2017年4月5日水曜日

大神一族



緒方氏の祖先は,豊後武士団の頭領であった惟栄だが,その5代前の先祖は豊後大神の祖,大神惟基である。この惟基(これもと)が平家物語に出てくる「嫗嶽伝説」の神孫で,惟基の祖父は都から派遣された豊後の介大神朝臣良臣(おおみわあそみよしおみ)である。
そして,その祖先は大和の大神(三輪)氏である。大和三輪山の神孫だという大和大神氏を土台として,その大神諸族は豊後大神氏,宇佐大神氏を形成している。

速見大神氏と宇佐大神氏
欽名天皇29年(568),蘇我馬子は仏教と融合した原始八幡と帰化人勢力を利用するために,大神比義を宇佐に下す。比義は菱形山に八幡大神を祀り,地場の神官宇佐氏と争って勝ち,宇佐八幡の祀官の祖となる。
この比義の系統で速見の大神郷に住みついた一族が豊後速見の大神氏であり,豊前宇佐郷に留まったのが宇佐大神氏である。

豊後(大野)大神氏
大野郡は,三重郷,緒方郷,宇目郷,井田郷の4郷から成り立っている。豊後国の南西部に位置する。西の阿蘇山と東の国府である古国府(ふるごう)の中間に位置し,中央を大野川が流れる。
大野の大神氏は『豊後の大神氏』と呼ばれ,この一族こそが,緒方一族37家の先祖である。

仁和(にんな)2年(886)2月,大神朝臣良臣(おおみわあそみよしおみ)が豊後の介となって豊後国に赴任した。寛平4年(892)3月,良臣の任期が終わるとき,良臣の徳政によって百姓が良臣を慕い,せめて子息を留めてほしいと国府に願い出た。大宰府はこれを許し,庶幾(これちか)を大野郡領に任命し外従六位下を授けた。

大野郡領になった庶幾は三重郷に入って豊後大神氏の祖となるが,一般的には庶幾の嫡男である大神惟基(これもと)が豊後大神一族の始祖とされている。この惟基こそが『嫗嶽伝説』の花御本と大蛇の子あかがり大太のことである。惟栄は惟基の5代の孫にあたる。

惟基は5人の子息を豊後国の要所に扶植し,豊後南部の大半を勢力圏内に収める。その子孫は,豊かな土地や山林の他,恵まれた良港による海運業,阿蘇・大野の高原に騎馬を養い,平安末期になると,九州でも最も大きな武士団を形成し,源平合戦ではその名を轟かせた。その中心人物が緒方三郎惟栄である。

その後,惟栄は源頼朝と不仲になった義経を助け,そのために捕らえられて,上州(群馬県)沼田に流される。建久元年(1190)10月,上洛した頼朝によって惟栄の赦免が願いだされ,赦されて佐伯に還る。その子孫は佐伯姓となって後世に続いてゆく。そして大友氏の入国以来大友宗麟の時代まで最も忠実な家臣となるのである。


大神氏のその後
文治元年,義経の叛に従った惟栄はついに失脚し,流罪となった。ところがこのとき惟栄と運命を共にしたのは,直接の親子兄弟だけであって,三田井(日向臼杵郡)・阿南・稙田・直入・戸次・(豊後大分郡)などの大神系や,大野郡に蟠踞した大野・緒方一族は,緒方三郎と行を共にせず,その一族はあとまで残って,九州各地に尾形・緒形・小方・尾方等の名字をもってひろがった。
豊前中津に移った大神の一族からは,対明貿易に従事して巨利を博した甚四郎が出た。甚四郎は博多に移り住み,明人の言により大賀と改めた。その三人の子のうち,九郎左衡門信房は,父の志をついで貿易に従事し,長崎五島にも屋敷をもった。福岡県にはいまも大賀姓が多い。

終わりに緒方氏から分れたという苗字を次に掲げておく(上掲分を除く)。佐賀・賀来・佐伯・野尻・小原・大津留(おおつる)・武宮・橋爪・松尾・城原・朽網・秋岡・由布・霊田(たまだ)・入倉・十時(ととき)・児島など。


http://www.coara.or.jp/~shuya/saburou/kenkyushitu/saburoken3.htm

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