2015年8月26日水曜日

嶋津泰忠


信濃島津氏ですが、甲越の争いに際し、当主安房守は後越後上杉を頼りますが、武田を頼った分家が他にあったようです。川中島戦以降も安房守は同じく越後に身を寄せ、後の謙信死後の御館の乱では景勝につき、武田を滅ぼし川中島に入った織田の森長可が本能寺での変で上方へ去ると、上杉軍の一員として信濃を回復し、長沼城に復帰します。文禄三年定納員数目録では信州侍中に知行6190石371人の軍役を担い、さらに二十五人の桂(葛)山衆も抱える大身として島津淡路守の名があります。その後も会津、米沢と上杉に従い、明治の初期に東京へ出、家門を伝えています。
 
 武田を頼った分家は尾張守を当主とする一族だったようです。永禄六年八月に武田晴信が嶋津尾張守に宛、戦乱で逃亡した住人を呼び返すよう命令する文書が残っています。
「長沼地下人并従先々在嶋之族□悉集、可遂居住長沼地者也。仍如件、永禄六年亥癸八月十五日」
また、設楽ヶ原の戦い後、武田勝頼が軍役強化をはかり川中島の土地調べをした際、嶋左京亮津泰忠が知行地を書き出した文書も嶋津泰忠知行注文として残っています。
 上杉に従って会津へ行ったは別に、島津家が当地に現在も伝わっています。
 以下現地の方々からの聞き取りと文献からの私の推論です。
 赤沼の島津家が武田についた尾張守で、武田家中として牟礼三水を安堵され、上杉の会津移封には従来の経緯からついて行かず半帰農し江戸期は飯山藩に仕えたのではないでしょうか。
イメージ 13
 
赤沼の島津館跡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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