2016年11月16日水曜日



甲斐・越後VS信濃と長沼城 

  江戸時代以前、わが信州・信濃の国は大きな”国”であるのにかかわらず、戦国
大名の雄を輩出するとがかなわなかった。山を隔てて盆地が分散するという地形的
な要素もあるが、小笠原にしても村上にしても、群雄割拠して、一族間の争いなど
に明け暮れたりしていて、国を統一する技量の将が出てこなかった。そのため草刈
り場のごとく、甲斐の武田、越後の上杉などに名を成さしめただけというのはくや
しい感じもする。

 もっとも村上義清は、小笠原長時などよりははるかに大物で、二度までも武田軍
を打ち破り、信玄自身にも大傷を負わせ、相手の武田軍にもかなりのショックを与
えた...。そして村上軍の勝利は、信濃の各領主たちを奮い立たせたといわれる。
しかし謀略・調略を含めた総合力では、とうてい信玄の敵ではなく、ジワジワと真
綿で首をしめられるようにやられていったようだ。そしてついには、上杉をたよっ
て越後に亡命してしまう。

 もう少し村上義清がリーダシップを発揮し、信濃の諸将をがっちりかためてから信
玄に敵対し、もうひとあわもふたあわも食わせていたら...。川中島合戦では、武
田と上杉は一応引き分けたということになっているが、その前も後も信濃の状況は、
もう事実上武田の支配下になってしまっていたことのようである。

 ところで、カルチャーセンターの歴史講座などを聴いたが、講師の先生の話しで
は、教科書などには書いてないが、戦国時代の戦さは、すざまじかったようである。
略奪暴行・放火、女子供などごっそり連れていかれて売られたりもしたようだ。最近
の研究では、どうも農民達が逃げ込む城というのもあったらしいことがわかってきた
という。戦さは武士同士のものなどとかまえていられない。身をどっかへ隠さなけれ
ばなにをされるかわからない。
 
 さて本題の長沼城だが、長野市、私の実家のある隣の集落に千曲川に沿って長沼と
いう地積がある。近くに赤沼という集落もあり、文字どおり昔から湿地帯だったのだ
ろう。ここに、今のことばでいえばリストラされた西暦1700年近くまで長沼城と、
小さいながらその城下町があった。地名や突き当たりの多い道路になごり を残こして
いるが、今は一面のりんご畑とその間に散在する農家のみで、城郭の跡らしきものは
なにも残っていない。ただ、地元に当時からあるという妙笑寺に大手門の開き戸が残
されている。

 この長沼城を最初作ったのは島津氏の一族で、もちろん最初は、土累をめぐらした
程度のものだったろう。島津氏は、長沼を含む太田の庄(荘園)の地頭職として南北
朝期土着したらしい。

 この城に堀をめぐらし北信濃攻略の要害としたのは武田氏で、伝来の島津氏は武田
支配の間は他へ追われ、上杉支配になってまた立ち戻ったりしたが、この島津氏も結
局のところ秀吉の移封命令により、上杉氏に従い会津に行くはめになった。

 残された昔の絵図面をもとに、こうだっただろうと描かれた城の図を見たことがあ
るが、栗田城なんかよりはずっと大きく立派な城。でも今は城があったとされる場所
は千曲川の堤防沿い、やや円墓状に土が盛り上がり、ブナかなにかの落葉樹の大木が
3,4本立っている下に、五輪の塔と庚申塔が一つづつたっているだけである。
                     UNCLE TELL

島津農場



文中注~富良野村設置(明治三十年)ののち、下富良野分村(明治三十六年)で上富良野村となっているが、文中は上富良野村で統一した。(本文敬称略)
信哉、屯田兵として野幌屯田に入植
島津農場の開拓に大きな影響を与えた海江田信哉は、慶應元年十月二十八日、父正蔵母トリの長男として鹿児島県鹿児島郡下伊敷村字下伊敷に生を受けた。
明治維新後の日本は、ロシアに対する国防問題から北海道の治安維持対策に迫られ、明治七年(一八七四年)十月に屯田兵例則が定められ屯田兵の募集を始めた。屯田兵は、北海道に配備された農業兼務の軍隊制度で、最初は士族を資格とし、農業開拓を進めるために家族を伴ない、戸主は軍事訓練を受けて非常の変に備えていた。
新たな屯田兵条例が制定となった明治十八年(一八八五年)七月、野幌兵村に屯田兵百三十八戸が入植した。
翌年には八十七戸が移住し、計二百二十五戸の兵村として発展する。
この時屯田歩兵第二大隊第二中隊の一員として加わった信哉は、前年の明治十七年に渋谷喜八郎の次女ミネと結婚し、家族五名を連れ野幌に入植する。二十一才の入地であった。
屯田兵の移住に際しては、支度料・旅費等が支給され、到着後は家屋・土地の他に家具などの生活用具、農具、種子などが現物支給され更に、移住後三年間は、扶助米と塩菜料が給与され、手厚い官費による保護下にあった。
野幌兵村に入植した信哉はこの時、給与地として宅地百五十坪、樹林地名目の土地を三千八百五十坪の合計四千坪が給与された。居住地戸番号は札幌郡江別町大字江別町三百六番地へ入植した。
信哉をはじめ野幌屯田の人々は、九州・中国地方出身者の士族がほとんどで、入地当時は北国の冬の寒さや雪の中での生活が厳しいものであったと想像される。
屯田兵の一日は、起床から点検・就業・昼食・終業まですべてラッパの合図で営まれ、毎週土曜日には家族全員が家の前に並んで武器や農具などの検閲が義務づけられていた。
兵員である戸主の信哉は、移住後半年間近く毎日訓練を受け、その後も月三回の訓練や他兵村との集合演習などが軍務で、一方の農務は、農業に不馴れな士族が多い上に、開墾は主として家族に負わされていたので容易に進まない状況にあった。
信哉は三年現役、四年の予備役、その後は後備役につき、明治二十四年に曹長となっている。選ばれて札幌農学校(現在の北大)に兵事科別科生として入学を命ぜられ、農学の大意を勉強し、翌二十五年三月は少尉に任官している。
兵村で習得した技術を生かし、明治二十七年に軽川(現在の札幌市手稲区)の前田農場の支配人となり開拓に従事する。信哉の次男である武信(後に上富良野二代目町長)は明治三十年六月にこの前田農場で生まれている。
信哉の農耕地原野調査
島津農場は旧薩摩藩主公爵島津忠重の経営する農場である。
信哉が記した島津農場の沿革を基に、上富良野町史、上富良野町百年史や、息子の武信が記した文献等には概略説明的な物が多数ある。
ここでもその域を超える事は出来ないが、私の住む島津地域の農場の成り立ちの詳細記述は紹介される事なく埋もれたままになっている。この件はそれらの文献との重複をなるべくさけ、後述の信哉が記した上富良野村富良野原野調査報告で別項を設けて紹介したい。

島津家の土地購入交渉嘱託員の園田實徳より北海道へ農場進出の計画があったのは明治三十一年五月二十七日の事である。
吉田清憲は其の計画の一切を監督として嘱託され、海江田信哉へ二十九日農場管理を嘱託させる事にした。同日札幌滞在中の園田實徳の元にこの両名が札幌豊平館にて面談し、計画の概要説明を受け、今後の手順を相談している。
計画の土地は栃木県の矢板武、鈴木要三他二名の組合にて土地の貸し下げを受け北晃社と称し経営準備中の四箇所の土地を農耕地として適切であるか実施調査を嘱託した。
調査は次の四ヵ所二千町歩である。

    ・石狩国夕張郡長沼村馬追原野 五百町歩
    ・石狩国空知郡富良野原野 五百町歩
    ・十勝国浦幌原野 五百町歩
    ・十勝国ノヤウシ原野 五百町歩

明治三十一年六月三日より吉田清憲、海江田信哉の両名は馬追原野の調査に着手。
六月九日より浦幌原野、ノヤウシ原野を調査。
六月二十七日富良野原野の調査を終了させた。

   掲載省略 図面 兵農の平面図
   掲載省略 写真 公爵島津忠重
   掲載省略 写真 海江田信哉氏
富良野原野の調査報告
平成十二年二月、島津住民会は地域が開拓百年を迎え、記念誌「島津百年の歩み」を発行している。
この時、創設時における島津農場の調査内容は資料不足の為詳細は記していない。
信哉が明治三十一年に残した島津農場沿革の記述は、当時の世相や地域の様相を伺い知る上での資料価値として貴重なものである。
明治三十一年七月二日に上富良野村富良野原野(以下島津農場)を含む四ヵ所の調査報告書と意見書を園田實徳へ提出している。
調査は各地域とも二十三の項目からなっている。
ここでは島津農場に関する主なものを要約して纏め、項目毎に紹介すると次の通りである。
  (一) 上富良野村迄の交通の便
札幌より旭川迄、汽車里にして八十八里強(三五二㎞)の所は、汽車の便がある。
旭川市街より上富良野迄は陸路十里(四十㎞)で富良野原野となり、この陸路は上川御料地内三里(十二㎞)余りの処までは馬車の通行が出来る。これより先は駄馬でなければ困難である。然れども当時官にて道路を開削中であり、本年八~九月に至れば馬車の交通も便利となる。
官設鉄道は上富良野近傍二里位(八㎞)の処迄工事が着手されており、来春に至れば、現地まで全通する予定。
すでに現地より三里半(一四㎞)位の処の美瑛停車場迄は工事も各相済み居る由にて本年八~九月頃には開業の予定。
又、来春は現地へ接続の市街予定地に上富良野停車場を設置する事になり、そうすると交通は非常に便利になり前途有望の土地となる。
日用物品の売買は当時旭川市街に出て用事を足す。運賃は旭川より二円を要し従って物価は高い。
汽車が来春に現地まで通ずると、日用物品は来春よりは現地にて調達する事が出来る様になる。物価は目下の処札幌に比べ四割以上高い。
空知太(滝川)迄汽車の便があり、之より二十四~五里間は物品は総て駄馬にて行っている。(赤平方面をさす)
  (二) 島津農場事務所の設置と地質等
事務所は仮事務所のある西一線北二十五号百四十九番地(現在の海江田博信氏宅)の小屋を改築して設置する。
土質は概ね良好であり、耕地に適当である。五十六万坪は湿地ではあるけれど排水溝を堀削する事によって耕地に適する。鉄道も現地内を通り、排水上には便利を得ると思われる。
湿地の部分には一戸分一万五千坪(五㌶)に対し、おのおのが五百間位の排水溝を堀削すれば完全な耕地になる。
道路は官の設定道路を開削する事によって通行は可能であり、小作の希望者を他県下より募集して小作地を貸与する。
  (三) 環境
樹林や笹が生えている土地はおよそ四十万坪は開墾が非常に困難であろう。樹木の種類はハンノキ、ヤチダモ、アカダモ等の雑樹が主なもので河岸の如きは大樹が密生しており木材の販路は現時点で見込みは無いと記されており、富良野川(原文はフラヌ川等の表記)とヌッカクシ富良野川は相当樹木が生えていた事が伺われる。
気候は旭川付近に比べ、大きな差はなく、降霜は少々早い。風は所々に山があるので時折強い風も吹く。
積雪は平均で三~四尺になる。春、富良野川の雪解け水は湿地の部分にあふれる程になる。
飲料水は河川、或いは井戸でも良水を得る事が可能である。
  (四) 労働賃金
小作小屋に用いる葦草は現地に十分野草が生えており、小作小屋等を作るには付近にて人夫を雇う事も可能であると記され、労働賃金は大工木挽きは八十銭から一円。日雇い六十銭から七十五銭であり、付近に鉄道工事の仕事があって割高となっている。
  (五) 付近作物の景況及び主要作物
付近住民の出身地は三重県や石川県及び四国の者が多い。付近の農民は主に一昨年単独移住及び団体住民で有り、相当の資産を有する者が独立して生計を立てている。
付近には僅かな小作人しか居らず、いずれも地主より食糧を貸与されるか、全員が初年貸与し開墾料より返納する仕組みにて管理方は一定しておらず、開墾料も一反歩に付き二円より四円程である。
小作料の徴収は二~三年目より一反歩に付き五十銭乃至一円位。付近にては未だ創業日浅きを以て土地の売買がなく地価は不明である。
作物は発芽したばかりであり、十分な視察はしてはいないが、麦黍小豆の如きは発芽生育は頗る良好である。付近の三重団体の農夫等に聞く所によると「移住したばかりで、十分な経験はないが諸作物何れも適当であり、特に小豆は良好である」との事。
  (六) 意見書
信哉の調査した四ヵ所の意見書は島津農場の開設に大きな影響を与えた事になる。意見書の内容を要約すると次の通りである。
空知郡富良野原野の土地は良好で、交通も便利で利益も数年で得られる見込みである。現地と隣接する市街地予定地は前途有望の所で現地の一部分或いは将来宅地として有望である。
馬追原野およそ五十万坪は耕地には十分とは認め難いが、将来火山灰と下層粘土と混合すると良土に変わると思われる。今の処火山灰が多く旱天の際は作物の成育に非常に影響が出ると思われる。気候その他は好天に恵まれる土地柄である。
十勝国浦幌原野及びノヤウシの両原野は濃霧発生し気候不順にして農耕地に適しない。交通も不便にて多額の費用を要する。将来的に好結果を得る事は難しい状況にある。この原野に多額の費用を投資するのであれば富良野原野及び馬追原野付近に更に土地を求めた方が得策で、十勝国の両原野は取り止めた方が良いと報告している。
   ◇   ◇

この意見書によって八月二十五日、富良野原野と夕張郡長沼村馬追原野の二カ所に開業の沙汰が園田實徳より信哉へ下される。島津農場は十月十日に来春の準備の為二名が派遣され、小作小屋草刈りに着手する事業始めになる。

翌三十三年には小作人の杉尾直熊に事務所用地の開墾料と事務所一棟建築費が支払われた。
この後の記述は「上富良野百年史」「島津百年の歩み」に詳しい。

  掲載省略 写真 島津農場事務所門柱(海江田博信氏宅にいまなお建っている)
小作人の農場開墾
島津農場へ入地した小作人には、旅費、食料等が与えられた。
小作人の多くは、入地した所の開墾に着手し、程度により十㌃(反)当たり一円から四円の開墾料を農場が給与し、小作人の生活費に充当させている。
島津農場金銭出納帳からは、明治三十三年から明治三十七年の間開墾料が支払われ、明治三十八年以後開墾料がほとんど支出されていない事から島津農場の開墾はこの時期に集中して行われた。
開場間もなくの明治三十二年、三十三年は天候不順による農作物の収量が見込めない不安にかられ、多くの小作人に退場者が出る。
明治三十五年には、三枝甚作(現在光町三枝幸三氏の祖父)が草地百町歩の再墾を担っている。
小作人の中で特別な技術を持つ者は選ばれて、島津農場事務所の大工作業を始め、木橋の建設、排水溝や道路の造成に力量を発揮し、現在の島津地域の基盤が作られた。
共同肥料購入組合
大正四年、小作人共同肥料購入組合を組織し、島津農場小作人に対して毎年肥料資金を十月末迄貸与し、商人支払い期日の五月一日まで日歩利で百円につき二銭の割合で貸し与えている。
過燐酸は八年度決算では十貫目入り叺[かます]の価格は二円五十銭。
大正九年は物価の高騰に伴い殆ど倍価にて函館工場渡しが四円九十銭。当地まで着すれば五円余りに相当し農家は過燐酸の使用を躊踏しているとある。
地力の保持の為に農場では鰊〆粕の購入を奨励している。
大正七年度の小作人肥料需用高及び価格は次の通り。(端数切り捨て)
   品目          数量     価格 
  過燐酸(十貫目入り)  一四二五叺  三四五六円 
  鰊〆粕        一二七五貫   八八四円 
  大豆粕          二十貫     八円 
明渠排水溝の掘削
海江田信哉が上富良野村富良野原野の調査報告では、各々が五百間位の排水溝を堀削する事によって耕地に適するとある。
実情は耕作不適地の掘削は小作人等を中心とした請負に任せている。
島津農場金銭出納帳には、明治四十四年から大正四年にかけ、加藤勝三郎、出口栄太郎、河野浩太郎の請負で開削された記録の詳細が記されている。
島津農場の稲作と土功組合の設立
明治三十一年の富良野原野の調査報告にはこの時すでに富良野川より用水を引用すれば水田耕作は十分見込みが有り。何れも未だ付近にて試作した者がなく結果は不明と報告されており、水田耕作の思考はこの時点ですでに有望視されている。
島津農場の稲作の始まりは、明治三十五年に東一線北二十号の北伊三郎(現在古小高勝付近)。明治三十九年にはその向かいの塚本弥作(現在向山浩寿宅付近)。明治四十年に基線北二十号の浅田善次郎(現在浅田喜一付近)、の各氏が始めたと伝えられている。
大正六年四月中富良野を分村した当時、行政執行機関として部長制が採用され、島津は第八部に編入される。信哉の調査によると、大正七年七月現在農場の小作戸数は七十六戸(図一 掲載省略)。畑二百三十三町歩(㌶)。荒蕪地一一〇町歩(㌶)が主なもので、水田面積は百三十八町歩(㌶)であったものが、大正十五年には三百十六町歩(㌶)にまで大きく進捗した。
ここで特に興味深い事は、草分土功組合の設立に関する記述で、高まる水田面積の造田意欲と水利権の確保に島津農場がどの様に対応したか、信哉の書き残した文書を引用すると次の様である。
   (一) 草分土功組合の出願
大正八年六月十三日付けの島津農場上申書類から伺える事は、上富良野村には水利権者連合組合(富良野田用水組合会)の組織があり、組合数二十一組、人員は島津家を除き二百七十七名、水田は千五百町歩余りとなっていた。島津農場はこの組織に大正六年に加入した。
上富良野村の水田所有者は未だ法人組織の土功組合が無く水利権の統一と水の確保に苦慮していた。
農場としてはこの法人組織に賛意の決定を下し、併せて水田用水溝開削に力点を置き、中山由造、山田松蔵、菊地甚助、北村吉間、山本伊助等によって用水溝が掘削された。
農場は土功組合設置前に用水溝を完備し、水利権の確保に備える考えでいた事が伺い知れる。
大正十二年二月十九日時点での内訳は、ヌッカクシ富良野川左岸東二線方東中土功組合(既許可)に二十二町歩。富良野土功組合(富良野土功組合は大正十年既許可)富良野川右岸西一線二十一号方に七町歩が認可されており、新たに水利権を必要とするのは三百七十二町二反歩。合計面積で四百一町二反歩の水利権を保有する事になった。
法人組織の名称も草分土功組合と決まり、設立第一回概算金は一反歩に付き十八銭、農場の負担額は金六百六十九円九十六銭になる。
しかしなかなか出願許可は下りない。
   (二) 水田水の取り入れ国防
農場に直接関係ある富良野川及びヌッカクシ富良野川の水量は水田の水が必要とする時期に乾天が十日間も続けば減水して下流より水の配分請求があり交代で灌漑している状況にあった。
水門水路検査に際し直接農場に関係のある水の取り入れ口は、西一線北二十四号より引水の水門(現在の島津公園内)。東二線北二十四号方より引水の水門。及び東二線北二十五号と二十六号中間より引水している。どの場所も往時を偲ぶ物は何一つ残っていない。
又、農場は鉄道より東方北二十号方より二十三号方面は石川団体と最初から協同で水利権を得ている。
絶対水量の不足を補うには、東中土功組合の下流東二線と東三線との農場境界線を二十三号より二十一号に至る水量を石川団体方に水路は東一線と東二線との中間二十一号側を三百間開発、補給水する事により農場は将来心配なく水が使用出来るとしていた。
   (三) 深刻な水不足
大正十二年は雨量が特に少ない為に富良野川、ヌッカクシ富良野川が減水。水田用水に水不足の場所が出て来た。
農場では大正二年より水路委員は水門一ヵ所に委員一名、評議員三名を互選し、用水の分配業は委員に任せた。委員等にて決定する事が困難な場合には支配人の信哉が決裁する事に取り決めし、他も水路委員はそれぞれの用水毎に二~三名宛設けていた。
七月初旬、実施立会協定があるにも関わらず、下富良野土功組合は無法に石川団体農場及び三重団体北三十一号の富良野川水門水門口を夜中に破壊した。修繕堰き止めすれば又取り除く有様となり、水門番を置く事となった。
七月五、六日には百人余も国鉄で富良野より上富良野市街に宿泊し、不穏な様相を呈してきた。
七月十二日に上富良野村役場に主なる地主及び委員十名会合。自衛策を講じ向こうより百人来たれば当方は百五十人集合し警察巡査が立会い、自衛する方針が聞こえて来た。
農場としては初めよりこの件に関わらぬ方針を取った。その訳は農場は全部小作人であり他県の者が集合しており、地主と異なり愛土心もやや乏しく将来の事を思慮する者も少ない。水門番を多数にすれば喧嘩になる事は間違いなく、暴行をおこす危険も有る。さりとて自衛策を講じない訳にもいかず思慮分別のわきまえている老人を水門番に二~三名配置した。
七月二十四日には下富良野より二百五十人余りが来て、水門の堰き止めを取り除き水門口には多数の人夫を配置し分水をするも、当村委員等と巡査が立会い種々交渉するが解決の糸口も見えない状況である。
二十五日午後九時より双方水路委員協定には応ずる様子もない。
二十六日午前一時に三重団体方にてはすでに衝突し負傷者も四~五名出た。ますます不穏の様子となり双方の人員は増加するばかりであった。
解決も難しく面倒になる中、下富良野警察署長及び組合長なる支庁長も二十六日臨席し、水の分配は時間交代に協定した。
農場としては直接参加はしなかったけれど小作人の有坂佐太郎は、三重団体の状況視察に行き巻き添えに会い投石によって足を負傷したとある。
「富良野地区土地改良史」には富良野川上流と下流部の激突として詳細を記しているが、この事件の日時は不明とある。だが海江田信哉の島津農場上申書類にはこの事件の日時と様子が克明に記されている。

  掲載省略 写真 フラノ川と31号水門
   (四) 草分土功組合の設置に前進
前述の如く水量不足は深刻で、下流域の中下富良野両水田も水量不足は三百町歩にも及ぶ。
下富良野土功組合は下流域で水利権を持ち、上流の水利権を持たない石川団体農場や三重団体に対して水利権の統一を計る当然の権利を主張するが、地の利には勝てず、前述の事件を契機に双方の感情も硬化して行った。
島津農場の組合に加入する事を希望する下富良野土功組合は百二十万円余の負債を負っており、島津農場が加入するとなればその責任をも受け入れる事になる。
農場としては、富良野川及びヌッカクシ富良野川の水を使用出来、下富良野土功組合の空知川よりの引水もあるが、更なる溝路の延長と開発が必要となり開削工事費も負担が増える。
この事から島津農場の草分土功組合の加入には下富良野土功組合の妨害や反対もあったが、草分土功組合の設置に向かって大きく進む事になり、大正十四年四月二十四日、草分土功組合設立の認可がおりた。
十勝岳の爆発
風光明媚と威容を誇る十勝岳も突然自然の猛威をふるう。大正十五年五月二十四日十勝岳が爆発した。
上富良野村での死者行方不明者は百三十七名に達し、罹災地の水田は三重県人等の手によって三十有余年かかって開拓した良田は一瞬の内に泥土と化し、厚さ平均二尺(六十cm)内外の土質は硫黄並に硫酸等多量の礦毒を含有する土地となった。
泥流の為に流出した木材は、泥流と共に下流原野に殺倒して耕地には一面の流木が堆積して莫大な損害となった。
島津農場での十勝岳爆発に遭遇した小作人の多くは、島津農場内の小作人より相互扶助の原則に従い農地が貸与された。この時農地を提供した小作人と被害にあった小作人の関係は記録分では次の通りである。
貸し出し人面積借り受け人
上村孫三郎四反久保宝石
武内新吉二反五畝久保宝石
向山安松二反五畝久保宝石
北川石松四反中田惣助
及川重次郎四反中田惣助
西村勝三郎四反中田惣助
牧野官二二反五畝三枝甚作
野原助七二反五畝赤沼吉之助
橋場次太郎四反赤沼吉之助
高橋蔵治四反赤沼吉之助
高橋為蔵四反赤沼
野原甚之助四反赤沼
石川勘十郎四反水谷甚五郎
北村仙太郎四反水谷甚五郎
細川覚蔵四反水谷甚五郎
片岡幸太郎三反水谷甚五郎
小山三右ヱ門三反金山文次郎
塚本弥作四反金山文次郎
川原久三一反金山文次郎
武田松五郎四反金山文次郎
浅田慶一郎一反金山
山中勇吉五反金山
沢田栄松一反金山
小野梅吉四反高田正一
竹下善九郎四反高田正一
北向有蔵四反田中清吉
中田常蔵四反田中清吉
大石源次郎三反田中清吉
武内亮吉四反田中庄蔵
藤沢兵蔵四反田中庄蔵
木澤要蔵二反五畝山本仁三郎
久保茂作四反山本仁三郎
尚農場では、自ら災害者となりながらも耕地を提供された方もいた。
大正十五年は大冷害にも見舞われ、農場での作柄は五分作を上回る者は三名しか居らず、二分作以下の十数名は田地の小作料の徴収は免除された。
耕地整理組合
爆発によって泥土と化した耕地は、三十年前に渡道移住して開拓した三重団体(草分)の大部分が含まれている。
この爆発による耕地復旧に先立って監督官庁は個人事業に対する補助は不適当なので、耕地整理組合を設立するよう村に命令した。
復興を決意した吉田貞次郎村長の主導のもと、関係者一同が協議の結果、昭和二年三月三十一日に上富良野村耕地整理組合が設立認可された。
こうして荒廃した水田二百九十九町八反五畝歩の耕地に対し、運搬客土・泥土除去・流木除去・造田等の復旧工事が行なわれた。この他、河川・灌漑溝等の復旧には多額の国庫補助金が投入された。
先に記した草分土功組合は設立一年で災害に遭遇。耕地整理組合の設立と相まって復興に果たした役割は計り知れない。

「海江田翁の碑」の建立と移設

   (一) 「海江田翁の碑」の建立
海江田翁の業績を称える碑は、北二十二号道路沿いに基線道路と東一線(国道二三七号線)の丁度中間に位置する水松や赤松の古木が生い茂る中に建立された。
昭和二年の冬から、小作人の労力奉仕で基礎が作られ、四月十七日に荘厳な除幕式が行われた。
それ以来、春祭りはこの石碑の前で海江田氏を始め多数の関係者を招き、現在は住民会が主催となり毎年欠かさず催されるようになった。様々な事情から祭りの開催日はその都度定めて実施されている。
海江田信哉翁は、鹿児島から北海道に移住し、明治三十四年から島津農場の管理にあたり、百余名の小作人と共に五百町歩の大農場を造成した。この間の海江田翁の業績、小作人に対する指導力と温情に満ちたその人徳を彰するため、島津農場の小作人を中心とした七十余名によって建立されたのである。
又、西中富良野は、島津農場敷地内から下流域の西中に用水が引かれ、その恩恵を得ている関係者も建立に加わっている。碑文題字は、当時村長の吉田貞次郎書となっている。後ろの碑文を、そのまま記載すると次の通りである。
   (二) 碑文の内容
陸軍歩兵中尉従七位勲六等海江田信哉君鹿児島ノ人明治十八年北海道ニ移住シ開墾ニ従フ日清日露ノ戦役ニ参加シ勲功アリ明治三十一年公爵島津忠重ノ農場ヲ管理シ田畑五百町歩ヲ墾成ス君資性忠直ニシテ温情ニ富ミ名利ヲ捨テテ鋭意場務ニ尽瘁シテ百余ノ小作人ヲ愛撫シテ論ル所ナシ人皆其ノ徳ニ服シ其ノ功ヲ仰グ茲ニ小作人相謀リテ碑ヲ建テ其ノ徳ヲ彰ニス呼偉ナル哉
昭和二年四月島津家農場小作人一同
   (三) 信哉の死
十勝岳大噴火の災害をきっかけに信哉は島津農場支配人職を息子の武信に譲り昭和二年、第一線から退いた。
未開の地上富良野村島津農場の開拓に献身的な一生を捧げた信哉ではあったが、昭和六年一月二一日、健康を害し六十六才で生涯を終えた。
信哉の死を惜しむ親族をはじめ、村民や農場の小作人等の人々によって見送れられた葬列は、最後尾の判別が判らない程延々と続いた。その後、昭和十一年、島津農場は関係者の努力により自作農にされる事が決定。翌十二年六月、小作人はそれぞれ自作農民として自立する。

  掲載省略 写真 海江田信哉の葬儀(昭和6年)
   (四) 「海江田翁の碑」島津ふれあいセンターへ移設
月日が流れて平成十二年、成功裡に終えた島津開拓百年の記念行事後、前述の「海江田翁碑」の移設についての気運が盛り上がった。
島津住民会(当時の会長向山安三)は、「多くの苦難と災害を乗り越えてきた先人達の労をねぎらう事と、島津農場と開墾開拓の歴史を後世に残し伝える事は、殺伐とした現在の世相の中で生活している私達が、人との信頼関係や労苦を共にしてきた先人達の生き方を見習う為に意義深い」と訴えた。
昭和二年の前述の建立地から、地域住民の拠り所であり、平成二年に建設された「島津ふれあいセンター」(基線北二十三号)、への移設が最適と言う事で協義され住民の同意を得た。
町教育委員会にも指定を受け、「名跡由来の碑」としても、島津住民会が永久保存の手助けをする事を確認した。
地元企業の山本建設株式会社の特段のご協力もあり工事が完了。碑には島津開拓記念の文字も新たに刻まれ、平成十二年九月五日移設報告祭が執行された。

  掲載省略 写真 「海江田翁の碑」移設報告祭(平成12年9月5日)
あとがき
私の家も島津農場の小作人として先々代の庄蔵が大正九年から農業を営み、昭和十二年の自作農の解放を経て、先代の乙から私へと農業が引き継がれてきた。息子達はそれぞれ独立したり他産業へ就職。
私も農業後継者と呼べる者もなく、平成十三年度をもって離農し、現在高齢者事業団の職員としてお世話になっている。これまで農業で蓄積してきた技術や、地域の仲間と切礎琢磨して競い合ってきた事柄など共通の話題等を失う淋しさは離職によって味わう事となる。
今年になって海江田家三代目となる博信氏(元町議)と、明治四十年に入植した信岡伊蔵氏の三代目に当たる信之氏(現在住民会長)は、このほど農業から撤退する事を決意し、島津地域全体での農家戸数は平成二十年四月現在で三十四戸となった。(図二 掲載省略)海江田信哉は小作人を使用して共存共栄を計りながら大農場を構築した。今、地域農業はさらに大規模経営が求められ、大型の農業機械が導入され、耕起から収穫作業に至るまで大面積を僅かな人員で経営する様に進められている。
生活面でも、一人でテレビや自動車を一台ずつ持つなど文明も豊かになり、国が求めている農業の大型化によって地域のコミュニケーションや家族関係、礼儀、義理人情と言った大切なものまでどんどん失われている。
島津の地域もどんどん高齢化が進み、農政に関するニュースも取り上げられなくなって来ている。しっかりとした声が届けられなくなった時、北海道開拓一世紀に渡って築き上げられた地域農業は確実に崩壊の道を進んでいる。
  参考資料(掲載省略)
(図一) 大正七年小作人居住国―図は島津農場以外の入地判明者(○印)も含めた。
(図二) 平成二十年住民会居住国―図は平成二十年四月現在で農業者を●印。それ以外を○印で示した。
  (調査資料)
上富良野町史上 富良野町
上富良野百年史 上富良野町
郷土をさぐる 上富良野町郷土をさぐる会
島津百年の歩み 島津住民会
富良野地区土地改良史 富良野地区土地改良連合会
屯田兵調査資料 江別郷土資料館
海江田博信蔵島津農場関係書類
郷土館蔵島津農場関係古文書綴り
北大北方資料室―日本北辺関係旧記目録収載野幌
兵村屯田歩兵第二大隊第二中隊給与地配当調



https://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/2505tanaka.htm

神代街道



五 神代街道(長沼~神代~平出)



村山神社前から東への道は、長沼~神代~香白坂~三本松峠までは神代街道であるが、北国街道が屋代から丹波島・善光寺・牟礼を通るようになってからは、布野渡し~福島~川田~松代を合わせて,北国脇往還あるいは松代通りなどと呼ばれた。
牟礼からは北国街道となり、柏原・野尻・赤川・関川を経て越後高田へ向かう。
佐渡からの金荷輸送、加賀藩に代表される参勤交代が通る公用路線であった。

・村山・長沼
村山神社から一旦堤防道路に出て村山橋方向に進む。
街道当時は堤防などなく河原に道があったようで今もそれとなく道筋は見えるが夏草に覆われている。村山橋をくぐって再び堤防道路にあがると河川敷に村奈弥稲荷が見える。
中を覗くと小さな狐がたくさん並び、「狐の嫁入り」絵額があがっている。
往時はここが道で村山一里塚があった。旧道はなくなっているので堤防道路にもどりしばら行って水防倉庫の先で東に下りるとすぐに長沼宿入口の枡形となる。
南側には松の老木と地蔵尊、石祠などが並ぶ小塚がある。なんとなくこちらの方が一里塚に見える。
長沼の通りに入ってすぐ西側に平安時代の創建と伝わる長沼神社がある。境内のけやきの大木は推定樹齢450年といわれ、武田信玄の奉納とも。また、ご神体は自然石であり、隕石ではないかとも言われている。
「歴史の道調査報告書・北国街道」に昭和七年撮影の長沼宿の写真が載っている。
街道の真ん中に用水が流れ、和服姿の男性がこちらを向いている。本陣と思われるが、今はその旧家も建てかえられ一本の松だけが残る。
街道を北へ進むと林光院に突き当たり、参道前に、「右 ゑちご道 左 ぜんこうじ道」の道標がある。元文元年(1736)と古いものだ。
左の善光寺道は、国道18号線大町交差点から更北中学校前、古里小学校横を通って金箱、北堀から吉田の原町で布野からの須坂道に合したと考えられる。
神代街道は右へ折れすぐにまた左に折れる枡形となる。枡形を曲がらずにまっすぐに川に向かうと勝念寺の横を通って河川敷に入り対岸の相之島への渡し場となる。
しばらく長沼の町中を行き、突き当たりで西に曲がる。曲がってすぐの所に北へ向かう道があり、これは通称「おうま通り」という長沼城の大手道であった。

・穂保・津野・赤沼
長沼の地は越後高田から信濃に来る北国往還の要害で、太田荘地頭の島津氏の居所だったが、武田軍攻められて大倉に退いた。信玄は3回に渡って城を修復し、半円形の馬だしを持つ甲州流の城を築き、海津城に次ぐ重要拠点となった。
武田氏滅亡後は上杉景勝の所領となったが、会津移封により廃城となった。
今は、石碑を残すのみである。
「おうま通り」を行かずに街道に戻ると、右へ直角に折れて穂保に入りしばらくゆくと再びで突き当たりとなる。
角に白壁の大きな旧家があり手前の敷地には地蔵尊が並べられている。茂みの中に傘が三段重ねの古びた庚申塔が見える。これは、三重塔により三世守られるという仏教系の庚申信仰によるものだという。中尊は三尊仏で両側面に猿が一匹ずつ見える。「長野市の石造文化財(第2集)」によると、慶安三年(1650)と古いものだ。
ここを右に曲がってすぐにまた左に折れるが、正面は守田神社である。
鳥居は西東に向いているが社殿は南に向いている。社殿正面にかつての参道らしき道が見え、長沼城の北辺であったと思われる。
守田神社となりの長沼支所にはいくつかの歌碑が立つ。 月好・雲士・春甫・呂芳といずれも「長沼十哲」とよばれた地元の俳人である。
化政期、長沼地区には一茶の門人が多くいて、中でも有力な十人は「長沼十哲」と呼ばれていた。長沼は、北信濃の俳諧の先達である善光寺門前の「猿佐」により、もともと俳諧が盛んな土地だった。
一茶との交友は文化五年(1808)年、一茶がまだ江戸在住の時代から始まり、帰省の度に長沼にも足をはこんでいた。

文化九年(1812)十一月、一茶は五十歳にして俳諧での成功と健康問題・遺産問題の両方を抱え、漂泊の暮らしを追えて故郷柏原に戻った。
その後、当時の俳諧熱とあいまって北信濃を中心に一茶社中を形成してく。中でも長沼社中は最も多勢で一茶の訪問も多く、その回数、12年間で664回に達したという。
そのほか六川に245回、善光寺に210回、高山村紫にも136回訪れている。
高山村には「一茶ゆかりの里 一茶館」があり、一茶の定宿であった久保田春耕家の「離れ」が移築されている。館員の説明では、煙草好きだった一茶は、囲炉裏端に座り、キセルをふかしながら俳句指導にあたったそうだ。
こうした巡回行脚は文政十年(1827七)に六五歳で没するまで続けられた。
かつて江戸へ奉公に出された道を、今度は当代随一の宗匠として、北国街道、川東道、神代街道を縦横に歩いた姿が想像される。
一茶は、柏原に永住する前、江戸との間を頻繁に往復しており、普通六泊七日かかるところを五泊六日で歩くなどかなりの健脚だったようだ。同行者があったときは、一茶は健脚で先行し、同行者が追いつくのを待つ、ということもあったという。
ところで、一茶年表に、文化三年(1806)十一月、「大黒屋光太夫とオロシアから帰った磯吉より体験談を聞く」とある。意外な組合せで驚いた。
「おろしあ国酔夢譚」(井上靖)・「大黒屋光太夫」(山下恒夫)では、光太夫らは帰国後、幕府から軟禁状態に置かれたのであり、一茶はどのような伝で磯吉に会ったのか。
一茶大辞典によると、一茶のパトロン的存在であった夏目成美による「随斎会」により話を聞く機会があったようだ。どんな話を聞いて、どう思ったのだろうか。大いに興味のあるところだ。
なお、ここまでの一茶に関することは、「信濃の一茶」(中公新書・矢羽勝幸)によった。

街道は、長沼支所を過ぎて丸い郵便ポストのところで再び右に曲がる。正面に秋葉社が祀られ「右 ゑちご道  左 さくば道」と道標を兼ねる。
わずかで左に曲がる枡形となって津野にはいる。
枡形を北に曲がらず直進すると妙笑寺がある。
境内には戌の満水といわれる寛保二年(1742)千曲川大洪水の水位柱がある。高さは約3メートル。現代ではちょっと考えられない規模の洪水である。 本堂の柱にはその時々の洪水水位が記録されているという。なかなか実際に見ることはできないが、長野の八幡原にある長野市立博物館に大きなパネル写真があってそこで見ることができる。
妙笑寺を後にして街道を北に行くと、いったんはりんご畑の中の道となり、じきに赤沼の街並みが見えてくる。
集落入り口の一ノ配バス停のところに、覆屋に入った二体の地蔵尊と、傘を乗せた庚申塔一基がある。向かって右の地蔵尊は享保八年(1723)で、真ん中の庚申塔は二鶏二猿で左側面に元禄の文字が見える。「酉天」から元禄六年(1693)と推定される。中尊は男根か?
さらに行くと西側にいくつかの供養等などが並ぶ地蔵堂、東側は大田神社を見てアップルライン赤沼交差点に出る。これを横断してさらに北に向かう。新幹線車両センターを左手に見て、浅川を大道橋で渡る。

・豊野
ここから豊野町に入るが、新しい道が出来ていて道の様子はおおきく変わった。
旧道は大道橋を渡って右へ入り大道橋青果店前を通って若干の登りになる。右側に馬頭観音文字碑二基を見てさらに庚申塔・二十三夜塔を過ぎると交差点となる。右折して行くと、信越線沿いに神代東町、下神代と古名がのこる地区を過ぎて当栄ケミカルの前を通って浅野に入る。ただし、飯山道の旧道は別にある。
直進するとその先は信越線線路で行き止まりである。かつては、ここには踏切があって普通に通行していた。しかたなく豊野駅跨線橋で向こう側に渡る。
豊野駅前に地蔵堂があって、その手前に「流死人菩薩」石碑がある。戌の満水で流れ着いた溺死者を弔うものだが、裏面に「大満水此処マデ湛」とあり、当時の水位を示すものとされる。この碑は10年ほど前までは多賀神社参道石段脇にあった。「戌の満水を歩く」によると、もともとは今ある場所の付近に火葬場があって石碑もここにあった可能性がある。その後豊野駅工事などにより多賀神社に移された。同書でもその時の写真・記事が載る。よって元あったと思われる場所に戻ったことになるが、その辺の経緯はわからない。

神代街道はここからは登りの斜度が増す。
すぐに左手上に多賀神社が見える。急な石段を登ったところに祠作りの庚申塔がある。二鶏二猿で中尊は猿田彦を中心とする三尊仏である。江戸初期慶安五年(1652)と古いもので長野市の指定民族資料となっている。
街道をしばらくゆくと、古民家のような豊野西町公会堂の反対側に東から来る道があるがこれが飯山道。北国街道徳間の道標「右いい山 なかの 志ふゆ くさつ道 左北国往還」で分岐して三才・南郷を経てきた道である。この交差点角には「是より右 善光寺道 是より左えちご道」の道標がある。
飯山道はここを枡形とし、少し北にいってすぐに東に折れ神代宿へ入る。
角には番所跡の碑が残る。北国脇往還神代宿は幕府から正式な宿場として指定されてはいるが、むしろ飯山道の宿場として発達したものだろう。当然、本陣・脇本陣も飯山街道沿いである。
神代街道は豊野観音堂に突き当たり、左にまいていよいよ香白坂(白坂峠)の登りにかかる。旧道は判然としないので、りんご畑の中の道を登り、とりあえず現代の白坂峠を目指す。
右に左にカーブしながら小一時間も登ると白坂峠の一里塚に出る。道を広げる際に半分削られ饅頭を半分にした形になっているが、案内柱も立ちすぐにそれとわかる。
ここから真っ直ぐに行くと北国街道に出る。この一里塚がある峠は、北国往還が平出まで来て曲がるようになってからのもである。
旧白坂峠は、一里塚を過ぎ白坂峠案内板のところを東に行ったところにある。当初は旧白坂峠から直線的に神代へ下っていたようだが、今は道跡はなくなっている。
旧道は旧白坂峠をさらに東に行ってからつつじ山の麓を回り番匠を通って三本松峠の手前で北国街道に出ていた。
なお、この辺一体は桃の畑が広がり丹霞郷と呼ばれる。
五月の連休ごろには淡いピンクのじゅうたんが広がり美しい。写真を撮ったり絵を描いたり、訪れる人も多い。


http://www.ac.auone-net.jp/~yoshi_35/99_blank014.html

北国街道



北国街道の脇街道・松代道は松代城下を出発し、川田宿を経て福島宿から千曲川を渡り、この長沼宿を経て本街道へ合流しました。
かなり古い時代に、千曲川流路に沿って長い沼のような地形であった事が、その地名の由来と言われますが、北の浅川と河川に挟まれた低地の為に水害に見舞われる事が多く、石垣、土蔵、半二階など洪水に備えた住宅が多い事で知られています。

戦国時代には地頭島津氏の長沼城が築かれ、その後は武田信玄の手中に入り、北信濃における重要拠点の城下町として発展します。江戸期には、大坂の陣で功績をあげた佐久間勝之が1万8000石で入封して長沼藩が成立しその城下町となりますが、佐久間家は4代で改易されます。陣屋が置かれていたのは現在の赤沼地区です。

そうした宿場町、城下町の歴史を持つ長沼ですが、現在その地名は無く、唯一長沼郵便局にその断片を残すだけとなっています。長沼宿には本陣や脇本陣は無く、また宿場町と言われるような連続した家並みもありません。しかし南北に伸びる旧街道は幾度も折れ曲がり、多くの桝形から成るジグザグ道の遺構がハッキリと残されている事に驚かされます。

長沼という地名が失われるのは実は宿場町成立時に遡ります。慶長16年、北国脇街道・松代道が長沼村を通り、これに合わせて長沼宿が指定されます。長沼村には内町、六地蔵町、上町、栗田町などが生まれ、やがて長沼という地名は上記4か村の冠称ないし、地域の総称となっていったのです。
明治22年の町村合併で長沼村は一時復活しますが、昭和29年の長野市への編入で、再びその名は消えました。編入前の大字であった、大町、穂保、赤沼の地名が引き継がれました。

http://www.ichiro-ichie.com/03koshinetsu/nagano/naganuma/naganuma01.html


~ 大熊新城の築城 ~
この大熊新城は、築城の時期がはっきり確認できる珍しい城跡として知られている。

「諏訪御符札之古書」という文献に築城のことが書かれていて、

「文明十八年丙午御射山明年御頭足


一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)

一 左頭、高梨本郷、御符札五貫六百六十六文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、

下位殿当郡大熊荒城取立候
、六月十日甲申除如此御座候間、(後略)」


とあり、文明18年(1486)年6月頃に、下位殿(諏訪 継満)により築城されたことがわかる。
上社大祝であった諏訪継満は、総領家の地位を狙い天文15年正月8日夜に、前宮神殿の酒宴の席で総領家の

諏訪政満・嫡子の宮若丸・舎弟小太郎などを殺害し総領家を滅亡させた。

しかし、この継満のやり方に反発した総領家方の矢崎肥前守政継・千野入道・有賀・小坂・福島・神長官

守矢氏等に攻撃され、2月19日夜干沢城から伊那高遠へ落ちて行った。

その一ヶ月後の3月19日、下社金刺興春が諏訪継満に味方して、寄力勢百騎で高嶋城(茶臼山城)を落城させ、

上桑原・武津を焼き高鳥屋小屋に籠った。これに対して総領家側は、矢崎・千野・有賀など諸氏が金刺興春と戦い

下社側は、戦いに負け興以下これに従っていた下社勢の大和・武居氏らが打取られ、興春の首は大熊城に晒され、

下社も焼かれてしまった。

城跡のある尾根の南側を流れる権現沢川沿いから登った今回の登城路 
文明16年になると諏訪継満は伊那の軍勢(松尾小笠原・知久・笠原氏など)を率いて杖突峠を越えて諏訪へ攻め

込み磯並・前山に陣を張った。翌日には片山古城(武居城)を整備し直し立て籠もった。

これに対し総領家側は干沢城へ籠っているところ、府中小笠原氏が筑摩・安曇郡の軍勢を引き連れ援軍として、

片山の向城(大熊城か?)へ入り伊那勢を挟みこむ布陣を敷いた。

この戦いの結果については伝わっていないが、ふりを悟った継満は伊那へと引き上げていったものと見られている


登っていくとすぐに踏み跡はあるものの笹藪となり苦労をするが構わず登る。
その後、文明18年に荒城の築城となるのだが、「諏訪市史」では、

「(前略)、伊那の旧大祝側と諏訪の総領側で交渉が進められ、和解が成立して荒城の築城や御射山御頭への参加

となったのであろうが、これは伊那へ追放された旧大祝継満が諏訪へ復帰する為の足掛かりとしたものであろう」

とあり、「山城探訪」では、下諏訪ではすでに新しい大祝が立っていて存在感が薄れていく継満は、諏訪への往還

への意志表示とここへ城を築き籠ることによって誰かが取りなしをしてくれることを期待しての築城であったので

はないかとしている。




http://osirozuki.blog.fc2.com/blog-category-17.html

野田幸敬「島津氏支族について」



信濃島津氏については、論文では野田雄二「信濃の島津氏」(『長野郷土史研究会機関紙 長野』125号)、野田幸敬「島津氏支族について」(『家系研究』33号)等があります。単行本では杉本雅人『増訂 越前島津氏-その事歴と系譜』(私家版、全国書誌番号21733580)の中に赤沼島津氏の話が出ています。

http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sgs00632&mode=res&log=400

諏訪神社



  1. 国分、旧舞鶴城城下の東方に 諏訪神社が鎮座する。 なぜここに「諏訪」を勧請したのだろうか。
  2. 「諏訪」と言えば「龍神」、水害・水難からだろうか。 海岸縁で且つ河川もある。洪水や津波の被害を推察するが。 当時は、入江で、中洲が七島、あったそうだ。
  3. 一説では、鎌倉武家集団の間で「諏訪詣で」が盛んだったと伝う。 鎌倉下向武士団の島津が奨励したのだろうか。 吾妻鏡 巻六 では、諏訪大社に神馬を奉納している。
  4. 旧島津藩に諏訪神社が多数鎮座されているのには それなりの背景がある。
  5. 島津の祖「忠久」は、 当初、この諏訪神社(諏訪大社)が 鎮座する信濃國の地頭職にあった。 ===>>三国名勝図会・鹿児島・正一位諏方大明神社、 「諏訪御符礼之古書」「信濃国太田庄相伝系図」 ■信濃國塩田庄:現在の上田市塩田(産川流域) ===>>工藤能綱譲状案(工藤文書・石川文書) ■大田庄: 豊野町南郷から長野市赤沼・津野にかけて 太田という地名が残っている ===>>古来、近衛家領、 養和元年(1181):木曽義仲の領地となる 元暦元年(1184):義仲滅亡後、島津忠久が地頭拝命
  6. 前出の「正一位諏訪大明神社」の由緒にもあるように 五年己酉 右大将源公 陸奥國押領使蓁衡を 征伐し給ひし時 得佛公御年十一歳 命を蒙りて副将軍となり 前軍に都督たり 此時深く信濃國諏訪大明神神に 斎祷し給ひて軍利あり 功成りて凱旋し給ひけり 陸奥国に出陣のおり 戦勝祈願をし軍功を挙げた。 それ以後崇拝するようになった。
  7. 藤原定家の「明月記」や「吾妻鏡」に登場する「承久の乱」 この合戦に出陣するに際し、諏訪神社詣でをし武勲を挙げた。 以後、島津の氏神「稲荷」と同様、崇拝し勧請した。
  8. 諏訪大社に関しての初見は次のようだ。 『日本書紀』巻三〇持統五年(六九一)八月辛酉《廿三》◆辛酉。 遣使者祭龍田風神。信濃須波。水内等神。
  9. また、当地の諏訪神社には「諏訪上下」とか 「諏訪上」「諏訪下」と あるので、不思議に思って、諏訪大社を少々。。
    • この「諏訪上下」に関しては、   諏訪上社と諏訪下社とで確執があったようです。
    • 鎌倉時代は、上社の大祝・諏訪氏が、源氏と密接な関係を持ち  諏訪は「軍神」として 崇拝・加護を受けて  また、諏訪市は武士団を結成し隆盛を、。    ===>>吾妻鏡等参照      嶋津氏もこの後の承久の乱ではかなりの報奨を
    • しかし鎌倉幕府が滅亡すると  代わって、下社が武士団を形成し勢いを増し  抗争が展開される
    • この後武田軍が支配するようになる
  10. 欽明の頃の出自は・・・はここでしょうか。 『日本書紀』巻十九 欽明天皇元年(五四〇)七月己丑《十四》◆秋七月丙子朔己丑。 遷都倭國磯城郡磯城嶋。 仍號爲磯城嶋金刺宮。
  11. また、下社の大祝の「金刺」はここ 『続日本紀』巻卅二 宝亀三年(七七二)正月乙巳《廿四》◆乙巳。 信濃國水内郡人女孺外從五位下金刺舍人若嶋等八人賜姓連。
  12. 諏訪大社の大祝 ○上社の大祝は祭神の子孫で諏訪氏 ○下社の大祝は外来神の子孫で多氏(おおし)と同祖の皇別氏で  新撰姓氏録では右京皇別氏族  多氏の末裔には、阿蘇氏・金刺氏がある。 「金刺氏」の後は武居氏  例のお舟神事はこの下社です。
  13. また、神長官「守矢」によると 御柱は「ミシャグジを降ろす依り代」であるそうな。
  14. 守矢(守屋)は物部氏を祖とする。守屋神社が鎮座する。
  15. http://yorihime3.net/mado/shimazu_suwa.html

信濃國諏訪大明神



信濃國諏訪大明神を
迎えて勧請す
今其来由を釋るに
文治二年丙午正月八日
鎌倉右大将源公
我大祖得佛公を
信濃國藍田荘地頭職に補せられ
斯年、又島津御荘
薩摩・大隅・日向
三箇所の總地頭職に補任せらる
五年己酉
右大将源公
陸奥國押領使蓁衡を
征伐し給ひし時
得佛公御年十一歳
命を蒙りて副将軍となり
前軍に都督たり
此時深く信濃國諏訪大明神神に
斎祷し給ひて軍利あり
功成りて凱旋し給ひけり
承久三年、辛己五月八日
公又信濃國太田荘地頭職に補せられ給ふ
是より道鑑公に至り傅領し給ふ
公遥に神恩を仰ぎ
祖徳を追ひ
信濃の本社の神霊を
薩摩國三門院に勧請し
尊んで總社となし給へり
 

島津権六郎



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お城入口。お城の来歴などが書かれた説明板があった。それによると
・矢筒城、黒川城、牟礼城などの名前を持つ
・内堀は山の中に今も存在しており、外堀は埋められて舗装路になっている
・ただの山城ではない、お城と館が一体化
・大手口はここ
天正の頃の城主は島津権六郎、彼の所領は牟礼村の他三水村まで及んでいた

島津というと大体の人間が薩摩の島津氏を思い出すだろうが、このお城の島津権六郎さんと薩摩の島津さんは親戚なんだそうな。本家はもちろん薩摩だが、たまたま島津氏初代が仕えていた五摂家のひとつ・近衛家の荘園である信濃国太田荘の地頭職になったことから、ここに島津氏が土着することになったらしい。しかし本家のいる薩摩国は遠すぎた。徐々に本家との関係が切れていったようで、戦国時代には交流がなくなっていたみたい。
信州島津氏(信州家)は島津初代忠久の三男・忠直の家系が長沼家、初代忠久の次男(越前家)の曾孫にあたる忠秀が信濃に土着してその子孫が赤沼家と称する。この二つの家は仲良く共闘し、最終的には上杉家に士官している。
で、島津権六郎という人はどちらの家の系統なのか分からないが、天文22(1553)年に武田さんに攻められ、滅ぼされてしまったという。何かで見たけど武田は信濃侵攻時、1日5個くらいのお城を落としながら行軍していったとか。なんだそれ凄いなと思ってたけど、こんな小ぶりなお城なら1日5個行けるかも? と思った。

http://henrilesidaner.hatenablog.com/entry/2016/11/14/113615

2016年9月21日水曜日

島津農場



文中注~富良野村設置(明治三十年)ののち、下富良野分村(明治三十六年)で上富良野村となっているが、文中は上富良野村で統一した。(本文敬称略)

信哉、屯田兵として野幌屯田に入植
島津農場の開拓に大きな影響を与えた海江田信哉は、慶應元年十月二十八日、父正蔵母トリの長男として鹿児島県鹿児島郡下伊敷村字下伊敷に生を受けた。
明治維新後の日本は、ロシアに対する国防問題から北海道の治安維持対策に迫られ、明治七年(一八七四年)十月に屯田兵例則が定められ屯田兵の募集を始めた。屯田兵は、北海道に配備された農業兼務の軍隊制度で、最初は士族を資格とし、農業開拓を進めるために家族を伴ない、戸主は軍事訓練を受けて非常の変に備えていた。
新たな屯田兵条例が制定となった明治十八年(一八八五年)七月、野幌兵村に屯田兵百三十八戸が入植した。
翌年には八十七戸が移住し、計二百二十五戸の兵村として発展する。
この時屯田歩兵第二大隊第二中隊の一員として加わった信哉は、前年の明治十七年に渋谷喜八郎の次女ミネと結婚し、家族五名を連れ野幌に入植する。二十一才の入地であった。
屯田兵の移住に際しては、支度料・旅費等が支給され、到着後は家屋・土地の他に家具などの生活用具、農具、種子などが現物支給され更に、移住後三年間は、扶助米と塩菜料が給与され、手厚い官費による保護下にあった。
野幌兵村に入植した信哉はこの時、給与地として宅地百五十坪、樹林地名目の土地を三千八百五十坪の合計四千坪が給与された。居住地戸番号は札幌郡江別町大字江別町三百六番地へ入植した。
信哉をはじめ野幌屯田の人々は、九州・中国地方出身者の士族がほとんどで、入地当時は北国の冬の寒さや雪の中での生活が厳しいものであったと想像される。
屯田兵の一日は、起床から点検・就業・昼食・終業まですべてラッパの合図で営まれ、毎週土曜日には家族全員が家の前に並んで武器や農具などの検閲が義務づけられていた。
兵員である戸主の信哉は、移住後半年間近く毎日訓練を受け、その後も月三回の訓練や他兵村との集合演習などが軍務で、一方の農務は、農業に不馴れな士族が多い上に、開墾は主として家族に負わされていたので容易に進まない状況にあった。
信哉は三年現役、四年の予備役、その後は後備役につき、明治二十四年に曹長となっている。選ばれて札幌農学校(現在の北大)に兵事科別科生として入学を命ぜられ、農学の大意を勉強し、翌二十五年三月は少尉に任官している。
兵村で習得した技術を生かし、明治二十七年に軽川(現在の札幌市手稲区)の前田農場の支配人となり開拓に従事する。信哉の次男である武信(後に上富良野二代目町長)は明治三十年六月にこの前田農場で生まれている。
信哉の農耕地原野調査
島津農場は旧薩摩藩主公爵島津忠重の経営する農場である。
信哉が記した島津農場の沿革を基に、上富良野町史、上富良野町百年史や、息子の武信が記した文献等には概略説明的な物が多数ある。
ここでもその域を超える事は出来ないが、私の住む島津地域の農場の成り立ちの詳細記述は紹介される事なく埋もれたままになっている。この件はそれらの文献との重複をなるべくさけ、後述の信哉が記した上富良野村富良野原野調査報告で別項を設けて紹介したい。

島津家の土地購入交渉嘱託員の園田實徳より北海道へ農場進出の計画があったのは明治三十一年五月二十七日の事である。
吉田清憲は其の計画の一切を監督として嘱託され、海江田信哉へ二十九日農場管理を嘱託させる事にした。同日札幌滞在中の園田實徳の元にこの両名が札幌豊平館にて面談し、計画の概要説明を受け、今後の手順を相談している。
計画の土地は栃木県の矢板武、鈴木要三他二名の組合にて土地の貸し下げを受け北晃社と称し経営準備中の四箇所の土地を農耕地として適切であるか実施調査を嘱託した。
調査は次の四ヵ所二千町歩である。

    ・石狩国夕張郡長沼村馬追原野 五百町歩
    ・石狩国空知郡富良野原野 五百町歩
    ・十勝国浦幌原野 五百町歩
    ・十勝国ノヤウシ原野 五百町歩

明治三十一年六月三日より吉田清憲、海江田信哉の両名は馬追原野の調査に着手。
六月九日より浦幌原野、ノヤウシ原野を調査。
六月二十七日富良野原野の調査を終了させた。

   掲載省略 図面 兵農の平面図
   掲載省略 写真 公爵島津忠重
   掲載省略 写真 海江田信哉氏
富良野原野の調査報告
平成十二年二月、島津住民会は地域が開拓百年を迎え、記念誌「島津百年の歩み」を発行している。
この時、創設時における島津農場の調査内容は資料不足の為詳細は記していない。
信哉が明治三十一年に残した島津農場沿革の記述は、当時の世相や地域の様相を伺い知る上での資料価値として貴重なものである。
明治三十一年七月二日に上富良野村富良野原野(以下島津農場)を含む四ヵ所の調査報告書と意見書を園田實徳へ提出している。
調査は各地域とも二十三の項目からなっている。
ここでは島津農場に関する主なものを要約して纏め、項目毎に紹介すると次の通りである。
  (一) 上富良野村迄の交通の便
札幌より旭川迄、汽車里にして八十八里強(三五二㎞)の所は、汽車の便がある。
旭川市街より上富良野迄は陸路十里(四十㎞)で富良野原野となり、この陸路は上川御料地内三里(十二㎞)余りの処までは馬車の通行が出来る。これより先は駄馬でなければ困難である。然れども当時官にて道路を開削中であり、本年八~九月に至れば馬車の交通も便利となる。
官設鉄道は上富良野近傍二里位(八㎞)の処迄工事が着手されており、来春に至れば、現地まで全通する予定。
すでに現地より三里半(一四㎞)位の処の美瑛停車場迄は工事も各相済み居る由にて本年八~九月頃には開業の予定。
又、来春は現地へ接続の市街予定地に上富良野停車場を設置する事になり、そうすると交通は非常に便利になり前途有望の土地となる。
日用物品の売買は当時旭川市街に出て用事を足す。運賃は旭川より二円を要し従って物価は高い。
汽車が来春に現地まで通ずると、日用物品は来春よりは現地にて調達する事が出来る様になる。物価は目下の処札幌に比べ四割以上高い。
空知太(滝川)迄汽車の便があり、之より二十四~五里間は物品は総て駄馬にて行っている。(赤平方面をさす)
  (二) 島津農場事務所の設置と地質等
事務所は仮事務所のある西一線北二十五号百四十九番地(現在の海江田博信氏宅)の小屋を改築して設置する。
土質は概ね良好であり、耕地に適当である。五十六万坪は湿地ではあるけれど排水溝を堀削する事によって耕地に適する。鉄道も現地内を通り、排水上には便利を得ると思われる。
湿地の部分には一戸分一万五千坪(五㌶)に対し、おのおのが五百間位の排水溝を堀削すれば完全な耕地になる。
道路は官の設定道路を開削する事によって通行は可能であり、小作の希望者を他県下より募集して小作地を貸与する。
  (三) 環境
樹林や笹が生えている土地はおよそ四十万坪は開墾が非常に困難であろう。樹木の種類はハンノキ、ヤチダモ、アカダモ等の雑樹が主なもので河岸の如きは大樹が密生しており木材の販路は現時点で見込みは無いと記されており、富良野川(原文はフラヌ川等の表記)とヌッカクシ富良野川は相当樹木が生えていた事が伺われる。
気候は旭川付近に比べ、大きな差はなく、降霜は少々早い。風は所々に山があるので時折強い風も吹く。
積雪は平均で三~四尺になる。春、富良野川の雪解け水は湿地の部分にあふれる程になる。
飲料水は河川、或いは井戸でも良水を得る事が可能である。
  (四) 労働賃金
小作小屋に用いる葦草は現地に十分野草が生えており、小作小屋等を作るには付近にて人夫を雇う事も可能であると記され、労働賃金は大工木挽きは八十銭から一円。日雇い六十銭から七十五銭であり、付近に鉄道工事の仕事があって割高となっている。
  (五) 付近作物の景況及び主要作物
付近住民の出身地は三重県や石川県及び四国の者が多い。付近の農民は主に一昨年単独移住及び団体住民で有り、相当の資産を有する者が独立して生計を立てている。
付近には僅かな小作人しか居らず、いずれも地主より食糧を貸与されるか、全員が初年貸与し開墾料より返納する仕組みにて管理方は一定しておらず、開墾料も一反歩に付き二円より四円程である。
小作料の徴収は二~三年目より一反歩に付き五十銭乃至一円位。付近にては未だ創業日浅きを以て土地の売買がなく地価は不明である。
作物は発芽したばかりであり、十分な視察はしてはいないが、麦黍小豆の如きは発芽生育は頗る良好である。付近の三重団体の農夫等に聞く所によると「移住したばかりで、十分な経験はないが諸作物何れも適当であり、特に小豆は良好である」との事。
  (六) 意見書
信哉の調査した四ヵ所の意見書は島津農場の開設に大きな影響を与えた事になる。意見書の内容を要約すると次の通りである。
空知郡富良野原野の土地は良好で、交通も便利で利益も数年で得られる見込みである。現地と隣接する市街地予定地は前途有望の所で現地の一部分或いは将来宅地として有望である。
馬追原野およそ五十万坪は耕地には十分とは認め難いが、将来火山灰と下層粘土と混合すると良土に変わると思われる。今の処火山灰が多く旱天の際は作物の成育に非常に影響が出ると思われる。気候その他は好天に恵まれる土地柄である。
十勝国浦幌原野及びノヤウシの両原野は濃霧発生し気候不順にして農耕地に適しない。交通も不便にて多額の費用を要する。将来的に好結果を得る事は難しい状況にある。この原野に多額の費用を投資するのであれば富良野原野及び馬追原野付近に更に土地を求めた方が得策で、十勝国の両原野は取り止めた方が良いと報告している。
   ◇   ◇

この意見書によって八月二十五日、富良野原野と夕張郡長沼村馬追原野の二カ所に開業の沙汰が園田實徳より信哉へ下される。島津農場は十月十日に来春の準備の為二名が派遣され、小作小屋草刈りに着手する事業始めになる。

翌三十三年には小作人の杉尾直熊に事務所用地の開墾料と事務所一棟建築費が支払われた。
この後の記述は「上富良野百年史」「島津百年の歩み」に詳しい。

  掲載省略 写真 島津農場事務所門柱(海江田博信氏宅にいまなお建っている)
小作人の農場開墾
島津農場へ入地した小作人には、旅費、食料等が与えられた。
小作人の多くは、入地した所の開墾に着手し、程度により十㌃(反)当たり一円から四円の開墾料を農場が給与し、小作人の生活費に充当させている。
島津農場金銭出納帳からは、明治三十三年から明治三十七年の間開墾料が支払われ、明治三十八年以後開墾料がほとんど支出されていない事から島津農場の開墾はこの時期に集中して行われた。
開場間もなくの明治三十二年、三十三年は天候不順による農作物の収量が見込めない不安にかられ、多くの小作人に退場者が出る。
明治三十五年には、三枝甚作(現在光町三枝幸三氏の祖父)が草地百町歩の再墾を担っている。
小作人の中で特別な技術を持つ者は選ばれて、島津農場事務所の大工作業を始め、木橋の建設、排水溝や道路の造成に力量を発揮し、現在の島津地域の基盤が作られた。
共同肥料購入組合
大正四年、小作人共同肥料購入組合を組織し、島津農場小作人に対して毎年肥料資金を十月末迄貸与し、商人支払い期日の五月一日まで日歩利で百円につき二銭の割合で貸し与えている。
過燐酸は八年度決算では十貫目入り叺[かます]の価格は二円五十銭。
大正九年は物価の高騰に伴い殆ど倍価にて函館工場渡しが四円九十銭。当地まで着すれば五円余りに相当し農家は過燐酸の使用を躊踏しているとある。
地力の保持の為に農場では鰊〆粕の購入を奨励している。
大正七年度の小作人肥料需用高及び価格は次の通り。(端数切り捨て)
   品目          数量     価格 
  過燐酸(十貫目入り)  一四二五叺  三四五六円 
  鰊〆粕        一二七五貫   八八四円 
  大豆粕          二十貫     八円 
明渠排水溝の掘削
海江田信哉が上富良野村富良野原野の調査報告では、各々が五百間位の排水溝を堀削する事によって耕地に適するとある。
実情は耕作不適地の掘削は小作人等を中心とした請負に任せている。
島津農場金銭出納帳には、明治四十四年から大正四年にかけ、加藤勝三郎、出口栄太郎、河野浩太郎の請負で開削された記録の詳細が記されている。
島津農場の稲作と土功組合の設立
明治三十一年の富良野原野の調査報告にはこの時すでに富良野川より用水を引用すれば水田耕作は十分見込みが有り。何れも未だ付近にて試作した者がなく結果は不明と報告されており、水田耕作の思考はこの時点ですでに有望視されている。
島津農場の稲作の始まりは、明治三十五年に東一線北二十号の北伊三郎(現在古小高勝付近)。明治三十九年にはその向かいの塚本弥作(現在向山浩寿宅付近)。明治四十年に基線北二十号の浅田善次郎(現在浅田喜一付近)、の各氏が始めたと伝えられている。
大正六年四月中富良野を分村した当時、行政執行機関として部長制が採用され、島津は第八部に編入される。信哉の調査によると、大正七年七月現在農場の小作戸数は七十六戸(図一 掲載省略)。畑二百三十三町歩(㌶)。荒蕪地一一〇町歩(㌶)が主なもので、水田面積は百三十八町歩(㌶)であったものが、大正十五年には三百十六町歩(㌶)にまで大きく進捗した。
ここで特に興味深い事は、草分土功組合の設立に関する記述で、高まる水田面積の造田意欲と水利権の確保に島津農場がどの様に対応したか、信哉の書き残した文書を引用すると次の様である。
   (一) 草分土功組合の出願
大正八年六月十三日付けの島津農場上申書類から伺える事は、上富良野村には水利権者連合組合(富良野田用水組合会)の組織があり、組合数二十一組、人員は島津家を除き二百七十七名、水田は千五百町歩余りとなっていた。島津農場はこの組織に大正六年に加入した。
上富良野村の水田所有者は未だ法人組織の土功組合が無く水利権の統一と水の確保に苦慮していた。
農場としてはこの法人組織に賛意の決定を下し、併せて水田用水溝開削に力点を置き、中山由造、山田松蔵、菊地甚助、北村吉間、山本伊助等によって用水溝が掘削された。
農場は土功組合設置前に用水溝を完備し、水利権の確保に備える考えでいた事が伺い知れる。
大正十二年二月十九日時点での内訳は、ヌッカクシ富良野川左岸東二線方東中土功組合(既許可)に二十二町歩。富良野土功組合(富良野土功組合は大正十年既許可)富良野川右岸西一線二十一号方に七町歩が認可されており、新たに水利権を必要とするのは三百七十二町二反歩。合計面積で四百一町二反歩の水利権を保有する事になった。
法人組織の名称も草分土功組合と決まり、設立第一回概算金は一反歩に付き十八銭、農場の負担額は金六百六十九円九十六銭になる。
しかしなかなか出願許可は下りない。
   (二) 水田水の取り入れ国防
農場に直接関係ある富良野川及びヌッカクシ富良野川の水量は水田の水が必要とする時期に乾天が十日間も続けば減水して下流より水の配分請求があり交代で灌漑している状況にあった。
水門水路検査に際し直接農場に関係のある水の取り入れ口は、西一線北二十四号より引水の水門(現在の島津公園内)。東二線北二十四号方より引水の水門。及び東二線北二十五号と二十六号中間より引水している。どの場所も往時を偲ぶ物は何一つ残っていない。
又、農場は鉄道より東方北二十号方より二十三号方面は石川団体と最初から協同で水利権を得ている。
絶対水量の不足を補うには、東中土功組合の下流東二線と東三線との農場境界線を二十三号より二十一号に至る水量を石川団体方に水路は東一線と東二線との中間二十一号側を三百間開発、補給水する事により農場は将来心配なく水が使用出来るとしていた。
   (三) 深刻な水不足
大正十二年は雨量が特に少ない為に富良野川、ヌッカクシ富良野川が減水。水田用水に水不足の場所が出て来た。
農場では大正二年より水路委員は水門一ヵ所に委員一名、評議員三名を互選し、用水の分配業は委員に任せた。委員等にて決定する事が困難な場合には支配人の信哉が決裁する事に取り決めし、他も水路委員はそれぞれの用水毎に二~三名宛設けていた。
七月初旬、実施立会協定があるにも関わらず、下富良野土功組合は無法に石川団体農場及び三重団体北三十一号の富良野川水門水門口を夜中に破壊した。修繕堰き止めすれば又取り除く有様となり、水門番を置く事となった。
七月五、六日には百人余も国鉄で富良野より上富良野市街に宿泊し、不穏な様相を呈してきた。
七月十二日に上富良野村役場に主なる地主及び委員十名会合。自衛策を講じ向こうより百人来たれば当方は百五十人集合し警察巡査が立会い、自衛する方針が聞こえて来た。
農場としては初めよりこの件に関わらぬ方針を取った。その訳は農場は全部小作人であり他県の者が集合しており、地主と異なり愛土心もやや乏しく将来の事を思慮する者も少ない。水門番を多数にすれば喧嘩になる事は間違いなく、暴行をおこす危険も有る。さりとて自衛策を講じない訳にもいかず思慮分別のわきまえている老人を水門番に二~三名配置した。
七月二十四日には下富良野より二百五十人余りが来て、水門の堰き止めを取り除き水門口には多数の人夫を配置し分水をするも、当村委員等と巡査が立会い種々交渉するが解決の糸口も見えない状況である。
二十五日午後九時より双方水路委員協定には応ずる様子もない。
二十六日午前一時に三重団体方にてはすでに衝突し負傷者も四~五名出た。ますます不穏の様子となり双方の人員は増加するばかりであった。
解決も難しく面倒になる中、下富良野警察署長及び組合長なる支庁長も二十六日臨席し、水の分配は時間交代に協定した。
農場としては直接参加はしなかったけれど小作人の有坂佐太郎は、三重団体の状況視察に行き巻き添えに会い投石によって足を負傷したとある。
「富良野地区土地改良史」には富良野川上流と下流部の激突として詳細を記しているが、この事件の日時は不明とある。だが海江田信哉の島津農場上申書類にはこの事件の日時と様子が克明に記されている。

  掲載省略 写真 フラノ川と31号水門
   (四) 草分土功組合の設置に前進
前述の如く水量不足は深刻で、下流域の中下富良野両水田も水量不足は三百町歩にも及ぶ。
下富良野土功組合は下流域で水利権を持ち、上流の水利権を持たない石川団体農場や三重団体に対して水利権の統一を計る当然の権利を主張するが、地の利には勝てず、前述の事件を契機に双方の感情も硬化して行った。
島津農場の組合に加入する事を希望する下富良野土功組合は百二十万円余の負債を負っており、島津農場が加入するとなればその責任をも受け入れる事になる。
農場としては、富良野川及びヌッカクシ富良野川の水を使用出来、下富良野土功組合の空知川よりの引水もあるが、更なる溝路の延長と開発が必要となり開削工事費も負担が増える。
この事から島津農場の草分土功組合の加入には下富良野土功組合の妨害や反対もあったが、草分土功組合の設置に向かって大きく進む事になり、大正十四年四月二十四日、草分土功組合設立の認可がおりた。
十勝岳の爆発
風光明媚と威容を誇る十勝岳も突然自然の猛威をふるう。大正十五年五月二十四日十勝岳が爆発した。
上富良野村での死者行方不明者は百三十七名に達し、罹災地の水田は三重県人等の手によって三十有余年かかって開拓した良田は一瞬の内に泥土と化し、厚さ平均二尺(六十cm)内外の土質は硫黄並に硫酸等多量の礦毒を含有する土地となった。
泥流の為に流出した木材は、泥流と共に下流原野に殺倒して耕地には一面の流木が堆積して莫大な損害となった。
島津農場での十勝岳爆発に遭遇した小作人の多くは、島津農場内の小作人より相互扶助の原則に従い農地が貸与された。この時農地を提供した小作人と被害にあった小作人の関係は記録分では次の通りである。
貸し出し人 面積 借り受け人
上村孫三郎 四反 久保宝石
武内新吉 二反五畝 久保宝石
向山安松 二反五畝 久保宝石
北川石松 四反 中田惣助
及川重次郎 四反 中田惣助
西村勝三郎 四反 中田惣助
牧野官二 二反五畝 三枝甚作
野原助七 二反五畝 赤沼吉之助
橋場次太郎 四反 赤沼吉之助
高橋蔵治 四反 赤沼吉之助
高橋為蔵 四反 赤沼
野原甚之助 四反 赤沼
石川勘十郎 四反 水谷甚五郎
北村仙太郎 四反 水谷甚五郎
細川覚蔵 四反 水谷甚五郎
片岡幸太郎 三反 水谷甚五郎
小山三右ヱ門 三反 金山文次郎
塚本弥作 四反 金山文次郎
川原久三 一反 金山文次郎
武田松五郎 四反 金山文次郎
浅田慶一郎 一反 金山
山中勇吉 五反 金山
沢田栄松 一反 金山
小野梅吉 四反 高田正一
竹下善九郎 四反 高田正一
北向有蔵 四反 田中清吉
中田常蔵 四反 田中清吉
大石源次郎 三反 田中清吉
武内亮吉 四反 田中庄蔵
藤沢兵蔵 四反 田中庄蔵
木澤要蔵 二反五畝 山本仁三郎
久保茂作 四反 山本仁三郎
尚農場では、自ら災害者となりながらも耕地を提供された方もいた。
大正十五年は大冷害にも見舞われ、農場での作柄は五分作を上回る者は三名しか居らず、二分作以下の十数名は田地の小作料の徴収は免除された。
耕地整理組合
爆発によって泥土と化した耕地は、三十年前に渡道移住して開拓した三重団体(草分)の大部分が含まれている。
この爆発による耕地復旧に先立って監督官庁は個人事業に対する補助は不適当なので、耕地整理組合を設立するよう村に命令した。
復興を決意した吉田貞次郎村長の主導のもと、関係者一同が協議の結果、昭和二年三月三十一日に上富良野村耕地整理組合が設立認可された。
こうして荒廃した水田二百九十九町八反五畝歩の耕地に対し、運搬客土・泥土除去・流木除去・造田等の復旧工事が行なわれた。この他、河川・灌漑溝等の復旧には多額の国庫補助金が投入された。
先に記した草分土功組合は設立一年で災害に遭遇。耕地整理組合の設立と相まって復興に果たした役割は計り知れない。

「海江田翁の碑」の建立と移設

   (一) 「海江田翁の碑」の建立
海江田翁の業績を称える碑は、北二十二号道路沿いに基線道路と東一線(国道二三七号線)の丁度中間に位置する水松や赤松の古木が生い茂る中に建立された。
昭和二年の冬から、小作人の労力奉仕で基礎が作られ、四月十七日に荘厳な除幕式が行われた。
それ以来、春祭りはこの石碑の前で海江田氏を始め多数の関係者を招き、現在は住民会が主催となり毎年欠かさず催されるようになった。様々な事情から祭りの開催日はその都度定めて実施されている。
海江田信哉翁は、鹿児島から北海道に移住し、明治三十四年から島津農場の管理にあたり、百余名の小作人と共に五百町歩の大農場を造成した。この間の海江田翁の業績、小作人に対する指導力と温情に満ちたその人徳を彰するため、島津農場の小作人を中心とした七十余名によって建立されたのである。
又、西中富良野は、島津農場敷地内から下流域の西中に用水が引かれ、その恩恵を得ている関係者も建立に加わっている。碑文題字は、当時村長の吉田貞次郎書となっている。後ろの碑文を、そのまま記載すると次の通りである。
   (二) 碑文の内容
陸軍歩兵中尉従七位勲六等海江田信哉君鹿児島ノ人明治十八年北海道ニ移住シ開墾ニ従フ日清日露ノ戦役ニ参加シ勲功アリ明治三十一年公爵島津忠重ノ農場ヲ管理シ田畑五百町歩ヲ墾成ス君資性忠直ニシテ温情ニ富ミ名利ヲ捨テテ鋭意場務ニ尽瘁シテ百余ノ小作人ヲ愛撫シテ論ル所ナシ人皆其ノ徳ニ服シ其ノ功ヲ仰グ茲ニ小作人相謀リテ碑ヲ建テ其ノ徳ヲ彰ニス呼偉ナル哉
昭和二年四月島津家農場小作人一同
   (三) 信哉の死
十勝岳大噴火の災害をきっかけに信哉は島津農場支配人職を息子の武信に譲り昭和二年、第一線から退いた。
未開の地上富良野村島津農場の開拓に献身的な一生を捧げた信哉ではあったが、昭和六年一月二一日、健康を害し六十六才で生涯を終えた。
信哉の死を惜しむ親族をはじめ、村民や農場の小作人等の人々によって見送れられた葬列は、最後尾の判別が判らない程延々と続いた。その後、昭和十一年、島津農場は関係者の努力により自作農にされる事が決定。翌十二年六月、小作人はそれぞれ自作農民として自立する。

  掲載省略 写真 海江田信哉の葬儀(昭和6年)
   (四) 「海江田翁の碑」島津ふれあいセンターへ移設
月日が流れて平成十二年、成功裡に終えた島津開拓百年の記念行事後、前述の「海江田翁碑」の移設についての気運が盛り上がった。
島津住民会(当時の会長向山安三)は、「多くの苦難と災害を乗り越えてきた先人達の労をねぎらう事と、島津農場と開墾開拓の歴史を後世に残し伝える事は、殺伐とした現在の世相の中で生活している私達が、人との信頼関係や労苦を共にしてきた先人達の生き方を見習う為に意義深い」と訴えた。
昭和二年の前述の建立地から、地域住民の拠り所であり、平成二年に建設された「島津ふれあいセンター」(基線北二十三号)、への移設が最適と言う事で協義され住民の同意を得た。
町教育委員会にも指定を受け、「名跡由来の碑」としても、島津住民会が永久保存の手助けをする事を確認した。
地元企業の山本建設株式会社の特段のご協力もあり工事が完了。碑には島津開拓記念の文字も新たに刻まれ、平成十二年九月五日移設報告祭が執行された。

  掲載省略 写真 「海江田翁の碑」移設報告祭(平成12年9月5日)
あとがき
私の家も島津農場の小作人として先々代の庄蔵が大正九年から農業を営み、昭和十二年の自作農の解放を経て、先代の乙から私へと農業が引き継がれてきた。息子達はそれぞれ独立したり他産業へ就職。
私も農業後継者と呼べる者もなく、平成十三年度をもって離農し、現在高齢者事業団の職員としてお世話になっている。これまで農業で蓄積してきた技術や、地域の仲間と切礎琢磨して競い合ってきた事柄など共通の話題等を失う淋しさは離職によって味わう事となる。
今年になって海江田家三代目となる博信氏(元町議)と、明治四十年に入植した信岡伊蔵氏の三代目に当たる信之氏(現在住民会長)は、このほど農業から撤退する事を決意し、島津地域全体での農家戸数は平成二十年四月現在で三十四戸となった。(図二 掲載省略)海江田信哉は小作人を使用して共存共栄を計りながら大農場を構築した。今、地域農業はさらに大規模経営が求められ、大型の農業機械が導入され、耕起から収穫作業に至るまで大面積を僅かな人員で経営する様に進められている。
生活面でも、一人でテレビや自動車を一台ずつ持つなど文明も豊かになり、国が求めている農業の大型化によって地域のコミュニケーションや家族関係、礼儀、義理人情と言った大切なものまでどんどん失われている。
島津の地域もどんどん高齢化が進み、農政に関するニュースも取り上げられなくなって来ている。しっかりとした声が届けられなくなった時、北海道開拓一世紀に渡って築き上げられた地域農業は確実に崩壊の道を進んでいる。
  参考資料(掲載省略)
(図一) 大正七年小作人居住国―図は島津農場以外の入地判明者(○印)も含めた。
(図二) 平成二十年住民会居住国―図は平成二十年四月現在で農業者を●印。それ以外を○印で示した。
  (調査資料)
上富良野町史上 富良野町
上富良野百年史 上富良野町
郷土をさぐる 上富良野町郷土をさぐる会
島津百年の歩み 島津住民会
富良野地区土地改良史 富良野地区土地改良連合会
屯田兵調査資料 江別郷土資料館
海江田博信蔵島津農場関係書類
郷土館蔵島津農場関係古文書綴り
北大北方資料室―日本北辺関係旧記目録収載野幌
兵村屯田歩兵第二大隊第二中隊給与地配当調

https://www.town.kamifurano.hokkaido.jp/hp/saguru/2505tanaka.htm

2016年5月26日木曜日

信州里帰りそば



信濃武士たちの行く末 (その一)

昨年の10月に、江戸時代に信州の殿様の異動とともに他国(会津・出石・出雲)へ伝わり、その土地で独自に進化していった”信州里帰りそば”について書きましたが、今回は殿様の領地替えに伴って信濃から他国へと移っていった信濃武士について書いてみたいと思います。
  ◎第一部 上杉米沢藩と北信濃の武士たち
  ◎第二部 松平(保科)会津藩と伊那の武士たち
今回は、
  『上杉米沢藩と北信濃の武士たち』の①     
     ●川中島合戦後の上杉家と北信濃
     ●北信濃の武士たち
     ●大阪冬の陣と信濃武士  です
 越後上杉家の家紋 (竹に飛び雀)



●川中島合戦後の上杉家と北信濃
武田信玄との数回に亘る川中島での戦いの後、飯山地域を除いて信濃は武田家の領地となりました。1578年に上杉謙信が没すると、実子が無かった謙信の2 人の養子(景勝と景虎)の間で家督争いが起こりました(御館の乱)。景勝は信玄亡き後武田家を継いでいた武田勝頼と同盟を結び、景勝側が勝利すると信濃の 上杉領を武田家へ譲りました。この時点で武田家の信濃一国支配が完成したことになります。
その後その武田家も1582年に勝頼が織田信長によって滅ぼされると信濃も織田の支配となりました。
上杉は、越中(富山)、信濃(長野)、上野(群馬)の3方面から織田軍に攻められ、存亡の危機に立たされましたが、同年その織田信長が本能寺の変により明智光秀に殺害されることとなり、この機を捉えた上杉景勝は北信濃に進出し領地としました。
信長の事業を継承し天下を統一した豊臣秀吉政権下の1589年ごろの上杉家は、石高92万(越後・川中島・佐渡・庄内)を有していました。
 上杉景勝の像


1598年に豊臣秀吉の命により、上杉家は越後から会津120万石(会津・米沢・伊達・信夫・佐渡・庄内)へ転封となりましたが、大名としては徳川の240万石、毛利の120.5万石に次ぐ3番目の石高です。
同年秀吉が亡くなると、豊臣家で景勝と同じく五大老の一人であった徳川家康との対立が表面化し、1600年、家康による会津(上杉)征伐をきっかけとした 関が原の合戦において上杉と同盟していた石田三成(西軍)が敗れた結果、翌年家康により米沢へ移とされ石高も30万石へ大幅に減封されました。
石高が四分の一となったにも関わらず、家臣をリストラしませんでしたので、藩の財政は極めて厳しい状況でした。
更に3代藩主が世継がないまま急死したため、上杉家は廃絶の危機に陥りましたが、会津藩主保科正之の尽力もあり15万石に半減されその後幕末まで続きました。
 
 ※上杉家と保科正之及び忠臣蔵で有名な吉良家との関係については、また機会があれば書きたいと思います。
 
●北信濃の武士たち
上杉景勝が越後から会津に転封となった際、北信濃の武士たちは景勝に従って信濃の地を離れ会津に移りました。芋川、市河、夜交(夜間瀬)、小田切、大滝、尾崎、清野、平林、東城、西城、今清水、仙仁(せんに)、島津、須田、綿内などの諸氏です。
更にその後の領地替えにより北信濃武士たちは会津から米沢へと移り、その子孫の多くは米沢で明治維新を迎えました。
この間に上杉家の石高は激減したため、藩士たちの生活は大変だったのです。
 ※初代米沢市長の大滝龍蔵氏は、飯山の地から会津を経て米沢に移っていった大滝氏の末裔とのことです。

●大阪冬の陣と信濃武士
1614年家康は徳川幕府を磐石のものとするために大坂城の豊臣秀頼を攻めた大坂冬の陣の折、上杉景勝も徳川への忠誠心を証明するため3,000人 (5,000人など諸説ある)を率いて出陣しました。その中には市河、芋川、岩井、島津、香坂、夜交(よませ)、平林、井上といった信濃出身の武士たちも 大勢いました。
特に、後藤又兵衛基次らを相手に冬の陣の激戦地であった鴫野表の戦いで先陣を命ぜられた(信濃衆の筆頭格である須田満親の次男の)須田長義は、この戦いでの働きにより二代将軍徳川秀忠から感状と短刀を賜りました。
結局この冬の陣で上杉軍は300人という多くの戦死者を出しました。

 http://www.life-as.co.jp/blog/2008/03/post_27.html

2016年5月10日火曜日

東福院


500年以上も前に上杉謙信の四家老のひとりである赤田城主・斎藤朝信によって開基された名刹です。上杉謙信が将軍義輝より拝領した「兆殿司三幅対」をはじめ、「輪蔵」「笈」などの貴重な文化財が納められています。また境内には川中島合戦の英雄、長谷川与五左衛門基運(上杉謙信の部下)の墓が建てられています。

http://apple2004.fem.jp/kaguyast/toti/tera/touhukuin.html

川中島の戦い 第五回合戦

永禄二年 (一五五 九) 四月、謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆるされて帰国された。管 領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるようになった。その後永禄五年には管領職についた。
 永禄三年九月から、謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。
 永禄四年春、謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。
 同八月、謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻めた。
 八月二十六日、信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、 越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。二十九日、信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめ て、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐 美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井 上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島には、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿 河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右 の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親 章を配置した。中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七 郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を待ち受けて一人残らずみな討ち取った。越 後勢が川を渡って、川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条 山の方ばかりに目をつけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と 見て、これが謙信の先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。
 翌十日朝、まだ夜が明けぬうちに、謙信方から貝を吹き、太鼓を打って、武田の陣に攻めか けた。武田勢は思いがけない方向から攻められ驚いたようだった。謙信の旗本が紺地に日の丸、それに 「毘」 の字を書いた大旗二本を立て、ちかぢかに押し かけたのを見て、備えを立て直す間もなく戦いかねるようだったが、武道第一の武田侍であるから、弓を射、鉄砲を撃ちかけ、越後の先手柿崎和泉守の軍は、信 玄の先手の飯富三郎兵衛に突きたてられ、千曲川の方に下ったのを見て、色部修理長実は、かねて待ち受けていたところなので、旗から槍を入れ、飯富の備えを 突き返した。斎藤下野守朝信は、武田方の内藤修理、今福浄閑の軍を追いたてて進んだ。長尾政景、本庄美濃守慶秀、長尾遠江守藤景、山吉孫次郎、北条丹後守 の五軍が先を争って、大声を上げて信玄方を切り散らした。謙信は八年前に信玄と太刀打ちをして討ちもらしたのが、口惜しく、この度は信玄をぜひ討ちたいと 心がけ、旗本の人数で、信玄の旗本にかかり追い崩した。武田の十二段の備えがみな敗北し、千曲川の広瀬のあたりまで、追い討ちをかけ、戦死者、負傷者は数 えきれない。信玄は犀川の方に退くのを、越後勢が追いかけた。その時、後から武田太郎義信が二千ばかりで謙信のあとを追ってきた。それで越後方の後備えの 中条梅披斎の軍が引き返して、義信方に防戦した。しかし旗色が悪く見えたところに、遊軍の宇佐美駿河守が助けに来て、中条と一手になって、武田義信軍を追 い返し、勝利を得て、数十人を討ち取った。あとで戦が始まったのを謙信が聞いて、不安に思って引き返して義信を防ごうとしたが、義信は宇佐美を斬り尽くし て退いたのを、直江大和守、甘糟近江守、安田治部丞の三軍が義信の軍を倉晶まで追い討ちにした。謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休 み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに 目がけて攻めかかって来た。越後方は今朝早くからの合戦に疲れ、ことに油断していたところで、少し先手で防いだが、備えもうまくゆかず、多くは馬に乗り遅 れ、敗軍となった。越後勢の戦死多数で、志田源四郎義時もここで戦死した。謙信は家の重宝である五挺槍というものの中から、第三番目の鍔槍という槍で、自 身で手を下して戦った。後には波平行安の長刀でさんざん戦ったところに、海津口を守っていた六軍のうちの本庄越前守、大川駿河守が駆けつけ、義信を追い返 した。この時、繁長自身は太刀打ち、大川駿河は戦死した。長尾遠江守藤景と宇佐美駿河守は応援に入り、義信を突き崩した。これで戦はひとまずおさまった。
 謙信は犀川を後ろにその夜は陣を取ったが、山吉孫次郎は、「今夜海津の城の敵が気がかり である。犀川を渡り、軍を取りまとめられては」と諌めたが、謙信は従わなかった。十一日の朝、謙信は下米宮の渡し口に備えを立て、直江大和守実綱、甘糟近 江守景持、宇佐美駿河守走行、堀尾隼人などと、西条山の陣小屋を焼き払った。そのあと、謙信は善光寺に三日滞在して、長沼まで入り、ここに二、三日逗留し て越後に帰陣した。
 はじめ、謙信が出張して、西条山に陣を取り、八月二十六日、信玄が下米宮の渡しに着いた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。
 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に 出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙 信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつ かなかった。
 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守走行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。
武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年 合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後に やられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむ なしく年月を送られるのはいかがなものか」と諌めた。
 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLと して、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の 木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても勝 負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組 討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」と申し入れた。
 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」とのことである。
 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に 乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗っていた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あっ たが、少しのことであるから書きつけなかった。
 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に 出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙 信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。
 永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守定行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。
武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年 合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後に やられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむ なしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。
 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめLと して、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いとして謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の 木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十三年から十二年の間、夜昼戦っても勝負がつかぬ。明 日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをやめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申し つけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」と申し入れた。
 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」とのことである。
 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に 乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗って出向き、馬上で大声で、「ここに出た者は、謙信の家老斎藤下野守朝信 の家来で長谷川与五左衛門基連と申す者、小兵ながら彦六と晴れの組討ちをご覧に入れる。いずれが勝つとも、加勢、助太刀は、永く弓矢の恥である」と言い、 彦六と馬を乗りちがえ、むずと組み、両馬の間に落ち重なり、彦六が上になり長谷川を組み敷いた。甲州方が声を上げて喜ぶ時、組みほぐれて、長谷川は安馬を 組みふせ上になり、彦六の首を取って立ち上がり高く差し上げて、「これをご覧下され。長谷川与五左衛門組討ちの勝利はこのとおり」と叫んだ。越後方は思わ ず長谷川うまくやったと一同感じどよめいた。甲州方は無念に思って、木戸を開けて千騎ばかりが討って出ようとしたのを、信玄は、「鬼神のような彦六が、あ の小男にたやすく組み取られたことは味方の不運である。かねて組討ちの勝利次第と約束した上は、川中島は越後に渡すことにする。約束を破ることは侍として 永く不名誉なことである。四郡は謙信のものと今日から定めよう」と言って翌日引き上げられた。これから四郡は越後の領となった。長谷川の手柄の印である。 そして村上義清、高梨政頬は、川中島に戻り、その志を遂げた。これから、武田と上杉の争いはなくなった。
 このことは、信玄の家来、須崎五平治、堀内権之進が書きとめておいた。この両人は、あと で浪人して越後に来て、上杉家に仕えている。それでよく調べて書いたものである。 この一冊は須崎、堀内の書いておいたものと、信玄の子孫にあたる武田主 馬信虎の家伝の書と、村上義清の子源五郎国清の書いたものを参考にして、よく調べて書き記したものである。
  慶長十年三月十三日
上杉内
 清野 助次郎
 井上 隼人正
『河中島五箇度合戦記』
 右の一冊は当家の者が書き残したものである。この度のおたずねについて、それを写して差し上げる。
  寛文九年五月七日
                                     うたのかみ
 右の書は、先年弘文院春斎に仰せつけられ、日本通鑑に選ばれた。酒井雅楽頭忠清に上杉家から差し上げられた一冊である。
 
 
http://spinsterial65.rssing.com/chan-57918467/all_p38.html
 

謙信の家老斎藤下野守朝信の家来で長谷川与五左衛門基 連と申す者


第五回合戦
 ○武田軍 ●上杉軍
 
 永禄二年 (一五五九) 四月、
●謙信は京都に上り、参内、公方義輝公に拝謁した。輝虎の名をいただき、網代の塗輿、御紋をゆるされ、文の裏書きまでゆるされて帰国された。管領職は辞退し、朱塗りの柄の傘、屋形の号もゆるされ、三管領に準ずるようになった。その後永禄五年には管領職についた。
●永禄三年九月から、謙信は関東に出陣、上州(群馬県)平井、厩橋(前橋)、名和、沼田などの諸城を攻め落し、その年は前橋で越年した。
●永禄四年春、謙信は小田原に向かう途中、正月、古河の城に足利義氏を攻めた。三月に小田原に向かう。この時初めて上杉氏を名乗ることになった。
●同八月、謙信は川中島へ向かい、西条山に陣を取り、下米宮街道と海津の城の通路を断ち、西条山の後から赤坂山の下に出る水の流れをせき止め、堀のようにし、西条山を攻めた。
○八月二十六日、信玄は川中島に着き、下米宮に陣を取り、西条山の下まで陣を取ったため、越後方は前後に敵を受けた。謙信は夜戦のつもりでいろいろ手段を尽くされた。
○二十九日、信玄は下米宮から海津城に入った。九月九日の夜、武田総軍をまとめて、ひそかに海津城を出て、千曲川を越えて、川中島に陣を備えた。
● 越後方の夜の見張りの者がこれを見つけて告げてきたため、謙信は、直江大和守実綱、宇佐美駿河守定行、斎藤下野守朝信と相談して、その夜の十二時、謙信も 人数をつれて、そっと川中島に出た。西条山の下には村上義清、高梨摂津守、そのほか、井上兵庫介清政、島津左京入道月下斎の五隊を残しておき、川中島に は、本庄越前守繁長、新発田尾張守長敦、色部修理亮長実、鮎川摂津守、下条薩摩守、大川駿河守のひきいる五千余を、千曲川の端に備えを立て、海津の城から 新手の武田勢が横槍を入れるのを防ぐためである。
● 謙信の備えは、左の先手は柿崎和泉守、右の先手は斎藤下野守朝長と長尾政景があたり、二の手は北条丹後守長国、右の備えは本庄越前守慶秀、左の脇備えは長 尾遠江守藤景、右の脇備えは山吉孫次郎親章を配置した。中心は謙信の旗本、後備えは中条梅披斎であった。遊軍には、宇佐美駿河守走行、唐崎孫次郎吉俊、鉄 孫太郎安清、大貫五郎兵衛時泰、柏崎弥七郎時貴の五組で、宇佐美の指揮の下に属した。直江大和守実綱が川を下ってひかえ、武田方から出た物見の者十七人を 待ち受けて一人残らずみな討ち取った。越後勢が川を渡って、
○ 川中島に出たのを武田方は知らず、そのあと出た物見も、越後勢が意外な場所に陣を備えたので見つけなかった。そして、信玄方はただ西条山の方ばかりに目を つけていたため、千曲川のそばに、本庄、新発田、色部などの二千がひかえているのを、夜中のことで人数を確かめることもできず、多勢と見て、これが謙信の 先手と思ったという。それも明け方になって見つけたので、初めのうちは越後勢が川を越えたのに気づかなかった。
●翌十日朝、まだ夜が明けぬうちに、謙信方から貝を吹き、太鼓を打って、武田の陣に攻めかけた。
○武田勢は思いがけない方向から攻められ驚いたようだった。
● 謙信の旗本が紺地に日の丸、それに「毘」の字を書いた大旗二本を立て、ちかぢかに押しかけたのを見て、備えを立て直す間もなく戦いかねるようだったが、武 道第一の武田侍であるから、弓を射、鉄砲を撃ちかけ、越後の先手柿崎和泉守の軍は、信玄の先手の飯富三郎兵衛に突きたてられ、千曲川の方に下ったのを見 て、色部修理長実は、かねて待ち受けていたところなので、旗から槍を入れ、飯富の備えを突き返した。斎藤下野守朝信は、武田方の内藤修理、今福浄閑の軍を 追いたてて進んだ。長尾政景、本庄美濃守慶秀、長尾遠江守藤景、山吉孫次郎、北条丹後守の五軍が先を争って、大声を上げて信玄方を切り散らした。
●謙信は八年前に信玄と太刀打ちをして討ちもらしたのが、口惜しく、この度は信玄をぜひ討ちたいと心がけ、旗本の人数で、信玄の旗本にかかり追い崩した。
○武田の十二段の備えがみな敗北し、千曲川の広瀬のあたりまで、追い討ちをかけ、戦死者、負傷者は数えきれない。
●信玄が犀川の方に退くのを、越後勢が追いかけた。
○その時、後から武田太郎義信が二千ばかりで謙信のあとを追ってきた。それで越後方の後備えの中条梅披斎の軍が引き返して、義信方に防戦した。
● しかし旗色が悪く見えたところに、遊軍の宇佐美駿河守が助けに来て、中条と一手になって、武田義信軍を追い返し、勝利を得て、数十人を討ち取った。あとで 戦が始まったのを謙信が聞いて、不安に思って引き返して義信を防ごうとしたが、義信は宇佐美を斬り尽くして退いたのを、直江大和守、甘糟近江守、安田治部 丞の三軍が義信の軍を倉晶まで追い討ちにした。
●謙信の総軍は、前後の敵を切り崩して、川中島の原の町に休み、腰の兵糧などを取ろうと油断した時、どこに隠れていたのか、義信が八百ばかりの兵と旗差物して、越後軍に急に攻め込み、謙信の日の丸の旗印のところに目がけて攻めかかって来た。
● 越後方は今朝早くからの合戦に疲れ、ことに油断していたところで、少し先手で防いだが、備えもうまくゆかず、多くは馬に乗り遅れ、敗軍となった。越後勢の 戦死多数で、志田源四郎義時もここで戦死した。謙信は家の重宝である五挺槍というものの中から、第三番目の鍔槍という槍で、自身で手を下して戦った。後に は波平行安の長刀でさんざん戦ったところに、海津口を守っていた六軍のうちの本庄越前守、大川駿河守が駆けつけ、義信を追い返した。この時、繁長自身は太 刀打ち、大川駿河は戦死した。長尾遠江守藤景と宇佐美駿河守は応援に入り、義信を突き崩した。これで戦はひとまずおさまった。
● 謙信は犀川を後ろにその夜は陣を取ったが、山吉孫次郎は、「今夜海津の城の敵が気がかりである。犀川を渡り、軍を取りまとめられては」と諌めたが、謙信は 従わなかった。十一日の朝、謙信は下米宮の渡し口に備えを立て、直江大和守実綱、甘糟近江守景持、宇佐美駿河守走行、堀尾隼人などと、西条山の陣小屋を焼 き払った。そのあと、
●謙信は善光寺に三日滞在して、長沼まで入り、ここに二、三日逗留して越後に帰陣した。
●はじめ、謙信が出張して、西条山に陣を取り、八月二十六日、信玄が下米宮の渡しに着いた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。
●先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。
○けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工夫し、いろいろと手段を尽くしたが、いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。
●永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守走行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。
○信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。
○ 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言 葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ 手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。
○ 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめしとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いと して謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十 三年から十二年の間、夜昼戦っても勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることをや めたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」と申し入れ た。
●直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。
●○ 永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。越後方の陣からは小男の鎧武者が一 騎、小さな馬に乗っていた。九月十日の川中島の大合戦のあるまでに、小競り合いは八度あったが、少しのことであるから書きつけなかった。
○● 先年から五度の合戦。天文二十二年十一月から永禄七年まで十二年で、毎年謙信は川中島に出て信玄と対陣したため、稲刈りなどの季節に、三百、五百と出会 い、討ったり討たれたりのことは数十度になった。けれども信玄は謙信の勇才をはばかり、謙信は信玄の智謀を恐れて、互いに思慮をめぐらし、はかりごとを工 夫し、いろいろと手段を尽くしたが、
いずれも負けず劣らずの名将であったために、決着はつかなかった。
●永禄七年七月に、信濃口の押さえとなる野尻城にいた宇佐美駿河守定行が自害し、長尾政景も死去したので、信濃境を取り締まるため、謙信自身で出かけ、川中島に至った。信玄も出馬して十日ばかり対陣したが、いつもの例で、日々小競り合いばかりで勝負はない。
○ 武田家の一門家老が信玄に意見を言った。「川中島上郡下郡の四郡を争って、十二年の間毎年合戦がやむことなく、両虎の勢いで勝負がつかず、士卒の疲れは言 葉では言い尽くせぬくらいです。海津城についている領分はこちらに、川中島の四郡は越後にやられてはどうでしょう。駿河表、関東方面、美濃口などに出られ 手広くなられたのですから、川中島の四郡にかかわって、剛強な謙信と取り合いをしていてむなしく年月を送られるのはいかがなものか」 と諌めた。
○ 八月十五日の朝、信玄が言うには、互いの運だめしとして、安馬彦六を選び、組討ちをさせ、その勝負を見て川中島をどちらかの土地にしようと、彦六を使いと して謙信に申し入れがあった。彦六は上杉の陣の一の木戸口に行き、謙信方からは直江山城が出向いた。彦六は馬から降りて、「信玄が申されるには、天文二十 三年から十二年の間、夜昼戦っても勝負がつかぬ。明日は互いに勇士を出し組討ちをし、その勝利次第で川中島を治め、このあと謙信も信玄も弓矢を取ることを やめたい。それで安馬彦六が明日の組討ちの役を申しつけられ、これまで参った。器量人を出され、明日組討ちをいたすようにと信玄の言葉である」 と申し入 れた。
 直江山城守の取り次ぎで謙信は返事をされて、「信玄の仰せはもっともである。こちらからも人を出し、明日十二時に組討ちをいたす」 とのことである。
○永禄七年八月十六日、正午、信玄方から彦六ただ一騎、鎧をさわやかにつけて白月毛の馬に乗って、謙信の陣に向かった。
● 越後方の陣からは小男の鎧武者が一騎、小さな馬に乗って出向き、馬上から大声で、「ここに出た者は、謙信の家老斎藤下野守朝信の家来で長谷川与五左衛門基 連と申す者、小兵ながら彦六と晴れの組討ちをご覧に入れる。いずれが勝つとも、加勢、助太刀は、永く弓矢の恥である」と言い、彦六と馬を乗りちがえ、むず と組み、両馬の間に落ち重なり、彦六が上になり長谷川を組み敷いた。
○甲州方が声を上げて喜ぶ時、組みほぐれて、長谷川は安馬を組みふせ上になり、彦六の首を取って立ち上がり高く差し上げて、「これをご覧下され。長谷川与五左衛門組討ちの勝利はこのとおり」と叫んだ。
●越後方は思わず長谷川うまくやったと一同感じどよめいた。
○ 甲州方は無念に思って、木戸を開けて千騎ばかりが討って出ようとしたのを、信玄は、「鬼神のような彦六が、あの小男にたやすく組み取られたことは味方の不 運である。かねて組討ちの勝利次第と約束した上は、川中島は越後に渡すことにする。約束を破ることは侍として永く不名誉なことである。四郡は謙信のものと 今日から定めよう」と言って翌日引き上げられた。
●これから四郡は越後の領となった。長谷川の手柄の印である。そして村上義清、高梨政頬は、川中島に戻り、その志を遂げた。これから、武田と上杉の争いはなくなった。
 
このことは、信玄の家来、須崎五平治、堀内権之進が書きとめておいた。この両人は、あとで浪人して越後に来て、上杉家に仕えている。それでよく調べて書いたものである。 
この一冊は須崎、堀内の書いておいたものと、信玄の子孫にあたる武田主馬信虎の家伝の書と、村上義清の子源五郎国清の書いたものを参考にして、よく調べて書き記したものである。
  慶長十年三月十三日
上杉内
 清野 助次郎
 井上 隼人正
『河中島五箇度合戦記』
 右の一冊は当家の者が書き残したものである。この度のおたずねについて、それを写して差し上げる。
  寛文九年五月七日
 右の書は、先年弘文院春斎に仰せつけられ、日本通鑑に選ばれた。酒井雅楽頭忠清に上杉家から差し上げられた一冊である。
 
 
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島津孫五郎


永禄11年(1568)
1・24
武田信玄、埴科郡本誓寺に寺領を安堵し、越後出陣のさい野伏二人を出させ、また禁制を掲げる。
2・
跡部勝忠、伊那郡虎岩郷平沢豊前守に、同郷の逃散百姓の田畑を渡し、その未進年貢を進納させる。
3・2
信玄、水内郡長沼城から越後進攻を計り、この日法善寺など甲斐諸寺に戦勝を祈らせる。
4・3
信玄、栗田鶴寿に甲府善光寺の条規を与える。
4・21
信玄、小県郡諏訪社に所領を寄進、越後境の築城の無事を祈らせる。このころ長沼城が築かれる。
63信玄、大井弾正忠に越後出陣を命じる。翌日諏訪上社神長守矢信真に戦勝を祈らせる。
7・10
信玄、上杉方の飯山城を攻める。ついで加賀・越中の一向宗徒と東西呼応し、越後侵入を計る。
7・13
信玄、木曾路諸宿に、相模海蔵寺の荷物運送のため伝馬七匹を出させる。
ついで甲府から諏訪郡蔦木・青柳・上原・下諏訪、筑摩郡塩尻・洗馬、木曾・賛川・奈良井・藪原・福島間の伝馬口銭を定める。
8・4
信玄、岩村田法華堂以下佐久・小県郡の修験二十二人に、戦勝祈藤を命じ普請役を免除する。
8・10
飯山在城衆、武田軍進攻を上杉輝虎に報じる。
輝虎、須田順渡斎らに各地の守備を堅めさせ、ついで村上国清らに飯山城・関山城などを防備させる。
9・16
信玄の臣上原筑前守の知行地佐久郡志賀郷などの検地帳が作成される。
名請人別に貫高を記すが、現実の耕作者は示さない。在村鍛冶がみられる。
9・20
信玄、村上旧領埴科郡坂木大宮に、坂木御料所内の地を寄進し、町屋敷の替地の給付を約する。
10・1
織田軍、三好氏の摂津芥川城を攻略、小笠原長時父子、同城を逃れ、ついで越後上杉輝虎を頼る。
10・2
信玄、島津孫五郎に、水内郡夏川・西尾張部などの本領を安堵し、長沼・蓮・村山・今富などを新恩に宛行う。
また西巌寺に長沼の地を安堵する。
10・3
信玄、高井郡勝楽寺など真宗寺院に、寺中の乱妨狼籍・陣取りを禁じる禁制を掲げる。
11・1
武田勝頼、紀伊高野山成慶院を高遠領住民の宿坊と定める。
11・10
信玄、善光寺大本願に、甲府善光寺の造立用材を甲斐八幡天神宮から採らせる。
12・12
佐久郡の人依田信守・信蕃父子ら、信玄軍の駿河攻めに属し、同国薩?峠で戦う。
このころ高遠城将秋山信友、下伊那衆らを率い遠江に侵入する。
家康、これに抗議する。
この年
武田氏、棟別銭などを整理し、棟別賦課の郷次・門次普請役を設定、軍役衆や伝馬役・細工役などを除く全戸に負担させる。   
  
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長谷川与五左衛門



先年より五箇度の大合戦、天文二十三年霜月より永禄七年迄十二年。 其中毎度に輝虎川中島へ出張、晴信と対陣に度々抹刈・刈田などの折節に、野際の物端にて、三百、四百、五百、七百出合いて討ちつ討たれつ勝負ある事数十度なり。
 されども信玄は輝虎の勇才を憚り、謙信は信玄の知謀を恐れ、互に大事と思慮を運らし、謀を工み種々挑まれけれども、何れも劣らぬ名大将故、行策に乗り申されず候。
永禄七年七月に、信濃口の押(おさえ)野尻城に置かれ候宇佐見駿河守定行生害し、長尾政景も果て申候故、信濃堺仕置として輝虎出張。直に川中島へ出られ候。
 晴信も出馬対陣なり。
 十日計り対陣なりと雖も例の事なれば日々迫合計りにて勝負なし。
武田家の一門家老共信玄へ意見申候は、川中島上郡下郡四郡を争ひ、十二年の間毎年の合戦止む事なく候。 両虎の勢にて遂に勝負無之、毎度士卒の疲労申尽し難く候間、具津城付の領分計り御治め、川中島四郡は輝虎へ遣され、扨駿河表、関東筋、美濃口へ御出張候て、御手の広くなり候様になさるべく候。 川中島四郡に御係はり、剛強なる輝虎と取合ひ空しく年月を送られ候事如何あるべしと諫め申候。
八月十日の朝晴信申され候は、互の運のためしなり。 安馬彦六を召出し、組討をさせ、互の勝負を見て、其勝利次第に川中島を何方へも納むべしとて、安馬彦六を使として此者を輝虎の陣所へ申遣さる。
彦六は上杉陣所一の木戸口に行く所に、輝虎陣より直江大和 守出向ひ、彦六は馬より下り、晴信申され候は、天文二三年より此方十二年の間、昼夜の戦有之と雖も、勝利の鋒同前にて今に勝負無之候間、明日は互に勇士を 出し、組打の勝利次第に川中島を納め取り、向後輝虎、晴信弓箭を止め申すべく候との段にて候。 夫により即ち安馬彦六と申す者、明日の組打の役に申付けられ、是迄参り候間、器量の人を出され、明日組打仕るべしと晴信申され候由申入候。
直江大和守取次にて、輝虎返事あり。 信玄の仰尤に候間、此方よりも出し申すべく候。 明日午の刻に組打仕るべしとの趣なり。
永禄七年八月十一日午の刻に、晴信方より安馬彦六唯一騎、物具爽に出立ちて、白月毛の馬に乗りて、謙信陣所指して乗向かふ。
 越後の陣所より小男鎧武者一騎、小たけなる馬に乗りて出迎ひ、則ち馬上にて大音揚げ、是へ罷出で候兵は、輝虎の家老斎藤下野守朝信が家来長谷川与五左衛門基連と申す者なり。
小兵なれども彦六と晴の組打御覧ぜよ。 何方に勝利候とも、加勢助太刀打ち候はば永く弓矢の疵にて候べしと呼びて、彦六と馬を乗り違え、むずと組み、両馬が間に落重り候に、彦六上になり、与五左 衛門を組敷き候時、甲州方は声を揚げ勇み悦ぶ所に、組みほぐれ、与五左衛門打勝ちて安馬を組臥せ、上に乗上り、彦六首を取りて立上り、高く差上げ、是れ御 覧候へ、長谷川与五左衛門組打の勝利此の如くと呼ばはり候。
 越後方には、覚えずして、長谷川仕候と一同に感じよどみ申候。
甲州方は無念に思ひ、千騎計り木戸を開き切って出でんと犇き候を、晴信見られ、鬼神の如くなる彦六が、あれ程の小男に容易く組取られ候仕合は、味方の不運なり。
 兼ねてより組討ちの勝利次第と約束の上は、川中島相渡し候。 違変は侍の永き名折れなり。 川中島四郡は輝虎次第と今日より致すべく候とて、翌日信玄人数を打入れられ候。
是により中郡、下郡越後の領となり候事、長谷川手柄の印なり。 即ち村上義清、高梨政頼、川中島へ移住、本意にて候。 是より武田、上杉の弓箭取合止み申候。
小山義雄「月生城史談」より

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2016年5月5日木曜日

信濃国人衆(長沼氏、赤沼氏)

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嶋津家臣団


三州守護 島津(総州家、奥州家、相州家、薩州家、豊州家)氏
相州家庶流 加治木島津氏、佐志島津氏、日置島津氏、永吉島津氏、佐土原島津氏、垂水島津氏、新城(末川)島津氏、宮之城島津氏、喜多村島津氏、
奥州家庶流 喜入氏、桂氏、迫水氏、大島氏、竹崎氏、義岡氏(伯州家)志和池氏、亀山氏、藤野氏、
総州家庶流 相馬氏姶良氏(碇山家)
薩州家庶流 吉利氏、大野氏、寺山氏、大田氏、三栗(三葉)氏、西川氏、
惟宗姓伊作氏族 伊作氏(島津伊作家)、若松氏、西氏、石見氏、恒吉氏、
惟宗姓伊集院氏族 伊集院氏、丸田氏、松下氏、南郷氏、入佐氏、大田氏、日置氏、今給黎(知覧)氏、麦生田氏、大重氏、黒葛原氏、土橋氏、東氏、吉俊氏、飛松(富松)氏、四本氏、伊鹿倉氏、門貫氏、古垣氏、春成氏、福山氏、有田屋氏、
惟宗姓新納氏族 新納氏、西谷氏、大崎氏、邦永氏、
惟宗姓北郷氏族 北郷氏(島津都城家)、神田(上田)氏、
惟宗姓樺山氏族 樺山氏、土持氏、外城氏、池尻氏、
惟宗姓町田氏族 町田(石谷)氏、阿多氏、梅本氏、飯牟礼氏、
惟宗姓川上氏族 川上氏、辺川氏、小原氏、山口氏、
惟宗姓佐多氏族 佐多氏(島津知覧家)、伊佐敷氏、池上氏、
島津一族 和泉(出水)氏、石坂氏、山田氏、阿蘇谷氏、宇宿氏信濃国人衆、宮里氏信濃国人衆
梶原氏族 酒匂氏、梶原氏、左近氏、
平姓畠山氏族 伊地知氏、蓑輪氏、田島氏、真玉氏、讃良氏、松方氏、畠山氏、田之上氏、中馬氏、
島津家臣 本田氏、鎌田氏、山田氏、村田氏、三原氏、難波氏、上井氏、八木氏、上原(伊作田)氏、園田氏、猿渡氏、堀氏、大寺氏、石井氏、中条氏、奈良原氏、古川氏、伊勢(有川)氏、井尻氏、色紙(前田)氏、服部氏、河野氏、境田氏、稲留氏〈肥後国人衆収録〉、
三十三家 岡崎氏、二宮氏、名越氏、田代氏、鹿島氏、赤塚氏、

在国司 大前氏、東郷氏、斧淵氏、富光氏、滝聞氏、
紀姓伊集院氏族 伊集院氏、桑羽田氏、宮里氏
惟宗氏族 執印氏、国分氏、五代氏、河上氏、平野氏、羽島氏、向井氏、五大院(後醍院)氏、
大蔵氏族 加治木氏、郡山氏、比志島氏、小山田氏、川田氏、辺牟木氏、前田氏、西俣氏、市来氏、河俣氏、
有馬氏族 長谷場氏、矢上氏、有間氏、益山氏、
莫禰氏族 莫禰(阿久根)氏、岩元(岩本)氏、遠矢(遠屋)氏、
平姓伊作氏族 頴娃氏、薩摩氏、吉富氏、岩元氏、上野氏、是枝氏、指宿氏、知覧氏、川辺(河辺)氏、谷山氏、別府氏、加世田氏、阿多氏、石塚氏、得丸氏、平田氏、帖佐氏、寺師氏、牧氏、
牛屎氏族 牛屎氏、淵辺氏、鳥越氏、

伴氏族 肝付氏、三俣氏、橋口氏、梅北氏、北原氏、安楽氏、岸良氏、検見崎氏、救仁郷氏、津曲氏、武光氏、薬丸氏、鹿屋氏、白坂氏、江田氏、広田氏、
檜前氏族 檜前氏、篠原(薗田)氏、岩崎氏、萩崎氏、税所氏、

日下部氏族 日下部氏、真幸氏、平島氏、井上氏、土持氏、海江田氏、蒲生氏、吉田氏、美代氏、
大神氏族 三田井氏、
大隅国人 敷根氏(島津市成家)、西郷氏、
平山氏族 平山氏、甑氏、松元(松本)氏、

渋谷氏族 入來院氏、渋谷氏、東郷(車内)氏、祁答院(柏原)氏、下村氏、岡元氏、村尾氏、山崎氏、寺尾氏、山口氏、高城氏、炭浦氏、下津留氏、白浜氏、湯田氏、宇多氏、大村氏、藺牟田氏、家村氏、草留氏、瀬戸口氏、手島氏、

鎌倉御家人 伊東(工藤)氏、二階堂氏、鮫島氏、菱刈氏、小川氏、野辺氏、
建部氏族 禰寝氏、武氏、池端氏、宮原氏、松沢氏、池袋氏、弟子丸氏、
名越北条家臣 種子島氏、肥後氏、西村氏、美座氏、中田氏、河内氏、財部氏、岩河氏、河東氏、下村氏、国上氏、北条氏、最上氏、古市氏、平山氏、前田氏、遠藤氏、野間氏、上妻氏、鮫島氏、日高氏、長野氏、榎本氏、渡辺氏、羽生氏、牧氏、
富山氏族 富山氏、岩切氏、志々目氏、浜田氏、
赤橋北条家臣 楡井氏、
伊東家臣 木脇氏、深歳氏、清武氏、前田氏、佐土原氏、田島氏、長倉氏、西牟田氏、飯田氏、右松氏、荒武氏、野村氏、落合氏、稲津氏、川崎氏、湯地氏、米良氏、高橋氏、福永氏、大脇氏、



持明院統(近衛氏)
赤松家(島津氏)
信濃国人衆(長沼氏、赤沼氏)
足利家(三方氏)
北条家(島津氏)
得宗家(工藤氏)
少弐家(有馬氏)



摂関家荘園群「殿下渡領」の内で最大の荘園は、日向国南部・薩摩・大隅両国にかけて広がる嶋津荘でした。
嶋津荘の荘官である惟宗氏が武士化したのが島津氏です。
島津忠久は源頼朝に信頼され、薩摩・大隅・日向三国の惣追捕使(守護)となり、大名化していきます。

しかしこれらの国々には古代豪族が多く存在していました。
薩摩国では在庁官人のトップである「在国司」源姓大前氏族があります。

そして注目すべきは平姓武士団です。
特に嶋津荘を開発した平季基らの系統で薩摩平氏と呼ばれる莫禰一族、川辺一族、帖佐一族らはかなりの勢力がありました。
薩摩(吉富)氏や指宿、知覧、谷山氏らは南北朝時代に島津氏と覇権争いをします。

長谷場一族は肥前有馬氏と同族で、平直澄の子孫とされ、藤原純友の子孫を称してもいます。

川辺一族のなかでも頴娃氏は重要です。
薩摩氏、指宿氏、知覧氏、など頴娃忠永(忠長)から分かれた家が多いのにも関わらず、
頴娃氏自体は他氏からの養子が入っているのでややこしくなっています。
まずは鎌倉時代に長谷場一族の益山氏から忠純が入り、
南北朝時代には島津久豊が一時養子となり、その後、伴姓肝付氏から兼政が入り、
さらに島津勝久(後に島津奥州家相続)や久秀(島津義虎の子)、久政(鎌田政近の子)が入嗣しています。
養子関係が多いのは頴娃氏の重要性の高さを表していると言えるでしょう。

ついでに東国御家人として鎌倉時代に来住した渋谷一族や
島津氏の家臣である酒匂、本田、伊地知、山田氏も平姓です。

他には島津氏と同族である惟宗一族や九州に多く存在する大蔵一族やそして紀姓伊集院氏も有力な存在です。

島津氏は伊作や伊集院に一族を送り込み、勢力を増大させます。

東国御家人では鮫島、二階堂ら工藤氏族が目立ちます。

大隅国では肝付氏ら伴氏族や、禰寝氏ら建部氏族が有力ですが、
鎌倉時代の名越北条家の家臣であった肥後氏の一族とされる種子島氏も注目です。
禰寝氏も肥後氏も鎌倉北条氏との関係がポイントです。

日向国は日下部氏及びその地盤を受け継いだ土持氏や、古代豪族の三田井氏がいましたが、
南北朝時代には島津一族の新納氏、北郷氏、樺山氏、石坂氏や足利一族の畠山直顕の進出が見られます。
ここでも東国御家人の工藤氏から派生した伊東氏や横山氏族の野辺氏が発展します。

やはり鎌倉時代に北条氏と関係の深かった工藤(伊東)氏や肥後(種子島)氏は重要ですね。



島津総領家は総州家、奥州家、相州家、薩州家、豊州家と呼ばれる五つに分かれています。

総州家は薩摩守護・師久に始まる家で本来はこの家が嫡流なのでしょう。
総州家は川辺氏の地盤を受け継ぎますが、弟・氏久に始まる奥州家に押されて衰退します。
総州家からは相馬氏、碇山氏、姶良氏が分かれます。

奥州家は大隅守護・氏久に始まり、次の元久の代に三州守護となります。
元久の跡は、当初は総州家の久照(北殿)が養子となり、
元久死後は伊集院頼久の子・熈久と頴娃氏の養子となっていた氏久の子・久豊(南殿)との争いの結果、久豊が継ぎます。
室町時代の惣領は奥州家です。
奥州家からは喜入氏、桂氏、迫水氏、大島氏、義岡氏、亀山氏、藤野氏が分かれます。

相州家は奥州家・忠国(久豊の子)の庶長子・友久から始まる家ですが、
伊作氏から忠良が入ってきたことにより勢力を拡大させます。
次の貴久が奥州家・勝久の養子となり、三州守護となり
義久の代に九州制圧直前まで行きますが、豊臣政権に服属し、薩摩・大隅両国及び日向諸県郡を安堵され、
江戸時代の忠恒(後に叔父と同じ家久と改名)の代に琉球を加え、薩摩藩主として続きます。
忠良の子・忠将(相州家相続)から佐土原家、垂水家、新城家(のち末川家)が派生、
同じく忠良の子・尚久からは宮之城家、喜多村家が派生し、佐志家(久近)へ養子に入ります。
貴久の子から日置家(歳久)、永吉家(家久)、義弘の子から佐志家(忠清)が創設されます。
島津忠恒の子からは
島津義弘と古代豪族の加治木氏の地盤を受け継いで加治木家(忠朗)を創設されたり、
島津一族の豊州家(忠広)、日置家(忠心)、永吉家(久惟)、垂水家(忠紀)、
伊集院氏(久朝)、北郷氏(久直)、樺山氏(久尚)、町田氏(忠尚)、桂氏(忠隆)、今給黎氏(久国)や、
家臣の鎌田氏(正勝)、伊勢氏(貞昭)、禰寝氏(重永)へ養子に入ります。
島津光久の子からは島津一族の佐志家(久岑)、末川家(久侶)、北郷氏(久定・忠長)、喜入氏(忠長・久亮)、佐多氏(久達)や、
鎌田氏(正長)へ養子に入りました。

薩州家は久豊の子・用久から始まった家で薩摩守護代を務め、相州家と覇権を争います。
島津義虎の子は島津日置家や頴娃氏、入來院氏へ養子に入ります。
薩州家からは吉利氏、大野氏、寺山氏、大田氏、三栗氏、西川氏が分かれます。

豊州家は久豊の子・季久から始まった家で、後に北郷氏から忠親、島津忠恒の子・忠広が養子に入ります。
季久の子は加治木氏(満久)、平山氏(忠康)へ養子に入ります。

伊作氏(又は「伊作家」)は島津久経の子・久長に始まり、前述の通り相州家と深い関係にあります。
伊集院氏は古来より院司を務める有力紀姓の豪族でしたが、島津忠経の孫・久兼が受け継ぎます。
最終的には島津忠恒の子・久朝が伊集院本家を継ぎます。

新納氏は島津忠宗の子・時久から分かれた家で、後に宮之城家の久元、薩州家の忠影が養子に入ります。
北郷氏も島津忠宗の子・資忠から分かれた家で、後に豊州家の時久、島津忠恒の子・久直、光久の子・久定及び忠長が養子に入り「都城家」となります。
樺山氏も島津忠宗の子・資久から分かれた家で、後に島津忠恒の子・久尚や、東郷氏(永吉家出身)から久広が養子に入ります。
町田氏は島津忠経の子・石谷忠光から始まり、後に島津忠恒の子・忠尚が養子に入ります。
川上氏は島津貞久の庶長子・頼久から分かれ、本家は他から養子を入れず、存続します。
佐多氏は知覧氏の地盤を受け継ぎ、後に島津光久の子・久達が養子に入り「知覧家」となります。

入來院氏は相州(佐土原)家(重時)、薩州家(重高)から養子が入ります。
東郷氏は永吉家(重虎)から養子が入ります。
敷根氏は宮之城家(立頼)から養子が入り「市成家」となります。
肝付兼屋は島津忠恒の婿ということで准一族扱いです。
種子島氏の当主は島津本家の婿になることが多いので重視されていたのでしょう。



島津家臣中枢
島津貞久時代 新納時久・川上頼久・酒匂久景・土持栄定・土持栄幽
島津氏久時代 本田氏親・本田親治・土持栄勝
島津元久時代 本田忠親・平田親宗・上井元秋
島津久豊時代 本田重恒・平田重宗・伊地知季豊・柏原好資・大寺元幸
島津忠国時代 島津用久・新納忠臣・北郷知久・樺山孝久・町田胤久・町田一久・山田忠尚・末吉忠勝・本田国親・本田重恒・本田宗親・平田氏宗・平田兼宗・村田経房・村田経茂・伊地知季豊・柏原永好・大寺忠幸・石井義忠・加治木親平・長野助家・高木経家・廻元政・税所称阿・和田政直・財部固成
島津忠昌時代 新納忠続・本田兼親・平田兼宗・村田経安・伊地知重貞
島津忠治時代 本田兼親・伊地知重貞・桑波田景元・鳥取政茂
島津忠隆時代 本田兼親・伊地知重周・桑波田景元・鳥取政茂
島津勝久時代 本田兼親・本田親尚・伊地知重周・桑波田景元・肝付兼演・土持政綱・梶原景豊・池袋宗政
島津貴久時代 伊集院忠朗・伊集院忠倉・伊集院忠棟・新納康久・川上忠克・川上久朗・喜入季久・本田薫親・本田盛親・本田親信・村田経定・村田秀久・三原重秋・鎌田政年・肝付兼盛・平田昌宗・平田宗茂・伊地知重興?
島津義久時代 島津征久・島津義弘・島津家久・島津忠長・伊集院忠棟・新納忠元・町田久倍・川上忠克・喜入季久・今給黎久治・本田親貞・村田経定・平田昌宗・平田光宗・上井為兼・河野清通・上原尚近・市来家諸




応永二十九年奉加帳
島津久豊・忠国
新納忠臣
樺山教宗?
伊作勝久?
北郷知久
山田忠豊
伊集院頼久
佐多久清・浄了
平山武久
本田重恒
大寺元幸
平田重宗
柏原好資
伊地知久安


島津家地頭
島津義弘 帖佐
島津歳久 宮之城
島津尚久 秋目・加世田
島津忠長 久志・串良
島津忠廉 帖佐・串良
島津孝久? 伊集院

伊集院忠朗 鹿児島・姫木
伊集院忠棟 北村・高山・南郷
伊集院忠俊 水引
伊集院久宣 清武
今給黎久通 市成・踊・牛根
今給黎久治 串間・桜島・市来・出水・高山
今給黎久信 横川
南郷忠鏡 加久藤
南郷久元? 阿多
南郷忠行 吉松
日置忠饒 串間
古垣忠晴 水俣
春成久正 加世田

新納武久 富田
新納忠元 大口・牛山・御船
新納忠光 伊作
新納康久 大崎・加世田
新納久饒 隈城
新納久時 綾
新納長住 市来
新納孝久 隈城
新納久厚 蘭牟田
新納忠宗 恒吉
新納忠豊 市成
新納忠誠 曾木

北郷久村 財部
北郷久堯? 山田
北郷久薫 梶山
北郷久慶 志和地
北郷喜左衛門 都城
北郷又次郎 高城
北郷久左衛門 末吉
北郷大炊 勝岡
北郷久蔵 野々美谷
北郷雅楽 安永
神田久友 山之口
神田久猶 山之口

樺山長久 山之口
樺山忠助 穆佐
樺山久高 百引・出水・伊作・志布志

町田久倍 伊集院
町田忠倍 伊集院
町田久幸 高山
町田忠堯 新城

川上兼久 伊集院
川上久隅 蘭牟田
川上久貞 中郷
川上久運 頴娃・高山・飯野・高城
川上久尚 百引・吉田
川上栄久 川辺
川上忠克 谷山
川上久辰 谷山
川上忠智 栗野・飯野・加久藤・蒲生・馬越
川上忠堅 蒲生・馬越
川上翌久 本庄
川上倍久 永吉・蘭牟田
川上源五郎 向島
川上大炊 小林

佐多久政 佐多
佐多忠増 百次

喜入頼久 指宿
喜入忠誉 喜入
喜入忠俊 喜入
喜入季久 喜入
喜入久通 喜入
桂忠昉 平佐
義岡忠縄 梅北
吉利忠澄 吉利・塩水・三城
吉利忠金 倉岡
吉利忠知 穆佐
大野忠綱 加世田
大野忠悟 山田
大野忠宗 加世田・山田
阿多忠秋 阿多
阿多忠辰 川辺
寺山久兼 市成
大田昌久 帖佐
島津忠弘 阿多

本田親貞 吉田・加世田
本田親治 加世田
本田薫親 永吉・山田・向島
本田公親 曽於
本田道親 田布施
本田宗親 加世田
本田親光 加世田
本田親利 鹿籠・坊泊
本田為親 曽於
本田正親 加世田
本田親正 甑島

伊地知重貞 加治木
伊地知重辰 加治木
伊地知重兼 加治木
伊地知重豊 川内山田
伊地知重頼 田布施
伊地知重康 平和泉
伊地知重茲 指宿
伊地知重政 門川
田島重秀 姶良

鎌田政年 帖佐・牛根・志布志
鎌田政心 百次・財部
鎌田政近 都於・指宿
鎌田政郷 田布施
鎌田正勝 高橋・蒲生・高岡
鎌田正長 平松・帖佐
鎌田政在 桜島
鎌田政貞 鶴田
鎌田長門 垂水

村田経定 蒲生・郡山・吉田
村田経威 市来・郡山
村田経安 郡山
村田経清 郡山
村田亀丸 曽於

山田有信 高江・高城・日置・串木野・隈城・福山

三原重益 加世田
三原重秋 帖佐・重富・曽於
三原重行 伊作
三原重香 伊作
三原重治 伊作
三原重隆 郡山

比志島義基 栗野・曽井
比志島義住 郡山
比志島国守 岩川
比志島国親 岩川
比志島国真 市来・隈城・北村
比志島国貞 市来・高岡
比志島義知 曽井
川田義朗 川田・垂水

鮫島宗豊 田布施・高橋
鮫島宗増 大野
鮫島土佐 大野

伊勢貞真 飯野
伊勢貞清 高岡
有川貞易 高橋
井尻祐貞 肱屋

上井薫兼 永吉
上井為兼 永吉・宮崎
上井秀秋 馬関田・小林・綾

上原尚氏 曽於
上原尚近 高原・飫肥
上原尚演 吉松・横川
上原尚政 横川

八木正信 吉田
柏原有国 松山
猿渡信光 加世田・羽月
宮原景時 串木野
宮原景種 須木・佐敷
敷根頼賀 市成
敷根頼豊 野尻

高崎能名 伊作
高崎能宗 伊作
高崎能広 伊作

市来家親 松山
市来家廉 加世田・川辺
市来家守 野尻
五代友慶 馬関田
大寺頼安 山田
大寺安辰? 加世田・阿多
大寺大炊 田野

莫禰良正 阿久根
莫禰良有 阿久根
遠矢良時 長野

平田昌宗 帖佐・伊集院
平田光宗 帖佐・八代・郡山・西別府
平田歳宗 帖佐
平田増宗 郡山・吉田
平田宗茂 川辺・加世田
平田宗貞 加世田
平田宗仍 末吉
平田宗応 木脇
平田宗弘 本城
平田宗吉 山田
平田宗張 山田・川辺・穂北
平田宗祇 指宿

頴娃兼洪 指宿
頴娃兼賢 小林
頴娃久政 日当山・高山・伊集院
頴娃久友 山田
頴娃久甫 小根占・伊集院
知覧久純 梅北
知覧忠喜 梅北

入来院重孝 百次
入来院重清 帖佐・重富
東郷重位 坊泊
村尾重候 山田・次木
白浜重政 大村

肝付兼盛 溝辺
肝付兼寛 加治木
肝付兼吉 恒吉
肝付兼清 姶良
肝付兼広 梅北
肝付備前 踊・日当山
肝付新左衛門 大姶良
肝付淡路 加例川
梅北国兼 湯尾
津曲俊宗 指宿
津曲兼任 指宿・頴娃・今和泉
津曲兼音 指宿
津曲兼延 指宿
津曲兼敏 指宿
検見崎兼泰 串良
岸良兼慶 市成
岸良兼直 大姶良
安楽兼近 市成
薬丸兼将 高山
白坂兼頼 加久藤・吉田
中村対馬 百引
中村吉親 百引
河越重高 百引
河越重尚 高隈
隈本宗清 踊

伊東祐審 馬越
木脇祐昌 木脇・花山・水引・頴娃・栗野
木脇祐章 川内・山田・吉松
木脇祐玄 串木野
落合兼有 山之口
落合兵部 穆佐
落合上総 守永
長倉伴九郎 清武
上別府宮内 清武
上別府常陸 飫肥
野村秀綱 平佐
野村松綱 内山
野村文綱 内山
野村重綱 白砂崎
野村清綱 高江
野村是綱 山崎
福永宮内 飫肥・飯田
福永丹後 浦之名
米良重方 三山野久尾
米良右馬 紙屋
米良休介 坪屋・津保屋
稲津民部 梶山

土持盈信 栗野・大崎・高江・曽於
土持頼綱 末吉
土持孝綱 大岩田口
土持次昌 末吉

税所篤職 牛山・山野
税所篤和 山野
税所新介 曽於

小杉頼栄 恒吉
財部盛住 曽於・踊
鳥丸重利 中郷
小島辰綱 曽於
平兼安 加世田・川辺
平宗綱 加世田
奈良原資 加世田
奈良原敦 逆谷
菱刈重広 本城
藤原忠易 野田・高野
藤原忠綱 末吉
藤原秀家 久志
藤原兼頼 吉田
藤原良房 鹿屋
稲留長辰 八代・紙屋
稲留長秀 加世田
平川景信 加世田
禰寝重張 根占
吉田朝清 帖佐山田
吉田清孝 阿多
曾木越中 吉松
東条民部 高山
山口貞行 松山
和田越中 勝岡・野々美谷
二階堂安房 湯之浦



江戸時代
鹿児島・島津氏770000石
都城・北郷氏39000石
佐土原・島津氏30000石
垂水・島津氏18000石
加治木・島津氏17000石
宮之城・島津氏15000石



島津氏一家
島津忠久(豊後前司)

(豊後守)忠久子
島津忠時(豊後修理亮)
島田忠綱(豊後四郎左衛門尉)
島津忠直(豊後六郎左衛門尉)

(大隅守)忠時子
島津久経(大隅修理亮)
山田忠継(大隅式部少輔)
中沼長久(大隅大炊助)
島津忠康(大隅式部丞)
島津忠佐(大隅左衛門尉)
阿蘇谷久時(大隅四郎)
島津忠経(大隅五郎)
島津久氏(大隅七郎)

(下野守)久経子
島津忠宗(下野三郎左衛門尉)
伊作久長(彦三郎)
島津忠長(下野彦三郎左衛門尉)

(常陸介)忠経子
給黎宗長(進士三郎左衛門尉)

(周防守)忠綱子
島津忠行(周防三郎左衛門尉)
島津忠泰(周防四郎左衛門尉)
島津忠景(周防五郎左衛門尉)








島津四兄弟
島津義久(材徳)
島津義弘(雄略)
島津歳久(知謀)
島津家久(兵術)

看経所四人
新納忠元
肝付兼盛
鎌田政年
川上久朗



島津四朗(僕が勝手に考えました)
島津家にいる4人の「朗」
島津忠良の最大の功臣というべき伊集院忠朗
軍師役の岩切信朗
伊集院忠朗と岩切信朗の二人から兵法を伝授された、これまた軍師役の川田義朗
そして薩摩国守護代と嘱望された川上久朗。
ちなみに鎌田政近も法名が源朗です。

軍師役
岩切信朗
川田義朗
新納久饒