2015年4月11日土曜日

島津忠直


 本能寺の変後松本以北の悉く上杉勢の支配下に置かれた為、貞慶が深志城に入っても、会田・青柳・麻績の帰属は不確かなものであった。会田氏は鎌倉時代から会田御厨の地頭に補任された海野氏の一系譜・小県郡の岩下氏で、武田晴信侵攻に際し同じ海野氏の塔原氏と同様小笠原長時を見限り武田氏に服属し、その治世下軍役に励んできた。貞慶が深志に入城すると地理的な関係からも逸早く報復された。会田氏も「午の11月、会田の城の者ども越後へ内通仕り、河中島より合力を乞う、柳生(やきゅう;松本市中川矢久)の入りに小屋を立居申し候」『岩岡家記』と、当時会田の当主が幼少の小次郎広忠であったため、会田城より小県寄りに新砦を築いた。貞慶は天正10年11月3日から会田を攻め、犬甘半左衛門久知を総大将に犬甘衆20騎、旗本衆30騎、仁科衆10騎、塩尻衆5,6騎の軍勢であった。矢久の砦に小県方面の援軍多数も籠り奮戦したが、日を経ず小県兵ともども守将堀内与三左衛門が討ち取られ落ちた。小次郎は小県郡青木に逃れたが五輪の尾根で自決したという。海野氏系会田氏は完全に滅び、当地は小笠原氏が領有した。この合戦の際、深志城にいた貞慶が犬甘久知に送った書状が載る『御書集』によると、戦地に送る鉄砲と玉薬の手当てに汲々としている様子が窺える。「鉄砲の儀、明日急度指し越す可く候」「鉄砲の玉薬、先づ千放差し越し候」「玉薬あはせ次第、先づ2百放指し越し候、出来候はば追々指し越す可く候」と3日から6日に掛けて苦心して手当てしている。合戦は6日を境にして決着を見たようだ。
 翌天正11年2月12日、苅谷原城主赤沢式部少輔清経が塔原城主海野三河守、小岩岳城主古厩因幡守盛勝らと謀叛を企てたことが発覚し切腹を命じられた。赤沢氏は小笠原長経の2男清経以来の小笠原氏一族で赤沢左衛門尉は武田氏に帰属して、『武田分限帳』によれば軍役40騎で仕えた。元々深志北方、本郷・岡田方面を領有していた。天文17年の塩尻峠の合戦で小笠原長時を見限り、武田晴信に属し上杉輝虎との前線の要である水内郡長沼城に在番した。そして、左衛門尉の子式部少輔清経のとき武田氏が滅亡、清経は信濃に復帰した貞慶に属した。その後、小笠原氏の同族の故をもって、小笠原貞慶の厚遇を受け、会田・小県方面の備え苅谷原を任された。しかし、貞慶に心服したわけではなかった。特に筑北地方の族長は、上杉・徳川両勢力が拮抗する最中、そこに貞慶が絡み、動向を見誤れば一族は消滅する、その切所で迷う状況下にあった。
 2月、赤沢清経は刈谷原在城時に密かに上杉氏と通じ、塔原城主海野氏、小岩岳城主古厩盛勝氏らと結んで貞慶に謀叛を企てる。海野・古厩両氏は武田氏が安筑地方を治世下に入れると忠誠を誓い、本能寺の変後は上杉景勝に臣従した。貞慶が深志城を奪うと地理的にも近く、善光寺平や仁科方面に通じる要衝でもあるがため、古来からの小豪族の宿命で、一族存続のため直ちに臣従した。ところが、同様の立場であった日岐・会田が貞慶に征伐されると、彼らよりも深志に近く、しかもかつて小笠原氏を裏切っている、やがて討伐されると疑心が積り、小県に通じる苅谷原城主赤沢清経を誘い古厩氏の小岩岳城に軍兵と兵粮を集め、上杉の援軍を待つ計画であった。山麓の居館を中心に家臣団屋敷などを配置し、それぞれ独立した防御力を持たせた「館城」形式の小岩岳城は要害であった。
 この謀叛は兵を招集する間もなく、2月12日に逸早く露見し、赤沢清経は切腹を命じられ、新たな苅谷原城主に小笠原出雲守頼貞が任じられた。これで信濃の赤沢氏は滅亡した。貞慶は、深志城に海野、古厩両氏を呼び赤沢氏と同心し逆心ありとして、翌日子の刻(夜12時)、成敗した。2月16日付けの犬甘半左衛門宛の貞慶の花押状に「逆心に加わって以っての外の条、申し付き、悉くうちはたし候、此の方之者には、手負い一人も之無き候」とあるが、同じく犬甘氏への16日の書状では、「古厩平三(盛勝の子)をも、細野之郷(安曇郡)にて討ち捕り候、沢渡九八郎も召し執り候、仁科之仕置何れも思ふ様に候」とある。その書状から塔原城の兵粮が一俵残らず古厩城に運ばれ、「古まやのこやに俵等さいけんなき事に候、悉く兵粮当城(松本城)へうつし、こやをは、やきつくし申し可く候」と小岩岳城は焼き払われた。
 仁科氏の支族で千国の庄沢渡郷(北安曇郡白馬村神城)を本拠とした沢渡九八郎が、貞慶が小谷平定のため派遣した細萱河内守に捕らえられた。沢渡などの仁科氏一族は、奥州の前九年の役(1051‐1062年)に源氏の家人として参戦している、少なくとも5百年を超える地縁があり、一族の諸侍が満遍なく土着している。その仁科・小谷地方を、30余年も牢浪していた小笠原貞慶の一族が早々に鎮圧できるものではない。しかも上杉景勝と直接境を接する枢要な地であり、この地の保全こそが安筑両郡支配を確実にさせる。貞慶は沢渡氏を臣従させることに成功した。天正11年5月には、その相続を安堵している。深志入城の当初、小笠原領国を形成するにはほど遠く、貞慶自らの生存すら危ぶまれていた。まさに「大海に杖打ちたる躰(態)に候」であったが、漸く貞慶は安筑地方と仁科・小谷地方をほぼ制圧した。

9)小笠原貞慶と麻績地方
 青柳城主の青柳氏は筑摩郡の在地領主で、麻績氏の一族であったが、川中島をめぐる甲越の勢力争いに巻き込まれ、去就の難しい立場になっていた。拮抗する甲越の戦力が直接ぶつかる、いわば「境目」にあり、在地領主たちは、上杉・武田の2大勢力の狭間で数々の苦難を強いられていく。「第一次川中島合戦」に際しては、筑摩に深く侵攻し、勢いに乗ずる上杉軍によって青柳城周辺が放火されている。この筑摩郡や埴科郡あたりは謙信、信玄の死後も強力な確たる領主が不在の地で、武田氏滅亡後は上杉景勝と徳川家康の実力者同士が領有を競い、その最中、青柳城は上杉景勝と小笠原貞慶の争奪戦に巻き込まれ、再び戦火に見舞われた。
 築城年間は定かではないが、青柳城主(東筑摩郡坂北村青柳)の青柳氏は、麻績氏の一族で、伊勢神宮の麻績御厨預職としてこの地に居館を構え、守護小笠原氏に仕えた。天文19(1550)年、小笠原長時は武田晴信により林城を自落させられ、葛尾城の村上義清を頼った。この後、長時は村上義清とともに筑摩郡周辺で武田軍に抗戦するが、天文21年12月、立て籠もっていた中塔城を自落した。武田軍は小笠原氏の残党を掃討し、天文22年4月、村上義清の本城葛尾城も自落させ、その時、青柳近江守清長、頼長父子も武田に降った。この月15日には晴信の臨席のもと、青柳城は鍬立をされている。
 村上義清は越後の長尾景虎の援軍を得て旧領回復のため筑摩・小県を進撃した。4月12日、更埴市八幡附近で武田軍と戦い勝利し、同月23日、於曾源八郎を討ち取り葛尾城を奪還した。これに対して晴信は青柳城を初め、麻績城、大岡城を重点的に守備すること徹した。8月には村上義清が立て籠もる塩田城を自落させるが、上杉謙信の援軍が川中島に侵攻、9月1日には荒砥城が落城した。同月3日には青柳城周辺を放火された。武田軍は同月13日に越後勢に占拠された荒砥城、青柳城を放火した。これを後世、『第一次川中島合戦』と称した。
 以後、青柳氏は武田軍の傘下となり、弘治4(1558)年4月には青柳清長は晴信より、その本拠地の北方の更科郡の大岡城の守備を命じられている。
 天正10(1582)年の武田氏の滅亡後、青柳頼長は織田信長の支配下に入った。6月2日の本能寺の変で信長が横死すると、筑摩郡には上杉景勝が進出し、青柳氏は上杉氏の支配下に入った。7月16日、徳川家康の支援を得た小笠原貞慶が深志城に入ると、上杉氏を離反してこれに従った。同年11月、会田落城後、貞慶から青柳氏に会田氏の旧領の会田・苅谷原・塔原・明科・田沢などが与えられた。会田氏攻略以前に貞慶は青柳氏を会田氏の旧領を宛行う条件で誘降し、会田氏を孤立させた。そのため青柳氏は会田落城の間、全く動かなかった。貞慶は青柳氏を自陣に引き入れ、麻績地方攻略の拠点とし、その先の川中島を見据えていた。
 翌天正11年2月、貞慶は子の幸若丸(秀政)を家康の許に送り、恭順臣従の意を示した。家康から自ら飼育する鷹が届けられ、近日中に自分が信濃経略のため甲斐に出馬するから、諸境の仕置を存分にするよう申し付けられた。その上、貞慶の申し分に同心を約し、来る7月7には、幸若丸が三河の家康の許へ下着することとなった。貞慶は感激し「とかくに腹を切り候共、家康御前一すじより外当方には覚悟之無き候」とまで、家康に絶対的な忠誠を覚悟していた。貞慶の真意は徳川家康を主君と仰ぎ、その権勢の傘下に入り、それを誇示し、自己の家臣団を絶対的に統制しようとした。
 当時、信濃川中島4郡のみが、秀吉に帰順した上杉景勝の勢力圏にあったが、他の信濃の諸勢力の大勢は家康に靡いていた。家康は柴田康忠大久保忠世などを派遣し、筑北地方の上杉方諸将を調略していた。
  『景勝代記』は「天正11年3月、又しば田(新発田重家の乱)へ御出馬と思し召し候処、信濃海津より屋代逆心仕り、海津を引き払い、汝在所へ引き籠る、麻績・青柳同心にて家康御手に属す、此の静謐に信州へ御出馬也。」とある。これに相前後して、屋代秀正の兄、小県郡室賀の室賀山城守信俊や更級郡佐野山の塩崎氏らが、続々と家康の陣営に走った。家康は秀吉との対決を目前にし、上杉の南下を恐れていた。貞慶が府中から上杉の勢力を駆逐し、さらに筑北への勢力拡大は望ましいことであった。
 景勝も追い込まれていた。下越後新発田へ進発の予定を急遽信濃へ出陣とした。南北信の境目に在る要地を制圧するため、天正11年4月、岩井昌能を初め清野・赤尾・西条・綱島・大室・保科などの諸将に動員令を発し、屋代・麻績に侵出、青柳城を攻めて落城させた。4月8日夜、景勝軍が到着する以前に、塩崎氏は何処かへ逃げ去り、屋代氏は三河の家康の許に、青柳氏は松本の貞慶を頼って逃れた。
 貞慶は麻績への上杉進出の報を受け、4千の兵を率いて青柳へ向かっていたが、鳥居峠で早くも麻績落城と聞き引き返した。
 5月12日、上杉景勝方の小田切四郎太郎が仁科表に侵攻し小笠原軍と戦っている。その際、沢渡盛忠ら沢渡十人衆が戦功を挙げている。盛忠は翌天正12(1584)年安曇郡美麻の千見城に在番し、上杉軍の侵入に備えていた。

 天正12(1584)年3月、徳川家康と羽柴秀吉は尾張の小牧山で戦っている。家康は秀吉方の景勝を牽制させるため、貞慶に麻績地方へ侵攻させた。貞慶は上杉方の青柳方面の備えが堅いため、3月初め、渋田見・細萱・等々力(とどりき)などの仁科衆に上杉靡下の大日向佐渡守(おびなたさどのかみ)が守る千見の番所から小川方面に出て、水内郡の鬼無里を攻略させた。この戦いで仁科衆は30余りの首を討ち取っている。
 貞慶は3月28日と4月4日の2度にわたり青柳城を攻撃し二の曲輪まで攻め寄せた。その後青柳城は落城し、城主春日源太左衛門は川中島まで落延びている。4月には麻績城も攻略され、城主下枝氏友は斬殺された。麻績城には小笠原長継を在番とした。
 貞慶は景勝の来襲に備え、青柳頼長に麻績の東方の安坂城(東筑摩郡筑北村坂井下安坂)を守らせ、冠着山に監視哨を置いた。4月16日の日岐城番の犬甘半左衛門久知宛の書状が興味深く、上杉軍が侵入してくれば青柳頼長が法螺貝を吹き鳴らすので、久知は麻績の西方にある大岡の笹久まで出陣すると同時に、即松本へ飛脚を寄越せ、夜中であっても直ちに麻績へ出陣すると伝えている。麻績から景勝の海津城出勢の飛脚は早くも来た。貞慶は4月18日、仁科衆に犬甘氏に従い、即刻睡峠を越え笹久に出兵し牧之島在城の芋川親正らに備えるよう命じた。
 貞慶も犬甘半左衛門に「明日各々召し連れ出馬候」と伝えた当日20日の払暁、上杉の検使役、水内郡の島津左京亮義忠が率いる川中島勢が、先の麻績城主下枝氏友の一族と共に麻績に攻め込み城を奪っていた。貞慶も直ちに麻績城奪還しようとしたが、小笠原頼貞・小笠原長継・二木重吉(ふたつぎしげよし)ら重臣は、今の麻績勢は筑北・川中島・越後の諸勢力を糾合し、侮れず時機を待つしかないと進言したが、貞慶は出陣と決した。青柳城周辺をめぐって上杉軍の大軍と小笠原軍が戦い、貞慶は大敗した。松本城に落延びる間、殿軍を率いた三溝三左衛門は筑摩郡立峠において戦死した。岩岡治兵衛も討ち死にした。松本城の守将二木重吉は、松本周辺の住民数千人をかり出し、紙旗を翻し援軍と見せかけ貞慶の危機を救い城内に迎い入れた。景勝の書状から抜粋すると「小笠原、麻績の地に至って相動き候のところ、各侍衆を引立て、かの地に馳せ向かいすなわち一戦を遂げ大利を得て」「敵百余人討ち捕えられ、首の注文が到来し、心地好き次第に候」とあり、屋代秀正が大功を上げた。この戦いの検使役は水内郡の島津左京亮義忠で、北信の侍衆で構成される景勝軍が、小笠原貞慶に大勝し討ち取った首の注進状を景勝宛に送っている。景勝の感動は大きく「連(つ)れ連(づ)れ忠信を思い詰められるところ、たしかに露顕し、奇特感じ入り候」と秀正に書き送っている。4月11日、景勝の重臣、狩野景治直江兼続は連署して、戦功のあった「おのおの稼ぎの衆へ、明々日の間に、お使を遣わせるべく候」と島津義忠に申し送っている。
 ところが、松本城を包囲した島津軍は、翌日軍を引き揚げた。25日には景勝も越後へ帰陣した。貞慶に方々から、その注進があり、その日の朝、麻績から八幡に出る猿か馬場峠から八幡峠に物見を出し峠を放火させた。景勝は上杉謙信没後の御館の乱(おたてのらん)に戦功があった新発田重家が、その恩賞を不満として乱を勃発させ、景勝は越後に戻らざるを得なくなった。
 当時、秀吉と対峙して小牧山に本陣を置く家康の本拠三河に侵入しようとして、秀吉は羽柴秀次を大将として出兵させたが、事前に情報が漏れて、4月9日、長久手において挟撃され、森長可池田恒興をはじめ2,500人を失い、家康方に完敗していた。こうした情勢下、景勝は秀吉への義理立てで筑摩へ出兵したが、本国の情勢は長期の滞陣を許さなかった。


当時、更埴地方に所領を有する国衆の動静は複雑で目まぐるしい。特に家康が小牧長久手の戦いで秀吉に勝利した事が大きかった。小笠原貞慶の大敗北にも拘わらず、麻績・青柳の諸侍ばかりでなく、東筑摩の戦役で上杉方として軍功著しい屋代秀正までもが家康に臣従した。青柳頼長は貞慶に走り合力した。それがやがて青柳一族に悲劇を呼ぶ。景勝の本国越後は未だ不穏であり、帰陣せざるを得ず、已む無く貞慶が八幡方面へ北上する備えとして、千曲川左岸の稲荷山に新城を築かせ撤退した。天正12(1584)年5月には完成したようだ。同月17日付けの書状で、景勝は八幡宮神官松田民部助並びに保科豊後守小田切左馬助らに城番を命じている。保科氏宛には「稲荷之城在城申付けるに就いて、桑原(更科郡西端)半分出し置き候、用心普請厳重に相勤める可き之者也」とあり、元来稲荷山地区は桑原内に在り、保科豊後守に宛行われた桑原半分が在城領として.宛がわれたが、それが稲荷山地区を示す考えられる。その間小笠原貞慶は青柳・麻績の両城とその周辺を回復させ、青柳氏の戦功に応え両城を与えた。貞慶は再び麻績地方を支配下にし、川中島進出の拠点とした。

 天正15(1587)年9月28日、青柳頼長は貞慶により松本城に召喚され、長子長迪(ながみち)他数人の家臣を伴い出仕したところ、二の曲輪内で全員が謀殺された。青柳城は貞慶軍に包囲され落城、貞慶麾下の溝口貞秀が城主に任じられた。事実上青柳氏は滅亡した。
 この間の事情を『信府統記』は「伊勢守の時より武田に属し50騎の軍役たり、甲州没落して小笠原貞慶帰国の後も猶小県の真田等と一味して越後の景勝に志を通ぜるにや、貞慶へ一応の届けも無く無礼の様子なり、殊に怨敵たりし憤りあれば取合い初りける、麻績・会田等一味なり、其上松本よりの路峠あり、然れども要害の地なれば悉く滅し難き」と記している。
 天正14(1586)年12月、諏訪上社神長官守矢信実が溝口貞秀に宛てた『神長官訴状覚書案』には「青柳御取持ち之砌貞慶様に対し奉り逆心を副え候」と、青柳頼長は諏訪上社に貞慶調伏の祈祷を行わせていたことが、既に溝口貞秀を通じて発覚していた。

10)小笠原貞慶、徳川家康に離反
 秀吉は天正13(1585)年7月11日、かねてから二条昭実近衛信尹(このえ のぶただ)の間における関白の地位を巡る紛糾(関白相論)に乗じ、近衛前久の猶子として関白宣下を受けた。天正14年9月9日には豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任した。
 しかも、既に天正11(1583)年、中国の雄毛利輝元が秀吉に交誼を願っていた。翌天正12年、織田信雄と家康は盟約し、家康は小牧・長久手で戦い、秀吉軍に手痛い打撃を与えた。しかし秀吉の老獪な政治的手段で信雄を懐柔し、有利な条件で和議を結び、天正13(1585)年、四国征伐を行って長宗我部元親を軍事力で降した。天正14(1586)年、家康は遂に秀吉に臣従した。翌天正15て年には九州征伐を20万を超える圧倒的な大兵力で島津義久を降している。
 このように各地の名立たる大大名が秀吉に人質を出し、競って臣従する情勢下、天正13年11月、酒井忠次と並ぶ家康の2代宿老の一人石川数正が、家康の許にあった小笠原秀政を連れて秀吉方に奔った。同月19日付けの豊臣秀吉からの真田安房昌幸宛の花押状には「石川伯耆守去る13日、足弱引連れ尾刕迄罷り退く候事」とあり、同文に「信州小笠原人質召し連れ」と家康に人質として出していた貞慶の子秀政を伴っていた。この当時、秀吉は「信州・甲州両国之儀、小笠原・木曽伊予守相談し、諸事申合わせ、越度(落度)無き様才覚尤も候事」と、信州支配を小笠原貞慶と木曽義昌に託し落度の無いように支配を命じている。貞慶は石川数正の裏切り便乗する形となっているが、木曽義昌に倣い天下の権は秀吉にあると、その絶対的権力に服従したとみられる。豊臣政権確立期を迎え、各地の武将はこぞって人質を出し臣従を誓っていた。小大名の貞慶も、秀吉の威信を背景に府中を中心にその勢力の拡大を計った。戦国末期の生き残りを掛け、同年の天正13年に、家康に属する高遠の城主保科正真を攻めている。この戦いに際し。家康が保科正真に与えた感状に「今度小笠原右近大夫逆意を企て」とあり、小笠原氏が敵対した事が明らかになる。
 天正14(1586)年5月、家康は秀吉の妹、44歳の朝日姫を娶る。6月には秀吉の生母が、人質として岡崎城に送られた。10月、ついに家康が秀吉のもとに赴き、臣従の礼を取る。この年、居城を浜松城から駿府城に移した。11月4日の景勝に宛てた秀吉の書状には「関東之儀、家康と談合を令し、諸事相任せ之由仰せ出だされ候間、其の意を得られ、心易くす可く候」と和議を伝え、「真田(昌幸)・小笠原・木曽両3人儀も先度其の方上洛之刻、申し合わせ候如く、徳川所へ返置す可き由、仰せらる候」と、当時の信濃国を統べる勇将達3人は、家康への帰属を一方的に命じられることになる。翌天正15年3月18日、「信州真田・小笠原、関白様御異見にて出仕候」と、『家忠記』は秀吉の命により駿河の徳川家康に拝謁し臣従を誓わされたという。
 小笠原貞慶は秀政に家督を譲り謹慎した。幸い秀吉の取成しがあり、家康の嫡男信康の娘を、秀政の妻に迎え家康の譜代衆となった。

11)徳川家康、筑北地方制圧
 屋代秀正はじめ筑北の諸侍衆は、一族とその家族の生存を懸けて必死であった。これより先の天文10年9月19日、徳川家康は、秀正に書状を送り、当時、北条氏政方であった真田昌幸に対しての軍事行動を制止させている。家康は、信濃の武将たちの帰属を働き掛けていた。昌幸に対して、その弟加津野隠岐守信昌依田信蕃に交渉させていた。一方、秀正は景勝の幕下にあって海津城代として、深志城に拠る小笠原貞慶の勢力の拡大を阻むため、筑摩郡北部と小県郡北西部の郡境を防備していた。
 翌天文11年、信濃方面を総括する家康の重臣酒井忠次に家康の靡下に属する旨を告げた。家康は3月14日、秀正に更級郡内の所領を安堵する宛行状を送り、そこには「いよいよ此の旨を以て忠信に励む可きものなり」と命じている。4月12日、家康は秀正の幕下入りに際し、前年に服属していた真田昌幸と依田信蕃と談合し油断の無いようにし、委細は大久保忠世に申すよう指示している。

天正10年、元葛尾城主村上義清の子、景国(国清)が海津城の城将となった。千曲川を東の要害とする長沼城(長野市穂保)に島津忠直、飯山城に岩井信能(いわいのぶよし)、牧ノ島に芋川親正ら諸将を配した。村上国清は上杉謙信の養女を娶り、上杉家一門の山浦の姓を得て山浦景国と名乗っていた。
 家康は3月14日、屋代秀正に更級郡内の所領を安堵する宛行状を送っていたが、その臣属は秘匿されていた。小牧・長久手の戦いが始まるころに合わせるように、上杉景勝に叛き、本領の更級郡荒砥城に籠った。荒砥城は、冠着山(かむりきやま)東方の支脈にある城山(標高895m)山頂を本郭とする城であった。秀正は、家康に臣従した成果を実績で示す必要があった。秀正は、塩崎六郎次郎次と一族の室賀兵部大輔らと同心していた。塩崎氏は桑原の佐野山城に籠った。
 一方、小笠原貞慶(さだよし)は3月28日と4月4日の2度にわたり青柳城を攻撃し二の曲輪まで攻め寄せた。その後青柳城は落城し、城主春日源太左衛門は川中島まで落延びている。4月には麻績城も攻略され、城主下枝氏友は斬殺された。麻績城には小笠原長継を在番とした。
 景勝は下越後の新発田重長を討伐する出陣を目前にしていたが、急遽、信濃へ出陣し水内郡長沼城に入った。
 4月13日、直江兼続が奥州会津に留まる「会津後家来衆」へ送った書状には、要約すると「信州海津在城を申し付けられた屋代と号する者、逆心していた。その仕置のため中途まで出馬したが、その響き承(う)け敢(あ)えず、逆徒の居城荒砥と佐野山の両地53日を経ずして自落した。行くへ知らずの体であった。」とある。それにも拘らず、兼続は屋代秀正の謀反が安曇地方にも波及することを懼れ、水内と安曇の郡境の小川の地士大日向佐渡守に書状を送り、出陣する代わりに「その地要人堅固に候の由肝要に候。参陣に及ばず、その元に之有りて、御番専用に候」と申し送っている。
 麻績と青柳(東筑摩郡筑北村坂北)両城が貞慶に奪われると、景勝は麻績城(東筑摩郡麻績村)に兵を派遣し攻め落とした。城主の青柳頼長は小笠原貞慶方に走った。そこで景勝は貞慶の北上に備えて、稲荷山(旧更埴市)に築城した。千曲川右岸が屋代で左岸が稲荷山の地となる。5月17日には、八幡宮神官松田民部助、保科豊後守、小田切左馬助らに在番を命じ、大岡・麻績方面に備えさせた。同時に岩井靱負尉には高井郡吉田の本領を安堵し、更に坂木領の内の力石(ちからいし;千曲市力石;坂城とは千曲川を挟む対岸)分を宛行い更埴南部の防備に当たらせた。
 一方、家康方の小笠原貞慶は、当面、防備のため城普請に専念し、真田などの佐久衆と談じ合のうえ、川中島へ侵出する時機をみはらかっていた。
 秀正の離反により海津城を預かる山浦(村上)景国は、秀正と同族であった事もあり、城代を罷免され、その地の領分を改易され、越後の山浦分のみ安堵された。
 家康は4月18、秀正に書状を送り「それより芝田七九郎(柴田康忠)殿差し遣わし候、いかようにも相談せられ、(中略)委細は大久保七郎右衛門尉(忠世)が申すべく候」とし、5月2日の書状では、小牧山の秀吉軍を「今度の凶徒等を悉く退治せしむ可きところ、(中略)その表いよいよ油断有る可からず事肝要に候」と、この頃、景勝軍が更級郡に深く侵攻してきたため、その対応を依頼している。秀正はこれに応え景勝軍を攻め、同月19日には、家康から書状で「わざわざ使者を差し越され、ことに太刀一腰、馬一疋、祝着の至りに候、(中略)然らば景勝を引き出すに付き、一戦に及び、敵百余りを討ちとらえの由、比類なき事に候」と賞している。同日付けの書状で、大久保忠世に、秀正に助勢した室賀兵部大輔信俊塩崎六郎次郎を含めた3人の所領は、一任するからと特に命じている。さらに景勝領との境の地には、秀正と室賀の両人が守備するよう申し送っている。

13)海津城代須田満親
 海津城代は(現柏崎市上条)上条城主の上条義春がなり、さらに須田相模守満親に代わった。上条義春は能登畠山家に生まれ、その能登国支配の本拠七尾城が上杉謙信により開城されると、謙信の養子の一人となった。その後、上条上杉家の名跡を継ぐ上条政繁に子がなかったため、改めてその養子となった。その上条政繁が山浦景国の後任として海津城に入った際、義春も同行していた。
 当時、羽柴秀吉は、未だ家康、織田信雄と伊勢、尾張で戦っていた。秀吉は北陸の軍兵を動員しようとして景勝と盟約した。景勝は、実子がいないため義春の子義真を秀吉の許へ人質として送った。景勝は6月11日、上条政繁に「上方へ証人差し登らせし候に就き、軍役の儀は勿論、領中諸役これを停止せしむるもの也」と書状を与えている。しかし、依然として、以後も海津城代として北信4郡を統率させていた。
 8月1日、稲荷山在城の綱島豊後守に、「その地の用心普請、昼夜油断なき勤仕せしむるの由、肝要に候、いよいよ上條舌頭次第走り廻る可き事もっともに候」と朱印状を送っている。このころ筑摩郡深志城の小笠原貞慶が北信侵出を意図し、犀川口の牧之島城を攻めたが、稲荷山城守将の小田切左馬助は貞慶軍を破り首級13を景勝へ送って戦功を賞されている。
 先の天正10年9月4日、景勝は、安曇、筑摩両郡を掌中にするため、仁科盛直に池田・滝沢・荻原・細野・松川・小塩郷の地を宛行い、忠信を励むよう要請した。翌天正11年8月、安曇郡日枝城(生坂村)の城主仁科織部佐盛直の同心衆が、景勝に謀反し貞慶に属した。盛直はこれに与せず、一族を率いて春日山城へ退去した。景勝は「幾千万を超え、之を感じ入り候」と賞し「巨細におけるものは直江に申し可く候」と歓迎している。天正12年6月27日、景勝は更級郡八幡宮の祠官松田分と八幡領の一円を預け、八幡宮の修造祭礼を恒例に従い厳に勤めるよう指示した。また稲荷山城に在城し、他の守将と入魂(じっこん)のうえ城の用心普請をし、油断の無いように命じた。同時に盛直の子孫三郎に仁科惣領職を相続させた。また景勝は、先に盛直に海津城代上条政繁の指図に従うよう命じていた。
 尚、更級郡八幡宮の祠官松田盛直は、文禄3(1594)年当時763石であったが、景勝が会津への国替えの際、1500石に増給された。神主職は在地する一族の松田縫殿助に預けられた。
 翌天正13(1585)年に海津城代が須田満親に代わられた。それが起因か、翌天正14年、政繁が上杉家を出奔し、義春自身も天正16年頃に出奔した。直江兼続との不和が憶測されているが、確証はない。
 須田満親は、信濃国高井郡大岩城主須田満国の子である。満国は村上義清と共に武田晴信の信濃侵攻に対抗したが、天文22(1553)年、武田に敗れ、義清と共に越後の上杉謙信を頼った。以後は謙信の家臣として仕え、第4次川中島の戦いに加わっている。
 天正13年、海津城代須田満親は、度々、真田昌幸の次男信繁(後の幸村)の率いる手勢と川中島辺りで争闘を繰り返している。当時信繁は19歳であったが、寡兵でありながらも、執拗に川中島にまで侵出し、景勝を悩ましていた。当時の信繁が発する諏訪久三宛の安堵状が現存するが、それは、屋代左衛門尉秀正が久三への宛行状を追認する信繁の花押状であった。秀正は、真田氏に従っていた。当時、共に家康の後援を得ている。信繁は後門の狼に怯えることなく、深く川中島までも侵攻できた。

 天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)とは、天正10(1582)年から甲斐・信濃・上野で繰り広げられた家康と北条氏直の戦いの事であった。この天正12年10月29日、家康は前門の虎秀吉と対決していたため、後門の狼北条氏直と対秀吉の攻守同盟を結んだ。北条氏側も関東平野では、佐竹義重が活動を活発化させていた。北条氏と家康は、共に講和を決意した。甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ「切り取り次第」とし、相互に干渉しない、氏直は家康の次女督姫を娶る、がその約定であった。
 それでも12月12日、家康は秀吉と和睦した。次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子を名目にし、人質として大坂の秀吉に送っている。
 氏直の強硬な要求により、上野を北条に国分した。それにより、同国利根川郡沼田の城邑を北条氏領とした。家康は昌幸に沼田城を北条氏へ渡すように命じた。しかし、昌幸はこれを拒絶し上杉景勝に接近した。沼田は武田勝頼の命を受け、真田昌幸がその配下矢沢頼綱に命じ、天正8(1580)年、上州利根郡の中心拠点である沼田城を攻略した経緯があった。武田氏滅亡後、沼田城は織田信長の重臣滝川一益に明け渡されたが、本能寺の変直後に奪還している。その地をその代償も無く明け渡せの指図に憤激した昌幸は、臆面もなく、かつて景勝に属しながら家康に寝返り、川中島まで領有しようとして戦闘を繰り返していながら、当時羽柴秀吉の傘下に入った景勝を頼った。
 昌幸は海津城代須田満親に、その取り成しを依頼した。景勝もこれを容認し、その旨を沼田城将矢沢綱頼に書状で伝えた。同時に徳川軍が侵攻して来たら、上田表は勿論、上野国の沼田・吾妻にも後詰の援軍を派遣すると、昌幸にも誓詞を送った。しかも信濃の知行は須田満親から宛行うとした。天正13年7月15日の誓詞には、沼田・吾妻・小県の3郡に加え坂木・庄内(旧更級郡村上村一帯)の知行も付していた。更に佐久郡と甲州に於ける1郡と上野国のかつて長野氏旧領の1跡も与えるとした。屋代氏の1跡も加え、小県郡の同族祢津氏の身上、宜しく取り計らえと一任している。先の天正10年10月19日、昌幸が北条方である祢津昌綱を攻めるが、祢津氏の本拠地である祢津城(東御市祢津)は陥落できなかった。翌年7月、昌幸は室賀信俊を上田城に招き寄せ謀殺し、小県郡は真田氏により統一された。祢津昌綱も前後して、昌幸の配下となり重用されるようになる。
 天正13年、真田昌幸は、須田満親のもとに次男の信繁(幸村)を人質として差出した。これにより家康と北条氏直との和解条件、上野国利根郡と沼田城の譲渡が実施できなくなった。氏直との約定の手前、昌幸を討伐する事に決した。8月、家康は、伊那郡の松尾城主(飯田市松尾)小笠原信嶺・松岡城主(高森町)松岡貞利・松本城の貞慶などに、小県郡上田表へ出兵を命じた。ところが貞慶は、徳川方から豊臣氏方に変心し、徳川方の保科氏を高遠に攻め、逆に小笠原貞慶は大敗を喫して松本に退いた。この時松岡貞利は徳川家康に誓詞を入れ臣従していながら、貞慶に味方し高遠の攻撃に向った。形成が不利と見て途中で引き返した。それを靡下の座光寺次郎右衛門が、徳川の伊那郡司として知久平城(ちくだいらじょう;飯田市下久竪町;しもひさかた;知久平)にいた菅沼定利に密告した。そこで定利は直ちに松岡貞利を捕らえた。松岡貞利は駿府の井伊直政に預けられ、後に家康の面前で座光寺氏と対決させられた。天正16年松岡貞利は改易を命ぜられ、その所領は没収された。

14)海津城から松代城へ
 天正10(1580)年3月28日、森長可は、信長より信濃の内、更級、高井、水内(みのち)、埴科四郡を加増され、海津城に入城した。その森長可が、天正12(1584)年、小牧・長久手の合戦で戦死した。慶長3(1598)年、上杉景勝の会津移封により、この地方は豊臣家の直轄領・蔵入地(くらいりち)となり、田丸直昌が海津城代に任じられた。慶長5(1600)年3月、徳川家康は田丸直昌を美濃岩村城4万石に移した。同年9月の関ヶ原の戦いに際し、直昌は西軍に与し大坂城の守備に就いたため、戦後、家は取り潰されて越後へ流罪となり、出家し慶長14(1609)年に越後で没した。
 慶長5(1600)年3月、田丸直昌の代わり、長可の末弟森忠政が北信濃の更級、埴科、水内、高井の4郡13万7,500石で初代川中島藩主として入封した。同年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、家康の宇都宮着陣に馳せ参じるが、真田昌幸が西軍と通じ上田へと帰国した事を受けて、忠政も真田への抑えとして川中島へと帰還するよう命じられた。忠政は「右近検地」と呼ばれる徹底的な検地により川中島領の領国化に勤めた。また、信濃に残っていた香坂昌元の一族を残らず探し出し、18年前に長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員を磔刑に処した。しかし全領一揆などにより十分な成果が上がらぬまま、慶長8(1603)年3月、美作国津山藩へ18万6,500石で加増転封となる。
 その後徳川家康の6男松平忠輝が越後国高田藩へ移る慶長15(1610)年)までの7年間、14万石で領有し、城代として花井吉成が置かれた。後に、高田へ居城を移した後も元和2(1616)年に改易されるまでの間領知していた。この2家の領有期間は、一般に川中島藩と呼ばれる。  元和3(1617)年、松平忠輝は改易となり、松平忠昌、酒井忠勝らの後、元和8(1622)年に真田信之が城主に任じられ、松代城と改称した。以後松代10万石は真田氏によって嗣がれた。真田信之は、上野国沼田領とあわせて13万5,000石を領知した。信之は93で病没した。明治4(1871)年の廃藩置県を迎えた。なお明治6(1873)年に松代城は火災により全焼した。

15)上杉景勝と香坂氏
 天正3(1575)年5月21日、牧之島城将馬場美濃守信房が長篠の戦で討ち死にした。武田勝頼は香坂左馬助を牧之島城将とした。翌年6月20日、更級郡西山部を統轄するよう命じている。香坂氏は香坂弾正昌元流が滅んだが、他の一族は残存していた。武田氏が滅亡した後、北信濃を支配した上杉景勝により香坂能登守が本領を安堵され、更級郡氷鉋郷(ひがなごう)・日名・富部(とへ)、水内(みのち) 郡穂刈(信州新町に山穂刈の字名がのこるている)・夏目郷(篠ノ井石川;夏目城址は湯入神社)を新知として与えられている。この記録により、香坂本家が松代に移った後も一族が遺っていたが知られる。
 『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』、略して『和名抄』などと呼ばれる平安期の承平年間、源順(みなもとのしたごう)によって編纂された、当時の日本各地の主な地名が掲載されている。それによれば、平安時代初期信濃国は10の郡に分けられ、更級郡は「麻績・村上・当信(たぎしな)・小谷(おうな)・更級・清水・斗女(とめ)・池・氷鉋」の9の郷があり、犀川扇状地の川中島平には、「池郷」「氷鉋郷」「斗女郷」という3つの郷があった。麻績は今の麻績村、村上は坂城町内に旧村上村があった。当信は信州新町にある当信(たにしな)で、当信(たにしな)川が流れている。小谷は小長谷(おはつせ)の略で葬地を指し篠ノ井の長谷(はせ)、更級は戸倉、清水は長野市信更(しんこう)の聖川上流域一帯、斗女は今の長野市御厨の富部(とべ)、池郷は長野市小島田町にある頤気(いけ)に名を遺す。「氷鉋」は川中島の東隣、現長野市稲里町に中氷鉋・下氷鉋(ともに「ひがの」)などが現在地にある。
 米沢藩士原田直久による江戸期宝暦年代(1751~63)の著書「米府鹿子(べいふかのこ)」に香坂氏の名と共に「滋野」「本国信州」と記されていることから、香坂庶流の一部が他の北信濃の国人衆らと同様に、上杉家の家臣となって家門を全うしていることが分かる。
 香坂能登守定昌は、上杉景勝から鬼無里500貫、塩田別所1,000貫、大草弥左衛門尉分(地所不明)500貫の新知を与えられている。その定昌と子の紀州守氏昌は、信州で没している。氏昌の子四郎兵衛昌能は景勝の転封により会津へ移り、関ヶ原敗退により慶長6年に米沢30万石に減封され時も、家臣として従っている。
 家康は慶長5(1600)年6月、上杉征伐軍を募り大坂城を出発した。7月に江戸に到着し上杉家をいよいよ攻撃しようとした7月24日、征伐軍は上方で石田三成ら西軍が挙兵したと報らされる。そこで家康の次男結城秀康を宇都宮に在陣させ、上杉軍の押さえにおいて上方へと向かう。家康東軍の主力はいなくなったが、岩出山城(宮城県大崎市;岩出山町字城山)の伊達政宗と山形城の最上義光らが強勢であった。9月8日、米沢城を出発した上杉軍は次々と最上領の城を落とし、9月15日には敵の本城・山形城を支える長谷堂城(山形市長谷堂)に迫った。しかし長谷堂城の抵抗は激しく、いたずらに時が過ぎて行った。同月29日、上杉軍に、石田三成ら西軍敗北の報が届いた。そのため上杉軍は撤退を開始するが、それを今度は逆に最上・伊達の両軍が勢いに乗り追撃を始めた。しかしこれらをなんとか切り抜け自領へ戻っている。
 上杉景勝軍は、この時、東北の戦場で孤立し、北からは伊達政宗と山形城の最上義光と戦い、南には結城秀康軍の脅威があった。徳川家康東軍が関ヶ原へ転戦に向かう背後を、追撃するという実力が本来なかったといえる。


[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/sada/sa.htm


長時は天正6(1578)年の謙信死後は越後を離れ、会津の芦名氏の許に寄寓


晴信は、海の口から小諸を経て千曲川を下るコ-ス、次いで林城(松本市里山辺~入山辺)から犀川を下るコ-ス、さらに北安曇から大町街道に沿って流れる犀川の支流土尻川(どじりがわ)を下るコ-スで、中北信の諸城を調略していった。犀川が土尻川と合流する手前の牧城の香坂宗重も、晴信に降った。
 臣従した宗重に晴信は知行替えを行ない、弘治2(1556)年5月12日、埴科郡英多庄(あがたのしょう;長野市松代町東条と西条の辺り)内に移った。この時の朱印状には、香坂筑前守と記されている。そこに館を構えたとされている。翌弘治3年の第3次川中島の戦いで焼亡したが、その館は「弾正館」と呼ばれていた。そのことから、「香坂氏の娘を娶った」とされる香坂昌信(春日弾正忠虎綱)との関係が、この時期には結ばれたと推測されている。
 
 永禄2(1559)年2月、長尾景虎は京に上り、将軍足利義輝から関東管領に補任された。半年ほど滞在し10月に帰国した。この時、海野・真田・祢津・室賀など小県の諸士が太刀を贈り寿いでいる。その間の5月、晴信は信濃から景虎の勢力を一掃しょうとして、佐久の松原神社に戦勝を祈願した。その願文に「信玄」を号している。それが初見とされている。

 永禄3(1560)年に、香坂氏の所領のある松代の東条近くに、武田氏の川中島の拠点となる海津城が築かれ、宗重が海津城に在住する手当として、同年6月15日付けで、更科郡横田(篠ノ井横田)3百貫の新知が与えられた。その晴信の知行宛行状が現存している。
 有名な第4次川中島の戦いの直前、永禄4年5月、上杉との密通の嫌疑で香坂宗重が海津城で誅された。これにより香坂の嫡流は途絶えた。その名跡は香坂氏の娘を娶った春日虎綱が継承する。虎綱が一般には高坂弾正忠昌信と称されるのは、この事変を起因にしている。香坂昌信(春日虎綱)は、武田信玄、武田勝頼の2代に仕え、武田4名臣の1人として、馬場信春内藤昌豊(昌秀) 、山県昌景と並び称されている。だが、同姓を称したのは永禄年間の短期間で、まもなく春日姓に復している。一生の殆どを「春日虎綱」と称していた。

 海津城には原美濃守虎胤小畠虎盛(おばたとらもり)を配しであったが、在城1年未満で、虎胤は永禄4(1561)年の八幡原の激戦に先んじる割ケ嶽城(わりがたけ;上水内郡信濃町富濃)を攻略した際に負傷した。この城は、野尻湖の西南にあり、川中島から野尻湖を経て関山を超え、堀之内に抜けて春日山城に至る北国街道沿いの要衝であり、野尻城とならんで信越国境における上杉方の重要拠点であった。虎胤の傷は癒えず、又60余歳を越える高齢のため、第4次川中島合戦に際し、虎胤は甲斐の留守部隊を預かった。その当時、香坂昌信(春日虎綱)が海津城の守将であった。虎胤は永禄7(1564)年3月11日、躑躅ケ崎館に近い屋敷で病没した。享年68であった。小畠虎盛も既に永禄4年6月に病死していた。享年71であった。

 同年8月、上杉謙信は春日山城を発して海津城の南の妻女山に布陣、海津城将の香坂昌信はこれを甲府に注進、信玄は8月16日にこの報を受け、18日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣、24日に川中島には布陣した。その陣地については茶臼山説や八幡原説など諸説があるが原典がない。信玄は8月29日に海津城の北方の広瀬の渡しで千曲川を渡河し、海津城に入城した。9月9日、武田軍は香坂昌信らの別働隊を妻女山の背後を突くため迂回させた。信玄本隊は海津城を出て目前の千曲川を渡り八幡原に布陣した。一方、上杉軍は海津城からあがる炊煙を見て夜襲を察知し、夜半に雨宮の渡しを渡って八幡原に進出、9月10日早朝に両軍は激戦となり、数千名が戦死したとされた。これが第4次川中島合戦物語であった。この合戦物語の争闘戦には諸説あるが、確たる史料による裏付けを欠く。また越後方の史料と比し多くの齟齬があり、戦記物語としては面白いが、軍略家として秀抜な両将の戦術としては、余りにも劇画的で信じ難い。信玄、謙信両者には当然物見役がいて、敵陣の動静を見張るため、物見を各所に配置していたはずである。両将も当然、それを想定し戦術を練っていたはずだ。また海津城と妻女山は指呼の間にあり、直線にして3kもなく、謙信が本当にあの小高い妻女山に本陣を敷いたとしたら、互いの動静は筒抜けで、山本勘助の隠密な用兵は不可能であった。さらに当時の千曲川は、今より東に寄り、妻女山沿いから海津城に沿うように北上していた。1万を超える軍勢が、音を出さず進退する事を不可能にしていた。
 戦後、信玄はこの地方を新知として家臣に分配し宛行状(あてがいじょう)を出している。謙信はただ戦功をねぎらう感状を出しているにすぎない。勝利は、事実上、信玄のものと推定される。次第に武田方が、川中島地方を掌握し、その拠点として海津城は重要視され、香坂昌信が城主を務めた。
 元亀3(1572)年に入ると、信玄は遠江・三河への出兵が相次ぎ、徳川家康とその背後にいた織田信長との対決が始まった。同年10月には、信玄自ら大軍をもって甲府を出発し、西上作戦を開始した。12月には家康の居城である浜松に近づき、三方ヶ原で家康と信長の援軍佐久間信盛平手汎秀(ひろひで)の連合軍を打ち破った。その後進んで三河へ侵入し、徳川方の諸城を相次いで攻め落とした。しかし、翌元亀4年4月、三河野田城(愛知県新城市豊島)を包囲中の陣中で病に伏した。已む無く甲府へ帰陣する途中、信濃伊那谷の駒場(下伊那郡阿智村駒場)で4月12日、享年53をもって病没した。
 高坂昌信は信玄死後も、海津城代として北信濃攻略と上杉謙信の抑えを担当したが、他の老臣たちと同じように武田勝頼からは疎まれていたとされる。天3(1,575)年の長篠の戦いには参戦せずに、上杉謙信の備え1万の将兵で海津城を守備していたが、敗報を聞くや兵を率いて伊奈谷に馳せ参じ勝頼を迎え、衣服・武具などを替えさせる等、敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮したという。この戦いでは、昌信の嫡男昌澄が長篠城監視のために城の西方の有海村駐屯軍の中にいた。長篠の戦いで勝利し、勢いに乗る徳川軍に攻め立てられ、昌澄は果敢に抗戦するが大軍に圧し潰されるように戦死した。
 この戦いによって、信玄以来の老臣で生き残ったのは昌信のみとなった。昌信は勝頼を補佐して武田氏の再建に努めたが、織田信長の圧倒的な兵力に対抗するため、宿敵であった上杉謙信との同盟を模索したと言われている。その謙信も天正6(1578)年3月13日、脳溢血により春日山城中で没した。享年49であった。同年5月7日、昌信も海津城で病死した。享年52。
 嫡男の高坂昌澄が長篠の戦いで戦死したため、家督は次男昌元が継いだ。父の昌信も高坂姓を名乗ったのはわずかな期間であり、晩年は春日姓であったことから、春日昌元(春日信達)と名乗っていたかもしれない。武田勝頼はそのまま海津城代の職を引き継ぐことを許した。また、父の担当していた上杉氏との和平交渉もそのまま引継ぎ、成立に漕ぎ着けている。上杉との和睦成立後は、海津城から兵を割いて駿河の沼津城へと移り、徳川・織田の防備にあたった。
 天正10(1582)年2月から織田信長による武田征討が開始されると、昌元は沼津を放棄して本国甲斐を防衛すると称し新府城に馳せ参じるが、戦わずして沼津を明け渡した事を勝頼に疑われ海津へと戻された。長篠の戦いで勇将の殆どを失った武田氏は、余りにも脆く3月には滅亡している。昌元は、信長に降伏し、北信濃の領主となった信長の家臣森長可(ながよし)に属した。

2月14日、信州松尾の城主小笠原掃部大輔信嶺が内通を申し出てきたため、信長軍は妻籠口から団平八・森長可が先陣に立って出撃し、清内路口より侵入して木曽峠を越え、なしの峠へ軍勢を登らせた。すると小笠原信嶺もこれに呼応して諸所に火煙を上げたため、飯田城に籠っていた坂西織部・保科正直は、抗戦は不可能と見、14日夜に入って潰走した。
 天正10(1582)年3月27日、織田信長は武田氏攻略に功のあった木曽義昌に本領を安堵し、恩賞として筑摩・安曇の両郡を新知として与えた。同月29日、改めて武田氏の旧領の割り当てが行われた。伊那一郡を毛利秀頼諏訪全郡が河尻秀隆に、小県・佐久両郡が滝川一益に与えられた。海津城には、織田信長の武将森長可が城主に任じられた。更級、高井、水内、埴科四郡が新知として与えられた。信長は、その3月に、甲信両国の国掟を定め、寺社以下各地在所に掲げ人心の掌握に努めた。
  一、関役所、駒口取るべからざる之事。
  一、百姓前、本年貢の外、非分之儀申し懸けるべからざる事。
  一、忠節人を立て置き、外の廉かましき(理屈を並べて懈怠する)侍は殺害させ、或る者は追失す可き事。
  一、公事等之儀、能々念を入れ穿鑿し、落着させる可き事。
  一、国諸侍は懇ろに扱い、油断無き様気遣いす可き事。
  一、第一に欲を構えるに付き、諸人は不足を為すの条、内儀相続に於いては皆々に支配させ人数を抱える可き事。
  一、本国より奉公を望む之者があれば、相改め、前に抱える者方へ相届け、その上で扶持之事。
  一、城々の普請は丈夫之事。
  一、鉄砲・玉薬・兵粮を蓄えす可き事。
  一、進退之郡内請取り、作道す可き事。
  一、界目が入り組み、少々の領地を論ずる間、悪之儀有る可から不之事。
  一、右定めの外、悪しき扱いに於ければ、罷り上り、直き訴訟申す可き候也。

 森長可は4月5日、川中島の修験道の中心皆神山(みなかみやま)和合院や篠ノ井塩崎の康楽寺など領内の諸寺院に国掟を掲げ領内取り締まりに当たっている。長可は海津城に在城し、飯山城には稲葉彦六貞通を遣わし在城させた。すると、その飯山を取り囲む一揆が盛んとなった。これに対し、信長はすぐさま稲葉勘右衛門・稲葉刑部・稲葉彦一・国枝氏らを援軍として飯山へ遣わした。また信忠の手からも団平八が派遣された。織田本軍の来援を知った敵方は山中へ引き、現長野市豊野町大倉にあった古城・大倉城を修復し、芋川親正を一揆の大将として立てこもった。4月7日、一揆勢のうち8千ほどが長沼口まで進出してきた。一揆の将島津忠直は長沼城(長野市穂保;ほやす)に篭城した。その報に接した森長可はすかさず出撃し、敵勢に出合うと一気に攻撃を仕掛けた。そして7、8里にわたって追撃を行い、敵勢千2百余を討ち取った上、大倉の古城になだれ込んで女子供千余を斬り捨てた。この一戦により森勢の挙げた首は2千4百5十余にものぼったという。こうした惨状を呈し、飯山城を囲んでいた一揆勢も引き上げていった。この不手際で稲葉貞通は飯山城守備の任を解かれ信長の本陣の置かれている諏訪へと召還された。飯山城代には長可家臣の林為忠が置かれた。香坂昌元、小幡虎昌らは、人質を長可へ送っている。長可は長沼城に各務兵庫を城代として遣わし、千曲川以北の土豪の旧領を安堵した。
 長可は、信長より5月27日に越後への侵攻を命じられた。越後国内に侵略し、現新潟県妙高市の関山から二本松まで進軍した。その上杉影虎方と対峙中の6月2日、明智光秀謀反による本能寺の変で信長が自刃した。6日には長可の弟蘭丸(長定)、坊丸(長隆)、力丸(長氏)の3兄弟が京都の本能寺で殉じるとの悲報が届いた。直ちに、長可は海津城に帰陣し上京の準備をする。そこに香坂昌元、小幡虎昌らが来て、人質の返還を迫った。「もし聞きいれないときは、槍先にかけても請取るから、路次、難儀となろう」と脅かすが、長可は「槍先勝負とは笑止、いらざる戯言止め早く帰り、上洛の共の支度をすべし」と睨みつけた。香坂、小幡両人は、その威勢に言葉を返すこともできず立ち去った。
 11日、海津城を放棄し、途中、信濃・美濃の国衆が行く手を阻む中、本拠地の美濃の金山城に帰ろうとした。その報が伝播すると旧武田家臣団による一揆などが一斉に蜂起し逃亡しようとする長可を、香坂昌元らが信濃国人衆を母体とした一揆勢を率いて、千曲川の対岸で阻止した。それで長可は香坂昌元の息子である森庄助(森姓は長可が烏帽子親である為)をはじめとする人質を使って交渉の席を設けた。長可の側近として主に対外交渉などを担当している家臣大塚次右衛門を一揆衆への交渉役として遣わされた。大塚は昌元の裏切りをその席で糾弾するなど終始強気の態度であった。ひとまず深志(現松本市)で人質の開放するから「森軍に手出しをしない」という条件で合意した。しかし一揆衆は、人質を押さえられていた上での合意であれば、当然真意とは違い猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ;千曲市と麻績村の堺、善光寺街道・現在は国道403号となっており、聖湖の北側)で長可と戦に及び、撃退された。
 そこで再度、大塚と一揆衆の会談の席が設けられ、大塚は手出し無用の事を強く言明した。しかしながら長可は昌元の裏切りそのものに強く不快感を持っており、深志に着くと約束を反故にし、長可自ら香坂昌元の息子森庄助を初め人質の多くを殺し、そのまま北信濃から撤退していった。残りの人質は木曽の木曽義昌に預け西上した。

 長可が北信4郡を空け西上すると、上杉景勝は直ちに、川中島へ侵略した。6月13日、稲荷山北部の清水三河守を臣従させた。次いで水内郡の栗田民部介や更級郡西山部の香坂一族など、北信4郡の武田氏旧臣や国衆に所領を安堵し臣属させた。海津城の城将の香坂昌元、小幡虎昌らもこれに従い、6月14日朱印状が与えられている。同月29日、景勝は遠山丹波守を上州沼田に在城させ、その功として更級郡八幡の松田氏の遺領を宛行い、埴科北部の西条治部少輔に本領を安堵する朱印状を与えている。7月3日、景勝は北信4郡の仕置のため、長沼城に入り、宛行状を与えた諸士と対面し、各所務に励み城普請をするよう命じた。
 天正10(1582)年3月、武田氏滅亡と信長による甲信の平定がなされたが、甲斐はもちろん信濃の一部でさえ、小笠原貞慶に分け与えられることはなかった。旧領の安曇・筑摩両郡は、信長に降った功により木曽義昌に加増され宛行れた。この年6月2日、信長は本能寺で自裁すると、たちまちのうちに甲斐・信濃の信長勢力は、旧勢力の復活により駆逐される。この機会に、越後に居た貞慶の叔父小笠原貞種が、上杉景勝の援助を得て木曽氏より深志城を奪い返した。しかし、景勝は海津城に居て、筑摩地域が容易でない状況を目の当たりにして、これまで上杉に臣服していなかった国衆にも、かつての経緯を問わず、その所領を安堵した。景勝は北信4郡の制圧こそが、当時の情勢下であれば、最悪確保されなければならない要地であった。
 徳川家康の戦略眼と軍事力、家臣団の強靭さは、景勝のそれを遥かに超えていた。小笠原貞慶は本能寺の変の時、家康のもとにいた。家康の要請もあって念願の信濃に入り、馳せつけた小笠原旧臣たちを率いて深志城を攻撃、7月17日、叔父小笠原貞種を追い落とし、ついに深志入城を果した。
 上杉景勝も小笠原貞慶の勢力拡大を阻むため、懸命に、小県郡の諸侍に宛行状を発している。7月24日付けで、小田切四郎太郎に「任望むの旨ゆえ、塩田郷の内下郷・中郷・本郷3か村の内、以上千5百貫文務める所、出し置き候、よって件の如し」と本領を確認している。
 西条治部少輔には7月25日付けで「近年抱え来る知行の儀は申すに及ばず、その上の忠信の間、新地として洗馬(せば;塩尻市大字宗賀字洗馬)、曲尾之を出し置き候、しかる間、いか様の者横合候とも、相違あるかざるべきなり、よって件の如し」と朱印状を与えている。
 屋代左衛門尉(秀正)にも7月25日付けで「近年抱え来る知行は申すに及ばず、忠信誠に比類なく、庄内根津分、並びに八幡の内遠山丹波分、浦野一跡之を出し置く者なり、よって件の如し」宛行状を与えている。景勝が海津城に入り、北条氏直と対峙した時、屋代秀正、海津城の香坂昌元、上田城の真田昌幸ら主だった国衆は、既に北条氏に内属していた。景勝とても、その実情は承知しながらも、それまでの経緯を問わず、諸士の本領を安堵し、その上の新知を宛行った。その結果、川中島4郡の鎮定が進められた。
 7月には、上杉景勝は高井・水内、更級・埴科の北信4郡を制圧し、安曇・筑摩・小県3郡の一部をも領有するに至った。景勝は村上義清の子景国を海津城代に任じ、元来、村上氏家臣筆頭の家柄であった屋代秀正を副将として海津城二の丸に置き補佐させた。同時に秀正は、屋代郷屋代城の守備も命じられている。そのため景勝は、秀正の守城荒砥城(千曲市上山田温泉)に清野、寺尾、西条、大室、保科、綱島、綿内ら7氏に、10日交替の在番を命じ、筑北地方の警備を厳重にさせた。
 秀正の養父屋代正国は、村上義清の重臣であった。武田信玄の信濃侵攻に対し奮戦し、天文17(1548)年の上田原の戦いで嫡男基綱が戦死している。天文22(1553)年4月5日、塩崎六郎次郎と共に村上義清から離反して武田氏に降伏し、村上氏没落の切欠となった。天正3(1575)年の長篠の戦いで、武田勝頼方として次男正長(清綱)を喪い、甥の屋代秀正を養子に迎えて家督を継がせた。秀正はもとより景勝、村上景国いずれも、その間の経緯は知っているはずだ。川中島4郡の鎮定は、極めて脆い一時の均衡であった。
 景勝は天正10年8月12日日付で、秀正へ「兼ねて申し定める如く、源五(村上景国)の事別して入魂任せ置き候、万端仕置き何遍も分別次第、源五と談合これあり、相計らえもっともに候、恐々謹言」と書状を送っている。
 景勝は、信濃の仕置がなると、当地の横目として板屋佐渡守光胤を置き、食邑として更級郡布施の内河野因幡(尚家)分、高井郡高梨領大熊郷料所分、更級郡桑原郷料所分、更級郡今井郷小山田分を宛行っている。

4)北条氏直、信濃侵攻と諏訪頼忠
 この当時、滝川一益(かずます)と戦い、その勢力を駆逐した北条氏直は、それに乗じ碓氷峠を越え佐久郡の依田信蕃(よだのぶしげ)を追い、小県郡海野に達した。真田昌幸もその勢いに抗しえず臣従した。
 天正10年(1582)、氏直は、諏訪の重臣千野昌房に使者を送った。家康も、大久保忠世を派遣して臣従を勧めるが、この当時、高遠の保科氏、木曽の木曽氏など南信濃の小領主の多くは、既に北条方になっていた。諏訪頼忠も氏直から北条氏につくよう要請されていた。この後直ぐ6月28日、徳川家康は大久保忠世を信州諏訪に出兵させた。諏訪や伊那の国人衆を傘下に入れるためであった。酒井忠次の軍は下伊那の小笠原信嶺の軍と合わせて、7月14日高島城(茶臼山城)を囲むが、頼忠はよく耐えこれを防いだ。この危急を知って北条氏直は佐久に出陣した。酒井忠次は北条の動きを見て、一旦は高島城の囲みを解き、甲州の台ケ原(山梨県北杜市白州町の旧台ケ原村)に退いた。7月19日から21日に掛けて、大久保忠世から盛んに帰順を促す書状が届けられた。
 7月24日、駿河にいた家康は、酒井・大久保の軍に加え、伊那の下条と知久氏の与力軍、合わせて3千の軍に決戦を命じた。高島城を攻めるが、諏訪軍は、逆に夜討ちをかけるなどして、よくこれに堪えた。これより前、北条氏直は、6月中旬、真田昌幸が名胡桃城で抵抗するため、佐久郡に侵出していたが、諏訪氏救援のため、真田昌幸に本領を安堵する条件で和睦し、氏直はその兵、4万3千を率い、役行者(えんのぎょうじゃごえ;雨境峠;北佐久郡立科町八ヶ野;長門牧場の東北部)を越えて、梶が原(茅野市柏原)に駆けつけ着陣した。29日徳川勢は、高島城の囲みを解き乙事(富士見町)に引き上げた。8月6日まで滞陣していたが、北条軍が多勢のため新府城へ退却した。北条軍はこれを追い、上の棒道を通って若御子(北巨摩郡須玉町)にまで進出し布陣した。
 家康は甲府から新府に進み、氏直と対峙する。両軍は小競り合いを繰り返しながら、80日近く経って、10月29日にようやく両者の和議が成立した。それは真田昌幸が、徳川と結び、北条軍の諏訪進出の隙を突いて、碓氷峠を越えて上州に進攻し、9月には北条方の沼田城を奪取し、北条軍の糧道を断ったからである。ついに、氏直は形勢の不利を悟り、上州沼田をとる一方、甲斐の都留郡、信濃の佐久郡を家康に譲り、真田昌幸には代替地を与えること約定して和睦した。そして、家康の次女督姫(とくひめ)を氏直に嫁がせた。以後、甲斐と信濃の大部分は、家康が領有する。
 既に諏訪頼忠に対して、家康は、対陣中の9月の時点で、大久保忠世を高島城に派遣して、頼忠に帰順を勧めていた。最早、北条に頼れないと悟り、やがて頼忠・頼水父子は、甲府の家康に拝謁し、次男頼定を人質として差し出し、徳川に帰属を願い出た。家康はこの時「信州の事情がはっきりするまで、帰って待て」と指示、翌天正11(1583)年正月、柴田康忠を高島城に派遣した。3月28日には、諏訪安芸守頼忠殿宛てに、家康の花押のある諏訪郡の安堵状が与えられ、柴田康忠は引き上げた。この安堵状は重く、以後、高島藩は譜代大名に準じた扱いを受ける。
 翌天正12年には、家康の命令で本田康重の娘(後の貞松院)を、頼忠の嫡子頼水が娶り、頼忠の地位は徳川家で不動のものになった。
 頼忠は居城を茶臼山の高島城から下金子に移し、宮川が大きく湾曲した突端に、平城の本丸を築いた。宮川が外堀で、本丸、二の丸、三の丸も備えていた。本丸の東が三の丸で、その堀の外に八幡社を勧請して城の鎮守とした。
 諏訪頼忠が郡主になるが、頼忠は上社大祝・千野氏以下上社系の旧臣を用いた。天正18(1590)年、北条氏の小田原城が開城した年であった。6月10日、家康から頼水宛に書状が届いた。
 「信州諏訪郡のこと、安芸守に先判つかわしたように、今より以後もまちがいなく安堵させるから、いよいよ忠勤を励む事」
 この年に、頼忠が隠居し、長子頼水が領主となった。頼水は家康の命により弟頼定に下社一円の領有を譲るべきとされたが、策謀の末これを追放した。対外的には出奔としている。詳細は歴史の闇の中に消えてしまった。また、下社系の武士は出仕する機会も無く、帰農して村役人におさまったりして、江戸時代を通して、下社系の武士は蕃の重職に就くことはなかった。

5)深志をめぐる小笠原貞慶と木曽義昌
 元亀3(1572)年12月22日、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町周辺)で、徳川・織田の連合軍は、信玄の見事な采配と圧倒的な武田の軍事力に完膚なきまで撃破された。翌元亀4年2月までには三河に侵攻され家康の属城野田城も攻略された。しかし、冬季の遠征により、信玄の積年の病労咳が重症となり帰国をせざるをえなくなった。4月22日、織田軍との直接対決を目前にしての帰府途上、伊那郡駒場で病没した。享年53であった。信玄ほどの武将が、なぜここまで無理をしたのか?馬場信房などの周囲の宿老が、なぜ自重を願わなかったのか?真田幸隆もなぜ説諭できなかったか?
 天正3(1575)年、2月26日、織田信長の武将河尻秀隆から小笠原貞慶(さだよし)に府中深志回復を呼び掛ける書状が届いた。貞慶は父長時が信玄に駆逐され没落すると上京して、父子共に小笠原一族の三好長慶に頼っていた。『書簡并証文集』によれば、小笠原貞慶に「今度信長の直札(じきさつ)を以て申し入れなされ候」とある。この秋に織田信長は信濃国へ出勢する予定であるので、その際に貞慶に還補(げんぷ:かんぷ)することは勿論、「別して其許の御才覚此の時に候」と、その実力を発揮する好機であること、信濃国・美濃国境目の「有事」が発生した際には相応の尽力をするよう伝えている。貞慶は、この府中復帰の誘いで信長に臣属する契機となった。
 毛利氏は織田軍羽柴秀吉の執拗な攻勢に遭い、武田・上杉・大坂石山本願寺を誘い攻勢に出た。天正3(1575)年の長篠の戦、5月21日、午前6時、武田勝頼軍と織田信長軍は連子川を挟んで対峙した。織田・徳川軍より高台に位置した武田軍は、地形の優勢を利用して一気に騎馬隊で駆け下り織田軍を粉砕する作戦であった。信長は敢えて、地形が低位にある地に本陣を構え、武田騎馬隊の破壊力の驕りを誘った。その一方「東三河の旗頭」と呼ばれる酒井忠次らは武田方の後方陣地鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を襲い、長篠城へ援軍を入れた。退路を閉ざされた武田軍は設楽原決戦(したらがはら)に挑みざるを得なく、騎馬隊を中心に次々と攻撃をかけたが、馬防柵に阻まれた進退ままならぬ状態下、信長軍の鉄炮隊の迎撃弾を浴びた。この合戦で信長は鉄炮を3段に構え交替で一斉射撃を行う戦法をとった。戦いは午前8時ごろから午2時ごろまでに及び、山県昌景、土屋昌次、馬場信房などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人を失った。多数の将士が名もなき足軽兵に射殺され無勢となった武田軍に向け、午後2時頃、信長の総攻撃命令が出る。滝川一益を一番手とする織田軍と徳川家康配下の三河武士団が次々に武田軍に打ちかかる。勝頼本陣も崩れ、勝頼は主従6騎で落ちていった。これ以後武田氏は往時の勢いを失う。天正10(1582)年滅亡する。
 信長は上杉景勝やその配下の北信の村上国清に書状を送り、甲信出兵を誘っている。天正3年11月28日付の書状を小笠原貞慶に持たせ、上野の小山秀綱に使者として「委曲、小笠原右近大夫に伝達有る可き候。」と伝えている。貞慶は天正5年極月(12月)22日日付で、北条氏政に対抗する常陸の佐竹義重の与党梶原政景から、関東出兵を要請されている。また同国の水谷勝俊・太田道誉からも援軍を頼まれている。天正8年3月23日には、越前いる「其国御滞在」の小笠原貞慶に、柴田勝家が越中の国人衆の調略を要請している。天正9年10月15日、織田信長が越後へ出兵しょうとする際、富田知信に送った書状には「猶貞慶申し可く候也」とある。この間、貞慶は織田方の使者的な役割しか与えられず、信長が抱える多士済済の武将と同列には扱われておらず、軍事力は殆どなかったようだ。
 織田信長の信濃・甲斐討伐作戦は、天正10年2月1日の木曽義昌の要請により始まる。安土在城の信長に美濃苗木城主苗木久兵衛(遠山友政)から「信州木曽義昌御身方之色を立て被れ候間、御人数出で被せ候様に」(信長公記)との書状が届いた。『当代記』には「信濃国木曽の主伊予守義政忠節致し可く之由、東美濃の苗木久兵衛(遠山友政)を以て信忠へ言上」とある。この報せに信長は好機到来とばかり、嫡子信忠以下の武将に、武田追討令が下された。この時、木曽義昌は弟上松蔵人を人質として差し出している。
 義昌謀叛の報は既に武田にも伝わり、2月2日、武田勝頼・信勝父子と勝頼の弟信豊らの兵1万3千が甲斐韮崎の新府城から諏訪の上原城に出兵し本陣とし、信長の諸所の侵入口を押さえた。信長の動くは速く翌3日には、かねてからの武田追討の計画通りの甲斐・信濃への出兵を諸将に命じた。駿河口から三河の徳川家康、関東口から小田原の北条氏政、飛騨口から金森五郎が一斉に進撃を開始した。安土の信忠本軍は、木曽口と岩村口の2手に分かれ侵入した。6日には、伊豆の河尻与兵衛が戦列に加わった。
 一方、勝頼は木曽谷を進撃するが、木曽義昌は2月6日に、伊那谷に在陣する織田信忠の武将塚本三郎兵衛に書状を送り、信忠の出馬が延引するならば、「御近辺衆二三の輩を将と為し、伊奈郡之御人数を遣い立て被れ候者、諏訪・府中一変為す可く候事」と進言した。更に「右御遅延に於かれれば、此の凶事眼前に表れる之事『塚本文書』」と早急の手立てこそが、即効策となると予告している。信忠は木曽勢の援兵として織田源五らを派兵した。勝頼の鎮定は「谷中過半撃砕令し候、然りと雖も、切所に構え楯篭り候之故、没倒遅々、無念に候。」と困難を極め、その間に下伊那の小笠原信嶺と国人衆が織田方に転じ遂に困窮する。義昌の読み通り、伊那衆のみならず安曇郡の古幡・西牧両氏は義昌に内通し、近郷の諸士と連携し大野田夏道(松本市安曇大野田)の砦に陣構えをした。また岩岡佐渡・織部父子も深志城を離間し中塔小屋を拠点とした。翌17日、深志の馬場勢は、中塔小屋を急襲し、安曇の上野原や黒沢馬場で戦闘となり、中塔小屋から細萱の館へ斬り込んだ。18日、寺所河原で戦い、19日には二木一門の岩波平左衛門も武田氏を見限り、古幡・西牧両氏らに同勢し、筑摩郡の下神林で戦い、野溝・平田辺りまで追撃した。漸く2月20日なって、勝頼は上杉景勝に信濃の動静を伝え援軍を要請した。これに応じ3月5日、景勝自らが明日出陣と触れ、松本房繁ら諸将を水内郡長沼へ先発させた。
 ところが、それ以前に信玄の甥で武田家重臣の駿河江尻城主で、郡内小山田氏に並ぶ河内領の再支配という別格待遇を受ける親類衆で、母南松院殿は武田信虎の娘、妻は信玄の娘見性院、その穴山信君が謀叛した。その報せで、『当代記』には、「其れに就き、甲州上下周章不斜(ななめならず)、勝頼陣中無体之関、即ち塩尻自り甲州へ.引退」とある。2月28日、勝頼は諏訪の上原城を撤退し甲斐新府城に籠った。
 2月末、信長の従兄弟織田信益が木曽から筑摩へ進軍し、深志に陣を布いた。同日、木曽義昌も深志の南方、征矢野・鎌田に陣を据え、安曇の国人古幡伊賀・岩波平左衛門・岩岡織部などを呼び付け、深志城の調略を命じた。結局、天正10年3月2日、馬場信春は四面楚歌となり降伏し退城した。天正3(1575)年の長篠・設楽ヶ原の合戦で馬場美濃守信春(信房)が討死し、家督を継いだ子も同じ名を称していた。二木衆も安曇の中塔小屋へ撤退した。義昌は無血開城に成功した。
 一方信忠殿は3月1日、飯島から軍勢を動かし、天竜川を越えて貝沼原に着陣した。ここから松尾城主の小笠原信嶺を案内に立てて河尻秀隆・毛利秀頼・団平八・森長可の軍勢を高遠へ進ませた。小笠原信嶺の案内で夜間に城の麓の三峰川を渡り、対岸の大手口へと攻めかかった。ところで飯田城主であった保科正直は飯田を脱出し、高遠に入って籠城軍に加わっていたが、この日の夜間に城中へ火を放ち内応する手はずを信嶺と謀っていた。しかし城内は臨戦中であり実行する間隙がなく翌日を迎えた。
 天竜川を越えて貝沼原に宿陣していた織田信忠は、翌2日払暁、尾根伝いに搦手口へと攻めかかった。森長可・団平八・毛利秀頼・河尻秀隆・小笠原信嶺は大手口へ攻撃をした。勝頼の異母弟仁科五郎信盛は、最期まで忠節を貫く諏訪衆と共にこの大手から討って出、織田勢と数刻にわたり壮絶な戦闘を繰り広げた。多勢に無勢、数多の兵が包囲され討ち取られ、やむなく残兵は城中へと逃げ帰った。
 信盛も孤軍奮戦するが高遠城は殲滅された。信盛享年26であった。勝頼は小山田氏にも裏切られ、夫人北条氏の伝手を頼り上州を目指すが、天目山に至り織田軍勢に挟撃され、遂に3月11日、妻子とともに自刃、享年37であった。
 信長自らも驚くほどの短期間で、信濃・甲斐・駿河を制圧した。3月17日に、飯田を発ち、大島・飯島から高遠を経て杖突峠を下り、上諏訪の法華寺に本陣を置いた。すると、甲斐・信濃の国人衆は、引きも切らず参集した。
 小笠原貞慶は、深志城落城を報らされると、すぐさま飛騨から安曇郡金松寺に身を移した。貞慶は愚かにも小笠原旧臣と、信濃逃亡後、未だに疎遠状態に在った。父長時以来の有力臣属二木氏すら貞慶の動静が知らされていなかった。さすがに信長は信濃制圧に何の功績も無い貞慶の入府を許さなかった。信長は同月19日、上諏訪の法華寺に入り本陣とした。貞慶は府中回復の絶好期でありながら、旧臣の援軍も期待できず府中を回復できなかった。翌20日、木曽義昌は出仕し、信長の来援を謝し、太刀一腰・馬二疋・金二百料を献上した。信長は義昌に黄金千両を下賜し、更に寺の縁まで見送りに出るほどの持て成しをした『当代記』。21日には、武田氏滅亡を速めた穴山信君(梅雪)も出仕し、甲斐・駿河の本領が安堵された。24日には、各在陣衆が兵粮などに困り、深志城の城米があてられ、その不足を北条氏政から白米2千石、家康からも石高不明だが進上され、諸陣に配られた。
 同月27日、「信濃国筑摩郡・安曇両郡之事、一色宛行候訖(おわんぬ)。全て領知に令す可し、次に木曽郷之儀、当知行に任せ聊かも相違有る可からず之状、件の如し。」と、木曽義昌が武田氏征伐の切欠をつくり、更に出兵の先鋒となった功を賞した。2日後の29日に、法華寺で甲斐・信濃・上野・駿河の知行割が行われた際、徳川家康に駿河一国が宛行われ、再び義昌の本知の木曽郷と、かねてからの約束通り府中深志を含む筑摩・安曇両郡の新知が下され対外は、殆どが信長の家臣に与えられた。穴山氏本知分は除く甲斐と信濃国諏訪郡が河尻秀隆の新知宛行とし武田氏の本拠を押さえとし、滝川一益に厩橋(前橋)城を本拠とさせ、上野と信濃の小県と佐久の2郡を与えた。以後、川中島の海津城に在城を命じられ、越後の上杉景勝攻略の先鋒として森長可に信濃の高井・水内・更科・埴科の北信濃4郡を与え、次の布石としている。毛利秀頼には信濃国伊那郡を知行させた。帰属した国人衆の旧領を安堵し、各家臣団の新知行地に再編入した。
 小笠原貞慶は、府中の小笠原譜代衆をかき集め、金松寺から上諏訪法華寺にいる信長に謁するため駆け付けたが、「御礼罷り成らず」と門前払いされている。木曽義昌の抜群の軍功の前に屈し、僅かな家臣を連れ京に戻って行った。
 天正10(1582)年3月、信長は甲信両州の国掟(くにおきて)を各郡内に発布した。そこに、「国諸侍は懇ろに扱い、油断無き様気遣いす可き事。」とありが、『当代記』には「甲州之国侍、又は武田の家老共と駿河・信州の侍、小山田・山県を初め、悉く誅戮させ、三川(河)菅沼伊豆守父子同菅沼新三郎、去る元亀3(1572)年より信玄に属し、天正3年の長篠の合戦より信州に在国、此の度降参し河尻肥前守を頼り彼の陣中に居りしを、家康自り信長へ言上あり、則生害せられた。諏訪の祝女(はふりめ)は新三郎の妻たりしか、此の事を聞けば則ち子供指し殺し、其の身も自害させ」とあり、一度信長に歯向えば深酷な仕置が諏訪衆などに及んだ。
 一方、「関役所、駒口取るべからざる之事。」とあり、この関所の撤廃楽市楽座の実施により、『信長公記』は「路次の滞り聊か以てこれなし。誠に難所の苦労を忘れ牛馬のたすけ、万民穏便に往還をなし、黎民戸(いんと)ささず、.生前の思い出、有りがたき次第也と、悉く拝し申し候」と自負している。
 信長は東国の処理を済ませ、4月10日、甲斐から帰陣する際、「進退之郡内請取り、作道す可き事。」と笛吹川に橋をかけさせ、安土城への帰還の道幅を広げ、石を除き道筋を覆う大木を伐り倒させた。この処置は信長の大軍団の帰陣の障害を取り除くためであったが、一方、全国制覇のためには道路網が最重要不可欠な基盤整備となる。信長は既に天正2年の暮れに「国々道を作るべき旨」の朱印状を、分国に触れ出していた。『信長公記』は「江川には舟橋を仰せ付けられ、険路を平らげ石を除き大道とし、道の広さ3間に中路辺の左右に松と柳を植え置き、所々の老若罷り出で、水を注ぎ微塵を払い、掃除を致す可き事」と命じた。

6)本能寺の変後の小笠原貞慶
 天正10年6月2日、明智光秀のクーデターにより信長と嫡男信忠の政権は脆くも崩れ去った。信長政権が確立しないまま、特に甲信地区は.再び無主動乱の地となった。各地の旧主が自領の回復を計り、北の上杉景勝南の徳川家康東の北条氏政が旧領主に調略の手を伸ばした。12日、小笠原貞慶は嫡子秀政を徳川家康の人質に差し出して、徳川家康の支援を得て信濃府中に還着した。かつて小笠原長時幕下にあり、府中北方の伊深城主であった後庁(三村)勘兵衛に「今度石伯(石川伯耆守数正)御取成し故、家康御光を以て入国の行、偏にその方覚悟に候」と促し、本意を遂げれば後庁の名義と洗馬3千貫を宛行うとし忠節を促している。更に2日後14日の信濃入国に際し「当家奉行に相加え候」と貞慶は花押状を送っている。しかし長時の弟・叔父小笠原貞種が上杉景勝の後援をうけて信濃に侵攻して深志城を奪還した。景勝は13日には更級郡の清水三河守康徳(やすのり)を初め、16日には市河治部少輔信房など、主として北信の武将に旧領を安堵し、新たに所領を宛行っている。同様の措置として20日には、小幡山城守景虎に花押状、29日には西条治了少輔にも朱印状を与えている。
 その間、景勝は梶田・八代の両物頭に、2百騎を預け深志城攻略に向かわせた。川中島より麻績・青柳・会田などの諸士を降ろし府中に入った。深志城の木曽義昌を攻め破り、小笠原貞種を城主として置き、小笠原氏の旧臣の所領が多い安筑地方を治めさせた。上杉氏は、謙信公以来、他領支配が稚拙で、梶田・八代の両物頭は、なんの施策も無く代官的機能も果たさず、貞種を表に立てることも無く、驕り高ぶり専横な言動を専らにし安筑地方の人心を失っていった。
 結果、安筑地方諸士の輿望を失い、『二木家記』によれば、二木一門や征矢野(そやの)甚右衛門が、起請文を書き有賀又右衛門、平沢重右衛門を使者にたて、三河の徳川家康の許に寄寓する貞慶の信濃府中への還住を願った。先の3月、信長による甲信制圧に際し、小笠原旧臣と安筑地域の諸士と連携がなされるまま無為に時を逸失し、木曽義昌の後塵を拝した。貞慶は最後の好機と知り、事前に書状で安筑地域の諸士の懐柔策をなし、今回は積極的に所領安堵と新知を宛行い、その他の恩賞を約定した。
 貞慶が家康の支援を得て、三河から伊那谷に入り、その地の下条頼安や藤沢頼親の兵を合わせ塩尻に着陣すると、安筑両郡の諸将が既に参集し迎い入れる用意を整えていた。その塩尻で挙兵を宣言すると、7月17日夜明け、安筑の旧臣を率いて深志城を攻略に向かうと、貞種ら越後勢は戦うこともできず退去せざるおえなくなっていた。貞慶は深志城に入ると深志の地を「松本」と改め、城下の整備に努めた。「松本」の地名は貞慶が命名したのではなく、既に深志付近にある一地名として古くからあった。貞慶が「深志城」を「松本城」と改称すると、「松本城」周辺に広く伝播され、その範囲が広がった。

7)小笠原貞慶の深志平定
 30年振りに旧地に復した深志城主小笠原貞慶は、天正10年から11年にかけて、一つは旧臣たちと寺社への所領安堵および寄進、もう一つは反貞慶の態度をとり続ける地侍の討伐に邁進した。前者に関しては、同年8月3日、筑摩郡の犬甘半左衛門久知(いぬかいひさとも)への安堵状を皮切りに、数多くの安堵状・宛行状・寄進状を発行している。深志城に入ったものの、深志から川中島迄の間、即ち子檀嶺岳(こまゆみだけ)の北西、四阿屋山(あずまやさん)、聖山、冠着山(かむりきやま)辺りの筑北地方と安曇から仁科地方小谷迄も上杉の勢力下にあった。徳川家康にしても一時的措置として小笠原貞慶を利用したようだ。反小笠原の勢力が一揆を結び攻撃して来るか、景勝が南下策を採ればひとたまりもなかった。
 現に木曽義昌が深志城を奪還すべく攻撃してきた。貞慶は深志城から果敢に出撃し、義昌を敗走させた。木曽領筑摩郡本山(塩尻市本山)から福島口まで追撃し、日が落ちたため陣中大いに篝火を焚き着陣を装い帰城しょうとしたが、義昌も予想していて、兵を隠して反撃の準備をしていた。その撤退に乗じられ小笠原孫次郎・犬甘治右衛門政信らの重臣が討ち取られている。家康も、これを報らされ、貞慶の軍事力に期待できずとし、8月30日には、北条氏傘下となった木曽義昌に安筑2郡の安堵状を発し靡かせている。家康も、切迫していた。東の北条の動きは速く高遠の保科氏、・諏訪氏・木曽氏などを初め南信地方の諸勢力を臣従させていた。それがため、貞慶を無視し、中でも信濃の最大勢力である木曽義昌を逸早く調略した。
 なお犬甘政信が、7月中旬、貞慶が本山で木曽義昌と戦い、一度勝利しながら帰城の際、背後を襲われ討死したため、犬甘氏の家督は弟の久知が継承した。天正10年7月20日の犬甘久和宛の貞慶の花押状には「犬甘今度本山に於いて討死、比類無に候、然者(しかれば)、彼の跡目其の方相続申付け被る可き候、家来以下引出、弥(いよいよ)奉公為す可き事専用也」とある。
 一方、貞慶も必死で天正10(1582)年8月初旬から、先鋒として犬甘半左衛門久知と塔原城主海野三河守を任じ、仁科一族日岐氏の制圧に向かっている。9日には小笠原頼貞・赤沢・百束(ももつか)ら諸士が率いる後軍が深志を発ち安曇郡の穂高に陣を布いた。一方会田方面には赤沢式部少輔を出兵させ、青柳方面からも牽制させている。
 9月5日には、武田氏旧臣水上六郎兵衛に筑摩郡小松郷を、岩間善九郎には「信州野溝・平田・村井庄之内6百俵、名田被官等事」と安堵している。貞慶は父長時の没落の原因が、その傲慢さ故に家臣団が育成されず寧ろ一族譜代に嫌悪され、その上の戦略の欠如が諸所を破綻させた事を知っていた。
 貞慶は深志城から犀川筋を重視し、特に信州新町の牧之島に着目した。当時は東筑摩郡生坂村にある名勝山清路(さんせいじ)が通じてなく、下生坂からねむり峠を越えて込路部落へ出、大岡村・桐山・後沢、そして日向村・麻績へと大道が通じていた。その道筋を仁科氏一族日岐氏が、犀川沿いに小立野(生坂)地域には川はざま城・中野山城・小池城・高松薬師城、その北方の日岐・上生坂・下生坂にかけては小谷城・日岐大城・猿ヶ城・日岐城(ひき城;東筑摩郡生坂村日岐)・白駒城などで山城や砦で固めていた。兄の日岐盛直は犀川左岸にあった生坂の日岐城主で陸郷(池田町陸郷)に、弟盛武は生坂の万平(まんだいら)に居館を構えていた。
 深志に小笠原貞慶が侵攻し、川中島には越後の上杉景勝が反撃して来た。この時、日岐盛直は弟盛武と共に上杉氏に属したため貞慶と対峙した。貞慶は天正10(1582)年8月初旬から日岐氏征伐を開始した。先鋒の犬甘半左衛門久知と塔原城主(安曇野市明科中川手)海野三河守が出陣した。9日には小笠原頼貞・赤沢・百束ら諸将も出兵し安曇郡穂高に布陣した。一方上杉方の会田・青柳方面からの援軍を牽制するため、会田へ赤沢式部少輔を派兵した。貞慶は日岐氏に対し29日の時点では、「大手口之備え如何にも存分如く候、一両日中に日岐之者ども退散申し候可く候と存事候」と当初は一両日中に落居させると楽観視していた。しかし9月6日付の犬甘氏宛の書状で、明日貞慶自ら日岐に出馬すると伝えている。その後も苦戦が続き、翌天正11(1583)年8月初め頃、「日岐之大城御責め被成(なされ)候御積りにて」、大規模な戦略策が採られた。小笠原貞慶軍は3隊に分かれて日岐軍を攻撃した。本隊は小笠原長継、溝口貞康軍合わせて5手で、会田・板橋・西ノ宮そして庄部の赤岩へ進軍した。第2隊は仁科衆2手で大町・新町そして牧野島口に出て、日岐軍が北上して逃げる際の退路を断つという策であった。第3隊が小笠原貞頼・岩波平左衛門5手と旗本衆20騎が穂高・池田から日岐の北方にあたる草尾に出た。この隊の50騎が、徒歩となり草尾から犀川を船で渡り対岸の日岐崎に上がり20計りを討ち取った。すると後続の兵が続々と犀川を乗り越して日岐衆を追い落とし勢い付いて遂に日岐城を攻略し、万平(まんだいら)の居館も陥落させた。降伏した日岐は、以後は小笠原氏に属した。貞慶は日岐丹波守盛武に天正11年8月7日付けの花押状を渡している。「今度之重恩を為す、押野之内定納万疋之所出置可く候、此旨以て、忠信を抽す可き者也、仍って件の如し。」と、その帰属を許している。天正18(1590)年に小笠原氏が家康の家臣として関東に転封になると同行した。


 天正10年の冬、貞慶は会津若松にいる長時を迎えるため、平林弥右衛門を遣わした。長時は、武田信玄により筑摩を追われ越後の上杉謙信を頼った。その後、一族と共に同族の三好長慶を頼って上洛し、摂津の芥川城に15年間逗留した。権大納言山科言継の日記『言継卿記』に「妾がか所へ罷り向ふ、酒これあり。信濃国小笠原牢人(小笠原長時)、三好方これを頼みて芥川に住す。子喜三郎(貞慶)参会す。」とあり、『信府統記』には「将軍義輝公へ長時弓馬の師範」とある。『信府統記』は、享保年間、松本藩主水野氏の家臣鈴木重武・三井弘篤が主命によって編纂した地誌である。義輝は「鹿島新当流」を創始した「塚原ト伝」から剣術を学び、「剣豪将軍」・「抜刀将軍」と呼ばれた。また晩年には「新陰流」の創始者で剣聖とまで称えられる「上泉信綱」にも師事して、新陰流の免許皆伝も得ていた。それほどの義輝が長時に弓馬の師範を頼むだろうか?江戸期に編纂された小笠原家の家伝の原典まで遡り検証されなければならない。
 貞慶は父長時と共に諸国を牢浪し、漸く三好長慶を頼ったが、それ以降も含めて30余年牢人していた事になる。永禄6(1564)年、三好長慶が病没し、翌永禄7年に将軍義輝が暗殺された。そして永禄11(1568)年9月28日から織田信長に芥川城が攻撃され、30日には落城し、三好氏が没落した。『小笠原歴代記』によれば、長時・貞慶父子は「信長上洛の砌、芥川城没落す。長時51歳。而して越後に御下着す。輝虎別して御懇意により、5百貫宛無役に進めらる。」と再び上杉謙信を頼った。
 長時は天正6(1578)年の謙信死後は越後を離れ、会津の芦名氏の許に寄寓した。その間、貞慶は奥州・関東を流浪した末、天正3(1575)年頃、織田信長に属し越前から関東諸国への使者的な役割を果たしたようだ。天正8年3月23日、信長の重臣柴田勝家が、「其国御滞留」と記される越中にいる貞慶に、当国の武将の帰属を働き掛けるよう要請している。翌天正9年10月15日には、信長が越後へ出兵しようとして家臣の富田知信に送った書状に「猶貞慶申し可く候也」と、それを届けた貞慶に詳細を聞くよう命じている。
 その貞慶が漸く本領を回復した事を知り、長時は大いに欣喜したが、69才との高齢であば、陸奥の冬の峠越えは耐えがたく、翌春府中に帰ると使者平林弥右衛門に書状を託し帰した。
 翌天11年3月貞慶は、再度平林弥右衛門を迎えに遣わせた。しかし既に、府中帰府の準備していた長時が、その最中に怨恨を抱いていた家臣坂西弾右門に暗殺されていた。府中の正麟寺(松本市蟻ヶ崎) を父長時の開基として、その菩提を弔った。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/sada/sa.htm

幸綱(幸隆)は武田氏の麾下に属してから家紋と旗印を「六連銭」に改めた



海野氏、望月氏、祢津氏が「滋野氏三家」と称され、三家の幡の紋は、海野氏が「六連銭」、望月氏が「月輪七曜」、祢津氏が「月輪九曜」であったと伝えられている。
 滋野氏の家紋は「月輪七九曜」であったといい、海野氏も「月輪七九曜」を家紋にしていたという。しかし、幸綱(幸隆)は武田氏の麾下に属してから家紋と旗印を「六連銭」に改めたという。室町時代の中期に書かれた『羽継原合戦記』、別名『長倉追罰記』のなかに、海野一族は六連銭を家紋としていたことが記されている。おそらく、六連銭の紋は室町時代の初めには海野一族の共通の紋として用いられていたようだ。 

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/takeda1/ta1.htm

信濃武士、戦国時代序章


文明9(1477)年8月、信濃国では水内郡の栗田氏が、同郡内の漆田秀豊の本拠漆田城を奪取し領地を割譲させた。善光寺内に、寛慶寺という大寺がある。浄土宗総本山知恩院の末寺で正式名は寿福山無量院寛慶寺という。治承4(1180)年9月栗田城主であり、戸隠山顕光寺(現戸隠神社)別当である栗田範覚が、善光寺の南、犀川の北の栗田(長野市芹田栗田)に寺を建立し栗田寺とした。栗田氏は代々戸隠山別当を世襲しており、寛覚の代に鎌倉幕府より重ねて善光寺別当に任じられた。以来、代々、善光寺・戸隠両山別当を世襲した。栗田寛慶が、明応5(1496)年12月に没すると、その遺言に依り栗田寺を現在地善光寺東門に移し、父寛慶の名を以て寺号とした。
  国衙が後庁(現長野市南長野町・後町)にあった時代に、中御所守護館は、現在の長野市中御所2丁目に置かれていた。南北朝期から室町期の信濃国の守護所である。その漆田原(長野市中御所の長野駅付近)在地領主漆田氏の館跡が漆田城とも言われ、守護館の北西から西北西の方向に東西約254m、南北118mに漆田城を構えた。源頼朝が建久(1197)8年に善光寺に参詣した際にこの辺りの有力者である漆田氏の館に泊まったとある。漆田は現在も字名に残る。
 中御所守護館は文安3(1446)年の漆田原合戦後に廃された。小笠原宗康 が父小笠原政康からの家督を相続したが、政康の兄長将の嫡子持長と従兄弟同士で守護職と跡目を争い、宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死した際は家督を譲り渡す条件で協力を依頼した。宗康は漆田原で持長軍と戦い傷死したが、持長は戦勝しながら、家督を承継出来ず、その対立が後代にも及んだ。文明11(1479)年9月、伊那郡で松尾の小笠原政秀(政貞;宗康の子)と鈴岡の小笠原家長(光康の子)が争い始めた。小笠原家は遂に3家に分裂し混乱した。諏訪上社大祝諏訪継満は政秀を助勢するため伊那郡島田(飯田市松尾)に出兵した。
 文明11(1479)年7月、佐久郡内の小笠原一族、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めていた。佐久岩村田の大井氏の当主は政光の後嗣、若い政朝であった。ところが、その1か月後の8月24日の合戦で、大井氏は前山城の伴野氏との戦いに大敗し、政朝が生け捕りとなり、大井氏の執事相木越後入道常栄(つねよし)を初め有力譜代の家臣が討死した。この戦いには、伴野氏方に、大井氏に度々侵攻され劣勢にあった甲斐の武田信昌が、報復として加担したといわれている。生け捕りとなった政朝は佐久郡から連れ出されたが、和議が成立して政朝は岩村田に帰ることができた。以後、政朝は勢力を回復できぬまま、文明15年(1483)若くして死去した。子がなく、幼弟の安房丸が継いで大井城主となった。「四鄰譚藪」には「大井孤城となる」と記している。
 翌年、村上氏の軍勢が佐久郡に乱入し、2月27日、岩村田は火を放たれ、かつて「民家六千軒その賑わいは国府に勝る」と評された町並みは総て灰燼に帰した。大井城主は降伏し、大井宗家は村上氏の軍門に下った。
 翌文明12年2月、下社大祝金刺興春が、上社方を攻め安国寺周辺の大町に火を放った。3月には西大町に火を放つ。興春には諏訪一郡の領主権と諏訪大社上下社大祝の地位獲得の野望があった。同年7月、伊那郡高遠の諏訪継宗が鈴岡の小笠原家長に合力し伊那郡伊賀良へ出陣し、松尾の小笠原政秀と戦い、8月には、上社大祝継満が、小笠原政秀と共に伊賀良の鈴岡小笠原家長を攻めている。
 一方、高遠の諏訪継宗は同じ8月、伊那郡高遠(伊那市高遠町山田)の山田有盛と戦っている。文明13年の『諏訪御符礼之古書』に記される明年御射山御頭足事条には「一、加頭、伊那,山田備前守有盛、御符礼一貫 八百、代始、使四郎殿、頭役六貫文」とあり、山田有盛が頭役を勤仕している。山田氏は山田地内の山上に居城を構えていた。府中の小笠原長朝(持長の孫)は、高遠の継宗に味方し山田城を攻めたが長朝は多くの士卒を失ったという。翌14年6月、高遠継宗は藤沢荘の高遠氏代官として仕えていた保科貞親(諏訪一族)と、その荘園経営をめぐって対立し、大祝継満・千野入道某らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず不調に終わった。継宗は笠原、三枝両氏らの援軍を得て、千野氏・藤沢氏らが与力する保科氏と戦ったが、諏訪惣領政満が保科貞親の助勢に加わると、晦日、高遠継宗の軍は笠原(伊那市美篶;みすず;笠原)で敗れた。以後も保科氏との対立は続き、さらに事態は混沌として複雑になる。同年8月7日、保科氏が高遠氏に突然寝返り、連携していた藤沢氏が拠る4日市場(伊那市高遠町)近くの栗木城を攻めた。この時、諏訪惣領政満は藤沢氏を助け、その援軍も共に籠城している。
 15日には、府中小笠原長朝の兵が藤沢氏を支援するため出陣をして来た。17日、府中小笠原氏と藤沢氏は退勢を挽回して、その連合軍は高遠継宗方の山田有盛の居城山田城(高遠町山田)を攻撃したが、勝敗は決しなかった。『諏訪御符礼之古書』によれば、「府中のしかるべき勢11騎討死せられ候、藤沢殿3男死し惣じて6騎討死す」とある。

 諏訪氏も小笠原氏同様、一族間の内訌が絶えなかった。諏訪惣領家・諏訪大社上社大祝家・高遠諏訪家、そこに下社大祝金刺家が加わる争乱となる。
 この戦国時代初期、諏訪氏は多くの苦難を乗り越える事で、戦国武将として成長しつつあった。諏訪氏は、下社金刺氏を圧倒し郡内を掌握する勢いであり、杖突峠を越えて藤沢氏を支援し、一族高遠継宗の領域を脅かしつつあった。大祝継満も大祝に就任して20年近い、年齢も32才に達している。諏訪家宗主としての誇りと、度々の郡外への出兵で、軍事力を養ってきた。そして、諏訪大社御神体・守屋山の後方高遠に義兄弟の継宗がいる。彼らは、自ずと連携し、そこに衰勢著しい金刺氏を誘い、「諏訪上社を崇敬すると自筆の誓紙」を差し出した伊賀良の小笠原政貞とも同盟した。
 文明15(1483)年正月8日、その大祝諏訪継満が惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿(ごうどの)で饗応し、酔いつぶれたところを謀殺した。しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、2月19日、神長官守矢満実・矢崎政継・千野・福島・小坂・有賀ら有力者は継満を干沢城に追い詰め、更に伊那郡高遠へ追いやった。文明の内訌である。
 下社大祝金刺興春は、継満に同心していて、諏訪家の総領の不在を好機として3月10日、高島城(茶臼山城;諏訪湖の高島城は豊臣時代以降のもの)を落城させ、さらに桑原武津まで焼き払い、上原に攻め込もうとした。神長官守矢満実らは、敵の攻撃に備えて高鳥屋城(たかとやじょう;桑原城)に総領家一族と共に立て篭もっていた。守矢満実の子継実・政美は、矢崎、千野、有賀、小坂、福島などの一族と共に逆襲に転じ、逆に金刺興春の軍を破り、勝ちに乗じて下社に達し、その社殿を焼き払い、興春の首を討ちとった。その首は諏訪市湖南にあった大熊城に2昼夜さらされた。興春亡き後、諏訪下社大祝は子盛昌、孫の昌春と代を重ね、上下社間の争闘は続くが、このころから下社方の勢力は衰微する。この時府中深志の小笠原長朝は、神長官守矢満実・矢崎政継らに味方し、下社領筑摩郡塩尻・小野などを押領した。
 高遠に逃げた継満は、義兄の高遠継宗と伊賀良小笠原政貞、知久、笠原氏の援軍をえて翌年の文明16(1484)年5月3日、兵300余人率い、杖突峠を下り磯並・前山(いそなみ・まえやま;茅野市高部)に陣取り、6日には諏訪大社上社の裏山西方の丘陵上にあった片山の古城に拠った。その古城址北側下の諏訪湖盆を見晴らす平坦な段丘には、古墳時代初期の周溝墓、フネ古墳片山古墳がある。極めて要害で、西側沢沿いには、水量豊富な権現沢川が流れ地の利もよい。惣領家方は干沢城に布陣したが、伊那の敵勢には軍勢の来援が続き増加していく。 ところが小笠原長朝が安筑両郡の大軍を率いて、片山の古城を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。その向城こそが権現沢川左岸の荒城(大熊新城)であった。伊那勢は両翼を扼され撤退をせざるを得なくなった。 継満も、自らの妄動が家族に残酷な結果をもたらし、却って諏訪惣領家を中心とした一族の結束を強め、下社金刺氏をも無力にし、ここに始めて諏訪平を領有する一族を誕生させたことを知った。以後の継満には、諸説があり、各々信憑性を欠くが、いずれにしても、継満一家は歴史上の本舞台からは消えていく。 惣領家は生き残った政満の次男頼満に相続され、同時に、大祝に即位した。5歳であった。
 諏訪上社大祝諏訪頼満と下社大祝金刺昌春の戦が繰り返され、昌春の拠る萩倉要害が自落して、大永5(1525)年、甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。
 これより先、文明10年12月、深志の小笠原清宗(持長の子)が、享年52で没した。子の長朝が後継となったが、若年と侮られ、長朝が不在中に鈴岡の小笠原政秀が深志に侵攻してきた。
 小笠原長朝は諏訪氏と金刺氏同族間の戦いに介入にし、それに乗じようとする伊賀良の小笠原と戦い、その一方、筑摩と安曇地方で勢力を広げようとしたため周辺の豪族と争乱を繰り広げていた。長朝は、安曇地方の北部の雄族仁科氏(大町市付近)とも争うことになる。長朝は、戦線が拡大し手薄になった府中を、諏訪惣領家政満による攻撃を受け形成が次第に不利になっていた。鈴岡の小笠原政秀が諸所に転戦する長朝の不在をついてきた。家臣団は防ぎきれず、長朝の母と妻子らを守護し、相伝文書を携え更級郡牧城の香坂氏を頼って逃れた。やがて長朝も寄寓してきた。府中の小笠原家存亡の危機に至った。小笠原政秀は長朝の本拠地林館(松本市)を奪い、深志にとどまり安筑(あんちく)2郡を合わせて領有し、名実共に小笠原惣領家たらんとした。しかし安筑2郡の国衆は反発し治政不能の争乱状態となった。やむなく長朝と和睦し、家伝の文書を譲り受け、代わりに、長朝を養子とし府中に返した。香坂氏は長朝と同盟関係となり、延徳元(1489)年8月、府中へ出兵し長朝に助勢している。
 数年後、松尾の小笠原定基(光康の孫)が鈴岡の小笠原政秀父子を誘殺し伊賀良を掌握した。定基は勢いのまま、伊那地方制覇に奔走する一方、しばしば伊勢宗瑞(北条早雲)から要請され三河国に出兵し、更に遠江の大河原貞綱にも頼られ出陣している。
 その度重なる動員で、主力兵力の伊那地方の農民社会が崩壊し貧窮化する。そこへ府中の小笠原長棟(長朝の子)が3年間に亘って執拗に介入し、天文3年(1534)小笠原定基はついに降伏した。こうして信濃の小笠原氏は府中の小笠原家に統一され、長棟は次男の信定を松尾城に配して、府中から伊賀良までの完全支配を達成した。この数年後、小笠原長棟の跡を継いだ小笠原長時が、甲斐国から侵攻してきた武田晴信と戦うことになる。

3)埴科郡舟山郷
 「諏訪御府礼之古書」は『信濃一宮』諏訪大社上社の重要祭事の御符入の際に於ける頭役、礼銭、頭役銭などを記録しているため、信濃の中世武士の盛衰を知る貴重な史料となっている。
 『御符礼』とは、上社が翌年の頭役へ『御符』即ち差定書を届け、この差定の文言に従い「頭役」が担当する祭事の際、『御符』を捧げて諏訪郡内に入部した。『御符礼』を戴くことは、『信濃一宮』が認定する当地の雄族の証であり、『御符礼』はその対価となる礼銭のことである。「頭役」は信濃各地に於ける事実上の支配者を認定する公的権威となっていた。
 舟山郷は海野氏が領有していたが、やがて村上氏に奪われた。屋代信仲は、現在の屋代駅付近の一重山(ひとえやま)に屋代城を築き支配していた。
 『御符礼』によると舟山郷の頭役は、文安6(1449)年海野持幸代官平原直光、康正2(1456)年も海野氏代官室賀貞信であった。寛正2(1461)年以降からは、村上氏一族の屋代信仲が文明17(1485年)年まで頭役を務めている。
 応仁元(1467)年、村上氏との戦いで海野持幸が戦死し、本拠の小県郡海野荘は村上氏に奪われた。それ以前に、村上氏の勢力が、舟山郷までに及び、海野氏一族を一掃していた。幕府政所執事伊勢貞親は、8代足利将軍義政の養い親で、隠然たる政治力を有していた。その貞親が、寛正6(1465)年5月5日、大井持光の子政光から馬を贈くられ、その礼状に応え、埴科郡舟山郷入部を認めた。政光は、寺社参詣の名目で、重臣相木越後入道常栄(つねよし)に書状を託し、同年7月2日、舟山郷入部を再度、京都の伊勢貞親に質している。
 舟山郷は、かつて平家没官領から信濃春近領の一つ鎌倉将軍家領となっていた。南北朝時代には、室町幕府は守護領としていた。その領域は、「更級埴科地方誌」に「現在小舟山には舟山が小字として存在し、寂蒔(じゃくまく)や鋳物師屋にも舟山の小字があって、この辺りを中心とした郷であったことが知られる」と記している。舟山郷は、更級郡村上郷(現坂城町の上平(うわだいら)と網掛の間に字名を遺す)のあった更級郡南部から千曲川の川東を北に遡り、現更埴市屋代から現千曲市の戸倉の中間にあり、同じく現千曲市の小船山・寂蒔(じゃくまく)・鋳物師屋付近にあった。
 村上氏は室町時代初期、更級郡村上郷を本拠に、その千曲川以西を領有していた。明治22(1889)年、更級郡上平村、網掛村、上五明村が合併し村上村が発足し、昭和35年(1960)4月1日 その村上村が埴科郡坂城町に編入されている。その領域が大いに関わっている。舟山郷は、南北朝時代、守護所が置かれていた。至徳年間(1384~87)に守護所が平柴(長野市)へ移っている。以後、舟山郷は市河氏や倉科氏の預所(あずかりどころ)になっていた。
 「幕府は反幕的な村上氏や高梨氏に対抗させるため、大井政光に舟山郷を支配させようとした。寛正6(1465)年5月5日、幕府政所執事伊勢貞親は、政光に舟山郷入部を申し付けた。それを援護するため幕府は伊那郡松尾の小笠原光康と越後守護上杉房定に、村上政清と高梨政高の討伐を命じた。
 高梨政高は古河公方足利成氏と通じていた。越後守護は上杉右馬頭(うまのかみ)を大将として高梨の本拠の高井郡を攻め込ませたが、高橋(中野市西条)で逆に討ち取られている。その後文明17(1485)年まで屋代信仲が、諏訪上社の頭役を務めている。大井政光は村上政清に、自力では対抗し得なかったようだ。

4)村上氏、大井氏を滅ぼす
 村上氏は、応仁元(1468)年の頃、既に更級郡村上郷から坂木(埴科郡坂城)に本拠を移していた。坂木は千曲川東岸で、塩田荘の対岸に当たる。海野氏は北側両面から、その圧力を受けることになった。
 関東公方足利成氏没後、坂城の村上頼清が、塩田荘塩田城(別所温泉前山寺後方の弘法山)を拠点に伸張してきた。文正元(1466)年、村上政清は上高井郡山田郷で井上満貞を攻撃し敗死させている。翌文正2年小県郡海野荘を攻め海野氏幸を破り、翌応仁元年10月18日、氏幸を討死にさせた。海野氏一族の筑摩郡会田の岩下満幸は、救援に駆け付けたが、同年12月14日、政清に討ちとられている。翌応仁2年、政清は雪が解ける頃、傍陽(上田市真田町傍陽)の洗馬に攻め入り、海野氏に勝利している。この年の村上氏の洗馬攻めが、真田地方に村上氏が入った最初で、海野氏は村上氏に敗れたことで傍陽地方を維持できず、その地方の国人領主、曲尾氏、堀内氏、半田氏らは村上氏に降伏、後に横尾氏も降伏した。同2年4月に洗馬城(千葉城;傍陽地区)の詰め口を攻める最中、政清は陣中から坂城郷の諏訪上社四月会頭役の役料を届けている。この年の頭役には、政清自身が勤仕している。それまでは、文安5(1448)年の代官重富高信や寛正5(1464)年の代官飯野信宗が勤仕していた。政清は盛清以来村上氏発祥の地更級郡村上郷から、千曲川を越え埴科郡坂城郷へ本拠を移した。翌年には、隣接するに至った海野氏の真田郷内の城と所領を奪い尽くした。
 村上信貞は建武2年、足利直義から恩賞として北条氏の所領塩田庄を与えられ、その代官として一族の福沢氏を充て管理させた。政清は、これより先に塩田平に勢力を張る浦野氏を駆逐し、当地方を完全に掌握していた。
 応仁元(1467)年10月18日、村上頼清は小県郡の海野幸氏を討ちとり、その所領を奪った。その勢いのまま村上勢は大挙して佐久郡内に攻め込んだ。佐久郡の代表的史家である岩村田出身の学者吉沢好兼(たかあき;宝永7年~安永5年)の著「四鄰譚藪」には、村上氏が1万騎を率い大井氏を攻め、大井原の決戦に懸け、これに勝利し岩村田城下にまで攻め込んだ。大井氏は甲州へ逃れたとある。その影響により「妙法寺記」には、文明元(1468)年と文明4年に大井氏など佐久の国人衆が甲斐国に攻め入り、文明9(1477)年4月12日には、甲斐勢が佐久に侵攻して敗北した記録が記されている。大井氏は村上氏に追われ、その一族が甲斐国西部に根を張る切っ掛けとなった。甲斐国の大井氏の勢力は侮りがたくなり、武田晴信の母は、信虎の正室の甲斐大井氏である。
 当時甲斐守護武田氏の力が弱く、隣接する佐久からも侵攻されていた事が分かる。この甲州勢の報復的な佐久侵攻に際し、佐久郡南部の相木谷を本拠とする大井氏重臣の相木氏が軍勢を募り、現南牧村の平沢やその北隣り現野辺山の矢出原で、武田軍を撃退したようだ。当時の武田氏は甲斐守護職についていたが、それは名ばかりのことで、甲斐一国を平らかにする力は無かった。国内は、麻のように乱れていた。若い守護職武田信昌の代に、長い間専権をふるっていた守護代跡部氏を、寛正6(1465)年、西保の小野田城(東山梨郡牧丘町)で討ちとり、下剋上の芽を刈り絶ったが、その後も有力国人の反抗や対外勢力の侵入に悩まされていた。未だ守護大名化には、程遠い情勢下にあった。

 文明9(1477)年8月、持光から大井惣領家を継いで30年近くなる政光が、翌文明10(1478)年、身罷っている。政光の後嗣が若い大井城主政朝で、翌11年7月、佐久郡内の同族、大井・伴野両氏が諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めていた。ところが、その1か月後の8月24日の合戦で、大井氏は前山城の伴野氏との戦いに大敗し、政朝が生け捕りとなり、大井氏の執事相木越後入道常栄(つねよし)をはじめ有力譜代の家臣が討死を遂げた。この戦いに、大井氏に度々侵攻され劣勢であった甲斐の武田信昌が、報復として伴野氏方に加担したといわれている。生け捕りとなった政朝は佐久郡から連れ出されたが、和議が成立して政朝は岩村田に帰ることができた。以後、政朝は勢力を回復できぬまま、文明15年(1483)若くして死去した。子がなく、幼弟の安房丸が継いで大井城主となった。「四鄰譚藪」には「大井孤城となる」と表している。
 翌年、村上氏の軍勢が佐久郡に乱入し、2月27日、岩村田に火を放った。かつて「民家六千軒その賑わいは国府に勝る」と評された町並み総てが灰燼に帰した。大井城主は降伏し、大井宗家は村上氏の軍門に降った。 
 村上氏は、南北朝時代の末期に埴科郡坂城を中心に勢力を拡大し、嘉吉元(1441)年将軍足利義教が殺され、翌年守護の小笠原政康が死に信濃国内が騒然となると、その混乱に乗じて自領を拡大した。村上政清、義清の時代には、北信最大の雄となった。村上姓の由来については、信濃国更級郡村上郷の地名からとされる。
 その村上政清が、大井氏の代替わりを好機とし、1万2千の軍で大挙して大井城を襲撃した。大井氏には、往古以来の有力な家臣が潰えた凋落時、既にこれを撃退する力はなかった。城郭・神社仏閣・民家全てが焼き尽くされた。大井城は、落城「城主没落にあいぬ」「この節大井殿は小諸へお越し候え在城なされ蹌踉」とある。大井宗家は滅亡した。かくして、大井朝光が大井城に居住してからおよそ260余年、名族の城が落ちた。
 小笠原政康死後3家に分裂し、文明以降、信濃国は北信の高井方面では井上・高梨両氏が戦いを繰り返し、佐久地方では同じく小笠原一族同士の大井・伴野両氏が争い、その間隙を衝いて村上氏は、善光寺平・小県・佐久平に支配地を伸張させ、更埴を盤石な本拠地として確立していく。
 村上義清の代には、信濃埴科(はにしな)郡葛尾城を本拠とする信濃北東部の有力国人となり、佐久・小県(ちいさがた)・更級(さらしな)・埴科・高井・水内(みのち)の六郡に及ぶ大勢力となっていた。
5)武田信昌の時代
 武田 信昌は父信守の早世により、康正元(1455)年幼くして家督を継いだ。父信守も若年での相続であったため、信昌の時代の武田氏は守護代跡部駿河守明海(あけみ)・上野介景家父子が専横を極めていた。
 跡部は嘉歴4(1329)年の諏訪大社の『諏訪社上社造営目録案』に『玉垣二間 跡部』とあり、『尊卑文脈』には伴野氏初代時長の次男長朝が阿刀部(跡部)氏を称したという。『貞祥寺開山歴代伝文』には前山城(佐久市前山)を築き城主となったという。佐久郡野沢郷の北側に隣接する地に在し、室町時代、跡部氏が諏訪大社上社頭役に就いている。その後も頭役を重ねているが、10貫足らずで伴野荘内の頭役負担郷村では最小であった。
 笛吹川左岸、甲斐国西八代郡の旧市川大門町平塩岡にあった寺院の『平塩寺過去帳』によると、跡部郷の跡部常賀(つねよし)らの支族が、南北朝時代に佐久から甲斐の八代郡大石和筋(旧勝沼町)に移り勢力を伸張させたようだ。佐久の跡部氏は『諏訪御符礼之古書』に載る以降、不詳となる。

 応永23(1416)年上杉禅秀の乱に際し、甲斐守護武田信満は禅秀の舅であった関係から加担した。翌24年1月、禅秀が敗れ鎌倉で自害し、鎌倉公方足利持氏が上杉憲宗を大将に武蔵・相模の国人衆を甲斐に差し向けると、これを都留郡に迎え撃ったが敗れ、山梨郡木賊山(とくさやま;東山梨郡大和村;天目山)で自刃した。この乱により甲斐武田氏は滅亡の危機に瀕した。守護不在となると、甲斐の国人衆が自衛のため一揆を組み、相互の勢力争いが拡大し混乱を極めた。応永25(1418)年、将軍義持は甲斐鎮定の抑えとして信満の弟武田信元(穴山満春)を新守護に任じるが、国内に自立する国人衆によって信元は入国を阻まれた。
 幕府に要請された小笠原政康の支援により、ようやく信元は入国ができた。甲斐守護家武田氏の権威はまったく地に落ちていた。政康は同じ小笠原一門の跡部駿河守明海を守護代に推し信元を補佐させた。明海は武田氏の衰微に乗じ、子の上野介景家と謀り、甲斐守護職の座を狙った。寛正2(1461)年、景家は八代郡岩崎村(勝沼町)の氷川神社に掲げる新殿の棟札に「専ら跡部上野介景家身心勇猛にして、永く武家の棟梁となり、子孫繁栄して正に武門の枢要たらんことを祈る」と願文を奉げている。

 武田15代当主信守は若年の相続であったが、その信守も早世し、、その子16代当主信昌も幼年であった。跡部氏の対立は甲斐一国規模の戦乱となり、長禄元(1457)年には小河原合戦(現甲府市)と馬場合戦において信昌方は苦戦し一門の重臣吉田氏や岩崎氏らを失っている。跡部明海が寛正5(1464)年に死去すると、信昌は諏訪惣領政満の援護を受け、翌寛正6年、政満の父信満の兵と合わせて夕狩沢合戦(山梨市)において景家勢に大勝し、山梨郡西保下の小田野城(旧東山梨郡牧丘町)に追い詰め景家を自害させる。
 文明4(1472)年、佐久の有力国人大井政朝が埴科郡の村上氏に追われ、甲斐八代郡へ逃れ侵攻してきたため、花鳥山(旧御坂町)で合戦となった 『勝山記』。後に信昌は大井氏の弱体化を見て逆に佐久郡へ侵攻を試みたが、大井氏の重臣相木氏にこれを阻まれた。『勝山記』などによると、信昌守護の時代、風水害、飢饉、疫病の蔓延、農民一揆の勃発などの記録が散見される。こうした中、延徳2(1490)年、穴山と大井(武田大井氏)両氏が合戦をするなど、穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏といった国内の有力国衆が自家存続と領土拡張の野心を剥き出しにする。飢饉の最中、他領への侵略は、その作物の奪取が主要な目的であった。
 信昌は明応元(1492)年に嫡男信縄(のぶつな)に家督を譲って隠居したが、信昌に迷いが生じ、病弱な信縄を廃し、信縄の弟の信恵(のぶしげ)に家督を譲りたいと考え始め、信縄と信恵それぞれを支持する国人衆が、甲斐を2分して争った。

6)武田信虎の登場
 堀越公方足利政知の子足利茶々丸が明応4(1495)年、伊勢盛時(北条早雲)によって伊豆国を逐われ、上杉顕定や武田信縄を頼って武蔵国や甲斐国に寄寓していた。伊勢盛時は明応7(1498)年8月、甲斐国に侵攻し、足利茶々丸を討った。盛時は南伊豆の深根城を落として、5年をかけて漸く伊豆国を平定した。伊勢盛時の脅威が去ると、信縄と信昌の抗争が再開する。信昌は長期に亘り守護の立場にあり、国人勢力や対外勢力を撃退する成果を挙げた。後代の甲斐譜代家臣層のなかに「昌」の偏諱を持つものが多い。甲斐国の統一を進展させた結果とみられる。しかしその晩年には国内を2分する内乱を招いた。明応3(1494)年に武田信縄の子として信虎が生まれた頃も、父信縄は信虎から見れば叔父にあたる弟信恵との戦いに明け暮れていた。信虎が生まれた時期には、信縄は信恵に対して優位となり、とりあえず家督争いは小康を保っていた。しかし、永正2(1509)年に信昌がこの世を去り、その翌年には信縄も薨去した。ここに若干14歳の武田信虎(当時信直)が、武田家の家督を相続した。再び油川信恵(武田信恵)と信縄の嫡子信虎との家督争いが発生する。信虎は油川氏の居城である勝山城を先制攻撃し、油川信恵・信貞父子と信恵の弟岩手縄美などと共に討ちとり禍根を断ち切ることに成功した。
 信虎はほぼ甲斐国の統一を成し遂げると、次の標的にしたのが、小領主が分立し抗争を続ける信濃であった。甲斐から信濃へは、八ヶ岳の東麓を北上する佐久口と、八ヶ岳の南麓から西北に進む諏訪口がある。諏訪地方は永正15年(1518)、諏訪頼満が長年対立してきた諏訪大社下社大祝金刺氏を追放し統一を遂げ、軍事的にも侮りがたく、一方、佐久地方は大井と伴野両氏が対立し混沌としていた。
 永正16(1519)に甲斐の信虎が佐久郡平賀城を攻めたのを皮切りに、大永7(1527)年、野沢の前山城主伴野貞慶が大井氏と戦い、信虎に援軍を要請した。信虎は佐久口から入ったが、信濃方がまとまり対抗したため和睦し撤退した。
 享禄元(1528)年8月22日、信虎は先の甲州亡命者金刺氏の旧領奪還を口実に、諏訪へ侵入しようとした。同月26日、諏訪頼満は子頼隆と共に諏訪郡神戸境川(諏訪郡富士見町)で迎撃し信虎に勝利した。享禄4年、浦氏・栗原氏・今井氏・飫富らが信虎に叛き、諏訪氏に出兵を要請してきた。頼満は自ら兵を率い甲斐に侵入した。信虎が下社金刺氏牢人衆を集めて立て籠もらせていた笹尾塁を攻略し、更に軍を進めた。しかし2月2日の合戦で大井信業、今井備州らが討死し、次いで3月3日の韮崎河原辺の合戦で栗原兵庫ら8百余人が敗死し、反信虎軍は壊滅的打撃を被り四散した。頼満は信虎と甲斐国塩河で激戦となり、又も勝利している。天文元(1532)年9月、浦信本は再び諏訪頼満を頼り叛いたが、甲斐国の年代記「『妙法寺記』には「終に浦信本劣被食(おとえなされ)候而屋形へ降参申候。去間城を屋形へ渡し申候而云々」とある。信虎の鎮圧が早く頼満は出兵の機会を逸した。ここに信虎の甲斐国内統一が完成した。
 以後も諏訪頼満と度々交戦するが、天文4(1535)年9月17日、堺川北岸で会見して和議をした。天文9(1540)年5月、信虎は佐久郡へ攻め入った。甲斐国主の軍勢の前に、佐久の小領主の連合軍は脆かった。『妙法寺記』は、一日に36もの城を落したと記す。諏訪頼満の病死後、孫頼重が家督を継いでいた。父大祝頼隆は享禄3(1530)年4月18日病死していた。頼重は信虎に呼応し7月、岩村田大井氏の一族が拠る小県郡の長窪城(長門町)を奪っている。既に長窪城から依田氏の影はなく、芦田氏討伐後間も無く、大井氏は依田氏の本拠を奪取していた。諏訪大社上社五月会頭役などの記録によれば、依田氏は岩村田大井宗家や小諸などで、大井氏の執事・代官として家名を維持している。
 同年11月30日の甲斐国から輿入れがあった。頼満の孫頼重が信虎の姫(3女;信玄の妹)祢々御料人(ねねごりょうにん)を娶った。祢々御料人は14歳、頼重25歳。12月9日、頼重、甲府に婿入りしている。信虎同月17日、上原城を訪れる。頼重には既に小笠原氏の家臣小見氏(こみし)との間に一女があった。当時9歳で、後の諏訪御料人・本名梅であり、勝頼の母、この時、人質交換の意味もあって甲府に送られた。  翌天文10年5月13日、信虎と頼重が連携し海野(東部町)へ出兵した。村上義清も合力し尾野山(上田市生田尾野山)の海野棟綱を駆逐し、翌14日には祢津元直を追い、棟綱は上野の関東管領上杉憲政のもとへ逃れた。長野原には、同族の羽尾氏がいた。この時、真田幸綱(幸隆)も共に逃れたようだ。幸綱の出自については、真田氏自体にも幸隆以前の記録が少なく、棟綱の娘婿真田頼昌の子とする説や、海野棟綱の子幸綱が頼昌の養子になったなど諸説がある。
 同年6月14日、信虎は女婿である駿河の今川義元の館へ向かった。その際、信虎の嫡男晴信は、信虎を追放とし帰還を許さなかった。
 やがて武田氏と村上氏の争いの場となり、大井氏・平賀氏・依田氏をはじめとする佐久郡の諸豪族も村上氏や武田氏、更に関東管領上杉氏などの間で離合集散を繰り返していき、最終的にはその殆どが滅亡し、地名を氏(うじ)名とする名族を継承できなかった。その末流一族は、戦国大名の雄・武田氏に属し先陣先駆衆して、多いなる犠牲を払いながらも一族を存続させていった。

7)諏訪氏と武田氏の和睦
 文明12(1480)年頃に入ると、諏訪大社の上社と下社の対立が激しくなり、下社の金刺氏は府中(松本付近)の小笠原氏と結び、上社の諏訪氏は伊那郡の小笠原氏と結び、夜毎、戦闘を繰り返す動乱の時代となる。下社の金刺興春は、上社方の諏訪氏惣領家と大祝家の内紛に乗じ一時優勢になったが、逆に攻め込まれ首を討たれ、社殿等を焼かれた。孫の昌春の代には萩倉砦(下諏訪町東山田)を落とされ、已む無く甲斐国の武田信虎(武田晴信の父)を頼って落ち延びた。これが信虎の諏訪郡侵攻の口実となった。>
 信虎の信濃侵攻は、南の今川、東の北条と幾度かの戦火を交えながらも、決定的決着とならず、3者鼎立の膠着状態となった事による。
 信虎は明応3(1494)年に誕生した。永正4(1507)年2月14日、病弱であった父信縄が病死する、享年37であった。信虎14歳で家督を継いだ。叔父の信恵(のぶよし)が有力国人衆を誘い反旗を翻した。 翌永正5年、内戦に勝利し守護大名としての地位を守った。『高白斎記』によれば、永正16(1519)年には、甲斐をほぼ制圧し、それまでの武田氏歴代の居館があった石和(笛吹市、旧石和町)より西へ移り、初めは川田(甲府市川田町)に館を置き、後に府中(現在の甲府市古府中)の躑躅ヶ崎に館を構え、町を整備し家臣を集住させた。現在の甲府の始まりであった。
 大永3年(1523)6月10日、信濃国善光寺に参詣している。大永5(1525)年4月1日、「諏訪殿」に甲府の住居を与えている。「諏訪殿」とは、諏訪頼満に駆逐された金刺昌春とみられる。大永6(1526)年6月19日、将軍足利義晴は信虎の勢威が盛んであることに期待して、上洛を要請した。その際、関東管領上杉氏、諏訪上社大祝諏訪氏、木曽親豊に信虎の上洛に協力するよう命じている。当時、駿河には今川氏輝・氏親父子が、相模には北条氏綱がいて、互いに強国同士が接し、特に氏親と氏綱は北条早雲の縁から相駿同盟をしており信虎の東海道方面の侵出を困難にしていた。この年7月30日、信虎は、北条氏綱と籠坂峠の麓、富士裾野の梨木平で戦い大勝している。しかし、互いに決定的勝利とならず抗争は続いた。このため上洛は実現できなかった。
 信虎が、その全く逆方向の大国でありながら、諏訪氏、小笠原氏、村上氏、木曽氏等の小大名が分立する信濃に、矛先を向けるのは、信虎としては当然の帰結であった。信虎は一代の英傑であって、武田騎馬軍団を育て、その戦法の基本を確立した。その果実を晴信が継承し、類希なる軍略を駆使し稀代の戦国大名として成長した。
 甲斐と信濃は国境を接し、当時両国を結ぶルートには2通りあった。八ヶ岳の東を抜け佐久郡に至る道と、甲府盆地に隣接する諏訪地方への道である。信虎は、小豪族同士がひしめき合う佐久郡への侵入を試みたこともあったが、これは思うに任せなかった。享禄元(1528)年からは、諏訪地方を治める諏訪頼満と足掛け8年にわたる戦いを続けてもいた。天文4(1535)年には頼満と和睦し、後にはその子頼重に娘を嫁がせて諏訪家との同盟を締結し、信濃侵攻の方針を諏訪地方攻略から再び佐久攻略へと軌道修正した。
 頼重は天文3(1534)年に惣領家を継いだ。
 天文4(1535)年9月17日、諏訪頼満と武田信虎は堺川北岸で会見して和議をした。この年の6月、信虎は今川氏の駿河に侵攻した。8月、今川を救援する北条氏と都留郡の山中で戦い敗れている。信虎は西隣する諏訪氏との和睦が緊要となった。諏訪氏にしても文明14年以降、同族高遠継宗との攻防が続き、当代高遠頼継も、高遠氏積年の野望である諏訪氏簒奪の機会を窺っていた。諏訪氏にしても大門峠を越えた小名が群拠する佐久には魅力があった。
 天文6(1537)年2月10日、武田信虎は長女定恵院(じょうけいいん;晴信の姉)を駿河守護今川義元に嫁がせ、甲駿同盟を成立させる。天文5年、駿河の今川氏輝が逝去した際に、今川家では花倉の乱という家督相続が勃発した。信虎は義元の家督相続を支持し、援軍を派遣し義元の勝利を決定的なものとした。それを契機に武田と今川は同盟を結ぶこととなった。甲駿同盟に激怒した北條氏綱が2月26日に駿河へ出兵。興津近辺を放火する。 武田信虎は今川義元救援のために富士須走口に出陣している(『勝山記』須走口合戦)。
 天文7(1538)年、頼重は叔父の諏訪頼寛から弟頼高に諏訪上社大祝を継承させた。同年7月9日、頼重は、大門峠を越えて葛尾城(埴科郡坂城町)の村上義清・信虎と共に海野幸義を討ち取り、矢沢氏・禰津氏を攻め破っている。天文10(1541)年7月、海野氏が逃れて頼る関東管領山内上杉憲政が碓氷峠を越えて海野平に攻め込んできた。頼重はまたも大門峠を越えて長窪(ながくぼ;小県郡長門町)に布陣した。関東軍はこの時突然、軍を引いた。おそらく7月17日に、積年戦い続けてきた北条氏綱が55歳で、小田原城で病没したことと関係しているものと考えられる。
 海野棟綱をはじめとする海野一族は、武田信虎を中心とした諏訪頼重・村上義清らに攻められ、この合戦に敗れた棟綱は小県郡から追われて、上野国箕輪城主の長野業正を頼って逃れた。このとき、真田幸隆もともに上州に逃れ浪々したようだ。
 天文9(1540)年5月、信虎は初めて佐久郡に攻め入った。『勝山記』は臼田・入沢を初め大小36城を攻略したという。小山田昌辰(おやまだ まさとき)に一城を与え統轄させた。『向獄寺年代記』には、信虎は「前山に城を築いて在陣す」と記す。
 先の諏訪頼満と武田信虎との堺川北岸での和議結果、天文9年11月30日の輿入となった。信虎の姫(3女;信玄の妹)・祢々御料人(ねねごりょうにん)を娶った。祢々御料人は14歳、頼重25歳。12月9日、頼重、甲府に婿入り。信虎同月17日、上原城を訪れる。頼重には既に小笠原氏の家臣・小見氏(こみし)との間に一女があった。当時9歳で、後の諏訪御料人であり、勝頼の母、この時、人質交換の意味もあって甲府に送られた。
 祢々御料人は輿入れの際、化粧料として境方18か村を持参する。以後甲斐との国境が現在のように東に寄る。その18か村とは、稗之底(ひえのそこ)・乙事(おっこと)・高森・池之袋・葛久保(葛窪)・円見(つぶらみ)山・千達・小東(こひがし)・田端・下蔦木・上蔦木・神代(じんだい)・平岡・机・瀬沢・休戸・尾片瀬・木之間村である。甲六川(こうろくがわ)と立場川の間の領地を持参した。
 甲六川は、長野県諏訪郡富士見町と山梨県北杜市小淵沢町地区の境を流れる県境の細い河川で、小淵沢町地区・白州町地区の境目を流れる。国道20号(甲州街道)の新国界橋(しんこっかいばし)の橋の下で釜無川に合流する。

8)武田晴信、諏訪を攻略
 天文10(1541)年5月、村上義清は諏訪頼重とともに信玄の父・信虎に加担、海野平の戦いで海野棟綱を破り、望月氏や祢津氏など滋野3家の嫡流海野氏を信濃から追い出している。海野棟綱は小県郡海野庄太平寺(たいへいじ;現・東御市本海野字太平寺)を本拠としていた。武田・村上・諏訪3氏の草刈り場となり、その連合軍に敗れる。この戦いで領地と弟幸義を失い、 その後、関東管領山内上杉家を頼り真田幸綱(幸隆)ら少数の一族の者を率いて上野国へ逃れる。しかしこの直後に信虎は晴信(信玄)のクーデターにより駿河に追放され、以後武田氏は果敢に信濃侵攻を促進し、義清は武田晴信との対決を余儀なくされることになる。
 信虎父子に敗れ上州に浪々中の海野棟綱と幸綱は、上杉憲政に信濃国出陣を願い、小県の失地を回復しようとした。憲政も晴信の勢力が佐久に根を張れば、上野国への脅威となると同年7月の初め兵3千騎を率い佐久郡に攻め入った。
 『神使御頭(おこうおんとう)之日記』は
 「7月、関東衆3千騎計にて佐久海野へ働候、頼重7月4日に東国之向人数、長窪まで出張候、然所、此方之様躰(ようたい;ようす)能候(宜候;ようそうろう)て、関東と和談分に候、甲州の人数も村上殿の身をぬかるる分に候て、此方まてのやうに候処、長窪へは関東の人数不相働、葦田郷をちらし候て、其の侭帰陣候、葦田之郷にはぬしもなき躰に候間、頼重知行候て、葦田方の子息此方之家風になられ候間、其かたへ彼郷をいたさせられ、同17日に御帰陣候」と記す。
 村上義清は憲政の佐久郡侵攻に即応して、直ちに諏訪頼重と武田晴信に急使を遣わし救援を求めた。頼重は直ちに出兵し7月4日には小県郡長窪で対陣した。ところが義清と晴信らは、戦線に近づこうとしない。頼重は単独で憲政と和談とし小県郡への侵入を抑えた。武田・村上・諏訪3氏の戦国武将らしい臆面もない駆け引きが露呈されている。上杉勢は佐久郡芦田郷を狼藉しただけで兵を帰した。芦田郷は領主不在となり、頼重は、依田氏一族の芦田信守を被官させ代官とした。
 武田晴信は、天文11(1542)年3月、諏訪に軍を進め諏訪大社上社の富士見の御射山に陣を張ったが、間もなく陣払いした。6月、晴信は手堅く布石を打ち、高遠の諏訪頼継諏訪下社金刺氏牢人衆と謀り、同月24日諏訪郡を急襲し、28日には上原城に攻めかかった。高遠頼継の軍も、杖突峠を越え安国寺に到着し、その門前の大町を焼き払い側面から攻撃してきた。諏訪軍は武田勢と高遠勢に挟撃にされることになった。7月3日、頼重は仕方なく上原城に火を放って後方の桑原城に退いた。
 7月4日、頼重は、弟頼高と共に討ち死覚悟で出撃しようとするが、武田軍は城壁まで押し寄せ、和睦を迫る。板垣信方の策で、武田信繁を介して「協同して高遠氏を討つ」との条件で開城を要求してきた。頼重は、ひとまず武田の軍門に下り、機を見て諏訪家を再興しようと思い、城を明け渡した。」それは敗軍の将としての言い訳であった。
 7月5日 和睦の条件どおり諏訪頼重が甲府に送られる。諏訪の人たちは頼重が送られても、諏訪大社の大祝・頼高が残ったので安堵していた。ところが、上社祢宜矢島満清に預けられていた頼高も9日に甲府へ送られた。 この後の武田氏と高遠氏の戦いでは、信玄は諏訪頼重の子・寅王を奉じて戦う。また上原城の城代に板垣信方が就き、諏訪の郡代となる。
 頼重は甲府に連行され、板垣信方の屋敷に捕らわれの身となる。その後、武田晴信に会う事もなく、甲府市、妙心寺派臨済禅の東光寺山内に監禁され、7月20日の夜自害を迫られた。享年27であった。
 諏訪頼重歿後の諏訪氏は、大祝の継承と安国寺の住職の地位は認められるが、武士たちは諏訪先駆け衆として武田氏の兵団に組み込まれて、上原城(後に茶臼山の高島城に郡代は移る)の城代の軍令に従った。永禄10(1567)年の記録には、武田家旗下諏訪50騎、千野同心衆交名(きょうみょう)、高島10人衆の名が記されている。下社系の武士も少なからず武田の軍団に組み込まれていたようだが、永正15(1518)年、上社大祝頼満に反撃され、下社大祝金刺昌春方は、『当社神幸記』(諏訪頼宣氏所蔵)に「下宮遠江守金刺昌春、萩倉要害自落し、一類面々の家風悉く断絶しおわんぬ」と記されるほど、一族と有力諸士が殲滅され尽された。旧下社方は徒兵士を供出する程度であったと考えられる。兵農分離がなされていない時代の武士は、知行地で農耕を営む大百姓でもあった。それに歩卒する民百姓がいた、大百姓は、それぞれ知行を得、身代に応じて騎馬か歩卒として働いた。
 武田氏支配の諏訪40年間は、善政を敷き民政の安定に心をくだいたと考えられる。後世、悪政を呪う記録も口碑も遺っていない。だが民の軍役負担は兵役・兵粮の徴収・輜重荷役・軍道の開設と整備・河川の改修・城普請などに及び、元々の租税負担も重く苛政そのものであった。甲斐国でも大百姓までもが逃散する事態となり、その追及は家臣相互の他領まで及ぶとし、晴信は他領主の積極的な介入を指示し実効を挙げている。
 諏訪郡内の諸士は、甲斐軍の先方衆として、いわば戦場での捨石とされた。その捨石は諏訪郡内一族の重責であった。それが消耗され続けられた。
 諏訪は宮川を境にして東が武田氏、西が高遠氏と領土を分断された。諏訪下社一党も武田方であったが、それは名ばかりで、衰微しきっていて、戦功も乏しく領地は与えられなかった。
 天文11(1542)年9月10日、高遠頼継は、諏訪上下社明神権と諏訪郡全域を手中にしょうとして、藤沢頼親と結び禰宜太夫矢島満清と図り、上原城を攻め奪うと、直ちに上社・下社も支配して、積年の念願を果した。
 晴信は、甲州にいた頼重の遺児寅王を押し立てて、頼重の遺命と称し、高遠氏打倒の軍を進発させる。この時、諏訪は割れた。寅王を迎えて、諏訪宗家復興のかすかな望みをつないで武田氏に味方したのは、頼重の叔父満隆・頼隣(頼忠の父)、矢ケ崎大炊守(おおいのかみ)・千野伊豆入道・小坂兵部・有賀紀伊守・諏訪能登守等と頼重の近習衆20人、社家では、神長守矢頼真・権祝花岡氏・福島平八等、そして山浦の地下人達であった。一方高遠方は、上社祢宜・満清、有賀遠江守、有賀伯耆守(ほうきのかみ)、権祝、頼重の近習衆等であった。近習衆の動向は割れていた。
 新大祝頼隣は武田方の守備兵と茶臼山(諏訪市上諏訪桜ヶ丘)にたてこもり、高遠勢に備えた。『高白斎記』によると、武田軍の先発は板垣信方が率いって、9月11日に府中を出陣した。19日晴信も、躑躅ヶ崎館から本隊と共に出立した。9月25日上川の南、宮川沿いの安国寺ヶ原で、両軍ほぼ同数の2千同士で激突する。上伊那軍の箕輪衆・春近衆を率いる高遠方は大敗北、高遠頼継は高遠に逃げるが、弟蓮峰軒(れんぽうけん)頼宗は討ち死に、禰宜満清は行方不明となり、満清の子は討ち取られている。武田勢はさらに高遠勢を追撃し、杖突峠を越えた片倉で800人近い兵を討ち取っている。 
 天文11(1542)年9月下旬、晴信の命により駒井高白斉は伊那口に侵入、26日藤沢集落に火を放ちこれを攻めた。9月末には、諏訪全郡が武田領土となり、以後40年、武田氏の支配下に入る。 
 さらに晴信は板垣信方に命じて上伊那口に兵を発し、高白斉とともに上伊那諸豪族への示威運動を繰り返させた。晴信は、西上の志をいよいよ強くし、その通路にあたる伊那谷の攻略に着手した。


[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/takeda1/ta1.htm

 鎌倉公方2代目の足利氏満は、憲顕死後、関東管領を継いだ上杉憲春(のりはる)とともに宇都宮氏綱をはじめとする関東諸勢力と戦い、関東に強力な支配権を確立した。康暦元(1379)年、幕府の管領細川頼之が失脚する康暦の政変が起こる。氏満は好機として、足利義満に代わって将軍となろうと画策し挙兵しようとしたが、関東管領上杉憲春が自刃して諌めたために断念した。
 天授3(1377)年、信濃は再び幕府の管轄下に入り、元中元(1384)年、幕府管領斯波義将(よしまさ/よしゆき)の弟で、先の侍所頭人(さむらいどころとうにん)兼山城守護であった義種が守護となった。その後守護職は斯波氏が応安5年(1398)まで就任している。義種は在京のまま家臣二宮氏泰を守護代としたが、氏泰も下向せず子の種氏を代官として派遣した。種氏は、現長野市平柴にあった守護所に拠り、強権的な支配を行なった。

 鎌倉中期に信濃国志久見郷(現下高井郡北部)の地頭職を得た市河重房は、その地を実質的に支配する中野忠能と縁戚関係を結び、最終的に中野氏を被官にすることで志久見郷を掌握したと伝えられている。その志久見郷と高梨氏の支配地である小菅荘(飯山市大字瑞穂内山)との領境で、双方間の紛争が絶えなかった。高梨氏は本領中野を中心に、信濃国北部の高井郡・水内郡に割拠していた。北信濃では、更埴(こうしょくし)2郡を領有する村上氏に次ぐ勢力を維持していた。
 ちなみに、更級・埴科・高井・水内4郡が「北信」、小県・佐久の2郡が「東信」と呼ばれていた。現在では更埴2郡の特に北半分が長野市に編入されて、更埴市以南の区域は「東信」に含まれることが多くなった。更埴市は昭和34年(1959)、千曲川左岸の更級郡の稲荷山町と八幡村、千曲川右岸の埴科(はにしな)郡の埴生(はにゅう)町と屋代町との合併により市制が施行され誕生した。「更級」と「埴科」の頭文字から「更埴」と名付けられた。平成15年(2003)9月1日に、更埴市は更級郡上山田町、埴科郡戸倉町と合併し、千曲市となった。

 高梨氏は川中島川東の井上・須田らの各氏族と更埴の村上、太田荘(現長野市長沼周辺)の島津ら有力国衆(くにしゅう)が、互いの紛争を防止しながら守護勢力の介入を阻むため同盟し「国人(こくじん)一揆」を組織した。
 市河氏は、鎌倉時代末期に足利高氏軍に参じた市河助房が「神」と署名しているので、諏訪神党(すわしんorみわとう)に属していた事になる。観応の擾乱当時は、越後の守護上杉氏に与して信濃直義派として、尊氏派の信濃守護小笠原氏と対立するなど南朝方として活躍している。下高井郡の尊氏派の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、延文元年/正平11(1356)年、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍に勝利している。その後、憲顕が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏した経緯がある。市河氏の複雑な去就は、北信濃でも孤立気味となっていたが、以後、徹頭徹尾、幕府守護方の勢力として功労を重ねていく。
 市河氏が積み重ねた所領
 高井郡内 中野西条、上条御牧(井上須田知行分を除く)・大甘北条・同中村、毛見郷本栖村・平沢村
 水内郡内 常岩(とこいわ)御牧南条5か村、不動堂分、若槻新庄加佐郷新屋分、同庄静間郷内北蓮(はちす)分
 更級郡内 布施御厨中条郷一分地頭
 市河氏は飯山・中野市近辺から次第に南下している。小笠原氏は伊那を本拠に松本盆地、北東信地方へ所領を拡大し、「大塔合戦」の舞台の地に領有を主張し初め、国人連合軍側の所領と交錯、応永6(1399)年、遂に決戦となる。

 至徳3(1386)年7月、信濃守護代二宮氏泰が、守護の命に従わないとして高梨氏の支配地小菅神社(飯山市大字瑞穂内山)の別当の解任を、隣接する市河頼房に命じた。こうした、斯波氏が在地領主の押領地の究明を、強力に進めようとしたことに反発した国人衆村上頼国小笠原長基高梨朝高長沼(島津)太郎らが、嘉歴元(1387)年4月に兵を挙げ反抗した。5月28日には平柴の守護所の代官二宮種氏を攻めて漆田原(長野市中御所・長野駅付近)で戦い、8月には種氏が篭城した善光寺東方にあたる典型的な平山城の横山城(長野市箱清水)を攻めて激戦の末陥落させた。この時、村上頼国らは、二宮方についた市河頼房を追撃し埴科郡にあった生仁城(なまに;千曲市生萱;いきがや)に追い込み、これを落城させた。

 この時期、南信濃では、嘉歴元(1387)年7月、伊那郡田切で守護方の諏訪頼寛が小笠原長基と戦い勝利した。大将諏訪左馬助が討死にする激戦であった。『守矢文書』は、同年9月26日、府中熊井原合戦で「諏訪討負大死、小笠原討勝候」と記す。この戦に対して10月10日付で斯波義将から「抑今度合戦、面々討死事承候、被致忠節候条目出候(下略)」と、諏訪兵部大輔入道殿宛に「熊井合戦御感案文」が下されている。諏訪頼寛は守護方に属する有力国人であったようだ。しかし諏訪下社は先の正平年中に、小笠原氏から塩尻東条を寄進されているので、小笠原方に属していた。府中熊井原は、現塩尻市の片丘熊井の地で、筑摩山脈西麓の広大な傾斜面にあたる事から、小笠原長基が上伊那郡の諏訪社領を侵犯したことによる自衛戦とみられる。南信濃では、反守護の小笠原氏の実力は強大であった。

 この時代、国衆の先頭に立ったのが、南北朝期、信濃惣大将を称した村上氏であり、信濃守護小笠原貞宗の代に軍役に尽力した良き功労者であった。村上頼国は更埴2郡に亘り領有していたため、斯波氏が守護大名化の野心を抱き、その領国支配のため最初に狙う要地にいた。長基も既に守護から軍事指揮者に降格され、斯波氏が守護となると、兵粮料所の給付権も関東の上杉朝貞に移された。長基も国衆同様信濃に於ける支配領地の保全が最重要となった。
 越前守護も兼ねる幕府管領斯波義将は、北陸道から二宮氏泰を救援軍として派遣した。市河頼房もこれに加勢し、村上頼国ら国人一揆と常岩中条(飯山市)、善光寺横山で激戦を繰り返している。 
 斯波種氏は敗北を重ね、遂に任国支配の失敗で解任された。幕府管領義将自ら信濃守護となった。義将は軍事指揮権をも既に掌中にし、国人支配の全権を得ていたはずだが、嘉歴元(1387)年、小笠原長基(長秀の父)と漆田で戦う事態となり、幕府管領ですら信濃統治に失敗した。
 この時代の所領関係の複雑さが知られる史料「玉睿書状案」が『東大寺文書』に遺る。なぜか信濃国衙正税久我具通(ともみち)が所知していた。具通は右大臣を経て応永2年(1395)太政大臣となっている。信濃は具通の知行国ということか?その権益が明徳3(1392)年6月12日、東大寺八幡宮に寄進された。おそらく太政大臣家が知行しても、正税未納が続き有名無実となっていたから譲渡されたと推測される。
 東大寺側は義満に通じる縁故から安堵状を得たようだ。しかし国衙正税は未納のままで、再三幕府に訴えている。幕府は「一段近日御成敗あるべき旨」を決裁し、幕府奉行諏訪左近将監を信濃に使節として下向させた。諏訪左近将監は応安4(1371)年以降、幕府奉行になった康継で、小坂円忠の子で当時50才前後であった。
 「玉睿書状案」端裏書に「信州国衙事、奉行諏訪左近将監方へ遣状案文」とあり、以下訓読み
 「昨日面を以て閑話本望に候、そもそも東大寺八幡宮領信州国衙の事、連々歎き申すにつき、御存知の如く、一段近日御成敗あるべき旨、仰せ出され候。寺門の喜悦このことに候。仍って幸にかの方へ使節として御下向の由承はり及び候。当寺の大慶に候。国の時宜具(つぶさ)に御注進に預り候はば、満寺の群侶悦喜せしむべく候。定めて一途厳密にその沙汰あるべく候。巨細の趣御存知の上は、詳かにする能はず候。恐惶謹言。
  6月1日                            沙門玉睿
 諏訪左近将監                                     」

 康暦元(1379)年、将軍義満管領細川頼之を失脚させた。明徳3(1392)年、南北合一を幕府優位に達成した。次に、今川了俊貞世の九州における勢力拡大や独自の外交を展開した事を危惧し召還した。応永元(1394)年、将軍職を子の義持に譲り太政大臣となった。しかし「政道は自ら行う」と表明し、実権は従前どおり握ったまま、むしろ足利幕府の全盛期を迎え薨ずるまで公武に君臨した。事実上の将軍専制へ踏み出した義満に、応永6(1399)年6月になって間もなく、信濃に派遣した諏訪左近将監から帰京報告がなされた。
 国衆の国衙正税の押領は執拗で幕府の沙汰が及び難く、信濃国人に対する守護の統治は困難を極めている、であった。義満は将軍専制を徹底するため、守護義将を更迭し、側近として仕える信濃の強豪小笠原長秀を守護に起用し、その長秀に職務の重大さを説き、その成果を挙げるよう厳命した。
 中世における一揆とは、特定の目的の下、同盟し組織や集団をつくり、その同志的な集団自体、または、その集団をつくる事、またはその集団の行動をさす。農民、都市民、僧侶、神官だけでなく在地領主間、その領主の被官(この時代の家臣の呼称)相互でも一揆が結ばれた。その目的は、守護・管領・将軍など支配者に対抗する連合だけではなく、自らが支配するための一揆、支配者同士相互が対抗するための一揆もあった。各地の多くの武家領主は、領有権保全のため相互対等の一揆を結んだ。やがて武家領主たちの大きな一揆のまとまりが戦国大名家をつくりあげていく。またその下克上の気風が高まると、三河の徳川家康の祖父松平清康のように被官相互の一揆、いわゆる派閥間の争闘の結果、その勝利者から戦国大名を誕生させた。戦国大名とは、在地領主たちやその被官が、自己の所領を保全するため、当主を推戴する一揆の成果ともいえる。
 特に、幕府・守護・領主などに反抗して、地侍・農民などの民衆・信徒らが団結して起こした暴動、国一揆土一揆一向一揆などや、江戸時代の百姓一揆などは、その一揆の特異性の一部を強調した表現に過ぎない。本来一揆は、より複合的意味合いがあったが、被抑圧者側の表現であるためか、平安時代の荘園制度の残滓が、完全に取り除かれる戦国時代、「一揆」の主体者が時代の主役となると、その呼称は支配者側から使われなくなる。

3)信濃守護小笠原長秀
 北信の善光寺付近は、信濃の政治経済の中心となっていた。鎌倉時代以来、松本国府の支庁として「後庁(ごちょう)」が置かれ信濃北半の政治の中心となり、善光寺信仰の浸透により、門前町は経済の中心としても発展した。南北朝時代には、信濃守護所が現戸倉町の船山から、川中島の北方の平芝(長野市安茂里平芝)に移され政治の中心となった。ここが舞台となり、信濃守護が幕府権力の後援を得て国人領主に対して、その所職(しょしき)を押し通そうとした。これに対抗する国人一揆と激突したのが大塔合戦であった。
 国人とは、在地する領主で国衆(くにしゅう)とも呼ばれた。国人の多くは地頭としての所職を有する一方、寺社・皇家(こうか)・公家本所領の諸荘園の公文(くもん)や下司(げし)として代官を務めながらも、本所支配をみくびり年貢を未進にしていた。事実上の在地領主と変わらなかった。その現状を無視し、守護の所職を主張すれば、国衆は、存立基盤を失うことになる。
 小笠原長基の時、子の長秀が深志小笠原氏を継ぎ、弟政康が伊那郡の松尾小笠原氏となった。長基は弘和3(1383)年、惣領職を子の長秀に譲った。長秀は幼児より将軍義満に近侍し信任されていた。長秀は祖父政長まで信濃守護職であったため、守護職への復帰を義満に嘆願し続けた。
 応永5(1398)年、幕府管領が斯波義将から畠山基国に代わった。基国の娘が、長秀の母であった。応永6(1399)年、義将が信濃守護を解任され長秀が任命され、小笠原氏に念願の守護職が戻ってきた。守護入部(にゅうぶ)にあたり太田荘の島津国忠が強訴した。暦応2(1339)年7月に遡るが、近衛家本所領太田荘の領家職を、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての関白近衛基嗣が近衛の墓所・東福寺塔頭海蔵院に寄進した。しかし既に島津伊久がこれを押領し、同院の沙汰を妨げていた。義満の幕府政権下、中央の統制強化策の一環として、諸国の諸豪族の不当な所領の押領を糾明し、掣肘を加えながら将軍家の威令に従わせようとした。
 応永6(1399)年夏近く長秀は信濃に入部した。早くも北信の島津国忠・高梨などの国人一揆が不穏な動きを始めた。長秀は10月21日、一門の赤沢秀国・櫛木清忠らを島津討伐に出兵させた。
 その最中同年11月、大内義弘は鎌倉公方足利満兼山名時清らと謀って和泉で応永の乱を起こした。長秀は義満から大内義弘討伐軍に加わるよう命じられ、伊那郡伊賀良荘を発して、11月6日、上洛し和泉堺に急行した。
 この年東大寺は信濃国衙正税の納入を強硬に幕府に主張していたが、成果なく知行権を手放している。以後その所職の所在者が不明となった。信濃諸雄族が蚕食したまま放置されたとみられる。長秀は、管領畠山基国の軍に入り和泉国境で戦った。反乱は、地方の挙兵が鎮圧され、和泉堺に籠城した義弘が幕府軍の攻囲を受け、12月21日、基国の長子満家に討ち取られ終結した。畠山氏は大名家でありながら足利将軍家の直轄軍的存在で、この乱の前年、斯波義将が解任され畠山基国が後任となったのは、斯波・細川管領家両氏に対して、義満がその権力に楔を打ったという意味合いがあった。
 京都へ戻っていた長秀は、応永7(1400)年3月、一門の櫛木石見入道・小笠原古米入道を先発させ、島津が押領する太田庄の領家職を寺家に還すよう命じた。7月3日、幕府権力を頼み国衆が押領する庄園所領や国衙領から排除の沙汰を遵行すべく、京都を出発して信濃に向かい、21日には一旦、佐久の小笠原一族大井光矩岩村田館に立ち寄った。当代光矩の父大井光長は、信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平5(1350)年には、信濃国太田荘大倉郷の地頭職に就いていた。太田荘は、現上水内郡東南部から長野市北部にかけての一帯で、近衛家本所領であった。光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。その後守護代を勤めた。応永6(1399)年、信濃守護に補任した小笠原長秀は、大井光矩を頼り佐久に立ち寄り、義満の御教書を披露し光矩と信濃支配について相談した。
 その結果、伴野・平賀・海野・望月・諏訪両社・井上・高梨・須田などの国衆に漏れなく使者を派遣し、入国の挨拶と治政に当たっての趣旨説明と協力の要請を行うことに決した。村上満信には、特に使節を送って挨拶した。満信は、村上信貞以来、足利尊氏方の信濃惣大将として長きに亘って貢献し、その勢力と権益を拡大し実績をあげている。だが守護職に補任しない室町幕府に対して不信感を持ち、新任された守護を排斥する動きに出た。加えて室町幕府は村上氏の持つ「信濃惣大将」の地位を軽視し続けたために、村上氏は反守護的な国衆の代表格となっていた。
 幕府はかつて管領斯波義将を信濃守護に補任して、国人衆らの動きを抑え込もうとした。満信の父村上師国は至徳4(1387)年、斯波氏の守護代二宮氏泰の軍と信濃国北部の各所で戦った。斯波氏も村上氏の抵抗を抑え込むことはできず、横山城に二宮氏泰が籠城して戦ったが落城している。
 小笠原一門や源氏系統の国衆らは、一応協力する姿勢を示したが、大文字一揆の国人達にすれば、南北朝争乱時代から小笠原氏との確執があり、寧ろ絶対に承服できないとして、幕府に別の守護人を任命してもらうよう申請する評議が決定した。鎌倉時代、信濃国は北条家が守護であり続け、その地頭に任じられた在地武士の多くも北条家庇護の下、権益を共有してきた。また北条一門の地頭も多く、その地頭代も兼ねていた。元弘の変により小笠原氏が守護職として派遣され、国人衆らの既得権益が侵食され時代の恨みは根強く、今またその当時の苦難が繰り返される事態となった。
4)国人衆の反感を買う小笠原長秀
 当時京で流行したバサラ大名の一人であった長秀はこのとき30歳前後で、大井光矩の館で旅装を整え、都風の派手な装いで行列を組んで善光寺に入った。幕府の権威を傘に、都育ちの名門を誇示する華やかな奇抜さで、田舎人の度肝を抜こうとする腹積もりであったようだ。諸芸に巧みな連歌師まで随えていた。善光寺南大門には、老若男女・商人・僧侶・神主が集い見物した。
 長秀は善光寺に入ると、各奉行人を決め、守護の権限である大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)を基本原則とする各種制札を立てた。大犯三箇条とは鎌倉・室町時代の各国守護の主要な職権で、御家人の大番役催促謀反人と殺害人の追捕と検断の3ヵ条をいう。源頼朝の時代に定められ、貞永1(1232)年の『御成敗式目』で成文化され、その際夜盗・強盗・山賊・海賊の検断を追加した。
 室町幕府政権下、守護の権限は拡大強化された。①刈田狼藉に対する検断権、②土地紛争に関する幕府の裁定を、守護が現地で執達する使節遵行(しせつじゅんぎょう)、③守護の軍事指揮権の範囲が、管国内の御家人から国内の武士全体に拡大した軍事指揮権、④幕府敵方没収地を所領給付する闕所地の預置権、⑤半済制度を介して兵粮料所の荘園年貢の半分を国内武士に与える宛給権が主であった。領国支配のためとした守護の所職に、軍勢督促守護請守護夫守護反銭の賦課津料山手川手の新関開設による通行銭の徴収などが重層的に慣習化され、守護入部による強権的な収奪が当り前とされた。
 『大塔物語』は合戦の主因は長秀が国衆に示した横柄な接遇にあったという。就任挨拶に赴いた国衆は「思い上がった態度の長秀に対して、一応慇懃の礼を尽くした。長秀は河(川)中島の所々を村上氏が当時知行していたに拘わらず、恣(ほしいまま)に非拠の強儀を行い、事を守護の緒役に寄せて、守護の使いを入り込ませ稲を刈り取った。村上満信は佐久の3家や大文字一揆の人々に助けをかり、守護使を追いたて合戦となった」と記した。
 長秀は、善光寺に国人衆を呼び付け対面しながら、容儀も整えず、扇も用いず、ましてや一献(いっこん)の接待もしなかったという。大文字一揆の国人達は、現長野市安茂里の川中島近くの窪寺で評議し、激興する強硬意見を抑え、御教書を携えての下向であれば、京の将軍に違背すると見られる恐れがあるため、対面し一献の用意をし、馬や太刀を贈っていた。長秀は愚かにも、信濃国はこれで治まると増長し、国人衆に不遜・非礼の振舞いに出た。

 このような長秀が、鎌倉幕府滅亡以来の対立で、未だに小笠原氏に心服していない国人領主達に、新たに所役を命じ、過去の対立時の所業を罰しようとした。8月下旬、秋の収穫時、長秀は村々に守護使を遣わし、ここは不法な押領地であるとか、守護職の課役であると申し、農民から年貢や課役の徴収を行った。川中島でも、ここは守護が支配する所だと言い立てて年貢を徴収した。川中島は一時小笠原氏が領有していたが、当時は北信の有力国人領主村上氏が押領していた地であり、多かれ少なかれ、鎌倉幕府の将軍家を本所とする関東御領の春近領や国衙領等の押領地を支配する他の国人領主にとっても、守護の一存で既得権化した所領を否認されれば一族の死活問題となる。国人たちは在地支配の現状を無視した守護の一方的挑戦とみた。村上氏は、元弘の変当初から足利氏に与力し、義光・義隆父子が、鎌倉幕府との戦いの最中に没している。その後も義光の弟村上信貞は、北信の市河氏と共に北朝方守護小笠原氏の強力な味方として、諏訪氏を主力とする信濃国の南朝勢力と激戦を繰広げて来た。その村上氏の決起が発端となり、守護小笠原氏に対する国人領主達の反感が決定的なものとなった。
 『大塔物語』は「爰に大文字一揆の人々には、故敵当敵たる上は、思案を廻らし、一切之(守護の沙汰遵行)を用いず」と書く。「故敵」とは、文字通り「古くからの敵」の意であるが、この時代「所領をめぐる紛争に際しての自力救済・報復の戦い」を意味した。その宿意は深く、積年に亘る小笠原氏への敵対感情が一気に噴出した。祢津・仁科・香坂氏などには、積年に及ぶ敵愾心があった。


[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/outou/da.htm

長沼太郎


26)信濃戦国時代の前奏
 小笠原氏は貞宗以来、その子政長、孫の長基と歴代信濃守護職を継承してきた。貞治4(じょうじ;1365)年2月、京都の幕府の管理下にあった信濃国が、鎌倉公方足利基氏の鎌倉府に属するようになり、上杉朝房が信濃守護に補任した。朝房の父は上杉憲藤、犬懸上杉氏の始祖で、尊氏の従弟であった。摂津で南朝方の北畠顕家と奮戦するが、3月15日、摂津渡辺河で戦死した。享年21。朝房の妻は山内上杉氏憲顕の娘である。貞治7(1368)年9月、憲顕の子上杉能憲(よしのり)と共に関東管領に任じられ、能憲と共に「両管領」と称され、9歳の幼少公方足利氏満を補佐した。
 3代将軍・義満の時代なると、南北朝合一がなり、将軍家による絶対的専制となり、諏訪大社上社も対抗する術(すべ)を失った。応永5(1372)年には、諏訪兵部大輔頼貞に将軍義満から小井川と山田の2郷を与えられている。
 永和3(1377)年8月、幕府は、当時の信濃守護上杉朝房に信濃国所役である上社造営料の督促を命じている。この時代も、信濃国は鎌倉公方の管轄下にあった。

 長基の守護職の解任は小笠原氏にとって、不本意な体制の変換であった。3代将軍義満の時代、至徳元(1384)年、信濃国は幕府管理下に戻ったが、小笠原氏の復権とはならず、幕府管領斯波義将の同母弟義種が守護職に補任された。義種は信濃国に赴かず、在京のまま家臣二宮氏泰を守護代とした。しかし氏泰も下向せず子の種氏を代官として派遣した。この時期に埴科郡船山郷にあった守護所が水内郡平柴に移ったようだ。
 市河文書の中に観応2(1351)年3月日付けの諏方某の証判がある「市河松王丸甥孫三郎泰房宛ての軍忠状」に、同年正月5日、小笠原政長の軍を船山郷の守護館に攻め放火したことが記されている。守護所の移転は、その後に生じた事態を受けての事とみられる。更埴地方の村上頼国小笠原清順(長基)・高梨朝高(全盛期の本拠地;中野市)・長沼太郎(島津氏)らを初めとする諸雄族の活動が活発化し、至徳元年、信濃国に幕府管領家の斯波義種を守護職に補任した。至徳4(1387)年9月日の二宮式部丞(信濃国守護代二宮氏泰の子種氏;守護代の代官)の証判がある市河甲斐守頼房宛て軍忠状で、当時平柴に守護所が在ったことが明らかになっている。
 足利直義が尊氏に敗れて急死したことで「観応の擾乱」は終熄したが、越後の上杉憲顕(のりあき)らは南朝方に属し尊氏に抵抗し続けた。市河頼房も当時の北信の情勢下、上杉氏と同盟していた。下高井郡の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、延文元年/正平11(1356)年、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍に勝利している。その後、憲顕が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏した経緯がある。
 新守護斯波義種は守護代二宮氏泰に信濃諸豪の押領地の糾明と寺社領の復権を強力に推し進めさせた。二宮種氏は守護代の代官として、平柴の守護所で信濃国に軍政を敷いた。当時諸国の豪族は寺社の所領を押領することが常態化していた。特に信濃国では諏訪上社領の掠奪が横行していた。ひとえに諏訪大社上下社が、鎌倉幕府滅亡後、反足利氏を貫いた結果であった。
 
「守屋文書」に
 「一諏方(諏訪)兵部大輔入道頼寛申信濃国上宮(諏訪上社)神領所之事、(申状具書如此)而近年国人等寄事於左右押領之云々、事実者太(はなはだ)無謂(謂れが無い)、所詮令糾明神領之実否、任先例、可沙汰付下地於社家雑掌、更不可有緩怠之状如件

 至徳二年五月十六日                    大夫殿(斯波義将)御判
  二位信濃守(斯波義種)殿
                     」
 この押領地糾明に恐慌したのが、北信の国人領主村上頼国小笠原清順高梨朝高長沼太郎らで、いずれも建武中興以来足利氏方として、その権力に乗じ専断押領を重ね勢力を拡大してきた諸雄族であった。至徳4(1387)年4月28日、その諸士は一族を率いに挙兵し、守護職斯波義種に叛き、善光寺横山城を拠点とした。閏5月28日に守護所を攻めている。その際、市河甲斐守頼房は守護方に付き、生仁城(なまに;千曲市生萱;いきがや)に逃がれたが、村上頼国らに攻められ落城した。
 守護所にいた二宮種氏は、高井郡の市河頼房を従え平柴の東方・裾花川東岸の漆田(長野市中御所2丁目)に出陣し、村上頼国ら北信連合軍と激戦を繰り返し防戦し続けた。
 その北信の戦況が報らされると、6月9日、足利3代将軍義満は、御教書を市河頼房に下し、守護代二宮氏泰を信濃国へ下向させから、それまで防戦に努めるよう命じている。
「市河文書」に
 「信濃国事、守護代二宮信濃守(氏泰)子息余一(種氏)在国之処、村上中務大輔入道(頼国)・小笠原信濃入道・高梨薩摩守(頼高)・長沼太郎以下輩、有隠謀、及合戦由、太(はなはだ)以濫吹(狼藉)也、早同心之族相共可被致忠節、所詮当国所令拝領也、仍(よって)守護代重所差下也、其間、諸国抽其功者、別可有抽賞(ちゅうしょう;功績が抽(ぬき)んでる者を賞する)之状、依仰執達如件、

  至徳四年六月九日              右衛門佐(斯波義将) 花押
     市河甲斐守殿                    」
 守護代代官二宮種氏は市河頼房の戦功を賞し高井郡犬飼北条(木島平村穂高)と中村の地を宛行った。当時、犬飼郷は北条・中村・南条から成っていた。6月25日、頼房に守護斯波義将からも感状が下された。
 同年9月日の「市河文書」に遺る守護代二宮氏泰の「市川甲斐守頼房申軍忠事」によれば、氏泰が北陸道から信濃へ下って来た。頼房は越後国糸魚川に馳せ参じている。そのまま氏泰に同行し入信すると、反守護派と水内郡常岩中条で共に戦い勝利した。善光寺横山城を拠点として着陣した。8月27日、村上頼国らが馳せ向かい合戦となる。激戦となり頼房自ら馬上太刀を振るい迎撃するが、その乗馬が切られ、若党の難波左衛門二郎討死し、その弟も含む数十人が戦傷を負ったと記す。戦いの結果は村上頼国らが逆に敗れ退き、守護代二宮氏泰は勢いに乗じ、諸所で国衆勢力を敗走させた。頼国らは、その後生仁城を拠点とし再挙を図った。しかし守護代二宮氏泰の軍は、これらを攻め頼国ら反守護勢力を四散させた。斯波種氏は任国支配の失敗で解任され、幕府管領義将自ら信濃守護となった。義将は軍事指揮権をも掌中にし、国人支配を強化していった。9月15日付の斯波義将の市川頼房宛ての感状が下されている。「於横山合戦之時、被致忠節之由、二宮式部丞注進了、当手人々手負打死注文加一見候、殊目出候 恐々謹言」と書かれている。
 南朝方・直義党が跋扈していた時代は、村上氏など北信の諸雄族の多くが、守護方として活躍していたが、今では反守護連合的盟約を結び、その既得権益を死守せんとする。それが信濃国内に諸士連合・国人一揆を生み大塔合戦を勃発さた。
 応永5(1398)年、幕府管領が斯波義将から畠山基国に代わった。翌年、義将は信濃守護も解任さた。代わりに小笠原長秀が任命され、念願の守護職が小笠原氏に戻った。ようやく信濃守護に復帰した長秀を罷免させる事変が信濃で待ち受けていた。

[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/murakami3/mu3.htm


後三年の役の諏訪為仲の去就
  前九年の役以来、諏訪為仲源義家と親交が厚く、奥州で苦戦の義家はその援軍を依頼してきます。当時為仲は為信を継いで大祝になっていました。古代から「大祝は現人神、人馬の血肉(ちにく)に触れず、況や他国をや」の厳しい“神誓”があって、諏訪の地を離れられません。しかし義家と共に戦いたいとの決意は固く、父・為信はじめ神使(こうどの)一族や氏人の反対を退け、再度奥州に出陣したのです。 この戦いで、為仲は武名を上げ、さすがに武神と知れ渡り、武神大祝一族は信濃全域に広がり、その一族は、各地で諏訪明神を、氏神として勧請したため諏訪大社の分社が各地に広まる切掛となります。それを契機として、諏訪明神は、水辺の神・狩猟の神・農耕の神から、武神の神として崇敬されるようになります。
 日本の神社ほど、時代の風潮に迎合し、その哲学に節度がない宗教も珍しいのです。
 合戦の後、義家は睦奥守の立場から中央政府に上申書(国解)を提出しますが、これに対して政府は、「武衡・家衡との戦いは義家の私合戦」で、よって追討官符は発給しない、という対応を示します。これを聞いた義家は武衡らの首を路傍に棄てて、むなしく京都に上ります。 朝廷はこれ以上、義家が勢威を振るうことを嫌ったのです。
 後3年の役後、寛治元(1087)年12月、上洛する凱旋軍・源義家の陣中に為仲も同行しています。先に上洛した義家の奏上は、これ以上の台頭を嫌う白河院・関白師実に阻まれて、本隊の軍兵は東山道美濃の国莚田(むしろだ)の荘に長期駐屯を余儀なくされます。そのつれづれに、為仲は義家の弟・新羅三郎源義光の招請による酒宴に赴きます。その時、部下双方が喧嘩し死者を出すに及んで、棟梁源氏を憚って為仲は自害します。それを聞いて義家は駆けつけると、為仲の鎮魂に諏訪神社を建て、莚田の荘を寄進したといわれます。現在の糸貫町の諏訪神社です。
  これは、為仲が、諏訪の地を出てはならないとする“神誓を破ったことに対する神罰であると受け止められたので、そのため遺児の為盛は、大祝の職に就けませんでした。『諏方大明神画詞』によると、為盛の子孫は多かったが、共に神職を継がなかったので、為仲の弟の次男為継が大祝を継ぎますが3日後に頓死し、また、その弟の三男為次が立ちます。しかし7日目に急死、ようやく四男為貞が立って当職を継ぐことになり、後胤は10余代にわたり継承されます。

  戦勝者の源氏の棟梁、義家は私合戦と断定され、陸奥守を解任され、勲功も賞もなく、任期中の政府や権門寺社への貢納を軍資金に使い、戦後は郎党の褒章に流用し、結果政府に莫大な負債を抱えるようになります。ようやく10年後、白河院の特別の配慮で受領功過定(ずりょうこうかさだめ)で「無過」の判定が得られたのです。しかしながら義家の嫡流は、弟の義光などの一族に、その地盤を侵食され、義親為親義朝の三代いずれも、最期は賊将となり生涯を全うできませんでした。頼朝の代になって、初めて天下に覇を唱えますが、一族の内訌の連続で、頼朝以外、以後天寿を全うする者もなく、3代で滅びます。
 対象的にこの大きな犠性によって安倍・清原氏の伝統を受け継ぎ、戦勝者として生き残った藤原清衡は、国司交代に伴う権力の空白をつき、清原一族の遺領をすべて独占し、「俘囚の主」であるばかりか、陸奥出羽押領使となり、初めて奥州全域に君臨するのです。清衡によって平泉政権が樹立され、奥州藤原氏の基礎が築かれたのです。

鎌倉時代の背景
 12世紀末以来、御家人階層を基盤とする鎌倉幕府は、数度の戦乱を通して獲得した所領を御家人階層に再配分し、その自己増殖欲求に応えてきました。しかし、13世紀半ば頃から中世社会の大規模な変動が始まります。
 宝治元(1247)年の宝治合戦により、執権北条氏は、鎌倉幕府の御家人として勢力を振るってきた三浦氏と千葉秀胤系の千葉氏を滅亡させます。ただし、千葉氏の本宗である千葉頼胤は北条氏方でした。三浦氏の一族である和田氏も、和田合戦で没落しましたが、一部の残存勢力が、この戦いで三浦氏に味方し、再度の没落を余儀なくされました。この合戦は三浦氏の乱とも呼ばれ、得宗専制を完成させ、鎌倉幕府の政治体制を安定させます。
 以後、所領増殖の機会となる戦乱の発生自体がなくなると、かつて惣領・庶子への分割相続により、御家人一族はその勢力を拡大してきましたが、分割すべき所領を得る機会を失い、惣領のみに所領を継承させる単独相続へと移行します。 単独相続を契機として、惣領は諸方に点在する所領の集約化と在地での所領経営に励みます。この過程で、庶子を中心とする武士階層の没落がはじまり、本所(荘園本家)と在地武士との所領紛争が先鋭化します。
  平安後期以降、荘園の所有関係は複雑で、最高の所有者は本所または本家といい、皇室・摂関家・大社・大寺でした。その管理は、その下の一般公卿や寺社の領家(りょうけ)に任されますが、実際の管理は地元の有力豪族・領主に委ねられます。彼らは領家を兼ねることもありますが、実際的支配者ですから、やがて領主として自立していきます。
 荘園内部では、本所周辺の武士による侵略を防ぐために、本所は荘園支配の強化に乗り出しますが、在地では荘園支配の実務にあたる荘官領主が、自立した経営権を確立しようとします。ここに本所・荘官間の対立が生じ、当時、急速に進展していた貨幣経済・流通経済の社会への浸透が両者の対立を、一層、激化させます。
 一方、鎌倉時代後期、特に元寇以来、北条得宗家の権勢が伸張します。さらに北条一門の知行国が著しく増加します。しかし他の御家人層は、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣流通経済の普及、武士階層の貧窮よる没落者の増加など、ますます世情が荒廃化します。幕府は徳政令を発して対応しますが、諸国では悪党の活動が一層激化し、幕府は次第に支持を失っていきます。 武士階層内部もしくは荘園支配内部における諸矛盾は中世社会の流動化へとつながっていき、13世紀後半からの悪党活動は、各個自立化へ向います。さらに同時期の元寇は幕府に、決定的な打撃を与えました。

執権北条家の推移
 北条時政嫡男・宗時は、頼朝挙兵時の敗北の際、伊豆国の平井郷(静岡県田方郡函南町平井)を経て、早河の辺りまで逃れますが、そこで伊豆の豪族伊東祐親の軍勢に囲まれ、小平井久重に射られて討たれます。 源頼朝の鎌倉入りの時、時政に随行した子は、義時時房の2人だけでした。それが孫の代になる13世紀半ばには、義時からは嫡流得宗家名越流極楽寺流正村流伊具流金沢流と、時房からは佐介流大仏流と分流します。そして一族は50人を越え、そこに幕府草創期以来の東国御家人と実務官僚としての御家人一族、およそ25、6家が加わり、120余名で幕府を運営します。その家族、家臣合わせて、5百人前後が鎌倉に在住します。その執権を筆頭とする鎌倉在住の有力者を「鎌倉中(かまくらじゅう)」と称しました。
 それ以外の幕府の外郭をなす武蔵、相模、上総などの御家人も含めて、地方在住御家人を「田舎人(いなかびと)」と呼んでいました。御家人相互に、既に身分格差があったのです。彼らには鎌倉番役のみ課せられ、幕府組織内の役職には就けませんでした。
 正月三ヶ日の椀飯(おうばん;椀飯振舞)は、釜で煮た飯を椀に盛りつけたもので、饗応(きょうおう)すること、また、そのための食膳です。公家では殿上(てんじょう)の集会などに、武家では家臣が主君をもてなすさいに行われ、鎌倉時代に、それが幕府の儀式となったのです。 その椀飯の儀式に参加できるのも、「鎌倉中」の御家人に限られました。『吾妻鏡』には将軍をもてなす時、弁当を出し、それに一洒一肴だけの簡単な宴を催したということが載っています。
 鶴岡八幡宮の流鏑馬などの、幕府の年中行事にも「鎌倉中」の有力者が殆ど独占していたため、田舎人の参加の機会は皆無に近かったのです。相模、武蔵の国々の地名を歴代、名字とする関東有数の御家人の当主も、生涯無官のままであったことも少なくなかったのです。
 長崎(平)、諏訪安東(あんどう)氏のように、得宗御内の草分けは、いずれも主君の館近くに屋敷を構え、侍所の上級職員として鎌倉内の警護責任者に任じられていました。彼らも形式上は御家人の身分でしたが、実態は得宗こそ主君そのものでした。蒙古来襲の時代には、御内人家も幾つかの流れに分かれ、諏訪も大祝家のもならず、その氏族の多くも御内人として仕えています。そして諏訪、長崎(平) 、安東、工藤、尾藤の一族からは、10数人の者が衛門尉(えもんのじょう)や兵衛尉(ひょうえのじょう)の官途に就きます。 やがて彼らの中には何十箇所の得宗領を預かり、北条一門の有力者すら凌ぐ権力を有し、大多数の御家人を見下すようになります。
 文永9(1272)年4月、御家人渋谷定心(じょうしん)の子、定仏(じょうぶつ)が、諏訪盛重の子、左衛門尉入道真性(盛経)に書状を送っています。内容は「常々3人の息子が、お手元で奉公していましたが、そのうちの与一重員と七郎頼重の2人が、父の命に背き他家の方へ参りました。不幸者として勘当しました。便宜の折、この旨御披露下さい」と、かなり恐縮しています。それには定仏なりの、深い処世術が働いていました。
 彼の息子2人は、連署義政(極楽寺流;重時の子)に出仕先を換えたのです。ところが4月4日、義政は突然、出家の暇(いとま)を賜ります。執権時宗の政権の有様に耐え難いものがあったのでしょう。5月12日、義政の使者が来て、盛経に「与一の勘当許すべき由」と告げます。有力御内人の屋敷には、何十人もの御家人の子弟が出入りしていたのです。そして13世紀後半から、御家人でありながら、御内人にもなる者が一段と増え、北条泰時の時代と比べると倍増しています。
 得宗領の膨張に伴い、有力御内人の権力は強まる一方です。関東御分国のうち得宗が守護職を兼ねるのは、武蔵、駿河、伊豆、若狭は固定していて、さらに時宜に応じて3,4ヶ国が加わります。この得宗分国の一国ごとに、御内人有力者が守護代に任じられたのです。
 その後、義政は家中の者にも告げず、信濃善光寺に向います。6月2日、義政の「遁世」の事実が明らかになります。

 13世紀に鎌倉で起こった内訌は10を越え、その度に多くの有力者の家が滅び、その所領は得宗家はじめ北条一門の有力者と勝利者となった「鎌倉中」の御家人に分配されました。
 北条時宗の子・貞時執権の後半期に、奉行人から風諫状が提出されます。その内容を要約しますと「御家人たちの所領の規模は、昔は大多数が1千丁前後あった。ところが現在1千丁以上の家領をもつ御家人は10余名にすぎない。その9割方は4、50丁の規模である。」
 およそ1世紀のわたって繰り返される分割相続によって、「鎌倉中」の有力者の所領でも4、50丁の規模が殆どとなりました。また和田合戦、宝治合戦、霜月騒動などの内訌に連座し、家領の多くが没収されもしたです。霜月騒動後もまた、得宗家への所領移管が集中したのです。それで貞時への風諫状提出となったのです。
 金沢北条氏の当主が、六浦湾に橋を架ける際「惣田数、6,539丁4反」と記しています。北条有力者の勝ち組、7、8家も、それ相当に身上を膨らませていたのでしょう。その結果、北条一族が他の御家人階層から孤立し、破滅していく道筋に繋がったのです。
  貞時は永仁5(1297)年、永仁の徳政令を発布して金銭・所領の無償取り戻しを可能にして御家人困窮の救済をはかりますが効果がなく、翌年には撤回しています。正安3(1301)年、にわかに執権を辞任して従兄弟北条師時に譲って出家します。しかし寄合により実権は握ったままでした。
 この時期執権の代でいえば、10代北条師時(時宗の弟・宗政の子1275~1311.享年37歳)。11代宗宣(大仏宣時の子.1259~1312.54歳)、この時代既に、宗宣は内管領長崎高綱に政治の実権を握られていました。12代煕時(ひろとき;政村曾孫.1279~1315.37歳)と継承されます。13代基時(極楽寺流のうちの普恩寺流.1286~1333.48歳)は、新田義貞らが鎌倉を制圧すると、潔く自害しています。出家していた北条貞時(1271~1311.41歳)の卒去は応長元(1311)年10月のことです。得宗北条貞時の専制時代の末期から、執権のめまぐるしい交替に象徴される政権中枢の混乱時代を経て、14代得宗北条高時(1303~33.31歳)が就任します。

 奥州では蝦夷の反乱安藤氏の乱などが起きます。北海道と津軽で蝦夷(エゾ)の蜂起があり、蝦夷管領の代官・安藤五郎が鎮圧に向かうも、蝦夷に首を取られる事変が生じます。原因については、得宗家の権力の拡大で、蝦夷に対する年貢の要求が増大したことや、北方からの蒙古の圧力により蝦夷の民が疲弊した事によります。 文永元(1264)年以来、40年間に及ぶモンゴル帝国・元によるサハリン方面への征討が続き、北辺に重大な事態を惹き起こしたといえます。   鎌倉初期、北条義時は津軽地方の地頭職となり、同時に「蝦夷管領」職に就いています。その中期には北条時頼が、津軽と合わせて南部地方の地頭となり、末期には岩手県北部と青森県全域を含む陸奥国北部一帯の地頭を、北条一族が独占します。その間、北条氏の御内人が地頭代として現地に派遣されます。安藤氏も代々、蝦夷管領代官として権勢を奮っていたのです。
  文保2(1318)年以前から続いていたとみられる蝦夷管領代官・安藤又太郎季長と従兄弟の五郎三郎季久との間で、後継問題や所領の分配等で内紛が起きていました。その上に、元応2年(1320)には、津軽の蝦夷の再蜂起が加わります。そうした時代に、北条 高時が、執権(在職 1316年 - 1326年)に就きます。『保暦間記(ほうりゃくかんき)』によれば、得宗被官である御内人の筆頭・内管領の長崎高資(たかすけ)が、対立する2家の安藤氏双方から賄賂を受け、双方に齟齬をきたす下知をしたため紛糾したものであり、蝦夷の蜂起はそれに付随するものと書かれています。 安藤氏一族の嫡流争いは、津軽半島の東西に双方が堅固な城を構え、それぞれ部下の蝦夷(エゾ)数千人を動員します。岩木川を挟んで争闘を繰り返しても決着せず、やむなく正中2(1325)年と嘉暦2(1327)年に、幕府は工藤祐貞、宇都宮五郎高貞、小田尾張権守高知等に大軍を率いさせますが、鎮圧できませんでした。翌年秋、ようや和睦が成立、蝦夷管領代官職は旧来からの五郎派の季久が引継ぎ、季長の所領は没収されます。この紛争の長期化が、幕府の権威を失墜させ、その滅亡を早める要因となりました。
 正中元(1324)年、後醍醐天皇は父である後宇多法皇に代り親政を開始し、同年、京都で幕府転覆を計画し、正中の変を起こします。この倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配流し、土岐頼兼、多治見国長、足助重範など密議に参加した武将は討伐されます。
 高時は嘉暦元(1326)年に、病のため24歳で執権職を辞して出家すると、後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎高資と、弟の泰家を推す有力御家人・安達時顕が対立する嘉暦の騒動が起こります。3月、高資は邦時が長じるまでの中継ぎとして北条一族の金沢貞顕を執権としますが、泰家らの反対により貞顕はまもなく辞任して剃髪、4月に赤橋守時が就任することで収拾します。
 執権職を退くと高時は、田楽と闘犬に熱中します。北条得宗歴代の質実ぶりからは想像できない有様です。『太平記』には「(犬を)輿にのせて路次を過る日は、道を急ぐ行人も、馬より下て是に跪(ひざまず)き、農を勧(つとむ)る里民も、夫(ふ)にとられて是を舁(か)く」と、鎌倉街中を、錦を着た犬達が徘徊します。諸国から多くの犬を集め、月に12、3回は闘犬を行ったといいます。高時のみならず、鎌倉の有力者も「田舎人」の困窮を省みず闘犬に耽ったようです。禅僧の中巌円月(ちゅうがんえんげつ)の詩文集『東海一?集(とうかいいちおうしゅう)』には、現在の浙江省に人を遣り、犬を求め鎌倉の有力者に献上した者までいたと記します。
 田楽にも日夜朝暮の別なく耽溺したといわれています。田楽は宇治平等院に属する本座と、興福寺の新座がありましたが、高時は両座共に鎌倉に呼び出します。当時の鎌倉の様子を金沢貞顕は、その子息宛の書状で「田楽の外、他事無く候」と書き送っています。
 元弘元(1331)年には、高時が長崎円喜らを誅殺しようとしたとして高時側近らが処罰される事件が起きます。同年8月に後醍醐天皇が再び倒幕を企てて山城国笠置山へ籠もり、河内国の下赤坂城では楠木正成が決起し、後醍醐の皇子・護良親王が、大和国の吉野で挙兵します。元弘の変の勃発です。 幕府は北条一族の大仏貞直と金沢貞冬、御家人の筆頭である下野国の足利高氏(後の尊氏)、上野国の御家人新田義貞らの討伐軍を派遣して鎮圧させ、翌1332年3月には、後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基を鎌倉の葛原岡で処刑します。皇位には新たに持明院統の光厳天皇を立てます。  
 元弘3年/正慶2年(1333)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家足利高氏を京都へ派兵します。高家は戦場で倒幕軍を圧倒しますが、野伏戦を得意とする赤松則村の一族・佐用範家が匍匐前進し近づき、矢継早にはなつ強弓の矢に、眉間を射られ落馬し絶命します。勝利を目前にしながら、大将を失ってしまった名越軍7,000余は、大混乱の中に壊走します。高氏は既に寝返っていました。後醍醐天皇方として、六波羅探題を攻略します。
 関東では上野国の御家人・新田義貞が挙兵し、5月15日、武蔵野国の多摩川中流、分倍河原(ぶばいがわら;武蔵国府所在地)で、得宗高時の弟率いる幕府軍を撃破して鎌倉へ進撃します。18日早朝、鎌倉の西の境界領域を過ぎ、七里ヶ浜に陣を布きます。22日未明、稲村ヶ崎を渉り大挙侵入すると、それを牽制してきた由比ヶ浜沖合いの何百艘もの船が一斉に姿を消します。遂に前浜の布陣も突破され、鎌倉市街に火が放たれます。
 新田軍が目前に迫ると、高時は鎌倉八幡宮の東隣、小町(塔ノ辻)の館から、その後背地の山腹にある、3代執権・泰時が創建した北条家菩提寺・葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らと共に自刃、享年31。自刃した北条一族は283人で、鎌倉に在住し、奮戦するも戦死しなかった諏訪一族の殆どが、東勝寺で殉死しています。鎌倉在住の得宗御内人唯一人も、投降することなく、高時の周囲に集まり殉じます。その数、およそ7,8百名に及びます。源頼朝の開幕以来140余年で、鎌倉幕府は滅亡します。将軍家でない、本来補佐役の執権が、政権を担い、実に質素に政権を維持し続け、その最期にあっても、親類筋の足利高氏以外、一族と家臣集団が奮戦し続け、最期に潔い自決の姿は、日本史どころか世界史においても実に希で、その後の武家政治の鑑となっています。
 東勝寺は、この時焼失しますが直ちに再興され、室町時代には関東十刹の第3位に列します。しかし戦国時代に廃絶します。塔ノ辻の館跡が、現在、萩で有名な宝戒寺です。



[出典]
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「神家党」



九)鎌倉幕府滅亡と中先代の乱
 後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐は、その有力御家人・足利高氏が裏切り、元弘3(1333)年5月8日、六波羅探題を壊滅させたことにより、討幕軍が圧倒的に優勢となり、新田義貞が稲村ヶ崎から鎌倉への侵攻に成功し、5月22日、北条高氏以下一族が東勝寺で自刃して終局を迎える。その際、諏訪真性盛経ら多くの諏訪一族が、高時に殉じて自刃している。諏訪真性は、幕府奉行人の諏訪左衛門入道時光の兄であったが、時光は志賀郷を所領していた。時光の養子円忠は実務官僚としての手腕が認められ、建武政府の役人となり足利尊氏に仕えた。尊氏は円忠を重用し右筆方衆としたが、のちに評定衆・引付衆等の幕府の要職に就かせる。ついには暦応元(1338)年守護奉行として重用し、全国の守護を監督、遷転する任務に当たらせた。
 鎌倉幕府創立140年後に倒壊し、建武新政となる。その際、北条高時の弟泰家が亀寿丸を諏訪左馬介入道の子三郎盛高に託したのは、北条得宗家に、長きに亘り献身的に仕える側近的御内人であったからだ。その上、信濃の大荘園の多くを北条氏一族が地頭を務め、信濃在住の諸族がその地頭代として、或いは荘園の地頭として恩恵を受けていたからでもあった。諏訪上社を中心とした諏訪氏には、大きな打撃となったが、それでもその影響下にあった滋野系諸氏や薩摩氏同様、隠然たる影響力を維持していた。盛高は亀寿丸を伴い信濃へ逃れ諏訪上社大祝時継を頼った。
 鎌倉時代、諏訪氏の中には「神(しん、みわ)」氏を名乗るような者も現れた。諏訪神社の信仰が高まるにつれ、神氏として諏訪氏を特別視するようになってくると、諏訪氏の傍系や縁故のある武士団氏族も神氏を名乗るようになり、諏訪氏を中心に信州における北条氏与党「神党」として結束し一大勢力となった。それは諏訪氏が北条得宗家の枢要な御内人として、鎌倉幕府の重職を担うようになった事にもよる。「神党」は北条得宗家系に属する一族が、所領を持つ地域に広く分布している。特に歴史的経過もあって諏訪郡と上伊那郡に多く、佐久、小県地方の「神党」の中核が滋野一族の祢津・海野・望月の諸氏であった。


北条氏に代わり小笠原貞宗が信濃守護として入ってきたのが建武2(1335)年であった。小笠原氏は甲斐の小笠原(山梨県櫛形町)を本拠にする源氏であった。その嫡流は鎌倉に館を構える「鎌倉中」の有力御家人であった。ただ鎌倉末期には、北条得宗家の被官、いわゆる「御内人」でもあった。しかし、北条氏は平氏の末流であり、小笠原氏は、新田氏、足利氏同様、源氏であったため、裏切りに抵抗はなかったようだ。まして小笠原宗長・貞宗は、諏訪氏と違い譜代の御内人ではないので、北条氏を見限るのも早く、足利高氏に従い戦功を挙げた。それで信濃守護に補任された。

 しかし信濃国内には、北条御内人の最有力者・諏訪氏をはじめ、北条守護領下、守護代、地頭、地頭代として多くの利権を有する氏族がいた。そこに北条氏を裏切った小笠原貞宗が、守護として侵入し、旧北条氏領を独占し、それに依存する勢力を駆逐していった。信濃国人衆旧勢力は、新政権を排除し自己の所領の保全・回復をめぐって熾烈な戦いをせざるを得なかった。その北条氏残党の中核にいたのが諏訪氏であった。北条得宗家の重鎮でもあったため、信濃国人衆は諏訪氏を盟主として、「神(しん;みわ)」氏を称し、「神家党」として結束していた。それが建武2年7月に起きた中先代の乱であった。北条時行は諏訪上社大祝時継とその父頼重(諏訪三郎入道照雲)の後援を得て、建武2年7月、小県や佐久の滋野氏一族と更埴の神氏一統や保科、四宮らの神党を中核軍として蜂起した。その乱以後の争闘が、後醍醐天皇の建武の新政を瓦解させた。
 当時の信濃国司は、建武2年6月に赴任した書博士清原真人で、建武新政府から守護に対して軍事権まで与えられていたが、学究の家系であれば、実効的に活動する能力も無く、動乱期でもあれば脆く北条軍武士団に殺害された。これに呼応して北信の北条氏残党と保科、四宮らの神党は、更埴郡の船山(現千曲市小船山)の守護所を攻めた。船山郷は第13代執権であった信濃守護北条基時が領有し、佐久郡志賀郷地頭諏訪時光が一部地頭職にあった。信濃守護小笠原貞宗は事変を京都へ通報すると、直ちに市河助房村上信貞らを率いて戦った。
 7月の市河助房の着到状には「諏訪祝滋野一族謀反を企てるに依り」とあるから、滋野一族は北条時行挙兵に際し、諏訪大祝神党の最有力武士団であった事が知られる。
 時行軍は信濃で北条軍の再結成をすることなく7月18日には関東へ目指した。この性急な進軍が功を奏し、上野・武蔵・相模・伊豆・甲斐などの北条氏所縁の武士団が一斉に蜂起し鎌倉包囲の体制を築き、関東を鎮護する足利直義を孤立させることに成功し、7月25日には、北条時行は終に鎌倉を制圧した。この間滋野一族は、東征軍に参加せず、信濃国内の北条与党と連携し佐久を中心に時行軍の背後を守り、信濃守護小笠原貞宗軍を牽制した。
 信濃では、小笠原貞宗が市河・村上らの信濃国人衆を率い7月14日八幡河原、篠井四宮河原、15日再度八幡河原と福井河原(戸倉市)、そして村上河原で北条軍に勝利した。四宮・保科・東条らは神党、塩田は塩田北条で信濃北条の中心であった。坂木・浦野は信濃薩摩氏の本拠であった。北信地帯は北条の強固な勢力圏であり、その勢力保科・四宮は小笠原信濃守護貞宗軍を突破して小県と佐久の滋野一族と合流しようとしたが、千曲川で小笠原軍に阻まれた。しかし、この一連の戦いで北条時行は一度も、背後の勢力に脅かされずに、鎌倉に進軍ができたのは明らかであった。
 市河倫房とその子息助保の着到状には「8月1日、望月城に押し寄せ合戦致し、城郭を破却せしむるの条、小笠原次郎太郎同大将として破る所見知らせる也」とある。小笠原信濃守護貞宗の叔父経氏は、市河倫房率い千曲川を遡り、佐久郡の望月城を攻め8月1日には落城させ、城砦を破却した。以後、望月は南朝宗良親王軍に従ったという史料も残らない。望月城落城の戦いは、望月氏の死命を制したようだ。
 『吾妻鏡』には薩摩七郎左衛門尉祐能・同十郎左衛門尉祐広・同八郎祐氏の名が、幕府弓始めの射手・随兵・鎌倉番衆や供奉人の列に見られる。建武2年10月の市河倫房とその子助保の着到状によれば、8月1日望月城破却後の9月3日、小笠原信濃守護貞宗の支配下となり、安曇・筑摩・諏訪・有坂(小県郡長久保の北)を攻めている。この時大井荘長土呂を攻めている記録はない。だが有坂氏の本貫地は小県郡長和町町役場北2kmの有坂にあり、堅固な山城があった。城主有坂左衛門五郎は、伴野荘内の諏訪大社神田の一部を領有している。しかも大井荘長土呂郷地頭薩摩五郎左衛門尉親宗と同一人物である。親宗の父は坂木北条城主薩摩刑部左衛門入道であり、建武元年3月、その親と交代で奥州鎮守府の侍所へ出仕している。中先代北条時行挙兵に際し、信濃の北条与党として起ったかどうかは史料上確認できない。この頃、鎌倉に時行がいた。その背後を狙い、陸奥守北畠顕家率いる奥州府の軍勢が進軍の準備をしていた。奥州鎮守府の侍所の要職にあった薩摩親宗が、奥州府の軍中にあったかは不明であるが、その後の薩摩氏の推移を知れば、北条時行に殉じたと見られる。
 市河倫房らは有坂城を落城させ破却している。9月22日には、薩摩刑部左衛門入道が立て籠もる坂木北条城を陥落させている。同月30日、新たに着任する信濃国司堀川光継を、信濃守護小笠原貞宗と共に浅間温泉で出迎えた。しかし以後、信濃の有坂氏と薩摩氏は四散している。薩摩親宗は、母方の縁を頼り伴野氏に仕え、有坂五郎と称し穴原(八千穂村)蟻城狼煙(のろし)台にいた。正平7(1352)年、伴野十郎の家臣として宗良親王軍にあり、武蔵野合戦に参加し笛吹峠(埼玉県嵐山町)で敗退し、小海郷軽井沢に隠棲したという。




[出典]
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治承4(1180)年



 治承4(1180)年8月の頼朝の挙兵をきっかけに平氏打倒の勢力が全国各地で蜂起した。これが治承・寿永の内乱である。信濃で蜂起した武士団の代表が、木曾義仲岡田親義平賀義信であった。いずれも信濃に土着した清和源氏の流れである。
 義仲の当初の攻撃目標は、筑摩郡の信濃国府であった。その養父は中原兼遠(かねとお)で、中原氏は木曽の北部一帯の木曽福島町・日義村・木祖村あたりにあった大宮司宗像(福岡県宗像市にある宗像大社の宮司)氏の大吉祖荘(おおぎそのしょう)の荘官であった。平氏の時代には、国衙の権頭(ごんのかみ)という役職にあり、兼遠の子に樋口兼光今井兼平巴御前山吹御前がおり、兼光と兼平はともに義仲左右の重臣、娘の巴御前は義仲の妾となっている。またもう一人の娘山吹御前は義仲の長男義高を生んでいる。
 治承4(1180)年、似仁王の令旨によって平家追討の挙兵をした。当初の目的は、筑摩郡の信濃国府であった。国衙の権頭であった養父中原兼遠一族の後援と筑摩郡岡田を本拠とする岡田親義一族の力添えもあって、容易に制圧できたようだ。その後、木曾党という小武士団であったため苦戦する。善光寺平へ進軍する途上、会田(東筑摩郡四賀村)と麻績(東筑摩郡麻績村)に平家領があった。その平家勢におされ国府を放棄し、一度、東信地方へ後退した。
 東信の海野(東部町)には海野幸親いた。幸親は兼遠の兄が海野家に養子に入ったものだとも言われている。海野氏は、祢津(東部町)・望月(望月町)・桜井(佐久市桜井;伴野荘内)氏などの滋野一族有力武士団の一角を担っていた。望月氏は、望月御牧の牧監(ぼくかん)となった滋野一族が武士化した。また義仲軍に四天王と称される4人の側近武将がいた。根井行親はその一人で、佐久市根々井を名字の地とし、正式名は根井大弥太滋野行親と呼び滋野一族であった。同じ義仲に従う佐久党の武士に館(たて;佐久町館)を名字の地とする楯六郎親忠がいた。彼は根井行親の子であるから、滋野一族となる。
 義仲が丸子の依田城を根拠にし、軍馬・軍兵・食糧・武器を調達しながら、反平氏の佐久軍勢を掌握した。東信に散在する私牧からも北陸進出のための機動力ある馬が得られた。
 義仲の動きに呼応するように高井郡村山(須坂氏村山)を根拠とする村山七郎義直が、治承4年9月7日、善光寺平(長野市栗田)に所領を有する栗田氏と図り反平氏として決起した。村山氏は、清和源氏の一族が高井郡井上を拠点として、信濃源氏の名門となった井上氏の支族であった。
 平家に味方する信濃の笠原牧(中野市笠原)を根拠とする豪族・笠原平五頼直が、源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てた。それを察した源氏一族の村山義直が、笠原氏と築摩郡の栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らとの間で、信濃国市原(長野市若里)付近での戦いが行われた。これが市原合戦(いちはらかっせん)、または「善光寺裏合戦」とも呼ばれた戦いであった。勝敗は容易に決着せず、ついに日没になり、矢が尽きて劣勢となった村山方は、義仲に援軍を要請した。それに呼応して救援に駆けつけた義仲軍を見て、笠原勢は即座に退却した。そして、越後の豪族・城氏の元へ敗走した。この勝利で、東信の武士たちが駆けつけ、義仲軍は急速に膨張した。その中に諏訪上社の千野太郎光弘がいた。光弘は樋口兼光の甥であった。
 治承4年10月、義仲は内山峠を越え父義賢の根拠地であった西上野に入り、義賢の所領であった多胡荘で父とかかわりのある武士たちを集めた。それが瀬下・那和・桃井・木角・佐井・多胡などの諸氏で高山党と呼ばれた。しかし当時、上野は既に頼朝の勢力がおよび、それ以上の拡大はできず、12月には信濃に戻った。
 佐久地方を根拠にする武士で義仲に従った氏族は、根井(佐久市)・楯(佐久町)・小室(小諸市)・志賀(佐久市の東部・志賀流域)・野沢(佐久市役所の南)・本沢(望月町)・矢島(浅科村)・平原(小諸市)・望月(望月町)・石突(佐久市石突川)・落合(佐久市伴野の北隣)などがいた。義仲は木曾党同様、佐久党も根井行親とその6男楯親忠親子が義仲軍四天王に数えられたように、その直属の中核軍として重用した。

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『尊卑分脈』


六)形成される信濃武士団
 古代律令制度は中央集権国家体制であったため、国司として中央の役人が地方へ派遣された。その役人は、守・介・掾・目(さかん)の四等官に任じられた数名と、その家族や従者であった。任期は6年、後に4年となった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。しかし、実際の実務は在地の有力者、いわゆる現地の土豪から任命された。やがて、守も、その多くが任地に赴かなくなると、その現地の役人たちは、平安時代の半ばころから「在庁官人」と呼ばれ、11世紀後半になると国衙の中で一代勢力となり、国衙の権力を専らにし、国内の自らの所領を拡大させた。もともとは中央から派遣された国司の一族が土着した者も多く、国衙に属さない在地有力者も成長してきており、それを支配するために国衙の軍事力を利用した。
 清和源氏は、源義家前9年・後3年の役以後、東国の武士の棟梁となった。「編纂本朝(へんさんほんちよう)尊卑分明図」、または「諸家大系図」ともいう『尊卑分脈』は、南北朝時代に洞院公定(とういんきんさだ)が企画し、猶子の満季(みつすえ)、その子の実煕(さねひろ)ら洞院家代々の人々が継続編纂した諸家の系図の集大成で、氏によっては室町期の人物まで収められている。
 その『尊卑分脈』によれば、義家は下野・相模・武蔵・陸奥守・信濃守を歴任している。義家は国司の守として信濃を含む東国に地盤を確立した。その地盤を継いだのが、義家の孫為義であった。その父の義親は兄の義宗が早世したため、次男でありながら嫡流となり、為義、義朝と続き頼朝に繋がるが、対馬守となって九州に下向した折に、乱暴を働き、追討の官使を殺害した。朝廷は隠岐へ配流とするが、配所に行かずに出雲国に渡って目代を殺害し、官物を奪取した。これによって平正盛の追討を受けて、梟首された人物である。それは名目で、京都朝廷は、義家以降の源氏勢力の台頭を阻むための弾劾策であった。平正盛が義親を討って桓武平氏が一挙に浮上し、源氏と平氏が武家の2代勢力として並び立つ契機となった。以後、為義は義家に育てられた。その活動の中心は京であった。その上で、嫡男義朝を祖父義家の勢力地の東国に地盤を再構築させ、為朝には実父義親が育てた西国を地盤とさせた。そのため信濃国人衆も、義朝との主従関係を結んだ。
 望月氏も御牧の牧監の権力を行使して成長した武士であったが、同じく佐久地方を根拠とし、国衙の権限を背景に武士化した一族に平賀氏がいる。平賀氏は、源義家の弟新羅三郎義光の4男である盛義が、信濃国佐久平の平賀郷に本拠を置き平賀氏を名乗った。
  盛義の父の義光は甲斐守の任じたことがあり、同地域から野辺山高原を越えたところが信濃国佐久平平賀であり、戦国時代に信濃を併呑した義光の後裔武田氏が通った道でもあった。
 やがて盛義の弟の親義は岡田、子息の安義は佐々毛(捧;ささげ)・犬甘(いぬかい)・新田と土着の地名を名字とした。盛義の弟は、現在の松本市岡田に由来する岡田親義を名乗った。佐々毛は当時筑摩郡に捧荘があった。犬甘も安曇郡であったが、筑摩郡に接し梓川と奈良井川の合流点にあった地名である。平賀氏の一族が信濃国府、現在の松本市付近に進出し、国衙を背景にした在地有力者として勢力を拡大させた。

[出典]
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武士の誕生


古代信濃国は東国に含まれていた。防人は東国の壮丁が任に就いた。信濃はその東国の西端の国であった。『万葉集』には東国の歌「東歌(あずまうた)」が編集されているが、信濃の歌もそこに含まれている。但し、「関八州」と呼ばれるように、信濃は関東ではない。
 大宝令により信濃国は、佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の10郡に分かれていた。現在の長野県のうち、当時美濃国の木曽地方を欠く大部分であった。
 特に佐久は信濃10郷の中で、上野・武蔵・甲斐に通じ東西の要路であった。現北佐久郡軽井沢町にある碓氷峠やその南にある入山峠は古代から関東諸国への要路であり、古代の東山道が通じていた。そのため野辺山原や南佐久郡川上村の信州峠などで接する佐久武士の多くは、中世末期の大動乱に巻き込まれ盛衰を繰り返した。その結果、甲斐小笠原の一族が伴野荘大井荘の地頭として、波乱の中、戦国時代まで勢威を振るい続けた。また現佐久市の内山峠は諏訪神が上野へ通われた道筋という伝説が残っている。


追捕勅符や追捕官符で、乱の鎮圧の先頭となって戦うのは、受領とその子弟・従者であった。乱が大規模化すれば、国内から広く動員をする。私出挙と私営田を運用する富豪層と郡司の中から、乗馬が巧みで武芸に優れた者、当時「勇敢者」「武芸人」等と称されていた人々がいた。しかし彼らには、武芸に専念できるゆとりもなく、国衙も未だ、武芸に練達できる特典を与えてはいなかった。それでも、やがて彼らの中から、在地領主化し武士化していく階層が誕生する。
 国衙自体の権能も弱まり、受領の館とその機関としての律令軍団制の実情は、集められた農民兵を、国司や軍毅が私的に使い、弓馬の訓練を疎かにした結果、藤原保則(やすのり)に「蝦夷兵一人に百人の軍団兵士があったても勝負にならない」と言わしめた。保則は元慶2(878)年3月15日、秋田の蝦夷が反乱を起こし元慶の乱に際し、出羽権守として赴任すると、反乱軍に対して国司の非を認め、朝廷の不動穀を賑給(しんごう)して懐柔にあたり苛政を行わないと云うことで、戦いを拡大させずに反乱を収めた。
 当時、保則は既に有能な地方官として名をなしていた。元慶2年の出羽のこの緊急事態に、東海・東山道の諸国と共に、信濃国から30人が「勇敢軽鋭の者」として選ばれた。御牧の牧司が主体であった。彼らは牧馬の飼育だけでなく、馬上、山野を駆け巡り狩猟にも勤しみ、騎馬弓術に長けていた。更に移配された俘囚達と接し、その武技を学んでいた。陸奥へ徴用され、実戦の中、蝦夷の民が蕨手大刀を駆使する疾駆斬撃の戦法と弓馬の技術を、文字通り目の当たりにし刀剣も刀術も進化した。彼らこそ信濃武士の発祥といえる。


四)武士の誕生
 寛平・延喜の時代、東国では諸国の富豪層からなる「馬の党(しゅうばのとう)」が群盗化し蜂起する事態が頻発した。寛平5(893)年から6年にわたって、対馬や九州北部が新羅の海賊に蹂躙されている。寛平7(895)年、京畿内でも群盗が蜂起し、延喜4(904)年3月、安芸守・伴忠行(とものただゆき)が京中で射殺されている。全国的な騒乱状態であった。この時代初めて押領使が制度化され、それまで鎮圧責任を負った受領は、押領使にそれを任せた。押領使の制度こそが延喜の軍制改革であった。押領使は追捕官符を与えられた受領の命を受け、国内武士を総動員して反乱の鎮圧にあたった。荘官としての王臣家人であっても、武勇に秀でた者は、国衙の動員命令には応じなければならない。押領使は将門の乱後は、常置制度化された。
 この時代、私営田を営み在地領主として武士が、有力な実力階層として既に育っていた。その一方、摂関家に奉仕し多大な出費によって、その地位を得た受領達が、地方に対して過酷な収奪にはしり、財の蓄積に励んだ。その的となったのが、「勇敢者」「武芸人」「富豪層」と呼ばれる武士達の私営田であった。
 この時代、武士勢力の動向に大きな変革を与えたのが、天皇家の後裔といわれる清和源氏と桓武平氏の血脈の土着であった。代を経ると次第に、地位が低下し朝廷に座る位地を失っていった。彼らは、已む無く地方の国衙の役人として赴任し、その生存を全うしなければならなくなった。国司にあるうちに、その権威と天皇の血筋を利用して勢威を振るい所領を拡大させた。任期が切れても京へ帰らず土着した。すると同じ国衙領内が所領のため、次の国司と対決しなければならない。そのため武力を養い武士化し、在地の「富豪層」と姻戚関係を結び、地方にあっては特別な名流として当地の豪族を糾合し有力武士団を形成した。
 武士の発生は、その基盤としての所領が欠かせない。関東では、平安前期の寛平元(889)年頃、桓武天皇の子孫高望王が上総に赴き土着した。貴種として重んじられその子孫一族が坂東八平氏として勢力を広げた。その平氏同士が所領を奪い合いした。
 承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼ばれる930年代から始まる将門や純友の乱に際して、武士たちは、朝廷や国衙の理不尽さに反発する将門や純友に与力した者達と、朝廷側に靡き、その鎮圧による勲功で出世を得ようとする2つの勢力に分かれて戦った。その将門の乱を鎮圧した勢力は、同族で常陸を根拠とする平貞盛や下野国に土着した藤原氏の一流藤原秀郷の兵力であった。もはや大規模な武力紛争に対処できる常備軍が律令国家には存在していなかった。
 武士達は、乱後、有能な武将であった将門や純友までも、無残な末路を遂げた事を知り、その後100年間、武士による大規模な反乱は生じなかった。
 しかし、藤原秀郷のように寛平・延喜の東国の乱に際し、下野国押領使として軍功を挙げ、受領の支配を拒絶し下野国に絶対的な勢力を確立した武士も育っていた。その後、将門の乱でも最大の勲功者となり、俘囚が立ち去った後、超人的な武芸・騎馬戦法を確立した武士でもあった。しかし秀郷は源平一族以上の実績を挙げながらも、下野、武蔵両国守を務めた後、下野国にとどまり在地の経営拡大に専念したため、武家の棟梁にはなれなかった。但し、その子孫は下野から北関東一帯に勢力をはる小山氏ら有力豪族を輩出し、やがて、その一流が東北平泉に藤原3代の栄華を築きあげた。




[出典]
http://rarememory.justhpbs.jp/saku/sa.htm

信州歴史散歩道




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http://www7.ocn.ne.jp/~rare1/rekisi/si.htm