2024年1月5日金曜日

秋月 胤永

 あきづき かずひさ、文政7(1824)年7月2日~明治33(1900)年1月5日

 幕末まで:悌次郎。 号:韋軒。 字:子錫。

 藩士/丸山四郎右衛門胤道の次男として下米代二之丁西 (秋月梯次郎生誕之地) で誕生、秋月姓を継ぐ。

 日新館で成績優秀により19歳で江戸留学、23歳からは昌平坂学問所(昌平黌)で学び、27歳で書生寮助役、30歳で舎長となる。

 安政3(1856)年、33歳で昌平黌を卒業すると藩命により九州などの西国諸藩を遊歴、途中で長岡藩/河井継之助と行動をともにしている。

 帰国後、「観光集/七巻」「列藩名君賢臣事実」を著し藩主に献上。

 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、公用方・諸藩周旋方 (外交官) に抜擢され、会薩同盟の切っ掛けをつくる。

 慶応元(1865)年に蝦夷地代官となるが、翌年には京に召喚される。

 軍事奉行添役として越後方面に出陣したが裏方に徹する。

 開城を取り仕切り、戦争責任を問われ終身禁固刑となる。

 明治5(1972)年1月6日、幽囚が解かれ招聘され左院少議、文部省御用掛、東京大学予備門の教諭、第一高等中学の教諭などを歴任する。

 明治21(1888)年、妻/美枝子が死去。

 明治23(1890)年、67歳で招聘され熊本第五高等学校の教授となる。

 同僚であったラフカディオ・ハーン (小泉八雲)は、秋月を

 「神のような人、神が姿を表すとしたら秋月先生のような姿だろう」

と崇敬していたことは良く知られている。

 晩年は東京に戻り、享年77歳で死去、墓は青山霊園にある。

 市内にも、墓碑/善龍寺や詩碑などがある。

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夏目漱石

 夏 目 漱 石 / 会 津 へ の 想 い

 夏目漱石が、明治動乱期においての偉大な国民的作家であることに異論はあるまい。

 数多くの優れた作品を残しているが、なんといっても代表的な作品はファンが多い「坊ちゃん」であろう。


 作品の中に、舞台である地名すら「不浄な地」としか記されていないのに、なぜか「山嵐 (堀田)」という「会津っぽ」が登場するのである。

 明治39(1906)年発刊なのだから、卑劣な西軍から着せられた故なき汚名の返上は叶っておらす、会津について語ることすら憚れる時代である。

 強いて言えば、結末の「赤シャツ」と「野だ」に天誅を下す役割だろうが、会津人が出てくる必要性など まったく見当らない。

 出身が明らかなのは、東京出身の「坊ちゃん」と「野だ」、会津出身の「山嵐」の3人だけで、「坊ちゃん」は江戸っ子と答えている。

 なお、愛媛県尋常中学校へ赴任していた体験から小説「坊っちゃん」は書かれたのだが、「不浄な地」とは赴任地の「愛媛県ではない」ことが定説である。

「君は一体どこの産だ」

「おれは江戸っ子だ」

「うん、江戸っ子か、道理で負け惜しみが強いと思った」

「きみはどこだ」

「僕は会津だ」

「会津っぽか、強情な訳だ。 ~ 」

 その夜 おれと山嵐は この不浄な地を離れた。 船が岸を去れば去るほど いい心持ちがした。 神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。 山嵐とは すぐ分れたぎり 今日まで逢う機会がない。

 出会いは、

  「礼儀を心得ぬ奴」

であった。

 漱石自身も、当時の詩西園寺首相からの園遊会招待をハガキ1枚で辞退し、博士号授与も断っている。

 漱石の反骨精神を、山嵐を通して表現しているとも言われている。

 「叡山の悪僧と云うべき面構」とあるが、織田信長が焼き打ちした比叡山を再興し、後に東叡山を開山したのは、会津出身の天海大僧正である。

 会津藩士/志田貞二郎の3男で家老/西郷頼母の養子となり、姿三四郎のモデルとなった西郷四郎の得意技が「山嵐」である。


 やがて、

  「悪い男ではなさそうだ」

へと変わり、

  「一番生徒に人望があるのだそうだ」

と教師の理想像として描かれている。

 山嵐は数学教師であるのに、

  「might is right ~ 強者の権利」

という英語を使って説諭を加えている。

 文学にも精通している教養人としても描かれているのだ。

 出典はプラトン「国家」で、通常「力は正義なり」と訳される。

 「正義は必ず勝つ」「強者こそ正義である」なのだが、「善悪と勝敗とは別」と言う意味で西軍を揶揄した「勝てば官軍」とは根本的に異なる。

 それから おれと同じ数学の教師に堀田というのが居た。 これは逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構である。 人が叮寧に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、ちと遊びに来給えアハハハと云った。 何がアハハハだ。 そんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。 おれはこの時からこの坊主に山嵐という渾名をつけてやった。

 帰りに山嵐は通町で氷水を一杯奢った。 学校で逢った時はやに横風な失敬な奴だと思ったが、こんなにいろいろ世話をしてくれるところを見ると、わるい男でもなさそうだ。 ただおれと同じようにせっかちで肝癪持らしい。 あとで聞いたらこの男が一番生徒に人望があるのだそうだ。

 山嵐の説によると、いくら一人で不平を並べたって通るものじゃないそうだ。 一人だって二人だって正しい事なら通りそうなものだ。 山嵐は might is right という英語を引いて説諭を加えたが、何だか要領を得ないから、聞き返してみたら強者の権利と云う意味だそうだ。

 「坊ちゃん」の兄が卑怯な待駒をした時にケンカした時、初めて教壇に立った時にも「おれは卑怯な人間ではない」とある。

 「卑怯」の言葉は、作品の中に10回も出てくる。

 会津では、「卑怯」な行動を忌み嫌う。

 西軍が行なった偽勅や錦の御旗の偽造などは、恥ずべきこととして想像すらしない。

 幼き頃に受けた教育「什の掟」にある「四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ」は、今なお綿々と引き継がれている。

 兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。 元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。 十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。 ある時 将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。 あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。 眉間が割れて少々血が出た。 兄がおやじに言付けた。 おやじがおれを勘当すると言い出した。

 いよいよ学校へ出た。 初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。 講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。 生徒はやかましい。時々図抜けた大きな声で先生と云う。 先生には応えた。 今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。 何だか足の裏がむずむずする。 おれは卑怯な人間ではない。 臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けている。

 その晩は久し振に蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた。

 翌日何の気もなく教場へはいると、黒板一杯ぐらいな大きな字で、天麩羅先生とかいてある。 おれの顔を見てみんなわあと笑った。 ~ ~ ~  おれはだまって、天麩羅を消して、こんないたずらが面白いか、卑怯な冗談だ。 君等は卑怯と云う意味を知ってるか、と云ったら、自分がした事を笑われて怒るのが卑怯じゃろうがな、もしと答えた奴がある。 やな奴だ。 わざわざ東京から、こんな奴を教えに来たのかと思ったら情なくなった。

 おれだって中学に居た時分は少しは いたずらもしたもんだ。 しかし だれがしたと聞かれた時に、尻込みをするような卑怯な事は ただの一度もなかった。 したものはしたので、しないものはしないに極ってる。 おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。 嘘を吐いて罰を逃げるくらいなら、始めから いたずらなんかやるものか。 いたずらと罰はつきもんだ。 罰があるから いたずらも心持ちよく出来る。 いたずらだけで罰は ご免蒙るなんて下劣な根性が どこの国に流行ると思ってるんだ。 金は借りるが、返す事は ご免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない。 全体中学校へ何しに はいってるんだ。 学校へはいって、嘘を吐いて、胡魔化して、陰でこせこせ生意気な悪いたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと癇違いをしていやがる。 話せない雑兵だ。


 こん畜生と起き上がってみたが、馳けられない。 気はせくが、足だけは云う事を利かない。 じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森としている。 いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。 まるで豚だ。 こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極めて寝室の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。 錠をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸けてあるのか、押しても、押しても決して開かない。 ~ ~ ~

 正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧が足りない。 こんな時には どうしていいか さっぱりわからない。 わからないけれども、決して負けるつもりはない。 このままに済ましては おれの顔にかかわる。 江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。 宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。 これでも元は旗本だ。 旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。 こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。 ただ智慧のないところが惜しいだけだ。 


 「何でもいいでさあ、―― 全く赤シャツの作略だね。 よくない仕打だ。 まるで欺撃ですね。 それでおれの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。 上げてやるったって、誰が上がってやるものか」

 「先生は月給がお上りるのかなもし」

 「上げてやるって云うから、断わろうと思うんです」

 「何で、お断わりるのぞなもし」

 「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。 卑怯でさあ」

 「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞなもし。 若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢じゃあったのに惜しい事をした。 腹立てたためにこないな損をしたと悔むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有うと受けておおきなさいや」

 「年寄の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。 おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」

 卑怯な赤シャツの陰謀を知り天誅を加えたが、山嵐とともに辞職に追い込まれることになってしまう。

 しかし、二人とも清々しい気持ちで、「不浄の地」を離れている。

 この名作の根底には、一貫した漱石の会津に対する想い入れを感じるのは、考え過ぎであろうか。

 ややもすると、一介の老人の戯言なのかも知れない。

 「だまれ」と山嵐は拳骨を食わした。 赤シャツは よろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。 理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」

 「無法で たくさんだ」とまたぽかりと撲なぐる。 「貴様のような奸物は なぐらなくっちゃ、答えないんだ」と ぽかぽかなぐる。 おれも同時に野だを散々に擲き据えた。 しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。

 「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲ってやる」とぽかんぽかんと両人でなぐったら「もうたくさんだ」と云った。 野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。

 「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。 これに懲りて以来つつしむがいい。 いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云ったら両人共だまっていた。 ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。

 「おれは逃げも隠れもせん。 今夜五時までは浜の港屋に居る。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」と山嵐が云うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。 堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴うったえたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたあるき出した。

 汽船は夜六時の出帆である。 山嵐も おれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。 下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。

 「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。

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東海散士

 会津の遺臣である東海散士がアメリカにわたり、フィラデルフィアの独立閣でアイルランドの美女紅蓮、スペインの貴女幽蘭にめぐりあうのが発端で後に中国明朝の遺臣も加わる。いずれも亡国の憂いを抱き、権利の回復運動に進もうとするかれらの交情が描かれる。なお、この話の中でハンガリーコシュートが亡国の代表として各編に登場する。

東アジア経営にかんする意見、世界の地誌、世界史への注釈などが加わり、前半では小国が大国に依存した状態では民族的解放ができないこと、小国の国民は国を守る気力を持たなければならないこと、小国同士が手を取り合って協力すべきことが説かれている。

後半になると、作者自身が谷干城に随行してヨーロッパを視察したときの体験が混ざり、また金玉均との交友から朝鮮半島をめぐる議論や日清戦争後の三国干渉をめぐる議論が作品の主軸を占めるようになり、佳人の面影は作品からは遠ざかっていく。

護国寺

 朱雀寄合四番隊/千賀良が謹慎・監禁中、著書「暗涙之一滴」をまとめている。 

間もなく朱雀寄合四番隊は、蝦夷地 (北海道) /防備のため余市辺りに移送。

 後にベストセラー「佳人之奇遇」を著す東海散士こと柴四朗も、収容されている。

 収容された宿坊などは建て替わったり無くなっており、昔の面影は何一つ残っていない。


護国寺/会津藩士の謹慎地/東京都

乞食駕籠

 東京での会津藩士/幽閉地

 開城後、藩領を没収され捕虜となった藩士たちは猪苗代と塩川村で幽閉 (謹慎)。

 負傷者と病人は、小田山の御山村に指定された病院に収容された。

 老人や子供、婦人など区分されず、むさ苦しい農家に詰め込まれ、担当した西軍の医者/英人ウルリスですら惨状をなげいている。

 その後、信州/松代藩と越後/高田藩での永御預けの処分者に別けられた。

 護送の途中、松代藩での収容は無理と判明し東京へ変更、

  ◇ 飯田元火消屋敷 330名

  ◇ 小川講武所 700名

  ◇ 一橋御門内御搗屋 250名

  ◇ 山下御門内松平豊前守元屋敷 700名

  ◇ 神田橋御門外騎兵屋敷 250名

  ◇ 護国寺 314名

  ◇ 芝増上寺 (徳水院) 350名

  ◇ 麻布真田屋敷 若干名

に、2,870余名が分散して収容・監禁された。

 その他、神田/佐倉藩堀田邸にも手代木直右衛門、田中源之進、佐川官兵衛、小森一貫斎たちが収容されている。

 手縄付きの護送は「乞食大名」と蔑まれほど惨めな旅路であった。 到着した収容所は、江戸城 (皇居) が間近に見える地であり、故なき仕打ちに皆々号泣したという。

 御山病院では、多くの方々が息を引き取る中、運よく治癒すると東京に移送された。

 歩行が困難な者が多く、荒板を青竹で吊るしムシロをかけた「乞食駕籠」と称されたものでの護送であった。

 山川大蔵が入った「飯田橋火消屋敷」が本部の役目を成し、各謹慎所との連絡や、新政府の要人と会津藩再興へ向けて交渉を続けた。

 一人/米四合と銭150~200文の支給では、薪炭などの必要な日用品を買うために米を売らざるを得ず、食事は貧しかった。

 米も普通の米ではなく、総て南京米だった。

 犬や猫を捕まえ、近くの溝や池で鮒などはもちろん、カエルまで捕まえて飢えをしのいだ。

 各謹慎場所同士の連絡は、許されなかった。

 やがて、病人の薬を取りに行く許可証を活用して、連絡を取り合った。

 斗南藩への流刑が決まった後は外出が黙認され、羽織と高袴で帯刀していない姿は奇異だったようで、「会津殿も落ちぶれたものよ」と聞こえるように嘲られていたという。


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青山霊園

 


池上元子 . 1種イ11号4側 春暁院釋梅含清香大姉 藩士/池上四郎の正妻

池上小四郎 . 四郎の長男

湯浅竹次郎 1種イ16号5側 藩士/湯浅牧五郎の次男 日露戦争で戦死  [略歴]

湯浅次郎 妻/栄子 大審院長

楡井次郎

楡井泉 . 1種イ22号9側 藩士、後に日本郵船船長、瑞光院大道徳善居士

楡井次郎の倅、端雲院永泉壽昌居士

佐川直諒 . 1種ロ4号6-7側 佐川官兵衛の嫡男  日露戦争で戦死

妻は高木盛之輔の次女/泰子

清水慶寿 . 1種ロ6号7側 藩士 明治十三年五月十二日歿 伊東家墓域にある

片桐嘉會 . 1種ロ7号14側 藩士/片桐藤八嘉會 養子(蘆名氏) 妻は大窪山

片桐家墓域 墓碑「会津若松市大窪山史跡旧会津藩士墓地ヨリ一族初代長嘉九代与八郎ニ至ル片桐家遺土ヲ合葬」

荒木三郎 . 1種ロ8号1側


 (警視庁墓地) 荒木重義の3男、巡査 西南戦争に従軍  [略歴]

明治十五年七月四日歿

石山八治郎 . 藩士 巡査 明治二十年五月十二日歿 享年三十又五

斉藤外三郎 . 一等警視 新宿警察署勤務中に殉職

清水志一郎 . 藩士 別働第三旅団第三中隊一番小隊 警部試

鈴木武夫 . 藩士 一等巡査 明治十三年六月二日歿 享年二十六

木村省二郎茂忠 . 青森県士族 舊會津藩士 安政元年二月十七日生 明治十五年五月二十日歿  少し離れた所にある

戦死士招魂之碑 . 警視 第六方面 第一分署 28名

会津藩士は、禰津金治と山口左五郎を合祀とのこと

林権助 室/竹子 . 藩士 林又三郎の子、駐英大使、枢密顧問官  [略歴]

松平恒雄

室/信子 . 容保の4男  長女は秩父宮家に嫁した節子妃殿下

妻/信子は佐賀藩11代藩主/鍋島直大の5女

秋月胤永 (悌次郎) . 1種ロ12号26側 藩士/丸山胤道の次男 開城時は手代木と降伏の使者

教育者 小泉八雲は「まるで神の様な人」と記す [略歴]

遠藤美枝 . 秋月胤永の妻

保科正益 . 1種ロ12号30側 飯野藩/10代藩主 (会津藩を本家とする親戚藩)

角田秀松 . 1種ロ16号20側 藩医/角田良智の次男、朱雀隊/隊士 海軍中将 [略歴]

室/勇子 大正六年三月十七日歿 享年五十九歳

出羽重遠 1種ロ17号9側 藩士/出羽佐太郎の長男、海軍大将  [略歴]

赤羽秀子 . 1種ロ17号17側 藩士/蘆澤寛治の長女

藩士/赤羽友春 (市之丞 青龍足軽一番隊頭) の妻

山川浩 . 1種ロ18号5側 大蔵、国家老、東京高等師範学校長、  [略歴]

山川健次郎

山川二葉 . 東京帝国大学総長、京都帝国大学総長など  [略歴]

女子高等師範学校(お茶の水女子大学)舎監  [略歴]

山川唐衣 . 艶 藩士/山川尚江の妻、浩・健次郎・捨松の母 [略歴]

樋口伊都羽 . 1種ロ19号5側 藩士/樋口真彦の次男。 明太子の生みの親 [略歴]

井深宅右衛門 . 1種ロ20号8側 第二遊撃隊/隊頭として越後小出島で奮戦  [略歴]

井深八代子 . 井深宅右衛門の妻、西郷頼母の妹

井深梶之助 . 藩士/井深宅右衛門の長男 彦三郎の兄  [略歴]

越後で奮戦、後に明治学院/総理 「花」は後妻

井深勢喜子 . 井深梶之助の先妻

野口坤之 . 1種ロ21号3側 陸軍中将  [略歴]

小川亮 (傳八郎) . 1種ロ22号10側 藩士/小川清流 (伝吾) の長男

白虎寄合一番隊士、後に陸軍大佐  [略歴]

小川悦 . 小川亮の妻

井深彦三郎 . 1種ロ23号9側 宅右衛門の3男 衆議院議員  井深八重の父 [略歴]

生駒遊水 . 1種ロ25号10側 生駒八郎真静、藩士/生駒左衛門真諒の次男

佐々木泰邦 . 2種イ3号1-9側 藩士 西南戦争にも従軍

後に教育者として多くの俊才を輩出

赤羽治平友温 . 2種イ3号3側 温彦神霊之墓 藩士・斗南士族

赤羽治平室美恵 . 明治丗七年六月二日歿

赤羽源治 . 赤羽治平の長男 斗南士族

入江惟一郎 2種イ3号1~9側 斗南士族、西南戦争では陸軍中尉兼権大警部

浅草警察署長

樋口光 . 2種イ6号33側

∬藩士・斗南士族 小石川区第六天 松平家家令

樋口光映 . 藩士・斗南士族 明治六年十二月十四日六十四歳

山内道行 . 2種イ13号8側 旧会藩青森県士族 山内道則長男道行墓

明治七年甲戌四月七日 行年十九 香雲院釈明曜居士

山内道則・妻次子 . 旧会藩青森県士族 明治廿三年二月廿八日

小野権之丞 . 2種イ13号9-15側 小野権之丞義行の長男 公用人 [略歴]

五稜郭/箱館病院事務長として敵味方の別無く治療

中田喜直 .  ∴ “童謡の父”と称賛される作曲家  [略歴]

簗瀬三左衛門 .  ∴ 名:真粹  「会津六家」の1つ/家老職を務める  [略歴]

雑賀阿佐子

簗瀬多美子 . 真粹の妻 明治四十年五月十一日永眠

真粹の妹 明治四十一年十一月十五日永眠


大鳥圭介 1種イ1号3側 北関東を経て会津入りし、藩境近くの母成峠に布陣

瓜生繁子 . 1種イ22号5側 山川(大山)捨松の米国留学による親友

瓜生武雄 . 捨松と繁子の長男が奇しくも同じ巡洋艦で殉職

西周 1種ロ8号19側 幕府の沼津兵学校/初代校長  藩士/山本覚馬の親友

安部井寿太郎たちが仏語・仏式練兵・築城法を学ぶ

望月光蔵 1種ロ16号5側 幕臣/神奈川奉行所勤 会津藩を救おうと会津入りし奮戦


《立川地区》

西川鉄次郎 . 1種ロ4号5側 西川鐵次郎 昭和七年六月一日 行年八十歳 [略歴]

騎西(浅羽)五三郎 1種ロ4号1-9側 . 誠心院仁岳良忠袴居士 藩士/浅羽忠之助の3男

騎西一斎 妻/律子 鏡心院光譽義雲居士 心鏡院全室妙安大姉

祐太郎 八重 春 短夢童子 蓮乘院全譽妙仙信女 清光院求譽迎蓮大姉


立見尚文 1種イ8号1-5側 桑名藩士 会津入りし桑名藩/雷神隊隊長として奮戦


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長谷寺

 

≪保科  ・  西郷家之墓≫ 戊辰の役後は保科家を名乗る

西郷近光 . 家老/西郷頼母近思の父 會津藩大老西郷君○矣孤子近思件繋其羣行~

保科有鄰 . 初名:西郷吉十郎 父/頼母の墓は善龍寺にある  [略歴]

一瀬幾與子 . 西郷頼母の妹 家老で唯一の戦死者/一之瀬要人の妻

一瀬志のふ 満里 . 一瀬幾與子の娘

[某] . 無縁とのことであるが、一瀬と鈴木の墓の間にあるので、かつては何某か所縁の人ではなかろうか

[某] .

鈴木重蔵重常 會津


≪無縁墓所≫

標柱 . 境内墓地に散在せる旧会津藩士の空墓をここに集む

池上當可 . 池上當恒二男 襲見高章禄 享和三癸亥 六月二十五日卒

樋口光明 . 會津臣 普請奉行 66歳

樋口久左衛門光央 . 會津家臣 秋宗院蘭風涼庭居士

澗底院殿長屋壽松大姉墓前 .

樋口光富の妻 . 會津家臣 八重

樋口光寛の娘 . 會津家臣 孝正院暁山明心大姉

池上高章 . 會津世臣 池上仙之進 池上當恒の長男 ○義山良忠居士

佐藤族孝道 . 奥州會津家臣 徹宗院心岳淨高居士

井深重郎左衛門重矩 . 會津世臣 寛通院透雲○達居士

横たわっている墓碑 . 當地底十九許有慈妣○底院殿之漆柩且埋誌石漆柩嫡子日向徳達當至~


≪小森家墓所≫

小森駿馬 . 小森一貫斎の長男  家族は自刃  直伝院坦道英駿居士  [略歴]

小森美壽子 . 〇〇〇〇〇七月十八日逝

小森一峰 峰子 . 〇〇〇〇〇日歿  昭和二年十月三十一日歿

小森一貫斎 . 朱雀士中一番隊/中隊頭として奮戦するも、東京/幽閉中に死去  [略歴]

小森秀子 . 明治十四年十二月十四日


≪一柳家墓所≫ 藩士/一柳直行家の菩提寺。 宗家/直照家は金地院、直信家は龍光寺。

一柳伊右衛門 清鑑院直心淳行居士 ~奥州會津之産也~

一柳家 堆顔院白法○霊居士 見流院一○○逝居士 ○○院一山○寶大姉

見性院直應○得居士 真性院寶應貞操大姉

一柳直良の妻 會津家士 荻野氏寛義の娘

一柳鎗三郎の3女 一柳鎗三郎の3女 山崎圭四郎の妻 直心妙江大姉

吉野家累代 吉野氏 一柳鎗三郎建立


≪樋口家墓所≫

樋口光寛(勘次) . ∬會津世臣 君姓中原氏樋口名光寛稱勘次陸奥州會津人也歳甫十四以~

樋口光寛の妻 . 井深重郎左衛門重矩の妹 會津世臣 是春院梅英貞如大姉

墓所内に、樋口光寛と妻の2基以外に13基ある


樋口彦四郎 . 勘次光武の4男 白虎士中隊 軍馬の畜産や電圧碍子工場を設立 [略歴]


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