2015年9月19日土曜日

諏訪大明神


泉小太郎伝説や甲賀三郎伝説 (※注4) などからもわかるように、諏訪大明神は龍蛇神であると信じられてきました。阿蘇の健磐龍――猛々しい磐の龍――という名前も意味ありげです。阿蘇と諏訪の神が、山を崩し水を流して土地を作ったという伝説は、中央構造線の荒々しい龍脈のエネルギーを象徴しているようにも思えてきます。
最後に、諏訪に伝わる一つの民話を紹介しましょう。    
信濃国には神無月がない  十月は全国の神々が出雲に集まってしまって留守になるので、神無月といいます。  けれど諏訪の龍神様は、頭が出雲の館を七巻き半しても、まだその尻尾は信濃の尾掛けの松にかかっていました。  あまりの大きさに驚いた出雲の神々が、「これからはもう来なくてよい」と言ったため、諏訪の神は黒雲に乗って諏訪湖の底に帰ってしまいました。そこで信濃国には神無月がないのだといいます。
(『信濃の民話』より 松谷みよ子による再話を要約)
  日本列島に長々と横たわる巨大な龍。それはまさしく、中央構造線という日本最大の断層の姿そのものではないでしょうか。

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2015年9月15日火曜日

赤沼村


1)高島藩の入会権争論
 古代から中世へと時代が移るに従い、山野の利用価値が増していくと、権力者がその領有を主張するようになり、人々が自然の果実を採取するのに際し、次第に制約を受けるようになった。江戸時代になると、人口も増大する一方、城下町、街道宿場、門前町、商人街等の建設に掛かる用材と日常生活に要する燃料、田畑に供する刈敷肥料、家畜の飼料、農家の建築資材等で、その需要が急激に増加した。

 高島藩が成立した時から、他領との境が明らかでない所があって、隣藩や隣国との境界争論が、数ヵ所で発生した。これは双方の村民が、草木の採取のため入り込み衝突し、その入会山論が、境界争論となった。国境論では、寛永年間の八ヶ岳とその山麓で、甲州小淵沢村等と間で起きた八ヶ岳山論とも呼ばれる甲信国境論である。郡境論は、慶長年間に始まった真志野山(まじのやま)を中心として高遠藩との真志野山論、同時期の勝弦峠(かっつるとうげ)を中心とする松本藩との塩尻界論、蓼科山の山麓での小諸藩佐久郡との蓼科山論等であった。
 高島藩では、初代藩主頼水が諏訪湖の釜口の水位を下げる工事を行い、広大な中筋に水田を拓き、城の付近も干拓させ水田とした。2代忠恒、3代忠晴と水田開発は続けられた。その3代に亘る新田開発は、広大な八ヶ岳山麓に多くの新田村を成立させた。その結果山野の利用価値が増すに従い、供給源の原野が失われていった。平坦地でも阿原(あわら)が見出(みいで)化され草地が不足した。やがて、村全体で共同利用してきた内山(うちやま;自村で持つ山野)だけでは自足できず、草木が豊富な他村や他領の山野への進出が必要となった。
 そのための入山には、地元村の入会に支障となるので、山手米という山野使用料を納め入会権を得ようとした。それにより、その利用法と境界線等が誓約され、一旦は治まるのだが、時を経て新たな問題が生じて、誓約を守りきれず争論が幾度も再発し、その都度、境界線、採取物、時期、採取道具、入会道等を決めかね、高島藩領であれば、その裁許による決着か、小諸藩、高遠藩、松本藩等他領との紛争であれば、江戸の評定所の裁定を受ける事となった。

2)上桑原山山論
 上桑原山は、南は諏訪湖カントリークラブのある野田原(のたつぱら)から、蛙原(げえろっぱら)とカボチョ山も含み、北は現車山から霧ヶ峰の大部分と八島湿原の鎌ヶ池までに及ぶ地籍である。いわゆる霧ヶ峰高原で、その面積は1,350ヘクタールの広大な原野である。山裾の村々は、北山浦の柏原、湯川、塩沢、北大塩、鋳物師屋、埴原田の茅野市各村から、神戸、上桑原、下桑原、上諏訪町、湯之脇、大和(おわ)の諏訪市各村と下諏訪の各村にまで及んでいる。
 日根野高吉の時代(1590年~1600年)、北大塩村と大境を定めて、城下新町の上諏訪町、下桑原、小和田(こわた)、上桑原が入会村となり、その後堀合神戸(ほりあいごうど;神戸村の北側)も入会をするようになった。
 慶長18(1613)年3月の「信州諏訪郡高辻帳」によると、諏訪市域では下桑原、上桑原、神戸村、神宮寺村、大熊村(おおぐま)、真志野村(まじの)、有賀村、大和村、文出村、下金子村、田部郷、中金子村、上金子、飯島村、赤沼村、福島村の16か村があった。そして下桑原郷から城下町が分かれ、その内の高島村は高島城築城の際移転し、元禄期には小和田村と改称した。同じく元禄期、下桑原郷から白狐島村(びゃつこじま)が独立し、神宮寺村の中に宮田渡村(みやたど)が属し、真志野村は南北に分離して19の本村(古村)となった。
 初代高島藩主頼水は、釜口の治水・湖辺の水田の干拓・八ヶ岳山麓の新田開発等を藩政の重点の一つとした。諏訪では、慶長年間以後に開発された新田村を単に「新田」と呼んだ。
 近世以降、村は行政上の最小単位で、高島藩からの賦課も村高として受け、村として上納した。村の自治的要素は強く、郡奉行や代官も、個々の農民を支配する事はなく、村民に連帯責任を負わせ、村役を通して支配した。その一方では、個人の独立性は低く、自分の名請農地であっても、その用水は共同で引き管理をする、肥料としての刈敷や牛馬の飼料としての秣、生活材としての薪や萱等、いずれも協同して内山や入会地から採集しなければならない。お寺やお堂、行屋(ぎょうや)の維持管理や鎮守の祭りも村単位であった。個人は村の一員として生活するしかなかった。
 上桑原山の入会は、堀合神戸から北の山付きの村々で、中筋の村々には入会権がなかった。寛永年間(1624~1644)以前は、上桑原村も中筋の赤沼村も、河原や荒地の草刈だけで賄なえなくなり、元禄6(1693)年のころぐらいから、山手米を赤沼村で2斗、上桑原村で3斗を上納するようになると、上桑原山の車ヶ嵩の久保へ、家材木や薪を切りに入山する。
 寛永3(1626)年6月に、飯島村の者が「前々から上桑原山に入っていたのに鎌を取り上げられた。」と奉行所へ訴えた。上桑原は、「飯島は日根野織部正様の時に事を起こし、入会は許されていない。」と反論をしたが、代官に草刈した所は飯島村にも入会権があるとされ、上桑原が納得しないまま、手形持参を条件に刈取りとなった。
 貞享4(1687)年2月18日、中筋(なかすじ;福島、下金子、中金子等)の村々と霧ヶ峰の厩萱(まやかや)の事で争論となった。厩萱とは馬の飼料にする萱の青草をいう。翌貞享5年4月、中金子村から願書の提出があり、霧ヶ峰笹山から、厩萱を1駄6把で50駄を、駄数を確認の上、刈り取りが許された。その覚書が残っている。
 元禄15年には、赤沼村と上桑原村の内山夏草の争論があった。この時の裁許で、日水(ひみず)久保、?(とち)ヶ原、山神から上の田畑の畔荒畑(くろあればた)までは、先規の通りで、日影林、太夫(たゆう)久保、城のつるかねからは一切入山は許されないとされた。
 次第に、中筋の村々にも、家材木、薪、厩萱等の刈り取りが、時期や採取物に制約があっても、上桑原山に入山できるようになってくる。
 神戸村は、南組、中組(田中)、北組(堀合)の3部落に分かれていて、堀合神戸村だけは、日根野高吉の時代から上桑原山に入会をしていた。他の2組には入会権がない。しかし寛文10(1670)年、萩や蓬を採りに入り、天和3(1683)年の夏にも上桑原山に入り訴訟になっている。享保元(1716)年5月、原山や後山(うしろやま)の草場が狭められて難渋しているので、上桑原山入会の願書を出したが許されなかった。翌年も、願書を出している。漸く同3年、藩から「馬一疋に付き一斗、歩き一人に付き5升の山手米を納める」という条件で許可され、腰札が渡された。
 翌4年には神戸村2組分として、馬5疋歩き5人の山札が渡された。その見返りに、年5俵の山手米をおさめる事となった。山札は、それぞれ3枚ずつを南組に、2枚ずつを中組に分けた。
 この神戸村の入会には、初めから入会する上諏訪町、下桑原、小和田(こわた)、上桑原、堀合神戸の5か村は、享保17(1732)年5月、上桑原山は近年刈り尽くし、刈敷に事欠き困っている。15年前は神戸村が入会をし、年間5千駄も刈り取られている。また中筋の村々の厩萱刈もあり困窮するばかりなので、神戸村の入会を指し止めして欲しいと訴えた。その後、元文元(1736)年8月、宝暦6(1756)年7月と訴えが続くが通らなかった。
 後山は、神戸の裏山の尾根から東側、埴原田へ流れる沢へ掛けての傾斜面である。古くから神戸村と埴原田村の入会で草刈場になっていた。武田信玄の時代、既に神戸村41枚、埴原田村40枚の畑が開墾され、大豆を神戸村18俵、埴原田村12俵を上納していた。
 文化13(1816)年の神戸村南組の大火の時、馬札1枚が焼失、残りの山札も古く磨耗していたので、その年の3月柳口役所へ、神戸村、赤沼村、上桑原村の役人が呼び出され、新しい山札が渡された。柳口は城下町から高島城に入る所で、その最初の門が柳口門で、縄手の入り口のJR中央東線の踏切の手前にあった。柳口役所は柳口にあって、民生の窓口で、裁判もここで行われた。坂本養川が、自らの構想を実現するために日参した役所でもある。

3)上桑原山と北山浦の入会権
 北山浦の村々との入会争論は、元禄6(1693)年正月22日が最初であった。上桑原5 人、堀合神戸4人、赤沼1人が薪伐りに出掛けた。上桑原山のあたら沢日影、蜂久保尾根で出合った。北大塩村は当初から予想した対応で、80人近くの村民が、兎狩りと称し木刀、鳶口(とびぐち)、熊手等を所持し、「北大塩村の内山で薪を切るな!」と彼らの鎌を取り上げた。上桑原村側は、直ちに「上桑原山の中で薪を切っていたのに、鎌を取り上げられた。」と郡奉行所に訴え出た。北大塩村との争論が始まった。
 北大塩村側には埴原田、福沢、鋳物師屋新田が同調し、上桑原村には、周辺の5か村が加担している。双方共に自村の内山を主張し、それぞれ奉行所へ口上書を提出した。しかし互いに証明するものがなかった。奉行所は久保島十兵衛、鵜飼伝右衛門、安間弥五左衛門、山中三郎右衛門らに実地検分をさせ、さらに6月19日には、双方を現地で立ち合わせたりした。
 同9年10月3日、裁許があり「上桑原村側は、牛くびから蜂久保の尾根さきへ出て、小屋場から向大笹(むかいおおざさ)へ上り、そこから車ののぞきまで見通して大境、大境と横道の間は入会、横道から上は上桑原村である」と主張しているが、「上桑原村の申し立てている横道は、往古から上桑原の山路であることは明らかで、墨筋(すみすじ)を横ケ川(よつかがわ)の橋から横道に沿って桜井出(さくらいで)の峰まで引き、更にそこからいもり沢の峰まで引くので、この墨筋を双方の山境とする」とされ、双方の山境の証として絵図面に黒筋が引かれ押印された。
 その裏書には「上桑原村並びに下桑原村、小和田村、上諏訪町、赤沼村、堀合神戸村と北大塩村並びに埴原田村、福沢村、鋳物師屋新田山論裁許の覚」と記されている。北大塩村は既に横道上の大水無(おおみずなし)を開墾して山畑としていた。それが上桑原村の領域となり、翌年の暮れから年貢を納めるよう申し渡された。その年貢は、村中で上納した。

 安永9(1780)年10月、北大塩村と上桑原村とで霧ヶ峰山論が起こった。北大塩村はから「9月6日、元禄9年の裁許で北大塩地分になった所で、埴原田や鋳物師屋新田の者が萩刈りをしていたら、上桑原の者4、50人に馬の鞍6口と衣類2つを剥ぎ取られた。また9月17日には、北大塩地分に新堀が掘られていた。」と訴え出た。これに対して上桑原村と下桑原村、小和田村、上諏訪町、赤沼村、堀合神戸村らの入会村は、「埴原田や鋳物師屋新田の者30人程が、霧ヶ峰上桑原山で萩を刈っていたので、馬の鞍と衣類を取り押さえた。新堀というのは上桑原山で、これまで目印に掘った所を浚ったもの」、そして「埴原田村や鋳物師屋新田で萩を刈った所は、中筋村々へ厩萱(まやかや)刈りが許された霧ヶ峰笹山であって、往古から上桑原山であった」と反論した。こうして霧ヶ峰山論が始まった。
 この霧ヶ峰山論は、安永9(1780)年から天明7(1787)年までの、足掛け8年に亘る激しい争論であった。天明7年9月、「いもり沢(麦搗きの沢)の尾根から車ののぞき(車山頂上の南の端)を境界とする。」と裁許が出た。北大塩村と上桑原村の双方の村役人が立ち合い、境界の塚を築いた。その車ののぞきの塚は、直径3間(約5.4m)あり、土に炭を5俵分混ぜて築いた。そして、東は蓼科山、北は車山の尾根道、西は蛙池(かえるいけ)、南はわしおろし尾根さきと、四方を定めた。この日、この決着を得るまで、多額の入用となり、上桑原村側は、上桑原村4、上諏訪町3ヵ村2、赤沼村2、堀合神戸村2の割合で分担した記録が残っている。
 以後、上桑原村では、毎年7月の盆が終わった頃、南と北が隔番で、車山の大境の塚を確認し、塚を修築する境回り(大境)を行った。赤沼村と堀合神戸村の者も同行をしている。埴原田村や中村も、上桑原村からの通知で立会っている。塩沢村は、物見石へ4つに縛った酒とカジカの入った煮物を持ち運び、上桑原村の者に振舞い、境回りに立ち会った。

4)埴原田村、鋳物師屋新田、中村、上菅沢新田、山口新田の上桑原山への入会
 寛政元(1789)年10月、埴原田村、鋳物師屋新田(以上が米沢)、中村、上菅沢新田、山口新田(以上が湖東)の5ヵ村が、以前から願い出ていた上桑原山への入会が、歩行札と馬札の持参を条件に許された。当時、上桑原村を初め下桑原村、小和田村、上諏訪町、赤沼村、堀合神戸村の5ヵ村は、既に新たに神戸村南が入会に加わった上での、更なる入会であれば、当然反対であったが、長年に亘る霧ヶ峰山論で資金と体力を使い果たし、新たなる争論は成しえなかった。ただ山手米を、埴原田村と鋳物師屋新田は、合わせて年10俵1斗を、中村、上菅沢新田、山口新田は、合わせて年2俵1斗9升を上桑原村へ納めるとした。
 その他にも入会条件は細かく定められている。各村別の入会の「山の口」、「期間」、「歩行札の枚数」「馬札の枚数」とか、細部にわたっている。「山の口」は入会地で採取を始める日であり、炭を焼いたりする事ができる期日であった。その開始を「山の口が開く」と表現した。その例が、桑原村矢崎家の諸事手控帳に記されている。
 一)、壬辰(天保3年;1832)暮れに定めた通り、秋土曜から25日目に「かや山の口」が明ける。役所から触れを出すが、家を 普請する者は、定め25日前に刈ってよいとする。
 一)、霧ヶ峰の「干草山の口」、池坂(池のくるみの手前)から前は、彼岸25日前に明ける。沢山の入会は勝手次第に刈ってよい。
 普門寺伊藤家の諸事手控帳には
 「8月干草山の口は、彼岸10日前として、埴原田村、鋳物師屋新田、中村まで使(つかい)を出す。この使は南(桑原)から出す。炭焼は、先方から上桑原村へ願い出るようになっている。」とあり、「山の口」は、上桑原村の名主の重責であった。
 埴原田村、鋳物師屋新田、中村、上菅沢新田、山口新田の入会地は、向ケ原(むかいがはら)、隠深山(かくれみやま;かぼちょやま)の南斜面の下、麦搗きの沢から霧ヶ峰奥野と定めている。
 一)草刈りは、当日限りで干草はしない。
 一)灰焼きは、その日限りで、焼いて持ち帰る。
 一)炭焼は、埴原田村、鋳物師屋新田が彼岸明けから6日間。中村、上菅沢新田、山口新田が彼岸明けから10日間。

5)塩沢村の奥野入会
 文政6(1823)年、塩沢村からから郡奉行所へ、「塩沢村は草場不足となり、田地の養いが行き届かない。」と霧ヶ峰奥野への入会を願い出た。当然、上桑原村を初め赤沼村、堀合神戸村は反対で、郡奉行だけでなく用人や家老まで、入会を許可しないようにと願い出ている。しかし、12月晦日、郡方役所に呼ばれ、「塩沢村入会」を申し渡された。7月からの3ヵ月、歩行札10枚、馬札30枚、山手米年1石4斗を上桑原村へ納める事が条件であった。
 その「上桑原外山奥野塩沢村入会申付け方の事」の裏面には、絵図面がある。入会地は、東は物見石から丸山を見通した掘割。南は、物見石から下の平尾根大石の掘割へ見通した。西は大石の掘割から下、男女倉道の掘割の4つ目まで。北は、男女倉道の掘割の4つ目の下から、男女倉道より奥野。となっている。すると北は、男女倉山の稜線までが、高島藩領であったのだろうか。なお、物見石の南西の沢渡(さわわたり)の方は、萱野であるから除き、男女倉道から西は、大境であるから除くとしている。入会の境は、上桑原村初め付け村、並びに札入会5ヵ村が立ち会って立てた。
 山札の入会は、その日限りで干草はしない。灰焼きは、その日限りで、焼いてものは、その日に持ち帰る。
 また、塩沢村霧ヶ峰奥野入会地は、他領との境目であるから、他領の者と出入(でいり)があれば、「取り交わし一札の通り罰する」としている。
 上桑原山は、広い原野に木を茂らせず、草刈場や萱野にしていたので、所々に掘割を作って、境界や目印にしていた。

6)明治以降の車山、霧ヶ峰を中心とする上桑原村の入会権
 上桑原山は、四賀村上桑原を地元とし、入会は四賀村赤沼・堀合神戸、上諏訪村下桑原・小和田(こわた)、米沢村埴原田・鋳物師屋・塩沢、湖東村中村・山口新田・上菅沢、豊平村下菅沢であった。
 明治10年の入会慣行は柴と秣の刈取りで、6筆に分割され、その合計は1,359町6反歩あった。
① 字南山ノ神より直坂(すぐさか)まで、原野24町歩
  地元は上桑原、入会は赤沼、堀合神戸、下桑原、小和田、上諏訪町で、堀合神戸は享保4(1719)年より米5俵の草刈料を出して入会をした。
② 字峠山ノ神より乗落(のりおとし)まで、原野42町歩
  地元、入会ともに①と同様。
③ 字乗落より池ノ台中道、東は相ノ倉、西は下桑原境まで、原野432町歩
  地元、入会ともに①と同様。
④ 字沢渡より男女倉ブドウ沢水流境まで、原野342町6反歩
  地元、入会ともに①と同様。
⑤ 字蛙原(げえろつぱら)より箕手御巣鷹山水流境まで、原野240町歩
  地元、入会ともに①と同様だが、文政7(1824)年より塩沢村は、米3俵2斗9升の草刈料を出して入会をし、明治9年には別途米1俵1斗1升の草刈料を出して入会領域を広げた。
⑥ アタラ沢より留塚、北は箕手より車ケ嶽、役の行者まで、原野276町歩
  地元、入会ともに①と同様だが、寛政元(1789)年から埴原田村は米10俵1斗、中村は米2俵1斗9升の草刈料をだして入会をした。鋳物師屋、下菅沢、上菅沢、山田新田は7月1日から10月30日までの間「貸渡し山手米」を出して草刈をした。
 明治政府の林野政策の第一が、筑摩県が明治8年共有山の民有地認めたのが最初で、翌9年長野県が成立すると、翌々10年、共有山入会山の慣行成跡調がなされ、11年には樹林地の入会山が次々と官有地とされた。中央集権的な政権が誕生すると、一方的に原野の森林化を図ろうとした。明治13年3月制定の「部分林仕付条例」で、その意図は明らかである。 民有入会地が官有地となると、今まで入会をしていた近隣村民は、無料で入山できなくなった。この一方的な官有地編入は、当時の生活環境から見て、関係村民の生存を不可能にするもので、すぐさま郡を通じて県に、民有地入会の請願がなされ、再三却下されるが、死活問題であれば、度重なる請願がなされ、次第に村民の生活維持に不可欠であり、農村経営に重大な価値が認められ、順次払い下げられていく。
  それまでは、角間沢東と西の御料林は、明治27年7月6日、上諏訪町長は、御料局静岡支庁諏訪出張所長あてに、角間沢東御料地秣払い下げ契約を行い、秣54,997束に1ヵ年83円48銭3厘を支払い、利用が許された。この契約は3年乃至5年ごとに更新された。
  明治29年には、隣接地の角間新田33戸は御料林立木永遠払下願を提出した。これは自家用薪炭を得るためで、その理由に「馬一頭一ヶ年、銀一分を上納し」とあり、入会券が下付された。この願書には上諏訪町長が奥印をしている。
 諏訪でも早く民有地に回復できたのが、明治13年11月、日陰入官有地1,479町9反であった。 日向入り及び青山の入会地で、この2つの共有山は、諏訪郡と上伊那郡との郡境を、遥か伊那側に入り込んだ所にあり、明治27年7月10日、行政裁判所で勝訴となり、民有地に復帰した。当時は特例中特例であったが、明治40年代から大正初年にかけて願書により多くの官有地が、民有地にされた。
 昭和24年9月、農地解放があり、上桑原村は、車山を頂上とする上桑原と入会権のある赤沼、下桑原、小和田、埴原田村、鋳物師屋新田、中村、山口、上菅沢、塩沢に、各々に牧野農業協同組合が組織され分有された。

http://rarememory.justhpbs.jp/kuruma3/ku.htm



嶋津家臣団



三州守護 島津(総州家、奥州家、相州家、薩州家、豊州家)氏
相州家庶流 加治木島津氏、佐志島津氏、日置島津氏、永吉島津氏、佐土原島津氏、垂水島津氏、新城(末川)島津氏、宮之城島津氏、喜多村島津氏、
奥州家庶流 喜入氏、桂氏、迫水氏、大島氏、竹崎氏、義岡氏(伯州家)志和池氏、亀山氏、藤野氏、
総州家庶流 相馬氏姶良氏(碇山家)
薩州家庶流 吉利氏、大野氏、寺山氏、大田氏、三栗(三葉)氏、西川氏、
惟宗姓伊作氏族 伊作氏(島津伊作家)、若松氏、西氏、石見氏、恒吉氏、
惟宗姓伊集院氏族 伊集院氏、丸田氏、松下氏、南郷氏、入佐氏、大田氏、日置氏、今給黎(知覧)氏、麦生田氏、大重氏、黒葛原氏、土橋氏、東氏、吉俊氏、飛松(富松)氏、四本氏、伊鹿倉氏、門貫氏、古垣氏、春成氏、福山氏、有田屋氏、
惟宗姓新納氏族 新納氏、西谷氏、大崎氏、邦永氏、
惟宗姓北郷氏族 北郷氏(島津都城家)、神田(上田)氏、
惟宗姓樺山氏族 樺山氏、土持氏、外城氏、池尻氏、
惟宗姓町田氏族 町田(石谷)氏、阿多氏、梅本氏、飯牟礼氏、
惟宗姓川上氏族 川上氏、辺川氏、小原氏、山口氏、
惟宗姓佐多氏族 佐多氏(島津知覧家)、伊佐敷氏、池上氏、
島津一族 和泉(出水)氏、石坂氏、山田氏、阿蘇谷氏、宇宿氏信濃国人衆、宮里氏信濃国人衆
梶原氏族 酒匂氏、梶原氏、左近氏、
平姓畠山氏族 伊地知氏、蓑輪氏、田島氏、真玉氏、讃良氏、松方氏、畠山氏、田之上氏、中馬氏、
島津家臣 本田氏、鎌田氏、山田氏、村田氏、三原氏、難波氏、上井氏、八木氏、上原(伊作田)氏、園田氏、猿渡氏、堀氏、大寺氏、石井氏、中条氏、奈良原氏、古川氏、伊勢(有川)氏、井尻氏、色紙(前田)氏、服部氏、河野氏、境田氏、稲留氏〈肥後国人衆収録〉、
三十三家 岡崎氏、二宮氏、名越氏、田代氏、鹿島氏、赤塚氏、

在国司 大前氏、東郷氏、斧淵氏、富光氏、滝聞氏、
紀姓伊集院氏族 伊集院氏、桑羽田氏、宮里氏
惟宗氏族 執印氏、国分氏、五代氏、河上氏、平野氏、羽島氏、向井氏、五大院(後醍院)氏、
大蔵氏族 加治木氏、郡山氏、比志島氏、小山田氏、川田氏、辺牟木氏、前田氏、西俣氏、市来氏、河俣氏、
有馬氏族 長谷場氏、矢上氏、有間氏、益山氏、
莫禰氏族 莫禰(阿久根)氏、岩元(岩本)氏、遠矢(遠屋)氏、
平姓伊作氏族 頴娃氏、薩摩氏、吉富氏、岩元氏、上野氏、是枝氏、指宿氏、知覧氏、川辺(河辺)氏、谷山氏、別府氏、加世田氏、阿多氏、石塚氏、得丸氏、平田氏、帖佐氏、寺師氏、牧氏、
牛屎氏族 牛屎氏、淵辺氏、鳥越氏、

伴氏族 肝付氏、三俣氏、橋口氏、梅北氏、北原氏、安楽氏、岸良氏、検見崎氏、救仁郷氏、津曲氏、武光氏、薬丸氏、鹿屋氏、白坂氏、江田氏、広田氏、
檜前氏族 檜前氏、篠原(薗田)氏、岩崎氏、萩崎氏、税所氏、

日下部氏族 日下部氏、真幸氏、平島氏、井上氏、土持氏、海江田氏、蒲生氏、吉田氏、美代氏、
大神氏族 三田井氏、
大隅国人 敷根氏(島津市成家)、西郷氏、
平山氏族 平山氏、甑氏、松元(松本)氏、

渋谷氏族 入來院氏、渋谷氏、東郷(車内)氏、祁答院(柏原)氏、下村氏、岡元氏、村尾氏、山崎氏、寺尾氏、山口氏、高城氏、炭浦氏、下津留氏、白浜氏、湯田氏、宇多氏、大村氏、藺牟田氏、家村氏、草留氏、瀬戸口氏、手島氏、

鎌倉御家人 伊東(工藤)氏、二階堂氏、鮫島氏、菱刈氏、小川氏、野辺氏、
建部氏族 禰寝氏、武氏、池端氏、宮原氏、松沢氏、池袋氏、弟子丸氏、
名越北条家臣 種子島氏、肥後氏、西村氏、美座氏、中田氏、河内氏、財部氏、岩河氏、河東氏、下村氏、国上氏、北条氏、最上氏、古市氏、平山氏、前田氏、遠藤氏、野間氏、上妻氏、鮫島氏、日高氏、長野氏、榎本氏、渡辺氏、羽生氏、牧氏、
富山氏族 富山氏、岩切氏、志々目氏、浜田氏、
赤橋北条家臣 楡井氏、
伊東家臣 木脇氏、深歳氏、清武氏、前田氏、佐土原氏、田島氏、長倉氏、西牟田氏、飯田氏、右松氏、荒武氏、野村氏、落合氏、稲津氏、川崎氏、湯地氏、米良氏、高橋氏、福永氏、大脇氏、



持明院統(近衛氏)
赤松家(島津氏)
信濃国人衆(長沼氏、赤沼氏)
足利家(三方氏)
北条家(島津氏)
得宗家(工藤氏)
少弐家(有馬氏)



摂関家荘園群「殿下渡領」の内で最大の荘園は、日向国南部・薩摩・大隅両国にかけて広がる嶋津荘でした。
嶋津荘の荘官である惟宗氏が武士化したのが島津氏です。
島津忠久は源頼朝に信頼され、薩摩・大隅・日向三国の惣追捕使(守護)となり、大名化していきます。

しかしこれらの国々には古代豪族が多く存在していました。
薩摩国では在庁官人のトップである「在国司」源姓大前氏族があります。

そして注目すべきは平姓武士団です。
特に嶋津荘を開発した平季基らの系統で薩摩平氏と呼ばれる莫禰一族、川辺一族、帖佐一族らはかなりの勢力がありました。
薩摩(吉富)氏や指宿、知覧、谷山氏らは南北朝時代に島津氏と覇権争いをします。

長谷場一族は肥前有馬氏と同族で、平直澄の子孫とされ、藤原純友の子孫を称してもいます。

川辺一族のなかでも頴娃氏は重要です。
薩摩氏、指宿氏、知覧氏、など頴娃忠永(忠長)から分かれた家が多いのにも関わらず、
頴娃氏自体は他氏からの養子が入っているのでややこしくなっています。
まずは鎌倉時代に長谷場一族の益山氏から忠純が入り、
南北朝時代には島津久豊が一時養子となり、その後、伴姓肝付氏から兼政が入り、
さらに島津勝久(後に島津奥州家相続)や久秀(島津義虎の子)、久政(鎌田政近の子)が入嗣しています。
養子関係が多いのは頴娃氏の重要性の高さを表していると言えるでしょう。

ついでに東国御家人として鎌倉時代に来住した渋谷一族や
島津氏の家臣である酒匂、本田、伊地知、山田氏も平姓です。

他には島津氏と同族である惟宗一族や九州に多く存在する大蔵一族やそして紀姓伊集院氏も有力な存在です。

島津氏は伊作や伊集院に一族を送り込み、勢力を増大させます。

東国御家人では鮫島、二階堂ら工藤氏族が目立ちます。

大隅国では肝付氏ら伴氏族や、禰寝氏ら建部氏族が有力ですが、
鎌倉時代の名越北条家の家臣であった肥後氏の一族とされる種子島氏も注目です。
禰寝氏も肥後氏も鎌倉北条氏との関係がポイントです。

日向国は日下部氏及びその地盤を受け継いだ土持氏や、古代豪族の三田井氏がいましたが、
南北朝時代には島津一族の新納氏、北郷氏、樺山氏、石坂氏や足利一族の畠山直顕の進出が見られます。
ここでも東国御家人の工藤氏から派生した伊東氏や横山氏族の野辺氏が発展します。

やはり鎌倉時代に北条氏と関係の深かった工藤(伊東)氏や肥後(種子島)氏は重要ですね。



島津総領家は総州家、奥州家、相州家、薩州家、豊州家と呼ばれる五つに分かれています。

総州家は薩摩守護・師久に始まる家で本来はこの家が嫡流なのでしょう。
総州家は川辺氏の地盤を受け継ぎますが、弟・氏久に始まる奥州家に押されて衰退します。
総州家からは相馬氏、碇山氏、姶良氏が分かれます。

奥州家は大隅守護・氏久に始まり、次の元久の代に三州守護となります。
元久の跡は、当初は総州家の久照(北殿)が養子となり、
元久死後は伊集院頼久の子・熈久と頴娃氏の養子となっていた氏久の子・久豊(南殿)との争いの結果、久豊が継ぎます。
室町時代の惣領は奥州家です。
奥州家からは喜入氏、桂氏、迫水氏、大島氏、義岡氏、亀山氏、藤野氏が分かれます。

相州家は奥州家・忠国(久豊の子)の庶長子・友久から始まる家ですが、
伊作氏から忠良が入ってきたことにより勢力を拡大させます。
次の貴久が奥州家・勝久の養子となり、三州守護となり
義久の代に九州制圧直前まで行きますが、豊臣政権に服属し、薩摩・大隅両国及び日向諸県郡を安堵され、
江戸時代の忠恒(後に叔父と同じ家久と改名)の代に琉球を加え、薩摩藩主として続きます。
忠良の子・忠将(相州家相続)から佐土原家、垂水家、新城家(のち末川家)が派生、
同じく忠良の子・尚久からは宮之城家、喜多村家が派生し、佐志家(久近)へ養子に入ります。
貴久の子から日置家(歳久)、永吉家(家久)、義弘の子から佐志家(忠清)が創設されます。
島津忠恒の子からは
島津義弘と古代豪族の加治木氏の地盤を受け継いで加治木家(忠朗)を創設されたり、
島津一族の豊州家(忠広)、日置家(忠心)、永吉家(久惟)、垂水家(忠紀)、
伊集院氏(久朝)、北郷氏(久直)、樺山氏(久尚)、町田氏(忠尚)、桂氏(忠隆)、今給黎氏(久国)や、
家臣の鎌田氏(正勝)、伊勢氏(貞昭)、禰寝氏(重永)へ養子に入ります。
島津光久の子からは島津一族の佐志家(久岑)、末川家(久侶)、北郷氏(久定・忠長)、喜入氏(忠長・久亮)、佐多氏(久達)や、
鎌田氏(正長)へ養子に入りました。

薩州家は久豊の子・用久から始まった家で薩摩守護代を務め、相州家と覇権を争います。
島津義虎の子は島津日置家や頴娃氏、入來院氏へ養子に入ります。
薩州家からは吉利氏、大野氏、寺山氏、大田氏、三栗氏、西川氏が分かれます。

豊州家は久豊の子・季久から始まった家で、後に北郷氏から忠親、島津忠恒の子・忠広が養子に入ります。
季久の子は加治木氏(満久)、平山氏(忠康)へ養子に入ります。

伊作氏(又は「伊作家」)は島津久経の子・久長に始まり、前述の通り相州家と深い関係にあります。
伊集院氏は古来より院司を務める有力紀姓の豪族でしたが、島津忠経の孫・久兼が受け継ぎます。
最終的には島津忠恒の子・久朝が伊集院本家を継ぎます。

新納氏は島津忠宗の子・時久から分かれた家で、後に宮之城家の久元、薩州家の忠影が養子に入ります。
北郷氏も島津忠宗の子・資忠から分かれた家で、後に豊州家の時久、島津忠恒の子・久直、光久の子・久定及び忠長が養子に入り「都城家」となります。
樺山氏も島津忠宗の子・資久から分かれた家で、後に島津忠恒の子・久尚や、東郷氏(永吉家出身)から久広が養子に入ります。
町田氏は島津忠経の子・石谷忠光から始まり、後に島津忠恒の子・忠尚が養子に入ります。
川上氏は島津貞久の庶長子・頼久から分かれ、本家は他から養子を入れず、存続します。
佐多氏は知覧氏の地盤を受け継ぎ、後に島津光久の子・久達が養子に入り「知覧家」となります。

入來院氏は相州(佐土原)家(重時)、薩州家(重高)から養子が入ります。
東郷氏は永吉家(重虎)から養子が入ります。
敷根氏は宮之城家(立頼)から養子が入り「市成家」となります。
肝付兼屋は島津忠恒の婿ということで准一族扱いです。
種子島氏の当主は島津本家の婿になることが多いので重視されていたのでしょう。



島津家臣中枢
島津貞久時代 新納時久・川上頼久・酒匂久景・土持栄定・土持栄幽
島津氏久時代 本田氏親・本田親治・土持栄勝
島津元久時代 本田忠親・平田親宗・上井元秋
島津久豊時代 本田重恒・平田重宗・伊地知季豊・柏原好資・大寺元幸
島津忠国時代 島津用久・新納忠臣・北郷知久・樺山孝久・町田胤久・町田一久・山田忠尚・末吉忠勝・本田国親・本田重恒・本田宗親・平田氏宗・平田兼宗・村田経房・村田経茂・伊地知季豊・柏原永好・大寺忠幸・石井義忠・加治木親平・長野助家・高木経家・廻元政・税所称阿・和田政直・財部固成
島津忠昌時代 新納忠続・本田兼親・平田兼宗・村田経安・伊地知重貞
島津忠治時代 本田兼親・伊地知重貞・桑波田景元・鳥取政茂
島津忠隆時代 本田兼親・伊地知重周・桑波田景元・鳥取政茂
島津勝久時代 本田兼親・本田親尚・伊地知重周・桑波田景元・肝付兼演・土持政綱・梶原景豊・池袋宗政
島津貴久時代 伊集院忠朗・伊集院忠倉・伊集院忠棟・新納康久・川上忠克・川上久朗・喜入季久・本田薫親・本田盛親・本田親信・村田経定・村田秀久・三原重秋・鎌田政年・肝付兼盛・平田昌宗・平田宗茂・伊地知重興?
島津義久時代 島津征久・島津義弘・島津家久・島津忠長・伊集院忠棟・新納忠元・町田久倍・川上忠克・喜入季久・今給黎久治・本田親貞・村田経定・平田昌宗・平田光宗・上井為兼・河野清通・上原尚近・市来家諸




応永二十九年奉加帳
島津久豊・忠国
新納忠臣
樺山教宗?
伊作勝久?
北郷知久
山田忠豊
伊集院頼久
佐多久清・浄了
平山武久
本田重恒
大寺元幸
平田重宗
柏原好資
伊地知久安


島津家地頭
島津義弘 帖佐
島津歳久 宮之城
島津尚久 秋目・加世田
島津忠長 久志・串良
島津忠廉 帖佐・串良
島津孝久? 伊集院

伊集院忠朗 鹿児島・姫木
伊集院忠棟 北村・高山・南郷
伊集院忠俊 水引
伊集院久宣 清武
今給黎久通 市成・踊・牛根
今給黎久治 串間・桜島・市来・出水・高山
今給黎久信 横川
南郷忠鏡 加久藤
南郷久元? 阿多
南郷忠行 吉松
日置忠饒 串間
古垣忠晴 水俣
春成久正 加世田

新納武久 富田
新納忠元 大口・牛山・御船
新納忠光 伊作
新納康久 大崎・加世田
新納久饒 隈城
新納久時 綾
新納長住 市来
新納孝久 隈城
新納久厚 蘭牟田
新納忠宗 恒吉
新納忠豊 市成
新納忠誠 曾木

北郷久村 財部
北郷久堯? 山田
北郷久薫 梶山
北郷久慶 志和地
北郷喜左衛門 都城
北郷又次郎 高城
北郷久左衛門 末吉
北郷大炊 勝岡
北郷久蔵 野々美谷
北郷雅楽 安永
神田久友 山之口
神田久猶 山之口

樺山長久 山之口
樺山忠助 穆佐
樺山久高 百引・出水・伊作・志布志

町田久倍 伊集院
町田忠倍 伊集院
町田久幸 高山
町田忠堯 新城

川上兼久 伊集院
川上久隅 蘭牟田
川上久貞 中郷
川上久運 頴娃・高山・飯野・高城
川上久尚 百引・吉田
川上栄久 川辺
川上忠克 谷山
川上久辰 谷山
川上忠智 栗野・飯野・加久藤・蒲生・馬越
川上忠堅 蒲生・馬越
川上翌久 本庄
川上倍久 永吉・蘭牟田
川上源五郎 向島
川上大炊 小林

佐多久政 佐多
佐多忠増 百次

喜入頼久 指宿
喜入忠誉 喜入
喜入忠俊 喜入
喜入季久 喜入
喜入久通 喜入
桂忠昉 平佐
義岡忠縄 梅北
吉利忠澄 吉利・塩水・三城
吉利忠金 倉岡
吉利忠知 穆佐
大野忠綱 加世田
大野忠悟 山田
大野忠宗 加世田・山田
阿多忠秋 阿多
阿多忠辰 川辺
寺山久兼 市成
大田昌久 帖佐
島津忠弘 阿多

本田親貞 吉田・加世田
本田親治 加世田
本田薫親 永吉・山田・向島
本田公親 曽於
本田道親 田布施
本田宗親 加世田
本田親光 加世田
本田親利 鹿籠・坊泊
本田為親 曽於
本田正親 加世田
本田親正 甑島

伊地知重貞 加治木
伊地知重辰 加治木
伊地知重兼 加治木
伊地知重豊 川内山田
伊地知重頼 田布施
伊地知重康 平和泉
伊地知重茲 指宿
伊地知重政 門川
田島重秀 姶良

鎌田政年 帖佐・牛根・志布志
鎌田政心 百次・財部
鎌田政近 都於・指宿
鎌田政郷 田布施
鎌田正勝 高橋・蒲生・高岡
鎌田正長 平松・帖佐
鎌田政在 桜島
鎌田政貞 鶴田
鎌田長門 垂水

村田経定 蒲生・郡山・吉田
村田経威 市来・郡山
村田経安 郡山
村田経清 郡山
村田亀丸 曽於

山田有信 高江・高城・日置・串木野・隈城・福山

三原重益 加世田
三原重秋 帖佐・重富・曽於
三原重行 伊作
三原重香 伊作
三原重治 伊作
三原重隆 郡山

比志島義基 栗野・曽井
比志島義住 郡山
比志島国守 岩川
比志島国親 岩川
比志島国真 市来・隈城・北村
比志島国貞 市来・高岡
比志島義知 曽井
川田義朗 川田・垂水

鮫島宗豊 田布施・高橋
鮫島宗増 大野
鮫島土佐 大野

伊勢貞真 飯野
伊勢貞清 高岡
有川貞易 高橋
井尻祐貞 肱屋

上井薫兼 永吉
上井為兼 永吉・宮崎
上井秀秋 馬関田・小林・綾

上原尚氏 曽於
上原尚近 高原・飫肥
上原尚演 吉松・横川
上原尚政 横川

八木正信 吉田
柏原有国 松山
猿渡信光 加世田・羽月
宮原景時 串木野
宮原景種 須木・佐敷
敷根頼賀 市成
敷根頼豊 野尻

高崎能名 伊作
高崎能宗 伊作
高崎能広 伊作

市来家親 松山
市来家廉 加世田・川辺
市来家守 野尻
五代友慶 馬関田
大寺頼安 山田
大寺安辰? 加世田・阿多
大寺大炊 田野

莫禰良正 阿久根
莫禰良有 阿久根
遠矢良時 長野

平田昌宗 帖佐・伊集院
平田光宗 帖佐・八代・郡山・西別府
平田歳宗 帖佐
平田増宗 郡山・吉田
平田宗茂 川辺・加世田
平田宗貞 加世田
平田宗仍 末吉
平田宗応 木脇
平田宗弘 本城
平田宗吉 山田
平田宗張 山田・川辺・穂北
平田宗祇 指宿

頴娃兼洪 指宿
頴娃兼賢 小林
頴娃久政 日当山・高山・伊集院
頴娃久友 山田
頴娃久甫 小根占・伊集院
知覧久純 梅北
知覧忠喜 梅北

入来院重孝 百次
入来院重清 帖佐・重富
東郷重位 坊泊
村尾重候 山田・次木
白浜重政 大村

肝付兼盛 溝辺
肝付兼寛 加治木
肝付兼吉 恒吉
肝付兼清 姶良
肝付兼広 梅北
肝付備前 踊・日当山
肝付新左衛門 大姶良
肝付淡路 加例川
梅北国兼 湯尾
津曲俊宗 指宿
津曲兼任 指宿・頴娃・今和泉
津曲兼音 指宿
津曲兼延 指宿
津曲兼敏 指宿
検見崎兼泰 串良
岸良兼慶 市成
岸良兼直 大姶良
安楽兼近 市成
薬丸兼将 高山
白坂兼頼 加久藤・吉田
中村対馬 百引
中村吉親 百引
河越重高 百引
河越重尚 高隈
隈本宗清 踊

伊東祐審 馬越
木脇祐昌 木脇・花山・水引・頴娃・栗野
木脇祐章 川内・山田・吉松
木脇祐玄 串木野
落合兼有 山之口
落合兵部 穆佐
落合上総 守永
長倉伴九郎 清武
上別府宮内 清武
上別府常陸 飫肥
野村秀綱 平佐
野村松綱 内山
野村文綱 内山
野村重綱 白砂崎
野村清綱 高江
野村是綱 山崎
福永宮内 飫肥・飯田
福永丹後 浦之名
米良重方 三山野久尾
米良右馬 紙屋
米良休介 坪屋・津保屋
稲津民部 梶山

土持盈信 栗野・大崎・高江・曽於
土持頼綱 末吉
土持孝綱 大岩田口
土持次昌 末吉

税所篤職 牛山・山野
税所篤和 山野
税所新介 曽於

小杉頼栄 恒吉
財部盛住 曽於・踊
鳥丸重利 中郷
小島辰綱 曽於
平兼安 加世田・川辺
平宗綱 加世田
奈良原資 加世田
奈良原敦 逆谷
菱刈重広 本城
藤原忠易 野田・高野
藤原忠綱 末吉
藤原秀家 久志
藤原兼頼 吉田
藤原良房 鹿屋
稲留長辰 八代・紙屋
稲留長秀 加世田
平川景信 加世田
禰寝重張 根占
吉田朝清 帖佐山田
吉田清孝 阿多
曾木越中 吉松
東条民部 高山
山口貞行 松山
和田越中 勝岡・野々美谷
二階堂安房 湯之浦



江戸時代
鹿児島・島津氏770000石
都城・北郷氏39000石
佐土原・島津氏30000石
垂水・島津氏18000石
加治木・島津氏17000石
宮之城・島津氏15000石



島津氏一家
島津忠久(豊後前司)

(豊後守)忠久子
島津忠時(豊後修理亮)
島田忠綱(豊後四郎左衛門尉)
島津忠直(豊後六郎左衛門尉)

(大隅守)忠時子
島津久経(大隅修理亮)
山田忠継(大隅式部少輔)
中沼長久(大隅大炊助)
島津忠康(大隅式部丞)
島津忠佐(大隅左衛門尉)
阿蘇谷久時(大隅四郎)
島津忠経(大隅五郎)
島津久氏(大隅七郎)

(下野守)久経子
島津忠宗(下野三郎左衛門尉)
伊作久長(彦三郎)
島津忠長(下野彦三郎左衛門尉)

(常陸介)忠経子
給黎宗長(進士三郎左衛門尉)

(周防守)忠綱子
島津忠行(周防三郎左衛門尉)
島津忠泰(周防四郎左衛門尉)
島津忠景(周防五郎左衛門尉)








島津四兄弟
島津義久(材徳)
島津義弘(雄略)
島津歳久(知謀)
島津家久(兵術)

看経所四人
新納忠元
肝付兼盛
鎌田政年
川上久朗



島津四朗(僕が勝手に考えました)
島津家にいる4人の「朗」
島津忠良の最大の功臣というべき伊集院忠朗
軍師役の岩切信朗
伊集院忠朗と岩切信朗の二人から兵法を伝授された、これまた軍師役の川田義朗
そして薩摩国守護代と嘱望された川上久朗。
ちなみに鎌田政近も法名が源朗です。

軍師役
岩切信朗
川田義朗
新納久饒


http://www.geocities.jp/kawabemasatake/satuma.html