2015年7月12日日曜日

宇迦之御魂神



宇迦之御魂神、別称の稲荷神のほうが馴染みがあるのではないだろうか。今日では一般に商工業方面に霊威を発揮する神として信仰されている。しかし、名前に「稲」とつくように、もともとは五穀と養蚕を司る穀物神、農耕神で、稲の生産、豊穣を守護する神として崇められた。その稲荷神を祀る稲荷社の祭神とされるのが宇迦之御魂神である。
 食物を司る御饌都(ミケツ)神ともいわれる本来の性格から、宇迦之御魂神はしばしば伊勢神宮の外宮に鎮座する豊穣の女神豊受大神と同一神格と見られたりする。日本の神さまというのは、神話などでは違った名前で出てきても、その基本的な性格がほとんど類似することから、同一神であるという論議がなされることが多い。ただし、それはあくまでも学問的な問題であって、われわれの生活のなかでは伏見稲荷大社の主祭神の宇迦之御魂神と伊勢神宮の豊受大神とははっきりと別な神なのである。
 さらに、稲荷神を祀る稲荷社についていうと、名もない社まで含めれば全国4万とも5万ともいわれる。その中には宇迦之御魂神以外の神を主祭神として祀る場合もある。しかし、そのいずれもが食物を司る神という性格上、宇迦之御魂神と同一神と見られたりすることの多い神さまである。
 もうひとつ稲荷神の複雑な部分として、全国の稲荷社は一般に神道系(神社)と仏教系(寺)にも分けられるということがある。神道系の総本社は、京都の伏見稲荷。一方、仏教系は真言密教のインド伝来の鬼神・陀枳尼天(ダキニテン)を主神として祀るもので、その総本山が豊川稲荷であり、ここから全国に勧請されている。どちらの系統にしても、その御利益にたいして変わりがあるわけではないので、全部ひっくるめて宇迦之御魂神ということにして話を進める。
 稲荷神は、もともと京都地方の豪族秦氏一族が、その氏神の農耕神として祀っていたものだ。古代には各地の有力豪族が、それぞれに自分たち独自の守護神(氏神)を祀っていた。稲荷神もはじめはそういう神だったのである。いわば一地方に生まれた稲荷神に対する信仰が、どうしてのちに日本中に広がることになったのか。その大きなきっかけとなったのが、平安時代初頭に仏教の真言密教と結びついたことである。そのための重要な役割を演じたのが真言宗の開祖、空海(弘法大師)だといわれている。
 唐で仏教の修行をして帰国後、高野山を開いたりしてめざましい活躍をしていた空海は、嵯峨天皇に認められて建設途中だった東寺(教王護国寺)を与えられた。そこで空海は、講堂を建立(825)するなどして、東寺が真言密教根本道場として栄える基礎を作った。その際、これに協力したのが秦氏で、建造用の木材を伏見の稲荷山から切り出して提供したという。このことがきっかけとなり、稲荷神は東寺の守護神として祀られたのである。
 こうして真言密教と強く結びついた結果、稲荷神は仏教的な現世利益の考え方を取り入れ、仏教の庶民への浸透とともにその信仰を拡大していくことになったのである。弘法大師の足跡が全国各地に残っていることを考え合わせれば、その広がりが想像できるだろう。ついでにいえば、こうした真言密教との結びつきから、白狐にまたがる陀枳尼天の姿が稲荷神と同一視されるようになり、陀枳尼天を主神とする神仏習合の稲荷社の信仰が広がることになったということである。
 それだけではない、稲荷信仰が拡大していく背景には、さらに大きな要因があった。中世から近世にかけての工業の起こり、商業の発展といった社会変化である。いうまでもなく稲荷神は現世利益信仰の代表格である。仏教的な現世利益の思想を取り入れることによって、稲荷神の神格はいよいよ柔軟性を増し、時代の変化から生じてくる人々の新たな欲求に自在に対応した。それによって信仰は急速に広がり、それにともなって稲荷神の神格も、本来の農業神から工業や商業など諸産業の守護神へと拡大していったのである。とくに近世の商業活動の発展には、稲荷信仰が大きなエネルギー源になったともいわれている。
 稲荷神は本来豊作の神であるから、それまでは農村を中心に祀られることが多かった。それが都市部へと広がって、大名屋敷や町屋にも稲荷神が勧請されるようになり、やがて非常に都市的な性格の強い側面を持つようになった。たとえば、江戸の町の様子を表した俗言に「伊勢屋 稲荷に 犬の糞」というのがある。これは、至るところで見かけられるものといった意味だ。このように江戸の隅々まで祀られたお稲荷さんは、福神信仰の中心的な存在となったのをはじめ、仕事のことから病気まで、都市生活者の衣食住に関わるこまごました願いや悩み事にも対応する、非常に便利な神さまとして、その性格を拡大していったのである。それが今日まで続いているお稲荷さんのイメージなのである。
 余談になるが、私個人としてはこういうなんでもありの神さまというものにあまり重みを感じることができない。あまりに身近すぎて神さまという感覚が薄れてしまうというのも理由の一つだが、なによりも、大衆に迎合しようとするあまりに神威を拡大しすぎたきらいがあるからだ。とくに仏教と習合した神々にはこの手のものが多く、好きになれない。もっとも、その原因は神々自身ではなく、それを政治的な統率手段としようとした人間にあるのだが。
 さて、お稲荷さんといえば誰でも狐をイメージするはずである。それくらいにポピュラーな存在だけに、狐を稲荷神と錯覚している人もいるくらいだ。しかし、これまで述べてきたように、稲荷神というのは宇迦之御魂神のことであって、狐はその稲荷神の使いとされる霊獣なのである。ただし、本来は神使ではあるのだが、実際の稲荷社の狐は、たんなる神使以上の存在として活躍しているのも事実である。
 たとえば伏見稲荷大社を参拝に訪れると印象的なのが、参道に立ち並ぶ赤い鳥居のトンネル、それに大小さまざまな数多くの狐塚だ。ここでは木や石で作られた祠にれっきとした神さまとして祀られている。伏見稲荷大社では、狐の神霊は命婦(ミョウブ)神と呼ばれ、ちゃんとした神さまとして待遇されているのだ。つまり、基本的な立場は神の意志を伝える役目なのだけれども、実質的には時に応じて神に代わって人々に御利益を授けたりして、超多忙の稲荷神の手間を省くというわけである。稲荷信仰の大流行の一端は、こうした狐のまめな働きがあったからこそであるともいえようか。
 ところで、狐がいつごろから神使として活動するようになったのかということについては、よく分かっていない。神と生き物との関係はほかにもけっこう見られるもので、三輪山の神と蛇、熊野神と烏、日枝神と猿、八幡神と鳩、春日神と鹿などがある。そのなかでも、蛇、猿、狐などは山の神と関係が深いという共通性を持っている。そこに稲荷神と狐の関係をうかがわせるヒントがあるようだ。というのも、まず狐は山に棲む獣である。そして冬から春にかけては里に降りてきて、穀物を食い荒らす鼠を捕って食べたりする。一方、古代民俗信仰の山の神は、春に山を降って田の神となり、秋の収穫が終わったあとに山に帰ると考えられていた。そうした狐の習性と人々の山神信仰が結びついて、狐が神の使い(あるいは神の化身)と考えられるようになった、という説である。
 また、稲荷神の使いとしての狐には、人に取り憑いて害をなすようなおどろおどろしくて気味の悪いイメージがつきまとう。これは、狐が霊力を持ち妖術を駆使する、という中国の考え方が日本にも入ってきて、稲荷神が真言密教の陀枳尼天と習合したときに発生したものである。そもそも、日本では神聖な山の神の化身とも考えられたくらいだから、妖術も使わないし人を惑わすこともなかった。ところが、大陸の狐のイメージが入ってきた平安時代以降、陰陽師や修験道の呪術者などが狐を使ってさまざまな呪術を行うようになった。そういう呪術者のなかの堕落したものが、人々を誑かして利を得るために、陰湿で怖いイメージを作り上げたのだ。人間に害を与える悪者のイメージは、狐自身の責任とはいえないわけである。

http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/ukamitama.html

2015年7月11日土曜日

三つ引両


盛時の系は鎌倉幕府の滅亡、南北朝の内乱期をよく生き抜き、戦国時代に出た三浦義同(導寸)・義意父子は三浦半島の新井城・岡崎城を拠点として領国の拡大を図った。同じころ、小田原城を奪った北条早雲の勢力が相模を蚕食、三浦氏は北条氏と対立、相模を舞台に戦いを繰り返した。しかし、三浦氏は次第に劣勢に追い込まれ、永正十三年(1516)、新井城は陥落して滅亡した。そのとき、義同の子という時綱が安房に逃れて里見氏に仕えた。時綱は正木を名乗って里見氏の有力武将となり、乱世を生き抜いた。 子孫は紀伊徳川家に仕えて家老となり、江戸時代に三浦に復して幕末まで続いた。 
軍旗 三浦氏の嫡流は、鎌倉時代の宝治合戦で滅亡したが、三浦一族は全国に根を下していた。 
 美作の戦国大名であった三浦氏は、三浦氏の名跡を継いだ三浦介盛時の弟にあたる横須賀時連の流れで、時連の子に杉本下野守宗明の次男貞宗が美作高田に下向、高田城を築き勢力を蓄えていったものという。戦国末期の貞勝・貞広兄弟は毛利氏と戦いを繰り返し、貞勝は戦死、貞広は毛利の軍門に降った。 貞勝の室は宇喜多直家の庇護を受けたが、のちに愛妾となり宇喜多秀家を生んでいる。 
 奥州会津に拠った葦名氏も三浦氏の流れで、三浦介盛時の子光盛が葦名を名乗ったことに始まる。光盛のあとは婿となった甥の泰盛が継ぎ、会津を拠点として次第に勢力を拡大、戦国時代の葦名盛氏は南奥州を支配下におく戦国大名となり、幕府から伊達晴宗と並ぶ奥州の大名と認められる存在となった。 葦名氏からは猪苗代氏・北田氏・藤倉氏・加納氏・新宮氏らが分かれ出て、会津の中世史に足跡を残している。 
 戦国時代、中国地方から北九州までを支配下においた大内氏に属し、有力武将であった周防の三浦氏は三浦平大夫為通の子久良三郎次長の後裔という。しかし、「武蔵七党系図」などから、横山時広の子平子野内広長の後裔とするのが正しいようだ。周防の三浦氏は源頼朝の旗揚げに参加して活躍、 周防国吉敷郡内仁保・深野・長野・吉田・恒富の地を賜って下向し仁保を称したが江戸時代のはじめに三浦を名乗ったものである。 
 江戸時代、美作高田二万三千石の大名であった三浦氏は、三浦義澄の後裔を称しているが系譜的には疑問が残る ものである。家伝によれば三河から出た三浦正重は土井利勝の妹を娶って正次をもうけた。正次は将軍家光に仕えて 活躍、下総矢作に知行を与えられ、ついで下野壬生二万五千石に加増され大名となった。以後、子孫は日向・三河を 経て美作高田に落ち着いた。美作高田は戦国時代にも三浦氏が治めていたところで、よほど三浦氏と縁があったようだ。 
 このように三浦氏の一族は全国に広まったが、その共通の家紋となっていたのが「三つ引両」であった。これは三浦氏の幕が黄紫紅(きむらご)の三色に染め分けられていたことと、三浦の名字にかけて「三つ引両」を用いるようになったのだという。三浦氏嫡流はもちろんのこと、美作の三浦氏、安房の正木氏、会津の葦名氏、越後の三浦和田氏一族、越後・周防の平子氏、肥前の深堀氏、 織田信長に仕えた佐久間一族も三浦氏の分かれで「三つ引両」を用いたことが知られる。 
 いま、三浦を名乗り三つ引両の家紋を用いられている場合、まず相模三浦氏と関わりがあるものと思われる。また、 三浦ではないが三つ引両の家紋を用いているという家も、おそらく三浦氏となんらかのゆかりがあるもと推測される。 

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/51-60/miura.html

三浦氏は相模国御浦(三浦)郡の発祥で、平良茂の孫公義が三浦太郎を名乗ったことに始まるというのが定説である。 すなわち桓武平氏良茂流で、世にいう坂東八平氏の一に数えられる。しかし、三浦氏の系図は『尊卑分脈』のものを はじめとして諸本伝来しているが、それぞれの系図のはじめ、名前、代数など疑問点の多いものばかりだ。中世系図集と して信頼性の高い『尊卑分脈』にしても、平良茂と平良文を祖とした二つの三浦系図が収録されているのである。
 一方、古代以来の姓と名とを類別した『姓名録抄』などによれば、出雲臣族の大田部直の後裔といわれる御浦氏が相模国にいたことが知られる。おそらく、三浦氏は系図の混乱などから推して、桓武平氏を称しているのは後世の仮託で、 大田部直の流れを汲む古代豪族御浦氏後裔の可能性が高いのではなかろうか。
 いずれにしろ、三浦為継(為次)のとき、鎌倉権五郎景正とともに源義家に従い後三年の役(1083)」に出陣して活躍、清和源氏との関係を深めていった。義明は相模国衙に出仕して相模大介となり、以後、三浦氏嫡流は三浦介を称するようになった。国衙を支配下においた義明は一族を相模に配し、 三浦氏からは和田・岡崎・津久井・大多和・多々良・長井・佐原・芦名・矢部・真田・芦田・土屋・佐久間・杉本・横須賀らの諸氏が分出、世に三浦党と呼ばれる武士団を形成したのであった。
 平家に敗れて伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、三浦義明・義澄父子が参加、義明は衣笠城で討死した。鎌倉幕府が成立すると義澄は相模守護職に補され、その子義村、孫泰村らは北条氏に劣らぬ勢力をもつ有力御家人となった。しかし、のちに北条氏と対立するようになり、ついに宝治合戦(1247)で敗れて嫡流は滅亡した。 合戦後、一族の佐原氏系の盛時によって名跡が再興されたが、北条氏の下風に甘んじる存在であった。 


出典
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/51-60/miura.html

三浦義連


三浦一族は源頼朝から遡ること4代、源頼義(988-1075)以来の源氏累代御家人です。父三浦義明は源頼朝の父義朝に従い保元・平治の乱を戦い、伊豆配流となった頼朝を何度も訪れています。
このようなことから源頼朝が挙兵すると三浦氏は一族を挙げて加わります。即座に頼朝の元に進軍するものの、酒匂川の増水により足止めされている間に頼朝は石橋山の合戦に敗れます。
三浦軍は引き返し、衣笠城に籠ります。この中には義連もいたことでしょう。史実に名高いように、衣笠城は平氏方の大軍に攻められます。佐原義連の父であり三浦氏の当主三浦義明は「源頼朝の元にむかえ」と一族を逃し独り籠城戦に散ったといわれています。
この父の壮絶な最後を見た義連の心中深く勇士の魂が刻まれたことは想像に難くありません。弓馬に優れた勇士として知られた義連は、治承・寿永の乱を通じてその力を発揮します。
平氏追討軍では源義経の搦手軍に加わり、西国に出発する際には「戦場に赴くからには再び故郷に帰ることを思わず、骸を軍門に曝し、名を天下に上げ、後世に残さんと欲す」と自らの姿を仏像に刻んだといいます。この仏像は現在も横須賀市佐原にある義連の廟所、満願寺に残されています。
1184年(寿永3年)、世に名高い一ノ谷の合戦における鵯越では「このような崖は三浦では馬場のようなものだ」といって一番乗りを果たしました。
源頼朝が鎌倉入りすると寝所の警護11人のうちに選ばれていることから、信任の篤さが伺われます。後に六波羅探題として活躍し、人望厚く初代連署となった北条時房元服の際には頼朝の命によりその烏帽子親となっています。
その後1247年(宝治元年)宝治合戦によって三浦一族のほとんどは滅びてしまいますが、義連の子孫盛時は、母である矢部禅尼が最初北条泰時に嫁ぎその後盛時の父であり義連の子盛連に嫁いだ縁により北条方についたことから生き残り、相模三浦氏として三浦氏を再興し、会津にあった庶流はあの戦国大名の蘆名氏となりました。

http://kamakura-guide.jp/sahara-yoshitsura

2015年7月7日火曜日

赤沼稲荷神社



赤沼稲荷神社  文治5(1189)、佐原義連公が創建し、義連公に伴って会津にやって来た赤沼内膳が奉祀。
 祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
 御神体の木像丈8寸8分は、佐原義連公と伝えられている。
 伊達正宗公が焼き払ったが、蒲生氏郷公が現在地に再建。
 お日市 7月20日
 ▲(会津若松市旭町)

[出典]
http://www.aizue.net/wakamatusi/tera-kyuusigai.html

満願寺 (五輪塔)



佐原義連の墓

佐原義連の墓  佐原義連が創建したと伝えられる寺。
 観音像には、義連の面影があると云う。


佐原義連の墓 満願寺の説明板


  ▲(横須賀市岩戸1-4-9


[出典]
http://www.aizue.net/todoufuken/kanagawa-goen-ti.html#manganji

照谷寺


照谷寺  天平神護年間(765~767)、開山。
 神護山、天台宗。
 開山した年代から山号を定め、谷間を拓いて草創したことから寺号を決めたとのこと。
 ぬいぐるみや人形を供養する「お炊き上げ」でも知られる。
 会津三十三観音の第二十番札所

 ▲(会津若松市門田町大字御山字館山甲3080 Tel. 0242-26-0149)

[出典]
http://www.aizue.net/wakamatusi/tera-siro-monden.html#syoukokuji

一ノ堰六地蔵



 萩之原六地蔵尊とも呼ばれている。
 寛治4(1090)年、村人の山田近右衛門が草刈をしていると、1寸8分の地蔵尊を発見し堂に安置した。
 天永3(1112)年、大川の洪水で大木が流れ着き、近右衛門の名を呼ぶ。  流木を拾い上げると、目の前に地蔵尊が現れた。
 霊木だと悟り、6体の地蔵尊を刻み、堂を建立し祀った。
 宝永5(1708)年、巡業中の向誉上人が会津に至リ、六地蔵尊と堂宇を修造し、入仏供養をした。
 現在の堂宇は、大正14(1925)年に改築されたもの。
 照谷寺が管轄。
 子供の守り本尊とされており、昔は「二つ子参り」で賑わった。
 昭和30年代の門前は、棒タラ煮が名物だった。
 お日市 8月23日
 会津二十一地蔵尊の第二番
 ▲(会津若松市門田町一の堰字村西)
    ・縁日 8月23~24日

≪一ノ堰≫
 三浦氏が会津を所領とした蘆名時代に、一番目の関所があったことから 「一ノ関 (村)」 と呼ばれていた。
 「いざ鎌倉」で駆けつけられるように、鎌倉街道 (後に宇都宮街道) が通っていたからである。
 寛文年間(1661~1672)の保科時代に、「一ノ堰」と改称された。
 今では、関所の痕跡は何もない。


[出典]
http://www.aizue.net/wakamatusi/tera-siro-monden.html#honmon

佐原義連

 400年も続いた蘆名時代の始祖である。
 三浦大介義明の7男として、三浦半島である相模国の佐原で誕生。  保延4(1138)年の誕生説が有力。
 佐原(横須賀市佐原)に城を構え、佐原氏を名乗る。
 治承4(1180)年の源頼朝挙兵に、一族と共に馳せ参じて御家人となる。
 一ノ谷の合戦では源義経の軍に属し、"逆落とし"で真っ先に駆け下り武功をあげている。

 奥州征伐での功も加わり、会津四郡を拝領する。
 建久2(1191、正治とも)年、地頭として幕の内村に居住する。
 その後、半在家村の国府に館を築き、移り住む。

 孫の光盛公から蘆名氏を名乗り、有力な戦国大名として400年の栄華を誇ることになる。
 室町時代には、京都扶持衆として、自らを「会津守護」と称するほどになった。

宝きょう印塔  宝きょう印塔は、永仁6(1298)年に建立。
 佐原義連公の墓は、半在家 (宝きょう印塔) の他に、
   ・在城の岩尾館 (五輪塔)
   ・三浦半島の佐原の満願寺 (五輪塔)
の3カ所にある。

碑文 碑文  寛文8(1668)年、保科正之公が山崎闇斎に命じ調査を開始した。
 元禄8(1695)年、3代/松平正容公が墓の脇に碑文などを建立した。
 ▲(喜多方市熱塩加納町半在)


[出典]
http://www.aizue.net/siryou/haka-asina.html#yositura