2015年8月13日木曜日

斗南の星



私の亡くなった母親がいつも私に、お前の先祖は会津藩士で偉かったと語って聞かされた。そんなこともあって物心ついて私は先祖のことを調べることに夢中になった。
 母方の先祖は、源頼朝に従い藤原氏討伐に参加した千葉胤常の一族佐瀬氏でした。佐瀬氏は会津守護の三浦氏(のち芦名氏)に従い会津に土着します。
 父方の先祖は、大同元年(806)の会津磐梯山の麓に僧・徳一が建立した慧日寺(大寺)の寺侍・富田氏でした。その後、慧日寺は僧兵3000人を要し、富田氏は僧兵頭になり乗丹坊と称していました。
 寿永元年、乗丹坊は越後の平家城氏に従い僧兵と会津4群の兵3万を従えて信州の木曽義仲を打ちに出かけた。信州横田河原で源平合戦の幕開けである寿永の乱がはじまるが、木曽義仲の夜襲にあい討ち死してしまいました。現在も恵日寺の遺跡に乗丹坊の墓があります。
 子孫の富田氏は会津国人領主となり、かなりの兵力を誇示していましたが、鎌倉幕府から派遣された守護の芦名氏(三浦氏あるいは佐原氏)と戦いました。また、芦名氏の分家である猪苗代氏と組んで謀叛を企てたりしましたが、ことごとく討ち死にしてしまいました。
 富田氏の子孫は、その霊を弔うため会津中央盆地(北会津郡下荒井村近くの小出)に荒井と名を改め荒伝山宝光院を建立します。
(トップページの自己紹介に寺のリンクがあります) やがて富田氏及び佐瀬氏は会津守護芦名氏の四天宿老(侍大将)として戦国時代を生き抜いてゆきますが、天正17年(1589)芦名氏が伊達正宗に滅ぼされると、富田氏は下野し荒井と名を改めた。その後、荒井は下荒井、中荒井、上荒井(今の喜多方)と子孫が増えて繁栄しました。
 佐瀬氏は最上氏に仕官していましたが、徳川家光の異母弟・保科正之公が会津藩主になると会津藩に召抱えられ再び会津藩士となります。
 佐瀬氏は幕末、京都守護職となった松平容保公に供奉し、蛤御門の戦いに参戦し、その功績により殿様から金鍔の刀を拝領した(この刀は青森県陸奥の斗南から会津に帰ってきたとき貧苦のあまり手放してしまった)。また京都から会津に伏見稲荷の分身を移し、屋敷に正一位として奉りました。(現在も会津の武田病院の前の店の中に安置されています)。
 戊辰の役では会津鶴ヶ城落城まで西軍と戦いましたが、とうとう落城してしまいした。
 明治政府によって極寒の荒地・斗南藩(青森県陸奥)に流刑され、ムシロの小屋に住み、食事は海岸に流れ着く昆布や草根木皮、そして犬の肉を食べ、会津のゲダカ(毛虫)と蔑まれ、艱難辛苦幾歳月をすごしました。

 青森県陸奥の斗南の丘に立ち南の星を見ながら「いつか会津に帰ることができますように」と祈り、廃藩置県で会津に帰ることができましたが、すでに土地は人手にわたり待っていたのは賊軍の汚名と貧苦の道だけであった。
 私は、この先祖が歩んだ道を振り返り、古文書を紐解き、会津の図書館や歴史書を読み漁り、この斗南の星(会津物語)を書き始めました。我が命が尽きるまでに書き終えることを祈るのみです。

http://members.jcom.home.ne.jp/mu-arai/np5.htm

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