきました。彼等はみな上杉の傀儡となっていた貞種殿に不満を持ち、父の深志入りを待ち望んでいたとのことでした。そして兵も集まったので、いよいよ深志城の小笠原貞種殿と上杉軍を攻撃しました。城の抵抗は激しく、鉄砲で箕輪の者共が多く討死しましたが二の丸まで落とし、やがて私がいることを知った貞種殿が、総領家に反抗するわけにはいかないと、城を明け渡してくれました。・・・こうして7月18日念願の深志回復を果たすことができました。私は長い都生活において、これからの時代は商売がものをいう時代だと確信しました。武田が築いたこの深志城を中心に、富んだ城下町を整備することを決意しました。私はこれを記念して、家臣一同へ宣言をしました。「今後、深志を改めて松本と号す」
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