2015年8月31日月曜日

小出氏


これら諏訪神に関係する諸氏に限らず、信濃から越後に遷住した氏族がいくつか知られる。信濃国佐久郡の清和源氏、平賀氏の一族が、越後国蒲原郡で金津、木津、新津などの諸氏を出した例もある。米沢藩主家となった上杉氏の家中には、須田氏、夜交一族など多くの信濃出自の藩士があった。武田信玄により信濃を追われた村上義清の配下に小出大隅がおり、高井郡の仙仁城を居城としたというが、この一族で越後に行った者もあったかもしれない。

  古族では、伊那郡式内社の阿智神社(下伊那郡阿智村智里に鎮座)を古代から奉斎した阿智祝氏の一族にも、越後に遷住した一派があった。すなわち、その支族で、同郡赤須村美女ヶ森(現駒ヶ根市赤穂)に鎮座の大御食神社(おおみけじんじゃ)を奉斎した赤須氏の一族にも小出氏がおり、室町中期に越後国蒲原郡に遷住したと系図に見える。
具体的な系図は『百家系図稿』巻一所載の「小町谷系図」(『古代氏族系譜集成』813頁にも所載)であるが、それに拠ると、赤須太郎安任の弟に小出二郎安茂がおり、その五世孫の小出八郎常宗が康正二年(1456)に越後国蒲原郡松野領に遷って上杉氏に仕えたという。その曾孫の八郎左衛門尉泰親が上杉謙信に仕え、その子の八郎左衛門尉常輔が上杉景勝に仕えたと伝える。
阿智祝氏は八意思兼命の子の天表春命を遠祖としており(実態としては少彦名神後裔の伊豆国造・服部連の同族)、その先祖は、諏訪神建御名方命の東遷や諏訪入りに随行してきたとみられるから、阿智祝一族も諏訪神奉斎に関与したことも考えられる。室町中期の小出八郎常宗がなぜ小出を名乗ったのかの事情は不明である。諏訪上社五官の小出氏と同族であって、なんらかの関係(例えば、その家に養猶子の形で入ったか)があったことも考えられる。そうすると、古くからあった諏訪上社祢宜大夫などの小出氏は、本来、阿智祝の同族であったものか。

  伊那郡小出の地は赤須(駒ヶ根市赤須・赤穂)の八キロほどの北方近隣に位置し、小出のすぐ南には原(阿智祝氏の苗字)という地名も見えるから、このあたりの伊那郡北部には阿智祝一族が繁居していたものか。伊那郡赤穂に起こり橘姓と称した上穂・宮田・赤津・小平〔古平〕の一族も、阿智祝の同族かとみられる。
なお、思兼命を祀る神社として、長野市戸隠(旧水内郡)の戸隠神社の宝光社・中社や埼玉県秩父市の秩父神社が知られる。戸隠の宝光社については、平安中期に阿智祝部の一族(徳武氏)が移り住み、分霊したと伝え、秩父神社は阿智祝同族の知々夫国造一族が奉斎した。
諏訪神党の具体的な系譜のなかに小出氏が見えないという事情も、小出氏が本来、諏訪神党の別族であった可能性を考えさせる。あまり決め手とはいえないが、諏訪神族が主に用いた梶葉紋を小出氏が用いないのも、その傍証か。
 
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/echigokoide1.htm

2015年8月30日日曜日


戦国信濃島津氏は千曲川の西岸善光寺付近から豊野町飯縄町一帯を領した戦国大名で、甲越の川中島の戦いの境目に位置した信濃の国人領主です。
 信濃島津氏は九州島津氏と同根で、忠久が承久三年5月(1221)大田庄地頭職に補せられ、文治二年(1186)正月8日、塩田庄の地頭に補せられました。安貞元年(1227孫の高久が大田庄の地頭職を継いで、長沼に住しました。
 室町期、元中元年(1387)4月、漆田の戦、応永六年(1399)、大塔の戦いでは守護に抗し、守護軍と戦い破った記録があります。永享十三年(1440)3月に起きた結城合戦では、長沼島津氏は時の信濃守護小笠原政康の指揮下、茨城結城城を攻め、結城陣番帳十三番に島津氏の名が見えます。永正(1504-1520)頃には、埴科葛尾城主村上氏に属したようです。

戦国期島津領は本拠とした長沼館、詰めの要害と思われる大倉城、飯縄地方の中心とした矢筒城を拠点としました。
 
 武田が北信濃に侵攻を始めると、島津阿波守は、天文二十二年八月、村上義清と共に上田原において武田晴信と戦い、これを破りますが、天文二十二年(1553)葛尾城が落ち、村上氏は越後の長尾氏を頼ります。弘治元年(1555)には、長沼城が武田に攻略され島津安房守は越後に走りますが、上杉が取り返し争奪があったようです。弘治三年葛山城が落ちると島津月下斉は大倉城に退き、後、島津安房守は越後に落ちます。月下斉、安房守、後述する淡路守は、同一人物島津忠直のことと思います。

矢筒城 飯綱地方の拠点 
病院が建っているあたりに館があり、運河を利用した物資集散する基地としての機能と城下町を備えていた。 

大倉城 
 長沼は島津時代は館程度のもので、大倉城を詰めの城としたのではないだろうか。
 飯山の高梨氏とは緊張関係にあった時代もあり、飯山方面への備えの意味もあったと思います。
大倉城の様子はこちらに http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10311370.htmlまとめました。

永禄四年九月の第四回川中島合戦では、島津勢は上杉軍の先陣として死闘を繰り広げたことでしょう。しかし第四回川中島合戦以降は、長沼は武田の支配するところとなり、長沼館は武田の北信における一大拠点城として改修されていきます。(替佐、壁田、若宮は最前線であり、長沼城が一歩後方の一大拠点) 前線の各城はこちらを御覧ください。替佐城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10086589.html、壁田城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10117498.html、若宮城http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10226597.html

長沼公民館に掲示されている長沼古城図です
  武田により、永禄四年十月、掻揚、何倍もの大きさとした。
        永禄十一年さらに大規模に拡張された。 
 上の図は 江戸時代元和二年(1688)から元禄元年(1688)までこの地を領した佐久間時代以降の城下の図です。外郭は佐久間時代、内郭(三日月掘りの中)が武田時代の城郭と考えます。


信濃島津氏ですが、甲越の争いに際し、当主安房守は後越後上杉を頼りますが、武田を頼った分家が他にあったようです。川中島戦以降も安房守は同じく越後に身を寄せ、後の謙信死後の御館の乱では景勝につき、武田を滅ぼし川中島に入った織田の森長可が本能寺での変で上方へ去ると、上杉軍の一員として信濃を回復し、長沼城に復帰します。文禄三年定納員数目録では信州侍中に知行6190石371人の軍役を担い、さらに二十五人の桂(葛)山衆も抱える大身として島津淡路守の名があります。その後も会津、米沢と上杉に従い、明治の初期に東京へ出、家門を伝えています。
 
 武田を頼った分家は尾張守を当主とする一族だったようです。永禄六年八月に武田晴信が嶋津尾張守に宛、戦乱で逃亡した住人を呼び返すよう命令する文書が残っています。
「長沼地下人并従先々在嶋之族□悉集、可遂居住長沼地者也。仍如件、永禄六年亥癸八月十五日」
また、設楽ヶ原の戦い後、武田勝頼が軍役強化をはかり川中島の土地調べをした際、嶋左京亮津泰忠が知行地を書き出した文書も嶋津泰忠知行注文として残っています。
 上杉に従って会津へ行ったは別に、島津家が当地に現在も伝わっています。
 以下現地の方々からの聞き取りと文献からの私の推論です。
 赤沼の島津家が武田についた尾張守で、武田家中として牟礼三水を安堵され、上杉の会津移封には従来の経緯からついて行かず半帰農し江戸期は飯山藩に仕えたのではないでしょうか。


http://blogs.yahoo.co.jp/mei8812462/10290498.html


2015年8月29日土曜日


 信濃三村氏・(清和源氏頼親流) 
三村氏の城 武居城(朝日村)→妙義山城・釜井庵
三村氏の居城は朝日村西洗馬の武居城であった。 ある時期に芦ノ田の釜井庵に屋敷を構え、背後に妙義山城を 築いたといわれる。、長興寺を開いた時期。・・・妙義山城、釜井館は西洗馬(せば)を中心にして奈良井川西岸に勢力を張っていた 三村氏の居城、屋敷と考えられている。
以下、「戦国 武家家伝信濃三村氏」からの引用による ・・・

『信濃国洗馬郷に本拠。出自は諸説ある。系図によれば、清和源氏頼親の後裔。多田満仲の次男頼親の後裔。・・・『尊卑分脈』の頼親は大和・周防・淡路・信濃などの国司に任ぜられたとあり。信濃守は『国司表』によれば長保元年(999)とあり、在任中は信濃国洗馬郷に居住。その後、訴訟から土佐に流された。赦されのちに再び信濃の洗馬郷に下って、康平七年(1064)同地で死去。これが、三村氏と洗馬郷との関わりの始め。・・・その後、頼親の九代の孫に仲宗がみえ、その子に親綱とあり、仲宗・親綱の代に鎌倉幕府は滅亡し南北朝の内乱の時代となった。
中世の信濃争乱
親綱には数人の男子があり、嫡子親継、次男の親光は、守護小笠原氏と「大塔合戦」に際して一揆方として出陣、兄弟ともに戦死している。・・・『大塔合戦記』によれば、三村孫三郎種貞の名が記され、種貞は親継のことか。この事件で三村氏は中信濃において洗馬郷を本拠とする国人領主として一応の勢力があったようだ。・・・応仁の乱を経て戦国時代になると、信濃も乱れ、守護小笠原氏も分裂して一族が互いに争い、その支配力にも翳りがみえてきた。・・・天文元年(1532)松尾小笠原定基が下条氏を攻めた時、府中小笠原氏は下条氏を支援したが、三村家親は府中小笠原勢に加わり、松尾城攻めに功を立てている。家親のあとは忠親が家督を相続した。・・・天文十七年(1548)七月、小笠原長時が甲斐の武田晴信と雌雄を決した塩尻峠の合戦において、三村長親は長時に離反して武田方となり、長時大敗の主因を作った。
三村氏の滅亡
以後、長親は武田氏に属したが、天文二十四年、甲府一蓮寺において、長親主従200人は晴信によって殺されたと『三村氏系図』に記されている。・・・長親らが信玄に殺害されたことを知った洗馬の一族は一揆を起こして、武田氏に抵抗したが、深志城代馬場によって制圧された。三村一族は戦死あるいは生け捕りされ、三村氏の領地は没収となり、三村一族は没落したのである。・・・長親の嫡男長行は、叔父にあたる岡田伊深城主で洗馬郷をも管掌していた後庁城主の後庁久親の養嗣子となって後庁を相続し、これを名字とした。長行は、天正十年(1582)、当時、深志回復を目論んでいた小笠原貞慶より、後庁の名字相続と洗馬城堀廻三千貫文の知行約束を受け、その忠節を賞されて小笠原家の奉行人に列せられた。』
・・・小笠原家を裏切った父長親と異なり、長行は貞慶に忠勤を励んだことがうかがえる。
・・・*伊深城主の後庁氏は、井深氏のことだが、三村氏と婚姻を繰り返していたことから、同族の意識が深かったと思える。
概略・・・三村氏は洗馬郷の豪族で、古くは北条残党であるが、南朝側の活動は資料に乏しい。幕府側小笠原家へは、初期に反抗し、やがて従属したが、武田が侵攻した時、小笠原長時を裏切り、武田に付いた。武田軍に属した三村長親は謀反の疑いで、信玄に家臣ともども誅殺されると、三村家宗家は滅亡したが、嫡男・長行だけは井深城主の後庁氏の養子に入り命脈を繋ぎ、小笠原貞慶が府中に復帰すると、貞慶の家臣となって仕えたようだ。

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四方赤良  ・・・四方赤良の余談集2 ・・・『其之 63』H17.12.1~H18.1.1
私こと小僧丸・・・小笠原貞慶のこと
天文14年(1545)私こと小僧丸は、大膳大夫信濃守 小笠原長時の3男として生まれました。林の御館(松本市)という山城の麓にある屋敷に暮らし、私には守護の息子として前途洋々の人生が待っていました。しかし、私が5歳の天文19年(1550)、父長時が宿敵 甲斐国の武田信玄に塩尻嶺の合戦で大破し、次々と城が落とされ、生まれ育った林の御館を離れることになりました。馬にゆられて梓川に沿った長い道中を進み、二木豊後守が籠もる中塔城(旧梓川村)に兄や叔父達と入りました。父はそこで武田信玄に徹底抗戦していましたが、それまで従っていた者達が次々と裏切り、無念から切腹しようとしましたが二木に止められ、剃髪して湖雲斎と名乗り、天文21年(1552)大晦日、中塔城を捨てて、北信濃の高梨殿を頼って草間(中野市)へ行きました。そもそも武田は小笠原家とは同族であるのに、何故これほど争わなければならないのでしょうか。「鎌倉の時代、逸見源太清光の2男武田信義と3男の小笠原遠光は兄弟。お互いに甲斐守護と信濃守護を朝廷から受け、累代別々にこれらの地を治めてきた。」と、父は常々口にしていました。・・・天文23年(1554)父は領土回復をあきらめず、弟の小笠原信定殿が武田と戦っている伊那郡の鈴岡城(飯田市)へ向かいました。私達は危険であると言われ、高梨殿を通じて上杉謙信殿の春日城下(上越市)で暮らすことになりました。上杉殿は私達のためにしきりに信濃へ出兵されて武田と戦い、母はいつも感謝の気持ちを忘れてはなりませんと私に言っていました。ある時、父のいる鈴岡が落ちたと知らせがありました。父は三河を経て伊勢国の外宮御師を務める榎倉武国殿という方に厄介になっているとの便りがあり、無事で安堵しました。・・・弘治元年(1555)父が同族である三好長慶という方を頼って、都で落ち着いたとの知らせがあり、私達も向かうことになりました。長慶殿は近畿一帯の覇者で、私達はその領土内の摂津国芥川城下(大阪府)で生活することになりました。父は100貫の領地をもらって、三好家や将軍足利義輝さまに弓馬の師範をしていました。・・・それから3年後の永禄元年(1558)、私は元服して名を小笠原喜三郎と改めました。時折、信濃において上杉殿と武田が激しく争っているとの話が耳に入ってきましたが、生まれ故郷に帰れる日はまだ遠そうでした。父はまだ諦めていないようでしたが、私はすっかり都の生活が気に入ってきました。そしてまもなく、父から秘伝の小笠原礼法を伝授され、私も公家や各地の武将との交流が増えてきました。そんな折、ご縁で日野大納言様の息女を嫁に迎えることになり、幸福に暮らしていました。しかし、都での生活が10年も経とうとした永禄7年(1564)、三好長慶殿が死亡し、我々は家臣であった松永久秀の下に置かれることになりました。彼は足利義輝さまを殺害したり、東大寺を焼くなどし、三好一党内は混乱していました。そのような中で、永禄11年(1568)昨今著しく勢力を広げてきた尾張国の織田信長という者が軍勢を率いて入京してきました。私は三好義継殿に従って桂川で初めての合戦に臨みましたが、叔父の小笠原信定殿が討ち死にするなどして破れ、芥川城も落ちました。母は織田方へ捕らえられ、私は父や叔父の貞種殿などと共に多聞山城(奈良県)に立て籠もりました。しかし、これ以上戦っても勝ち目はなく、三好義継殿や松永久秀殿も織田殿へ従ったので、我々も降伏しました。私は子も生まれ、妻の実家である日野殿とのご縁もあるので京都に留まり、父から伝授された礼法を織田の各将などへ師範していました。そんなこともあって、私は信長殿を通じて従5位下右近大夫という栄誉に叙位されました。・・・それから4年後の天正元年(1573)、武田信玄が死んだとの知らせが私と父のもとに届きました。このことに父がどれほど喜んだことか、父は思案の末、織田殿との縁を私に任せ、自身は深志を取りもどすために再び上杉謙信殿を頼って、越後へ向かいました。既に50も過ぎていたので、あちらで無理をしないかと心配でしたが、上杉殿は父を賓客として500貫もの領地を与えてくださいました。越後での父は、越中国や関東まで出かけて反武田の工作をし、私は織田殿が信濃へ出兵してくださるように嘆願し続けました。そんなかいもあって、天正3年(1575)三河の長篠で武田軍が織田殿に大破し、いよいよもって深志へ帰れる日が近づいてきたように感じられました。しかし織田殿はすぐには信濃へ出兵せず、ただ待つ日が続きました。・・・天正6年(1578)、上杉謙信殿が突然死亡しました。そして、その跡継ぎを巡って争いが起こり、宿敵武田の影響力が上杉家まで及んできたので、父は越後に居られなくなり、天正7年(1579)会津国の芦名盛氏殿を頼っていくことになったと知らせがきました。父は星味庵という場所で暮らしていましたが、しばらくすると私を都から呼び出しました。6年ぶりに父と再会しました。父は70近くになり、随分年をとったと感じました。父は私に家督を譲ると言い、400年続く小笠原家の家宝や旗印を与えられました。そして私は、名を小笠原貞慶と変えました。・・・天正10年(1582)3月、織田殿の軍がいよいよ信濃へ進軍しているとの急報が会津に届きました。かねて織田殿から「信濃へ出兵せよ」との催促があったので、私は父を会津に残し、さっそく譜代の者を引き連れて30年ぶりに信濃へ出陣しました。上杉と武田は同盟していたので、越後口からの入国は厳しく、飛騨国まで迂回してようやく安曇郡の金松寺へ入ることができました。しかし、既に武田家はことごとく滅び、深志一帯は織田軍に制圧されていました。さっそく上諏訪の法華寺に滞陣していた信長殿へご挨拶に出かけたのですが、何故かお目通りが叶わず、さらに深志は木曽義昌へ与えられたことを知って大変落胆しました。しかたなく妻と子がいる都へ戻り、父に合わす顔もないので酒びたりの生活をしていましたが、7月の夜都で騒ぎがあり、信長殿が本能寺で討れました。誰もがその後継を巡って大きな戦が起こると言っており、私はこの機会にかねてから懇意にしていた徳川家康殿を頼って三河へ行くことにしました。・・・岡崎城(愛知県)に着くと、信濃進出を狙う徳川殿は私を喜んで迎えてくれました。家来の石川数正殿へ私の世話を命じられ、「既に深志の木曽義昌は上杉軍(景勝)に攻撃されて逃げ去り、上杉軍に担ぎ上げられた叔父の小笠原貞種殿が治めている」と、話してくださいました。徳川殿の勧めもあって出兵の準備をしていると、有賀と平澤という者が、二木一族と征矢野の書状を持って私のところへやってきました。二木は私に「深志へ来て領地を回復してもらいたい」とのことで、ひとまず溝口・犬甘・平林など譜代の15人と共に伊那郡へ向かうことにしました。鈴岡城は武田によって破却されていたので、既に徳川殿に従っていた一族の下条頼安がいる吉岡城(下条村)へ入りました。すると伊那郡の旧家臣達が兵を引き連れて集まり始め、父と流浪の日々を送った箕輪の藤沢頼親も兵を率いて参陣してきました。私はこれらを引き連れて北上し、塩尻に布陣して小笠原の旗印を高々と掲げました。すると父の家来だった筑摩郡や安曇郡の者達が次々と集まってきました。彼等はみな上杉の傀儡となっていた貞種殿に不満を持ち、父の深志入りを待ち望んでいたとのことでした。そして兵も集まったので、いよいよ深志城の小笠原貞種殿と上杉軍を攻撃しました。城の抵抗は激しく、鉄砲で箕輪の者共が多く討死しましたが二の丸まで落とし、やがて私がいることを知った貞種殿が、総領家に反抗するわけにはいかないと、城を明け渡してくれました。・・・こうして7月18日念願の深志回復を果たすことができました。私は長い都生活において、これからの時代は商売がものをいう時代だと確信しました。武田が築いたこの深志城を中心に、富んだ城下町を整備することを決意しました。私はこれを記念して、家臣一同へ宣言をしました。「今後、深志を改めて松本と号す」
http://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/m/201402

アカヌプ



赤沼の由来はアイヌ語の「アカヌプ(尾根の間の原野)」によるといい、公的文書に最初にその名が現れたのは『天保郷帳』の「従松前西在…(中略)…目名村、右枝村赤沼村」という記述からだという。
住民は炭焼きを行いながら、春はニシン漁に従事する生活を行っていたが、万延元(1860)年に小滝熊吉という人物が水田耕作を始め、以降は平地が少ないので畑の開墾、耕作が盛んになった。
また、地内には「赤沼鹿子舞」という一風変わった獅子舞のような伝統芸能が伝わっている。(厚沢部町や江差町付近の集落にはそれぞれ独自の鹿子舞が多く残っている)


・丸に三つ銀杏
P1160082
あるところにはあるという微妙な存在感を持っている家紋
ない地域にはまったくないが、ある地域には1墓地あたり1件はある程度。
使用家は北さん。

http://hanatare-ruins.doorblog.jp/archives/51874096.html


竜の爪


長野県の珍しい家紋
http://www.nihonkamon.com/nagano/chinmon_nagano.html



家紋名家紋
1糸巻
2揺れ結び柏
3花桐車
4
5王将駒
6ふく
三つ脹ら雀
7丸に先割れ大根
8鷹の羽団扇
9
10             なぎ
丸に抱き椰
11ひし   
菱九曜
12一つ羽根の丸
13       わん はし
丸に椀と箸
14       ひさごぐるま
丸に八つ瓢車
15三つ袋
16三つ帆の丸
17ぼたん あげはちょう
牡丹に揚羽蝶
18           もっこう
三つ結び木瓜
19     りゅうご
丸に輪鼓
20竜の爪



称名寺

大井氏は光長が惣領となったようで、大井光長は信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平五年(1350)信濃国太田荘大倉郷の地頭職について、金沢称名 寺と島津宗久跡代官との争いをやめさせ、称名寺の地頭職をまっとうさせるよう足利直義から厳命を受けている。この光長は『四鄰譚薮』にめる光栄に比定され るが、光栄は「大井朝行の甥比田井入道良鑑の子なり」とあり、にわかに同一人物と断定することは危険といえよう。
 光長の子光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。応永六年(1399)信濃守護に任ぜられた小笠原長秀は大井光矩を伴って佐久に着き、光矩と信濃支 配について相談した。そして、大井氏の館で旅装を整えた長秀は都風に美々しい行列をつくって善光寺に入り信濃統治をはじめた。しかし、国人たちは長秀の統 治を承服せず、村上氏らを中心とする国人勢力と小笠原勢は次第に対立を深め、ついに応永七年(1400)九月、両者は川中島篠ノ井付近で大合戦におよん だ。いわゆる「大塔合戦」である。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ohi_k.html

惟宗忠久


  書き出しは、ほぼ都城市教育委員会の説明版と整合する。源頼朝は1185年、御家人・「惟宗忠久」を、薩摩、大隈、日向国にまたがる荘園「島津荘」の下司職に任命した。その後、忠久は薩摩大隅日向と伊勢、越前、信濃、甲斐の七ヶ国で守護(惣地頭)や、多くの郡地頭に任命されたことが「島津家文書」や「吾妻鏡」に確認できるという。此のうち忠久は、最も広大な島津荘を本貫地にしょうと「島津」姓を名乗ったとされる。  (島津荘は現都城市、高城、一帯さす広大な地域)
 しかし1203年、忠久はこれらの地頭職、守護職を北条氏により停止され、後に回復するが薩摩一国のみであったようだ。忠久はこれ以前、1179年に京都近衛家の下級家司で、春日祭の勅使「春日祭使」の供をした記録が残り、六年後に頼朝の後家人となり鎌倉に移っているので、「惟宗」を名乗った時代も含め「島津家」の発祥地は京都とも云えるし、「島津」を名乗った鎌倉ともいえるとしている。
  では、鎌倉で将軍家に遣えていた「島津氏」がどの様にして南九州を所領化していったのか、三木先生は次のように説明している。

http://www1.bbiq.jp/hukobekki/shimazushi/shimazushi.html

信濃の鎌倉指向


原今朝男 「信濃の鎌倉指向」
(『長野県の歴史』.山川出版社.1997年.p86以下)
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ihara-kesao-shinanono-kamakurashiko.htm


3章 源平争乱から中先代の乱へ

1.義仲・頼朝と信濃武士(略)

2.信濃の鎌倉指向

鎌倉の政争と信濃御家人の変動

 建久十(一一九九)年正月、鎌倉殿頼朝〔1147~99.53歳〕が死去して二代将軍に頼家〔1182~1204.23歳〕が就任した。将軍独裁を進める頼家と、有力御家人による合議政治をめざす北条時政〔1138~1215.78歳〕以下老臣との対立が激化した。頼家は比企能員(ひきよしかず)の娘を妻としていたこともあって、信濃と関係が深かった。彼は小笠原長経・比企三郎・中野能成(なかのよしなり)ら信濃御家人を含む五人を側近に任命して老臣らと対決した。 建仁三(一二〇三)年、頼家は比企能員と結んで時政をのぞこうとしたとして、逆に北条氏に謀殺された。比企一族は根絶され、その関係者として信濃でも中野能成・小笠原長経らはもとより惟宗忠久(これむねただひさ)島津.1179~1227.49歳〕も 所領を没収され、信濃守護職も北粂時政にかわった。忠久の塩田荘地頭職は北条氏のものとなり、信濃における比企氏の権力はそのほとんどが北条氏に継承され た。その後、まもなく中野能成は高井郡中野郷(中野市)の所領を復活させられ、一門から得宗被官となるものをだしている。能成は時政の陰謀に協力したので はないかとの説もある。

 元久二(一二〇五)年、時政は老臣畠山重忠〔1164~1205.42歳〕を討ったあと、妻牧の方とはかって将軍実朝〔1192~1219.28歳〕を 殺害し、平賀朝雅を将軍職につけようとし逆に処罰された。平賀朝雅らは京都で討ちとられ、大内惟信らも幕政から排除された。捧荘や岡田郷なども没収され守 護領となり、平賀源氏一門は信濃から姿を消し、わずかに越後国金津保(新潟県新津市)に小野時信や平賀資義(すけよし)の所領が知られるにすぎない。

 建暦三(一二一三)年には、信濃御家人泉親衡(いずみちかひら)が青栗四郎・保科(ほしな)次郎・籠山(こみやま)次郎・市村近村(ちかむら)らの信濃武士や下総(千葉県)の和田一族らと結んで、頼家の三男千寿(せんじゅ)を将軍にたて北条義時〔1163~1224.62歳〕打倒を計画するという陰謀事件がおきた。張本人の泉親衡は逃亡し追跡をうけた形跡もない。にもかかわらず、幕府の侍所別当和田義盛〔1147~1213.67歳〕の 甥胤長(たねなが)や子義直・義重らが泉に加担したとしてきびしい処罰をうけた。和田一族はこれを不満として北条氏に対し、和田合戦となったが全滅した。 原因は信濃の武士にあったのに、和田方に味方した信濃の武士はだれも参陣していない。この事件を契機に、北条義時の執権としての地位は確立した。 泉氏の本拠地と推定されている小県郡小泉荘(上田市)には泉次郎秀綱の所領があったが、この乱のあと北条泰時〔1183~1242.60歳〕が地頭職をもち荘内室賀郷(むろがのごう)(上田市)を善光寺に念仏科として寄進している。泉氏はその後もこの一分(いちぶん)地頭として存続している。

 建保七(一二一九)年一月、実朝が暗殺され源氏将軍は断絶した。二月には頼朝の弟阿野全成(ぜんせい)〔1153~1203.51歳〕の子時元が駿河で挙兵し、政情不安が広がった。幕府は皇族を将軍に迎えようとしたが、後鳥羽上皇〔1180~1239.60歳〕はこれを拒否し、九条道家〔1193~1252.60歳〕の子頼経〔1218~56.39歳〕を 将軍とすることで妥協した。公家政権と幕府の対立が激化している最中、仁科御厨(大町市)の地頭仁科盛遠の子が熊野参詣で上皇の目にとまり、西面(さいめ ん)の武士として出仕することになった。北条義時は幕命にそむくとして仁科の所領二ヵ所を没収し、上皇の返却命令をも無視した。承久三(一二二一)年、承 久の乱がおきた。京方についた信濃武士には、大内惟信(これのぶ)、仁科盛遠、安達盛長〔1135~1200.66歳〕の弟で滝口であった遠兼(とおかど)の一門友野遠久(とおひさ)、三浦胤義(たねよし)配下の志賀五郎、大妻兼澄(おおつまよしずみ)、福地俊政(ふくちとしまさ)、井上光清らがいた。いずれも公家方の侍か、院領荘園の荘官であった。

 幕府軍は東海道・東山道・北陸道の三軍に分かれて出陣した。春日貞幸が東海道軍、市河六郎刑部(ぎょうぶ)が北陸道軍に属したほかは、信濃武士の大半は東山道軍の将軍武田信光〔1162~1248.87歳〕・小笠原長清〔1162~1242.81歳〕の指揮にしたがった。軍の検見(けみ)として遠山景朝・諏訪信重・伊具右馬允入道(いぐうまのじょうにゅうどう)が任じられた。諏訪社の大祝(おおほうり)諏訪信重が、はじめて郡内をでて出陣した。

 承久の乱後、信濃の武将らは西国に多くの所領を安堵された。小笠原長経は阿波国(徳島県)麻殖保(おえのほ)(徳島県鴨島町)や阿波守護職、大井朝光は 伊賀国虎武保(とらたけのほ)(三重県未詳)、中沢真氏は出雲国掟本荘(よどのほんしょう)(島根県大東町)、平林頼宗は豊後国毛井(けい)社(大分県大 分市)、諏訪部助長は出雲国三刀屋(みとや)郷(島根県三刀屋町)、赤木忠長は備中国穴田郷(岡山県高梁市)などの恩賞地を得た。このほかにも西国に所領 を得た信濃武士が多く、一族が西国に移住する契機がつくりだされた。比企事件で一度失脚した島津(惟宗)忠久は太田荘地頭職を得た。

 貞応三(一二二四)年、執権で信濃守護でもあった義時が死去した。後継者をめぐって義時の後妻伊賀氏が三浦氏と結んで謀反を企て破れた。伊賀光宗〔1178~1257.80歳〕は所領没収後信濃の麻績御厨に流されたが、その年には許され本領八ヵ所を返され、麻績氏を被官としている。

 宝治元(一二四七)年には三浦一族と千葉氏が打倒される宝治合戦がおきた。三浦和田氏の高井実茂父子が討ち死にし、小笠原七郎が三浦泰村〔1204~47.44歳〕らに味方して逐電した。諏訪盛重はこのとき、北条時頼方として無双の勲功をあげ、北条氏の被官(得宗被官)=御内人(みうちびと)として北条氏の勢力拡大に伴い鎌倉でも大きな発言権をもつようになった。

 こうしてみると、信濃御家人は幕府の政争や承久の乱などと深く関係したものが多く、没落したものと、北条氏一門に結びついて興隆したものとに二極分解していった。


北条氏被官の台頭

 諏訪盛重は承久の乱で鎌倉に出仕してのち、北条泰時〔1183~1242.60歳〕・経時〔1224~46.23歳〕時頼〔1227~63.37歳〕の三代執権につかえた。信濃守護も北条義時から重時〔1198~1261.64歳〕へと継承され、信濃の運営は執権泰時・守護重時の手によってにぎられた。嘉禄三(一二二七)年、公家の藤原定家〔1162~1241.80歳〕が信濃知行国主藤原実宣から国務を三○○貫文で請け負った際、泰時・重時の二人に書状をだし協力を要請したのも、信濃国衙領の運営がこの二人によって実質的に管理されていたためといえよう。信濃守護はその後も義宗〔1253~77.25歳〕・久時〔1272~1307.36歳〕と続き重時の子孫が相伝し、北条氏一門からはなれることはなかった。

 信濃の御家人らもしだいに、北条氏の家臣(得宗被官)として活躍するものが多くなった。その典型が諏訪盛重である。鎌倉における盛重の諏訪屋敷は泰時邸 に接しており、鎌倉で政変があるごとに軍功をあげた。時頼と盛重の主従は一連托生といわれるほど緊密で、生前からともに法然〔1133~1212.80歳〕の教えを信じ、時頼は出家し、盛重も出家して蓮仏と称した。 弘長三(一二六三)年、時頼が死去したとき、盛重は時頼に唐衣(からごろも)を着せ袈裟をかけ、西方の壁に阿弥陀仏像をかけ、その前の椅子(いす)にのぼらせて合掌させた。当時の死にゆく人をみとる作法であった。諏訪真性(しんしょう)も時宗1251~84.34歳〕の 執事として活躍し、北条氏の諏訪社崇拝も強かった。 信濃での北条氏所領の核は、将軍家を本所とする関東御領の春近(はるちか)領である。春近領は伊那、国府付近、北信などにあるが、なかでも伊那春近領では 現地に政所(まんどころ)池上氏をおき、郷ごとに地頭代をおいた。小出(こいで)二吉郷(伊那市)には工藤小出氏、名子(なご)(下伊那郡松川町)には奈 古氏がおり、北条経時1224~46.23歳〕らの保護下にあった。伊賀良荘には北条一門の江馬(えま)氏が進出し、江馬光時(みつとき)は家臣四条頼基(よりもと)を現地の殿岡(とのおか)(飯田市)に派遣して支配した。江馬氏は川路(かわじ)郷(飯田市上川路)に開善寺(かいぜんじ)を建立し鎌倉文化をもちこんだ。

 中信では、大内氏旧領の捧荘が二分され、捧荘半分地頭として北条英時が入部し守護領となった。ここを名字の地とする捧氏は近府春近領塩尻(しおじり)郷(塩尻市)にも進出し、得宗被官となっている。国衙領の浅間(あさま)郷(松本市)も北条基時1286~1333.48歳〕の 知行となった。この地には浅間社があり、正応五(一二九二)年にはその復興のため大勧進(だいかんじん)が設置され唐僧の円空(えんくう)が、大般若経写 経事業と供養法要を実施した。北条氏を介して海外貿易の利益が浅間社復興事業に導入された。のち南北朝時代には浅間に国司が着任し、御家人らがここで出迎 え儀礼を行っており、軍勢の集結場所でもあった。鎌倉時代からその重要な国政の場を北条氏がおさえた。

 東信では得宗被官工藤氏の一門薩摩(さつま)氏が坂木北条(さかききたじょう)・南条(みなみじょう)(埴科郡坂城町)の地頭であり、塩田荘には北条義政1242~81.40歳〕か ら時治-国時-俊時と伝領された塩田北条氏がいた。この塩田荘(上田市)は「信州の学海」といわれるほど禅宗文化の中心地となった。船山郷(埴科郡戸倉 町・更埴市)は守護北条英時の所領であり、四宮荘(長野市)には円明を名乗った北条時顕の所領があった。善光寺横山の直下の小井(おい)郷(長野市中越) には得宗被官片穂惟秀後家の所領があり、曽我資光に譲与された。太田荘石村南・大蔵郷(上水内郡豊野町)は北条実時1224~76.53歳〕から金沢称名寺にゆずられた。

 こうして、信濃の守護領が北条氏の所領になっただけではなく、その一門や被官の所領が各地の鎌倉街道に沿って分布することになった。


諏訪信仰の流布と北条氏

 幕府は建暦二(一二一二)年以来、殺生禁断のため全国の守護・地頭に鷹狩りを禁止したが、諏訪大明神の御贄狩(みにえがり)だけは例外とした。寛元三 (一二四五)年と文永三(一二六六)年にもこの禁令を公布し、諏訪社御贄狩以外の鷹狩りを禁止した。このため諸国の御家人らは諏訪社を勧請(かんじょう) してその御贄狩と称して鷹狩りを続けた。諸国の鷹匠は「諏訪の贄掛(にえがけ)」を行い諏訪大明神を信仰した。神氏(しんし)禰津貞道(ねずさだみち)は 東国無双の鷹匠といわれ諸国を遍歴した。この禰津氏が鷹道一流の文書を相伝し鷹道の流祖とされた。

 諏訪社祭礼の頭役(とうやく)をつとめる御家人は国司の任期中の初任検注(しょにんけんちゅう)を免除される特権が認められていた。頭人(とうにん)は 罪を犯しても免罪や赦免の特権を認められ、元応元(一三一九)年には鎌倉番役も免除され、年貢支払いの延期や公事(くじ)の免除などが認められた。北条氏 は諏訪社頭役を特別なものとして位置づけた。幕府の訴訟制度においても、引付衆の五番編成のうち諏訪上・下社で四番を占め東国寺社のなかでも重視されてい た。

 鎌倉末期になって御家人制が動揺するようになると、北条氏による諏訪社へのてこ入れが進んだ。嘉暦四(一三二九)年得宗高時1303~33.31歳〕は 諏訪上社造営目録を制定し、これまで安曇(あずみ)・筑摩両郡三六郷の人夫と在庁一人・書生一人を小行事として材木を調達していた体制を改めて、国司目代 巡役官人を大行事に国内の要路に関所を設けて関銭で宝殿を造営しようとした。御柱・鳥居・不開門・玉垣などを負担する郷村なども定めている。諏訪社の五月 祭・御射山祭(みさやまのまつり)の頭役についても嘉暦四年には一四番編成にかえた。五月祭は左頭(さとう)・右頭(うとう)・流鏑馬頭(やぶさめのと う)・御射山祭は左頭・右頭の合計五分担であるので七○頭を御家人が単独、または寄子(よりこ)と複数で共同負担する制度となった。このうち、一頭を単独 で勤仕しているものは二一頭であるが、うち一二頭はいずれも北条一門、五頭(和田隠岐入道・薩摩祐広・阿曽沼下野前司跡・大井次郎入道・島津上総并大隅入 道)が関東出身の有力御家人で、信濃御家人はわずかに四頭(小諸太郎・波田判官代跡・諏訪時光・須田太郎跡)のみである。諏訪社の祭礼も北条氏が主体と なっており、少数の有力関東御家人と多数の中小信濃御家人が共同で負担するという階層的な編成がみられるようになっている。


善光寺信仰の発展と北条一門

 信濃守護北条重時1198~1261.64歳〕の兄泰時1183~1242.60歳〕は、延応元(一二三九)年、善光寺に不断念仏用途として小泉荘室賀郷(上田市)の田地六町六反を寄進し、一二人の念仏衆と灯明料を負担した。その兄弟の名越(なごえ)朝時1193~1245.53歳〕は鎌倉に善光寺を造立しただけではなく、信濃善光寺金堂を建立し、寛元四(一二四六)年、子息光時が大供養を行った。その二ヵ月後、光時は前将軍頼時頼経の誤り〕とともに北条時頼〔1227~63.37歳〕を 討とうとしたとして処罰された。名越氏が失脚し、かわって建長五(一二五三)年、守護北条重時が善光寺修造を成就し大供養を実施した。弘長三(一二六三) 年、得宗時頼はみずから善光寺裏の深田郷(ふかたのごう)(長野市)を売得して一二町を金堂不断念仏衆と法華経を転読する経衆の用途に寄進した。北条氏に よる善光寺興行も政争と密接な関係があった。文永二(一二六五)年幕府は、善光寺近辺の悪党鎮圧と警固のために設置されていた奉行人の制度を廃止し、信濃 守護北条義宗〔1253~77.25歳〕に管理させた。和田郷(長野市)の和田石見入道仏 阿、平林郷(長野市)を中心とした原宮内左衛門入道西蓮、窪寺郷(長野市)の窪寺左衛門入道光阿、御庁(ごちょう)郷(長野市)の諏訪部(すわべ)左衛門 入道定心らがその職を解かれた。善光寺周辺に所領をもち、石見守・左衛門尉などの官途をもち、出家法名をもった御家人の合議によるそれまでの善光寺の治安 維持体制が廃止されたのである。あらたな統制策は、幕府が守護北条義宗を通じて直接施行する体制になった。守護による善光寺統制の強化である。

 善光寺の寺院内部でも鎌倉との結びつきが強まった。一遍〔1239~89.51歳〕が善光寺にはじめて参詣した文永八年〔1271〕、焼失して再建された本堂の落慶法要が鶴岡八幡宮別当の隆弁僧正1208~83.76歳〕を導師として行われた。執権北条時宗1251~84.34歳〕は蒙古襲来のもとで専制権力で寺社を掌握する必要から、時頼の兄経時1224~46.23歳〕の子頼助1245~96.52歳〕を鶴岡八幡宮別当に就任させ、その後は政助北条宗政男.1265~1303.39歳〕・顕弁(けんべん)金沢顕時男.1268~1330.63歳〕・有助〔1277~1333.57歳〕と北条一門が別当に就任した。正安元(1299)年善光寺で塔再建の曼荼羅(まんだら)供養が行われたときも、鶴岡八幡宮別当政助が大阿闍梨(だいあじゃり)をつとめた。鎌倉鶴岡八幡と善光寺との結合関係が強化されていった。


悪党・訴訟の増加

 文永五(一二六八)年、蒙古高麗の国書が朝廷にもたらされ、異国降伏の祈祷が全国の寺社に命じられた。御家人による防衛体制がととのえられ、文永十一年の文永の役と弘安七(一二八四)年〔弘安四(一二八一)年の誤り〕弘安の役をはさんで幕府滅亡まで異国警固番役(いこくけいごばんやく)が強制され、全国的な臨戦体制がつくられた。外には蒙古襲来、内には悪党の蜂起という外患内憂が、鎌倉幕府の支配をむしばんでいった。

 信濃で善光寺周辺に悪党が活躍しはじめるのもそうした時期である。文永二年1265〕幕 府は、悪党鎮圧と寺辺警固のために設けていた善光寺奉行人を、権限以外の雑務を行い非法があるとして廃止した。この年善光寺は焼失した。このころ、京都の 善光寺別当静成法印(ほういん)が派遣した雑掌大和法橋(ほっきょう)は、年貢未進や非法行為をはたらき、権別当職を賄賂で改替してしまった。弘安七年1284〕、信濃は奈良興福寺の知行国になっており、目代に定尭(じょうぎょう)が派遣されたが、彼は検注物や年貢を横領するなど非法を繰りかえしついに解任された。このように支配機構内部からその統制を乱したり叛旗をひるがえすような事件が増加した。幕府内部でも弘安八年1285〕、政権の中枢にいた安達泰盛〔1231~85.55歳〕と得宗被官である御内人平頼綱?~1293〕が 合戦し、そのあと全国各地で戦闘が続発する霜月騒動がおきた。安達泰盛とその一族は討伐され、佐久郡伴野荘の地頭伴野一族は安達氏と姻戚関係にあったこと から、伴野長泰(ながやす)と長直(ながただ)らが戦死し伴野彦二郎は信濃で自害した。伴野氏の本流が没落したあと、伴野荘有力郷地頭には北条氏一門が入 部した。足利氏もその一分地頭職を獲得したらしく有力御家人が進出していた。

 信濃の武家社会にも動揺が広がり、経済的に困窮する武士のなかには御家人役をつとめるため、借財するものや所領を売るものがでるようになった。水内郡太 田荘津野郷(長野市)の地頭島津久長は、建治三(一二七七)年六条御所造営役の二五三貫文が負担できず、大工の宗仲に津野郷を三年間の収益六○○貫文で年 季売にだし、その期間延長をめぐり裁判になった。永仁三(一二九五)年にようやく勝訴したが、彼は神代郷中尾村(上水内郡豊野町)をめぐる相続争いで伊達 (だて)念性の娘とも裁判になっていた。当時は分割相続であったから、御家人の伊達氏に嫁いだ女子分が、島津氏の所領から伊達氏のものになるのを防ごうと したのである。

 こうした所領相続をめぐる一門や姻族との訴訟裁判はこの時期激増していた。高井郡中野郷(中野市)を拠点に水内郡志久見(しくみ)郷(下水内郡栄村)の 越後国境まで勢力をもっていた中野氏は、三代忠能の娘袈裟御前(けさごぜん)が市川重房の後妻となり市川盛房を養子にして所領を相続させた。中野氏と市川 氏はこの遺産相続をめぐって、以後南北朝期にかけて長い裁判を続けることになり、結局中野氏は市川氏にとってかわられた。

 伊那春近(いなはるちか)でも小出氏一門の道覚と盛綱が年貢負担をめぐって争い、正応元(一二八八)年北条貞時1271~1311.41歳〕の判決をうけた。筑摩郡吉田郷(塩尻市)でも赤木盛忠と忠澄の兄弟が郷内の田や小池郷の在家を争って裁判となり、嘉元三(一三〇五)年、忠澄領とすることで和解となった。

 永仁三年1295〕小県郡海野(うんの)荘(小県郡東部町)では小田切(おだぎり)兵衛次郎が賀沢村(同町加沢)の田と在家を望月重直に売却した。こうした御家人による質入や売却地の増加を食いとめるため、永仁五年1297〕徳政令が だされたが歯止めにはならなかった。更級郡石川荘二ツ柳(ふたつやなぎ)郷(長野市篠ノ井)では、幕府の有力奉行人であった三善康基の名田が、正和五(一 三一六)年に四五貫文で八年間年李売りされた。伊那郡飯島郷(上伊那郡飯島町)でも飯沼幸憲(ゆきのり)は鍛冶在家(かじざいけ)を、飯沼道郁(どうい く)は飯沼郷塚下(つかした)の出畠を西岸寺(さいがんじ)(同町)に売却した。こうして所領を失う御家人が増加し、地頭御家人制が内部から崩壊していっ た。

島津忠直



今回の記事に副題を付けるならもう一つの島津氏といったところか。
島津忠直は信濃国・長沼島津家の国人で島津長忠の子。
通称として喜七郎、淡路守と伝わる。

戦国時代、信濃国長沼城を本拠とし、村上氏、高梨氏らと共に武田信玄の侵攻に抵抗したが、
1557年に本拠を離れ上杉家の家臣となる。
1582年、武田氏滅亡・本能寺の変後の織田氏退去により、長沼城を任される。
その後、家督を嫡男の義忠に譲り、慶長3年(1598年)の上杉氏の会津移封の際にはそれに従って信濃を去り、
陸奥長沼城を与えられた。
同年、嫡男・義忠が死去したため、岩井信能の子・利忠を義忠の娘婿にして家督を継承させた。
1604年8月1日、死去。


以下に長文になるが、もう少し詳しく信濃における島津氏を見ていこう・・・。

中世、北信濃の水内郡(上水内郡)長沼を領した国人島津氏は、
薩摩の戦国大名、島津氏の同族である。
島津氏初代である島津忠久は、1185年信濃国・塩田荘地頭職、
ついで南九州島津荘総地頭職に任ぜられ、
その後に薩摩・大隅・日向守護職に補任された。

1221年には信濃国太田荘地頭職を与えられ、同年の承久の乱での活躍をもって、
一時越前国守護職にも補任されたという。
1227年に忠久が鎌倉で死去した後は嫡男である忠時が後を継ぎ、
次男忠綱は越前守護代となり越前島津氏の祖となった。

その後、忠綱は指宿郡、知覧院を与えられ、
その嫡男忠行は1279年、播磨国下揖保郷地頭職に任ぜられ子孫は代々播磨国に居住したという。
指宿郡と知覧院は忠景が継いで子孫はそこで知覧氏を称した。
(武田信玄の信濃侵攻の際、降った赤沼郷島津氏はこの忠景の子孫といわれている)

島津氏は鎌倉時代を通じて信濃各地に所領を有したが、
そこで信濃一宮である諏訪社の祭祀を勤め、
薩摩に諏訪社が勧進されたり、
上井氏など諏訪系の武士が島津家中に見えるのもそこに由来するものであるという。

やがて南北朝対立の頃には、
島津宗家は薩摩・大隅を本拠とし、
信濃との関係が希薄になるにつれ信濃に残った庶子家が独立化を始めた。
そうして信濃の島津氏は長沼を支配し国人へと成長していったが、
その長沼島津氏の初代は島津国忠であると考えられている。

南北朝時代末期には、島津国忠は村上氏、高梨氏らと結んで、
信濃守護である斯波氏と対立し、斯波義種を守護の座から逐うなど力を持っていたとされる。
斯波氏に代わり小笠原長秀が信濃守護となって新たに信濃に入部してくると、
長秀は信濃一国の統治に着手したが、やがて村上満信や島津国忠などは長秀と対立するようになり、
1400年両者は武力衝突に発展し(大塔合戦)、戦いは国人側の勝利で終わった。

その結果、一時期、信濃国では国人が勢力を大きくしたが、
後に幕府の討伐作戦などによって徐々に室町幕府体制が浸透していった。
そうして1425年に小笠原政康が信濃守護に補任されると信濃の国人たちは小笠原氏に従うようになった。
1440年の結城合戦では、小笠原政康が信濃の軍勢を率いて出陣したが、
このとき信濃勢として島津氏は高梨氏、須田氏、井上氏、海野氏など有力国人らと並び出陣した。
このことは信濃の島津氏が国人として高梨氏らと同等の力を有していたことを示している。

戦国期にさしかかり、清忠の嫡男である貞忠の頃に長沼島津氏は戦国乱世を迎えた。
領地のある北信濃は地理的に越後に近く、
1477年に越後守護の上杉房定が半国守護になったことで、
越後上杉氏の影響を受けることが多くなっていった。
また、室町時代の中ごろから高梨氏が次第に勢力を拡大するようになり、
1463年には上杉氏の軍を破った高梨政高が中野に進出する足掛かりを作り勢力拡大していくのだが、
このことは北信濃の長沼島津氏の領地支配にも多大な影響を与えることになったのである。

やがて越後において、1507年に守護代である長尾為景が、
上杉定実を擁して守護権力排斥クーデターを起こすと、
それにより弟の房能を殺された上杉顕定が、
長尾為景・上杉定実を追い払うべく、
関東の軍勢を率い越後に出撃しそれらを破り、越後を支配下においた。

翌年、勢いを盛りかえした長尾為景が顕定勢を各地で破り、
上田長森原の戦いにおいて上杉顕定を討ち取ったが、
それに際し高梨政盛は長尾為景に与力し、上杉顕定を討ち取る活躍を見せたのである。
このように高梨氏は長尾氏との関係を深めつつ
国人の立場から北信濃の領主へとその立場を築いていったのである。

他方、高梨氏の勢力拡大を危惧する島津貞忠ら北信濃の国人は、
長尾為景の専横に対し反感を抱いた越後守護・上杉定実の実家である、
上条上杉氏らを恃んで兵を挙げると、
村上氏の力添えを受けて上杉定実を支援し、
長尾氏の支援を受ける高梨氏と対立した。

こうして、北信濃に勢力を拡大していた高梨氏は一転して四面楚歌に陥ることになったのであるが、
長尾為景が上条氏らの乱を制圧したことにより形成は逆転し、
長尾為景は北信濃に圧力をかけ始める。
これにより事態に窮した島津貞忠は、
永正十六年に高梨氏を頼んで長尾為景に和議を結び弟の元忠を越後に送った。

1524年頃には高梨政頼が長尾氏を後楯として北信濃に帰国し領主的権力をより強めていったが、
これに対し島津氏は、村上氏を後楯として、
かろうじて勢力を維持するほかない状況に陥っていたのである。
その中で1536年に貞忠が死去すると長忠が後を継ぎ、やがて長忠の子である忠直が継ぐが、
中信濃を支配下におく守護小笠原氏や北信濃に勢力を誇る村上氏などの二大勢力、
これに南信濃の木曽氏、諏訪社祝の諏訪氏、
そして越後上杉氏、甲斐武田氏らの抗争に翻弄されながら、
島津忠直はよく戦国乱世の真只中を生き抜いたのであった。


やがて戦国時代も中頃になると信濃は武田の侵入を受け、その攻撃に敗れた小笠原氏、村上氏らは、
高梨政頼を通じ越後の長尾景虎(上杉謙信)に支援を求めた。
しかし、武田氏の信濃侵攻は衰えず、長沼の島津氏も含めて信玄の攻勢に窮した北信濃の諸将らは、
越後の長尾景虎の出陣を願ったので、
こうして有名な長尾景虎と武田晴信による川中島の戦いが始まるのである。 

しかし、数度に渡る戦いも決着がつかず、武田軍は高梨政頼を攻撃、
政頼は中野から飯山に逃れ長尾景虎に救援を求めたが、
武田軍の度重なる北信濃侵攻の前に島津忠直も長沼城を退き、大蔵城に移ることになった。 
結局上杉謙信の力をもってしても北信濃回復はならず、
合戦の終了をもって武田の信濃支配が確定し、
島津忠直らの北信濃復帰の望みは完全に断たれたのであった。

その後、上杉謙信、武田信玄と死去したが、
武田氏は織田の大軍により滅亡し北信濃は織田氏の支配する所となった。
上杉氏は「御館の乱」を経て景勝(謙信の甥)が家督を継いだが、
島津忠直と義忠の父子は景勝に味方して戦功をあげ、
特に義忠は三度の感状を受けるなど上杉家中で活躍した。 

やがて本能寺の変が起こり織田氏の勢力が信濃から去ると、
北信濃に侵攻した上杉景勝に従い島津忠直は長沼城に復帰を果たした。
長沼城主に返り咲いた島津忠直は河北の郡司や犀川北一円の支配を任せられるまでに重用され、
上杉氏、徳川氏、北条氏が三つ巴になっての草狩り場となった信濃での争いにも参陣し、 
1583年上杉景勝と真田昌幸との虚空蔵山での戦い(義忠は軍目付として出陣)で戦功をあげ、
翌年の信濃旧領奪回を図る小笠原貞慶との戦いでも上杉方で義忠はおおいに奮戦した。 

やがて中央では織田家の羽柴秀吉が台頭し、上杉景勝は秀吉の麾下に属した。
その後、1598年に入り、景勝は会津への移封を命じられて越後を去ると、
島津忠直も長沼城を去って会津に同行し、改めて岩代長沼で知行を与えられた。
この年、嫡男の義忠が病死したため、岩井信能の二男利忠を養子に迎えたという。

関ヶ原の合戦では西軍の上杉景勝は戦後会津120万石から米沢30万石に転封されたが、
忠直らはなおも景勝に従って信夫郡小倉に移り、まもなく忠直は死去した。
そこで子孫は米沢藩重臣として続いたという・・・。

あまりにも薩摩の島津氏が有名な為、
長沼島津氏の影は薄いが、
上杉家中にあっては重用されるなど、
働きや忠節には当主からは高い評価を受けたのであろう・・・。
同族であるから、薩摩の島津氏同様に優れた才覚を持ち合わせていたのではないかと思う。
ただ惜しむらくは、信濃の群雄割拠、そして武田の強大な力の前に、
戦国大名化するほどの力を蓄えることが出来なかったことだろう。

http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/blog-entry-179.html

信濃島津氏の自立と島津本宗家との対立


『東国荘園における当知行と職』
1、太田荘と地頭職
2、大倉郷地頭職相論と国人領主島津氏
3、信濃島津氏の自立と島津本宗家との対立

http://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun5/pdf/104008.pdf

信濃国太田庄相伝系図


島津家文書』三〇六「信濃国太田庄相伝系図」には、島津忠久承久3年(1221年)5月8日、「幕府下知状」によって水内郡太田庄地頭職に補任された後、鎌倉末期までの太田庄(田畑三百四十町余)の荘園経営に関連した一族の系図が示されている。太田庄領家は島津氏に縁の深い摂家近衛家であった。「信濃国太田庄相伝系図」、嘉暦4年(1329年)3月の「北条高時下知状」によれば、幕府は輪番をもって、信濃国御家人に諏訪社五月会・御射山の祭祀の役を勤めさせており、豊後前司忠久(島津氏高祖)、大隈前司忠時(薩州2代目)、彦三郎左衛門尉忠長(忠時孫)、弥三郎入道称阿頼祐(忠時孫)、五郎右衛門尉忠秀越前島津氏忠綱曾孫)、左京進光忠(忠久3男忠直曾孫)らが祭祀の役を勤めていることが示されている。
承元4年(1210年)それまで善光寺地頭であった長沼宗政が解任され、窪寺氏原氏諏訪部氏和田氏の四氏が奉行となった記録がある。
興国3年康永元年(1342年)大倉郷の帰属をめぐって称名寺との間に所領を争い、長く続いた。
元中4年嘉慶元年(1387年)5月、室町幕府から任命された守護斯波義種に反抗する長沼太郎は村上頼国高梨頼高小笠原清順ら国人領主達と善光寺に挙兵した。平芝にあったとされる守護所を攻めて麓の漆田原で合戦となった。同年8月には斯波氏の守護代である二宮氏泰が占拠篭城していた横山城を国人領主達が激戦の末攻め落とした。この後も敗走する市河氏らを追撃して埴科郡生仁城に転戦している。
応永6年(1399年)信濃守護となった小笠原長秀に抵抗した島津国忠が小笠原方の赤沢氏櫛置氏らと対立し水内郡石和田(長野市石渡)での抗争があったとされる。これが大塔合戦の前哨戦といわれている。
忠久以降、島津氏一族は太田庄の各郷の地頭職を補任され、相伝した。このなかに長沼家と赤沼家と称する支流が知られている。長沼家と赤沼家の両家は、戦国時代を生き抜くため、協力し、赤沼家が長沼家をたよって、両家とも米沢藩上杉氏に仕官している。
『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』によると、天文5年(1536年)に亡くなった時宗の遊行上人第26代他阿空達は、信濃島津氏の出身である。

2015年8月27日木曜日

『上杉将士書上』



甲斐の武田信玄と並び称される戦国武将、越後の上杉謙信麾下には、数多くの勇将、猛士がいたといわれている。
 七人衆、十一人衆、御側二十一人衆、三十一人衆、三十五人衆、八竜、四虎など、さまざまな呼称があり、上杉二十五将というものもある。これは、元和元年)1615)上杉家の家臣、清野助次郎と井上隼人正という者が書き置いたものを、寛文九年(1669)五月、大老酒井忠清を通じて幕府に提出したという『上杉将士書上』のなかに登場する武将たちである。
 『上杉将士書上』は、上杉軍役帳その他に出てくる武将たちの略伝で、二十五将以外にも名高い人物、例えば直江山城守兼続らが書き上げられ、なかには、実在を疑われる武将の名もある。鬼小島弥太郎一忠もその一人で、筆者も気がひけたものか「二十五将の外にて候」とことわっている。 
 二十五将の名前を列挙すれば、


長尾越前守政景宇佐美駿河守定行新津丹後守義門金津新兵衛尉義舊北条丹後守長国
本庄美作守慶秀本庄弥次郎繁長色部修理亮長実甘糟備後守清長杉原常陸介親憲
斎藤下野守朝信安田上総介順易高梨源三郎頼包柿崎和泉守景家千坂対馬守清風
直江大和守実綱竹股三河守朝綱岩井備中守経俊中条越前守藤資山本寺勝蔵孝長
長尾権四郎景秋吉江中務丞定仲志田修理亮義分大国修理亮頼久加地安芸守春綱
*北条丹後守長国は北条高広の嫡子で「御館の乱」に景虎方へ加担した景広、安田上総介順易は会津三奉行の一人で有名な安田能元である。また、色部修理亮長実は長真の名乗りも知られる。
の二十五将である。


ちなみに、米沢上杉祭で採用されている二十八将を下記に列記してみた。上記の二十五将と見比べると、興味深いものがあるといえよう。 
柿崎和泉守景家新発田因幡守治長島津左京進規久水原壱岐守隆家斎藤下野守朝信
竹俣三河守広綱須田相模守親満松本石見守景繁下条薩摩守実頼本庄越前守繁長
安田冶部少輔長秀長尾近江守藤景新発田尾張守長敦山吉孫次郎豊守加地安芸守知綱
高梨源太郎政頼大河駿河守忠秀鮎川摂津守清長井上河内守清政綿内内匠守広綱
村上左衛門尉義清色部修理進勝長宇佐見駿河守定勝中条越前守藤資古志駿河守秀景
大崎筑前守高清甘粕大江守景持直江大和守実綱  


http://www2.harimaya.com/uesugi/k_busyo.html

島津 忠秀



島津 忠秀(しまづ ただひで)は鎌倉時代末期から南北朝時代武将歌人宇宿氏宇留氏信濃島津氏赤沼家の祖。

生涯[編集]

信濃国赤沼郷に地頭職を有し、諏訪大社御射山祭の頭役も務めた。元弘3年(1333年)5月7日、足利高氏(足利尊氏)が六波羅探題を攻撃した際には、六波羅探題方の将として太政官庁・神泉苑周辺を守る(『太平記』巻第九)。六波羅探題滅亡後は室町幕府に帰順したと考えられ、康永4年(1345年)、天龍寺供養の際に導師夢窓疎石の天蓋の執綱を務めた「島津常陸前司」(『同』巻第二十四)も忠秀と考えられる(杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』第6章)。祖父忠景・父忠宗と同じく和歌の才に恵まれ、『続千載和歌集』、『続後拾遺和歌集』に入集。『武家百人一首』にも採歌されている。

作品[編集]

  • いにしへの 野中の清水くまねども 思ひ出てぞ袖ぬらしける (『続千載和歌集』雑下・『武家百人一首』)

赤沼忠秀島津忠宗子忠景孫忠綱曾孫忠久玄孫大夫判官島津常陸

http://www.geocities.jp/kawabemasatake/
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/ogasawa.html

長沼光忠島津時忠子泰忠孫忠直曾孫忠久玄孫宮里左京
  忠春光忠孫宮里忠連子島津薩摩仕足利尊氏文和頃
  氏忠忠春子島津民部
政忠島津左京康暦至徳頃
国忠氏忠子太郎島津刑部道忠?応永頃長沼城主
道忠
朝忠道忠子国忠子?島津薩摩入道常忠享徳長禄頃
信忠朝忠子島津兵庫寛正文明頃
清忠信忠子島津薩摩文明頃
  貞忠====1536清忠子島津兵庫大隅永正頃
長忠貞忠子島津兵庫
  忠直====1604長忠子喜七郎昔忠島津淡路入道月下斎長沼城主
義忠====1598忠直子島津左京
  利忠義忠嗣岩井信能子清三島津玄蕃
  通忠利忠嗣中条盛直子市十郎島津玄蕃
  元忠清忠子治部
宮里忠連長沼光忠子島津時忠孫泰忠曾孫忠直玄孫忠久耳孫島津下野
直久忠連子藤三郎
好久直久子三郎太郎
禅久好久子左近右衛門
久氏禅久子左近
忠朝久氏子三郎五郎
忠安忠朝子三郎四郎
久光忠安子
忠常美作
忠里

忠継下野三郎四郎文和頃
赤沼忠秀島津忠宗子忠景孫忠綱曾孫忠久玄孫大夫判官島津常陸
忠国島津常陸入道徳阿
朝国忠国子島津常陸
規久島津左京
  忠吉島津尾張安房入道?永禄頃
  泰忠忠吉子孫五郎島津左京常陸忠泰矢筒城主仕武田晴信上杉景勝
  良忠泰忠子孫五郎永禄頃?

  忠隠泰忠甥孫右衛門
忠政忠隠嗣駒沢主税子源太左衛門孫右衛門

平兵衛規久裔仕真田信幸寛永頃
宇宿忠継赤沼忠秀子島津忠景孫忠綱曾孫忠久玄孫五郎左衛門
久賢左馬
久家兵庫
久清右馬
久平小次郎
久形越中
久明右衛門
久時彦五郎浄久
久氏彦八郎
久正====1587若狭
久成対馬
久広1618====若狭
久敬八右衛門

久貞久正子弾次郎
久純久貞嗣緒方氏治部左衛門
島津実忠忠宗子?忠景孫?忠綱曾孫?忠久玄孫?左近豊後道光?仕足利尊氏建武頃
忠信忠氏曾孫忠綱玄孫赤沼忠秀子?忠章島津安芸祖海
  貞高
  大進====1610仕堀直寄
野田長興
  国長



小笠原家 常陸 



http://www.geocities.jp/kawabemasatake/ogasawa.html

小笠原貞宗12921347宗長嗣長氏孫長政曾孫松尾長忠玄孫小笠原長経耳孫長清昆孫加賀美遠光仍孫逸見清光雲孫武田義清裔源義光流小笠原長氏子?豊松丸彦五郎右馬治部信濃仕足利尊氏信濃守護
   政長貞宗子豊松丸孫二郎右馬兵庫遠江信濃 信濃守護
   長基13471407政長子松王丸豊松丸孫二郎兵庫弾正甲斐三河信濃 信濃守護
長将長基子小二郎
   持長長将子政康子?長秀嗣又一郎彦二郎大膳信濃 信濃守護
   清宗持長子又二郎信濃
   長朝14431501清宗子政秀嗣豊若丸又二郎民部大膳信濃
      貞朝14611515長朝子豊松丸又二郎右馬修理信濃永源?
      長棟14921542貞朝子豊松丸又二郎民部従四位下大膳修理信濃 林城主
      長時15141583長棟子豊松丸又二郎右馬従五位下大膳信濃湖雪斎 信濃守護深志城主
      長隆====1581長時子又二郎右馬
      長頼長隆子
   長元長頼子
      貞次長時子右馬

      貞慶15461595長時子小僧丸喜三郎従五位下右近民部
      秀政15691615貞慶子幸松丸貞政信濃上野従五位下兵部 古河松本城主
      忠脩15941615秀政子幸松丸信濃
      長次16151666忠脩子幸松丸信濃中津城主
   長章16371675長次子上野
   長胤16681709長章子長勝嗣大助修理
長勝16461682長次子辰之助内匠信濃

      忠真15961667秀政子春松丸忠政大学右近侍従徳叟紹勲松本明石小倉城主
      長安16181667忠真子千松丸兵部
   長宣16311663忠真子大和
忠雄16471725忠真子万松丸長真弾正遠江右近侍従暁山紹栄
真方16521709忠真子備中
忠増忠真子坂牧嗣
長弘忠真子

      忠知15991663秀政子虎松丸壱岐吉田城主
長矩16241678忠知子千勝丸山城長頼
長祐16441690長矩子千代松長治長教民部能登壱岐
長重16501732長祐嗣長矩子兵助佐渡吉田岩槻城主
長敦忠知子
長定忠知子
長秋忠知子
長一忠知子

   忠慶秀政子
長俊秀政子乙松丸
昌行秀政子

   貞種長棟子清蔵洞雪斎

   定政貞朝子兵庫左衛門憩庵
   長政定政子下総
   信綱長政子民部
   広政定政子広正
   広重広政子
   信元広重子
   信重信元嗣広忠子
   信盛信重子
広朝広重子越中
   権之丞広朝子徳川家康胤?
   広忠広重子孫六郎孫左衛門仕榊原康政
広信広忠子

   貞政長朝子
   頼貞貞政子長継傅松岡右衛門?出雲休庵閑庵
   頼貞頼貞孫?兵部
貞利====1585頼貞子松岡右衛門

俊宗持長子
宗則持長子近江

長秀長基子長将嗣豊松丸又二郎兵庫修理信濃 信濃守護
長義長秀子五郎


      政康====1442長基子土用犬丸豊松丸彦五郎右馬治部大膳信濃 信濃守護
   宗康====1446政康子松尾五郎大膳左京信濃 信濃守護
   政秀====1493宗康子政康子?光康嗣国松丸彦二郎彦五郎政貞兵庫左京鈴岡城主信濃守護
   長貞政秀子
   信定15211569長棟子孫二郎民部松尾鈴岡城主
   長継信定子山城左近
   信時 鈴岡城主?

      光康政康子宗康嗣伊那六郎遠江信濃 信濃守護
      家長====1490光康子六郎左衛門甲斐
      宗基====1511家長子六郎定基左衛門兵庫弾正甲斐
   貞忠====1550宗基子六郎左衛門弾正
      信貴====1579宗基子孫六郎左衛門相模下総信濃 松尾城主
      信嶺15471598信貴子十郎三郎掃部徹州道也 松尾本庄城主
      信之信嶺嗣酒井忠次子左衛門
      政信信之子左衛門
      貞信政信嗣高木貞勝子土佐

長親信貴子日向

   光長光康子小四郎刑部
      長宗政康子伊奈四郎
   朝康政康子治部

   宗政貞宗子鈴岡孫三郎

   長義長氏子長政子?弥五郎蔵人

   長記新八郎
   長和孫十郎
   長穂甚十郎

経氏長氏子津毛三郎太郎
為経
光宗為経子

   兼経与次 仕小笠原貞宗信濃守護代建武観応頃
   経義兼経弟与三 信濃守護代
政光十郎次郎康永頃
宗光又三郎康永頃
行継太郎次郎行嗣康永頃
   長俊孫四郎
   宣貞次郎四郎
   政道蔵人

政直隼人伯耆
元吉政直子次郎兵衛
政信政直弟主水
政吉政直弟軍兵衛政氏

政季七郎
政信政季弟八郎豊後
政頼政信子高林善八郎
信長政信子大草三郎左衛門

貞正====1585但馬
伴野長房泰行子長直子?長泰孫時直曾孫時長玄孫小笠原長清耳孫長房玄孫弥三郎出羽康永頃
  長信長房子?次郎明徳頃
貞棟====1480弥四郎上総

  光利跡部時泰裔佐渡入道了然
  光信光利子讃岐
  貞祥光信子左衛門刑部大永頃
  貞慶光信子刑部
  貞頼貞慶子刑部
  信豊貞慶子貞祥子?左衛門主殿相模
  信守====1582信豊子刑部仕北条氏直
  文市郎====1582信守子
  貞長15641583信守子貞慶子?又一郎?刑部
  貞信信守子万次郎仕北條
信是信豊子左衛門
  貞秀貞慶子光信子?兵庫天文頃
  貞政仕徳川忠長

  祥政光信子
徳忠光利子

貞景
貞基
貞因
弥五郎

時泰
時教

信直

時景

時正出羽
真武時正子右近
直時真武子志村又右衛門貞盈貞晴

重実大膳
君家善七郎

重清長房孫伯耆仕蘆名直盛天授頃
光実伯耆天正頃
大井光長朝行子行光孫光長曾孫朝光玄孫小笠原長清耳孫信濃守護代
  光矩光長子信濃守護代
  持光光矩子越中
  政光持光子信貞
  安房丸政光子

光照持光子
貞清光照子岩尾弾正
貞家光照子根々井宮内
信直光照子耳取兵部
光忠光照子小諸伊賀
光安光忠子
信広光照子武石大和
正棟====1593信広孫武石民部竹葉軒
信定信広子和田大炊

定光朝行子右衛門
懐光陸奥
持光越前
教光越前
成光小太郎佐渡
宗成教光子
教長持光子伊予

光栄行時子行光孫甲斐
光房光栄子治部光矩


  政光光家子時光孫光長曾孫大室十郎次郎?
政朝政光子
  政則政光子
政茂政則子
  政信政則子
  忠孝政信子
  忠重忠孝子玄英
  忠次忠孝子小諸城主
  忠勝忠次子伊予
貞隆忠孝子刑部長窪城主
  貞清====1575貞隆嗣忠孝子左衛門大山仕武田晴信内山城主
清宗内山美濃仕村上義清
忠右衛門
高貞?内山清左衛門?

  成頼====1537忠孝子平賀武蔵玄信源心平賀城主
  政勝成頼子
  政行
  政治
  政俊
  政継政勝子
  政成
  政吉
  政重政成子
  政景
  政次政重子
  政忠政成子
  満実忠成高政?左馬道賢仕武田晴信小室箕輪城番
  満安15421627満実子小兵衛忠勝満雪河内一道箕輪高崎城番
  高政内藤昌月子左馬


行高行泰子光泰孫光長曾孫長土呂
行忠
行豊
行春
行俊岩尾弾正
行満
行真
行頼岩尾弾正
行吉岩尾次郎左衛門
行照
行泰
行永


長行行景子行氏孫光長曾孫耳取三郎

高幸甘助
下条長広長益子康長孫長親曾孫長能玄孫小笠原長経耳孫
  長賢長広子
  氏長長賢子
  長信氏長子
  長家長信子

頼氏応永頃
景氏
義氏
運磧
康氏小笠原政康子元弘?吉岡城主文明頃
家氏康氏子元経?雲石入道?文明長享頃
元経家氏子?伊豆
時氏家氏嗣元経子源太伊豆
信氏15291582時氏子兵庫弾正伊豆仕武田晴信足助岩村城番
  信昌====1582信氏子戌千代丸信正兵庫
  康氏1575====信昌子牛千代丸康長兵庫仕小笠原秀政
  権八信昌子
  頼安15561584信氏子兵庫兵部
氏長====1582時氏子九兵衛仕武田勝頼織田信長
次郎九郎====1582氏長子
祐教====1582時氏子

信秀三助

九兵衛
二木政経小笠原貞宗子宗長子?永用七郎治部修理弾正真根建武頃
  貞明
  重明====1471貞明子七郎
  重基右衛門
  重信重基子豊後
重高重信子豊後中塔城主
  重吉重高子豊後寿斎
  重次重吉子八右衛門足軽大将千見城番
  玄琢重次子八右衛門入道
  盛正重高子六右衛門
  光吉六右衛門
  寿閑光吉子平左衛門入道
  政久重信子土佐
  縫殿政久子
  重直縫殿子岩波平左衛門貞重
  宗末重信子六郎右衛門
  宗久宗末子市右衛門
  宗重勘五郎弥右衛門
  彦兵衛
  政信====1615彦兵衛子勘右衛門
  正成惣兵衛
  宗興庄左衛門
板西宗満近藤周家裔小笠原貞宗子孫六彦三郎掃部刑部弾正
由政宗満子兵庫
長由由政子伊予
政忠長由子伊予
政重政忠子内蔵
康維政重子康雄
政重子正仍
子伊予
政之政俊子政重子?伊予?
長重政之子若狭
長忠====1562長重子左衛門周次飯沼城主
織部長重子

長国由政子次郎応永頃
頼国
中川清政小笠原政長子二郎遠江
秀行清政嗣小笠原長基子中河三郎豊犬丸
溝口氏長小笠原政長子孫二郎左馬兵庫民長?
  貞長氏長子三郎次郎土佐
  貞勝
貞信秀重子?備前
長信
長友貞信子氏友右馬美作
  長勝====1554長友子右馬鈴岡城主
  貞泰長友子美作秀康貞秀貞康
  政房貞泰嗣小笠原秀政子式部
政登政房子蔵人

正慶保科正直子民部

秀行氏長子
政行秀行子
秀重政行子上野
山中政宗小笠原長氏子四郎
長信政宗子孫四郎
長宗政宗子彦四郎
長泰三河
頼直周防
常盤光宗小笠原長氏子常葉十郎次郎
  忠成丹後
光常五郎
光信五郎左衛門
光泰丹後嘉吉頃
信泰
虎安彦太夫
信安四郎左衛門
定満平左衛門
万左衛門
八郎
島立重長溝口氏長子三郎太郎
貞時小笠原長秀子相模
貞永貞時子万蔵
貞政貞永子七蔵
貞知貞政子右近
  貞方貞知子侍大将
  内膳風間惣左衛門子

氏長右近四郎永正頃
中牧長弘小笠原長宗子平十郎式部
長重長弘子平十郎甚左衛門
重政長重子左近甚兵衛
伊豆木経朝小笠原尾張
   美作応永頃
長臣小笠原信貴子伊豆木孫六靱負
長重長臣子図書
長泰長臣子靱負
長朝長泰嗣知久直政子孫右衛門靱負
良隆長臣子
泰政長臣子
高畠重正勘解由
赤沢長興経顕嗣安経孫清経曾孫小笠原長氏子二郎氏宗氏経孫太郎弾正伊豆
経興長興子小笠原長氏孫彦太郎伊豆常興弾正
  経光経興子弥太郎治部長興?
  武経経光子伊豆
  満経武経子荒次郎秀国?対馬旭入道不説斎仕小笠原長秀信濃守護代
教経満経子
  経隆教経子
  朝経====1507経隆子常盤十郎源次郎信濃沢蔵軒宗益山城三郡守護代「澄元党」
  長経====1508朝経嗣新兵衛信濃「澄元党」
  致見====1582長経子信濃宗伝板西城主
致信致見子
重清致信子出羽

  政経朝経子政盛
  経智15111574政経子又太郎式部伊豆玄澤仕小笠原長時
長勝15321558経智子又助弾正内膳心月仕三好長慶
経直経智子小笠原貞経 仕相馬
経治経直子経康
秀経経治子
貞信経治子
景経貞信子
貞晃景経子
貞経経治子貞則直経
時経貞経子
常春貞経子
常喜常春子
貞之経治子
貞久貞之子
豊経経直子
守経経直子

幸純経隆子?福王寺修理大和
  重経幸純子信濃
  重嗣美濃

  義経経隆子

康経
頼経
頼泰二郎三郎次郎左衛門
信重修理利也

経氏十郎
経満上総仕真田昌幸
経定経満孫嘉兵衛
安経経定子九郎左衛門
光永経定子藤兵衛

  但馬応永頃
  駿河応永頃
  景盛 「晴元党」
  景存掃部天文頃
  三郎奉行人 応永頃
  朝宗三郎四郎仕細川持賢

  政吉新蔵人 康正長禄頃
政真兵庫
政定永正頃

  季政明応頃
  義政加賀 長谷城主仕内藤宗勝
  慶政
鹿之丞

貞綱右馬
大池昌信赤沢清経裔右馬
昌勝昌信子右馬
勝秀昌勝子玄蕃
昌武昌信子丹波
昌元昌武子丹波

清行小兵衛
小左衛門清行子
喜右衛門清行子
昌行清行子小兵衛
行咸清行子弥三右衛門
中島貞興小笠原清宗子?
正延
宗延
明延
清延茶屋四郎次郎
清忠
清次清延子
道澄====1663四郎次郎
延宗四郎次郎

長吉清延子新四郎長意
良延新四郎

宗理清延子小四郎

宗安15271573宗延子主膳
安隆15491614源左衛門
宗嗣15521565宗安子左京
安経宗安子掃部

宗重宗延子源左衛門
宗治宗延子頼母
古河重成七郎左衛門小笠原九郎左衛門塩崎城主
重吉15761637重成子古河善兵衛仕上杉景勝福島奉行郡代
武田文元弥六仕小笠原政長正平頃
  上野応永頃
秋山与一小倉城主仕小笠原
平賀政信義行子時村孫時朝(小野時信)曾孫飯沢朝信玄孫大内義信耳孫平賀盛義昆孫源義光流
義泰
頼親
信親
義成
盛信
成朝
信朝

成盛右京入道仕村上義清
犬甘義信義行子義長孫敦行曾孫敦義玄孫平賀盛義耳孫又二郎
  泰信右京仕足利尊氏建武頃

政信八郎大炊
政徳政信子大炊犬甘城主
時定政徳子毛利九右衛門
定房時定子九右衛門
時房時定子九左衛門
時吉時房子四郎左衛門
  政信政徳子治右衛門
  久知政徳子半左衛門侍大将
久信久知子外記
政知久信子半左衛門
知信久信子又右衛門
久次久知子主馬帯刀
知親久知子孫平次

  貞知主馬

忠経平賀四郎建武頃
平瀬国知犬甘流民部
八郎左衛門
忠興太郎左衛門
光之忠興嗣犬甘久信子太郎左衛門
穴沢貞長犬甘泰信裔兵衛太郎応永頃
長宗貞長子右衛門西心定鎮仕山内憲実
家長長宗子小次郎仕長尾景家
景長家長子次郎右衛門仕山内顕定
泰長景長子源左衛門
長勝泰長子新右衛門仕長尾政景
忠長長勝子善左衛門
長兼忠長子勘七郎
長吉長兼嗣戸田忠秀子源七郎源兵衛

信兼泰長子弥九郎
信廉泰長子彦九郎
信秀信廉子目黒半兵衛半右衛門
信義信秀子長次郎吉左衛門

信利景長子孫右衛門主計鉄可
主殿信利子

信包景長子又二郎
信忠信包子長興又八
長実信忠子八右衛門助右衛門
長通長実子八右衛門助右衛門

貞兼家長子兵衛四郎
貞次貞兼子兵五郎
信次貞次子喜兵衛

家道長宗子彦三郎
俊家家道子越前太郎越中文明頃仕蘆名盛高
  俊清俊家子越中

  俊直俊家子十郎
  家清俊直子主計
  信春家清子新九郎
  春満家清子

俊恒俊直嗣泰長子加賀信徳
  俊光俊恒子新右衛門信堅
  俊次====1583俊光子助十郎新右衛門広次仕蘆名盛重
  光茂俊次子

  長世惣次郎平賀内蔵
長英長世子惣次郎伝右衛門
桐原真智犬甘流内蔵寛正頃
  真実市正
  真貞蔵人
  真基織部
征矢野宗信
宗澄宗信子大炊
宗功宗信子甚助
山家為家康正頃
  為光和泉寛正頃
光家仕小笠原長朝文明頃
孫三郎====1480光家子
左馬
伊藤景宗作右衛門
  景重市兵衛作右衛門
  景定作右衛門
加納信員大江四郎太郎仕小笠原政長建武頃
佐藤元清蔵人仕小笠原長基
櫛置清忠櫛木石見入道応永頃
  五郎太郎
神田将監
田口長慶
長能左近
  越前
下枝田久綱右衛門
服部清正
  清信左衛門清延
折野真実藤右衛門
山部左馬
昌実左馬子薩摩昌治松寿近松斎
昌矩====1575昌実子藤九郎民部?
左馬昌実子
漆田秀興
  秀豊
貞秀


仁科氏重義重裔源義仲流?信濃重貞
貞重
  行重貞重子
盛忠貞重嗣義勝嗣?関盛之子横瀬千代丸関孫三郎仁科弾正
盛国盛忠子孫三郎弾正安芸
政盛盛国子
持盛14231480政盛子盛房嗣盛時右近弾正
盛直14461513持盛子弾正盛誉
明盛持盛子孫三郎弾正盛明
盛国明盛子孫三郎盛胤?弾正
盛能盛国子明盛嗣太郎孫三郎道外安芸?
  盛康14951557盛国子高梨政頼子?修理盛光盛東内膳
  盛政15281561盛康子孫三郎右衛門尾張上野

  盛兼盛直子
  盛氏持盛子
  盛久盛氏子

盛房13601433盛国嗣盛忠子実盛子?盛遠裔孫三郎弾正大文字一揆盟主

  盛冬四郎
  盛宗左近武者所恩賞方仕足利直冬
  盛光駿河応永頃

  義勝義元子道信孫吉道曾孫
  義隆
義直
義延
義隆
義茂
盛行
関 盛之====1333盛広嗣?盛元孫?平清久曾孫?盛兼玄孫?横瀬盛明子盛純孫盛長曾孫盛則玄孫平維盛耳孫重盛昆孫清盛仍孫蔵人関日向盛長?
  盛安土佐仕仁科明盛
盛春
盛国盛春子
  春光右馬入道秀繁享禄頃
春仲安芸
盛永春仲子
政氏太郎左衛門
政直右近
政勝民部
細萱盛知仁科政盛子盛秀子?持盛孫?大伴治部文明長享頃
  通知
高知治部永正頃
清知三河天文頃
長知河内文禄頃
彦右衛門慶安頃
穂高盛政細萱盛知子
盛棟盛政嗣古厩盛晴子仁科盛国子?内膳左京筑前
  盛員盛棟子仁科内膳
  盛数内膳新左衛門

政氏
安久彦右衛門
政次安久子保長彦右衛門仕南部重直
康之政次子彦右衛門仕南部重直寛文頃
古厩盛晴穂高盛政子因幡
盛兼====1552盛晴嗣仁科盛国子明盛孫平兵衛因幡
盛勝====1583盛兼子穂高盛棟子?因幡
盛時====1583盛勝子平三盛隆平蔵永禄頃
盛親盛勝子与五右衛門仕小笠原秀政先手足軽大将
  盛利盛勝子何右衛門仕小笠原秀政
堀金盛公穂高盛政子安芸
広盛盛公嗣仁科盛国子明盛孫金蔵清国平太夫盛広
小岩岳盛親====1552仁科盛国子明盛孫
盛通====1552盛親子
正盛盛親子
松田盛直仁科盛政子?織部盛正?
  盛定盛直子?仁科盛政子?孫三郎松田越中盛朝
  盛利盛定子金十郎盛親図書
  安盛盛利子国千代孫三郎盛定日山
  直重盛直子?弟?
丸山盛慶仁科明盛子肥後日岐城主
盛高盛慶子兵庫肥後?
  盛次盛高子?日岐城主
盛直
  盛武盛直弟
盛為盛高子丹波
盛秀盛高子九郎右衛門内蔵
  貞政盛高子?
  政知貞政子丹後仕平瀬
  盛知盛慶子盛和
  直政将監
  宗有直政子亀右衛門入道
飯森盛照仁科盛忠子
春盛仁科盛国子明盛孫十郎
幸春====1557
六郎右衛門幸春子
三郎右衛門
渋田見盛家仁科盛国子伊勢政長安芸
  盛安盛家子伊勢
   長盛盛安子長生寺伊勢入道天宗弘治頃
   正直長盛子政長
   盛直縫殿
   盛治勘解由
   盛次平兵衛与一左衛門
星野盛通仁科盛能子内膳
細野盛郷仁科明盛子
北沢盛実仁科持盛子
  実清
  吉次対馬
千国盛信仁科盛忠子鬼八郎?
  利秀丹波
千日忠縄伊藤豊前
盛縄次郎大夫
盛孝盛縄嗣仁科盛政子盛能子?
  盛清盛縄嗣仁科盛政子盛康子?甚十郎
盛正盛清子
直信盛正子
盛吉盛清子
盛久盛吉子
沢渡五郎応永頃
盛方====1570仁科盛康子兵部盛則
  盛忠九八郎
  牛乗
須沼盛氏
  盛之
大和田盛久大蔵
土屋盛俊十郎
酒井吉信坂井常陸仕仁科長享頃
清信坂井弾正仕村上国清
  為直小田切豊前弟新八郎新左衛門
為行為直嗣河野辺内匠子新六郎新左衛門
勒負
高根高明伊勢嘉吉頃
等々力定厚豊前
次右衛門
野口政親尾張
  成吉佐渡
小宮山政知大蔵
塩島勝雄但馬
耳塚元直作左衛門

青柳清長仁科盛国子盛清子?盛能子?近江勘解由左衛門
  頼長====1587清長子伊勢
  長迪====1587頼長子
新吉頼長子

重郷半治郎
重村
重治====1640
重隆====1660
重之====1692源右衛門
利左衛門重治子
太兵衛重治子
半重郎重治子
六右衛門重治子
茂兵衛重治子
麻績盛清兵衛太郎
  清長勘解由左衛門
  光貞市之丞
関岡光吉又助仕青柳
  光助宮内右衛門

三村仲宗仲経弟仲氏子仲親孫親綱曾孫
親綱仲宗子
親継親綱子
忠親親継子
親朝忠親子
家親親朝子
忠親家親子
長親忠親子駿河
  長政

  重親長親子
  親房重親子

  勝親

  種貞孫三郎応永頃
後庁重常岡田親義流
出羽
  久親出羽嗣三村長親弟
  長行久親嗣三村長親子勘兵衛七郎左衛門
  勝親久親子三村長親子?織部
  親胤勝親子
  親晴勝親子




村上義日====1333信泰子胤信孫信村曾孫安信玄孫為国耳孫盛清昆孫仲宗仍孫源頼清雲孫彦四郎右馬義光義暉仕護良親王
  朝日義日子義隆?蔵人
義武朝日子
義信義武子?師貞子?
義弘義武嗣頼員子頼泰孫頼久曾孫頼冬玄孫清長耳孫定国昆孫為国仍孫顕清雲孫仲宗裔頼清流河野通助玄孫治部法橋元弘頃
  信清義弘子?義信子?
  師清義弘嗣師貞子信貞孫
義胤師清嗣義信子師貞孫

  国信信泰子
  義忠国信子

信貞信泰子源蔵人河内 信濃守護信濃惣大将
  貞頼信貞子?河内仕足利尊氏文和頃
  師貞信貞子満範
  義康師貞子

  師国信貞子中務至徳頃
  満信師国子中務応永頃
植清満信子直清稙信中務永享頃
持清植清子仕足利持氏
  成清====1554持清子勝信濃久留里城主仕足利成氏義明里見
  信清成清子信穏子?勝左衛門
  清政信清子左衛門
  清義
  行遠成清子勝長門信澄?仕里見
  信穏孫左衛門
  
  国綱
綱清====1558国綱子三郎左衛門民部米本城主仕足利義氏
  胤遠綱清子助三郎




  義国信泰子左衛門国信?
頼国義国子
  国衡頼国子義国子?
  国清国衡子頼衡
満清国清子満国
  政国満清子政清兵部信濃
  顕国政国子中務頼平?
  義清15031573顕国子武王丸左衛門兵部中務周防
義利====1561義清子常陸
  義長====1573義清子左衛門
義照1543====義清子
  義邦1544====義清子

  義兼====1534顕国子頼平?右兵衛
  義房義兼子義満?
  国清15461592義兼子義清嗣山浦主水嗣義房?山浦源五景国仕上杉景勝海津城代
  景国15911636国清子武丸与三幸清織部
  忠清景国子武丸本多与三
  義豊忠清子景国子?源三右京

  高国15711659国清嗣会田清幸子出浦藤五郎村上兵部道楽斎
  高清16371713高国子源五 

義利====1561顕国子政国孫義清子?常陸
義満義利子?

  頼房政国子三河長享頃
義顕政国子
頼胤政国子
  高国与四郎

  氏頼掃部仕足利尊氏文和頃
  頼満掃部

  房義義康子胤信孫四郎蔵人
  義久房義子
  貞世義久子
  宗康貞世子
  実敏貞世子

  左京入道永享頃
  彦三郎
出浦清種成国裔村上為国流左衛門主計
  清正清種子下野
清長
  清春清長子小太郎正左衛門
清次清春子

  盛清====1623清種子対馬守清盛為?仕村上義清森長可真田昌幸岩櫃城代
  幸久盛清子対馬
幸吉幸久子半平
幸生幸吉子織部
新四郎幸生子
安豊幸吉子五左衛門
幸重安豊子幸生嗣半平

国則周防

数馬
屋代仲泰仲時子家盛孫仲盛曾孫村上明国玄孫村上為国耳孫
  仲国仲久子上条仲基曾孫屋代仲盛曾孫
師国越中明徳頃
頼国明応頃
時貞頼国子
貞昌四郎宝徳頃
  信仲頼国子左馬寛正文明頃
信光信仲子
満照村上国衡子能登
  正重満照子信光子?
  正国1520====正重子太郎左衛門義綱越中安芸政国
  基綱====1548正国子源五
  正長====1575正国嗣室賀満正子清綱基綱?
  秀正15581623正国嗣室賀満正子左衛門越中玄張 小諸城代
  忠正15941662秀正子甚三郎越中
  忠興16191663忠正嗣朝倉宣正子甚三郎
忠位16471714忠興嗣朝倉宣季子越中

信経直経裔彦七暦応頃
室賀貞信屋代流?康正頃
宗国山城
盛清====1540宗国嗣屋代満照子下総入葉軒
信俊====1575盛清子経俊行俊兵部山城一葉軒禅松?仕武田晴信武者奉行
  満正====1582信俊嗣屋代正重子勝永大和禅松?
  正武満正子兵部
満俊15601626正武嗣満正子源七郎兵部
  正俊満俊嗣屋代秀正子源七郎
正勝正俊子
正信正俊嗣

  経秀盛清子治部正武?
盛房経秀子
経籌盛房子新之丞西沢与三左衛門

吉久盛清子甚七郎
楽厳寺光氏屋代正重子室賀駿河和泉満氏
   左馬
雅方
竹内昌吉室賀盛清子常陸
光定昌吉子彦右衛門光貞
幸定光定子権右衛門
堀田之吉豊後
清野国俊国仲裔惟国流村上盛清流左衛門伊勢重昌
清秀====1565国俊子伊勢信秀直盛左近?道寿軒
  清重清秀子?右近

  清運====1547六郎次郎友澄
  
  信■左近美作?仕武田晴信
満秀与次郎刑部左衛門?美作?
満成15651629満秀子?清重子?越中

範真====1592左衛門康祐清入軒清寿軒仕武田晴信上杉景勝荒砥城番
長範====1634範真嗣平田常範子助次郎長秀周防伊南城主
秀範長範子伊勢松与一郎淡路帯刀
重範秀範子右京内膳大学

良範長範子喜之助主馬
重兼良範嗣小川重次子勘兵衛
東条信広遠江
利長佐渡
利光利長子加賀右衛門
利房利光子作兵衛主税
利広利房子作兵衛
吉次利光子造酒
雨宮義正義衡裔国信流村上義実流義次子顕清裔国信子?摂津
  正常
  正家
  正法昌秀摂津
  正利====1548正法嗣清野清秀子三郎兵衛刑部
  景信====1582正利弟丹後

  為邦秋山光朝流?志摩
正重為邦子
家次正重子?正法子?十兵衛
正次家次子
正重正次子
  昌茂家次子十兵衛平兵衛
政勝昌茂子

盛政又左衛門
猶良志摩
良晴猶良子織部景尚
良信良晴子作左衛門
良猶良信子宮内
  
  家国====1500摂津
国正家国子尾張国政仕武田信縄永正頃
  忠正仕武田信虎
  正種16121671権左衛門政次京都町奉行

栗田国寛朝国嗣国義孫国時曾孫仲国玄孫寛覚耳孫寛禅子寛暹孫寛光曾孫寛賀玄孫寛明耳孫寛覚(範覚)昆孫村上為国仍孫
国俊文明頃
寛慶====1496
寛高寛慶子
寛安1531====鶴寿?寛明?
寛久15501581寛明子?鶴寿寛安
寛喜15741646寛安子永寿国時?刑部善光寺別當
久吉寛喜子伝右衛門源右衛門仕酒井忠当
万吉寛安子

寛秀====1600寛安弟寛明子?孫六郎国信永寿刑部国時大森城代
寛政寛秀子?刑部?

寛毫寛禅子
寛城
寛崇
寛秀戸隠別当応永頃
寛用
寛栄
寛空

  寛範文和頃

寛祐寛覚裔

民部
貞好民部嗣登坂広重子?七兵衛左衛門
弘好貞好子掃部五郎左衛門
延好弘好嗣永井杢助子与兵衛
布施広重寛円子栗田寛光孫寛賀曾孫寛明玄孫寛覚(範覚)耳孫村上為国昆孫太郎
広光左近
広行
広泰源次郎兵庫応永頃
広綱源八兵衛
広頼布施田淡路
広長太郎兵衛
広延又太郎

広直広頼子
広恒広直子四郎兵衛
広光広直子六郎大夫了閑
広映広光子布施田半次郎
長章広映子山城
長映長章子左京
広久広直子与一

寛昭広行子
広良広光子小三郎
二郎三郎広良子
広次広重子二郎兵衛
平林頼直
正直頼直子布施左衛門
  正頼正直嗣
正俊正頼子左衛門
正家正俊子藤左衛門肥後包忠
  正恒15501622正家子与八郎恒忠蔵人仕上杉景勝白河福島城将郡代奉行執事
正興正恒子与八郎内蔵
正信正興子与太郎靱負
正久正興子与三郎内匠
正豊正興子覚兵衛
正光正興子伊勢松与一郎権兵衛

  弥右衛門
  式部左衛門
  藤七郎
  市正

  直長頼直弟
滝沢仲住屋代景仲子仲綱孫仲盛曾孫
盛政能登
千田有親仲親子親清孫仲清曾孫村上為国玄孫
宗康
  康信
信頼讃岐応永頃
福沢像阿千田流
信胤
清胤五郎文明頃
政胤左馬延徳頃
顕胤五郎享禄頃
顕昌修理
昌景

顕賢
林 常重村上流能登
  左源次
  与兵衛
飯野信宗左京上総享徳頃
  宮僧丸
清宗
吉益清忠与一勘解由
清経与一伯耆
  清長与三郎大炊
  信経伯耆文明頃
  家能右近
清水康徳三河

芋川長知盛家裔大中臣流
秀親楠木正任弟盛秀子盛宗孫盛信曾孫正盛玄孫正秀耳孫正儀昆孫正成仍孫右衛門
正章右衛門仕最上義光?武田晴信
  親正15391608正章子秀親子?越前正親正元若宮牧野島白河大森城主
綱親親正子元親嗣彦八郎弥一右衛門
高親綱親子志摩助九兵衛若狭中務
長親綱親子掃部主税
相親長親子三辰内記
家親綱親子三弥市兵衛
伝十郎家親子牛之助

  親守====1575正章子彦太夫大学守親
  元親親守子親正嗣彦三郎縫殿彦右衛門?備前
為親元親子三之丞市正


長沼光忠島津時忠子泰忠孫忠直曾孫忠久玄孫宮里左京
  忠春光忠孫宮里忠連子島津薩摩仕足利尊氏文和頃
  氏忠忠春子島津民部
政忠島津左京康暦至徳頃
国忠氏忠子太郎島津刑部道忠?応永頃長沼城主
道忠
朝忠道忠子国忠子?島津薩摩入道常忠享徳長禄頃
信忠朝忠子島津兵庫寛正文明頃
清忠信忠子島津薩摩文明頃
  貞忠====1536清忠子島津兵庫大隅永正頃
長忠貞忠子島津兵庫
  忠直====1604長忠子喜七郎昔忠島津淡路入道月下斎長沼城主
義忠====1598忠直子島津左京
  利忠義忠嗣岩井信能子清三島津玄蕃
  通忠利忠嗣中条盛直子市十郎島津玄蕃
  元忠清忠子治部
宮里忠連長沼光忠子島津時忠孫泰忠曾孫忠直玄孫忠久耳孫島津下野
直久忠連子藤三郎
好久直久子三郎太郎
禅久好久子左近右衛門
久氏禅久子左近
忠朝久氏子三郎五郎
忠安忠朝子三郎四郎
久光忠安子
忠常美作
忠里

忠継下野三郎四郎文和頃
赤沼忠秀島津忠宗子忠景孫忠綱曾孫忠久玄孫大夫判官島津常陸
忠国島津常陸入道徳阿
朝国忠国子島津常陸
規久島津左京
  忠吉島津尾張安房入道?永禄頃
  泰忠忠吉子孫五郎島津左京常陸忠泰矢筒城主仕武田晴信上杉景勝
  良忠泰忠子孫五郎永禄頃?

  忠隠泰忠甥孫右衛門
忠政忠隠嗣駒沢主税子源太左衛門孫右衛門

平兵衛規久裔仕真田信幸寛永頃
宇宿忠継赤沼忠秀子島津忠景孫忠綱曾孫忠久玄孫五郎左衛門
久賢左馬
久家兵庫
久清右馬
久平小次郎
久形越中
久明右衛門
久時彦五郎浄久
久氏彦八郎
久正====1587若狭
久成対馬
久広1618====若狭
久敬八右衛門

久貞久正子弾次郎
久純久貞嗣緒方氏治部左衛門
島津実忠忠宗子?忠景孫?忠綱曾孫?忠久玄孫?左近豊後道光?仕足利尊氏建武頃
忠信忠氏曾孫忠綱玄孫赤沼忠秀子?忠章島津安芸祖海
  貞高
  大進====1610仕堀直寄
野田長興
  国長

山田国政備中
若槻広隆織部永正頃
清尚====1548左京
  清継清尚子左京
  高季清尚子
布下雅朝仁兵衛
平原全真
  盛繁全真甥
平田盛宗三河
西沢時光高長弟高光子芳賀高久孫高俊曾孫三郎仕村上義日
高邦三郎右衛門仕大覚寺宗良
高能刑部禅沖
能親太郎左衛門
厚時出雲
能時勘解由左衛門
久時図書
家時勘解由左衛門仕村上政国
武時与左衛門
則時出雲
勘左衛門則時子
親時武時子図書
安時親時子兵部仕成田泰親
正時安時子与左衛門
幸時厚時子隼人
竹鼻虎正備中
吾妻清兼出羽
清親平右衛門
金弥
薬師寺清三右近
太田義虎三善流宝徳頃
義光文明頃
長門
野沢康光四郎兵衛
臼田満安善右衛門
下村重守忠明裔上目景盛流新右衛門
満幸与左衛門
方利上総
儀左衛門
作左衛門
次郎善左衛門
弥右衛門
綱島頼親源頼行流
頼英====1627仙右衛門
豊後
頼定豊後子庄三郎兵庫頼親河内
頼次頼定子左馬内膳
頼重頼次子庄三郎庄左衛門
頼常頼定子頼次嗣主殿市左衛門
頼昭頼定子頼常兄内記
頼福頼昭子子之松庄蔵伊右衛門
赤塩繁政肥後仕村上義清
  政次数馬
落合治吉



井上光朝矢井忠長子清長孫桑淵光長曾孫常田光平玄孫井上家季耳孫桑洞四郎
  盛長
  直頼桑洞信濃
光頼左馬応永頃
政義
  政家政義子伊予
達満政家子兵庫信満隼人?
  政満左衛門正満
昌満備前正満
  綱満甚四郎
重満綱満嗣千坂高信子宮内親信

  清政左衛門兵庫播磨
  清忠五郎

  満貞====1466安芸文正頃
  満直小柳出羽

  持家山城
  遠江光頼弟応永頃
  彦四郎永享頃
  孫四郎永享頃
綿内満行井上流内匠
  広綱内匠
  与惣
  広親小山半兵衛
  相成彦左衛門
  政尚市之丞
富長為信讃岐
  政長為信子
岩崎康満左馬
稲田光重筑前
満重


高梨経家泰高子経高孫頼平曾孫頼高玄孫盛高耳孫盛光昆孫盛満仍孫井上満実雲孫頼季裔源頼信流又太郎
経頼経家嗣高平子泰高甥経平孫?定時孫?頼平曾孫孫太郎能登性阿
  高家経頼子経家子?美濃吉田永高延文頃
  頼家高家子
  朝高高家子常高友尊薩摩陸奥?応永頃
朝秀朝高子次郎?左馬常永陸奥薩摩?
高国朝秀子?
高景朝高子?上条介四郎?刑部摂津高勝
  教秀====1460高景子刑部弥阿
  泰盛教秀子
  政高14181468教秀子刑部摂津天桂高雄
  政盛14551513政高子刑部摂津晴雲高賢
  澄頼1488====政盛子弥太郎意澄道高
  政頼澄頼子源太郎摂津
  頼親政頼子秀政嗣弥五郎薩摩
  頼清頼親子八郎刑部
頼喜頼清子茂左衛門
頼重頼清子内膳市兵衛

  頼包政頼子源三郎兵庫
  頼治政頼子喜三郎
  頼春政頼子源五郎
頼賢頼春子

  定満澄頼子源次郎
  清秀澄頼子政盛子?源三郎河内
  秀政清秀子政頼嗣権右衛門
  政広秀政子又三郎
  広定政広子

満義頼広裔源三郎
頼真====1623外記
長義頼真子弥市
頼国頼真子外記
頼永頼国子源五郎
左門頼真子
頼忠頼真子隼人善左衛門


高義遠江
将秀宮内
厳秀

  義繁左近武者所
  光範越後

景宗播磨永正頃
頼宗
貞頼
直頼

  勒負
  
  慧玄12771361高家子慧眼関山本有円成
山田朝時朝明嗣朝定孫忠直曾孫忠光玄孫高梨盛満耳孫義高子頼高孫五郎三郎時綱時継?民部
高頼朝時子三郎五郎民部越前左衛門日向
高朝朝時子山田
朝知高朝子左衛門三郎
房光朝知子日向太郎右京
朝保房光子太郎二郎内記
江部高秀高梨大膳
  高長高梨山城応永頃?
朝長高梨治部
  道朝高梨治部文安頃
吉田高秀能登
  秀義美濃入道
盛能孫三郎長禄頃
孫三郎天正頃
小島高盛
浅野秀頼上総
大俣高親高梨筑後
小島景頼高梨伊豆
  景貞左衛門
大熊高家大井田流?出羽
  高志
高忠
忠志

  房高高梨弥次郎
新野国家尾張
  朝安
安田高茂
原山高長石見
丸山朝綱又四郎
善哉高長右馬三郎
岩船高弘新左衛門
忠吉
忠秀藤左衛門丹波入道一策斎
豊秀忠秀子彦五郎長忠藤左衛門豊広
秀信豊秀子虎寿吉兵衛
秀兼秀信嗣豊秀子弥市吉兼藤左衛門
村松景村彦右衛門
原 秀長主計
飯田秀貞三郎左衛門修理
登坂清高高梨流梶原流?加賀
  清時備後
  勝長清時弟式部
  勝乃勝長子弥右衛門式部白石城代
  勝久勝乃子権右衛門
  長英勝久子

治部
集清治部子宮内治部
清忠====1608集清子神兵衛甚兵衛
兼忠清忠嗣深沢貞重子彦六平右衛門内膳
内蔵集清子
清七内蔵子
名兵衛清七嗣直海式部弟
弥兵衛名兵衛嗣藤崎加右衛門子弥吉

太郎左衛門
高親太郎左衛門子惣助
家高高親嗣太郎左衛門子与惣右衛門
兼高家高嗣甘糟景継甥四郎右衛門
高房家高嗣兼高子清六清右衛門
高元高房子清五郎清右衛門
信高高房子権三郎民部庄左衛門
治高兼高嗣山崎高広子九門

修理
広重修理子角内金右衛門?
広恒広重子作左衛門
広親広恒子金右衛門

与右衛門
左京与右衛門子与五郎
与五郎左京子
広忠与五郎子与三郎左京左衛門惣右衛門
広重広忠子左京与右衛門
貞吉左京子余橘与右衛門
忠治貞吉子庄九郎与右衛門

胤春左衛門
胤忠胤春子源蔵権右衛門
光胤胤忠嗣広忠子久之丞

吉遵与左衛門
吉清吉遵子又右衛門
忠房吉遵子彦三郎与左衛門

英秀九左衛門
英祐英秀子市兵衛
家親英祐子二郎助弥惣右衛門
六左衛門英秀弟
草間大蔵応永頃
大炊村上流
時信
  綱俊時信嗣二木政久子源五郎肥前


須田直頼為盛子為村孫貞村曾孫実村玄孫盛泰耳孫為実昆孫井上満実仍孫
四郎仕足利尊氏
  伊豆応永頃
為矩永享頃
式部
満繁上総
満為
祐国信濃
為国
満信信濃
  信頼新左衛門刑部
  信正====1585信頼子左衛門

満国====1585満信孫?相模
  満親15261598満国嗣満泰子右衛門船見宮内規泰須田相模海津城代
  満胤満親子直江兼続嗣右衛門景実大炊光義
  満統満胤子本荘繁長養子九郎太郎右衛門
満祐満統子右衛門久左衛門
満矩満祐子左源太清左衛門

満吉満統子主殿
満包満統子権左衛門五郎八才兵衛
権十郎満統子

  長義====1615満親子長実大炊相模梁川城代
満義長義子又太郎相模秀満
義当満義子右近図書

満盛長義子新兵衛掃部?
義満満盛子野本九左衛門
重寛義満嗣満義子権之丞角左衛門?覚左衛門?

満泰満国弟順渡斎
長光満泰子入筑前

  満乗左衛門
忠長満乗子善右衛門
満重忠長嗣忠久子半四郎善左衛門

忠久忠長子九郎左衛門
忠親忠久子大学兵左衛門
  
雅政満為子惟政
満貞雅政子

  為綱為村子員村孫実村曾孫盛泰玄孫為実耳孫
盛綱為綱子
為光盛綱子
為助盛綱子
盛近為助子
盛正盛近子
正光盛正子
盛友正光子
盛義盛友子
  盛永盛義子
盛満盛永子

  良元
良邦
中島長能
  信重小次郎
  長明本荘繁長子中島壱岐


泉 彦六郎満衡裔?伊那為扶裔為公流
  右衛門蔵人
  重歳左近応永頃
  持重
  政重
  晴平
重歳弥七郎重蔵
信濃永正頃
政親六郎次郎仕高梨政頼
尾崎秀高
重信秀高子?泉重歳子?
重元重信子孫十郎清左衛門大和東源斎仕上杉輝虎武田勝頼上杉景勝飯山城将
重誉重元子孫十郎三郎左衛門
重雪重誉子仁助
重頼重雪嗣宮本四郎左衛門子清右衛門
重路重頼子舎人清右衛門
岩井重直泉政重弟
義如須田源七左衛門
満高大和
成能満高子満長兄?式部
訴能成能子民部
元成訴能子彦兵衛
元正元成子与惣左衛門

満長====1584満高弟昌能民部備中
信能====1620満長子源蔵源三民部備中飯山海津城主若松奉行
元能信能子源蔵
元則元能子相高嗣源蔵大学
信門元則子民部源兵衛
相政元則子長次郎源三源五左衛門

相高信能子長沼利忠弟七郎太郎大学
忠行信能子木工
忠親忠行嗣菅名次郎左衛門子半十郎源五兵衛
勒負

長四郎
久親長四郎嗣近藤宗親子虎之助右門左京
秀親久親子右門五郎左衛門
小佐原信次岩井流源蔵
上倉下総
元春治部
元経元春嗣尾崎重誉子?少兵衛
元信元経嗣原田盛右衛門子七兵衛
元安元信子与三郎七兵衛
元吉元信子利兵衛
理之元信子弥兵衛弥右衛門
戸狩元繁上倉元春子釆女
広繁元繁子源太郎左門
広次広繁子勘十郎釆女甚五兵衛
広元広繁子主水七兵衛
今清水越中泉流
掃部越中子源花丸
元親掃部子市左衛門
信親元親子少右衛門
信久信親子主税
奈良沢民部
主殿楢沢
左近司彦六上堺
政重上境治部左衛門
政行政重子与惣喜左衛門仕上杉景勝
政吉政行子久五郎新助
至政政吉子茂助
与惣政行子政吉兄
政次与惣嗣政次子織部右兵衛半助
政次政行子政吉兄庄兵衛助右衛門伝兵衛?
政貞政次子庄兵衛
政乗政貞子半弥七伝兵衛
政共政次子十助内記
中曽根筑前
   小左衛門
大峡秀之織部
秀政秀之子新右衛門
昌秀秀政嗣青柳隼人子喜兵衛与惣右衛門
草間庄左衛門
頼愛庄左衛門子六左衛門
頼続頼愛子与三郎庄左衛門
吉共頼続子甚太郎六左衛門




飯島為清為了弟為泰子三沢広忠孫飯島為忠曾孫為光玄孫為綱耳孫片切為行昆孫
為光掃部入道為源
為之====1400若狭応永頃
為重
為宗大和
為頼伊予
為元
為政大和
為直源太大和
為安新九郎
為昌美濃
為次====1582民部重家
為仲為次子
為長為仲子
為永為長子
為延為仲子
為忠為延子
為貞為延子

為頼紀伊
為方大和
為政与兵衛

為盛為了子為泰孫修理正運
為高為家子広忠孫弾正入道総昌
重綱出雲仕武田信豊
安助志摩
片切為清為頼子長頼孫長清曾孫為長玄孫為遠耳孫為行昆孫為基仍孫伊那為公雲孫源為満裔満国流片切正綱子?為頼孫?重政曾孫?景重玄孫?長清耳孫?片桐石見船山城主
長国為清子信濃重玄
為明長国子中務重頼応永頃
為信為明子丹波
為長====1458
  為嗣為長子
  為貞為嗣子
重国為信子信濃重行
重辰重国子大和
長辰重辰子若狭船山城主天文頃
長忠長辰子
政忠長忠子源七郎昌為隼人政公?
長公政忠子
長経長公子源太郎
為経長公子源次郎

久保長辰子安芸
信正久保子
正保====1582信正子
千代松正保子
小次郎正保子

為房二兵衛
為義孫左衛門
大島持綱長綱嗣康綱孫重綱曾孫時綱玄孫家綱耳孫政綱昆孫宗綱仍孫片切為行雲孫小太郎元弘頃
綱吉持綱子
経吉治部
為宗源太郎河内応永頃
為継為宗子彦太郎河内丹後
為元為継子七郎讃岐
為重五郎左衛門
為輝源次郎
新助新太郎
長利五郎左衛門
義重
義安織部
名子為光為次子為幸孫為雄曾孫為頼玄孫為方耳孫為安昆孫景重仍孫片切為行雲孫
赤須為成建武頃
為幸片切孫三郎応永頃
為康伊勢
為頼
為有大隅
昌為
頼泰二郎三郎
清玄
上穂為光善次
重清伊豆
重勝重清子中務
前沢繁直盛友裔片切長清流甚十郎
小出安茂赤須安任弟次郎
常宗八郎
泰親常宗曾孫八郎左衛門
常輔小出八郎左衛門
常俊常輔子
常貫常俊子
岩間為遠
唐沢義景
黒河内政信隼人
伊那部重慶粟田口重吉裔大和
   重成春日但馬
重親春日左衛門
重国重慶子春日新左衛門殿島大和
殿島重国伊那部重成子大和
春日昌吉====1582春日城主
中山道賢
桜井重久
宮田大和
親房左近
浪合胤成



小泉重成喜見斎喜泉斎重永
  宗貞重成子内匠
  昌家宗貞子宗三郎昌宗
  昌季昌家子忠季隼人?
  宗昌重成子五郎左衛門
  高貞新五郎

依田貞行行盛子?飯沼朝行孫?資行曾孫?行俊玄孫?依田信行耳孫?実信昆孫?為実仍孫?伊那為公雲孫?左衛門康永頃
秀■左衛門応永頃
季貞新右衛門
貞朝新右衛門信濃亨信永享頃
秀朝中務宝徳頃
光朝中務左近文明頃
八郎左衛門康暦頃

経光盛長子飯沼朝行孫中務?元義?
時朝経光子満春?左近元信
為継時朝子

貞泰
行朝
朝貞

春賢大和依田城主
  満春
隆春満春子

隆総兵部
  隆昌右衛門
  昌雅兵庫

重方
  重卿15711616重方嗣土屋昌次子左衛門依田右京

信秀又左衛門永禄頃
信盛又左衛門
盛繁源七

信季源五
季広

信貞善次
立慶美濃

頼房長門

長久伊賀明応頃
芦田光徳依田経光子葦田又三郎
光玄
孝玄
義玄光玄子
  信守====1575義玄子依田時朝子?依田下野幸成三岳城主
  信蕃15481583信守子源十郎依田常陸右衛門二俣城主
  康国15701590信蕃子竹福丸源十郎従五位下松平修理 武田織田木曾人質小諸城主
  康真15741623信蕃子福千代丸新六郎松平康勝康貞従五位下右衛門加藤康寛蘆田宗月 小諸藤岡城主
  吉賢康真子蘆田図書
  右衛門吉賢子
  信幸信守子
  信盛信幸子
  政勝信盛子
  政武
信政信幸子
信重信政子
信弘信政子

  光慶光玄子依田六郎肥前備中
  信政光慶子依田伊勢

  政次信蕃子?依田六左衛門仕穴山信君
政定政次子弥吉左衛門
  政矩依田正左衛門
政長依田八右衛門
平尾良信依田為泰享徳頃
守弘
守信
為信
守芳昌朝
快英
盛信
伊織
相木道永文安頃
越後寛正頃
常林依田市兵衛能登
昌朝常林子依田平三市兵衛正朝相木昌友
頼房====1581昌朝子市兵衛常祐
信房頼房子一兵衛依田美濃
彦太夫信房子
釆女頼房
彦太夫釆女子
昌信昌朝子
善量昌朝子七郎右衛門
長窪貞隆依田流左衛門
森山成繁兵部
  満繁豊後
  俊盛




諏訪頼重====1335盛重子盛信孫敦忠曾孫敦光玄孫貞光耳孫貞方昆孫敦貞仍孫為貞雲孫為信裔有信流時継子?信重孫?盛経子?時綱子?盛継三河入道照雲得宗御内大祝?仕北條時行中先代
  時継頼重子時重嗣?小太郎時経安芸大祝
  頼継時継子信継子?頼定頼嗣頼寛直頼頼員?為員?兵部信濃善寛大祝仕足利直義信濃守護建武観応頃
  信貞頼継子信継子?萬松丸貞信太郎頼信?道宗大祝応安頃
  頼貞信貞子頼継子?直頼子?氏貞嗣新大夫刑部兵部頼隣道海大祝康暦元中?頃
頼有頼貞子太郎大祝応永正長頃
光有頼貞子二郎安芸満有越前大祝応永頃
満生光有子伊勢
栄春光有子次郎
光信光有子?三郎大祝越前松月
頼種光信子?光有孫新二郎能登大祝明応頃

継宗時継子頼継子?大祝正平頃
信員継宗子信貞子?信濃大祝応安頃
氏泰継宗子有継嗣大祝越中応永頃
氏貞継宗子氏泰嗣大祝応永頃

  信継時継子頼継嗣信嗣小太郎?頼員?安芸大祝
  直頼信継子?新大夫為員大祝応永頃?
信有====1443信継子信貞子?直頼子?五郎安芸信濃良淳大祝応安頃
有継1389====信有子頼有嗣次郎左衛門?刑部満有?心叟大祝応永頃

信満14231490有継子安芸一雄「惣領」
  政満14431483信満子刑部信濃雪庭常恵「惣領」
  是真政満子宮若丸小兵衛
  長宗政満子宮若丸修理
  長満長宗子四郎

  頼満14801539政満子高家嗣宮法師丸小太郎刑部安芸碧雲斎入道宗昌文明頃
  頼隆14991530頼満子小太郎頼清刑部大祝
  頼俊頼隆子新大夫頼重大祝
  頼重15161542頼隆子頼満嗣宮増丸小太郎頼茂刑部伊豆一気大祝
  長屶頼重子千代宮虎王丸
  頼高15281542頼隆子豊増丸勝三郎頼実大祝

  満隆====1546頼満子政満孫薩摩
  賢聖満隆子
頼熈頼満子政満孫頼覚薩摩大祝永正頃
頼寛頼満子政満孫神太郎大祝享禄頃

  満隣頼満子政満孫新二郎新太郎?満親伊豆竺渓斎
  頼豊====1582満隣子新六郎新次郎越中
正頼====1582頼豊子釆女?
源次郎====1582頼豊子
頼辰====1582頼豊嗣満隣子神七庄右衛門
頼寛====1664頼辰子盛房安左衛門
頼延====1710頼寛子八十郎頼利
頼兼====1694頼寛子金十郎三郎右衛門治部左衛門
頼房====1701頼寛子金弥新五左衛門
頼則頼寛子大須賀又左衛門
頼親頼辰子長三郎小左衛門
頼好頼辰子兵右衛門主膳
頼増====1644頼辰嗣三枝守全子神二新六郎越中

  頼忠15361605満隣子伊勢宮丸小太郎因幡安房安芸大祝高島城主
  頼水15711641頼忠子駒房丸小太郎頼満因幡
  忠頼15951657頼水子忠恒
  忠晴16391695忠頼子因幡
  千代熊忠晴子
  万助忠晴子
  忠虎16631731忠晴子右京

  頼蔭忠頼子
  頼久忠頼子
  盛條忠頼子竹千代丸忠澄
頼郷頼水子
頼長頼水子
頼孚頼水子木工

  頼広====1655頼忠子内蔵頼綱大祝天正頃
  頼寛頼広子大祝
  大太郎頼寛子
  頼隆====1692頼寛子大隅大祝

  頼定====1602頼忠子久三郎
  亀房丸頼定子
頼雄====1631頼忠子源太左衛門美作
盛政====1685頼雄子頼風図書
盛住盛政子大学
三安頼雄子勘右衛門

頼盛頼忠子掃部
 
  行満====1483信満子原田小太郎
頼員行満子信満子?頼満嗣弥十郎頼貞大祝明応頃
頼前行満子宮坂八郎
  
  頼満有継子光有子?信有子?二郎伊予大祝永享文安頃
  頼長====1469頼満子萬蔵丸大祝文安頃
  継満1451====頼満子大祝安芸「芸州大乱」寛正文明頃
泰満継満嗣頼満子信満子?小太郎
高家頼満子継満嗣二郎師継?左馬尊家大祝文明頃

  高重頼重子重尚子?盛重孫?小次郎
  高継頼重子孫次郎
盛世弘重子真親
  頼連左衛門仕武田信豊



頼貞小坂時光嗣資光叔父盛忠子頼忠孫助忠曾孫諏訪敦忠玄孫円忠貞叟内談衆
貞嗣頼貞子万歳丸貞継神左衛門左近
康嗣頼貞子松犬丸次郎左衛門左近康継信濃
満嗣康嗣嗣吉良満貞子満義子?三郎左衛門
忠嗣満嗣子松菊丸次郎左衛門行信常信心元
忠郷忠嗣子次郎左衛門光信信濃宝徳文明頃
貞郷忠郷子子松千代丸次郎左近信濃貞通明応頃
貞説貞郷子貞親左近延徳明応頃
忠通貞郷子若狭天文頃
三郎忠郷子松犬丸
孫次郎忠嗣子
兵庫忠嗣子松虎丸

光嗣満嗣子左衛門光継大和宗泉善輔
長直光嗣嗣忠郷子信濃弥次郎若狭信祐大和入道文明明応頃
  長俊長直子貞説嗣左衛門左近信濃永正天文頃
晴長長俊子神左衛門左近信濃宗又
俊郷晴長子忠通子?孫三郎神兵衛天文天正頃

有信満嗣子孫四郎
忠保有信子孫二郎四郎左衛門越中
勝忠忠保子孫二郎与次四郎左衛門

康綱頼貞子次郎左近

貞房信濃文明明応頃
康朝神左衛門
貞就神左衛門文明頃
為弘次郎左衛門文明頃
盛直
伊勢康嗣子船山
四郎伊勢子
四郎四郎子
宗泉四郎子伊勢孫
親和小坂藤三



宗経====1333盛経子盛重孫金刺盛澄曾孫諏訪為継玄孫為信耳孫為員昆孫為堅仍孫為範雲孫有範裔武久流信綱孫?信澄曾孫?依田信行玄孫?三郎左馬?左衛門入道直性得宗御内越訴奉行
弘重====1333宗経子宗重弟時継子?信重孫?三郎杢左衛門宗経?左馬
  盛高====1335宗経子?三郎頼重?恵性?
盛時宗経子?弘重子?次郎左衛門
時重====1333盛時子盛高子?頼重嗣?小太郎太郎左衛門?五郎?忠重?信濃?右馬入道見性
時房時重子小太郎
時家時房子五郎左衛門
時信時重子小太郎丹波
忠満時信子五郎?二郎
信忠忠満子中村二郎
忠高忠満子五郎左衛門
金刺時澄盛久子満貞甥盛基孫盛次曾孫盛澄玄孫為継耳孫為信昆孫為員仍孫為堅雲孫為範裔有範流手塚光頼耳孫輔光昆孫輔頼仍孫盛友雲孫長頼裔長清流貞長流頼秀?下社大祝
  豊久信濃下社大祝
基久下社大祝
基澄信濃下社大祝
興春====1483基澄子?基春?下社大祝
盛高興春子盛昌?大膳下社大祝
昌春興春子右馬下社大祝
晴長昌春子下社大祝
豊保昌春子晴長子?諏訪右近右馬下社大祝
堯存豊保子
豊政堯存嗣武居善政子武居祝
藤沢政頼朝清子清正孫清親曾孫親貞玄孫千野光親耳孫中沢敦真昆孫諏訪敦貞仍孫四郎左衛門大祝建武頃
政経政頼子政綱
信政政経子左衛門
重政
経政信政子
信清美濃
頼清
有家
有政道政遠江
信有遠江
満家
隆親遠江箕輪城主文亀頃
頼親====1582隆親子箕輪次郎
頼広頼親子
頼忠隆親子権次郎
有兼文明頃
高遠義光諏訪頼貞子?信貞子?信濃義海
  太源信濃永享頃
  悦山信濃
  継宗諏訪次郎継家信濃商山「藤沢殿」文明長享頃
  満継継宗子信濃永正頃
  頼継====1552満継子諏訪信濃紀伊
頼宗継宗子蓮峰軒
知久頼敦敦綱子敦長孫敦幸曾孫敦俊玄孫諏訪敦光耳孫神六左衛門
  頼昭敦貞子敦平孫敦信曾孫信貞玄孫敦俊耳孫四郎左衛門信濃
  為行四郎信濃
  頼矯四郎民部左衛門信濃
  頼季弾正信濃
  頼尚七郎民部信濃
  頼為頼尚嗣四郎子頼季孫七郎民部信濃大和
頼元====1555頼尚子?左衛門民部大和
  頼康頼元子四郎左衛門
  頼氏15411585頼康嗣頼元子大和仕徳川家康
  則直頼氏子伊左衛門大和
  直政則直子内蔵
  直明直政子内蔵
  昌直16521697直明子伊左衛門
直幸直政子
直次直政子
  頼龍頼元子弥次郎
  右衛門八頼龍子
  頼之頼為子頼元子?
  頼輝頼為子

  頼純兵部明応頃
  遠包二郎左衛門仕武田信豊
武居重時正遠子重則孫重晴曾孫手塚光家玄孫光盛耳孫光頼昆孫光継仍孫光清雲孫金刺清信裔有信流
  重安
  重晴
重位
久重
重行
重正
重友

光郷元亀頃
善政金刺昌春子?山田氏
兵庫今井氏
飛騨
弥右衛門
左馬
縫右衛門
弥次右衛門
六兵衛
宮内
守矢時実有実子真頼孫盛実曾孫朝実玄孫正実耳孫信実昆孫重実仍孫頼実雲孫
  頼実時実子
氏実頼実子守屋神長官
  氏信氏実子
貞実氏信子
満実貞実子満真信濃神長官
継実満実子
政実継実嗣満実子
有実政実子
頼実15051597有実子継実子?頼真神長官
  信実15331622頼実子犬太郎神平信真宮内禰宜太夫神長官
重実信実子
政実重実子政真
盛実政実子盛真
惟真
義実継実子
幸実義実子
氏実幸実子
彦九郎
矢嶋正忠諏訪流海野幸恒流?
  政満正忠裔権祝基綱
満清禰宜
元綱政満孫?八兵衛
満綱元綱子伝左衛門
満平満綱孫?
綱政
広政

元矩元綱子
織部

重勝神左衛門
中沢重清敦真裔諏訪敦貞流但馬 応永頃
  信清重清子中務
政信信清子左衛門
重利丹後
重光重利弟
光康重光子
国光光康子

家重源左衛門文明頃
国吉源左衛門文明頃

季景神四郎康永頃
国季
清季国季子杵渕大炊
  清正15461620清季子杵渕久吉
久次清正子
  正道備後

  義忠倉沢
千野時親清綱子信重孫頼近曾孫光弘玄孫光家耳孫中沢敦真裔諏訪敦貞流左近入道行仏
親信行禅
重親彦四郎
直親円了
政固
性信
弥山神四郎
梅岸
満有
佐渡
平右衛門

満頼性信子
氏有
頼氏勒負伊豆
継氏
継有
隆尚
忠直

信氏頼氏子孫九郎光忠勒負
満氏
隆親
重時
昌良孫四郎

朝有信氏子
為定
房国佐五右衛門
房次為定子新右衛門
房清朝有子茅野丹波清房
忠能喜平次
重清朝有子孫九郎?靱負
忠隆重清子宮内
忠清重清子忠隆嗣神三郎
昌房====1629重清子孫九郎左兵衛伊豆
忠房
甚丸昌房子
吉次昌房子
頼房昌房子左兵衛勒負
頼良左兵衛

頼憲茅野六郎応永頃
法秀加賀入道長禄文明頃
氏信
宗吉山城入道
六郎出雲

  南名庵====1542氏有子
  新左衛門

光頼光近子時家孫光家曾孫光真玄孫光弘耳孫光親昆孫正平頃
光義光吉
光利外記応永頃
光時式部
光代
光武外記文亀頃
宗光山城入道
光安出雲
右馬
光則====1600
光枝外記明暦頃
光昭延宝頃
松島政親千野親信子
時幸
道存
満久
月窓
満長
満清
重清
民部満長子

頼実====1531政行?対馬
貞実====1547筑前
  信久豊前
神戸彦四郎千野性信子
備後
新右衛門
座光寺康有中沢敦真裔宮内
貞房三郎左衛門
   頼近====1575貞房子左京
   為清為秋
為時
為真
為重
為実
晴友左近
晴氏勘左衛門
有賀性存有光裔諏訪敦光流美濃入道応永頃
泰時豊後
  又左衛門
勝慶====1582下野
紀伊
伯耆
遠江
重右衛門
三沢対馬諏訪流
  頼鎮
  五兵衛
  主膳
笠原清繁====1547範行裔保科行遠流諏訪為仲流新三郎雅真?
  継盛清繁子平六郎仕真田昌幸

  久家仕上杉景勝
小林頼行
頼連
頼員
頼春
山田重泰新七郎副祝仕諏訪頼忠
有盛
備前
小井弖光能国光子能国孫宣能曾孫師能玄孫能綱耳孫林家綱昆孫家俊仍孫工藤家次流家能昆孫?為綱昆孫?
能房小井出摂津
朝能弾正
有能伊賀
有綱加賀
有時有綱孫孫八郎

有房有能子上総
政綱有房子有時嗣上総仕諏訪信満享徳頃
重継八郎
吉綱新八郎
重綱吉綱子越前
重貞五郎兵衛
頼政五郎作
頼豊頼政子重貞子?五郎作
貞綱重貞子?
重通貞綱子工藤権右衛門
政澄吉綱子藤四郎
信綱吉綱子丹波
朝綱吉綱子上総

政勝有房子?小出藤五郎
政義政勝子太郎五郎
秀正政勝子弥右衛門

貞満小出舎人
貞親貞満嗣守矢昌親子主膳
貞則貞親子勒負

大炊
木田政遠重長裔源満政流次郎
  直政政遠子両角惣兵衛
実政直政子?両角七郎?
重政====1641実政曾孫両角康長
政吉重政子
室住虎城木田直政子?実政子?両角七郎?信濃
  虎登虎城嗣板垣信泰子助七郎直方玄蕃御蔵上原城代
虎定====1561虎城子武田信昌子?虎光両角諸角豊後昌清重之侍大将
昌守虎定子助五郎
  重政虎定子?本田彦大夫
頼重重政子刑部
内記両角
惣兵衛
伝兵衛
筑後
向山昌保出雲
虎継三河
盛吉丹後
家安民部左衛門大永頃
  敦能右馬
  神右衛門
  又七郎源五左衛門
五味長遠土佐
  政義長遠子
高重長遠弟与三兵衛
与三兵衛
沢 重信粟沢流
房重重信子長門
大室光清左衛門
高貞光清子頼高
綱貞高貞子太郎丸源次郎主計
貞次綱貞子右馬伝左衛門
貞親貞次子源十郎平左衛門民部
貞信貞次子伝之丞伝左衛門
親貞光清子兵部

貞次右馬伝左衛門寛永頃
貞親貞次子源十郎平左衛門民部
貞信貞次子伝之丞伝左衛門

政勝
真島親光大室光清子与七郎頼春民部
  光清親光子専右衛門
光定光清子善左衛門専右衛門
重宗光清子民部藤兵衛
山中幸利
主水
鵜飼忠和
桜田昌親藤左衛門
山宮光信
牛山周防
花岡忠常
藤兵衛
金子助右衛門
長田大隅
田辺新兵衛
鮎沢善右衛門
村岡石見
大和監物
高木喜兵衛
中村平左衛門
小口忠清清太夫
民部
横内民部左衛門
藤森治部
小沢正栄縫殿
  正宗縫殿
樋口光久長門
木下惣蔵
鷹野貞高伊豆康正頃
貞康
経高
宥堅
本清
満守
満吉
棟吉
棟重
満定佐渡


保科範実正定子正継孫正村曾孫正時玄孫正通耳孫盛正昆孫盛親仍孫実正雲孫実重裔大槻頼重流
実保
実行
実俊
正員
  正倍五郎左衛門正信?
  易正正倍嗣荒川易氏子神助

長直矢井忠長子清長孫桑淵光長曾孫常田光平玄孫井上家季耳孫太郎
長時
光利太郎
正知弾正秀貞
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
  正俊15091593正則子弾正筑前「槍弾正」
  正直15421601正俊子弾正
  正光15611631正直子工藤祐元子?甚四郎肥後
正貞15881661正光嗣正直子甚四郎弾正
正英16111678正貞嗣小出吉英子
  正景16161700正貞子甚四郎弾正越前
正賢16651714正景子喜三郎正祥兵部

正重正直子正光養子勒負民部
  正勝正俊子隼人三河
  正近正勝子民部仕保科正之
正長正近子十郎右衛門
正興正長子近房嗣九十郎十郎左衛門民部
近房16371703正長嗣西郷元次子吉十郎保科頼母

正保正則子
正賢
正辰
正具

正信正則子?豊後仕上杉輝虎
正富正信子佐左衛門
盛信正富嗣正信子吉内主馬貞通有通
光有有澄(竹俣義秀)嗣白井景泰子長尾景盛保科十兵衛


正長正利子左近仕村上顕国

家親
貞親筑前
正秀貞親子
長光文明頃
長経桑井
光輝
信光

勝重小左衛門溝市左衛門
北原光次釆女仕保科正之
小原光俊五郎右衛門仕保科正之
  俊信五郎右衛門
  嘉貫伊左衛門内匠
佐川直成勘兵衛仕保科正之
井深重光茂右衛門
  重隆茂右衛門平左衛門常方」
萱野長則権兵衛
赤羽利明市右衛門



市河助房盛房子重房孫行房曾孫行重玄孫清房耳孫覚光昆孫覚義仍孫源義光雲孫武田義清昆孫滋野流?市川神左衛門六郎刑部昌源
  頼房助房子松王丸刑部甲斐興仙仕四条朝房 応安頃
義房頼房子新次郎仕小笠原政康 応永頃
保房甲斐享徳頃
房秀甲斐文明頃
房安甲斐長享頃

  経高盛房子助房嗣弥六備前
  泰房経高子
  頼重経高子?六郎

  経房盛房子物部八郎
  経助盛房子左衛門十郎 観応頃
  助高盛房子志賀又三郎
  助行 建武貞和頃
  行頼兵庫 貞和頃
房泰物部越前延徳頃

  憲輔和泉仕四条房定
  定輔孫次郎
房宣大和
信房長寿丸孫三郎信処左衛門新六郎治部
  房綱====1614信房子長寿丸左衛門仕上杉景勝塩松城主
  信綱房綱子?信房子?新六郎治部
  房忠信房子竹俣秀綱弟孫次郎土佐
房則房忠子八十郎主膳
房行房則子
  房幸藤若

信元
清兵衛信元孫左近
  直房

  光幸助右衛門
信吉光幸子利右衛門
信光信吉子理兵衛
信吉信吉子信光兄甚七
信房信吉子信光兄利助勘右衛門

外記高光裔?
昌永十郎左衛門刑部?梅印梅隠斎等長「鬼虎」勘定奉行?海津長沼城代
  昌忠昌永子七郎右衛門家光備後以清斎元松仕徳川家康四奉行
  昌房====1575昌忠子?善次昌広昌衡国定国員国貞宮内勘定奉行高島松井田城代
昌家昌房子助一郎

  庄左衛門等長子?

清成内膳
  正信織部内膳
  
  真治右馬
  真久真治孫四郎兵衛貞吉
真親真久子市左衛門五郎兵衛

  重久四郎兵衛四郎右衛門
  興吉
  景吉兵庫
実春
長義和泉
義信====1582長義子

  民部

教光====1333祐光子直義孫喬義曾孫諸義玄孫倶義耳孫覚義昆孫源義光仍孫
忠光====1358教光子五郎
光重忠光子太郎
正光教光子十郎
中野秀幸幸重子藤原秀郷流孫太郎入道契昌正慶頃
定信建武頃
  家氏
夜交高永中野助能裔助光流中野隼人
高秀高永子千世松丸弥三郎
長国左近
重長長国嗣小幡信広子弥七弥左衛門
重国重長子三平六郎兵衛

景国
満国景国子
昌国満国子
西条倫房市河盛房子西条九郎大炊 暦応頃
  助保倫房子経助子?三郎助泰
経兼倫房子彦三郎
親房倫房子弥三郎
長房倫房子五郎

忠頼
  宗則
  則長
光政則長嗣小笠原清宗子七郎道長中務
光保光政子宗春
貞保光保子
頼貞貞保子

美作治部
昌直弥三郎治部
祐直美作
  尚胤祐直子信清嗣喝食丸?右近
  信清清野国俊子与左衛門治部近頼沼田城代

経春大和文正文明頃
政春治部美作?
綱春政春子志摩
秀明綱春子木曽義祗父右門舎人
大滝信忠市河信房弟宮内左衛門土佐
忠直信忠子新五郎孫右衛門
忠広忠直子孫右衛門
忠重忠広子新十郎九左衛門

忠孝忠直子与右衛門
忠次忠孝子三太郎覚右衛門


信安上倉新兵衛甚兵衛
実安信安子伝右衛門甚兵衛
能安実安子新兵衛甚兵衛
重安能安子三之助八左衛門伝左衛門
難波助元
基房
島田助朝




海野頼幸幸直子茂氏孫長氏曾孫幸氏玄孫幸広耳孫幸親昆孫廣道仍孫重道雲孫望月則重裔滋野為道流小太郎幸康?信濃?
  則幸頼幸子小太郎幸遠?信濃?
善幸則幸子小太郎幸永?幸守兵庫信濃?
幸房善幸子小太郎幸昌?新左衛門幸則幸房?幸春?信濃?
  幸信幸房子小太郎幸義幸守?岩下豊後幸久?
憲廣幸信子小太郎幸定?満幸?大膳岩下幸数仕山内憲基
  持幸憲廣子小太郎幸秀?則幸?信濃
  氏幸====1467持幸子小太郎信濃
  幸棟====1524氏幸子小太郎信濃入道道三永正頃
  棟綱幸棟子小太郎信濃大永頃
  幸義====1541棟綱嗣幸棟子小太郎左京
  幸景幸義子能登
  幸次幸景子七右衛門
景次幸次子長右衛門
仲次幸景子刑部昌元
仲正仲次子新四郎昌富
幸勝仲次子藤兵衛昌重

幸種氏幸子?
保幸和泉
幸忠備後
宗幸主膳
幸澄和泉
幸厚

  業吉左馬
禰津頼直光頼子重綱孫光義曾孫光長玄孫宗光耳孫敦宗昆孫宗道仍孫宗直雲貞直裔直家流望月則重流
時直頼直子越中
長泰頼直子美濃
泰綱長泰子行貞美濃
氏綱泰綱子宗貞美濃
遠光氏綱子越後応永頃
時貞遠光嗣宮内応永頃
  信貞時貞子上総
  光直信貞子宮内
  覚直光貞子宮内
  元直覚直子宮内義直
  利直元直子宮内左衛門昌綱?信光?

信直元直子覚直子?勝直宮内美濃常安?昌直?
  月直====1575信直子神平元直
  信政信直子鶴千代小五郎美濃
  吉直====1626信政子神平
  幸直信政子志摩
  
  政直元直子政秀宮内常安
  信光政直嗣信直子信忠子?昌綱宮内
  信秀信光子伊予
  信重信秀子

  信忠元直子

  宗貞孫次郎観応頃
  貞幸淡路応永頃
  宗直右京応永頃
  貞信上総応永頃
望月重国重行子重国孫盛重曾孫頼重玄孫真隆耳孫広真昆孫重忠仍孫国親雲孫国重裔広重裔重俊裔則重流次郎越中
重長重国子
元重重長子駿河
重貞重長子三郎五郎
之重重長子蔵人
重泰重長子次郎左衛門

重光重国子吉宗弥次郎
重次重国子城七郎

重実重真子重行孫重行子?西山豊前良勝
重俊重実子増田越前良圓
重吉増田山城
重清重吉子増田太郎左衛門道慶
重賀増田太郎左衛門常照
重忠重清子新六道清
重村重清子藤十郎

重澄重実子浜岡
為重重実子池長
真重重実子刑部左衛門
之真真重子平大夫
俊之之真子内蔵
之政俊之子
重寛七蔵
為政====1617重寛子藤三郎宗和
重和半蔵
尚政菊五郎

重秀重真子重行子?信濃良財
重政弥四郎
重国豊田弥次郎
茂重弥次郎

房重重真子重行子?福満丹後
範重重真子重行子?福島繁重
季重福島掃部?

  重信重惟子宗重孫?盛重曾孫?
  光経重信子
  盛世対馬
  盛経遠江
  光盛遠江
  光重右近
  盛昌
  盛時

  昌頼遠江宗齢
  昌純昌頼子
  信雅源三郎信昌左衛門印月斎一峯仕武田晴信親族衆?
  信頼15471564信雅嗣武田信繁子望月三郎仕武田晴信
信永15511575信雅嗣武田信繁子太郎左衛門義勝信雅?遠江望月右近甚八郎左衛門重氏?仕武田晴信勝頼
  信音信永嗣

重則====1615主水「牛」仕真田昌幸信繁
重家重則子主水仕真田信政

新六

  重慶大弐房
重直重慶弟神平六
羽尾景幸海野幸棟子治部
  幸世景幸子治部
  幸全幸世子
  幸光景幸子海野幸義子?海野左馬長門鎌原岩櫃城代
  太郎幸光子
  輝幸15091581景幸子海野幸義子?上原能登幸景?沼田城代
塔原氏広幸氏裔海野長氏流
幸貞====1583氏広嗣羽尾輝幸子海野棟綱子?海野貞幸?塔原三河中務
  幸忠幸貞子小太郎海野伊勢幸直
  信盛幸貞子海野平八郎
岩下幸忠海野則幸子豊後
  幸久海野幸房子豊後
幸兼幸久子
幸成幸兼子横尾三郎
  幸邦幸兼子
  幸繁
  政幸
幸晴玄蕃
晴久
晴行

清幸政幸子
幸実清幸子駿河
幸広幸実子源介
幸紀幸広子
幸景幸紀子

長高新十郎
金井貞幸岩井幸忠裔兵庫
貞元貞幸子
貞広貞元子
貞次貞広子清八郎仕真田昌幸
貞房貞次子惣左衛門
貞値貞次子惣右衛門
西可貞値子新右衛門
又右衛門貞値子
広康貞広子市左衛門

幸国弥四郎
房次彦右衛門
房定彦右衛門
義清房定嗣貞値子弥平兵衛

  高勝====1606真田幸綱子信春隆勝宮内
  直澄助九郎
金澤信重勘解由左衛門
  幸知信重嗣塔原幸貞子?織部幸和金澤勘右衛門
会田定祐幸持裔弾正永正頃
幸久将監仕小笠原太田北條
  信清幸久子中務遠山衆江戸衆0276.900
  資清====1589幸久子出羽
  資久====1619資清子出羽
  政重15811642資久嗣七左衛門
  資勝資久子庄七郎徳川秀忠小姓
  資信資勝子小左衛門仕徳川家光
  外記信清孫

  幸継小次郎
清幸三郎儀高筑前仕村上国清
  和泉
大塚幸実掃部
平原直光

香坂心覚出羽子安芸孫宗実曾孫宗敦玄孫宗清耳孫春日貞親裔禰津貞直流高坂小太郎
  宗邦出羽子
  高宗心覚甥?隆宗
宗久高宗子弾正
  宗継宗久子左馬応永頃
  高行宗邦子
徳本高行子宗継子?刑部入道大文字一揆
宗種徳本子
  有宗宗種子安房
忠宗有宗子
宗利忠宗子安芸
宗重====1561宗利子弾正覚法安房安則?徳永軒?
  宗広宗利子仁左衛門
  七郎右衛門
  盛広十郎兵衛

重昌落合幸海裔左馬入道
近昌重昌子小五郎
  定昌近昌子宗利子?源五郎能登
  氏昌定昌子弥平太?掃部紀伊
  昌能氏昌子与三郎四郎兵衛
  忠昌====1663昌能嗣井上達満子造酒将監
高昌忠昌子喜伝次九郎左衛門主殿
忠重忠昌子喜内五郎兵衛

能春昌能子新三郎四郎兵衛采女
能門能春子四郎兵衛監物三郎右衛門重昌

親昌====1645氏昌子弥五右衛門
綱昌親昌嗣仁科盛定子弥総左衛門

昌元定昌子新左衛門
吉次昌元子勘右衛門掃部
次吉吉次子金兵衛七左衛門掃部

宗吉太郎左衛門
幸昌宗吉子太郎左衛門
  範重
  対馬

  親家七兵衛
安親親家子十兵衛
家重安親子八佐八郎左衛門

  二右衛門
大日向長政香坂有宗嗣小笠原貞朝子民部長利小五郎弾正長忠
直政====1555長政子香坂有宗嗣讃岐仕村上顕国
直忠直政嗣長政子美作
直宗直忠子上総直忠
直武直忠子勘助上総
直治直武子
直経直忠子?右衛門
直親直経嗣直忠子越前
直利直親子
直龍直忠子内膳
直明直龍子駿河
直房直明嗣直龍子内記
直智
半四郎
直定直忠子

直家直政子山城
直能直家嗣直忠子主税佐渡直基

直辰長政子丹後

直康長政子山城
直長直康嗣直忠子
直義直長子
直家直義子



真田幸秀幸重子幸春孫海野長氏曾孫
幸守
満幸

幸康幸重子建武頃
幸遠====1352
幸永
幸昌
幸信
幸定

頼昌====1523矢沢右馬道瑞一翁宗心 
  綱吉頼昌子?奈良本棟広嗣?海野深井右馬左馬
  綱重綱吉子頼昌子?萩原三弥右馬
  外記綱重子
  右馬外記子

  幸綱15131574頼昌嗣?海野棟綱子?海野小太郎?真田次郎三郎源太左衛門幸隆弾正一徳斎笑倣院月峯良心岩尾城代松尾城主
  信綱15371575幸綱子源太左衛門信利弾正大室道也上田城主
  信興信綱子
  信光信興子


  昌輝15431575幸綱子徳次郎信貞兵部風山良薫
  信正昌輝子信綱子?主税幸明五郎兵衛淡路
  幸寛信正子


  昌幸15471611信綱嗣幸綱子武藤常昭嗣源五郎武藤喜兵衛真田安房長谷寺一翁干雪「表裏比興の者」仕武田晴信勝頼織田信長上杉景勝北條氏直徳川家康羽柴秀吉足軽大将上田城主
  信幸15661658昌幸子源三郎従四位下伊豆信之一当斎沼田上田松代城主
  信政15971658信幸子仙千代百助内記沼田松代城主
  幸道16571727信政子右衛門信房伊豆
  信就信政子宇右衛門勘解由
  信方信就子勘解由
  信守信政子又八郎
信武信政子大学
信福信政子

  信吉15931634信幸子仙千代孫六郎蔵人河内沼田城主
  熊之助16321638信吉子沼田城主
  信利16351688信吉子兵吉信澄信直伊賀沼田城主
信音16561707信利子仙千代弾正釆女
  信重15991648信幸子隼人

  信繁15671615昌幸子弁丸源次郎従五位下左衛門幸村「日本一の兵」
  信昌16021615信繁子大助幸昌治幸?
  元直信昌子?平右衛門
  守信16121633信繁子片倉久米之介
  辰信16561719守信子片倉長七
  幸信16151667信繁子三次左次郎左馬
  隆長幸信子

  信勝昌幸子弥十郎左馬
  昌親15831632昌幸子弥太郎主計内匠
  蔵人昌親子
  信親====1700昌親子
  多門昌親子


信尹15471631幸綱子加津野昌世嗣昌春信昌市右衛門真田隠岐鑓奉行騎馬15騎仕徳川家康使番
幸政====1653信尹子長兵衛出羽?
  幸信幸政子左兵衛
  幸吉====1663幸政子長吉市右衛門
  幸頼16341714幸吉嗣妻木頼照子傳四郎
  正信====1677信尹子内蔵信勝
  信利16411684正信子長八郎喜兵衛源兵衛善左衛門
矢沢頼綱15181597海野棟綱子真田頼昌子?源之助綱頼右馬薩摩頼幸頼国沼田城代
  頼康15531620頼綱子三十郎但馬頼幸
  頼邦頼康嗣頼綱子
  頼貞頼邦子八左衛門
  頼永頼貞子
  頼次頼貞子
  頼誠頼貞子
常田綱旨右衛門
隆家====1572綱旨嗣海野棟綱子新六郎綱富隆永七左衛門伊予幸真出羽隆家頼永道堯長野原城主
  俊綱====1563隆家子新太郎?図書道行
  永則====1575俊綱嗣河原綱正子隆頼図書
  永之====1615永則子作兵衛
  永信永之嗣河原綱家子小兵衛忠兵衛
  綱富隆家子七郎右衛門図書
鎌原重友下屋幸兼子幸友孫幸房曾孫海野幸広玄孫大和太郎
友成重友子刑部次郎重国出羽
幸成友成子小次郎
幸信幸成子主馬

幸政修理幸昌
  幸重幸政嗣海野棟綱子宮内大和幸定
  重澄幸重子筑前
  重春重澄子宮内
  重宗重春子石見仕真田信吉
  重継重宗子縫殿仕真田信政信直
  重俊重継子外記
  重忠重継子織部

  幸貞友成子
河原綱正丹波隆正
  宮内====1575綱正子
  綱家====1634綱正子又次郎右京
  綱幸綱家子
春原幸貞海野持幸子
  幸俊奥座若狭仕武田信親真田昌幸
氏隆
資隆
惣左衛門
  角八
  右衛門
  玄蕃
湯本幸雅幸房子海野資氏孫幸氏曾孫
雅氏
幸親
親氏
実氏
善太夫
  三郎右衛門
  幸綱三郎左衛門仕真田信吉
奈良本棟広新八郎深井右衛門?
桜井棟昌海野流駿河
  綱吉平内左衛門
晴吉三助吉晴仕上杉景勝根知城代
義直晴吉嗣勘左衛門子兵蔵三助
義茂義直子二郎助三助
勘兵衛義茂嗣河田喜親子六郎左衛門

勘左衛門晴吉子
兵七勘左衛門子義直兄
吉信兵七子助之丞
吉秀吉信嗣戸田彦左衛門子門之丞

政忠勘左衛門嗣佐藤忠久子惣次郎弥右衛門
義忠政忠子七十郎弥惣右衛門
下屋棟吉常田隆家子与三右衛門
菅野直棟兵部
石井棟喜右京
西窪重知治部左衛門
  蔵千代丸治部?
  伊兵衛
反町幸定大膳
横谷幸重左近
  惣左衛門幸重弟
  重氏庄八郎幸重弟
古幡幸俊源三
別府直満六右衛門
水野直貞又五郎
堀内貞維仁助
宮沢泰忠七右衛門
鈴木重則====1589主水名胡桃城代
  忠重15741642重則子小太郎右近
右近====1658忠重子三左衛門?仕真田信幸殉死
  治部左衛門右近婿
  弥左衛門右近婿
前島一宗民部左衛門仕真田幸綱
一之一宗子作左衛門
一重一之子作左衛門
磯田秀昌太郎左衛門
満高五郎左衛門仕真田幸綱
義綱満高子七郎左衛門
泰清義綱子市兵衛
高野武政越中
高田法友太郎左衛門
片岡春光助兵衛
大瀬直定儀八仕真田昌幸
樋口下総
昌照下総子角兵衛
蜂須賀伊賀
丸山土佐
丸子三右衛門仕真田昌幸
  喜兵衛


桑原康盛式部

小田井長澄小次郎
信親又六郎小田井城主
   治郎左衛門信親弟又七郎
小田切高遠安芸
清遠安芸
恒遠安芸
恒親恒遠子吉蔵内膳
恒光恒親子民部弥五右衛門忠右衛門
恒安恒光子善兵衛
忠親半左衛門

貞遠下総寛正頃

幸長堯氏裔海野幸氏流駿河
   民部幸長子
昌成主水下野昌秩
   昌吉昌成子孫右衛門大隅茂富 仕徳川家康四奉行
昌重====1600昌吉子次大夫
加兵衛昌吉子
   昌次昌吉子新右衛門
   昌近
  

光信善兵衛
光季光信子喜兵衛
光猶光季子喜兵衛
須猶光猶子
直利須猶子

光永光信子弥惣
光有光永子弥惣

秋連平六左衛門

正則大和入道

源左衛門
宮尾遠重
徳長遠純

窪寺貞光




木曾家村家教子沼田家仲孫大友経家裔?波多野遠義流?建武頃
家通12941342家教子七郎右京伊予家道
  家頼家通子七郎伊豆家康
  家親家通子弾正
親豊家親子右京永享頃
信通親豊嗣家親子式部信道
豊方信通嗣親豊子源太郎豊家永享頃
家方豊方子家賢左京家定?享徳頃
家豊14511483家方子兵部
家盛
義定
義清

  義元14721504家豊嗣上松家信子左京伊予
  義在14931558義元嗣上松家信子源太郎左京弾正
  義康15141579義在嗣義元子源九郎左京中務
  義昌15401595義康子宗太郎義政左馬伊予玄徹
  義利15771640義昌子仙三郎義就
  義辰義利子義時玄蕃
  義広
  義徳
  義倫

義興義昌子常陸
義次義興嗣上松義重子惣社景秀嗣?伊勢小倉主殿長尾摂津上松頼母一空
義長義次子
上松家信木曾豊方子伊豆伊予至徳頃
信行家信子
  政行信行子
  政春信行子
  弥次右衛門
  政重弥次右衛門子

義豊木曾義康子三郎二郎蔵人
  義春義豊嗣木曾義昌子長三郎
  義通
  義重左近
  義次頼母
高遠義親沼田家定子家仲孫太郎家輔
義信義親子
義房義親子
義雄義房子
義建義雄子
義俊義建子
義里義俊子
義嶺義俊子三郎兵衛
馬場家景木曾家村嗣沼田家定子六郎黒川三郎常陸
  家佐家景嗣沼田家定子越後
家任家佐嗣沼田家定子黒川三郎家勝
景光家任子
家次
家元
家春
景村
常任家任子
重任
重秋
相模
  宮内
  昌次
  利次
  宣隆

  勝任家任子彦八郎
勝忠三郎
氏忠彦八郎
氏元三郎
勝秀彦八郎右馬
勝範大膳
千村家重沼田家定子五郎下総康永頃
  重実下総
  重有淡路
  重知四郎左衛門
  知継重知子
  重邦重有子常陸重郡
  親信又五郎筑後
仲春親信子丹波
親俊親信子伊勢
重経親俊子本阿弥九兵衛
親綱親直子綱俊子?
高仲親綱子
  道仲豊前
重綱道仲嗣内匠高遠城代

定知親直子綱俊子?
綱俊親直子右京
俊知綱俊子親信嗣駿河
  俊政俊知子贄川城代
  家晴俊知子備前豊知
  家政家晴子掃部政直
  政勝家政子
  良重15661630家政子平右衛門
  頼重良重子
  重長良重子
  基寛重長子
  仲興基寛子
  重勝良重子
  重治良重子
  義国良重子
  昌義良重子
  忠勝家晴子
親直重邦子
康当
康政
贄川家満沼田家定子刑部左衛門
  光信
  重直越後
重有
三富野家範木曾家方子
兵庫
野尻家益木曾家方子
  家秀家益子
家季家秀嗣木曾家豊子右馬
古畑玉林馬場流上松家信子
重家伯耆伊賀
奈良井家信上松流
義高治部
西牧憲兼讃岐永享頃
信兼讃岐宝徳頃
満兼讃岐文明頃
貞兼讃岐天文頃
満忠信濃応仁頃
山村良利15161599大江定基裔新左衛門三河
  良候
  良勝
  良安
  良豊
島崎重綱監物
重通重綱子監物
重長重通子春樹(藤村)祖 庄三郎
重次重綱子与次右衛門
大矢友重右馬
友則
西野友重右馬

根古義胤飛騨
  義正大膳
  義照義正子六郎左衛門

市岡忠吉五左衛門宗重
  忠次理右衛門則次?
  定次多右衛門
  正次忠次子左太夫
  忠重忠次子権兵衛
  清次忠重子忠次嗣理右衛門瀬兵衛