2015年12月28日月曜日

上越市史別編1


島津氏降参は、島津泰忠(孫五郎・左京亮・常陸介)の系統であり、島津忠直(月下斎)は景虎配下を押し通し、長沼近辺(長野市)を退去します。島津氏分裂は実は弘治三年七月であったのです。しかし、分裂以前の島津氏の守城は矢筒城か大蔵城か明らかではありません。
 史料要約2のこの文面で見ると、七月初旬、善光寺平西部地域は平野部・西山地方すべて、晴信が調略あるいは軍事行動によって、征服しつつあることが分かります。葛山降伏は、還住していた葛山城周辺の越後方衆の投降を示し、以後、葛山衆として武田方に属することになります。なお、晴信は七月五日と六日の両日、佐野山城で人馬を休息して、明日は次の行動に出ようとしています。
 また晴信はこの段階で、すでに安曇平北方に別働隊を遣わしており、晴信が善光寺平の後詰をする一方で、七月五日小谷城(小谷村平倉城)が陥落しました。糸魚川から日本海側を春日山へ進む要地を、制圧してしまったことになったのです。その後、晴信は佐野山から深志城(松本市)へ入り、七月十一日、小谷城攻略の感状を与えていたことが確認できます(『遺文』549号)。
 景虎は糸魚川方面の脅威も増したことになりますが、この頃の越後方の動きを伝える史料要約3があります。この文書は従来、永禄三年の景虎関東出陣の際のものとされていましたが、『上越市史別編1』では弘治三年に置きました。文言では景虎は留守居役の長尾政景と交信できるところに居るし、永禄三年八月四日現在では景虎は出陣していないし、八月二十五日付の春日山城留守居役の武将には政景は名を連ねていないので、弘治三年説に従いたいと思います。


http://www10.plala.or.jp/matuzawayosihiro/page003.html

2015年12月8日火曜日

恋に落ちた龍


恋に落ちた龍がいる。

昔、子死越と呼ばれた土地に、五つの頭を持つ暴れ龍が棲んでおり、人々はその五頭龍による度重なる雷雨、洪水、そして凶作に苦しめられていた。ある時その海に暗雲立ち込め雷鳴が轟き、ようやく晴れたときには海上に1つの島が現れていた。
そこに舞い降りた一人の壮麗な天女。龍は一目で恋に落ち結婚を申し込んだが、天女は暴れ龍には見向きもしない。 龍は、その日より心を入れ替えて悪行の一切を止め、その土地を水難から守り、恵みの雨をもたらした。 二人は結ばれ、その土地には豊穣と平穏がもたらされた。いつしか「子死越」は「腰越」と呼ばれるようになり、1192年には日本初の幕府が作られ、日本史上、最も重要な場所の1つとなって行く。
鎌倉、江ノ島。

天女と化して舞い降りた弁天に、恋をした龍神の伝説である。


龍伝説


津々浦々、日本の龍伝説

・北海道島牧村 飛竜賀老の滝
松前藩の金山奉行が金を隠し、それを奪る者には龍神の祟りがあったという。
・北海道
沼沢値に棲み悪さをする龍蛇神をアイヌの英雄オオキリムイが退治した。アイヌ民謡 ハリツ・クンナ 知里幸恵訳
・小樽市 手宮
手宮の岩陰に棲む悪龍は、毎年若い娘を生贄として要求していた。ある年、知恵ある娘がマキリ(小刀)と犬で悪龍を退治した。
・弘前市 小沢龍神温泉
夢に現れた龍神のお告げにより湧き出た温泉。
・青森県 秋田県 十和田湖 田沢湖 八郎潟 
奥入瀬の水を飲み龍と化してしまった八郎太郎。十和田湖に棲むが、南祖坊と闘いその住まいを追われ、八郎潟に移る。後、田沢湖の辰子姫と恋に落ちる。三湖を巡る壮大な龍伝説。
・一関市 宝竜温泉
昔、龍が昇天し慈雨を降らせたという伝説のある土地。
・茨城県 鹿島明神
魑魅魍魎を率いた龍蛇神を鹿島明神が退治した。その後には、首のない大蛇の胴が残った。
・茨城県 鹿島沖
捕鯨に出た男達が、古老の暗雲に対する注意を聞かず、竜巻に巻き込まれて遭難。
・東京都 大田区 羽田弁財天
 多摩川を流れ下ってきた宝珠と、江の島から勧請した弁財天を祀る。
・鎌倉 江ノ島
北条時政が子孫繁栄を祈願して参詣した折、龍が現れ三枚の鱗を与えた。時政はそれを崇め、三つ鱗紋を家紋とした。
・日光 竜頭の滝
長さ200メートルの斜面を二手に分かれて流れる様子を龍の髭に見立てての命名。
・日光 鬼怒川上流部 竜王峡
龍が暴れまわったかのような荒々しい渓谷美を持つ。岩盤の色によって紫竜峡、青竜峡、白竜峡と呼ばれる。
・栃木県 八溝山
 昔、八峰を八巻する悪龍が棲んでいたが、那須国造が、乗鞍岳から天の安鞍を、槍ヶ岳から天日矛を、立山から天広楯を、信濃駒ケ岳から神馬を借りて退治した伝説がある。
・群馬県 赤城山麓
 赤堀道玄という長者の美しい娘は、赤城神社参詣の折に、龍に見染められ、沼に引き入れられてしまった。 
・千葉県 印旛郡 栄町 竜角寺
731年旱魃の時に、印旛沼の龍が昇天して雨を降らせ、その体は3つに分かれて地上に落ちた。その時の頭部は竜角寺、腹部は印西市本埜の竜腹寺、尾部は匝瑳市の竜尾寺に祀られている。
・八丈島 登竜峠
この峠道を下から見ると龍が昇天しているように見える。
・箱根 九頭竜神社
芦ノ湖に棲み若い娘の人身御供を要求していた悪龍を、万巻上人が改心させ神社に祭った。湖水祭ではお櫃に赤飯を入れて湖底に沈めて捧げるが、もし浮かべば龍神が受け入れなかったため災いが起こるという。大正十二年(1923年)の湖水祭りではお櫃が浮かんでおり、その数ヵ月後に関東大震災が起こった。
・浜松市 龍頭山
龍の頭に似た、小龍頭、大龍頭と呼ばれる岩峰が山頂にある。
・静岡市 龍爪山
龍が降りて、誤って爪を落とした。
・袋井市 竜巣院
太素省淳禅師が夢に現れた龍神のお告げに従って開創した寺。
・新潟県中魚沼郡津南町 龍ヶ窪の水
日照りによる不作で食物に困った村人が龍の卵を盗んだ所、母龍が怒り狂ってその卵を取り返しに来た。村人はせめて子供たちの命だけは助けてほしいと懇願し、龍はその心に打たれ三日三晩雨を降らせ、この池を作ったという。今も一日43000トンの水が湧き出ている。
・長野県飯山市 北竜湖
弘化4年(1847年)に起きた善光寺地震によって湖が決壊し100人以上の命が奪われた。この時千曲川に龍が流れ下った。
・長野県 木島平村 竜興寺清水
治承年間(1177~1180年)に虎室と見竜の高僧によって立てられた名刹にある湧水。これで内山和紙を作る。
・長野県 戸隠山
渋右衛門という漁師は、天狗からもらったという金の鉄砲玉で百発百中だったが、滝壺に棲む龍を討とうとした時から的には当たらなくなった。
・長野市 西光寺門前
樵の中兵衛が龍を撃ち殺しその死体を見世物にしたため、祟りにあり一族は死に絶える。弔うために西光寺の住職が門前に碑を立てた。
・岐阜県 関市 日竜峰寺
5世紀前半の仁徳天皇の時代、両面宿儺が龍神を退治して山に祠を建てた。
・福井県池田町 竜双ヶ滝
滝壺に棲む滝が昇天するためにこの滝を登った。滝の名は、龍双坊という修行僧に因む。
・名古屋市 竜泉寺
延暦年間(782-806年)に最長が多々羅湖畔で経文を唱えると、池から龍が昇天し、馬頭観音が現れた。
・福井県 九頭竜川
氾濫を繰り返すため「崩れ川」と呼ばれ、それが九頭竜になったとも言われる。六世紀に継体天皇が九頭竜川の河口を広くしたのが日本最古の治水記録。
・滋賀県竜王町
東西の竜王山(雪野山と鏡山)に抱かれた歴史ある街。龍王寺の梵鐘には美女と大蛇の伝説がある。
・滋賀県 勢多の松本
真上阿祈奈君は竜宮城に呼ばれ、その秀麗さを歌う名文を書いたところ、竜王に深謝された。
・いなべ市、近江市境界 竜ヶ岳
古くから雨乞いの山であり、南側斜面には白龍神社がある。
・京都伏見区 清瀧権現
淳和天皇の天長五年(828年)、弘法大師空海が神泉苑で請雨修法の際に出現したという善女龍王を祀る。
・京都 神泉苑
小野小町が詠んだ「ことわりや日の本なれば照りもせめ さりとてはまた天が下かは」という歌に竜王が感激して雨を降らせた。
・京都 勢多の橋
勢多の橋に棲んでいた龍は、少しも臆せず橋を渡った俵藤太を剛勇の士と見込んで長年の敵である琵琶湖の大百足を倒してくれるよう頼んだ。神業に近い弓矢術によって見事百足を退治した藤太は龍から深謝され赤銅の鐘をもらう。その梵鐘は三井寺に献上された。
・奈良県月ヶ瀬村 竜王の滝
修験道の開祖、役の行者が修行した滝。
・奈良県 吉野 竜門岳 龍門寺
龍が棲むような山間深い修験道の山。久米仙人もここで修行したが、女性の肌の白さには勝てず、その女性と結ばれた。
・富田林市 龍泉寺
嶽山の中腹にある龍泉寺には悪龍が棲んでおり、境内の池と麓の水脈は全て枯れてしまった。弘仁十四年(823年)、空海の祈祷により池には水が戻り、聖天、弁才天、叱天、牛頭観音が祀られた。
・奈良県 生駒郡 竜田神社
聖徳太子が法隆寺を立てるための土地を探していたときに、老人に化身した龍田大明神が斑鳩の地を勧めた。その龍田比古神・龍田比女神の二神を祀る。
・吉野郡 天川村 龍泉寺
700年ごろ、役行者がこの地に泉を発見し、八大竜王を祀ったという。
・奈良県 宇陀市 龍穴神社
善女龍王を祀る深山の神社。昔から龍穴では雨乞いの儀式が行われた。
・和歌山県 竜神温泉
役小角が源泉を発見し、弘法大師空海が難陀竜王の夢告を受けて衆生に広めたといわれる1300年の歴史を持つ温泉。
・紀州 熊野 日高川
修行僧安珍への想いを裏切られた清姫が、怒りのあまり龍蛇と化し、道成寺の梵鐘の中に逃げ込んだ安珍を焼き殺してしまうという悲恋伝説。
・大阪 四天王寺
天正十六年(1589年)、二匹の龍が四天王寺に仏舎利を奪いに来た。恐ろしい竜巻とともに金堂は破壊されたが、渾身の四天王像に阻まれ、仏舎利を取ることはできなかった。
・瀬戸内海
小豆島、讃岐の近海からはよく竜骨が引き上げられ、それは粉にひいて傷薬に用いられた。(倭訓栞)
・讃岐山脈 竜王山
双耳峰であり、東側が讃岐竜王、西側が阿波竜王と呼ばれる。麓に龍神を祭った神社がある。
・讃岐国 志度の浦 志度寺
龍に奪われた宝珠を命がけで採り戻した海女の碑がある。
・土佐国
土佐の国では、龍の昇天(台風)時に、太鼓、鉦、法螺で囃し立て龍を追い立てたという。(諸国採草記)
・高知県 香美市 龍河洞
昔、天皇が竜駕に乗ってこの鍾乳洞を訪れたことから命名されたとも言う。
・高知 桂浜
  竜王宮と龍頭岬に抱かれた弓型の海岸。この場所から坂本竜馬は太平洋に夢を抱いた。
・高知県 土佐市 青龍寺
 弘法大師が修行先の唐から投げた独鈷杵がこの地で見つかったという。四国八十八ヶ所三十六番札所。
・愛媛県 宇和島市 龍光寺
 農夫の刀が切り裂いたという龍の目が祀られている。
・鳥取県 日野町 竜王滝(幽霊滝)
麻を紡いでいた女たちが肝試しとして、幽霊滝の賽銭箱を取ってくることを提案した。お勝という女性はその幽霊滝に向かい、賽銭箱に手をかけたところ、どこからともなく自分を諌める声が聞こえた。その声を無視して箱を持って村に帰ったところ、背中に背負っていた赤ちゃんの首がなかったという。(小泉八雲 骨董)
・島根県 益田市  蟠龍湖
竜がとぐろを巻いているような湖の形。
・山口県錦町 寂地峡五龍の滝
竜尾、登竜、白竜、竜門、竜頭の5つの滝が存在する。
・山口県 篠山市 竜蔵寺
役行者が岩窟にて熊野権現を勧請し護摩供を行い、龍の蔵と命名。
・長門市 竜宮の潮吹き
海水が穴から吹き上がる様子が龍の昇天に見えるためこの名前が付けられた。
・下関市 竜王山 竜王神社
下関海峡を望む山頂に祀られ、海上安全、大漁などが祈願される。
・福岡県 小倉
ある侍の家にて、柱を登ろうとしていた小蛇が風雨とともに龍の姿に戻り、昇天した。
・佐賀県 有田町 竜門の清水
鎮西八郎為朝が大蛇を退治したという伝説がある。
・大分県 九重町 龍門温泉 龍門ノ滝
  鎌倉時代の渡来僧蘭渓道隆禅師が(現河南省)の龍門の滝に似ているということから命名。
・長崎市江迎町 潜竜ヶ滝
文政十二年、平戸藩主観中公が命名し、周辺を神域にした。
・熊本県 山都町 竜宮滝
滝壺に龍が棲むといわれる。
・熊本県 南阿蘇村 金龍の滝
黄金の龍が昇天するような荘厳な滝。
・熊本県 天草市 龍仙島
龍女宮と呼ばれる洞窟、奇岩、岩礁のある孤島。
・鹿児島県加治木町 龍門滝
中国山西省竜門瀑に似る。老婆が滝壺で洗濯していると大波が起こり大蛇が現れた。以来その場で洗濯するものはいなくなった。

http://ayuho.yu-yake.com/Gambar/Ryu/Ryu.html


2015年12月5日土曜日

墓地の竜


私は2011年の四月頃から「家紋研究家」を名乗り始めるとともに京都の墓地を巡ることに決めた。
いつ何時、この京都にも大地震が起こるかもしれない。壊滅的被害になるかもしれない。
それは311の惨状を見て、家紋という文化が次の世代、その次の世代へと、残していけるよう、繋いでいけるようにという私なりの考えがあってのことだった。
今では170カ所を越える墓地や霊園を調査してきたが、龍紋は先にも触れたとおり、大陸系の家で希に見ることが出来る。
他に龍紋で見かけるものといえば、玉持ち龍の爪紋や龍剣に一文字紋などである。
雨龍紋との出会いはやはり非常に少ないが、それでも4つほどは発見している。


意外と知られていない、というか気づいておられない方も多いのだが、実は有名な京都の寺である「天龍寺」と「南禅寺」では寺紋が雨龍なのである。(右図版参照)
天龍寺は霊亀山天龍寺(天龍資聖禅寺)という。文字通り寺名からこの紋を用いているのだろう。
天龍寺は何となく分かるが、南禅寺はどうだろうか。
南禅寺は瑞龍山南禅寺(太平興国南禅禅寺)というが、その山号に「瑞龍」とあるのが分かるだろう。
下記の写真は実際に私が撮影してきたもので、よく見れば双方の寺では様々な所で雨龍紋を見かけることが出来るので、これを読まれた方は今後行かれた時は是非、雨龍探しもして頂きたい。瓦にも刻まれているので是非。



http://omiyakamon.co.jp/kamon/amaryo/


2015年12月2日水曜日

飯島鎮守神明宮


神明宮の庚申記念塚 諏訪市四賀飯島 24.6.24

飯島鎮守神明宮

いつの間にか、高規格の道路が開通していました。5年前のカーナビでは、道とともに表示しない「Jマートとオギノ」も存在していました。そこに駐車場を確 保してから、一目で神社の杜とわかる高木の塊を、これも新しい分譲住宅地の中を縫いながら目指しました。今日の目的は、中世の『祝詞段』に「飯島神明」と 詠(うた)われた、旧飯島村の鎮守社である神明宮です。

庚申記念塚

拝礼を済ませてから境内の奥に目をやると、何かの石造物が見えます。

ブロック塀の向こう側が称故院です。
遠目では多宝塔とも思えた“何か”は、「昭和55年の庚申の年に住民の総意で称故院に庚申塔を建てた。その記念としてタイムカプセルを埋設し飯島区に関わりのあるものを納めた」とある「庚申記念塚」でした。
 灯籠の笠にも見える屋根を基にデザインをしたのでしょうか、奇抜ですが余り違和感は感じません。しかし、本体と屋根には明らかに大きな時代差があります。
 この後は、赤沼子之神社を参拝して白狐稲荷社の写真を撮るという計画です。まずそれらを片付けてから、じっくり庚申記念塚を含めた境内を探索することにしました。いったん境外に出て、上川の堤防に並行する道を目指しました。神明宮の前から堤防までは僅かの距離でした。

笠なし灯籠「右一宮」

突き当たりの交差点で左折すると、竿だけの灯籠が現れました。写真の通り、その周囲は「安全地帯または分離帯」になっています。
 見回すと、電柱の根方には道祖神などの石造物もありますから「昔ながらの辻」であることがわかります。思わぬ発見にうれしくなって竿の彫り込みを読むと「大小神祇・諏方大明神」です。台石には「右一宮」ですから、方角は合っていても神明宮ではなく諏訪大社上社用の道標を兼ねた灯籠とわかります。
 この状態でも撤去されずに残っているのが不思議ですが、それを思う以前に、私は神明宮の「庚申タイムカプセル」 に関連付けていました。灯籠で始めに壊れるのが火袋です。経緯はわかりませんが、それを補完しなかったために居場所を失っていた笠を、庚申記念塚の屋根と して再利用したと考えました。何かワクワクしてきましたが、それはひとまず置いて、旧街道の先を目指しました。

再び庚申記念塚

神明宮に戻ると、そのまま奥に直行しました。カラスの威嚇とも思える鳴き声にややひるみましたが、延びた草を踏み倒して近づき「塚の屋根」を観察しまし た。下から覗くと火袋をはめ込むスペースが見えますから、灯籠の笠に間違いありません。今見れば、私が密か(勝手)にスペーサーと呼んでいる、大型の灯籠 に見られる中台が笠の下にあることも気がつきました。
 まだ何かないかと宝珠を確認すると、写真ではよく見えませんが諏訪大社の神紋「諏訪梶」が彫られています。コケで覆われていますが、上部に梶の葉が一枚と下に半円形の根があるのがわかるでしょうか。
 これで、経緯はわかりませんが、交差点にある「諏方大明神」の灯籠の笠を使っていることが確定しました。これだけの材料に図書館の史料等を加えれば、かなりの一文が書けそうです。お土産をいっぱい貰ったような思いで、神明宮を後にしました。

飯島の辻

 諏訪大社上社への参道は「神宮寺道」とか「一ノ宮街道」とか言われ、桑原の前沢の辻で甲州道中と別れ立縄手(たつなわて)通り、尻腐(しりくさり)橋(ふじみ橋)、車橋から上川の土手を通り、飯島の辻で右に直角に曲がり中金子、上金子から神宮寺へ行った。
四賀村誌編纂委員会『諏訪四賀村誌』
甲州街道(上川の右岸方面)から諏訪神社(諏訪大社)上社に参拝する人は、誰もが、この辻でこの灯籠の「右一ノ宮」を目にしたことが想像できます。

「享保」か「享和」か

現場では享保か享和なのか判別できなかったので、その年代を特定することにしました。まず、目を細めたり見開いたりして推定した干支の「辛酉」を年代表で探すと、「享」では「享和元年」しかありません。改めて写真を見直して「享元辛酉天」と確定できました。にしたのは、写真のように右に寄った「禾」ではとても「和」とは読めなかったからです。
  まだ、小渕さんが「平成」と書いた紙をテレビ画面を通して紹介する時代ではありません。「元年」とあっては当時はまだその字が“一般化”しておらず、 「和」を「咊」と彫ってしまったと考えてみました。完成後に気がついたものの、「一ノ宮」さえ読めれば道標の役目が果たせるので、これで(も)“よし”と した、と推理してみました。

「咊」は、和の異体字 26.11.4

ネットで何気なく「咊」を検索したら、読みは「わ」で、和の異体字とわかりました…。

「飯島中の辻」の常夜灯

「タイムカプセル」なら地元ではチョッとした話題になったはずと、ネットで検索してみました。しかし、32年も前のこととあって、反応がまったく ありません。ところが、「諏訪市飯島 灯籠 タイムカプセル」の検索ワードで、(なぜこの名称と首を傾げる)サイト『近世以前の土木遺産』が見つかりました。
http://kinsei-izen.com/area_data/17_Nagano.html
名称は「四賀の常夜灯」でした。一覧表のマス目から「(飯島中の辻)<一之宮街道>|石常夜灯・道標|享和元年(1801)|市教委|笠なし|「右一ノ宮」上部は神明宮境内に建設のタイムカプセル笠として使用される」を拾い出しました。
 ここで、私には只の交差点が「飯島中の辻」とわかり、このサイトの監修者である岡山大学大学院の馬場教授に(届かぬ)感謝をしました。

タイムカプセル

改めて『諏訪四賀村誌』を読み直すと、〔庚申講〕に、タイムカプセルの消息が載っていました。
 飯島区では、昭和五十五年の庚申塔を立てるとき、次の庚申の年(2040)に開くタイムカプセル(昭和五十五年現在の区に関する文書、写真その他を封じ込めた容器)を神明宮境内に埋め、庚申記念塚を造った。
タイムカプセルの開封にはまだ28年あります。その庚申の年には火袋を新調し、笠を戻して名実の「四賀の常夜灯」にして欲しいのですが、私にはそれを確認できる余命は残っていません。
 
 
 

五竜・八竜



「河原ニ鎮守」は、八劔神社

『祝詞段』と『根元記(下)』を比較しながら読み直してみました。
 断りがない限り、引用文献は諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』です。 ここでは「リュウ」と表記していますが、原本は「リャウ」です。以下に出る「金子ニ鎮守八リャウ」が旧中金子村の鎮守社「八龍神社(長野県神社庁の表記)」なので、「リュウ・竜・龍」と書いても差し支えないとしました。
祝詞段
茅野川ニ…立矢ニナラベ(並)五リュウサンソン金子ニ鎮守八リュウサンソン…文出鎮守小川鎮守河原ニ鎮守高島八劔辯才天七リュウ八リュウ南方ニ五リュウサンソン神々ニチヨノ御神楽マイラスル、
根元記(下)
チノカワ…立テ矢ニナラベゴリュウサンソン金子ニ鎮守八リュウサンソン…文出鎮守小川鎮守河ワラニ鎮守高島ニ八劔辯才天七リュウ八リュウ南方ニワ五リュウサンソンマデ神々ノコシミストキワ、
この段では、茅野市の千野川神社(亀石明神)から北へ向かう順に「金子→飯→赤→福→文出(踏出)→小(河原)→高」と、各鎮守社の祭神を“呼び出し”ています。「高島八劔辯才天」を挙げた後は、「七リュウ八リュウ」を唱えてから「南方の五リュウ」で締めくくっています。
湖岸を埋め立ててできた【踏出地】が、村名の由来か。
ここに出る「上川と宮川の間」としても差し支えない神社群を他のグループと比較すると、「島・沼・川」などから、かつては茅野市から諏訪湖まで続 く低湿地帯にあったことがわかります。そのため、河川や湖から受ける水害が深刻な悩みであったことは間違いありません。それが、神頼みとなって(一つの表 現として)「水神・竜神信仰」の「五竜・八竜」に繋がっていったのは十分考えられます。

「河原」は「阿原」の誤植(誤字)

話を、マーキングしたままの(河原)に戻します。実は、「河原に鎮守」が比定できていません。悩んだ末に、江戸中期の『諏訪藩主手元絵図』の「小和田村」に注目しました。
八劔神社(小和田)
諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』
赤沼・福島・金子・文出の各村と接する村の右半分(左図)には「大阿原(おおあわら)」と書かれ、「文出村」や「福島村」の村絵図にも、この続きと見られる「阿原」が見られるからです。
 私は、『祝詞段・根元記』に出る「河原」は、“阿原”の間違いと考えてみました。当時は同じ字を使ったのか、または筆字の「阿」を編集者が「河」 と読んだのかは別として、「あわら」を漢字に変換すると「荒原・悪原・葦原」などの候補を表示します。この三例から、阿原は(すでに)イメージとしても “確定”できたかと思います。
 【阿原】は、諏訪の表記では、諏訪湖面が低いと水面に出、ひとたび上昇すると水没する不安定な低湿地のことです。 湖面の上昇で収穫が皆無となる年もあるので、年貢高は、その年の状況(検見)で決めたそうです。以上の説明をもって、早々に「河原は、阿原の間違い」と断 定しました。

「阿原ニ鎮守」は、弁天町にあった弁天社(ではなかった)

『諏訪藩主手元絵図』 左は、上図『諏訪藩主手元絵図』の左ページに当たる「小和田村」の一部です。前記の通り「小和田村」の名はあっても人が居住できない阿原ですが、「弁才天」だけが書き込まれています。
 この絵図は江戸時代中期のものですから、『祝詞段』と『根元記』が書かれた中世では、この辺り(小和田村)は一面の“大阿原”であったのは間違いありません。この阿原に唯一鎮座しているのがこの弁天社ですから、「阿原ニ鎮守」を名乗っても異議は出ないでしょう。
 長らくこの弁天社を「阿原ニ鎮守」に比定していました。ところが、小和田地区公民館編『小和田の昔ばなし』を読んで、この弁天社は江戸時代の初期に京都から勧請されたことを知りました。結果として推論が外れたことになりましたが、「阿原ニ鎮守」は「高島八劔辯才天」を指していることが確定しました。また、時代が違うとはいえ、弁天社が近接している疑問も氷解しました。

http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/awara.htm

 

真浄寺



開基は鎌倉の武士、土屋五郎重行で、宗祖親鸞聖人越後流罪(1207)の折り弟子となり、法名を明慶とたまわる。
聖人が流罪を解かれて関東に赴くに供を勤め、師の命によって、太田の庄赤沼に留まって真浄寺を建立する。
川中島合戦が始まると、武田勢に追われて越後国にうつる。

東西本願寺分派の際、真浄寺十三代住職明勝は大谷派に属し、弟明玄は真浄寺の法宝物を分ちて本願寺派に留まり、
信濃に移って、水内郡落影村にしばらく居住した後、永江村古屋敷地籍に移り、真宝寺を建立した。

元禄年間(1688~1703)二十代善照が現在地に本堂を建立して今日に至っている。
内陣の造作には、すばらしいものがみられ、当時の信仰の深さがしのばれます。


   「朧月夜」の鐘
この梵鐘は、嘉永年間に鋳造された初代の鐘が戦時中供出され、戦後再鋳造された二代目です。
朝な夕な村人の生活の刻を知らせ、親しまれているこの鐘は、
高野辰之博士が大正三年に発表した、「朧月夜」の一節にある「かねの音」とされている。

http://www.fdo3235.com/nagano-3.html

葦原神社


彼らのテリトリーに侵入したのか、道路脇の木から猿が監視するように見下ろしています。そんな奥深い山中に、今風の一軒家が忽然と現れました。何 故こんな所に、と徐行しながら見た玄関には「公民館」の文字が掲げてありました。一般の民家とは違う造りにそれはそれで納得したのですが、この手の施設は 集落の中にあるのが一般的です。新たな疑問が生じました。

葦原神社参拝

その隣に鳥居があるので、もしや、と乗り入れると、…「葦原神社」でした。
  御柱年のみ「大鹿歌舞伎」が神社に奉納されることを知っていましたから、車から降りて気が付いた道斜め向こうの特徴ある建物が芝居小屋となります。芝居小 屋とわかれば、不釣り合いな広い駐車場が観劇用の桟敷となり、さらに、神社・公民館・芝居小屋の三位一体が地区の文化センターの役割を果たしている、と全 てが繋がりました。今は雨戸で固く閉じられていますから、外観だけ眺めてから鳥居の前に立ちました。
  葦原神社の「一本だけ」という御柱は、境内が狭いうえに立木が多いので遠目では判別できません。“主祭者”もそれを心配したのか、柱の前に「御柱」と書か れた立札がありました。削り残しの赤い樹皮がかなり残っているので、「この神社には御柱がある」との知識がないと、ただの立ち寄り参拝では御柱の存在を全 く意識しないでしょう。
 御柱の全景を撮ろうとすると、必ず鳥居が前に入ります。下の道に降りて様々な角度から撮ってみましたが、結局「御柱」とわかるのは上の一枚だけで した。「写真」とすれば、朽ちかけて傾いた鳥居を前景にした方がベターでしょう。しかし、一本だけで頑張っている御柱です。全身像だけを撮って紹介した かったのですが…。
  葦原神社の拝殿は完全に開放されているので、床を土ぼこりがうっすらと覆い杉の枯葉が何本も舞い込んでいます。廃屋にも見えるのは、過疎の上人里からも離 れているので管理が行き届かないためでしょう。しかし、ビニールシートや金網で囲われていない開放感あふれる社殿は、本殿(神様)を身近に感じます。
 カメラのファインダーを注視していると、被写体との間に何かが舞っているのが見えます。上を仰ぐと杉葉をバックに細かい塵状のものが風に流れてい ます。あの悪名高い花粉でしょうか。その動きに乗じたかのような枯れ葉の匂いにわずかながら甘い香りが感じられます。そのまま風上側に目を移すと葦原神社 の入口です。道を挟んで鳥居と対面していた満開の水仙からの贈り物でしょうか。
 社殿から外れた斜面に小さな祠が見えます。杉葉が靴に入るのを気にしながら近寄ると、その傍らに蛇が彫られた石があります。天保14年とありますが、それ以外に手掛かりがないので何を祀っているのか分かりません。
 葦原神社は諏訪社です。諏訪社を突き詰めると「ミシャグジ」から「ヘビ」にたどり着きます。しかし、本殿から離れた場所にあるので境内社の一つでしょう。憶測では祟られそうなので、勝手ながら見た通りの「蛇神様」としました。
ここへ来る途中の中央道では、「伊那IC」に降りる車の渋滞が本線上まで続いていました。「高遠の桜」目当ての行楽客です。「今の時間帯じゃ、絶 対たどり着けないよ」と、地元の大渋滞事情を知る私は嘲笑ってその脇をすり抜けました。しかし、現在同時刻に桜(の花粉)を楽しんでいる人達と、この薄暗 い林の中で杉花粉を浴びている自分は一体…。

「蛇神様」

平成22年9月になって頂いたメールの一部を紹介します。
 境内社の「蛇神様」のことですが、この蛇は水の神様だそうです。大鹿村の隣の中川村にも蛇の石仏があります。あの葦原神社の地は1000m近くありますでしょうか。水には苦労していたであろうと思われます。
その後、大鹿村を再訪する機会があったので、何か資料がないかと民俗資料館「ろくべん館」に寄ってみました。蔵書に大鹿村石造文化財調査委員会編『大鹿村石造文化財』があったので、〔蛇神・巳の信仰〕の一部を転載しました。
 ヘビは古くから、人間に危害を加えるとか、執念深くたたりをするとか言われて恐れられた反面、神の使 いであるとしたり、大地の主であるとして崇められ、神話や伝説の中に登場する。民俗信仰の中では、蛇は財宝をもたらし、家を護ると信仰されてきた。また、 大きな湖沼には竜神がいるとされたり、ご神体は竜身であるとされている神社もありして、蛇と人との関係は、物語の上に、信仰の上に古くからある。 (中 略)
 村内には蛇神の碑が多くあり、神蛇守護・長蛇塔・蛇明神などと記されたり、蛇身像が刻されて祭られている。
 
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/suwasya/asihara.htm

タケミナカタ・ロード

 

ケミナカタはどこから来たか

建御名方命(タケミナカタノミコト)は大国主命の子で、出雲での国譲りのときに武甕槌命に敗れ、諏訪湖に逃れました。よく知られた神話です。
 では、建御名方命(を祀る集団)はどのようなルートを経て諏訪にたどりついたのでしょうか。

 一般的には、出雲から北陸沿岸を通り、現在の新潟県糸魚川市付近から姫川をさかのぼり、松本を抜けて諏訪に入ったとする説が有力視されています (※注1)
 しかしその一方で、大鹿村には次のような伝説が語られています。
 昔、建御名方神は戦に敗れて神稲村の佐原(現下伊那郡豊丘村)に逃げ、その後今の鹿塩(現大鹿村)に隠れて葦原に住居を定め、毎日山へ狩に出た。  ある日、命は谷間に塩水が湧き出るのを見つけ、獲物の鹿をこの塩水で調理して暫くここに暮らしていた。鹿塩の名はそれから始まった名で、その当時の葦原を今では梨原と呼んでいる。
(岩崎清美『伝説の下伊那』から要約)


天竜川を遡って諏訪に?

 大鹿村の葦原神社は建御名方命が住んだ場所とされ、命はその後諏訪湖に移ったのだと伝えられています。また豊丘村佐原には、建御名方命が「これより外には出ない」と誓い、その証に手形を残したという「御手形石」が残っています。
 こうした伝説は、先の姫川遡上説と全く矛盾するようですが、実は歴史学者の中にも、建御名方命は天竜川を遡って諏訪に入ったと考える人たちが少なくないのです。
 その根拠の一つに、『伊勢国風土記』逸文に記されたこんな神話があります。
 神武天皇は東征で熊野を越えたとき、部下の天日別命(アマツヒワケノミコト)に、伊勢の国を平定せよと命じた。天日別命は東に進んで伊勢に入り、そこに土着していた伊勢津彦に屈服を迫った。
 はじめは抵抗した伊勢津彦も、殺されそうになってついに観念し、 「私の国を全て天孫に差し上げ、私はここを出て行きます」 と言った。
  天日別が 「お前が出て行ったかどうか、どうすればわかる」 と尋ねると、伊勢津彦は、 「私は今夜大風を起こし、波に乗って東方へ向かいます。それで証拠といたしましょう」 と言った。
 その夜、天日別が見張っていたところ、はたして大風が起こり波しぶきが打ち上げられて太陽のように輝き、海も陸も昼間のように明るくなった。
 こうして逃れた伊勢津彦は、信濃の国に入ったという。
同風土記逸文によれば、伊勢津彦命はまたの名を出雲健子命(イヅモタケルノミコノミコト)ともいいます (※注2)
 出雲と関わりが深く、大和政権(天孫族)に反抗して信濃に逃れた神。ここまでくれば、どうしても建御名方命を思い出さずにいられません。


また、伊勢津彦が大風を起こして立ち去った、という点も重要です。というのは、そもそも歴史書に諏訪の神が登場するのは、風の神として朝廷により祭られたという記事が最初だからです (※注3)
 現在でも諏訪大社には薙鎌という神器があり、これは風を鎮める呪物です。南信濃村の御射山祭も、本来は秋の台風を鎮めるための祭りなのです。
 

天竜川を遡って諏訪に?

 天竜川が、古くから文化の交流路だったことは、古墳時代の遺跡や遺物の分布からも確かめられています。三河・遠江に分布する三遠式銅鐸が、塩尻や松本から出土していることも、これを裏付けます (※注4)
 また、現在の伊那市にあたる伊奈部村は、かつて伊勢に住み伊勢津彦とも関わりの深かった「猪名部氏」が、物部氏との戦いを逃れて移住してきたのではないか、という学説もあります (※注5)
 伊那谷は長野県内の他の地域と比べても諏訪信仰の根強い地域です。天竜水系には諏訪神社が多く、また池や湖の底が諏訪湖とつながっているという伝承も多く見られます (※注6)
 こうしたことから古代史家の大和岩雄氏は、伊勢津彦すなわち建御名方命は伊勢から海を渡って豊川をさかのぼり、現在の佐久間ダムから天竜川に沿って諏訪に入ったのではないか、という説を述べています。
 伊勢→豊川→天竜川→諏訪という移動ルートは、伊那谷か遠山谷かの違いはあるにせよ、中央構造線にほぼ沿っています。
 建御名方命が居を構えたという大鹿村は、南北朝時代には宗良親王の本拠地でもありました。宗良親王は中央構造線の谷――のちの秋葉街道――を利用して転 戦し、北朝に抵抗した人物です。建御名方命も宗良親王も、中央政権に反旗を翻した存在という点で共通しています。
 一歩想像を進めれば、建御名方命が中央構造線に沿って遠山谷を通った可能性も、考えられないことではありません。
 

龍脈


諏訪の血脈、そして龍脈

タケミナカタという名前

 中央構造線を伊勢からさらに西に進むと、和歌山を経て四国の徳島にたどり着きます。この地もまた、諏訪の神に縁の深い場所なのです。
 建御名方命の名前の由来を考えてみましょう。「建」とは猛々しい、「御」とは尊敬の意味の称号ですから、建御名方とは「猛々しい名方の神」という意味になります。
 本居宣長は、阿波国に名方郡名方郷があり、そこに多祁御奈刀弥(タケミナトミ)神社があることを指摘しています。建御名方命は建御名方富命(タケミナカ タトミノミコト)とも呼ばれていますから、建御名方の名は阿波国名方に由来するのではないか、という主張です。
 多祁御奈刀弥神社は現在も名西郡石井町に現存し、建御名方命と、その妻の八坂刀売命を祀っています。石井町は吉野川の南岸にあり、この吉野川に沿って中央構造線が走っているのです。
中央構造線の図フリーソフト「白地図 MapMap」(鎌田輝男氏)を使用して作成
 
 
http://www.tohyamago.com/rekisi/chuoukouzousen_suwa/

諏訪明神

甲斐は郡内、山梨県都留市には生出(おいで)神社というお社が三社ある。生出山という山を囲むように三方に鎮座されているのだが、もともとはその山頂にあった白蛇の棲む池を祀った諏訪明神であったという。
釜無川(富士川)の方でも、白蛇が「麻からのくき」に乗って流れてきたので諏訪明神を祀ったとか、白蛇が勝手や座敷にまで上がり込んできて困るのでお明神 さん(諏訪神社)を祀ったとか、蛇を殺した祟りがあるので諏訪明神さんを裏山に祀ったとか、とかく蛇に絡んで諏訪神社は祀られてきた。
諏訪の明神が蛇体であるというのは昔は良く知られた話であって、神無月に出雲へ行かない留守神の伝承の定番でもあった。諏訪の明神さんが出雲へ行ったと き、あまりにその体が長いので尻尾はどこにあるのかと出雲の神々が尋ね、諏訪さんは尻尾はまだ諏訪湖にありますと答えた。そして、それならもう来なくても よい、となったのだそうな。ちなみに諏訪でもこの時期を神在月と言う。
さて、なぜ諏訪明神が蛇なのかという話だが、主祭神である建御名方命がそうなのかというと(そういう面もあるのだが)、そうではない。また、諏訪の地主の 神、ミシャグチの神が蛇なのじゃないかという話かと言うとそこまで大袈裟な話でもない。中近世を通して、諏訪明神とは近江の地頭、甲賀三郎のことであった のだ(勿論伝説上の人物)。『神道集』「諏訪縁起事」では、兄らの奸計によって蓼科山の人穴に落とされた甲賀三郎は地底の国々を巡るうちに蛇体となってし まう、というストーリーが語られる。その蛇体の甲賀三郎が諏訪大社の神であるとされ、諏訪明神は蛇なのだ、という枠組みの中で、村里の蛇を祀る諏訪神社と いうのは増えて行ったのである。
これは先の郡内の方から相模川に沿って相模へ下ってきてもそうであり、蛇の社である諏訪神社は相模湾の方まで見える。例えば藤沢市の石川というところの諏 訪神社には昔池があり、大蛇が住んでいたという。そして、その大蛇の母である石神が本殿裏に祀られていた。この母の石神さんに参るときは諏訪神社の裏の戸 を三回叩いてお参りしたのだそうな。今は裏手は住宅になってしまっていたが、この石神さんは今も社頭に祀られている。 


同神奈川県秦野市の方では実際「諏訪から飛んできた大蛇」と言っている伝承のあった諏訪神社(現・今泉神社)などもあり、この傾向は往昔は強くあったのだ と思われる。このような次第であり、各地の諏訪神社を見ていく際には、特にその土地の昔話などを通して(現在の正規の社伝ではこの類の伝承は割愛される傾 向が強い)、蛇にまつわる伝承と関係していないかどうかをまず見たい。
もう一点。これはまだ何とも言えない面もあるのだけれど、諏訪神社を祀る理由に「ここには大昔に、今住んでいる人々とは違う古い人たちがいた」というニュアンスが見えるところがある。 

相州神奈川県小田原市の久野の北辺、小字府川という所にも諏訪神社があるが、この丘上から南東の狩川沿いの平地へ向う間に久野古墳群という横穴古墳群が連 なっており、下りたところを穴部という。昔はその範囲がまさに「諏訪ノ原」と呼ばれていた。近世この方の久野の人たちは、これらの横穴を「今住んでいるわ れわれとは違う人たち」が残した墓だと認識していたようで、諏訪神社もそのことを祀った社だというニュアンスで語られる(そもそもそうはっきり認識してい るわけではないので、あくまでそういう感じがする、ということだが)。  

また、同神奈川県座間市入谷の諏訪神社は、同地の大神の神戦(式内の有鹿神社の神と西から来た鈴鹿神社の神が争った)に蛇身となって参戦したという、これ また「蛇の諏訪明神」なのだけれど、この周辺にも横穴古墳群が広がっている。入谷の諏訪神社は小さいながら式内:石楯尾神社の論社でもあり、神戦の話でも 土着の諏訪の神が新しくやって来た鈴鹿明神に加勢した、というニュアンスが見える。
もしそのような傾向があるとして、なぜ諏訪の神を祀ることが先住の人々の痕跡を示すことになるのかというと現状分からないのだが、場合によっては「穴」と いう線でお稲荷さんの話へ繋がって行くものかもしれない。「人穴」に落ちた甲賀三郎は「あちら」から「こちら」へ蛇体となって現われたのだ。このような側 面を仮定して諏訪神社を巡る際には、当然周辺の古墳・遺跡との関係を良く見ていかないといけない。そして、より広く「やはりこの線はあるな」と思えて来る ようだったら、大変面白いことになると思う。
たくさんある諏訪神社なのだけれど、他の多い神社と比べて「何の神さまなのか(何を願って建てられたのか)」というのが今ひとつピンと来ないお社であると 思う。しかし、全国二千社を越えるような数多い神社の中では最も東に本社が位置する神社であり、東国の人は特に重視していくべきお社なのだ。
諏訪の蛇神の去来する場所がどのような空間に繋がっているのか。もしかしたら諏訪神社を繋げ辿る道筋は、神祇における東日本のアイデンティティの問題にまでとどくかもしれない。


http://www.hunterslog.net/dragonology/jinjameguri/4_C5.html

八坂刀売神


八坂刀売神(やさかとめのかみ)は神道の女で、建御名方神の妃神である。諏訪大社他、各地の諏訪神社などに祀られている。記紀神話には見られない神であり、諏訪固有の神とも考えられる[1]
諏訪湖御神渡は、上社に祀られている建御名方神が下社の八坂刀売神の下を訪れる際にできたものであるという伝説がある。
父は天八坂彦命であり妹に八坂入姫命がいるとされる[2]。また綿津見命の娘であり穂高見命の妹とする伝承もある。[3]

脚注

  1. ^ 「大法輪」第72巻1号、法藏館、90頁、2005年
  2. ^ 信濃史料編纂会「諏方舊跡史」『信濃資料叢書 第三』1913年12月25日
  3. ^ 川合神社の社伝。

諏訪神社

諏訪神社(すわじんじゃ)は、「諏訪」を社名に持つ神社

概要

全国に約25,000社あり、長野県諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。また、諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰(すわしんこう)という。諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。鹿児島県では祭神名の建御名方命から「南方神社(みなみかたじんじゃ)」としているものもある。
諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神とその八坂刀売神で、他の諏訪神社もこの2神を主祭神とするほか、「諏訪大神」と総称することもある。諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され、各神社ではこれを神体としている。また、中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受ける[1]。これらは諏訪大社の山神としての性格を表している。
諏訪大社では6年に一度、御柱と呼ばれる4本の杭を立てる御柱祭が行われるが、全国の諏訪神社でも同様の祭が行われる。
岡田莊司らによると、祭神で全国の神社を分類すれば、諏訪信仰に分類される神社は全国6位(2,616社)であるという。

主な諏訪神社の一覧

総本社

北海道・東北地方

関東地方

中部地方

近畿地方

中国地方

四国地方

九州地方

脚注

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  1. ^ 「大法輪」第72巻1号、法藏館、90頁、2005年
  2. ^ 霧降宮切久保諏訪神社(長野県WEB観光案内所:白馬村)

建御名方神


建御名方神(たけみなかたのかみ)は、日本神話に登場する

概要

古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神御子神として登場する。『延喜式神名帳』などには南方刀美神の表記も見られる。長野県諏訪市諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。
神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る。妃神は八坂刀売神とされている。
建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏保科氏など諏訪神党の氏神でもある。

伝承と信仰

日本建国神話

建御雷神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。この建御雷神と建御名方神の力くらべは古代における神事相撲からイメージされたものだと考えられている[1]。なお、この神話は『古事記』にのみ残されており、『日本書紀』には見えない。

諏訪大社

諏訪大明神絵詞』などに残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある[2]

各地の祭神として

長野県諏訪市の諏訪大社を始め、全国の諏訪神社に祀られている。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島香取、諏訪の宮」とあるように軍神として知られ、また農耕神狩猟神として信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられる。ただし、宗像(むなかた)と関連があるとする説[3]や、冶金、製鉄の神であるとする説もある[4][5]

異説

  • 建御名方神は様々な形で多くの信仰を受けているので、『古事記』に記された敗残する神という姿は、中臣鎌足を家祖とする藤原氏が鹿島神宮の祭祀に関する家の出であり、同神宮の祭神である建御雷神を氏神として篤く信仰していたため、藤原氏が氏神の武威を高めるために、建御名方神を貶めたという説もある[6]
  • 建御名方神は諏訪で鹿や猿の肉だけを食していたという。これを知った天津神は「獣肉ばかり食べていれば必ず野心を抱くに相違ない」とし、上之原(今の群馬県)に陣を張り、建御名方神に挑戦した。そこで建御名方神は佐久の近津(今の長野県)に出城を作ったので、この付近を今も「命出城(みことのでじろ)」と言う[7]

脚注

  1. ^ 戸部民夫 『日本神話 神々の壮麗なるドラマ』 新紀元社
  2. ^ 鈴鹿千代乃・西沢形一 『お諏訪さま 祭りと信仰』 勉誠出版(2004年5月10日)ISBN 4-585-05130-9
  3. ^ 西沢正史・緒方惟章 『現代語で読む歴史文学 古事記』 勉誠出版
  4. ^ 三橋健 『決定版 知れば知るほど面白い!神道の本』 西東社
  5. ^ 島崎晋 『イラスト版 読み出したら止まらない古事記』 PHP研究所
  6. ^ 戸部民夫 『八百万の神々 日本の神霊たちのプロフィール』 新紀元社
  7. ^ 『北佐久口碑伝説集北佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会全434P中311P昭和53年11月15日発行