赤沼の由来はアイヌ語の「アカヌプ(尾根の間の原野)」によるといい、公的文書に最初にその名が現れたのは『天保郷帳』の「従松前西在…(中略)…目名村、右枝村赤沼村」という記述からだという。住民は炭焼きを行いながら、春はニシン漁に従事する生活を行っていたが、万延元(1860)年に小滝熊吉という人物が水田耕作を始め、以降は平地が少ないので畑の開墾、耕作が盛んになった。また、地内には「赤沼鹿子舞」という一風変わった獅子舞のような伝統芸能が伝わっている。(厚沢部町や江差町付近の集落にはそれぞれ独自の鹿子舞が多く残っている)
・丸に三つ銀杏あるところにはあるという微妙な存在感を持っている家紋ない地域にはまったくないが、ある地域には1墓地あたり1件はある程度。使用家は北さん。
http://hanatare-ruins.doorblog.jp/archives/51874096.html
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