これら諏訪神に関係する諸氏に限らず、信濃から越後に遷住した氏族がいくつか知られる。信濃国佐久郡の清和源氏、平賀氏の一族が、越後国蒲原郡で金津、木津、新津などの諸氏を出した例もある。米沢藩主家となった上杉氏の家中には、須田氏、夜交一族など多くの信濃出自の藩士があった。武田信玄により信濃を追われた村上義清の配下に小出大隅がおり、高井郡の仙仁城を居城としたというが、この一族で越後に行った者もあったかもしれない。
古族では、伊那郡式内社の阿智神社(下伊那郡阿智村智里に鎮座)を古代から奉斎した阿智祝氏の一族にも、越後に遷住した一派があった。すなわち、その支族で、同郡赤須村美女ヶ森(現駒ヶ根市赤穂)に鎮座の大御食神社(おおみけじんじゃ)を奉斎した赤須氏の一族にも小出氏がおり、室町中期に越後国蒲原郡に遷住したと系図に見える。
具体的な系図は『百家系図稿』巻一所載の「小町谷系図」(『古代氏族系譜集成』813頁にも所載)であるが、それに拠ると、赤須太郎安任の弟に小出二郎安茂がおり、その五世孫の小出八郎常宗が康正二年(1456)に越後国蒲原郡松野領に遷って上杉氏に仕えたという。その曾孫の八郎左衛門尉泰親が上杉謙信に仕え、その子の八郎左衛門尉常輔が上杉景勝に仕えたと伝える。
阿智祝氏は八意思兼命の子の天表春命を遠祖としており(実態としては少彦名神後裔の伊豆国造・服部連の同族)、その先祖は、諏訪神建御名方命の東遷や諏訪入りに随行してきたとみられるから、阿智祝一族も諏訪神奉斎に関与したことも考えられる。室町中期の小出八郎常宗がなぜ小出を名乗ったのかの事情は不明である。諏訪上社五官の小出氏と同族であって、なんらかの関係(例えば、その家に養猶子の形で入ったか)があったことも考えられる。そうすると、古くからあった諏訪上社祢宜大夫などの小出氏は、本来、阿智祝の同族であったものか。
伊那郡小出の地は赤須(駒ヶ根市赤須・赤穂)の八キロほどの北方近隣に位置し、小出のすぐ南には原(阿智祝氏の苗字)という地名も見えるから、このあたりの伊那郡北部には阿智祝一族が繁居していたものか。伊那郡赤穂に起こり橘姓と称した上穂・宮田・赤津・小平〔古平〕の一族も、阿智祝の同族かとみられる。
伊那郡小出の地は赤須(駒ヶ根市赤須・赤穂)の八キロほどの北方近隣に位置し、小出のすぐ南には原(阿智祝氏の苗字)という地名も見えるから、このあたりの伊那郡北部には阿智祝一族が繁居していたものか。伊那郡赤穂に起こり橘姓と称した上穂・宮田・赤津・小平〔古平〕の一族も、阿智祝の同族かとみられる。
なお、思兼命を祀る神社として、長野市戸隠(旧水内郡)の戸隠神社の宝光社・中社や埼玉県秩父市の秩父神社が知られる。戸隠の宝光社については、平安中期に阿智祝部の一族(徳武氏)が移り住み、分霊したと伝え、秩父神社は阿智祝同族の知々夫国造一族が奉斎した。
諏訪神党の具体的な系譜のなかに小出氏が見えないという事情も、小出氏が本来、諏訪神党の別族であった可能性を考えさせる。あまり決め手とはいえないが、諏訪神族が主に用いた梶葉紋を小出氏が用いないのも、その傍証か。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/echigokoide1.htm
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