2014年12月24日水曜日


詳解 会津若松城下絵図12,343円
(本体価格 11,429円)

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監修 野口 信一
ISBN978-4-89757-776-0
菊変形判・オールカラー・314頁

目次

はじめに
凡例
概説会津若松城下の歴史
会津若松城下の概要
会津若松城下絵図について
   *は「県博絵図」に文字記入のない項目
絵図A 1~12
 3-1 下居合村
  2 秀安寺(下居合村)
  3 稲荷神社(下居合村)*
  4 二本松下街道*
4-1 上居合村
5-1 下柳原村
6-1 渠川(滝沢川)*
  2 北柳原村
7-1 天子神社(天子社)(上荒久田村)
  2 米沢上街道*
8-1 西光寺(上荒久田村)*
  2 上荒久田村
  3 石堂分(西黒川分)
  4 鬼渡林(石堂分)*
12-1 柳橋(涙橋)(小黒川分)*
  2 柳橋本(小黒川分)
絵図A 13~16
15-1 郷原山(坊主山)*
2 郷原村
  3 滝沢川(不動川)*
16-1 日橋堰*
  2 大塚山*
  3 熊野宮(滝沢村)*
  4 橋(藤原村)*
  5 藤原村
絵図A 17~20
17-1 柳原新田
  2 上河原分(東黒川分)
18-1 蚕養分(蚕養宮村)
  2 瀬戸場(蚕養窯)
  3 龍眼寺(滝沢町)
  4 八十人町長丁(滝沢町長丁)
  5 妙法寺前通
  6 定善寺(千軒道)
  7 浄国寺(千軒道)
  8 千軒道*
19-1 新田丁(新丁)
  2 才槌町(木椎町)
  3 松円寺(松円寺前通)
  4 角場(新田丁)*
  5 裏町*
20-1 紫雲寺前通*
  2 紫雲寺(紫雲寺前通)
  3 福証寺(紫雲寺前通)
  4 本光寺(木戸千軒道)
  5 東明寺(大町名子屋町)
  6 本行寺(木戸千軒道)
  7 糠塚表丁(通丁)
  8 安光賀稲荷神社(松円寺前通)*
  9 松円寺前通*
  10 実成寺(大町名子屋町)
  11 糠塚裏丁(裏町)
  12 角場(外裏丁)*
  13 外裏丁(西裏丁)*
絵図A 21~24
22-1 米沢中街道*
  2 七日町四ッ谷
  3 七日町木戸(七日町)*
  4 阿弥陀寺(七日町)
23-1 米沢下街道*
  2 一里壇(米沢下街道)
  3 小屋(二つ釜)
  4 伝説・釜で煮られた平太*
  5 一里壇(越後街道)
  6 越後街道*
  7 西福寺
24-1 祝町(小黒川分)
絵図B 25~28
25-1 磐梯山*
  2 北滝沢村
  3 諏訪神社(北滝沢村)*
26-1 石ヶ盛金山(石ヶ盛村)*
  2 小山*
  3 戸ノ口堰*
  4 中島
27-1 甑沢堤(北滝沢村)*
  2 一箕山
  3 一箕山八幡宮(滝沢村)
28-1 御墓料(御墓料新田村)
  2 妙国寺(滝沢村)
  3 日什墓(滝沢村)
  4 (一箕山八幡宮)鳥居(滝沢村)*
  5 南岳院(滝沢村)
  6 橋(滝沢村)*
  7 白河街道*
  8 二本松上街道*
  9 滝沢町
絵図B 29~32
29-1 蚕養国神社(蚕養宮村)
  2 絲かけ橋(蚕養口)*
  3 四軒丁
  4 蚕養口
  5 法華寺(御持筒町)
  6 伝説・兼定の真綿切り、長道の鉄切り
  7 (御)持筒町(西)(表丁)
  8 馬洗川(博労町)*
  9 八十人町一番丁~四番丁
  10 中町(八十人町丁)
  11 蓮華寺(千軒道)
  12 妙法寺(妙法寺前通)
  13 久福寺(妙法寺前通)
  14 清林寺(紫雲寺前通)
30-1 (中村)地蔵堂(中村)
  2 中村(八角分)
  3 (御)持筒町(東)
  4 同心町
  5 宝昌寺(宝昌寺)(御持筒町)
  6 袋畑
  7 中六日町末
  8 大須賀栄四郎(中六日町)*
  9 糀・宮原八右衛門(中六日町)*
  10 検断・鈴木幸蔵(中六日町)*
  11 山口儀兵衛(博労町)*
  12 智光寺(妙法寺前通)
  13 自在院(博労町)
  14 上五ノ町
  15 実相寺(中五ノ町)
  16 中五ノ町
  17 馬場四之町(中四之町)
  18 荒神(社)(馬場三之町)
  19 馬場名子屋町
  20 馬場四之竪*
  21 地蔵堂(馬場四之町)
  22 馬場三之竪*
31-1 満幅寺(木戸千軒道)
  2 東雲寺(木戸千軒道)
  3 木戸千軒道
  4 高巌寺(五之町)
  5 大町名子屋町
  6 誓願寺(大町名子屋町)
  7 持宝院(大町名子屋町)
  8 一桂院(大町名子屋町)
  9 質・佐治久太郎(大町四之竪)*
  10 融通寺(大町名子屋町)
  11 威徳院(後之分町)
  12 円福寺(後之分町)
  13 弥勒寺(大町名子屋町)
  14 観音寺(道場小路町)
  15 道場小路町
  16 大安寺(下大和町)
  17 稽古堂跡(後之分町末)*
  18 泉明院(後之分町)
  19 荒神社(三宝胞衣荒神社)(後之分町)
  20 原之町
  21 下大和町
32-1 観音堂(馬場名子屋町)
  2 五之町(下五之町)
  3 大町四之町(下四之町)
  4 稲荷神社(馬場四之町)
  5 大町三之町(下三之町)
  6 大町四之竪*
  7 酒座・金川伝次郎(大町三之竪)*
  8 大町三之竪*
  9 大町二之竪*
  10 水屋敷(大町三之町)
  11 大町二之町(下二之町・馬場下二之町)
  12 塩屋二瓶利兵衛(大町竪町)*
  13 大町竪町*
  14 紺屋町
  15 (紺屋町)盆踊り*
  16 七日町
  17 白木屋高瀬喜左衛門(七日町)*
  18 清水屋藤田平助(七日町)*
  19 後之分町(後分町)
  20 下野街道*
  21 満田屋善蔵(桂林寺町)*
  22 北小路町
  23 御本陣、伝馬問屋、検断、菊池伝十郎(七日町)
  24 中大和町
  25 酒造・新城猪之吉(上大和町)*
  26 上大和町
絵図B 33~36
33-1 光明寺(下大和町)
  2 金剛寺(下大和町)
  3 常光寺(七日町)
  4 歌舞伎人形座(七日町)*
  5 吉祥院(七日町)
  6 商人定宿・真船三郎(七日町)*
  7 暦・菊池庄左衛門(七日町)*
  8 北小路町四ッ谷
  9 長福寺(北小路町)
34-1 塩蔵(北小路町)
  2 針屋町
  3 法光院(善久町)
  4 中町(当麻中町)*
  5 針屋名子屋町
  6 善久町
  7 当麻中町
  8 見性寺(針屋町)
  9 西蓮寺(針屋町)
  10 秀翁寺(西名子屋町)
  11 興性寺(西名子屋町)
  12 正蓮寺(当麻中町)
  13 家風(町)
  14 長命寺(西名子屋町)
  15 但心寺(西名子屋町)
  16 大運寺(家風町)
  17 宝泉寺(手明町)
  18 常念寺(手明町)
36-1 長源寺(半兵衛町横通)
  2 柳原町四番丁
  3 柳原町
  4 長尾家(柳原町)*
  5 銀山街道*
絵図B 37~40
37-1 石部桜(滝沢村)
  2 三島神社(滝沢村)
  3 御米蔵(滝沢村)
38-1 滝沢山(松茸山)*
  2 一里壇(滝沢村)*
  3 滝沢本陣・横山家(滝沢村)
  4 滝沢村
  5 大橋(滝沢村)*
  6 正宗寺(滝沢村)
  7 宗像神社(弁財天)(滝沢村)
  8 さざえ堂(円通三匝堂)(滝沢村)
  9 宇賀神社(滝沢村)
  10 成就院(滝沢村)
  11 伝説・太夫桜(滝沢村)
39-1 牛ヶ墓村
  2 (一箕山八幡宮)鳥居(滝沢町)*
  3 人参役場(東名子屋町)
  4 御米蔵(東名子屋町)
5 御代官所(東黒川代官所)(東名子屋町)
40-1 牛ノ墓(牛ヶ墓村)
  2 新花畑(北花畑)
  3 妙音寺(東名子屋町)
  4 本覚寺(寺町)
  5 真龍寺(寺町)
  6 寺町
絵図B 41~44
41-1 馬場(東名子屋町)
  2 堀江丁
  3 赤沼稲荷(稲荷社)(行人町)
  4 五軒町(中六日町横丁)
  5 満福寺(万福寺)(五軒町)
  6 円満寺(上野伏町)
  7 (上)野伏町
  8 中六日町(東六日町)
  9 火の見梯子(博労町)*
  10 博労町
  11 御本陣・伝馬問屋渋井庄兵衛(博労町)
  12 仙台屋神山喜右衛門(博労町)*
  13 上四之町
  14 下野伏町(上三之町)
  15 上二之町
  16 甲賀町
  17 御宿屋敷(上一之町)
  18 津島天王社(上一之町)
  19 萩原盤山(甲賀町)
  20 稲荷神社(甲賀町)
  21 馬場三之町(中三之町)
  22 馬場二之町(中二之町)
  23 検断・佐々木弥五右衛門(甲賀町)*
  24 馬場一之町(中一之町)
  25 堺屋森川善兵衛(馬場一之町)*
  26 正福寺(馬場三之町)*
  27 馬場二之竪*
  28 検断・倉田与次右衛門(馬場一之竪)*
  29 馬場一之竪*
  30 馬場町
  31 馬場町口郭門*
  32 千葉氏(馬場口通・西側)
42-1 東名子屋町
  2 竪三日町
  3 本郷町
  4 検断・森惣兵衛(行人町)*
  5 行人町
  6 横三日町
  7 本六日町
  8 検断・飯岡七郎左衛門(中六日町)*
  9 上一之町
  10 槻木町(槻町)
  11 八角神社(伊舎須弥神社)(鳥居町)
  12 上六日町
  13 小国屋(上一之町)*
  14 検断・家城弥十郎(本六日町)*
  15 (西)大工丁
  16 北学館(北素読所、青藍舎)(甲賀町口・東側)
  17 外繋ぎ(甲賀町口)*
  18 参勤交代(甲賀町口郭門)*
  19 甲賀町口郭門*
  20 (甲賀町口郭門)番所(甲賀町口)*
  21 明星水(甲賀町口郭門内側)*
  22 甲賀町通(郭内)*
  23 和田氏(馬場口通・東側)
  24 実相寺跡(甲賀町通)*
  25 牧原氏(甲賀町口・西側)
  26 上田氏(甲賀町口・西側)
  27 井上氏(五之丁・北側)
  28 馬場口通(郭内)*
  29 白井氏(本四之丁・南側)
43-1 大町一之町(下一之町・馬場下一之町)
  2 竹藤(馬場下一之町)*
  3 検断・坂内孫右衛門(馬場下一之町)*
  4 検断・倉田作十郎(大町一之町)*
  5 鈴木屋利兵衛(大町一之町)*
  6 薩摩屋荒井長左衛門(大町一之町)*
  7 大町札の辻(大町竪町)*
  8 十日市(大町)*
  9 火の見櫓(大町竪町)
  10 検断・簗田仙石衛門(大町竪町)*
  11 笠石屋横山惣兵衛(大町竪町)*
  12 福西伊兵衛(大町竪町)*
  13 大町
  14 善行院(大町竪町)
  15 (大町口)車川橋(大町竪町)*
  16 大町口郭門*
  17 田中稲荷(北小路町)
  18 紀州屋(大町竪町)*
  19 検断・小池判之助(北小路町)*
  20 老町
  21 六之町(郭内)*
  22 検断・西田孫太郎(桂林寺町)*
  23 酒造・相田八三郎(桂林寺町)*
  24 護薩堂屋敷(永代寺)(桂林寺町)
  25 桂林寺町
  26 稲荷神社(桂林寺町)
  27 当麻町
  28 検断・棚木宗伍(赤井町)*
  29 赤井町
  30 諏方四ッ谷
  31 外堀土塁(赤井町)*
44-1 興徳寺(興徳寺前通)
  2 興徳寺前通(郭内)*
  3 御米蔵(五之丁)
  4 獄屋(大町通)
  5 野村氏(五之丁・北川)
  6 原田氏(五之丁・南側)
  7 倉沢氏(五之丁・南側)
  8 井深氏(本四之丁・北側)
  9 大町通(郭内)*
  10 小山田氏(五之丁・北側)
  11 加須屋氏(五之丁・南側)
  12 簗瀬氏(本四之丁・北側)
  13 高嶺氏(本四之丁・北側)*
  14 石山氏(本四之丁・南側)*
  15 春日氏(本四之丁・南側)
  16 笹原氏(本三之丁・北側)*
  17 西郷氏(本三之丁・北側)*
  18 安藤氏(本三之丁・南側)
  19 伊南(伊奈)氏(本三之丁・南側)
  20 桂林寺(郭内)
  21 中沢氏(本三之丁・北側)*
  22 桂林寺町口郭門*
  23 原田氏(本三之丁・南側)
  24 町野氏(本二之丁・北側)
 い 諏方神社(諏方社)(本二之丁)
  1 御射山*
  2 隠里石*
  3 末社*
  4 諏訪氏
  5 笠原氏
  6 佐久氏
  7 的場(寄的・諏訪神社例大祭)*
  8 裏門*
  9 伝説・朱の盤*
絵図B 45~48
45-1 白山神社(当麻町)
  2 西光寺(赤井町)
  3 長泉寺(当麻中町)
  4 窪ノ内
  5 西名子屋町
  6 融通寺町
  7 大谷屋市兵衛(融通寺町)*
  8 手明町
  9 城安寺(融通寺町)
  10 新丁通*
  11 広沢安住(新丁通・田畑通)*
  12 極楽寺裏通*
  13 極楽寺(新丁通)
  14 横丁通(極楽寺裏通)*
  15 水主町(二番丁)
  16 野矢常方(水主町一番丁・北側)*
  17 水主町(一番丁)
  18 半兵衛町一番丁~五番丁
  19 鳥橋通
46-1 石堂屋留吉(融通寺町)*
  2 融通寺町口郭門*
  3 和田氏(本一之丁・北側)*
  4 河原氏(本一之丁・北側)*
  5 和田氏(本一之丁・南側)
  6 融通寺町通(郭内)
  7 柴幾馬(水主町一番丁・北側)*
  8 新丁
  9 横丁
  10 袋丁
  11 大橋(河原町)
  12 山寺屋勘左衛門(河原町)*
  13 河原町
  14 長門屋(河原町)*
  15 大阪屋関善吉(河原町)*
  16 新町一番丁
47-1 鳥橋(鳥橋通)
  2 柳原町一番丁~三番丁
  3 (柳原町)横通*
  4 出来新町(河原町新丁)
  5 十倉氏(出来新町)*
  6 片原町
  7 太郎兵衛新田(材木町分)
  8 青物市場(材木町分)*
48-1 大法寺(河原町)
  2 盛寿院(七面)(河原町)
  3 関東屋河野七郎左衛門(河原町)*
  4 新町二番丁
  5 新町三番丁
  6 材木町
  7 永宝屋・林家(材木町)*
  8 栄岸寺(材木町)
  9 御酒蔵(材木町)
  10 応湖川*
  11 鍋宗・星野宗七(材木町)*
  12 住吉橋(材木町)*
  13 住吉神社(材木町)
絵図C 49~52
49-1 大杉新田(新田)*
  2 白糸の滝(滝沢村)*
  3 飯盛山*
  4 種蒔桜
  5 桜谷*
50-1 瀬戸場(慶山村)
51-1 専福寺(専福寺前通)
  2 専福寺脇片原丁*
  3 高井丁通*
  4 千石町一番丁~四番丁
  5 専福寺前通*
  6 餌指町
  7 (北・南)鷹匠町
  8 阿弥陀町
  9 延寿院(台之町)
  10 (延寿院)薬師堂(台之町)
  11 薬師堂
  12 願成就寺(願成就寺前通)
  13 台之町
  14 浄光寺町
52-1 千手院(千石町)
  2 (井上)浄光寺(願成就寺前通)
  3 明光寺(願成就寺前通)
  4 東大工町
  5 浄光寺前
  6 法林寺(願成就寺前通)
  7 高井丁
  8 法林寺前通*
  9 清水丁
  10 願成就寺前通
  11 中長丁
  12 下堀端丁
絵図C 53~56
53-1 金蔵院(愛宕町)
  2 愛宕町
  3 屋敷町
  4 南横町
  5 社人屋敷(下長丁)*
  6 (徒之町)下長丁*
  7 鳥居町
  8 杣丁
  9 三日町口郭門*
  10 六日町口郭門*
  11 車屋(五之丁)
  12 有賀氏(五之丁・北側)
  13 三宅氏(甲賀町口・東側)
  14 六日町通(郭内)
  15 酒井氏(本四之丁・北側)*
  16 山崎氏(本四之丁・北側)
  17 山崎氏(五之丁・南側)
  18 安部井氏(五之丁・南側)
  19 伝説・幽霊清水(五之丁・南側)
  20 地蔵尊(桜ヶ岡出世地蔵)(五之丁・南側)*
  21 島田氏(本四之丁・南側)*
  22 小原氏(本三之丁・北側)
  23 日向氏(本四之丁・南側)
  24 五之丁(郭内)
  25 臨月橋(甲賀町通・五之丁)*
  26 車川(五之丁)*
  27 日向氏(五之丁・南側)
  28 木村氏(本四之丁・北側)
  29 三宅氏(五之丁・南側)
  30 本四之丁(郭内)
  31 小池氏(本四之丁・南側)
  32 田中氏(本三之丁・北側)
  33 丹羽氏(本二之丁・北側)
  34 簗瀬氏(本三之丁・南側)*
54-1 願成就寺通*
  2 徒之町口郭門*
  3 六軒丁
  4 鈴木氏(下長丁)*
  5 判氏(本四之丁・北側)
  6 角場(本三之丁)
  7 三日町通(郭内)*
  8 城取氏(本三之丁・北側)
  9 浮洲氏(本三之丁・北側)
  10 木本氏(本三之丁・北側)
  11 大竹氏(本二之丁・北側)
  12 田中氏(本二之丁・北側)
  13 桜井氏(本二之丁・北側)
  14 佐川氏(本二之丁・北側)
  15 井深氏(本三之丁・南側)*
  16 有賀織之助(本三之丁・南側)*
  17 池上氏(本三之丁・南側)*
  18 西川氏(本二之丁・南側)
  19 丸山氏(本四之丁・南側)
  20 原氏(本三之丁・北側)
  21 山川氏(本二之丁・北側)
  22 一柳氏(本二之丁・北側)
  23 一瀬氏(本二之丁・北側)
  24 丸山氏(本三之丁・南側)
  25 山田氏(本三之丁・南側)*
  26 萓野氏(本一之丁・北側)
  27 西郷氏(本一之丁・北側)
  28 杉田氏(本二之丁・南側)
  29 間瀬氏(本二之丁・南側)
  30 赤羽氏(本二之丁・南側)
  31 上田氏(本二之丁・南側)
  32 本三之丁(郭内)
  33 一瀬氏(本三之丁・南側)
  34 沼沢氏(本二之丁・北側)
  35 本二之丁(郭内)
  36 内藤氏(本一之丁・北側)
  37 伊藤(伊東)氏(本二之丁・南側)
  38 小原氏(永井左京)(本二之丁・南側)
  39 本一之丁(郭内)
55-1 長谷川氏(本四之丁・南側)
  2 山内氏(本三之丁・北側)
  3 梶尾氏(本三之丁・南側)
  4 高橋氏(本四之丁・南側)
  5 樋口氏(本二之丁・北側)
  6 小原氏(本二之丁・北側)
  7 国府氏(本三之丁・南側)
  8 有泉氏(本三之丁・南側)
  9 高橋氏(本四之丁・南側)
  10 樋口氏(本三之丁・北側)
  11 伝説 杜若屋敷(本三之丁・北側)*
  12 飯沼氏(本二之丁・北側・大町通)
  13 北原氏(本二之丁・北側)
  14 鈴木氏(本二之丁・北側)
  15 多賀谷氏(本二之丁・北側)
  16 北原氏(本二之丁・南側)
  17 堀氏(本一之丁・北側)
  18 伊与田氏(本一之丁・北側)
  19 竹本氏(本一之丁・北側)
  20 杉浦氏(本一之丁・北側)
  21 大原氏(本一之丁・北側)
  22 御厩(本二之丁・南側)
  23 東明寺跡(本二之丁・南側)*
  24 横山氏(本一之丁・南側)
  25 有賀氏(本一之丁・南側)
  26 南摩氏(本一之丁・北側)
  27 日向氏(本一之丁・北側)
  28 牧田氏(本一之丁・南側)
  29 長坂氏(米代一之丁・北側)
  30 小野田氏(米代一之丁・北側)
  31 大沼氏(米代一之丁・北側)
  32 中根氏(米代一之丁・北側)
  33 坂氏(本一之丁・南側)
  34 中村氏(本一之丁・南側)
  35 高津氏(本一之丁・南側)
  36 馬場氏(本一之丁・南側)
  37 鈴木氏(本一之丁・南側)
  38 黒河氏(米代一之丁・南側)
  39 広川氏(米代一之丁・南側)
56-1 会所(本二之丁・大町通)
  2 生駒氏(本一之丁・北側)
  3 御用人所(割場)(本一之丁)
  4 割場(作事場)(本一之丁)
  5 火の見櫓(本一之丁・割場内)
  6 御用屋敷(本一之丁・大町通)
  7 秋葉神社(本一之丁・御用屋敷内)
  8 梶尾氏(米代一之丁・北側)
  9 米代一之丁(郭内)
  10 米代二之丁(郭内)
  11 木本氏(米代二之丁・南側)
  12 津川氏(米代二之丁・南側)*
  13 篠田氏(米代二之丁・南側)*
  14 小原氏(米代二之丁・南側)
  15 飯田氏(米代二之丁・南側)
  16 篠田氏(米代一之丁・南側)
  17 横山氏(米代一之丁)
  18 一柳氏(米代二之丁・南側)
  19 門奈氏(米代三之丁・北側)
  20 三宅氏(米代三之丁・北側)*
  21 片峯氏(米代三之丁・北側)
  22 米代三之丁(郭内)
  23 米代四之丁(郭内)
  ろ 日新館
  1 南門
  2 戟門
  3 はん水
  4 大成殿(はん宮、聖堂)
  5~8 東塾
  5 三礼塾(東表通、在心斎)
  6 三詩塾(東表通、守約斎)
  7 書学寮(華様流)
  8 書学寮(尊円流・東)
  9 夫丸部屋
  10~16 西塾
  10 尚書塾(西表通、服膺斎)
  11 二経塾(西裏通、持志斎)
  12 医学寮
  13 礼式方
  14 書学寮(滝本流)
  15 書学寮(尊円流・西)
  16 神道・皇学・和学
  17 学校奉行詰所
  18 儒学詰所
  19 講釈所(大学、至善堂)
  20 文庫
  21 薬草園
  22 開版方
  23 北門・西門
  24 武講
  25 水練水馬池
  26 精武流
  27 木馬所
  28 射弓亭
  29 武学寮
  30 柔術場
  31 師範宅
32 天文台(寛台)
  33 放銃場
  34 広原(教場)
  35 蘭学所
  36 清水
  37 東門
絵図C 57~60
57-1 諏方通(郭内)*
  2 山田氏(米代一之丁・北側)
  3 萓野氏(米代一之丁・北側)
  4 三宅氏(米代一之丁・北側)
  5 北原氏(米代一之丁・南側)
  6 小松氏(米代一之丁・南側)
  7 大沢氏(米代一之丁・南側)
  8 野島ヶ原(融通寺町通)*
  9 河原町口郭門
  10 中河原町
  11 神尾孫次郎(石塚向丁)*
  12 馬場丁(横通)
  13 湯川端通*
  14 木地子丁(横通)
  15 弘長寺(六軒丁)
  16 石塚前
  17 長善寺(六軒丁)
  18 蓮台寺(六軒丁)
  19 小出氏(石塚裏通)*
  20 石塚裏通(観音裏通)*
58-1 花畑口郭門*
  2 花畑口通
  3 堀端通*
  4 西通*
  5 池上新太郎(西通・御馬屋町)*
  6 小原治八俊長(西通・御馬屋町)*
  7 長瀬氏(花畑大通)*
  8 片頬丁(片カハ丁)
  9 御馬屋(厩)町一番丁~五番丁
  10 石塚向丁
  11 石塚向河原丁*
  12 仮橋(石塚)*
  13 東昌寺(六軒丁)
  14 石塚観音(六軒丁)
  15 (石塚)六軒丁(木蔵六軒丁)
59-1 大田彦右衛門邸(新町一番丁)*
  2 黒河内伝五郎(新町一番丁)*
  3 (新町)横通*
  4 西川氏(新町二番丁・西側)*
  5 新町裏丁(北丁、横通)
  6 (新町)新丁
  7 秋山氏(新町三番丁・東側)*
  8 林氏(新町三番丁・東側)*
  9 鍋嘉・星野嘉右衛門(材木町)*
  10 検断・浜崎佐治兵衛(材木町)*
  11 秀長寺(材木町)
  12 天照寺(材木町)
  13 清水川(古川)*
60-1 イタカ町(東町)*
  2 鍋三・星野三郎治(材木町)*
  3 可月亭(星野家庭園)(材木町)*
  4 山内屋(材木町)*
  5 芋茎新田(材木町分)*
絵図C 61~64
61-1 慶山石山(石切山)*
  2 大龍寺(慶山村)
  3 慶山村
  4 石引道*
62-1 愛宕神社(慶山村水尾)
  2 黄土(土取場)*
  3 太神宮(慶山村水尾)
  4 野試合場(慶山村)*
  5 薬師堂(慶山村水尾)
  6 (慶山村)水尾
  7 正法寺(天寧村)
63-1 念仏清水(御薬園前通)
  2 御薬園(御薬園前通)
  3 (徒之町)新丁
  4 一乗寺(一乗寺前通)
  5 御薬円前通(薬園前通)
  6 中丁
  7 表丁(浄光寺通)
  8 (徒之町)上長丁
  9 上堀端丁
  10 天寧寺町口郭門*   11 外堀土塁(天寧寺町口郭門北)*
  12 竹村氏(本四之丁・北側)
  13 遠山氏(本二之丁・北側)
  14 小野氏(本二之丁・南側)
  15 井深氏(本一之丁・北側)
  16 長野氏(本二之丁・南側)
  17 宝積寺通(郭内)*
  18 安藤氏(本二之丁・北側)
  19 石川氏(本二之丁・北側)
  20 中沢氏(本一之丁・北側)
  21 神尾氏(本一之丁・南側)
64-1 正教寺(一乗前通)
  2 一乗前通
  3 宝蔵院(大日堂)(天寧寺町)
  4 天寧寺町
  5 浄光寺(極楽寺前通)
  6 極楽寺前通*
  7 称名寺(極楽寺前通)
  8 小田町
  9 極楽寺(極楽寺前通)
  10 長柄丁一番丁・二番丁
  11 宝積寺口郭門*
  12 袋丁(郭内)
  13 諏訪氏(本一之丁・南側)
  14 原氏(宝積寺通)
  15 樋口氏(本一之丁・南側)
  16 中林氏(本一之丁・南側)
  17 三坂氏(内小田垣一番丁・北側)
  18 内小田垣一番丁(郭内)
  19 内小田垣二番丁(郭内)
絵図C 65~72
65-1 野村氏(本二之丁・北側)*
  2 柴氏(本二之丁・北側)
  3 簗瀬氏(本一之丁・北側)
  4 林氏(本二之丁・南側)
  5 簗瀬氏(本二之丁・南側)
  6 神保氏(本一之丁・南側)
  7 福王寺氏(本一之丁・南側)
  8 三宅氏(本一之丁・北側)
  9 坂本氏(本一之丁・北側)
  10 田中氏(本一之丁・北側)
  11 遠山氏(本二之丁・南側)
  12 諏訪氏(本二之丁・南側)
  13 神保氏(本一之丁・南側)*
  14 埋門道(本一之丁)*
  15 桜ヶ馬場(本一之丁・南側)
  16 大手門道*
  17 五軒丁(郭内)
  18 浅羽氏(五軒丁・東側)*
  19 唐木氏(五軒丁・西側)
  20 塩田氏(五軒丁・西側)*
  21 外讃岐口郭門*
  は 会津若松城(鶴ヶ城)
  1~17 本丸
  1 天守閣
  2 南走り長屋
  3 干飯櫓
  4 鉄門(表門)
  5 表玄関
  6 大書院
  7 小書院
  8 馬場
  9 金の間
  10 数奇屋(鱗閣)
  11 茶壷櫓
  12 月見櫓
  13 表御座
  14 御三階
  15 御台所
  16 奥御座
  17 長局
  18~22 (本丸)帯郭
  18 廊下橋・廊下橋門
  19 御弓櫓
  20 稲荷社(鶴ヶ城稲荷)
  21 太鼓門
  22 鐘撞堂
  23 横手坂(椿坂)
  24~28 北出丸
  24 大腰掛
  25 大手門(追手門)
  26 (北出丸)東北隅櫓
  27 (北出丸)西北隅櫓
  28 北出丸西門(棟門)
  29 知期理坂(梅坂)
  30~33 西出丸
  30 西大手門
  31 内讃岐口門
  32 (西出丸)北西隅櫓
  33 (西出丸)南西隅櫓
  34 二之丸
  35~37 三之丸
  35 埋門
  36 雑物蔵
  37 八幡宮
  *  櫓
66-1 武川氏(内小田垣二番丁・北側)
  2 龍造寺氏(内小田垣二番丁・南側)
  3 辰野氏(内小田垣二番丁・南側)
  4 内小田垣口郭門*
  5 外内小田垣堀端丁(外小田垣一番丁)
  6 外小田垣二番丁(外小田垣隍橋二番丁)
  7 豊岡神社(権現下郭)
  8 東照宮(権現下郭)
  9 熊野神社(権現下郭)
  10 延寿寺(権現下郭)
  11 権現下郭(郭内)*
  12 御米蔵(上蔵)(五軒丁)
  13 熊野口郭門(天神(橋)口郭門)*
  14 十五軒丁
  15 鎹丁(カスカヘ丁)
  16 河原新丁
  17 百軒長屋(河原新丁)*
  18 西龍寺(河原新丁)
  19 河原通(湯川端通、南河原丁)
  20 神明社(竪町)
67-1 御米蔵(十八蔵、下蔵)(五軒丁)
  2 南町口郭門*
  3 相馬氏(米代三之丁・北側)*
  4 伊東氏(米代四之丁・北側)*
  5 山本氏(米代四之丁・北側)*
  6 水島氏(米代四之丁・北側)*
  7 和田氏(米代三之丁・南側)
  8 太田氏(米代三之丁・南側)
  9 日向氏(米代三之丁・南側)
  10 高木氏(米代三之丁・南側)
  11 杉本氏(米代三之丁・南側)
  12 徒小屋・岡田民弥(米代四之丁・南側)
  13 角場(米代四之丁・南側)
  14 中町
  15 花畑通*
  16 花畑大通
  17 長楽寺(花畑通)
  18 晒屋町
  19 南学館(南素読所、友善舎)(花畑大通)
  20 河原通
68-1 文明寺(河原新丁)
  2 長福寺跡(河原新丁)*
  3 (南町)大橋(中町)
  4 中黄町
  5 西黄町
  6 林昌寺(竪町通)
  7 竪町下通(竪町通、漆原竪町)
  8 漆原組町一番丁~六番丁
69-1 大観院裏通(花畑組町裏通)
  2 大観院(河原通)*
  3 仮橋(河原通)*
70-1 漆原五番丁
  2 漆原六番丁
  3 荒神(南町分)
71-1 清水(材木町分)
  2 柳土手(材木町分)
絵図D 73~76
73-1 天寧寺(天寧村)
  2 天寧村
74-1 愛宕神社(天寧村)
  2 葦名墓(狸ヶ森廟)(天寧村)
  3 院内山(御廟山)
  4 院内御廟(松平家墓所)(院内村)*
  5 院内村
  6 野郎ヶ前(奴郎ヶ前)(天寧村)*
  7 延命地蔵堂(天寧村)
  8 地蔵清水(天寧村)
  9 黒川堰(大堰、雁堰)*
  10 橋(院内村)*
75-1 万年橋(天寧寺町)*
  2 玉泉寺(天寧寺町)
  3 宗英寺(天寧寺町)
  4 山陽坊河原(天寧寺町)*
  5 湯川(黒川、羽黒川)*
  6 湯川新橋(宗英寺河原通)*
  7 宗英寺河原通*
  8 新橋(千石町分)
  9 松川街道(会津中街道、宇都宮街道)*
76-1 葦名墓(花見ヶ森廟)(小田村)
  2 焔硝蔵(小田村)
  3 遠丁場(小田村)*
  4 小田山*
  5 小田村
  6 宝積寺(小田村)
  7 恵倫寺(北青木村)
  8 建福寺(北青木村)
  9 北青木村
絵図D 77~84
77-1 長柄丁一番丁・二番丁
  2 天神橋(年貢町)
  3 鶴部屋(若葉丁)*
  4 御園(植溜屋敷)(若葉丁)*
  5 若葉丁
  6 威徳院(年貢町)
  7 天満宮(深沢天神社)(年貢町)
  8 年貢町
  9 二十軒町
  10 竪町
  11 (象眼町)弓子
  12 鉄砲町(中丁)
  13 稲荷丁
  14 浄(静)松寺(竪町)
  15 明栄寺(竪町)
  16 弓場(弓丁)*
78-1 松本稲荷(稲荷丁)
79-1 古川御殿(常慶寺町)
2 検断・小池力蔵(中横町)*
  3 常慶寺町
  4 福泉寺(竪町)
  5 十軒町
  6 常慶寺(常慶寺町)
  7 古川*
  8 馬橋(常慶寺町)*
  9 馬橋町
  10 成願寺(南町分)
80-1 台屋敷(南町分)
81-1 弘真院(南町分)
2 允殿舘(南町分)
  3 伝説 允殿舘の大入道*
83-1 新屋敷(材木町分)
絵図D 85~96
85-1 石上松(湯本村)
  2 伏見滝(湯本村)*
  3 瀧之湯(湯本村)
86-1 羽黒山(湯本村)*
  2 羽黒神社(湯本村)
  3 東光寺(湯本村)
  4 古四王神社(湯本村)
  5 温泉社(湯本村)
  6 湯本村
  7 天寧寺の湯(湯本村)*
  8 総湯(湯本村)*
  9 有馬屋(湯本村)*
  10 玉之屋(湯本村)*
  11 松島(湯本村)*
  12 向瀧(湯本村)*
  13 猿湯(湯本村)*
87-1 大窪山(北青木村)*
  2 善龍寺(北青木村)
  3 焔硝蔵(北青木村)
  4 南青木村
88-1 龍沢寺(南青木村)
  2 黒岩神社(南青木村)
  3 井出村
91-1 福蔵寺(中野村)
参考文献
出典
分類別索引
五十音索引
コラム
城下のライフライン
木戸、辻番所、風番所
町廻り三十三観音巡り
寛永一揆余話
水路と道の食い違い
有名番付「五幅対」
人参は人の命を救うもの
城下の市
検断の役割
真冬の陣取り合戦
『東講商人鑑』
弥太の見栄
会津藩の輸入機械
会津藩士の階級
ニシン売りの娘
家老屋敷
武家屋敷
盗まれた孔子像
学校給食事始め
会津藩主と神道
藩士の俸禄
新事実、山本八重と川崎尚之助
天寧寺の古香炉
挿入図
「会津若松城下図」(軸)より
郭内、郭外表記
「会津若松城下と町分」
「郭外一~五之町の表記図」
「会津名物類聚」
『会津鑑』より会津郡邑之部・滝沢付近
「会津若松城下図」(軸)より
郭内東北部(部分)
「会津若松から千住まで道中図」(部分)
「中六日町(北)町屋絵図」
「五福対」
『東講商人鑑』(部分)
「甲賀町町屋絵図」
「江戸会津道中絵図」
「会津藩甲賀町屋敷絵図」(部分)
「大野ヶ原追鳥狩屏風」
「会津若松城本丸図」

2014年12月23日火曜日

戸隠山の歴史


 創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社で、起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
  岳信仰の霊場として修験者の集まるところとなり、平安末期にはすでに全国にその名が知られた有数の道場であった。鎌倉時代には顕光寺の寺名でよばれ、比叡山延暦寺の末寺になっていた。そのころから善光寺如来信仰の隆盛に伴って霊験所としての戸隠から、一歩進んで大衆の信仰を組織する方向に進み、戸隠三千坊と称せられる隆盛をみた。
  天文二二年(1553年)から永禄六年(1563年)までの川中島合戦にまきこまれ、この間に信玄あるいは謙信の攻めにあい、戸隠山はまったく荒廃した。文禄三年(1594年)朝鮮より無事帰国した上杉景勝は奉謝のため、戸隠山の再興を図り、伽藍宮殿などを再造し、本地聖観音・不動明王・多聞天などをはじめとして、仁王・仁王堂および院家惣門などを修造あるいは新造し、また衆徒なども帰山し、名実ともに戸隠山は再興された。
  江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。
  その後、明治維新になり、神仏分離は発せられ、山内の仏像はじめ仏教に関係あるものを処分して、寺の僧は神官になり、寺院は一切は廃せられ戸隠神社に統一された。


[出典]
http://kazmiwa.sakura.ne.jp/kaz-jinja/130411togakushi/togakusi2013.htm



1 むかしむかし日光で戦があったという話

百人一首に猿丸という妙な名の歌人の次のような歌があります。
 奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞く時ぞ秋は悲しき
しみじみとしたいい歌です。きっと作者は紅葉狩りにでも出かけたのでしょうか。時は晩秋。山の紅葉もほぼ散り終えて、冬の訪れを待つばかり、遠くで鹿がもの悲しい声で「きゃん」と鳴く。はぐれた我が子を思ってでしょうか。それとも帰って来ない伴侶を呼んでいるのか。行く秋の奥山の寂しさともの悲しさが渾然一体となった美しい世界が歌を読むものの脳裏いっぱいに拡がってきます。
ところでこの猿丸、あの宇佐八幡のご神託があったと詐称して皇位の継承まで企てて失脚した快僧弓削の道鏡(ー772)の変名という説もありますね。そんな謎が謎を呼んで、全国にこの猿丸の伝説というものが残されています。
    日光の猿丸談は、こんな感じです。
むかし、都に有宇中将という人がおりましたが、この人物とかく弓矢の名人で狩に懲りすぎておりました。その驕慢からか、帝の意に逆らうことも多く、ついには奥州に左遷されたのでした。そこで地元の朝日長者の娘をめとり、ひとりの子をましました。名を馬王と言いました。馬王は成長し、側女に子を孕ませました。この子が問題の猿丸です。正式名は小野猿麻呂と言いました。この猿という奇妙な名の由来は、どうやらその容貌にあるようです。まるで猿のようで大変見苦しいものでした。猿丸の本拠は、現在の福島県の熱借山(あつかしやま=福島の厚樫山?阿津賀志山とも表記?)であったようですが、小野という地名もあるので、秋田の雄勝郡の小野村(現在の雄勝町大字小野)だった可能性もあります。
ある日、日光(二荒=下野)の神と赤城の神(上野)の間で争いごとが起こりました。山中の境にある湖をめぐる争いです。日光の神も赤城の神も、「これは元来私たちのものである」と主張して譲りません。そこで鹿島の神(常陸)がやってきて、日光の神に言いました。「猿丸どのは、そなたの孫にあたる人物で、弓の名手と聞く。助勢をしてもらう方がよいのでは?」早速、日光の神は、白い鹿の姿に身を変え、奥州の山中で狩をしていた猿丸の前に現れ、ワザと追われて日光の山中まで誘い込みました。そこで今度は女神の姿になってこのように言ったのでした。「これ、猿丸よ。私はこの日光山の神である。お前は、私の孫にあたる。お前をこの地に誘ったのは、訳がある。それは私のアダを討たせようと思ってのことだ。もうじき赤城の神が、ムカデの形をして、攻めて来るだろう。そうしたら私は大蛇の姿で応戦する。お前達が、もし応援してくれて、戦に勝った時には、この山をお前に与えて好きなように狩ができるようにしよう。」
猿丸は、自分のルーツを知らされたためか、大蛇に加担し、ムカデに散々に矢を射掛けて、ムカデは、ついに目に矢を受けて逃げ出したのでした。奥日光の戦場ヶ原は、この激戦があった辺りでしょうか。また赤沼は、この時の地が流れて赤沼と呼ばれるようになったと言われています。
そして今、日光にある三所神は、第一に男体本宮(豊城入彦)に瀬尾女体中宮(朝日姫)、第三に新宮太郎(猿丸の父の馬王)となります。そして宇都宮神社は、猿丸自身を祀った神社と言われています。
日光には、周知のようにニホンザルが大変多いわけですが、ひとつの戦が猿の加勢によって決まったということで、この日光(下野)の国の猿という動物のトーテム化のようにも感じます。つまりムカデとヘビの争いをサルが応援することで、勝利がヘビ側にもたらされたことになる。またそこに仲裁というよりは、露骨にヘビを応援した鹿島の神(出雲の国譲りでも活躍をするアマノコヤネを祖とする中臣氏=藤原氏の神)という存在が気になります。
ではこの日光山と赤城山の争いとは、何だったのでしょう。下野と(しもつけ)上野(かみつけ)の遠い祖先は、共に崇神天皇の第一皇子だった豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)と言われています。(崇神紀)おそらく大和朝廷の力を背景にして、北関東に古墳文化を築いた子孫たちが、時代を経て勢力を分けて相争っていたのでしょう。その争いを終わらせるために、奥州からやってきたサルの集団が決定的な役割を演じたのでしょう。もっと分かり易く言えば、奥州の狩猟集団が、この日光・赤城の同族同士の勢力争いに決定的な役割を果たしたということになりましょうか。その勝利において、奥州の武装集団を呼び寄せる口添えをしたのが、鹿島の神(藤原氏?)だったのも実に興味深い。

[出典]
http://www.st.rim.or.jp/~success/mukade_ye.html

2014年12月22日月曜日

秦系氏族の姓氏及びそれから発生した主な苗字


○ 秦系氏族の姓氏及びそれから発生した主な苗字をあげると次の通り。

(1) 弓月君一族の後裔……応神朝投化。
  秦公(録・河内)、秦造(録・左京)、秦連、秦忌寸(秦伊美吉。録・左京、右京、山城、大和、摂津、河内、和泉。下司-丹波国山国住。なお、散楽の金春、竹田は、大和国十市郡に起り、秦河勝後裔と称するも、本来は別族か〔その場合、結崎、観世と同じ服部連の流れか〕)、 太秦公、太秦公宿祢(録・左京)、太秦宿祢(上と同じか。東儀、薗、林-摂州天王寺伶人なり。岡-大和国百済川東岡村林寺村にあり、また、蒲生家臣に近江 国蒲生郡木津邑の岡より起る岡氏あり。なお、薩摩で太秦姓を称した牛屎一族については疑問もあり、隼人族の項も参照のこと)、太秦公忌寸、賀美能宿祢、秦 下、秦前(秦下、秦前は秦忌寸と併用)、大秦連。

  秦宿祢(録・河内。三上-京人御随身。長曽我部-三上支流で土佐に住、元来は当地の古族裔に三上から入嗣か、その一族は三輪氏族を参照のこと。久武-三上 同族、土佐住人。横山-三上同族。土山-京官人で近衛府官人。仲村-紀伊人。大平-伊賀国阿拝郡人。羽田-信濃国小県郡人。桑原-同州諏訪郡人。堀井-備 前に住。祓川-秦中家忌寸裔、山城国伏見の稲荷社祢宜。以下同族で稲荷社祠官には、西大路、平田、針小路、大西、祓川、安田、東大西、新大路、新小路、松 本、森、毛利、南松本、吉田、沢田、中津瀬、鳥居南、橋本、市村など。稲荷社下級社人の秦姓長谷川・山田も同族か)、惟宗朝臣(平井-筑前大宰府執事職。 薩隅の島津、対馬の宗などは大いに栄えたが、これらは後に別掲)、伊統朝臣、令宗朝臣。

  朴市秦造、依智秦公(依知秦公。湯次-近江国浅井郡人。西野、東野、大矢田、酢村、田根、川道-同上族)、依智秦宿祢。依知勝も同族か。
  朝原忌寸、朝原宿祢、朝原朝臣(村田-石見出雲人、刀工鍛冶工)、時原宿祢、時原朝臣(西院-山城国葛野郡人)、秦物集、物集(録・山城未定雑姓)、物集連(録・左京未定雑姓。物集〔物集女〕-山城国乙訓郡人)、物集忌寸。

  大蔵秦公(河内国茨田・讃良郡の太秦姓を称する西嶋・大津父・茨木・平田一族はこの流れか)、秦大蔵造、秦大蔵連、秦大蔵忌寸、秦長蔵連(録・左京)、秦 中家忌寸、井手、井手公、秦井手、秦井手忌寸、秦子(秦許)、秦原公、秦上、秦人(録・右京、摂津、河内)、辟秦、秦勝(録・和泉)、簀秦画師、寺、寺宿 祢、高尾忌寸(録・右京、河内。高尾-河内、近江の人)、高尾宿祢(高尾-備後人)、秦冠(録・山城)、大里史(録・河内。小松-土佐国香美郡人、称平 姓)。

  秦姓(録・河内)、秦長田、秦倉人、秦首(秦毘登)、秦羸姓、秦調曰佐、秦高椅、高橋忌寸(高椅忌寸)、秦栗栖野、弖良公(録・右京未定雑姓。寺と同族 か)、広幡、秦人広幡、広幡公(録・山城未定雑姓)、広幡造、奈良忌寸、秦達布連、秦田村公、秦常忌寸、秦河辺忌寸、秦曰佐。寺史も同族か。国背宍人 (録・山城未定雑姓)も、秦同族とされるが、その場合は物集の同族か、しかし、疑問な面もあり、あるいは本来別族で和邇氏族か。古代では国瀬(無姓)も見 える。中世の乙訓郡東久世庄の国人、久世・植松・片岡・築山・石倉などは族裔か。
  なお、系譜不明であるが、清科朝臣も秦一族ではなかろうか。また、韓国人都留使主の後裔とする朝妻造(録・大和諸蕃)も弓月君とともに来朝したものか、と 太田亮博士が記す。朝妻手人・朝妻金作はその族か。系統不明だが播磨国赤穂郡郡領に秦造がおり、寺田氏はその後裔。

  これらのうち、特に惟宗朝臣の一族は諸国に分布したが、島津、執印、宗、神保がその中でも大族であった。島津と執印とは比較的近い同族関係にあったものとみられる。
●島津-中世藤原氏を称し後には又源氏を号す、武家華族。薩摩、大隅に住して大繁衍して奥州家・相州家・薩州家などの有力一門のほか、一族の苗字多し。島津支族は若狭、越前、播磨、信濃、甲斐等にもあり。主な苗字としては、
  伊集院、石谷、南郷、入佐、町田、飯牟礼、猪鹿倉、有屋田、中村、石原、門貫、今村、麦生田、今給黎、大田、松下、知覧、宇留、宇宿、宮里、給黎、阿蘇 谷、山田、伊作〔伊佐〕、津野、恒吉、神代、若松、西田、出水、佐多〔佐太〕、伊佐敷、新納、西谷、樺山、池尻、宮丸、北郷、末弘、神田、大崎、石坂、豊 秀、河上〔川上〕、小原、山口、姶良、碇山、吉利、大野、寺山、西川、三栗、岩越、大島、竹崎、義岡、志和池、寺山、桂、迫水、喜入、安山、音堅、梅本、 邦永、達山、龍岡、日置、野間、藤島、原、道祖、三崎、村橋、小林、郷原、永吉など-以上は薩摩・大隅に居住の島津一族。
  中沼〔長沼〕、角田-信濃国水内郡人。堤〔津々見〕、若狭、多田、三方、井崎〔伊崎〕-若狭国三方郡等住の島津一族。野々山-信濃、三河人。上田-信濃人。
●執印-薩摩国高城郡の新田八幡宮祠官。鹿児島、国分、中島、平野、市来、羽島、吉永、光富、向、馬場、小野田、橋口、河上、川原〔河原〕、下〔志茂〕、 角、五代、河俣、河崎、厚地、田口、兼対、東向寺、松村、上松〔植松〕-以上は執印一族で、薩摩国鹿児島郡等に居住。

●宗-対馬の守護、幕藩大名で称平姓。一族は島内各郡主として繁居したが、天文十五年、本宗以外の支庶流(三十超の家)が宗を名乗ることを禁じられて別の 苗字を名乗った。それらを含めて庶子家としては、柳川、高瀬、佐須(のち杉村)、久和、内山、古里、網代、大石、三山、宮、岩崎、西山、佐々木、長田(の ち幾度)、志賀、皆勝、園田(のち古里)、佐護、久須、長野、大江、島本、瀬戸、仁田、中山、向日、横松、一宮、長瀬、井田、岡村、川上、小森、氏江、中 村、川本、大浦、木寺、仁位〔仁伊〕、峰、吉田、波多野、津奈-以上が対馬の宗一族。宗の支族は肥後国山本郡に分る。
●神保-近江国甲賀郡神保庄ないし上野国多胡郡より起り(後者が妥当で、その場合実際の出自は毛野族裔か)、越中紀伊に住。その一族に花田、多胡。
  このほか諸国では、飾西、中山、志婆-播磨国飾磨郡人。

(2) 己知部系……欽明元年投化して大和国添上郡山村郷等に居住。太田亮博士は、この己知部の投化は紀臣族珍勲臣に従ったものとみているが、居住地などからみて、その指摘の通りという可能性が強い。
  己智(己知、巨智、許知、許智。録・大和)、道祖首、三林公(録・大和)、山村忌寸(録・大和)、山村許知、山村宿祢(京官人で九条家侍の山村氏は末流 か。山村は江戸期の下雑色、また大和国城下郡にもあり)、桜田連(録・大和)、紀朝臣(山村忌寸の賜姓)、巨智臣、巨智宿祢。添上郡山村郷の仕己知も同族 か。
  奈良許知(楢許智)、大滝宿祢、奈良訳語(奈羅訳語、楢曰佐)、長岡忌寸(録・大和。長岡-山城国筒城郡人。山村、市村、井村、宮崎、宮島、徳田、小川、田宮、中村、水取、大富、木村、久保、吉村、内田-以上は長岡の一族)、古曰佐。
  磐城村主(石城村主。漢系石寸村主同族との伝承もある)、荷田宿祢(ただし、男系は穴門国造一族の後。羽倉-山城国稲荷社造宮預、東、西、京、北の四家あり。安田-山城国下久我住。伏見-堺町人。石城-摂津人)、磐城宿祢(筒井、佐脇-甲州人)。

(3) 高陵氏高穆後裔……高陵高穆は秦王族高陵君参の後といい、漢土から建安廿二年に百済に入ったが、この子孫はのち二派に分れ、一派は東漢直掬とともに投化して大石村主の祖となり、もう一派は楽浪氏として天智朝に投化し高丘宿祢の祖となった。
  大石村主(生石村主。録・左京の大石は村主姓脱漏か。なお、近江国栗太郡大石村を本拠とした大石党は、秀郷流藤原氏の裔と称したが、太田亮博士の指摘のよ うに、大石村主の後裔か。一族に同国甲賀郡の小石。また、大名家浅野氏に仕えた大石内蔵助良雄一族も同流で、一族に小山もある)、大山忌寸(録・右京)、 大石宿祢(堀川-京官人、醍醐家諸大夫)、高丘連、高丘宿祢(録・河内。高岡-京官人、のち河内国梶ケ島村に帰農して名主)。百済人木貴の後という大石林 (録・右京)、百済人庭姓蚊爾の後という大石椅立(録・右京)もこの同族と推される。

[出典]
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm

秦系氏族


○ 辰韓の遺民は、辰韓滅亡後百年余経過した頃の応神朝(西暦400年前後)に、弓月君に率いられ百済より来朝して秦造となったが、残余はそのまま韓地に残り、その約一五十年後の欽明元年に百済から来朝し、大和国添上郡山村に居住して己知部(巨智部)となった。わが国における秦系氏族にはもう一派、高陵氏の流れがあり、始皇の三代前の昭襄王の兄弟から分かれている。
  秦氏の秦王朝末裔説を疑う見解も多いが、『正倉院文書』の西南角領解には、河内国丹比郡黒山郷を本貫とする秦羸姓田主などという人名が見えており、秦羸姓は本来の秦姓をよく伝えていることからみて、秦始皇の末裔説はともかく、広い意味で秦王族(『姓氏詞典』には、子嬰滅びて支庶、秦を以て氏となすと見える)あるいは秦氏族の末裔という所伝は、一応信頼してよいのではなかろうか。なお、中国の秦氏には、姫姓の魯公族で河南省の秦を食采としたものもあった。

○ 弓月君の一派は大和国葛城郡朝津間の腋上に土地を与えられ居住したが、その本宗は後に河内国(茨田郡)を経て山城国葛野郡太秦に遷り、この地を中心に 繁栄した。この氏族は、養蚕・機織の技術をもつ伴造として朝廷に仕えたが、大蔵の出納にも従事した氏もある。
  この一族の分布は、葛野郡のほか同国の愛宕・紀伊郡、摂津の豊嶋郡、近江の愛智・浅井郡等に広範にみられ、族人が相当多い。太秦の広隆寺(蜂岡寺)は推古朝に秦河勝造が創始した氏寺であり、氏神は大酒神社(山城国葛野郡、太秦の桂宮院にあり)、湯次神社(近江国浅井郡湯次郷内保村にあり)などに祭られている。一族からでた祠官家としては、山城国松尾の月読宮、伏見の稲荷社の諸家にみられる。

○ 秦氏の系統は中央の朝廷ではあまり高位にあがらず、平安朝末期まで明法道、典薬関係の官人や下級の御随身として仕えたが、官人としては御随身の家たる三上氏が永続したにとどまる。その一方、地方豪族としては薩隅の島津氏、対馬の宗氏(平姓を仮冒)、越中の神保氏(実は別系の可能性も強いか)などを出して栄えている。また、大石宿祢姓の下級官人も中世まで見えるが、のちに紀姓の人が大石宿祢姓を冒した。
 なお、「秦」と書いても、波多・羽田・幡多などの表記からの訛伝もあったようで、それらの全てを秦系氏族とするのは問題もありそうである。


[出典]
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/hatareisei/hata1.htm



2014年12月20日土曜日


1211(建暦1年)佐原盛連が鎌倉幕府の北条執権の醜い争いを嫌い、いままでの代官制をやめて正式に一族郎党を引連れて会津に下ってきた。盛連が会津に下ったその年の6月幕府は三浦義村の奉行職を停止、後任に義連の長男佐原景連を充ててしまった。のちに景連は会津坂下で近衛家の荘園であった蜷川荘を拝領し蜷川氏の初祖となり太郎と称することになる。
 しかし、先住の土豪が各地に館を構え新参の不在領主の佐原氏に従うものはなかったので領地の経営に苦心していた。
 佐原義連は、頼朝より会津を拝領する際その跡を追って鎌倉より随従してきた赤沼内膳という陰陽師を利用する事を考えついた。当時の陰陽師は、軍師であったり敵退散の調伏をおこなう呪術師的な性格をもっていた。
 佐原義連は、彼に護身の像を与え社殿・神田あまたを寄進し神職としたのである。
 そして、この赤沼内膳の占いと調伏はなかなかの効き目があるという噂を流し、佐原氏自身も参詣をしたので周辺の土民はもちろん地侍達の尊崇を集めるに至ったのである。村人達はそれを赤沼稲荷と称するようになった。このように佐原義連は赤沼明神の加護で土豪の蜂起を鎮め、6人の子に所領を分割することになるのである。
 佐原十郎左衛門尉義連は、会津の山岩尾邑にまず小田山城を築き住んでいた。その翌年には、子の猪苗代経連が猪苗代に亀カ城を築き、佐原太郎兵衛尉景連が蜷河荘を築き移り住んできた。
 しばらくして老いた佐原十郎左衛門尉義連は、小田山城を長男の盛連に譲り、幼孫三浦遠江守盛連の5男・加納五郎盛時の居城である加納庄三宮半在家に隠居していったのである。
 加納盛時は耶麻郡上三宮に青山城を築き住んでいたが、建久4年、佐原次郎広盛が河沼郡北田に塁を築いたことにより同属である盛時と広盛との間に溝ができはじめた。後に、これが発端として長い同属争いが始まるのである。
 この頃、佐原盛連は、父義連が築いた小田山城は山城であるため何かと不便なため、会津黒川(今の会津若松)の平地に城を普請することにした。それは湯川を外堀としたかなりの工事で長い歳月を費やすことになる。
 また信仰心厚い佐原氏一族は寺社の建立を同時に行い、構築中の会津黒川城の三の丸の西側に日汁上人を呼び如法寺ならびに薬師堂を創建し岩沢(喜多方)に熊野本宮の二王堂を建立することになる。
 これら神社仏閣の建立のおかげで以来会津は佐原氏に敵対するものが少なくなり平安な時が流れるようになり、信仰心に目覚めた会津の民は、慧日寺僧兵に焼討ちされた山上の恵隆寺の焼け残った本尊の千手観音菩薩を、山からおろし現在地(会津坂下)に移したのである。
 1212(建暦2年)芦名遠江守黒川城主の6男芦名六郎左衛門尉時連が新宮庄に城を築く新宮時連と名乗る。同年、新宮熊野神社長床が建てられる。新宮右兵衛尉助成の3男が小荒井に住み小荒井治郎兵衛広高を名乗る。
 佐原氏に随従して桓武平氏・千葉胤常の一族佐瀬氏の兄弟も、一族郎党を引連れ会津に移り住む事になった。兄は佐瀬河内守と名乗り、会津耶麻郡大寺(磐梯町)と小田付(喜多方)に館を築いた。弟は佐瀬大和守源兵衛(げんのひょうえ)と名乗り、会津面川(会津若松)に屋敷を構え一族を住まわせた。
 佐瀬源兵衛は武力にたけていたので、その後、芦名氏の侍大将となり芦名四天宿老になってゆくのであるが、芦名盛氏の時代には、会津黒川に広大な館を構え常に騎士200、歩卒1000余人を備え急事に備えとした。この地は、今でも会津若松に大和町という名で残されている。
 あるとき、佐瀬河内が黒川の南、天屋邑(会津若松大戸町雨屋)の薬師堂の前なる湯川の深淵で一日釣りをしていた。日暮れに及び急に悪寒がするので、ふと頭上を見ると、大蛇やがまさに河内を飲み込もうとしていた。
 河内守少しも騒がず長刀を閃かしこれに斬りつけたが大蛇は傷つき湯川の山中に逃げていってしまった。日を経てその付近から死鱗3枚がみつかり、さらにそれからも鱗や蛇骨が見つかったので、それらを朝廷や太守に奉じられた。
 この長刀は、それ以来「蛇切丸」と号し佐瀬家の家宝になった。天正17年(1589)の伊達正宗と芦名義広の磨上原の戦いで、佐瀬平八郎常雄(芦名四天宿老の富田氏からの養子)が合戦で使用し、三忠臣の一人となるほど戦った平八郎常雄が戦死後、菩提寺に納められた。
 その後、佐瀬一族の分流は、耶麻郡大寺(磐梯町)、耶麻郡小田付(喜多方)、会津郡面川(会津若松)、大沼郡西勝(会津高田)に舘を築き、芦名譜代の家臣となってゆくのである。
 1213(建保1年)和田義盛が敗死。北条時政が侍所別当を兼任することになったが2年後の1215(建保3年)北条時政が死去してしまう。建保4年(1216)になると奥州は幕府知行国となり、大江広元が陸奥守となり、建保6年には源実朝が内大臣、右大臣となる。 佐原盛連の子の3兄弟は執権北条時頼の父時氏とは異父兄弟にあたり、特に4男光盛は会津四郎左衛門尉・左京大夫と称していた。その後建保6年(1218)に15歳で黒川の城主になり三浦半島の芦名郷から名をとり芦名氏遠江守を名乗るのことになる。
 1219(承久1年)佐原盛連が鎌倉に戻ったその年、公暁が源実朝を殺害、源氏の正統が断絶するが、すでに北條義時が執権になっていた。
 北條義時は、右大臣九条道家の子・九条頼経を鎌倉に迎え摂家将軍とし、北条政子が尼将軍として政所を開く事になった。この年に後鳥羽上皇が幕府に摂津の長江、倉橋両荘の地頭罷免を要求したため朝幕関係が緊迫した。
 1221(承久3年)仲恭天皇が即位し、九条道家が摂政となるが、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を下す。いわゆる「承久の乱」が発生した。北条軍は京に攻め上り討伐軍を打ち破り、以後六波羅に駐在し六波羅探題を設立する。会津からは、佐原義連の4男・佐原遠江守盛連と兄景連の子・景義を承久の乱に参加させるが、この年の4月佐原義連が没してしまう。  
 結局、仲恭天皇が退位し、後堀河天皇が即位。後高倉上皇が院政をしいて近衛実家を摂政とし、後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に、土御門上皇を土佐に配流することによって承久の乱は終結した。
 1222(貞応1年)3月、会津小田山城主平四郎左衛門尉佐原(芦名)光盛は弟盛時と共に耶麻郡にある古刹慧日寺に花見にでかけた。
「兄上、慧日寺には昔、乗丹坊という千人力の僧兵頭が居たという話がありますが、本当でありましょうや」
「本当だそうだ。彼は越後の城氏に加担し会津4郡の兵を引連れ信州横田が原で木曾義仲と合戦したという。城氏が油断をしたため城軍が惨敗したが、乗丹坊の率いた会津の兵は勇敢に戦い、乗丹坊も討ち死にしたという。ほれ、そこに乗丹坊の墓がある。」
 二人は、乗丹坊の墓に額ずき合掌した。ふと後ろに気配を察したので太刀に手を添え振り返ると、そこに人品いやしからぬ人物が立っていた。
「これは、どちらの方か分かりませぬが、わが先祖の墓に焼香していただき誠にありがとう御座います。」丁寧に彼は頭を下げた。
「我らは、小田山城主芦名光盛と弟の盛時でござる。見知り置き願いたい」
「これはこれは、守護の芦名様でしたか、私は、慧日寺衆徒頭の富田漏祐(のりすけ)で御座います。どうぞよろしく願います」
「おお、衆徒頭の富田漏祐どのか、いつか会いたいと思っていた。」
 富田漏祐は、二人を宿坊に案内し、一献を差し上げた。芦名光盛は、しきりに自分への仕官を勧めたが、漏祐は固辞し、代わりに11歳の一子千松を出仕させることを約束した。
 千松は、5月5日に出仕し光盛の側小姓として仕えることになった。しばらくして千松は元服をすることなり平田益範を烏帽子親に戴き範の一字をもらい範祐(のりすけ)を名乗る。

[出典]
http://members.jcom.home.ne.jp/mu-arai/np5.htm

「橋爪の歴史」


「橋爪の歴史」







ご祭神の生前のお名前については、『養老郡志の編著者で橋爪の生んだ大学者であ
たの かわかっ る大久保休吾氏が、大正年聞から昭和初期にかけての研究で、秦河勝公であると推定さ
しんせんし うじろく れたが、最近数年間の調査研究によって、古事記・日本書紀・新撰姓氏録などの古い書
はたはたのきけのきみはたのみや AVこ さ 吋
物にあらわれる秦氏の祖先、秦酒公 (秦造酒)であり、その子孫で著名な河勝公をも
合杷せられている事が、ほほ確実視されるようになった 。 

氏は古代中国の秦の始皇帝 (の長城を造った人 BCO)世孫、孝武王
出たが、秦滅亡後、子孫は朝鮮半島に逃れ秦韓という国をつくったが秦韓もまた滅
亡、更に遺民は日本に渡来した ゆっきのきみ
秦氏の子孫、弓月君 (融通王)族を連れて大挙我が国に移住したのは、 五代応神 天皇の御代と前述の古書は云う弓月君は百済より帰化したが、その数は 一二七県九
種一八六七 O人、七 O戸で、これを国郡に分置して養蚕や絹を織る仕事に当たらせ


の酒公は百八十種勝をひきいて、上等の絹織物を庸調(租税の一種)として朝廷に多
うずまき
量献上したので、百円豆麻佐(ウツマサ後に太秦)の姓の賜ったと日本書紀にある(百八十種
は多種多様の意味であろう勝は諸説があるが令制の伴部にあたる下級管理職か) く に ほ ん ぎ
それ以来秦氏は古代の名族として記紀はもちろん、奈良時代の続日本紀には五三回も 登場している。
きんめいびだっょうめいすしゅんすいこ
秦氏の後育の秦河勝朝臣は、欽明・敏達・用明・崇峻・推古の五朝に仕えて功績があ
り、特に宮中神楽の制定と会計制度の確立に力を尽くし、また熱心な仏教徒であり、聖
ちょうあい
徳太子のご寵愛が深かった。
推古女帝の摂政が聖徳太子で、推古一一年
(六O三)一一 月に太子より河勝公に仏像を
賜わり蜂岡寺(後の広隆寺)を造って奉納している(日本書紀)
ぜん
このことについて永久四年 (一一一六)三善為康が撰した朝野群載の承和五年(八人) 一二月広隆寺縁起には「推古一一年冬に仏像を受け、推古三 O年に聖徳太子のために河
勝が建立した」とある


■秦民と垂穂郷


秦の民を多数この地に配置した理由は何であったろうか。国郡に分置するのは中央政 府の方針だったが、異国の 族をあまりに少数ずつ分散しては言語習慣の違いが生活に 困難をもたらすので、かなりの数であったろうそれだけに美漉に割当てられた秦民をどこに置くかには、国府の役人も困ったと思われる 当時の美濃の中心は西濃で、国府(いまの県庁)は垂井町府中にあった 国府の無い時
代も東国への出入口にあたる西濃は政治文化で重要な地位を持っていた 府中より橋爪までは二里程度 (約八キロ)、速からず近からず監督も可能である低湿
たてあな
でないので竪穴住居も建設しやすい 古橋爪は大和・伊賀・伊勢より東山道や国府に通ずる主要道の伊勢街道に沿い、水利
がよく、しかも水害に遭うことも少なく、移住の先進文化を持つ秦民族が生活を営むの
に最も適当な場所と考えたのであろう。田畑や家屋の水没の恐れの少ないこの地は、朝
廷に奉献するための養蚕織絹にも有利であったろう古橋爪に秦の民が居住していたと思われるのは、篠塚神社の由緒だけではない 奈良
らい んう ぱそくこうしんげ にある正倉院文書中の寧楽遺文に優婆塞貢進解があるが、その一通に「秦公豊足年廿九、
たぎ
美濃国当曙郡垂穂郷三宅里戸頭秦公磨之戸口」とあり、天平四年(七 三二 )三 月二五日の
日付が記載されている

(中略)

ところで、ここに居住していた秦の民はいずこに消えたのだろうか そもそも、固有の日本民族なるものがあった訳ではない アイヌ、蒙古、朝鮮、南方 中園、北方中園、タイ、ベトナム、カンボジアなどの混血融合した人々から日本民族は 成立したと云う秦の民も長い歴史の過程で何百回の混血を繰り返しながら、日本民族
の中に埋没していったのであろう



五. 古橋爪(橋詰) の 所 在 地

むかしの橋爪はどこにあったのだろうか





[出典]
http://www.tagizou.com/main/elibrary/pdf/36hasidumenorekisi.pdf


2014年12月18日木曜日


古墳時代(3世紀~6世紀頃)

 古墳時代になると、国家組織は更に複雑化し、幾つかの階層を構成するようになり、技術者はその業によって権力者に隷属し、生活の保護を受けました。
この様にして、技術者の分業化は進み、その仕事を専門にする集団が生まれました。
 玉作部・鏡作部・鍛部(かぬちべ)・楯部(たてぬいべ)・弓削部・矢作部・土部(はしべ)・鞍作部などは、その職業によって名付けられた技術集団の名称で、これらの集団には、貴族が大陸の進んだ工芸に憧れ、技術者を大陸から招き、土地を与えて、税を免じて優遇した人々も多く含まれていました。
 漢系の渡来人達は、かなり古くから畿内に住み、生駒山を挟み奈良の大和と大阪の河内に分かれて居住していました。
  その後、秦氏は地方豪族的な道を辿ったために、秦系の技術者が地方に分散していきました。
また、漢氏は中央と結びつき、官人としての地位を築いていったようです。
 奈良県田原本町の鏡作神社付近を中心に、黒田郷地域に移住していた鏡作部の人々は、かなり古く4世紀には存在していた鋳工集団で、5世紀以降は、多くの鋳工を抱えていた秦氏の支配下に組み込まれていたと考えられています。
鞍作部の人達も、蝋型造形の技術を持った技術集団で、後の仏教公伝の頃には、舎利容器、法具・仏像・金銅鍍金・燈籠・金銀象嵌・香炉などを蝋型造形法により鋳造し、畿内の下田、石上、三輪、五位堂などに分散し、活躍を始めました。
【帯方郡・楽浪郡滅亡の影響】 
西暦313年、公孫氏が支配していた遼東半島から朝鮮半島西部までの帯方郡・楽浪郡を、高句麗が攻撃し滅亡させました。
 これにより、その地にいた中国人または中国系工人(職人)達は、日本に渡来し、畿内で三角縁神獣鏡の製作を始めたと思われます。
 三角縁神獣鏡は、豪族からの需要に追いつかず、日本人にその技術を学ばせ、舶載鏡か仿製鏡(和製)かを迷わせる鏡を製作するようになりました。
しかし、渡来の工人が絶え、日本人工人だけにその技術は低下し、やがて消滅していったのではないかと、その出土品から考えられています。

[出典]
http://www.imono-ya.org/imonosinorekisi-kohunnjidai.htm

2)長野県内の弥生文化と朝鮮半島
長野県の下高井郡木島平村の根塚遺跡(ねつかいせき)は、東西105m・南北58m・丘頂標高329.66mの楕円形の低い根塚丘陵にあり、盆地に一面に広がる水田の中の独立した遺跡だ。自然残丘を利用したテラス状の段丘をもつ集団墳墓である。縄文時代・弥生時代・古墳時代・平安時代・中世にわたる複合遺跡であり、その中心が弥生時代である。この根塚と呼ばれる丘の中央部から発見された墳丘墓は、長方形で3段のテラスを造っているが、長方形の斜面には張石が一面に敷かれてある。弥生時代後期のあまり例を見ない墳丘墓といえる。ここから弥生時代後期、3世紀後半の箱清水期の土器が大量に発見された。千曲川流域の土器の特徴である赤色塗彩の特徴が見られる。更にその筆順から、朝鮮半島との関連を示す資料として話題を呼んだ「大」と記された刻書土器、3点もここから出土した。
また墳丘墓墳頂部に木棺が埋葬され、木棺には1振りの鉄剣と多量のガラス小玉や管玉が副葬されていた。この棺内から出土した細形管玉とガラス小玉の点数は県内最多であり、鉄剣は舶載の実戦刀であった。さらに、遺跡内の別地区からは2本の鉄剣が出土し、その内の2号剣には3箇所に渦巻文が確認され、「渦巻文装飾付鉄剣(うずまきもんそうしょくつきてっけん)」と命名された。2号剣は長さ74cm、幅3.5cm、厚さ1cm、弥生時代終末期の鉄剣としては日本最大である。この剣は柄頭の脇から右手に一本突起が出ていて、その先端は渦巻状に丸くなっている。柄尻は鉄を2つに割いて、内側に2ヵ所の渦巻文装飾が施されている。渦巻文の装飾は朝鮮半島南部の伽耶地方独特のもので、また上記3振りの鉄素材の成分分析から、鉄剣は朝鮮半島製であることが確認された。木島平村と伽耶との日本海ルートを通じた直接交流を示唆している。さらに蝦夷の蕨手刀と同様、刀身と柄が一体の共鉄柄で、柄によって反り生じている。
それにしても、弥生時代、2世紀から3世紀代前半に、朝鮮半島の南の伽耶、洛東江下流域の釜山あたりから日本列島にこの鉄剣が運び込まれて、木島平にまで来ている。木島平村から千曲川、信濃川を下ると、すぐ日本海、越後平野に通じる。寧ろ、野尻湖の手前、荒川から関川に下り、直江津に出る最短ルートに興味が惹かれる。しかし約4万~3万年前とされる骨器文化の野尻湖遺跡と、それに匹敵する和田峠を中心とする黒曜石文化の存在は、単にその流通ルートを、河川だけに限定する不自然性が感じられる。古代山間部の生業は、植物採集、漁労、狩猟等で、原始に近いほど、その生産性が低いため、広域的な領域を必要としていた。当然、人類にも獣道的なルートが、現代人には想像できないほど多岐に広がっていたと想像できる。人口密度は希薄であっても、そのルートの使用頻度は、現代を超えるものであったとおもう。現代文明の急速な進歩に惑わされ、古代人の懸命な生存を掛けた営みを軽視してはならない。山間部には、河川に頼らない行動ルートが、現代人の想像を超えた範囲で広がっていたと思える。
 いずれにしろ従来の日本の考古学の理解、つまり伽耶の地域から対馬、壱岐、北九州、瀬戸内から畿内へ入り、そして畿内勢力によって、後の東山道を通って信濃の国にもたらされたという見解は、考古学的事実ではなかった。日本列島は、その存在が現代のように形付けられる前より、北海道から沖縄まで、諸民族の大移動が繰り返されていた。北海道も例外ではなく、ましてアイヌ族は、独立して存在せず、どの時点で、その人種が形成されたか、誰が説明できるのだろうか。古代では、国境なき民が、絶え間なく流入し、その生存権を争い、その勝者が支配権を握るが、混血が止む事はない。インドでも、厳しいカースト制の戒律がありながら、インド人の多くの容姿は、明らかに混血民族化している。
朝鮮半島南部の伽耶から人と新しい技術が日本海沿岸に直接に渡来している。海は文化を隔てるものではなく、寧ろ容易に人と物を繋げている。つまり大和政権や北九州を媒介せずとも、越の国や東北地方、更には北海道に、直接伝播する交流が、我々が想像すり以上も前から存在していた。東日本の古代文化の理解は、相当考え直さねばならない。


[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/emisi/b.htm

和田 ワダ 綿(わた)・和田(わた)は、海(ばた、はた)の転訛にて、海(あま)族居住地を称す。ベトナムから中国雲南省附近に居た海洋民は黒潮暖流に乗って沖縄・九州・太平洋岸へ、また中国沿岸部や朝鮮半島・日本海岸へ土着した。海洋民のことはウツミ・コシ・斎藤・鈴木・秦・渡辺等参照。先代旧事本紀巻一陰陽本紀に「伊弉諾、伊弉冉の二尊、海神(わたつみのかみ)を生む。名は大綿津見神(おおわたつみのかみ)」とあり。大綿津見神の子宇津志日金折命は別名穂高見命とも云い、安曇族の祖神なり。此の海神は慶尚南道釜山港附近にあった委陀(わだ)・和多から渡来す。金官・須奈羅は今の金海。背伐(はいばつ)・費智(ほっち)・発鬼(ほっき)は今の熊川。安多(あた)・多多羅(たたら)は今の多大で、四村(村は今日の郡程度)は対馬海峡・朝鮮海峡に面した南加羅の地である。日本書紀継体天皇二十三年条に「新羅は四村を攻略す、金官・背伐・安多・委陀、是を四村とす。一本に云はく、多多羅・須奈羅・和多・費智を四村とするなりといふ」。敏達天皇四年条に「新羅は、多多羅・須奈羅・和陀・発鬼、四村の調を進る」と見ゆ。南加羅の和多村の渡来人集落を和田と称す。○男衾郡折原村字和田及び立原村字和田(寄居町)は古の村名にて、今の寄居運動公園附近なり。鉢形古城跡内郭案内記に「武州鉢形の古城跡追手は立原村也、続て諏訪の神社あり、此社の南堀の上に御金倉と言所有是なり、北の方は和田村なり鉢形へ通る小路あり、和田坂の東に巻渕あり」と。鎌倉浄光明寺嘉慶三年文書に浄光明寺領武蔵国男衾郡内和田郷事、応永二十七年文書に武蔵国男衾郡内和田郷、享徳二年文書に武蔵国男衾郡和田郷と見ゆ。和名抄の男衾郡幡郷の地か。○秩父郡下飯田村字和田(小鹿野町)は、平村慈光寺元禄八年棟札に「和田村、飯田村、須々木村」と見ゆ。元応二年丹党中村文書に「秩父郡三山郷小鹿野の和田の屋敷一所」と見ゆ。下飯田村は小鹿野村より分村す。○那賀郡中沢郷駒衣村字和田(美里町)は、丹波国中沢文書に「明徳元年、武蔵国中沢郷内和田村藤三郎入道在家・同田一町・同名々寺の事」。「永正四年、武蔵国中沢郷内和田村藤三郎入道有宗同田一町の事」と見ゆ。○高麗郡脚折村字和田(鶴ヶ島市)は古の村名にて、天正二年白鬚社棟札に「白鬚大明神七ヶ村惣社、臑折、太田ヶ谷、針宮、和田、高倉、大六道、小六道」と見ゆ。○大里郡和田村(熊谷市)、入間郡入西領和田村(坂戸市)、越生郷和田村(越生町)、埼玉郡和田村(行田市)あり。○小名和田は、葛飾郡神間村、埼玉郡久喜町、足立郡大牧村、入間郡上谷村、高倉村、二本木村、下安松村、高麗郡平沢村、栗坪村、高倉村、比企郡玉川郷、上古寺村、横見郡御所村、幡羅郡弥藤吾村、秩父郡久長村、河原沢村、下吉田村、長留村、日尾村、日野村、薄村、横瀬村、中野上村、下名栗村等にあり。また、葛飾郡花和田村、宇和田村、足立郡大和田村、新座郡大和田町、入間郡箕和田村、横見郡大和田村、児玉郡沼和田村等あり。此氏は海岸部の常陸国、海神安曇族の渡来地信濃国に多く存す。○群馬県碓氷郡松井田町四十二戸、桐生市百三十戸。○栃木県安蘇郡田沼町三十戸、足利市百十戸。○茨城県久慈郡金砂郷町七十三戸、水府村八十五戸、那珂郡那珂町四十六戸、大宮町七十二戸、東茨城郡神栖町三十八戸、猿島郡猿島町四十三戸、日立市二百戸、常陸太田市百戸、水戸市百四十戸。○千葉県安房郡千倉町三十八戸、市原市百十戸。○長野県上水内郡豊野町三十五戸、小川村五十四戸、鬼無里村七十二戸、戸隠村百三十戸、中条村三十二戸、更埴市九十四戸、上田市百三十戸、松本市百戸。○新潟県西蒲原郡分水町四十二戸、三島郡寺泊町六十七戸、北魚沼郡広神村三十五戸、小千谷市三百五十戸。○福島県いわき市百四十戸。○山形県東置賜郡川西町三十戸、西村山郡河北町六十戸。○秋田県仙北郡協和町四十三戸、鹿角郡小坂町五十戸。○青森県三戸郡五戸町四十三戸、上北郡上北町百七十戸、七戸町五十戸、青森市三百四十戸。○島根県簸川郡佐田町七十戸、多伎町三十戸、松江市百八十戸、大田市百九十戸、江津市百戸あり。

[出典]
http://homepage1.nifty.com/joichi/4-6yu.html

また一方、武田晴信は、自ら信府深志城(筑摩郡)から信濃国川中嶋(更級郡)の地に進出すると、7月5日、板垣信憲(譜代衆)を始めとする別働隊をもって、信・越国境の信濃国小谷(平倉)城(安曇郡)を攻め落としている。
6日、前線の水内郡で活動する宿将の小山田虎満(譜代衆。信濃国内山城代)に対して返書を送り、各々が奮励されているゆえ、其許の陣容は万全であるとの報告が寄せられたので、ひときわ満足していること、当口については、敵方の信濃衆である春日(信濃国鳥屋城主か)と山栗田(善光寺別当・里栗田氏の庶族)を追い払い、寺家(善光寺)・葛山衆に人質を差し出させたこと、嶋津(長沼嶋津氏の庶族である赤沼嶋津氏)については、今日中に服従する意思を示しており、すでに以前から誼みを通じているため、別条はないであろうこと、この上は詰まるところ、信濃先方衆の東条(越後に逃れた東条氏の庶族。或いは武田氏の東条(雨飾城)在陣衆か)と綿内(同じく井上氏の庶族。信濃国綿内城主)ならびに真田衆と協力し、敵方の調略に努めるべきこと、よって、今が信濃奥郡を制する好機と見極めており、いささかも油断してはならないことを伝えている。更に追伸として、密かに綱島(更級郡大塚。犀川河畔)の辺りに布陣するつもりでいたところ、若し越後衆が進撃してきた場合、彼の地は防戦に適していないとする諸将の意見に従い、佐野山(同塩崎)に布陣したことと、この両日は人馬を休ませたので、明日に軍勢を進めることを伝えている。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 147号 長尾景虎願文(写)、148・149号 長尾景虎書状 『戦国遺文 武田氏編 第一巻』 549号 千野靭負尉勲功目安案558号 武田晴信書状、561号 武田晴信書状写、562・563号 武田晴信書状、564・565・566・567号 武田晴信感状、568号 武田晴信感状写、569号 武田晴信感状、570号、武田晴信感状写、571号 武田晴信感状、609号 武田晴信書状写 

[出典]
http://blog.goo.ne.jp/komatsu_k_/e/25ef175faffa4a3014b0d49d6a067961

下野国二荒(ふたら)山信仰に基づいた猿丸大夫の伝説がある。林道春(はやしどうしゅん)の「二荒山神伝」によると、「昔、有宇中将(ありうちゅうじょう)という殿上人が勅勘をこうむり、奥州小野郷の朝日長者の客となり、長者の娘を妻とした。その孫が猿麻呂といい、奥州小野に住むによって小野猿麻呂といったという。そして、有宇中将とその妻は死して二荒山の神となり、それぞれ男体権現、女体権現となった。その後、山中にある湖をめぐって赤城の神と争いになり、二荒の神は大蛇の姿で、赤城の神は百足(むかで)の姿で戦ったという。二荒の神は敗色濃く、鹿島の神の言を入れて、弓の名手で力の強い猿麻呂の助けを仰いだ。猿麻呂は大百足を倒し、利根川の岸まで追って行ったがそこで引き返した。血が流れて水が赤くなったので赤沼、山を赤城山、麓の温泉を赤比曾湯と呼び、敵を討った場所であるため宇都宮という名ができた。」というもので、小野猿麻呂は宇都宮大明神と崇められた。猿丸大夫の祖父、有宇中将という名が、どうも在原業平の在五中将を連想させる。「有」は「在」ではないか。業平は惟喬親王を通じて小野小町と関係のある人であると共に、相手が猿につきものの朝日長者の娘、つまり太陽であり、大蛇が化身であることも合わせて興味は尽きない。同じ三十六歌仙の一人というのも、気になるところである。

[出典]
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/wani.htm


 古代寺院は、比企地域とその周辺では7世紀前半に寺谷廃寺(滑川町)に現れ、その後、7世紀後半以降、馬騎の内廃寺(寄居町)、西別府廃寺(熊谷市)、勝 呂廃寺(坂戸市)、小用廃寺(鳩山町)などが造営され、須恵器窯で瓦の生産が行われるようになった。そして、この時期になると、大谷瓦窯跡(東松山市)や 赤沼国分寺瓦窯跡(鳩山町)が生産を開始している。

[出典]
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kodai-musashigaku/newpage46.htm

 

赤沼跡




この地には湧水群があり、その中で赤沼は一際大きい沼であった。この沼には古くから多くの伝説が伝えられる。
・十和田湖で南祖坊に負けた八ノ太郎が、この地で矢傷を沼の水で洗い手当てをしたところ、水は八ノ太郎の血で真っ赤に染まり、それ以降、この地は赤沼と呼ばれるようになった。
・昔、猟師がこの沼に来ると、つがいのオシドリが沼を泳いでいた。猟師は静かに弓に矢をつがえ、狙いを定め矢を放つと、狙いたがわず雄の方を射止め た。猟師は羽をむしり火をおこし、焼いて食べてしまった。残った雌は、夫恋しさに涙を流しながら飛び回り村々をさがしていたが見つかるはずもなく、ついに は涙も枯れて目から血の涙を流し飛び回った。やがて、地の涙が落ちた村に悪病がはやり、凶作に見舞われた。村人たちは供養の社を建てて肉を食べないことを 誓ったと云う。

[出典]
http://mitinoku.biz/hist_walk/hist_aomori/?p=1773

赤沼古代瓦窯跡


南比企窯跡群(みなみひきようせきぐん)とは、埼玉県比企郡鳩山町を中心に嵐山町南部、ときがわ町東部など比企南丘陵一帯に分布する57支群以上総数数百基に達する大規模な須恵器焼成窯跡群を包括的に総称する語である。

8世紀初頭から操業を始めた山下窯跡群など泉井、熊井、赤沼地区では、741年(天平3年)の国分寺創建にさけがけて窯業生産が行われていたことが判明している。赤沼瓦窯では、国分寺の瓦のほかに、北武蔵地方の群名瓦を焼いていたことが知られている。この窯跡群の須恵器は、奈良時代には、相模(現神奈川県)や下総(現千葉県)方面にまで製品を供給し、一般農民層への須恵器の普及により生産を増大、比企、入間など北武蔵の南部では、それまでの土師器坏を駆逐していったことが判明している。
北側の支群としてときがわ町の亀の原窯跡群と嵐山町の将軍沢窯跡群があるが、中心になるのは鳩山町大字赤沼字広町地区などにゴルフ場造成工事に先立って窯跡50基、ロクロピットを伴う須恵器工人集落の竪穴住居跡150 軒、粘土採掘坑561基が検出された鳩山窯跡群で、この窯跡群の名称を冠した遺跡調査会によって1984年から85年にかけて発掘調査が行われた。工人集 落は、窯と地続きの2~3軒で一群をなしており、全盛期には7~8群あったと推定されている。支群とされる亀の原窯跡群は、ときがわ町日野原を中心に、2 支群7基以上の窯跡があることが確認されている。将軍沢窯跡群は、嵐山町将軍沢地区を中心にときがわ町日野原地区まで伸びている6支群40基以上の窯跡群 である。10基の窯跡が確認された鶴巻窯跡群、9世紀後半の須恵器窯1基が調査された日野原窯跡群がある。この二つの大きな支群の操業が活発化するのは9 世紀にはいってからであるが、南比企窯跡群としては、生産活動が徐々に衰退していくことになる。


赤沼山


赤川(亀田川)の上流に、人もおそるる魔の沼有りと聞き、これこそ良き修行ぞ。

我も宗祖日蓮大聖人に繋がる尼僧となり、法を布教せんと、既に内地に二山を開く。

第三にこそ、この魔の沼を開山し、一切衆生に妙法の良薬を授けんと赤川村に来り、

当時石屋の前に住む農夫、斉藤老人を頼み、だんづけ馬を支度させ、天気の良きを幸いに、

熊笹を押し分け、山に入らんとするや、次第に曇りて雨となり、雨具の用意なき濡れ鼠、

雨は強く風も吹き馬は歩まず、妙要法尼も手綱を引いて先に立ち、南無妙法蓮華経と

懸命のお題目に力を込めて進まんとす。
斉藤老人も後より、馬の「ひり」を押して一足一足と山中に入る。いまの見晴台まで

六時間掛かり辿り着く折、一瞬大雨となり、馬は鬣を振り立ていな啼き、遂に一歩として

前に出ず、如何様にもなし難し。この時法尼は、大音声を出だして南無妙法蓮華経と

お題目を三遍、妙法蓮華経如来寿量品第十六自我得佛来云々と、久遠げを読誦す。



やがて我此土安穏天人常充満(我が此の土は安穏にして天人常に充満せり)の文に至るや、

不思議や嵐は止み、雨は晴れ、彼方の大木に、人類の如き姿が、

空中に舞うが如きをありありと見る。

亦も心にむち打ちて午後五時、奥の院の沼に着く。


老人を帰した妙要法尼は、山中に只一人題目修行を行い、人の恐るる沼に入り


「南無法華経守護の諸大菩薩諸天善神等、妙法力を以って、

此の沼に主おらば得道させ給へ、如来秘密神通之力」

と命を投げ出し修行をなし、一度市内にかえる。


時に大阪より信者八名来りて無理に連れかえさる。

而し大阪に心落ち着かず、亦函館に来り赤沼山に入り、

沼の端に草小屋を用意し、二十一日間荒行す。

無事荒行をなし終わり、帰函するに、亦もや大阪より信者来りて、致し方なく連れ帰さる。

大阪の道場に於いて信者一同集り、北海道の山中に赤沼山も何もなし、

利生有難き神仏住まる訳はなし、心を落ち着けて当道場を発展させる様

せめられたるこの時、姿あたかも大蛇の如き赤沼代天女神現われけり。


「我は北海道の赤沼なり、妙要法尼を見込んだ故に幾度となく呼び寄せしものなり。

若し疑い有らば赤沼山に来て見よ、その時こそ不思議を現わさん。努々疑うこと勿れ」


と告げ給う。


余りに不思議と世話人六名が亦法尼と共に函館に来り、赤沼山に入り奥の院沼の端において

異句同音にお題目を唱ゆれば、不思議や大老松の如き大木が沼の中より水泡と共に

浮き上り消え、又五色の蓮華が一輪浮びし事、口に言い難く心に計り難し。

この沼に主住むこと疑いなし、我が命に代えても法華経にて得道させんと決心す。



この間二ヵ年、大阪より函館に通うこと実に八回、大正十二年遂に滞道を決し、

五稜郭に道場を開き、赤沼大天女の得道に尽くし来る。


茲に昭和六年十二月十五日より、一百日間の大荒行をなす。

此の歳は三十年間無き大雪の中に、大滝に入ること一日八回、

水の行、火の行、断食の行、亦火物断ち、無言の行等々、

この難行、この荒行無事満願す。



丁度満願成就の朝、沼の中より、今当山に安置せる姿を以って現れ給う。


「如何に大道妙要法尼、我はこの沼に棲む赤沼なり。

昔より今日まで正直に荒行をなすもの一人も来たらず、

我が得道のため大阪より当初に呼びたるものなり」

更に言葉を続けて曰く


「今を去る、六百数十年前、日持大上人旧六月一日渡道す、

我また得道の為に新六月一日を以って呼び寄せしものなり。

当山開基の為、今日まで難行苦行嬉しく思うぞよ、

今日より、身延山七面大天女の弟子として、赤沼大天女と勧請すべし。」



又我に一人の眷属あり、妙沼天王と名づけるべし。

此の山のふもとに寺を建て、〔※赤沼本山〕となし、一切衆生に参詣せしめよ。

我れ末法に守護するものなり」
、と。

法尼は有り難やと涙にくれて、五稜郭を引き上げ、

昭和九年当山を現在地に建立、十月入仏式を厳修。
以来、着実に歩み続けて現在に至る。

知る人ぞ知る。

一寸先は闇の世に運の悪い時、困った問題に衝った時、

医師の見離した難病など、

最後の望みの綱を赤沼大天女のご守護に託して

遂に開運、奇跡に浴せる人々の例、その数を知らず。

故に参詣の善男善女、すみやかに罪障を消滅し、

現世に不祥の災難を払い、

後生には霊山寂光土に至らんこと

決定して疑いなきものなり。


[出典]
http://akanumasan.jp/emjroots1.html

 諏訪は固い地盤の上にあり、意外にも地震の損害は、赤沼(諏訪湖の南側、四賀の平坦地にあった村。ここにはカッパが住むと言われていた茅葉「ちば」ケ池 があったと言い伝えられているように、渋水で赤く濁った湿地があちこちにあったので、赤沼と呼ぶようになった。)・島崎に例外的に記録される。火災も城下 町に発生してるが、それほど多くはない。諏訪の災害の最たるものは、河川の洪水と湖水の氾濫であった。四囲の名だたる山岳から流れる各所の河川は、諏訪湖 に集まるが流出口は天竜川のみ、少しの長雨でも水害が発生する。まして多年の治水工事よる大規模な新田開発の結果が、水害の規模を益々拡大するという皮肉 を生んだ。
 また江戸時代全国的に多発した冷害の被害は、高冷地のため諏訪郡は頻度も程度もはげしかった。蕃は随分郡民思いの対策を講じている。その結果が、江戸時 代一揆の発生がなかったという稀有な蕃となりえたのだろう。蕃の施策は、新田の冠水が頻繁な村には、定納を求めず、年々、検見してこれを定めた。小和田村 (諏訪市役所の北側・大手辺り)にいたっては村高がなかった。飢饉のときは、粥の炊き出し、富裕者の翌年の苗の支給を求めた。


[出典]
http://rarememory.sakura.ne.jp/edo/edo.htm
赤沼 アカヌマ  葛飾郡赤沼村(春日部市)、比企郡赤沼村(鳩山町)あり。また、埼玉郡樋遣川村字赤沼、入間郡今成村字赤沼、宗岡村字赤沼、福岡新田字赤沼あり。長野県上伊那郡箕輪町十八戸、南安曇郡穂高町三十戸、長野市北尾張部二十戸、同市北長池十八戸、福島県郡山市四十戸、岩手県下閉伊郡田老町二十七戸、青森県上北郡 七戸町十三戸、三沢市三十戸、島根県隠岐郡西郷町二十戸あり。

[出典]
 http://homepage1.nifty.com/joichi/1-1a.html


アカヌマ 赤沼 長野県、埼玉県、北海道。①長野県長野市赤沼発祥。鎌倉時代から記録のある地名。長野県長野市での伝承。②埼玉県春日部市赤沼発祥。③福 島県田村郡小野町小野赤沼発祥。④青森県十和田市赤沼発祥。⑤岩手県宮古市田老の赤沼山の付近から発祥。※福島県郡山市中田町赤沼に分布あり。※埼玉県春 日部市赤沼に分布あり。※長野県諏訪市四賀赤沼に分布あり。

[出典]
http://blog.livedoor.jp/namepower/archives/2863599.html








赤沼承左衛門金200疋并幸右衛門金100疋献上願)
北長池村赤沼承左衛門

幸右衛門→御代官所         天保12年丑7月

[出典]


http://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/089-12.pdf


北長池村絵図面

[出典]




http://digikura.pref.nagano.lg.jp/kura/id/03MP1501030170-en




水内郡北長池村


前身各村〜旧朝陽村の歴史

2014年12月17日水曜日

諏訪社


創建

古事記』・『先代旧事本紀』では、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命国譲りするように迫ったとされる。これに対して、大国主命の次男である建御名方命が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる[7]。説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれている。なお、この説話は『日本書紀』には記載されていない。
以上はあくまでも神話の域を出ないが、これを基に土着の勢力の上に外から入った神氏によって成立したのが当社であると考えられている[8]。諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは全国でも群を抜いており[9]、当地が繁栄していた様子がうかがわれる。

古代

祭祀が始まった時期は不詳。文献上は『日本書紀』の持統天皇5年(691年)8月に「信濃須波」の神を祀るというのが初見である[10]
平安時代の『日本三代実録』には「建御名方富命神社」[11]、『左経記』には「須波社」と記載されている[12]。また『延喜式神名帳』では「信濃国諏訪郡 南方刀美神社二座 名神大」と記載され名神大社に列しているが、この二座が上社・下社を指すとされる[13]。また、信濃国一宮とされた。
古くから軍神として崇敬され、坂上田村麻呂蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたと伝えられる。

中世

鎌倉時代には「諏訪社」の表記が見られ、また「上宮」・「上社」の記載もあり[14]、この頃には上社・下社に分けられていた。なお、治承4年(1180年)が上下社の区別が明示されている初見である[15]。他の神社同様、当社も神仏習合により上社・下社に神宮寺が設けられて別当寺(神社を管理する寺)となり、上社は普賢菩薩・下社は千手観音本地仏とされた。
上社南方の御射山で行われた御射山祭には鎌倉を始め甲斐・信濃など周辺の武士が参加した[16]。それに加えて、軍神としての武士からの崇敬や諏訪氏の鎌倉・京都への出仕により、今日に見る諏訪信仰の全国への広まりが形成された[10]。また、諏訪両社においても大祝を中心として武士団化が進み、両社間で争いも多かった[13]
戦国時代に甲斐国の武田氏と諏訪氏は同盟関係にあったが、天文11年には手切れとなり、武田信玄による諏訪侵攻が行われ、諏訪地方は武田領国化される。信玄によって永禄8年(1565年)から翌年にかけて上社・下社の祭祀の再興が図られた[17]。信玄からの崇敬は強く、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられる。

近世

江戸時代に入り、江戸幕府第3代将軍徳川家光によって上社に朱印1,000石・下社に500石が安堵された。また高島藩から上社50石(のち100石)・下社30石(のち60石)、会津藩主・保科正之から上社100石・下社50石が寄進された[10][17]

近代以降

明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に列し「諏訪神社」を正式名称とした。その後、明治29年(1896年)に官幣中社、大正5年(1916年)に官幣大社と昇格した。
戦後は神社本庁別表神社の一社となり、昭和23年(1948年)から他の諏訪神社と区別する必要等により「諏訪大社」の号が用いられている。