2015年8月29日土曜日
信濃の鎌倉指向
原今朝男 「信濃の鎌倉指向」
(『長野県の歴史』.山川出版社.1997年.p86以下)
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ihara-kesao-shinanono-kamakurashiko.htm
3章 源平争乱から中先代の乱へ
1.義仲・頼朝と信濃武士(略)
2.信濃の鎌倉指向
鎌倉の政争と信濃御家人の変動
建久十(一一九九)年正月、鎌倉殿頼朝〔1147~99.53歳〕が死去して二代将軍に頼家〔1182~1204.23歳〕が就任した。将軍独裁を進める頼家と、有力御家人による合議政治をめざす北条時政〔1138~1215.78歳〕以下老臣との対立が激化した。頼家は比企能員(ひきよしかず)の娘を妻としていたこともあって、信濃と関係が深かった。彼は小笠原長経・比企三郎・中野能成(なかのよしなり)ら信濃御家人を含む五人を側近に任命して老臣らと対決した。 建仁三(一二〇三)年、頼家は比企能員と結んで時政をのぞこうとしたとして、逆に北条氏に謀殺された。比企一族は根絶され、その関係者として信濃でも中野能成・小笠原長経らはもとより惟宗忠久(これむねただひさ)〔島津.1179~1227.49歳〕も 所領を没収され、信濃守護職も北粂時政にかわった。忠久の塩田荘地頭職は北条氏のものとなり、信濃における比企氏の権力はそのほとんどが北条氏に継承され た。その後、まもなく中野能成は高井郡中野郷(中野市)の所領を復活させられ、一門から得宗被官となるものをだしている。能成は時政の陰謀に協力したので はないかとの説もある。
元久二(一二〇五)年、時政は老臣畠山重忠〔1164~1205.42歳〕を討ったあと、妻牧の方とはかって将軍実朝〔1192~1219.28歳〕を 殺害し、平賀朝雅を将軍職につけようとし逆に処罰された。平賀朝雅らは京都で討ちとられ、大内惟信らも幕政から排除された。捧荘や岡田郷なども没収され守 護領となり、平賀源氏一門は信濃から姿を消し、わずかに越後国金津保(新潟県新津市)に小野時信や平賀資義(すけよし)の所領が知られるにすぎない。
建暦三(一二一三)年には、信濃御家人泉親衡(いずみちかひら)が青栗四郎・保科(ほしな)次郎・籠山(こみやま)次郎・市村近村(ちかむら)らの信濃武士や下総(千葉県)の和田一族らと結んで、頼家の三男千寿(せんじゅ)を将軍にたて北条義時〔1163~1224.62歳〕打倒を計画するという陰謀事件がおきた。張本人の泉親衡は逃亡し追跡をうけた形跡もない。にもかかわらず、幕府の侍所別当和田義盛〔1147~1213.67歳〕の 甥胤長(たねなが)や子義直・義重らが泉に加担したとしてきびしい処罰をうけた。和田一族はこれを不満として北条氏に対し、和田合戦となったが全滅した。 原因は信濃の武士にあったのに、和田方に味方した信濃の武士はだれも参陣していない。この事件を契機に、北条義時の執権としての地位は確立した。 泉氏の本拠地と推定されている小県郡小泉荘(上田市)には泉次郎秀綱の所領があったが、この乱のあと北条泰時〔1183~1242.60歳〕が地頭職をもち荘内室賀郷(むろがのごう)(上田市)を善光寺に念仏科として寄進している。泉氏はその後もこの一分(いちぶん)地頭として存続している。
建保七(一二一九)年一月、実朝が暗殺され源氏将軍は断絶した。二月には頼朝の弟阿野全成(ぜんせい)〔1153~1203.51歳〕の子時元が駿河で挙兵し、政情不安が広がった。幕府は皇族を将軍に迎えようとしたが、後鳥羽上皇〔1180~1239.60歳〕はこれを拒否し、九条道家〔1193~1252.60歳〕の子頼経〔1218~56.39歳〕を 将軍とすることで妥協した。公家政権と幕府の対立が激化している最中、仁科御厨(大町市)の地頭仁科盛遠の子が熊野参詣で上皇の目にとまり、西面(さいめ ん)の武士として出仕することになった。北条義時は幕命にそむくとして仁科の所領二ヵ所を没収し、上皇の返却命令をも無視した。承久三(一二二一)年、承 久の乱がおきた。京方についた信濃武士には、大内惟信(これのぶ)、仁科盛遠、安達盛長〔1135~1200.66歳〕の弟で滝口であった遠兼(とおかど)の一門友野遠久(とおひさ)、三浦胤義(たねよし)配下の志賀五郎、大妻兼澄(おおつまよしずみ)、福地俊政(ふくちとしまさ)、井上光清らがいた。いずれも公家方の侍か、院領荘園の荘官であった。
幕府軍は東海道・東山道・北陸道の三軍に分かれて出陣した。春日貞幸が東海道軍、市河六郎刑部(ぎょうぶ)が北陸道軍に属したほかは、信濃武士の大半は東山道軍の将軍武田信光〔1162~1248.87歳〕・小笠原長清〔1162~1242.81歳〕の指揮にしたがった。軍の検見(けみ)として遠山景朝・諏訪信重・伊具右馬允入道(いぐうまのじょうにゅうどう)が任じられた。諏訪社の大祝(おおほうり)諏訪信重が、はじめて郡内をでて出陣した。
承久の乱後、信濃の武将らは西国に多くの所領を安堵された。小笠原長経は阿波国(徳島県)麻殖保(おえのほ)(徳島県鴨島町)や阿波守護職、大井朝光は 伊賀国虎武保(とらたけのほ)(三重県未詳)、中沢真氏は出雲国掟本荘(よどのほんしょう)(島根県大東町)、平林頼宗は豊後国毛井(けい)社(大分県大 分市)、諏訪部助長は出雲国三刀屋(みとや)郷(島根県三刀屋町)、赤木忠長は備中国穴田郷(岡山県高梁市)などの恩賞地を得た。このほかにも西国に所領 を得た信濃武士が多く、一族が西国に移住する契機がつくりだされた。比企事件で一度失脚した島津(惟宗)忠久は太田荘地頭職を得た。
貞応三(一二二四)年、執権で信濃守護でもあった義時が死去した。後継者をめぐって義時の後妻伊賀氏が三浦氏と結んで謀反を企て破れた。伊賀光宗〔1178~1257.80歳〕は所領没収後信濃の麻績御厨に流されたが、その年には許され本領八ヵ所を返され、麻績氏を被官としている。
宝治元(一二四七)年には三浦一族と千葉氏が打倒される宝治合戦がおきた。三浦和田氏の高井実茂父子が討ち死にし、小笠原七郎が三浦泰村〔1204~47.44歳〕らに味方して逐電した。諏訪盛重はこのとき、北条時頼方として無双の勲功をあげ、北条氏の被官(得宗被官)=御内人(みうちびと)として北条氏の勢力拡大に伴い鎌倉でも大きな発言権をもつようになった。
こうしてみると、信濃御家人は幕府の政争や承久の乱などと深く関係したものが多く、没落したものと、北条氏一門に結びついて興隆したものとに二極分解していった。
北条氏被官の台頭
諏訪盛重は承久の乱で鎌倉に出仕してのち、北条泰時〔1183~1242.60歳〕・経時〔1224~46.23歳〕・時頼〔1227~63.37歳〕の三代執権につかえた。信濃守護も北条義時から重時〔1198~1261.64歳〕へと継承され、信濃の運営は執権泰時・守護重時の手によってにぎられた。嘉禄三(一二二七)年、公家の藤原定家〔1162~1241.80歳〕が信濃知行国主藤原実宣から国務を三○○貫文で請け負った際、泰時・重時の二人に書状をだし協力を要請したのも、信濃国衙領の運営がこの二人によって実質的に管理されていたためといえよう。信濃守護はその後も義宗〔1253~77.25歳〕・久時〔1272~1307.36歳〕と続き重時の子孫が相伝し、北条氏一門からはなれることはなかった。
信濃の御家人らもしだいに、北条氏の家臣(得宗被官)として活躍するものが多くなった。その典型が諏訪盛重である。鎌倉における盛重の諏訪屋敷は泰時邸 に接しており、鎌倉で政変があるごとに軍功をあげた。時頼と盛重の主従は一連托生といわれるほど緊密で、生前からともに法然〔1133~1212.80歳〕の教えを信じ、時頼は出家し、盛重も出家して蓮仏と称した。 弘長三(一二六三)年、時頼が死去したとき、盛重は時頼に唐衣(からごろも)を着せ袈裟をかけ、西方の壁に阿弥陀仏像をかけ、その前の椅子(いす)にのぼらせて合掌させた。当時の死にゆく人をみとる作法であった。諏訪真性(しんしょう)も時宗〔1251~84.34歳〕の 執事として活躍し、北条氏の諏訪社崇拝も強かった。 信濃での北条氏所領の核は、将軍家を本所とする関東御領の春近(はるちか)領である。春近領は伊那、国府付近、北信などにあるが、なかでも伊那春近領では 現地に政所(まんどころ)池上氏をおき、郷ごとに地頭代をおいた。小出(こいで)二吉郷(伊那市)には工藤小出氏、名子(なご)(下伊那郡松川町)には奈 古氏がおり、北条経時〔1224~46.23歳〕らの保護下にあった。伊賀良荘には北条一門の江馬(えま)氏が進出し、江馬光時(みつとき)は家臣四条頼基(よりもと)を現地の殿岡(とのおか)(飯田市)に派遣して支配した。江馬氏は川路(かわじ)郷(飯田市上川路)に開善寺(かいぜんじ)を建立し鎌倉文化をもちこんだ。
中信では、大内氏旧領の捧荘が二分され、捧荘半分地頭として北条英時が入部し守護領となった。ここを名字の地とする捧氏は近府春近領塩尻(しおじり)郷(塩尻市)にも進出し、得宗被官となっている。国衙領の浅間(あさま)郷(松本市)も北条基時〔1286~1333.48歳〕の 知行となった。この地には浅間社があり、正応五(一二九二)年にはその復興のため大勧進(だいかんじん)が設置され唐僧の円空(えんくう)が、大般若経写 経事業と供養法要を実施した。北条氏を介して海外貿易の利益が浅間社復興事業に導入された。のち南北朝時代には浅間に国司が着任し、御家人らがここで出迎 え儀礼を行っており、軍勢の集結場所でもあった。鎌倉時代からその重要な国政の場を北条氏がおさえた。
東信では得宗被官工藤氏の一門薩摩(さつま)氏が坂木北条(さかききたじょう)・南条(みなみじょう)(埴科郡坂城町)の地頭であり、塩田荘には北条義政〔1242~81.40歳〕か ら時治-国時-俊時と伝領された塩田北条氏がいた。この塩田荘(上田市)は「信州の学海」といわれるほど禅宗文化の中心地となった。船山郷(埴科郡戸倉 町・更埴市)は守護北条英時の所領であり、四宮荘(長野市)には円明を名乗った北条時顕の所領があった。善光寺横山の直下の小井(おい)郷(長野市中越) には得宗被官片穂惟秀後家の所領があり、曽我資光に譲与された。太田荘石村南・大蔵郷(上水内郡豊野町)は北条実時〔1224~76.53歳〕から金沢称名寺にゆずられた。
こうして、信濃の守護領が北条氏の所領になっただけではなく、その一門や被官の所領が各地の鎌倉街道に沿って分布することになった。
諏訪信仰の流布と北条氏
幕府は建暦二(一二一二)年以来、殺生禁断のため全国の守護・地頭に鷹狩りを禁止したが、諏訪大明神の御贄狩(みにえがり)だけは例外とした。寛元三 (一二四五)年と文永三(一二六六)年にもこの禁令を公布し、諏訪社御贄狩以外の鷹狩りを禁止した。このため諸国の御家人らは諏訪社を勧請(かんじょう) してその御贄狩と称して鷹狩りを続けた。諸国の鷹匠は「諏訪の贄掛(にえがけ)」を行い諏訪大明神を信仰した。神氏(しんし)禰津貞道(ねずさだみち)は 東国無双の鷹匠といわれ諸国を遍歴した。この禰津氏が鷹道一流の文書を相伝し鷹道の流祖とされた。
諏訪社祭礼の頭役(とうやく)をつとめる御家人は国司の任期中の初任検注(しょにんけんちゅう)を免除される特権が認められていた。頭人(とうにん)は 罪を犯しても免罪や赦免の特権を認められ、元応元(一三一九)年には鎌倉番役も免除され、年貢支払いの延期や公事(くじ)の免除などが認められた。北条氏 は諏訪社頭役を特別なものとして位置づけた。幕府の訴訟制度においても、引付衆の五番編成のうち諏訪上・下社で四番を占め東国寺社のなかでも重視されてい た。
鎌倉末期になって御家人制が動揺するようになると、北条氏による諏訪社へのてこ入れが進んだ。嘉暦四(一三二九)年得宗高時〔1303~33.31歳〕は 諏訪上社造営目録を制定し、これまで安曇(あずみ)・筑摩両郡三六郷の人夫と在庁一人・書生一人を小行事として材木を調達していた体制を改めて、国司目代 巡役官人を大行事に国内の要路に関所を設けて関銭で宝殿を造営しようとした。御柱・鳥居・不開門・玉垣などを負担する郷村なども定めている。諏訪社の五月 祭・御射山祭(みさやまのまつり)の頭役についても嘉暦四年には一四番編成にかえた。五月祭は左頭(さとう)・右頭(うとう)・流鏑馬頭(やぶさめのと う)・御射山祭は左頭・右頭の合計五分担であるので七○頭を御家人が単独、または寄子(よりこ)と複数で共同負担する制度となった。このうち、一頭を単独 で勤仕しているものは二一頭であるが、うち一二頭はいずれも北条一門、五頭(和田隠岐入道・薩摩祐広・阿曽沼下野前司跡・大井次郎入道・島津上総并大隅入 道)が関東出身の有力御家人で、信濃御家人はわずかに四頭(小諸太郎・波田判官代跡・諏訪時光・須田太郎跡)のみである。諏訪社の祭礼も北条氏が主体と なっており、少数の有力関東御家人と多数の中小信濃御家人が共同で負担するという階層的な編成がみられるようになっている。
善光寺信仰の発展と北条一門
信濃守護北条重時〔1198~1261.64歳〕の兄泰時〔1183~1242.60歳〕は、延応元(一二三九)年、善光寺に不断念仏用途として小泉荘室賀郷(上田市)の田地六町六反を寄進し、一二人の念仏衆と灯明料を負担した。その兄弟の名越(なごえ)朝時〔1193~1245.53歳〕は鎌倉に善光寺を造立しただけではなく、信濃善光寺金堂を建立し、寛元四(一二四六)年、子息光時が大供養を行った。その二ヵ月後、光時は前将軍頼時〔頼経の誤り〕とともに北条時頼〔1227~63.37歳〕を 討とうとしたとして処罰された。名越氏が失脚し、かわって建長五(一二五三)年、守護北条重時が善光寺修造を成就し大供養を実施した。弘長三(一二六三) 年、得宗時頼はみずから善光寺裏の深田郷(ふかたのごう)(長野市)を売得して一二町を金堂不断念仏衆と法華経を転読する経衆の用途に寄進した。北条氏に よる善光寺興行も政争と密接な関係があった。文永二(一二六五)年幕府は、善光寺近辺の悪党鎮圧と警固のために設置されていた奉行人の制度を廃止し、信濃 守護北条義宗〔1253~77.25歳〕に管理させた。和田郷(長野市)の和田石見入道仏 阿、平林郷(長野市)を中心とした原宮内左衛門入道西蓮、窪寺郷(長野市)の窪寺左衛門入道光阿、御庁(ごちょう)郷(長野市)の諏訪部(すわべ)左衛門 入道定心らがその職を解かれた。善光寺周辺に所領をもち、石見守・左衛門尉などの官途をもち、出家法名をもった御家人の合議によるそれまでの善光寺の治安 維持体制が廃止されたのである。あらたな統制策は、幕府が守護北条義宗を通じて直接施行する体制になった。守護による善光寺統制の強化である。
善光寺の寺院内部でも鎌倉との結びつきが強まった。一遍〔1239~89.51歳〕が善光寺にはじめて参詣した文永八年〔1271〕、焼失して再建された本堂の落慶法要が鶴岡八幡宮別当の隆弁僧正〔1208~83.76歳〕を導師として行われた。執権北条時宗〔1251~84.34歳〕は蒙古襲来のもとで専制権力で寺社を掌握する必要から、時頼の兄経時〔1224~46.23歳〕の子頼助〔1245~96.52歳〕を鶴岡八幡宮別当に就任させ、その後は政助〔北条宗政男.1265~1303.39歳〕・顕弁(けんべん)〔金沢顕時男.1268~1330.63歳〕・有助〔1277~1333.57歳〕と北条一門が別当に就任した。正安元(1299)年善光寺で塔再建の曼荼羅(まんだら)供養が行われたときも、鶴岡八幡宮別当政助が大阿闍梨(だいあじゃり)をつとめた。鎌倉鶴岡八幡と善光寺との結合関係が強化されていった。
悪党・訴訟の増加
文永五(一二六八)年、蒙古高麗の国書が朝廷にもたらされ、異国降伏の祈祷が全国の寺社に命じられた。御家人による防衛体制がととのえられ、文永十一年の文永の役と弘安七(一二八四)年〔弘安四(一二八一)年の誤り〕の弘安の役をはさんで幕府滅亡まで異国警固番役(いこくけいごばんやく)が強制され、全国的な臨戦体制がつくられた。外には蒙古襲来、内には悪党の蜂起という外患内憂が、鎌倉幕府の支配をむしばんでいった。
信濃で善光寺周辺に悪党が活躍しはじめるのもそうした時期である。文永二年〔1265〕幕 府は、悪党鎮圧と寺辺警固のために設けていた善光寺奉行人を、権限以外の雑務を行い非法があるとして廃止した。この年善光寺は焼失した。このころ、京都の 善光寺別当静成法印(ほういん)が派遣した雑掌大和法橋(ほっきょう)は、年貢未進や非法行為をはたらき、権別当職を賄賂で改替してしまった。弘安七年〔1284〕、信濃は奈良興福寺の知行国になっており、目代に定尭(じょうぎょう)が派遣されたが、彼は検注物や年貢を横領するなど非法を繰りかえしついに解任された。このように支配機構内部からその統制を乱したり叛旗をひるがえすような事件が増加した。幕府内部でも弘安八年〔1285〕、政権の中枢にいた安達泰盛〔1231~85.55歳〕と得宗被官である御内人平頼綱〔?~1293〕が 合戦し、そのあと全国各地で戦闘が続発する霜月騒動がおきた。安達泰盛とその一族は討伐され、佐久郡伴野荘の地頭伴野一族は安達氏と姻戚関係にあったこと から、伴野長泰(ながやす)と長直(ながただ)らが戦死し伴野彦二郎は信濃で自害した。伴野氏の本流が没落したあと、伴野荘有力郷地頭には北条氏一門が入 部した。足利氏もその一分地頭職を獲得したらしく有力御家人が進出していた。
信濃の武家社会にも動揺が広がり、経済的に困窮する武士のなかには御家人役をつとめるため、借財するものや所領を売るものがでるようになった。水内郡太 田荘津野郷(長野市)の地頭島津久長は、建治三(一二七七)年六条御所造営役の二五三貫文が負担できず、大工の宗仲に津野郷を三年間の収益六○○貫文で年 季売にだし、その期間延長をめぐり裁判になった。永仁三(一二九五)年にようやく勝訴したが、彼は神代郷中尾村(上水内郡豊野町)をめぐる相続争いで伊達 (だて)念性の娘とも裁判になっていた。当時は分割相続であったから、御家人の伊達氏に嫁いだ女子分が、島津氏の所領から伊達氏のものになるのを防ごうと したのである。
こうした所領相続をめぐる一門や姻族との訴訟裁判はこの時期激増していた。高井郡中野郷(中野市)を拠点に水内郡志久見(しくみ)郷(下水内郡栄村)の 越後国境まで勢力をもっていた中野氏は、三代忠能の娘袈裟御前(けさごぜん)が市川重房の後妻となり市川盛房を養子にして所領を相続させた。中野氏と市川 氏はこの遺産相続をめぐって、以後南北朝期にかけて長い裁判を続けることになり、結局中野氏は市川氏にとってかわられた。
伊那春近(いなはるちか)でも小出氏一門の道覚と盛綱が年貢負担をめぐって争い、正応元(一二八八)年北条貞時〔1271~1311.41歳〕の判決をうけた。筑摩郡吉田郷(塩尻市)でも赤木盛忠と忠澄の兄弟が郷内の田や小池郷の在家を争って裁判となり、嘉元三(一三〇五)年、忠澄領とすることで和解となった。
永仁三年〔1295〕小県郡海野(うんの)荘(小県郡東部町)では小田切(おだぎり)兵衛次郎が賀沢村(同町加沢)の田と在家を望月重直に売却した。こうした御家人による質入や売却地の増加を食いとめるため、永仁五年〔1297〕に徳政令が だされたが歯止めにはならなかった。更級郡石川荘二ツ柳(ふたつやなぎ)郷(長野市篠ノ井)では、幕府の有力奉行人であった三善康基の名田が、正和五(一 三一六)年に四五貫文で八年間年李売りされた。伊那郡飯島郷(上伊那郡飯島町)でも飯沼幸憲(ゆきのり)は鍛冶在家(かじざいけ)を、飯沼道郁(どうい く)は飯沼郷塚下(つかした)の出畠を西岸寺(さいがんじ)(同町)に売却した。こうして所領を失う御家人が増加し、地頭御家人制が内部から崩壊していっ た。
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