書き出しは、ほぼ都城市教育委員会の説明版と整合する。源頼朝は1185年、御家人・「惟宗忠久」を、薩摩、大隈、日向国にまたがる荘園「島津荘」の下司職に任命した。その後、忠久は薩摩大隅日向と伊勢、越前、信濃、甲斐の七ヶ国で守護(惣地頭)や、多くの郡地頭に任命されたことが「島津家文書」や「吾妻鏡」に確認できるという。此のうち忠久は、最も広大な島津荘を本貫地にしょうと「島津」姓を名乗ったとされる。 (島津荘は現都城市、高城、一帯さす広大な地域)
しかし1203年、忠久はこれらの地頭職、守護職を北条氏により停止され、後に回復するが薩摩一国のみであったようだ。忠久はこれ以前、1179年に京都近衛家の下級家司で、春日祭の勅使「春日祭使」の供をした記録が残り、六年後に頼朝の後家人となり鎌倉に移っているので、「惟宗」を名乗った時代も含め「島津家」の発祥地は
京都とも云えるし、「島津」を名乗った
鎌倉ともいえるとしている。
では、鎌倉で将軍家に遣えていた「島津氏」がどの様にして南九州を所領化していったのか、三木先生は次のように説明している。
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/shimazushi/shimazushi.html
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