2023年1月9日月曜日

横山主税


 若年寄横山主税(よこやま・ちから)は、江戸詰家老千三百石横山主税常徳の伜

で、嘉永元年(一八四八)江戸藩邸に生まれた。諱は常守。

 文久二年(一八六二)、父常徳は、藩主容保に京都守護職の大命が下ったとき、

容保に従って京都に上り、老躯に鞭打って黒谷の本陣と江戸藩邸の間を往復し、複

雑な政務を処理していたが、蛤御門の戦い直後の元治元年(一八六四)八月、遂に

倒れ不帰の人となった。息子の常守はこのとき十七歳であったが直ちに家督を相続

し、「主税」を襲名した。

 慶応二年(一八六六)、フランス皇帝のナポレオン三世は駐日公使レオン・ロッ

シュを通じパリ万国博覧会に対し、日本の参加を熱心に要請して来た。幕府は特別

使節団を派遣することになり、徳川慶喜名代として昭武を派遣することになった。

このとき会津藩では横山主税(二十歳)と海老名季昌(二十四歳)の二人を選び、

昭武に随行するよう命じ、あわせて欧米先進諸国の視察を命じた。主税は、十二月

季昌とともに京都を出発。翌三年(一八六七)一月十一日(太陽暦二月十五日)フ

ランス船アルファ号に乗船して横浜港を出航した。上海・香港・シンガポールを経

てマラッカ海峡を抜け、セイロンからアラビアを経て、当時まだ運河の開通してい

ないスエズに上陸、カイロに寄り、アレクサンドリアから再び乗船し、二月二十九

日、無事フランスのマルセイユ港に上陸。そこから生まれて初めて汽車に乗り、三

月七日ようやくパリに到着した。

 パリの万国博に日本から出品したものは、甲冑・馬具・大小刀・槍といった武器

武具の類から、織物・紙類・陶器・人形・釣鐘などで、その他に日本庭園もつくら

れ、茶店を建てて三人の婦人に接待させた。横山らは、ここで滞在中であった山川

大蔵らと会った。その後一行はフランスばかりでなく、イギリス・オランダ・ドイ

ツ・イタリア・ロシアなど欧州諸国を親善訪問し、大いに見聞を広めたが、その頃

日本の国内では会津藩の危機が伝えられ、七月に帰国命令が出された。

 横山らは、パリに残る昭武と別れて急きょ帰国することになり、風雲急を告げる

その年の十一月三日、横浜港に帰着した。横山は直ちに元の若年寄に復帰したが、

翌年正月には鳥羽・伏見の戦いが勃発。会津は大敗した。藩主容保は徳川慶喜と共

に海路を江戸に後退し、次いで二月、藩主容保に従って会津に帰国、藩境守備の任

に着いた。

 五月一日、奥羽戦線の火蓋が切られ、白河城攻防の激戦が展開された。主税は白

河口総督西郷頼母のもとで副総督の任にあったが、白河城外稲荷山で全軍を指揮中

壮烈な戦死を遂げた。激戦はなおも続き横山の遺体は収容することができず、従者

板倉和泉がかろうじて主税の首を掻き切って退却したという。享年二十二歳。

 霊号を「常忠霊神」という。


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朱雀一番士中隊小頭飯沼 時衛

 白河藩主阿部正静は、慶応三年正月、飛び領を加えて十万石で棚倉に転封となっ

た。その後、白河城は領主不在のまま幕領として二本松藩主丹羽氏の警備に委ねら

れていた。四月五日、仙台入りした九条道孝奥羽鎮撫総督の世良修蔵が白河城に来

たり、二本松・仙台・棚倉・三春・泉・湯長谷らの諸藩兵を集め、強圧的に会津藩

攻撃の厳命を下し、ここから会津追討の軍を進撃させようとした。

■このころ、会津を武力で討伐せねばならない理由に納得できなかった仙台・米沢

の両藩は奥羽諸藩と白石に会合し、会津救解を目的とした奥羽列藩同盟を進めよう

としていたから、白河城を守る諸藩兵には戦意なく、それぞれ自藩に引き揚げよう

と決意していた。

■世良は白河を出発して福島に向った。閏四月二十日(陽暦六月十日)の夜明け方

会津藩兵は西北から白河の城下へ侵入した。それはたまたま福島に泊まっていた世

良修蔵が、激昂した仙台藩士らに襲撃され、阿武隈河原で首を刎ねられた時刻と時

を同じくしていた。会津兵(純義隊・会義隊・新選組)らは米村から小銃を乱射し

会津町・道場小路を焼いて白河城に攻め込んだ。

■白河城が会津兵に占領されたことを、薩摩藩参謀の伊地知正治が知ったのは閏四

月二十三日、宇都宮から大田原まで来たときのことであった。江戸では会津兵の進

出に驚き伊地知に出動を要請した。結局彼らは不十分な態勢のままで北上を続けて

二十四日夜、芦野に到着した。

■白河地方は連日の雨続きで、悪路のために前進が困難であった。これを知った会

津軍は白河南五キロの白坂で待っていた。遊撃隊長遠山伊右衛門・新選組山口次郎

ら精鋭は二十五日払暁、伊地知軍と接触、彼らを小丸山まで引き寄せて正面の稲荷

山から猛烈な銃撃を浴びせた。米村にいた朱雀隊長日向茂太郎らも砲声を聞き、南

湖付近の側面から伊地知兵を攻撃した。このため伊地知は全軍に退却を命じたが時

すでに遅く、三方面から包囲されて死傷者続出した。芦野まで退いた伊地知軍は、

この失敗に懲りて日光口や江戸から援軍を集め、兵七百、砲七門の精鋭を揃えて総

攻撃の作戦を練った。周辺の地形を丹念に調べ兵力を三分し、三方から白河城を突

くというものであった。

■一方白河城を守る会津兵は、勢至堂口から西郷頼母総督らの主力が入城し、仙台

や棚倉からも援兵が到着、総勢二千余、砲八門、堂々たる陣容となった。戦いは五

月一日早暁、伊地知隊の砲撃によって開始された。

■会津兵は城正面の稲荷山に守備を堅めていたが、皮籠原から小丸山に進撃してく

る敵の大軍をみとめてこれを敵の主力と判断、まず稲荷山の前方に展開していた仙

台兵の砲が勢いよく火をふいた。会津の一柳四郎左衛門隊、仙台の瀬ノ上主膳隊が

旗宿方面へ反撃に出た所、突然左右の森林中に潜伏していた敵に挟撃されて退却す

るのやむなきに至った。そのころ棚倉口では戦略上重要な雷神山を占領され、さら

に狼煙は立石山からも上がった。

■稲荷山の会津軍陣地では背後の煙りを見て動揺が起きた。会津軍白河口総督西郷

頼母は、城中から馬を馳せて諸軍を指揮していたが、味方の劣勢は如何ともしがた

い。ついに死を決して単騎敵中に躍り込もうとしたとき、朱雀一番士中隊小頭飯沼

時衛に、総督の死ぬべきときではない、と諌められて勢至堂峠に退いたとき、敗兵

の集まる者わずかに三小隊だけであったという。この日一日の戦闘で会津藩は副総

督の横山主税をはじめ三百余の精鋭を失い、仙台藩もまた八十名、棚倉藩十九名の

戦死者を出した。これに対する西軍側の戦死者は僅か十名、負傷者三十八名で同盟

軍の完敗であった。

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田邊軍次


■田邊軍次(たなべ・ぐんじ)は田邊熊蔵の伜で、嘉永三年(一八五〇)の生まれ

であった。戊辰の役においては白河口に戦い、役後は東京で謹慎、のち斗南に移住

した。

■軍次は斗南移住後も、会津藩の敗北は白河口の敗戦によるものと自責し、その敗

因は白坂村の大竹八郎が西軍に間道を教えたためであるとして、八郎を斬る事を公

言していた。明治三年七月の某日、彼は単身斗南を発し、八月十一日の夕暮れ近く

に白河に到着、すぐその足で白坂村に向かった。

■途中、商人に逢って道をたずねたところ、軍次の旅装があまりにもひどいので、

相手の男は無礼な応答をした。軍次は怒りこれを斬ろうとすると、男はひたすらに

非を謝した。軍次はこのとき、大竹八郎なる者の面体を全く知らなかったので問う

てみたところ、男の答えるには、彼は戊辰の戦いで官軍に功があり、今は抜擢され

て白坂村の村吏となり、専ら物貨運輸のことを司り、その盛んなことは昔日の八郎

ではないという。

■これを聞いた軍次は、その男を案内にたてると八郎を斬り、自分もその場で割腹

して果てた。八郎の養子直之助が急を聞き、槍を引っ提げて駆けつけたときには、

軍次はすでに屠腹した後であった。

■この事はやがて白川県にも聞こえ、少属鈴木某がこれを検死、その懐中のものか

ら斗南藩に照会したところ、藩士井上某来り、田邊軍次であることを認知したもの

の、謹慎中の旧藩主容保に累を及ぼす事を恐れ、これは耶麻郡塩川村付近の肝煎

(きもいり)某の次男であると偽り、その死体を村民に引き渡して、同村観音寺境

内の共同墓地に埋葬させた。軍次、享年二十一歳であった。一方、八郎の死に対し

ては、民政局は祭祀料として四百金を給し、その墳墓は官軍戦没者に準ずる計らい

がなされた。

■それより二十七年が経過、軍次の墓は永く荊棘中に埋没してその跡を知る者もな

くなっていたところ、在白河の会津会会員らがこれを知り、明治二十九年八月、そ

の二十七回忌にあたって軍次の遺骨を白河町九番地の会津藩殉難諸士の墓地境内に

改葬、弔祭の典を執行したのであった。


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斗南藩の成立


■明治二年(一八六九)六月三日、松平容保には実子慶三郎(容大)が誕生した。

それから間もなくして太政官から家名の再興がゆるされたが、旧会津藩士らには、

南部(斗南)三万石を取るか、猪苗代三万石を取るかの二者択一が迫られることに

なった。このとき、藩の指導的立場の人々の間で意見が両派に分かれて大激論にな

った。つまり永岡久茂らは、一から出直すつもりで南部移住に賛成し、町野主水を

首領とする一派は父祖の墳墓に近い猪苗代を主張して譲らなかったのである。論じ

ている最中、激昂した主水が抜刀して久茂に迫り、久茂は素手でこれを跳ね返すと

いう一幕もあった。

■結局、南部を取ることに決まり、明治二年十一月四日、松平容保は隠退、南部三

万石は生まれたばかりの実子容大(かたはる)に与えられることになった。

■翌三年一月五日、旧会津藩士四千七百余名の謹慎が解かれて南部に移住すること

が許された。しかし旧会津藩二十三万石の全員が、新封地の南部三万石に移住する

ことはできない。そこで希望者を募り、およそ二千八百戸、家族を含めて約一万五

千人が移住することになった。

■四月十九日、南部に移住する者の第一陣三百名が八戸に上陸した。その七月、藩

の名はあらためて“斗南”と名付けられた。漢詩の「北斗以南皆帝州」に因んで命

名されたもので「北辺の地とはいえ天子の領土なのだから、天朝から追放されたの

ではない」と解したのであった。

■斗南藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、この

時は五戸に向かったが、のちに政庁の所在地田名部(現むつ市)に移住している。

■斗南に移住した旧会津藩士の家族たちは、藩士らより約六カ月後れた十月、会津

から、はるばる陸路にて旅立った。彼らの中には老人や婦女子らに混じって、多く

の傷病者たちもいた。しかも、途中の旅籠代はのちに藩から一括して支払うという

宿札もあったが、宿泊を拒絶する旅籠も多かった。粥をすすり、霙(みぞれ)にう

たれても着替えさえなく、新封地斗南を遥かに拝しながら、無念の涙をのみ死んで

いった者も数多くいた。

■斗南での苦難の生活はさまざまに語り伝えられている。

■明治四年二月二十九日、斗南藩は弘前藩に文書を送り、窮状を訴えて一千五百円

の支援を受けた。同六年になると移住藩士は窮乏のどん底におちいり、廃藩置県に

ともなって多くの者は着の身着のままで斗南の地を去った。斗南は確かに農業には

適さない土地であったかも知れないが、しかし周囲の山々は鬱蒼たる樹木で覆われ

ていて、なかでも下北半島の山々は江戸時代、盛岡藩二十万石財政の支柱となった

ヒバの巨木が生い茂っていた。

■廃藩置県後、全国的に士族のほとんどが苦しい生活をよぎなくされたなかで「八

戸の士族の如きは、全国に無比の富豪の士族にして莫大な土地を所有し、ほとんど

農貴族の姿をなせし者多し」(『士族と士族意識』)

という状況を呈したのであったが、これは八戸藩きっての英才であった大参事太田

広城が「廃藩後は旧藩所有林はすべて国有林に編入されるであろう」ことを予測し

あらかじめ山林を家臣に分け与えていた結果であった。一方、斗南の旧会津藩士ら

は、先の弘前藩に窮状を訴えた同日の青森の大火には、斗南藩内のヒバ材一千石を

贈っている。それでいてこのヒバ林の活用については全く考慮した形跡がないので

ある。

■斗南での苦難の生活は否定しない。しかし、これをあたかも明治新政府の会津に

対する仕打ちかのように言う人もあるが、実際は旧会津藩士らの実学の欠如を示し

たものであったという気がしてならないのである。


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会津藩士の北海道移住

■斗南藩の成立に先だって、旧会津藩士の身分のまま「流罪」の形で品川より北海

道の小樽へ移された約二百戸の人々がいた。第一便は会津落城後一年がたった明治

二年九月二十一日に小樽到着、第二便は大坂丸によって九月三十日に到着した。

■函館五稜郭に結集していた榎本武揚らの旧幕軍は、五月十七日降伏し、明治新政

府による日本統一は完了した。この時、政府のなかには旧会津藩士を唐太・北海道

に移し、反政府の軍事力とさせないと同時に、ロシアの南下に備える軍事力の一部

とさせる構想が形成されていた。

■明治政府兵部省に所属し、小樽で待機していた百七十四戸約七百人の旧会津藩士

の第一陣は開拓使庁に委託されることになり、一人一日玄米一升、銭百文を支給さ

れて余市の漁業者宅に落着いた。

■ロシアの南下を恐れていたのは明治政府ばかりではなく、幕末以来ニシン漁に湧

いていた余市周辺の漁業関係者も同様であったから、かつて北辺警備を担ったこと

のある会津武士団の来道は、明治政府の後楯も明瞭であったから心強い存在として

暖かく歓迎された。

■明治二年十一月四日、太政官から家名の再興が許された。

■旧会津藩士とその家族が南部(斗南)に移住したのは翌明治三年四月から、年末

にかけてのことであった。勿論、南部三万石の新封地では、旧藩士をすべて移住さ

せることはできなかった。結局は希望者を募ることになったが、この結果は会津な

どで帰農した(武士をやめた)者七百戸、東京やその他各地に移ったもの三百戸、

既に北海道などに渡ったもの約二百戸であった。こうして四月十九日、南部に移住

するものの第一陣三百名が八戸に上陸した。新藩名を“斗南”とつけたのは七月の

ことであった。

■斗南移封(明治三年)

陸奥国三郡

・北郡 (青森県上北・下北郡)

・三戸郡 (青森県三戸郡)

・二戸郡 (岩手県二戸郡)

■のちに北海道の次の四郡も支配を命ぜられた。

・後志(しりべし)国のうちの瀬棚郡 三年に五戸、四年に八戸

・太櫓郡・歌棄郡 四年に二十八戸

・胆振国のうちの山越郡 十一戸入植

・明治二十五年 丹羽五郎によって後志に丹羽村開拓される。

・明治二十九年 若松の経済人によって瀬棚郡北桧山に若松村開拓される。


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松平容保

■会津藩第九代藩主松平容保は、美濃高須藩主松平義建の第六子として、天保六年

(一八三五)十二月二十九日、江戸四谷邸に生まれた。幼名は鮭之允。祐堂、芳山、

逸堂などと号した。嘉永五年(一八五二)会津藩第八代藩主松平容敬(かたたか)

の養子となった。

■嘉永六年(一八五三)、ペリー浦賀来朝の際、幕命によって房総の海岸防備にあ

たり、条約の締結にも賛成した。このとき日本の国内は開国か鎖国かで国論は二分

していた。ことに薩摩や長州など西国の強藩は外国勢力を打ち払う攘夷を叫び、徳

川幕府の開国政策に反対、京都に上って朝廷の力を利用して倒幕へ進もうと暗躍し

ていた。

■万延元年(一八六〇)の桜田門外の変後、容保は江戸に召されて水戸藩と幕府と

の調停にあたり、文久三年(一八六三)、幕府の改革で松平慶永と共に幕政参与を

命じられた。次いで容保は、十四代将軍家茂の強い要請もあり、最も困難な職務で

ある京都守護職を引き受け、藩兵千余を率いて物情騒然とする京都へと入った。こ

のとき孝明天皇は、容保を迎えて「陣羽織にでもせよ」といって緋の衣を与え、信

任の情を寄せた。

■同年七月二十八日、容保は朝廷からの命によって御所の建春門前に於て会津藩の

馬揃え(操練)を天覧に入れる事になった。しかしこの日はあいにくの雨であった。

二十九日も三十日も雨だったので、八月二日に延期されるよう願ったが許されなか

った。そして三十日の未の刻(午後二時)より雨の中で馬揃えが挙行された。当日

は藩兵千人、大砲七門、容保自ら参内傘の馬印を陣頭に立てて指揮にあたり、その

苛烈さは戦場さながらに迫力のあるものであった。進退は整然としていて、容保の

指揮ぶりも、その的確さ迅速さは想像もできなかったと伝えられている。

■馬揃えが終ったのは夜に入ってからの事であったが、翌日大和錦と白銀の恩賜に

預かり白銀は参加した士卒全員に分配された。孝明天皇は会津藩の馬揃えにはよほ

ど魅了されたとみえて、再度下命があって八月八日、天気晴朗のもとで再び実施さ

れた。この日指揮する容保は、恩賜の大和錦でつくった陣羽織を着用していたが、

これが日光に映えて燦然と輝き、あたかも天恩を一身にになう栄誉を輝かしている

ようであったという。馬揃えが終ると天皇の命で参内した。このとき容保は武装の

ままであったが、金の鍬形をうった龍頭の兜を脱いで侍臣に持たせ、烏帽子にかえ

て御車寄の階下で慰労の言葉を賜った。

■下って八月十三日、薩摩藩士高崎佐太郎が会津藩の用人秋月胤永(かずひさ)を

訪れ、会津藩と薩摩藩とが提携し君側の奸臣を退けて、天皇の御心を安んじ奉りた

いと申し入れてきた。容保は薩摩藩との提携を許し、ここに過激派の中心勢力たる

長州藩排撃の火蓋は切って落とされ、八月十八日、いわゆる“七卿の都落ち”と呼

ばれる政変が起きた。十月九日、容保は二条右大臣斉敬(なりゆき)からの使いに

よって参内すると、斉敬は左右の者を退け、「去る八月十八日、もし処置をあやま

れば大事に至るべきところを、卿の指揮よろしきを得て沈静した事は、自分の深く

喜ぶところである。重く賞賜したいが、卿のみを賞賜すると、かえって卿も安んじ

ないだろうから、ひそかにこれを下すしだいである。決して表立って御礼などつつ

しむように」という意味の勅使が伝えられ、孝明天皇からの宸翰(しんかん)と御

製(ぎょせい)とを賜った。

■やがて容保は朝議参与となり、一橋慶喜と共に公武合体に尽力、元治元年(一八

六四)幕府の長州問罪の計画によって軍事総裁となったが、後に再び京都守護職に

復した。次いで禁門の変が勃発すると、会津藩兵はよく蛤御門を守って長州兵を撃

退したが、将軍家茂が亡くなり、続いて孝明天皇も病没するに及び、会津藩がすべ

てをかけていた公武合体は敗れ、ここに会津藩と容保の悲運の歴史が始まるのであ

る。

■慶応三年(一八六七)、容保は幕府の政権返上により、慶喜に従って大坂に退い

た。同四年(一八六八)鳥羽・伏見の敗戦によって江戸に帰り恭順したが許されな

かった。軍備拡充を重ねてきた薩摩、長州、土佐などの西側諸藩はむしろこれを機

として討幕のための武力行使に出て来たが、これを受けて立つ幕府側は軍備も古く、

とても立ち向かうだけの力はなかった。

■会津藩は、幕府軍のなかでも常に軍備に心がけ、内容もいくらかは充実していた

ので、幕府軍の先頭に立ったのであるが、しかし時は既に遅く、西側諸藩では朝廷

を味方に抱き込むことに成功し、錦旗を押し立てて東へと攻め下ってきた。会津藩

は奥羽同盟を結び、西軍に抗戦して若松城に籠城、最後の決戦を試みたが、白虎隊

や婦女子の自刃など数々の悲劇を生みながら、明治元年(慶応四年九月八日に明治

と改元)九月二十二日、遂に降伏落城した。

■戊辰戦後の容保は一旦妙国寺の謹慎所に入れられ、その後に江戸送りとなった。

彼らは備前藩士に守られ、山川大蔵、倉沢重為、井深重義、丸山胤栄(主水)、浦

川篤(東吾)山田季盛、馬島瑞園ら僅かの藩士を従え、また会津戦争の全責任を問

われることになった萱野権兵衛とその従者三名がこれに同行した。江戸送りとなっ

た容保は、印旛藩、次いで和歌山藩に幽せられた後、明治五年に“御預り”から赦

されて自由の身となった。しかし“朝敵”の汚名を故なくきせられて憂愁にやつれ、

自分から表に立つことは極力さけ、昔のことは語ろうとしなかったそうである。そ

れでも過去に思いをはせる一時もあったのであろう、次のような詩を残している。

古より英雄数寄多し

なんすれば大樹連枝を棄つ

断腸す三顧身を許すの日

涙を揮う南柯夢に入る時

万死報恩の推移し去るを

目黒橋頭子規啼く

■容保は明治十三年、日光東照宮の宮司に任ぜられたが十七年に一度辞し、二十年

には再びこれに任ぜられ、二荒神社の宮司をも兼ねた。明治二十六年十二月四日、

特旨をもって正二位に叙せられたが、翌五日、病のため五十九歳で死去した。

■遺骸ははじめ内藤新宿の正受院に葬られたが、大正六年、会津松平家の塋域であ

る「院内御廟(いんないごびょう)」に移葬され忠誠霊神と諡(おくりな)された。


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東北諸藩の処分

 


■伊達慶邦 (仙台) 28万石 減知謹慎 旧禄62万石

■松平容保 (会津) 3万石 謹慎替地 28万石

■南部利剛 (盛岡) 13万石 謹慎替地 20万石

■丹波長国 (二本松) 5万石 謹慎替地 10万石

■阿部正勝 (棚倉) 10万石 謹慎替地 10万石

■本多忠純 (泉) 2千石召上 隠居 2万石

■田村邦栄 (一ノ関) 3千石召上 隠居 3万石

■内藤政養 (湯長谷) 4千石召上 隠居 15万石

■安藤信勇 (平) 永蟄居 3万石

■上杉斉憲 (米沢) 14万7千石 隠居 15万石

■酒井忠篤 (庄内) 12万石 謹慎 12万石

■織田信敏 (天童) 2千石召上 隠居 2万石

■松平信庸 (上ノ山) 2千石召上 3万石

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西郷家の人々

 

◆第五十五話:西郷家の人々◆

■慶応四年(一八六八)八月二十二日、西軍は戸ノ口原を疾風のごとく駆け抜けて

いた。家老西郷頼母(たのも)は城危うしと、伜の吉十郎だけを伴って急ぎ登城、

冬坂峠(背炙山)方面の防備におもむいて行った。一方頼母らを見送って家に残っ

たのは、妻の千恵子を始めとして、長女細布(たえ)、次女瀑布(たき)、三女田

鶴子(たづこ)、四女常盤(とわ)、五女季(すえ)、頼母の母律子、頼母の妹眉

寿(みす)と由布(ゆう)の女性ばかり九人であった。この時千恵子は、出陣のた

め城に向かう途中で挨拶に立ち寄った甥の飯沼貞吉(白虎士中二番隊)をも励まし

て見送っている。

■翌二十三日早朝、早くも西軍は若松城下に怒涛のごとく押し寄せて来た。城下で

はあわてて警鐘が乱打された。西郷家の女性たちは、西軍の郭内侵入を目前にして

全員白装束に身支度し、辞世を詠むと水盃を交わした。彼女らは国難に際し、戦い

の足手まといになる事を不本意としたのである。千恵子はまず田鶴子(九歳)、常

盤(四歳)、季(二歳)を刺すと、その返す懐剣で自らの咽喉を突いて自刃した。

三十四歳であった。

■・千恵子辞世

■■■なよ竹の風にまかする身ながらも

■■■■■たわまぬ節はありとこそ聞け

■・眉寿(二十六歳)辞世

■■■死にかえり幾度世には生るとも

■■■■■ますら武夫となりなんものを

■・由布(二十三歳)辞世

■■■武夫の道とききしをたよりにて

■■■■■思ひ立ちぬる黄泉の旅かな

■次女の瀑布はまだ十三歳だったが、けなげにも

■■■手をとりて共に行きなば迷はじな

と上の句を詠むと、姉の細布(十六歳)は

■■■■■いざたどらまし死出の山道

と下の句をついでやり、彼女らはともども咽喉を突いて相果てた。

■またその頃、奥の部屋では頼母の母律子(五十八歳)が

■■■秋霜飛兮金風冷■(秋霜飛んで金風冷ややかなり)

■■■白雲去兮月輪高■(白雲去って月輪高し)

としたためて自刃していた。

■この時西郷邸には親戚の小森駿馬の家族五人・軍事奉行町田伝八一家三人、遠縁

の浅井信次郎の妻子二人と西郷鉄之助夫妻がたまたま来合わせていたが、彼らも共

に一室に集まり次々と自刃して果てた。この日西郷邸で自刃した者は全部で二十一

人であった。

■この西郷家一族自刃の惨状を最初に目撃したのは、土佐藩士中島信行であった。

『会津戊辰戦史』は次のように述べる。

「此の日若松城を奪はんと欲し第一に兵を率ゐて郭内に入りたるは土州藩中島信行

(後の衆議院議長男爵)なり、城兵連りに銃を発して近づくを得ず、城の前面に広

壮の邸宅あり此の中に入りて射撃を避けんと欲し、試みに銃を発すれども応ずる者

なし、乃ち進みて内に入り長廊を過ぎて奥の間に入れば婦人多く刃に伏して死せり、

中に嬋娟たる一女子あり歳十七八未だ絶息せず、足音を聞き少しく身を起したけれ

ども視ることは能はず、声微かに我が兵か敵兵かと問ふ、信行故(ことさ)らに答

へて曰く、我が兵なりと、之を聞きて女子は身辺を探り短刀を取り出す、信行は之

を以て命を断たんことを欲するならんと察し直ちに介錯して出でたる」

■こういう凄惨な光景が武家屋敷のあちらこちらで見られたのである。

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間瀬家の会津戦争

 

◆第五十四話:間瀬家の会津戦争◆

■慶応四年(一八六八)八月二十三日早朝、西軍が若松の城下に攻め込んで来た時

本二ノ丁にある間瀬新兵衛(三百五十石)宅には、妻のマツ、娘のミツ、ノブ、ツ

ヤ、ユウと長男岩五郎の妻ユキとその子清吉(六ヶ月)がいた。長男岩五郎は朱雀

足軽隊中隊頭として戦っており、次男の源七郎は白虎士中二番隊士として出陣し、

この日飯盛山に退いて自刃した。隣の赤羽家には五女キヨが嫁いでいたが、臨月の

身で実家に戻って来ていた。母のマツが、早鐘で入城の際はキヨをどうしたらよい

かと赤羽家に相談したら、実家の方々と一緒に立ち退いてもらいたい、という事で

あった。

■敵の城下侵入を予感していた間瀬家では夜明け前に早々と朝食を済ませていた。

城内から戻ってきた槍持ちの覚内に戦況を聞いてみると、戸ノ口原では味方の方が

優勢で、敵を追い捲くっているという。ところが、突然早鐘が打ち鳴らされ、それ

からは大騒ぎとなった。間瀬家の者はすぐに支度をし、重要品を入れておいた垂駕

の所へ行ってみると、供をさせるつもりで申し付けておいた若党の小吉、善吉、そ

れに下女までが逐電してしまっていた。しかたなく一同はかねてから指示されてい

た若松城三之丸に入り、ミツ、ノブ、ツヤの三姉妹は、多少の危険を覚悟しつつ自

邸と三之丸を往復し荷物の搬入に奔走した。

■ミツが残した、戦争体験の日記風覚書『戊辰後雑記』によると

「廿二日終夜、猪苗代方面所々に火の手見え砲声の音絶え間なく聞え候事故、廿三

日朝飯も夜明け前に仕り候也」

「廿三日、奥より御指図にて、手すきの者は手負い看病に出申し候。私は結び握り

に出候様に付き、黒米御結びにて固まらず、手拭に絞り固め候事」

とある。

■臨月のキヨは入城の翌日産気づいて、小書院より奥女中の瀬山部屋に移され、中

森重次郎の妻が助産婦役をつとめ、二十七日の朝に無事女子を出産した。この日夫

の赤羽恒之助は城内にあり、やかんに酒を入れ、小魚の田作(たつくり)をつけて

持参。誕生した赤児に「ハツ」と命名してささやかな祝いをした。

■瀬山部屋は広さは八畳敷で、三尺に二間の押入れがあった。そこに間瀬家の七人

と赤羽家のキヨと赤児のハツ、さらに川村丈五郎、石澤群六、吉村吉太郎という三

人の負傷者が一緒で、合計十二人の合部屋は混雑を極めた。その後、砲弾の破片で

傷を負ったユキ(長男嫁)は、浅手ではあったが、赤児の清吉を抱えているので再

度怪我をしないようにという奥の配慮により、藩主の御座所であった御休息の間に

移された。夫岩五郎は八月二十九日の長命寺の戦いにおいて戦死、舅新兵衛も九月

十四日城内において戦死した。

■開城後、間瀬家の者には南御山村の元肝煎(きもいり)小林藤吾宅が割当てられ

さらに井手村の石山忠右衛門宅に移った。自刃した白虎隊士間瀬源七郎の遺体を飯

盛山まで探しに行ったのは、ミツ、ノブ、ツヤの三人の姉たちだった。


http://aizu.sub.jp/honmon_2/054.html

長沼城

川中島合戦の舞台ともなった長沼城

長沼城は、鎌倉時代の地頭の館がその元となったと云う説があるが定かではない。弘治3(1557)年、甲斐の武田信玄が信濃攻めのおり、長沼の島津氏が撤退した後、築造した平城である。この城は川中島の戦いの頃から、武田氏や上杉氏によって幾度も改造が行われ、16世紀後半には激しい戦いの舞台となっている。

武田氏滅亡後は、織田信長の支配下となり、上杉景勝・豊臣・松平忠輝等の領地へと移り変わった。

長沼藩として独立したのは元和2(1616)年、初代藩主佐久間勝之からである。元禄元(1688)年四代目勝親の時代、故あって改易廃藩となり廃城となった。このように数奇な運命をたどった長沼城であったが、その後千曲川の氾濫で城郭東側の一部が流失している。


http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/naganumajo.htm

大鞆和氣命

 この建物は赤沼公会堂・・・

街道から少し奥に入ったところにあります。

入口に大きな碑がありますね。

「信州りんご発祥の碑」と刻まれていました。

少し前にもかきましたが、明治末頃から、このあたりでは、水害対策として、桑よりも耐水性の高いリンゴに目をつけ、養蚕からリンゴ栽培に切り替え、信州リンゴが生まれました。現在でも信州随一のリンゴの名産地で、近くの国道18号線は「アップルライン」と呼ばれ、時期には農家のリンゴ直売店が軒を並べて、真っ赤なリンゴが並び、りんご園ではリンゴ狩りが楽しめます。

左端に一茶の句碑もあります。

  半分は あせの玉かよ 稲の露   一茶

農民の苦労を詠んだ一茶らしい句です。

大田神社があります。三つ巴の紋を神紋で「大鞆和氣命」が祀られているそうです。大鞆和氣命は日本の弓矢神として知られる応神天皇です。

ということは八幡神社系列の神社のようです。

12世紀はじめに再建とすいてあるネットもあり、古い神社のようです。

弓矢神の屋代にふさわしい彫刻でした。

鎌倉時代の歴史書の『吾妻鏡』に信濃の地名として大田庄があります。この少し先の長野市の豊野辺りのことといわれますが、このあたりも大田庄だったのかもしれません。

大田の名は正倉院御物の布袋に太田とあるそうです。このあたりは古くから開けた土地だったのかもしれません。


https://eiwc2678zy1m.fc2.net/blog-entry-775.html

悲運の佐久間家一門

 ■江戸前期の赤沼村の中心部■

  赤沼集落南端の二股分岐から700メートル北に進んだところに西向きの小路の入り口があります。右手には妙願寺が見えます。ここを左折して西に向かいます。西小路と呼ばれています。

  すると100メートルほどで、赤い金属板屋根の小さなお堂があります。これが延命地蔵堂で、近くには土蔵と赤沼上組の集会所があります。この一帯が、赤沼分家の居館だったそうです。ここが赤沼村の統治の中心地だったのです。


■悲運の佐久間家一門■

  1642年(寛永19年)、第三代長沼城主、佐久間安房守勝豊の弟、勝興は、城主家から赤沼の3000石を分封されて赤沼分家を興しました。やがて幕府の旗本に取り立てられて、赤沼領が知行地となりました。

  ところが40年後(1682年)、第二代の勝重は、祖父(勝興の父)が罪科で流刑となったことに連座して所領(赤沼)を没収され、家門断絶となったといいます。その20年後、長沼藩主家が改易され廃藩となります。その頃、幕閣では苛烈な権力闘争が展開されたので、佐久間家の断絶はその余波かもしれません。

  幕閣では権力闘争の勝者によって、すでに死去した大久保長安の罪科がことさら糾弾されたようです。長安は佐渡金山の開発・経営を宰領していて、佐渡の金は北国街道松代道を通って江戸に運ばれたので、そのことも関連しているかもしれません。長沼藩主とその一門の悲運については、長沼城跡とその歴史を探訪する記事で詳しく述べることにします。


■赤沼分家館跡かいわい■

  その後、18世紀はじめ、赤沼分家館跡には阿弥陀堂が築かれ、さらにやがて浄土宗鎮西派の花林山蓮生寺が建立されました。しかし、明治以降に後継者が絶えたところに長沼地震で堂宇が大破し、まもなく解体されたようです。現在は延命地蔵堂と土蔵が残っています。

  そして、今でも集会所の南側には一群の墓石や石塔が残されています。


居館跡であもあり蓮生寺跡でもある草原と墓石群は、時代の変遷と世のの無常さを象徴しているかのようです。居館跡には建物がいくつもあったに違いありませんが、今では果樹園や菜園となっているところも多いのかもしれません。

  それにしても、上組地区は赤沼村の行政の中心地だったことから、周囲が農地に囲まれている割には、敷地割りがかなり細かくなっています。家屋が比較的に密集していたものと見られます。

  もっとも、北国街道松代道沿いの敷地割りは、総じて間口の幅が狭くなっているのですが。


■近隣の家並みを探索する■

  さて、延命地蔵堂から南側の家並みを探索してみます。

  和風の住宅は、外観から見ると昭和期の建築のようですが、赤沼の伝統を受け継いでいます。まず結構では、妻面の梁や横木の数の多さです。そして、屋根を支える垂木の密な配置です。重い瓦屋根をしっかりと支えるためでしょうか。


https://www.walkigram.net/naganuma/akanuma/akanuma01.html

赤沼の旧街道を歩く

信州の懐かしい景観を追い求めている私としては、赤沼集落の家並みには、今後も長く保存されればいいなと感じました。宅地化や商業化の波をはね返してきたとも、取り残されたとも言えます。それは農村風景ですが、昭和中期まであった豊かな都市集落の風景なのです。

  そこで、まずはじめに松代道を歩いて、赤沼の中心部ともいえる妙願寺、佐久間氏赤沼分家館跡から大田神社辺りまでの街道沿いの集落の家並みを観察し、次にそこから東側の集落風景を探索することにします。


https://www.walkigram.net/naganuma/akanuma/index.html

北国街道 野尻宿

 野尻宿(北国街道)概要: 野尻宿は北国街道の宿場町で、案内板によると「 北国街道は中山道追分宿で分岐して越後の出雲崎宿にいたる街道で、野尻宿は信越国境に位置する重要な宿場でした。佐渡の金銀を江戸へ運ぶ輸送路にあたり、安養寺境内には御金蔵がありました。柏原・古間・野尻の三宿の村役人が御金荷の警固を務め、牟礼宿まで運びました。1781(天明1)年ころの野尻宿には、公用通行に人馬を提供する76軒の伝馬屋敷があり、両側に土手が築かれていました。宿場の中心部は間口の広い屋敷(馬役)がならび、10軒余の旅籠屋がありました。また、湖光・関之・魯堂など俳句をたしなむ者が多く、一茶はしばしば野尻宿を訪れました。1823(文政6)年には、一茶門人によって芭蕉句碑が建てられました。  そば所と人はいふ也赤蜻蛉  一茶 」とあります。

現在野尻宿は真光寺や芭蕉句碑、野尻一里塚などの旧跡や史跡が点在します。野尻宿は俳諧が盛んな地域で、小林一茶の門人が数多くいたとされ、松尾芭蕉の130回忌にあたる文政6年(1823)に宿場にある仏心庵の境内に芭蕉句碑が建立されました。正面の「うめが香に のつと日の出る 山路かな」は元禄7年(1694)、芭蕉51歳の時、野坡(志太野坡:両替商三井越後屋の番頭・俳人・芭蕉門弟)との両吟歌仙の句で俳諧撰集「炭俵」に記載されています。裏面には野尻宿の一茶門人の魯堂(池田伝九郎)と関之(池田十郎平)の句も刻まれ、句碑としては信濃町最古のものとして信濃町指定文化財に指定されています。野尻一里塚は現在でも左右一対(塚間約17m)が残る貴重なもので、直径約12m、高さ約2.6m、昭和47年(1972)に信濃町指定史跡に指定されています。

https://www.nagareki.com/kaidou1/hokkoku/nojiri.html



北国街道:海野宿

 

海野宿(東御市)概要: 海野宿の集落的発生年は不詳ですが滋野氏の分流とされる海野氏が平安時代から当地域を治め海野城を拠点としていた事から、その城下町として整備されたと思われます。ただし、地域としての地名である「海野郷」は奈良時代の天平年間(729~749年)に東大寺大仏殿(奈良県奈良市)の北北西に位置する正倉院に所蔵されている紐心麻網墨書の中に「信濃国小県郡海野郷爪工部君調」の記載があり少なくともこれ以前から海野郷が成立していたと思われます(郡郷制が成立したのは霊亀元年:715年、定着したのが天平12年:740年)。「爪」とは身分の高い人物が顔を隠す為の鳥の羽や布で作られた扇子のようなもので、海野郷には「爪」を制作する氏族(大陸出身の技術者)が住んでいた事になります。又、鎮守である白鳥神社には伝説上の英雄である日本武尊が東国平定後に都に凱旋帰国する際に当地で一時留まり、尊が死後に白鳥になって飛び立った事に由来して創建されたと伝えられ、記録的にも平安時代末期には既に鎮座しています。

中世に入ると天皇家の後裔とされる滋野氏の一族が当地の領し、地名に因み海野氏を名乗り、戦国時代まで領主として君臨しています。海野氏は宗家である滋野則重の子供である重道、又は孫の広道が摂関家の荘園であった海野荘に配され地名に因み海野氏を名乗った氏族です。海野氏は望月氏、祢津氏と共に滋野三家と呼ばれ長く当地を支配しましたが戦国時代に入ると隣接する村上氏が台頭し、応仁元年(1467)には村上氏との戦いで当主である海野持幸が討死し小県郡塩田荘が奪われるなど次第に衰微しました。現在海野城は鉄道の敷設などで失われていますが、海野氏の氏神である白鳥神社(木曽義仲の挙兵の地とも呼ばれ、海野氏が没落後は一族とされる真田家の氏神として崇敬庇護されました)や、菩提寺である興善寺(3代当主海野幸明が開基で幸明の墓碑が建立されています。)などが点在し往時の名残が感じられます。


天文10年(1541)の海野平の戦いでは武田信虎、村上義清、諏訪頼重の連合軍が当地に侵攻し海野城は落城、一族は越後の上杉家を頼って当地を離れ、武田信玄の次男に海野氏の名跡を継がせている事から事実上海野氏も滅亡しています。一方、海野氏一族の娘を娶っていた真田幸隆が形式上は海野姓を継承したとし海野宿の前身である城下町も一定規模の町並みが残されたと思われます。天正11年(1583)、真田幸隆の跡を継いだ真田昌幸が上田城を築くと、海野郷に住んでいた住民を上田城の城下(長野県上田市海野町)に移住させた為、町並みもかなり縮小しました。

北国街道 牟礼宿

 


牟礼宿(北国街道)概要: 牟礼宿がある地は古くから越後国(現在の新潟県)と善光寺平(長野県長野市)を結ぶ交通の要衝として重要視牟礼宿(信濃町)されていた場所で中世には矢筒城の城下町として町割りされたと思われます。しかし、戦国時代の天文22年(1553)には武田信玄の侵攻を受け矢筒城は落城、当時の城主だった島津景秀(権六郎)も討ち取られ断絶しています。その後、島津氏の一族が一時復権し、天正10年(1582)には武田勝頼の援軍要請を受けた上杉景勝が信州に軍を進め矢筒城に一時駐屯しました。天正10年(1582)の矢筒城の動向は判りませんが、慶長3年(1598)に上杉景勝が会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると周辺の領主達も従った為廃城になったと思われます。

江戸時代に入った慶長16年(1611)に北国街道が開削されると宿場町である牟礼宿として正式に認められ、宿場には本陣、脇本陣、問屋、旅籠などが設置、江戸後期には家屋143軒、寺院4軒、人口746人を擁する周囲の経済的、政治的中心として発展しました。牟礼宿の実力者である加賀屋柳沢六左衛門家は富山藩の本陣や加賀藩の脇本陣格と関係が深く、江戸時代末期に発生した善光寺地震で本陣が倒壊すると、建物の再建費用の一部を富山藩が捻出しています。牟礼宿は町の構造は全長600m、東西に枡形が配され、行政区間が東組と西組に分かれ、月の半分で宿場の運営業務が交代し負担の軽減を図っていました。

北国街道を参勤交代で利用していた加賀藩は本城である金沢城(石川県金沢市)と江戸の丁度中間点に牟礼宿があった為、藩主が牟礼宿に到着すると江戸藩邸と金沢城の両方に無事の知らせの飛脚を走らせたと言われています(加賀藩は牟礼宿外れに"武州加州道中堺碑"を建立しています)。又、北国街道は佐渡島から産出される金などの金銀荷物を江戸まで運ぶ重要ルートの1つで牟礼宿はその中継地点として機能し幕府は金附場を設け管理させました。明治時代以降も周辺の中心地として機能し飯綱町牟礼庁舎が建てられています。現在は古い建物も点在するものの古い町並みは失われつつあります。

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牟礼宿(北国街道) (nagareki.com)