2015年2月8日日曜日

西光寺


【富山】 新潟から新住職 氷見の西光寺に赤沼さん 
http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20090622/CK2009062202000151.html 


氷見市伊勢大町の岩上山西光寺で二十一日、新しい住職の就任を祝う 「入寺・第十七世住職継職法要」があり、 新潟市の真浄寺出身の赤沼唯教(ただのり)さん(32)が継いだ。 
[略] 


二十一日は門徒ら約七十人が参列。 
法要に先立ち継職式が行われ、浄土真宗本願寺派の不二川公勝総長名の許状が 
赤沼住職に伝達された。 
中日新聞 2009年6月22日 ※画像あり ※加藤祥子

真浄寺





41 新潟別院御影巡回法座のご案内 … 2009.1.28.のお知らせ
 毎年この時期に恒例となっております「新潟別院御影巡回法座」が、下記のような内容で開催されます。寒い時期ではございますが、どうぞふるってご参拝くださいますようお願いいたします。
1,日 時  平成21年2月13日(金) 午後7時より
 2,会 場  三原光雄氏宅

 3,布教使  新潟市西区鳥原 真浄寺 赤沼誠善 師

[出典]
http://rintoku.tiny.jp/osirase.html

真浄寺 福島市


真浄院(福島市)概要: 真浄院の創建は天長2年(825)に弘法大師空海が現在の伊達市霊山に開基したと伝わっています。当初は遍照寺と称していましたがその後荒廃し、慶長年間(1596~1615)に伊達政宗によって再興されています。当地が上杉領になると上杉家の祈願所として快翁が中興開山し信夫山にある羽黒神社の別当となり現在地に境内を遷しました。寺宝にはチベットで造られた(9~10世紀)密教法具である金剛鈴と金剛杵が明治38年(1905)に国重要文化財(工芸品)に指定されている他、金剛界、胎蔵界からなる両界曼陀羅(絹本着色、掛軸仕立、縦195cm、横140cm、表具は伊達政宗が遍照寺時代に寄進したことが墨書によって記されています)が昭和44年(1969)に福島市指定有形文化財(絵画)に指定されています。本尊である「こもかぶり観音」(羽黒山正観世音菩薩)は60年に一度御開帳される秘仏として信仰されています。

[出典]
http://www.fukutabi.net/fuku/fukusimasi/sinnjyouin.html


福島市荒町の古地図




[出典]
http://blog.livedoor.jp/taiji141/archives/65459763.html

2015年2月3日火曜日


さてここで一旦話を巻き戻そう。村上氏の発祥地とされる信濃國は、古代に十郡により形成されていた。伊那・諏訪・筑摩・安曇・更級・水内・高井・埴科・小県・佐久郡であり、各郡は郷により形成された(『坂城町誌・中巻・歴史編・一』)。村上郷は更級九郷の一つである。麻續・村上・当信・小谷・更級・清水・斗女・池卿・氷鉋の二番目に記される。
 村上郷は更級郡の南端に位置する。信濃には高勾麗からの渡来人が移り住んでいるが、延暦18年(799)、前部黒麻呂が村上氏改姓が認められ高勾麗系村上氏が誕生した。信濃村上氏の誕生である。しかし、後世の村上氏との関係は不明である。又この村上氏の子孫のことは判然としない。その後、平安後期に至って源姓村上氏が誕生する。清和源氏源頼義(頼朝の先祖)の弟源頼清の子に仲宗があり、その子に惟清・顕清・仲清・盛清の兄弟があり、白河上皇に仕えていたが、寛治8年(嘉保元年・1094)に起こった白河上皇呪詛事件により盛清の親子兄弟は各地に配流となった。盛清は信濃に配流となった。郡名は定かでないが、更級郡村上郷の可能性が高いことは、盛清やその子の為國が村上を称していることからも推察される(『坂城町誌』)。源姓村上氏は源盛清がこの地に配流されたことにより誕生した。渡来人系村上氏に次いで、第二の村上氏の誕生である。この村上氏が後世に広がる村上氏の中心家系となるのである。この信濃村上氏の嫡流こそが惣領家であり信濃村上氏の総本家となるはずであった。しかし、本来の嫡流は没落し、傍系が惣領権・家督を引き継いでいる。この間には系譜の混乱もあり正系は判然としない。戦国大名村上家は村上一族であるとしても傍系であり、系図を書き換えた可能性もある。従って各種村上氏系図は、完全には整合しない。基本系図は不一致であり、地元の伝承系図も勘案しながら、信濃村上氏系図を整理していこう。

[出典]
http://www.kakeiken.com/report0010-2.html

百済の王子豊璋


「斉明紀」によると、7月に百済が滅亡したことを倭国政権が知ったのは、この年の9月5日である。

そして、10月には、福信が、使者とともに唐の捕虜一百人を倭国に送って来て、百済救援のための出兵を乞い、倭国に滞在している百済の王子豊璋(ほうしょう)を国王に迎えたいといってきた。


豊璋(豊章)は、『三国史記』に「扶余豊」、『新唐書』に「豊」と書かれている義慈王の子で、『日本書紀』には、「余豊」(「皇極紀」)・「糺解(くげ)」(「斉明紀」・「天智紀」)とも書かれている。余・扶余は百済王の姓である。



豊璋が倭国に来たことについては、「舒明紀」3年(631)3月条に、

百済の王義慈、王子豊章を入(たてまつ)りて質とす。


とあるが、義慈王が即位したのは641年であるから、この記事の年紀は信頼できない。

※631年の出来事として『日本書紀』は記しているが、史実は641年にならないと「王子豊章」とはならない。故に、「信頼できない」とされる。



西本昌弘(「豊璋と翹岐」『ヒスとリア』107号)が指摘しているように、豊璋は、「皇極紀」にみえる百済の王子翹岐(ぎょうき)と同一人物で、643年に倭国に来たと思われる。

翹岐については、「皇極紀」元年(642)2月条に「翹岐を召して、阿曇(あずみの)山背連(やましろのむらじ)の家に安置(はべ)らしむ」とあり、4月条に、

大使翹岐、其の従者を将(い)て朝(みかど)に拝(おがみ)す。乙未(10日)に、蘇我大臣、畝傍の家にして、百済の翹岐等を喚(よ)ぶ。親(みずか)ら対(むか)いて語話(ものがたり)す。(中略)唯(ただ)し塞上(さいじょう)のみは喚ばず。


と あるが、同2年(643)4月条にも、「百済の主の児、翹岐」と弟王子が貢調使とともに筑紫に着いたと書かれている。『日本書紀』は、642年と643年 に 翹岐が倭国に来たと書いているわけであるが、一般に、642年に翹岐が来倭したという記事は一年繰り上げられたもので、翹岐の来倭は643年(皇極2)と 考えられている。


翹岐に同行していた塞上という人物は、「孝徳紀」白雉元年(650)2月条に「百済君豊璋・其の弟塞城(さい じょう)・忠勝(ちゅうしょう)」、「斉明紀」6年(660)10月条分注に「天皇、豊璋を立てて王とし、塞上を立てて輔(たすけ)」としたとあることか ら、豊璋の弟で、兄の豊璋とともに倭国に来たとみられている。



そして、塞城(塞上)は、「天智紀」3年(664)3月条に、「百済王善光(ぜんこう)王等を以て、難波に居らしむ」と書かれている善光と同一人ともみられている。

善光(禅広)については、『続日本紀』天平神護2年(766)6月28日条に、舒明時代に義慈王が「其の子豊璋王及び禅広王」を倭国に遣わしたが、禅広は百済滅亡のために帰国せず、持統時代に百済王(クダラノコニキシ)の姓を与えられたとある。

舒明時代に義慈王が王子豊璋・禅広を倭国に遣わしたというのは、『日本書紀』の記事に依拠したとみられるが、義慈王が豊璋とともに倭国に送ってきた王子は塞城(塞上)しかいないので、塞城(塞上)=善光(禅広)であろう。


西 本昌弘は、『釈日本紀』(鎌倉時代末期に成立)では、糺解は「キウケ」、翹岐は「ケウキ」と読まれており、音が酷似していること、豊璋と翹岐が倭国に来た 年がともに643年とみられること、翹岐と一緒に来倭した塞上という人物が、豊璋の弟の塞城(塞上)と同一人物と考えられることなどから、翹岐と豊璋を同 一人物とみているが、西本説はきわめて合理的であり、卓説(たくせつ・すぐれた説)といえる。

[出典]
http://ryuchan56.269g.net/article/18626246.html

百済王子善光王


桓武天皇は即位すると、「朕が親母(みおや)高野夫人を皇太夫人と称して冠位上げまつり…」と宣命し、高野夫人を正三位に上げるとともに、外戚の百済系和氏(やまと)に高野朝臣の称号を与えた。そして、「百済王氏は朕の外戚である.から、彼らに爵位を加増する」と百済王氏を称える異例の詔勅をくだした。
桓武天皇は即位前、東大寺大仏の造立で功のあった百済王敬福(亡命百済王子=善光の曾孫)の孫娘・明信を寵愛した。
彼女はすでに藤原継縄(つぐただ)の妻となっていたが、即位後、「いにしえの野中のふる道」での出逢いの「君こそ忘れたるらめ、、、」の和歌を贈り、尚侍(女官)として宮廷に迎え入れた。
桓武は45才で即位し、70歳の退位まで23人の后と35人の子をもうけているが、その中に、百済永継・百済貞香・百済王教法の三人の渡来人女性を後宮に入れる。
平安京が開かれる、桓武天皇は大和にあった百済系の神社を、 内大裏の近くに遷都した同じ794年、平野神社(京都市北区)として移し、歴代の百済王を祀った。

[出典]
http://tei1937.blog.fc2.com/blog-entry-207.html